戦国ちょっと悪い話44 at SENGOKU
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200:人間七七四年
16/10/10 11:04:09.18 M8uKGH4G.net
老害おつ

201:人間七七四年
16/10/10 13:56:46.31 cTGsgr3g.net
ある時龍造寺隆信の母・慶ギン尼は隆信と衝突して隆信弟の長信の元へ飛び出したことがあった。
その時、隆信から長信に宛てた書状
「ここもとは見限られて候て罷りあられ候間。家中の儀はそのもとにて随分ふるまい申さるべく候。
同じ子にて候えども、そなたは孝行者に候間、申すことにて候。我らどもは子のうちとは申されず候。おかしく候…」
母親に「長信は孝行者だが隆信は子のうちとは言われない」とまで言われてしまったクマー
(歴史群像シリーズ『戦国九州軍記』の「配慮と決断、カエサルに似たり」より)

202:人間七七四年
16/10/11 13:58:34.44 cmvPSgmJ.net
 荘の近所にある御勘定所に、中村某なる者が住んでいる。
去冬から上加茂下加茂貴船御修営のことを役目として上京し、
この夏帰府した。兼ねて懇ろな人だったので、
ある日その宅を訪ねて京話を聞いた。
さてもさても、都といい、また旧山川といい、一感一喜珍しい面白いことどもが
湧くようであった。
そのうちのいくつかを留めた。
予は第一に問うた。
「大仏殿の石垣には、そのころの諸家から寄進された大石があり、
その献上された大名の家紋が彫られているという。
きっと予の祖先の紋もあるはずだと、京地の人や通行した人から聞くがはっきりとしない。
実際あるのか?」
「紋はもとから無い。かの石垣というのは、二間三間におよぶ自然石を、その石のまま重畳し、
石垣としたものである。紋所というのは見えない。」
大仏石垣の話のときに、予は問うた。
「文禄朝鮮攻めのときの耳塚は、先年の大地震に崩れたという。本当か?」
「そうではない。年が古いので誰も見るもの無く、草木が生い茂り、その上からそびえて見える。」
などと答えた。

 さて『閑田次筆』〔伴蒿蹊著〕というに挙げられているのは
「讃岐由佐邑の人、菊池武矩『つくしの記行』に、
筑前国、浜男という所の近くに耳塚が有る。神功皇后が三韓を打たれた時、
その国の人の切り、耳を埋められた所であるという。
これが本朝の耳塚のはじめで、この後源義家朝臣、奥州の戦に打ち勝ち、
河内国に耳塚を築き、耳納寺を建てられた。これが二度目である。
豊臣公、京大仏に耳塚を築かれたのは第三度目である。」
 このことによれば、太閤の耳塚は神功の古例に拠ったのか。
しかし神功は征伐である。豊臣氏は残忍である。
その応報は、ある人曰く、阿弥陀が峰の豊臣公の墓は、
後代に至って、頑民が悉く奪い去り、今はわずかに地底の骨棺のみ存すと。
(甲子夜話三篇)

203:人間七七四年
16/10/12 04:41:40.18 6gGIiIHG.net
豊臣氏は残忍である
???

204:人間七七四年
16/10/12 07:57:24.56 zRqAX6S/.net
秀吉は残忍じゃなきゃいけないんでしょ

205:人間七七四年
16/10/12 14:14:27.40 Ml1Xcr10.net
>>204
『耳鼻削ぎの日本史 』で清水克行先生も、「やっぱ秀吉って残忍だわ」って書いてるな

206:人間七七四年
16/10/12 19:42:48.08 zRqAX6S/.net
特別なことでもないって記述をネットでは見かけるけどそうでもないってことなのかな?

207:人間七七四年
16/10/13 00:46:44.64 Y0ZJU9Fw.net
加藤光泰〔大洲〕、嘉明〔水口〕、清正〔跡、旗本の人となる〕系統の事
括斎(大関増業)が言うに、
今の水口の加藤氏、肥後の先代の主の加藤氏、大洲侯、皆同家である。
大洲の先祖は嫡子で水口の先祖〔嘉明〕は次子。清正はその姪かであり、兄弟ではないとのことだ。
その世系を知らない人の為に記す。
(甲子夜話続編)
いつのまにか、同族になってしまった加藤s

208:人間七七四年
16/10/13 07:32:05.95 M+xN9isV.net
つっこみどころはそこなのか?
姪?だろ

209:人間七七四年
16/10/13 07:41:56.20 79/PQNWV.net
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
にもあるように、顔真卿「祭姪文稿」などでは姪は一世代下の血族を表すから間違ってない。

210:人間七七四年
16/10/13 11:31:05.82 M+xN9isV.net
ウィキでは1世代下の宗族となってたが
宗族=父系同族集団のことなのに女偏の姪がなぜ使われるのだろうか

211:人間七七四年
16/10/13 19:59:18.60 imbpxLIX.net
>>207
それを言った大関括斎とは元々空気加藤の子孫であの大田原三兄弟の長男が祖の黒羽藩を
継いだ人物だから

212:人間七七四年
16/10/14 14:54:41.43 UGi9nDJa.net
徳川家には……

春も末のある時、森可政(森可成の弟で忠政の叔父)が忠政へ生の鱸を差し上げようとしたところ
近習衆は「忠政公は奥にいらっしゃるので今お披露目するのは難しい」
と断りそのまま持っていこうとした。
可政は大いに腹を立てて
「この時分は落ち目のナマモノがあるので、忠政殿はお出でになるべきだ。
ナマモノを直接ご覧にならないのは以ての外である!先年それがしは家康公へ庭先のハシゴを差し上げたが
御列座の衆は
『あの可政は秀吉公の代には黄母衣の御大役として口を聞くような者だったが、庭先のハシゴをくれたのか』
と機嫌よく家康公の御前へ持っていってくださった。何を差し上げようとも
『公儀の場よりも奥の間にいるので披露できません』と返すような御列座の衆は徳川家にはいなかったぞ!
早く取り返してきてくだされ!」
と言ったので近習衆は驚き早々に生の鱸を忠政に披露したということだ。

―『武家聞伝記』

213:人間七七四年
16/10/14 18:04:55.82 EfRVp88D.net
後藤又兵衛の陣羽織を拾ったのは
黒田長政が豊前の国人一揆で城井城を攻めた際、反撃を喰らって撤退した際に
殿軍を後藤又兵衛が務めたはずであった。
後に論功賞の際に後藤又兵衛は殿軍を務めたと主張するが
新参者である城戸乗之助が赤い陣羽織を持ち出して自分こそが殿軍であると主張した
その陣羽織は後藤又兵衛の陣羽織であった。
乗之助曰く「又兵衛殿が殿軍であれば自分が陣羽織を拾うはずがない、
陣羽織を拾った自分こそが殿軍である」と主張した。
その事により殿軍は城戸乗之助になった。
この件が原因で黒田長政と後藤又兵衛の間に軋轢が出来て
後藤又兵衛の出奔の一因となった。
その後、城戸乗之助は黒田長政と大坂に向かう途中で
備後福山付近で行方不明になった。
その後の彼の行方は不明である。

214:人間七七四年
16/10/14 18:33:38.06 EfRVp88D.net
大事な事なので二度書きました

215:人間七七四年
16/10/15 00:45:21.73 3Myx/OD/.net
森武州の具足
第一巻に、森氏の先祖武蔵守の具足のことを言った。
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
今年その孫美濃守〔初めは右兵衛佐。既に退隠して名を変えている。〕(森忠賛)と
逢ったときに物語した中で、この甲冑のことに及んだ。
濃州が言うには、甲冑は革具足で黒糸で威ていて、殊に粗末な物で、
なかなか大将の物とは見えなかった。
また小さい具足で、私が着てみると胸さきは空いていて、腹ばかりにある体であった。
兜は討死のとき首とともに敵に渡したので、家にはなく、今は井伊家に伝わっている。
とのことだそうだ。
前記と違うがそのまま記した。
(甲子夜話)
小さい事には変わりはありませんね
結局鬼武蔵の兜は永井家か、井伊家か、どっちの家にあったのでしょうか

216:人間七七四年
16/10/16 08:19:22.67 IWC7trJD.net
元就、軍議の席次を巡って争う
天文22年(1553年)、先年の陶隆房謀反の後、大内家の当主が義隆から義長へと代わると、備後国で元々大内方だった旗返城の江田隆連が離反し、尼子方へ鞍替え。尼子晴久は数万の兵を備後に向けて発する。
これを討つため毛利元就をはじめとする安芸の国人衆の軍は旗返表へ集結。次いで大内義長の命を受けた陶尾張守入道全薑(陶隆房改め晴賢)が同年6月10日に1万の兵を率いて旗返に到着すると、大内方の諸将は旗返攻略の軍議を開くため陶の陣に集った。
いざ軍議を開こうという段になって席次を巡り争う者があった。毛利元就と平賀太郎左衛門隆宗である。
元就は元就様は、「合戦評定のときに、陶の入道の左の席は元就でなければならん。何故なら
すでに備芸の半分以上を幕下に収め、そのうえ一昨年の上洛の際には、
万松院義晴公のご推挙をもって従四位に叙せられたうえに義晴公にご相伴まで許されているのだ。
だから、安芸や備後国の中には自分に肩を並べる弓取りはいない。
誰が自分より上座に座ることができるというのか」と主張し、対して平賀太郎左衛門は
「元就の武威がどんなに盛んで、
当国の半ば過ぎを手中にしているといっても、
昔から宍戸・平賀・毛利といい続けてきたものだ。
昔から決まっている座配なのだから、正四位であろうと従四位であろうと関係ない。
陶入道の左の席には、しきたり通りこの隆宗こそが着くべきだ」と言い返した。
どちらも主張を譲らず平行線となり、陶もその様子にこのままでは敵と戦う前から味方が割れてしまうのではないかと内心ハラハラしながら見ていたものの結論は出ず、陶入道は
「私の判断ではどうにもならない。ならば神前にて決めよう」と提案すると、元就と隆宗もこれ以上話しても仕方なしと判断し、近くの八幡の神前にて占いを受けたところ
「左の座は元就」
と神託が下った。しかしそれでも一同は納得せず、15日は元就、16日は平賀と順番に左座に着席して会議を行った。
(陰徳記)
元就にしては大人気ない珍しいエピソードの様な気がする。後、平賀隆宗はこの4年くらい前に死んでるはずなんだけど陰徳記だからまぁ良いか…

217:人間七七四年
16/10/16 10:34:24.81 IWC7trJD.net
>>216の事について改めて調べて見たけど従四位の叙任や相伴衆になった年もこの話より未来の出来事だな… どんだけ適当なんだよ香川さん…

218:人間七七四年
16/10/16 20:47:21.16 wZGJMEJ2.net
永正の頃、日向・伊東尹祐の家中に福永伊豆守祐炳という者があり、尹祐は彼を寵遇のあまり、
召し使っていた女を与えるほどであった。やがてこの女は一人の女児を産んだ。この女児は7,8歳の頃より
伊東家の奥で召し使われ、14,5歳に及んで垂水又六に嫁いだ。
ところが、尹祐は何を思ったか、この女を自分に遣わすよう又六に所望した。
又六は答えた
「我が妻が未だ福永の家に居るうちならば、上意に従い奉るべきでしょう。ですが今既に私の所に
嫁いで来ています。この上は御免下さるべきです。」
しかし尹祐は承知しなかったため、又六は急ぎ妻を引き連れて知行地の三宅に下った。尹祐もこれを聞くと
又六の後を追い三宅に向かおうとした。この時近習の者が急ぎ使いを立てて、重臣である落合駿河守に知らせ、
まず伊東尹祐を寺に待機してもらい、そこに暫くして落合駿河守が参った。尹祐は面目無く思ったのか、
落合の姿を見ると奥の一間に入ってしまった。その尹祐に落合は声を荒げて言った
「御祖父惣昌院殿(祐堯)が国を治められたあと、御父光照院殿(祐国)は気ままにわたらされ、
飫肥楠原の陣にて御家に困難を引き出されました。しかし飫肥の代地として庄内千町を御知行あってこそ、
御家の難も少しは緩むというのに、今また君の御気ままにては、怠慢であり然るべからざる物です!
我らは、西南には薩摩の大敵を受け、北は豊後梓峠一つを隔てて大友の強敵があります。決して
油断あるべき時節ではありません。今は先ず、国家を固められる御工夫こそ必要なのです!」
尹祐はこれを聞いて面目なく思ったのか。にわかに寺の後門よえい抜け出て、都於郡に帰城した。
落合駿河守もその後に従い、登城して御前に進み
「恐れながら先刻申し上げたことを、御承知下されありがたく存じ奉ります。」
そう涙を流して申し上げた。これを尹祐は黙然と聞いていたが、暫くして
「あの女を所望したのは私の本心ではないので。実は福永伊豆守が勧めたのだ。」
この言葉が垂水又六の一族に伝わると、彼らは評議の上、又六に勧めてその妻を離縁させた。
その後、尹祐が瀧の天神に参詣したおり、福永の邸宅に立ち寄り、この女を連れて帰った。
以ての外なる行跡である。
(日向纂記)

219:人間七七四年
16/10/16 23:41:44.30 KB/bRNLL.net
落とし胤だったか

220:人間七七四年
16/10/17 10:03:00.92 IziOomWy.net
輝元「その手があったか!」
宗麟「メモメモ」

221:人間七七四年
16/10/17 16:09:05.57 hV4rsN2C.net
>>218
よくわからん、ただの横恋慕?

222:人間七七四年
16/10/17 16:19:59.53 FNw7DcIn.net
母と娘両方とすることは畜生の所業のはず

223:人間七七四年
16/10/17 21:00:40.31 zpQa4NRC.net
>>218の続き
永正7年、伊東尹祐が家臣・垂水又六より奪った、福永伊豆守祐炳の娘が懐妊した。
尹祐は重臣である長倉若狭守祐正と垂水但馬守の両名を召して言った
「今度産まれてくる子が万一男子であれば、嫡子に定める。」
これに両人は反対した
「先年、申し上げたことがあります。天に二つの日はなく、国に二人の主はありません。
既に桐壷様(中村氏娘)が産まれた若君様に嫡男としての御祝いを上げています。
であるのに今更福永腹の若君を立てられることは良いとは思えません。」
これに尹祐は腹を立てた。この頃、長倉若狭守は綾という地の地頭であったが、尹祐の
寵臣である稲津越前守重頼がかねてよりこの職を望んでおり、稲津は尹祐の感情が悪化している
のを幸いに、二人を様々に讒言した。尹祐もこれに煽られ怒り甚だしく、長倉と垂水は
身の危険を感じ、同年九月朔日、綾城に立て籠もった。これに対し尹祐は宮原まで自身出馬し、
綾城を攻め立て、十月十七日、二人は遂に切腹して果てた(綾の乱)
この乱の最中の九月十三日、福永娘は男児を産んだ。幼名を虎乗丸。後の伊東祐充である。
尹祐はこの子を寵愛し家督を譲るつもりであったので、常々桐壺の産んだ子を悪み、殺害する
心があった。
その後、永正十四年十一月十四日、桐壷の子が尹祐の御前に出た時、尹祐は怒り出し
彼を追いかけた。まだ子供である桐壺の子は声を上げて泣き出し、庭前に走って逃げた。
近習の士である上別府某と弓削摂津介がこの子に走り寄って抱きかかえた。
尹祐は縁側に出て命じた「それを殺せ!」
弓削摂津介はこの命を奉り、彼を殺害した。この時この桐壺の子は、十四歳であったという。
(日向記では十二歳という)
情け無いことであると申さぬ者はいなかった。
(日向纂記)

224:人間七七四年
16/10/17 23:58:55.58 GuZsnBMu.net
能役者の古事
 人が伝える話も時々違うものだ。
 予が若年の頃、能役者笛吹の清甚兵衛が語ったことは以下のようなものであった。
「私どもはそもそも、奈良春日の神職の中からでました。
大夫、脇師の如きも同じです。」
と聞いていたが、この五月観世の宅に能見物に行ったとき、その弟四郎に、
『同職の今春大夫は奈良の神職か?』と問うたが、
そうではないという旨が返ってきた。
ならば『年々奈良の神事に赴くのか?』と問うたら、
「私の家の如きも以前はかの神事に同じく行っていましたが、
神祖の仰せで、『観世は行くに及ばず』、とのことが有りましたので今は赴きません。」
との答えであった。
 また大阪茶臼山の御陣所にも観世は御供していた。
そのときいつもは暇なので、こよりを多く持っており、
それを使って戦士の甲冑の毛ぎれ、あるいは損じたものにつぎ合せていたら、
人々はそれを重宝がり、こよりを観世から請い求めたという。
 予がかつて聞いたことに、道成寺の能の鐘の内には面の紐無かったので、
一時的に紙をよって面につけたことから起きたと。
この話とは異説である。しかし正しく子孫の伝なので用いるべきであろう。
 予はまたかの御陣中には何の御用を為したのかと尋ねると
「謡を度々命ぜられ、折には御囃子もあったと書き伝えております。」
との答えが返ってきた。
なので御陣中とても、今の治世に想っているものとは全く違うものだ。
 また、大夫[左衛門]の話では、
神祖の頃には、御出陣に謡うには必ず弓矢の立合と決まっていたそうだ。
[今では正三の夜に、御謡初として御前で謡うものである]
また御出船のときには船の立合を謡うもという。
この謡は今の乱曲の中に見えるが、多くの人は知らないものだ。
 かつて或る人の話に、
太閤名護屋在陣のとき、慰めに狂言をされた。折節”止動方角”の狂言をすることとなった。
神祖に太閤は「何の役をやりたいか」と問うと
神祖は御答として「某は何でもいいです。しいて言えば馬になりたい。」
と仰って馬となりなさった。
そこでは鷺仁右衛門の祖は太郎冠者として、恐れ多くも神祖に乗ったという。
今では鷺の家ではこの狂言は憚ってやらないと聞いた。
 しかし近頃今の仁右衛門がこの止動の狂言をしたので、
ある鼓の者に頼って鷺に以上の話をしても、今までそんな話は伝えていないとの返事であった。
ならばこの説は誤伝であろうか。
(甲子夜話)
諸説入り乱れる能役者逸話集

225:人間七七四年
16/10/19 01:36:00.64 Kwj3E/7X.net
東照宮(徳川家康)の御子達多き中で、紀伊頼宣君は、その御器量天才
にして、只の尋常の御性質ではあられず、
そのところを東照宮は御覧になられて御寵愛は浅からず、尾張の義直卿
と紀伊頼宣卿とは、「天下左右の固めであると思し召されるように」と、
堅く御遺言なさったことにより、江戸御旗本(徳川将軍家)・尾張・紀伊は
“御三人”と称され、三家一体の御高家であった。
―『南竜言行録』
水戸家ェ…

226:人間七七四年
16/10/19 02:18:39.13 M/r/pRYO.net
当初は水戸の立ち位置が不確かだったような
今ではそんな水戸の血筋が宗家だけど

227:人間七七四年
16/10/19 04:25:34.69 gmsZuxDH.net
>>225
元々そうでしょ
悪い話でもなんでもない。
途中から将軍家除いて水戸を加えた方がいい話だか悪い話だかになるんじゃないのかな

228:人間七七四年
16/10/19 15:21:25.87 2lnbE035.net
そりゃ水戸家は紀州家の分家扱いだったって言われるぐらいの格下だしな
まったくのフィクションだと分かっていても水戸黄門でじーさんが紀州に乗りこんで偉そうにしているの見て、哀れに見えたわ

229:人間七七四年
16/10/19 20:03:41.41 vD6BiNk0.net
>>226
会津松平家が徳川宗家だけどな

230:人間七七四年
16/10/19 20:04:17.78 vD6BiNk0.net
>>226
今の徳川当主は会津松平家だけどな

231:人間七七四年
16/10/19 21:00:20.81 qTJ2VxIA.net
男系血統的には水戸徳川→高須松平→会津松平→徳川宗家という流れ

232:人間七七四年
16/10/19 21:26:49.25 qTJ2VxIA.net
尾張徳川は鍋島血統の堀田が継ぎ
紀伊徳川は断絶の危機
水戸徳川は現在も男系血統が続き、宗家も含め各連枝にも水戸血統が多い
どうしてこうなった

233:人間七七四年
16/10/19 22:39:27.14 eiQrfX7O.net
>>232
だいたい烈公斉昭のせい
この人も公私に渡ってDQN四天王に次ぐアレさ…

234:人間七七四年
16/10/21 13:49:21.24 2urGPJb5.net
すみません、質問させてください
『鬼』の風化
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
こちらの逸話の一次ソースをお教え願えませんでしょうか?
地元の歴史を調べていて、こちらのまとめブログに行き着いたのですが、
とても面白い話で、特に「農民が勝手に供養塚の場所を動かしてしまった」という下りに興味を惹かれました
ここの部分の原文ソースにあたってみたいのですが、もしご存知の方がいらっしゃいましたら、
ご教授いただければ幸いに存じます。よろしくお願いします。

235:人間七七四年
16/10/21 15:20:48.20 EdsGRopz.net
『長久手合戦記』が出典だと思う

236:人間七七四年
16/10/21 15:52:44.92 vvaNobsX.net
ありがとうございます。助かりました
早速調べてみます

237:人間七七四年
16/10/21 23:20:13.71 wTftajrD.net
大内勢、味方を討って手柄を得る
>>216続き
こうしたところに、陶の入道の老母が危篤だという知らせが舞い込んできたので、
陶入道は取るものもとりあえず山口へと戻っていってしまった。
代わりとして、義長から内藤下野守興盛、陶からは江良丹後守(房栄)に六千余騎を差し添えて、
備後へと軍勢が送られてきた。
江田の端城の祝(高杉)の城を切り崩すため、元就父子三人を大将として、
宍戸・平賀(広相)・熊谷・天野・三須・香川・遠藤・入江・山田・飯田など六千余騎が、
七月二十三日に、一気に攻め破ろうと、鬨の声を上げて攻め上がった。
城の尾首は吉川衆、左は吉田衆、右は平賀・宍戸(隆家)・熊谷・天野などが一勢ずつ攻め口に進み、毛利勢は勇将粟屋弥七郎就が戦死したものの、
その活躍に吉川勢と仏像の様な金ピカの鎧に身を包んだ平賀の奮闘もあって城主の祝甲斐守と祝治部大輔を吉川勢が討ち取り、城兵750のうち600までが安芸の国人衆に首を取られた。
内藤・江良は備後の国人に手勢を加えた一万余騎で、
尼子勢への押さえとして送られてきていたというのに、
祝の城へ馳せ向かわなかったので何一つ手柄を立てることができなかった。
それが山口に報告されるとまずいと思ったのか、
味方の三吉の者たちをそ知らぬ顔で取り囲み、「敵だ」といって討ち取ると、
山口へは「尼子勢を討ち取った」と注進した。
こうして元就と内藤・江良の勢合わせて一万六千余騎は、
伊山に陣を構え、同年の十一月まで対陣していた。
江田は堪りかねて、同十三日に旗返の城を空け、山内へと退却していった。
旗返の城には、すぐに江良丹後守が入った。
尼子晴久は江田が城を去ったので仕方なく山内を引き払い、出雲へと兵を引き上げていった。
元就も吉田へと帰陣した。
内藤興盛も吉田へ寄るとしばらく逗留し、同十二月初旬に山口へと下っていった。
しかし、この時元就の意向に反して旗返の城に江良丹後守が入ったことは陶に対する元就の反感を高め、後の厳島合戦の遠因となったのである。
(陰徳記)

238:人間七七四年
16/10/22 10:59:08.35 4DeVsb5M.net
粟屋弥七郎(就俊)

239:人間七七四年
16/10/25 05:15:08.44 dsNNs2EC.net
?嶋原の賊矢文

薩州の支、佐土原侯〔島津筑後守〕の臣の某が持ち伝えている、
寛永中の耶蘇一揆のときに、原の城中から寄せ手に射遺した矢文として、
伝写したものを見た。
本書は今なおかの臣の家にあるという。
その文は憎むべきものだ。
これがまさに彼らが賊徒であるゆえんである。

「矢文

『一、当城之土民、宗門ノ為メニ尸ヲ山ニ捨て、名ヲ後代ニ留メント欲ス。
之ニ加ルニ忝モ上使板倉内膳正ヲ討チ奉リ、生前死後之本望、之ニ過グベカラズ候。
冀クハ近日一戦遂、万死ヲ顧ズ、尽ク相果ン。
且又余慢有ルニ依テ、狂歌ヲ綴リ軍中ニ放ツ者乎。一笑セヨ。』

一戦功成テ古城ヲ鎖ス、 三軍ガ死ヲ望テ責レドモ成シ難シ、
九州ノ大勢十余万、   一冬立チ尽シテ花ノリヲ待ツ。

島原や有馬の城を責かねて 心づくしに見ゆる上使衆

肥後守いかに心は細川や なかながし日をあかし暮らして

物数寄は越中流とききければ 敵にあふてはならぬ物数寄

有吉や頼むかひなき先手にて 敵をばうたで味方をぞうつ

信濃路や敵に心をかけ橋の かいがい敷もあぐるせい楼

立花や袖の香ふれし昔より 猶かふばしき武士の道

有馬山すそのの桜咲みだれ 軍は華を散す古城

寛永十五年寅三月日」

(甲子夜話)

240:人間七七四年
16/10/25 07:22:34.73 Bd8kq3tu.net
声優でスネ夫役の肝付さんて、島津と争った肝付氏の末裔らしいな。

241:人間七七四年
16/10/25 08:01:57.85 +2Ja90m6.net
肝付とか聞いたこと無い名字だよな
在日かこいつ

242:人間七七四年
16/10/25 08:49:44.07 CVOZtn5h.net
小松帯刀くらいは聞いたことがあるだろ
その出身>肝付

243:人間七七四年
16/10/25 09:18:59.28 xjKmbkse.net
戦国板で肝付を聞いたことがないとか勘弁してくれよ

244:人間七七四年
16/10/25 09:21:46.33 9xpVU5sN.net
あからさまな釣りに引っかかるのはNG

245:人間七七四年
16/10/25 20:11:50.09 BRHBqmwz.net
かなり昔に戦国時代の末裔の有名人の話題で盛り上がったことがあったよな
スネ夫の中の人もその時名前出てた

246:人間七七四年
16/10/25 21:53:12.75 MG+WC0Bk.net
ノブヤボで見た感じだと肝付氏の通字は兼ぽくみえる

247:人間七七四年
16/10/25 23:24:37.87 NAJp8WhF.net
初代から兼を使ってるんじゃなかったっけ?
伴なのか大伴なのかの決着ってついてるの?

248:人間七七四年
16/10/26 02:31:41.89 kweATJqC.net
東国で1人の浪人が“地ずりの晴眼”という太刀を覚え、「これに勝てる者はおるまい」
と思い、伊藤一刀斎に会って、
「この地ずりの晴眼の止め様でもありましたら、御相伝くだされ」と、望んだ。一刀斎は
「なるほど、伝えよう」と請け合いながらも、それを伝えずにまた他国へ行こうとした。
浪人は心に、「一刀斎でもこの太刀を止めることができないからだ」と思って、彼の
途次に出向かい、「日頃望んだ地ずりの晴眼の止め様を御伝授されないとは、遺恨
である。只今、御相伝くだされるべし!」と、言うままに、
刀を抜いてかの地ずりの晴眼で、するすると一刀斎に仕掛けた。その時、一刀斎が
抜き打ちに切ったと見えると、かの浪人は2つになって倒れ伏した。
世間はこれを、「地ずりの晴眼の止め様を伝授したのに、そのまま息絶えてしまって
残念である。これを“真金江の土産(冥土の土産)”とでも言うべきだろう」と評し合った。
一刀斎一代の行跡には、このような事なども多かったという。
―『撃剣叢談』

249:人間七七四年
16/10/26 07:46:51.73 /8rCg6Gs.net
ホネカワつながりで、盗賊連れて応仁の乱の際に暴れまわったあげく、最期は女装して逃げ出そうとしたところを殺されてしまった
足軽大将、骨皮道賢ネタを書こうとしたら既出だった。
スネ夫というよりジャイアンに近いか

250:人間七七四年
16/10/26 17:11:00.91 zAjQwwv/.net
無能扱いされてる関東管領、上杉憲政の河越合戦後の書状
討ち死にした赤堀上野介の娘に対して「男児がいないため、女児であるお前に家督を継ぐことを許す」
とわざわざ仮名で書くという気遣いを見せているが、その文面
「あかほりかうつけのかみむすめ のり政
かたへ
返々みやうたい(名代)の事、まかせおき候、
こんとかわこえにおゐて、をやかうつけのこみうちしに、ちうしんのいたりニ候、
しからはおふなこの事に候とも、みやうたいしきの事、あいはかるへく候、
ここもととりしつめ、ちうしやうもあてをこなふへく候、あなかしく
四月廿七日 のり政
あかほりかうつけのむすめのかたへ」
上野守(かうつけのかみ)、と書いてるけど上野って親王任国では

251:人間七七四年
16/10/26 17:12:13.65 zAjQwwv/.net
文中ちょっと訂正
をやかうつけのこみうちしに

をやかうつけのかみうちしに

252:人間七七四年
16/10/26 17:32:18.28 zAjQwwv/.net
URLリンク(www.city.saitama.jp.cache.yimg.jp)
画像があった。
かうつけの、の下が「かみ」になってるか、読める方がいれば読んでほしい

253:人間七七四年
16/10/26 20:35:53.07 biprH1Xg.net
赤堀か、うつけの神娘に見えた

254:人間七七四年
16/10/27 02:00:58.95 TnWOS/cS.net
(大坂夏の陣の時、)玉造で源君(徳川家康)は、杖をおつきになり、
諸大名に御言葉をかけなさって、のさのさと御通りになられた。
台徳院様(徳川秀忠)は御駕から御出になられ、御腰をかがめなさり、
諸大名へ御挨拶なされて、御通りになられた。
この事について、台徳院様が敵方からの矢玉を御避けになっていた
ように取り沙汰し仕ったとのことである。
―『武功雑記』

255:人間七七四年
16/10/27 20:39:37.87 lY6dUZwu.net
昔、阿波国勝端の町に青屋太郎右衛門という者が居た。彼は米持ちであり、持明院の旦那になるほどであった。
その頃、勝端の南にたたつ修理という侍が在った。彼は青屋太郎右衛門の娘に米百石の持参金を付けると
いうのを息子の嫁にとったが、息子は間もなく死んでしまった。この事で、「たたつ修理は米百石で子を売った」
と言われ、物笑いに成った。
三好長治の小姓に山井図書という者があったが、彼は大酒飲みで一日に酒を一斗(約18リットル)も二斗も
飲んでも、痛くも痒くもないという人物であり、その飲みっぷりから三好長治の御意を一段と良くし、
長治は彼とともに昼夜酒盛りを行い、酔っ払って正体のない有様であった。
その頃、米持ちである青屋太郎右衛門に肩衣を着せた(侍身分にした)が、この事について人々は、
「酒の故だ」とは言わなかった。
「青屋に肩衣を着せるような真似をする人物だから、ああなのだ。」と申しふらした。
(三好記)

256:人間七七四年
16/10/28 22:25:21.46 hT+bzspg.net
黒田勘解由次官孝高は、黒田職隆の嫡子である。母は明石氏、天文15年孝高を播州姫路に産んだ。
この時雪が降って、その家を覆った、これは英雄の生まれる奇瑞であった。また家門繁栄の
前兆でもあったのだろう。
孝高は天性聡明、鋭敏にして才知たくましく、武芸も人に優れていた、彼ほど勇猛、英武な事も、
また世に少なかった。古の和漢の良将といえども、彼を越えることはないだろう。
まさしく天が下した英材であり、本朝においてこの右に立てる人は殆ど居ないと言える。
秀吉が播州に初めて来た時から、これを助け、遂に天下を平らげたのも、ひとえに孝高の功である。
黒田孝高を知る人は、孝高はよく秀吉を助け、天下を平らげたと思っている。
黒田孝高を知らない人は、秀吉が孝高を取り立てたと思っている。
例えれば、漢の張良が高祖を助け、明の劉基が太祖を補佐した事に似ているが、その功は
それらを越えているのだ。
(黒田家譜)
これが黒田家譜の、黒田如水公式設定である。

257:人間七七四年
16/10/28 22:50:02.34 a0vwWu8v.net
黒田家譜だししゃーない

258:人間七七四年
16/10/28 23:03:20.81 JnJrWcR6.net
作者はキリシタンなんだろうな

259:人間七七四年
16/10/28 23:15:53.53 0wqTwghO.net
貝原益軒はキリシタンだったのかφ(..)メモメモ

260:人間七七四年
16/10/29 00:31:26.90 qpXB4M5+.net
中国の王朝開祖のテンプレートみたい

261:人間七七四年
16/10/29 00:42:43.87 lvkvkyyI.net
?我が先、朝鮮在陣の笑談
 雨の中聴く者は外に一人もいないまま、宗耕〔軍講者〕としばらくの間話をしていた中で
朝鮮攻めのことに及んだ。
 耕がその話を言い出した。
「御家にはさぞかしかの国の御獲物があるのでしょう。」
そこで予は言った。

「なるほど、いろいろな所にその時の物もあるでしょうが、
どうにも私の家には一品といえる物が無いといえます。
しかし法印(鎮信)がその役に用いた兜は伝わっているが、
甚だしく粗末な物でなかなか大将が着るべき物ではない。」

予の話を聞いて耕は以下の話をした。

「ごもっともだと承ります。
黒田家でかの役に〔長政であろう〕着られたという御具足を見ましたが、
胴着にしても、俗間に鳶や仕事師が裸に着ている腹懸というもののようで、
前後に革を合わせて首の所に襷にように何か黒く粗末な塗りをし、
破れた所には何か革でふせをして綴りつけていました。
しかし、父公の具足として御子の右衛門佐(忠之)の時に、
その内を金梨子地で塗られて、表は往時のままにされていました。」

 予は思うに、内を新しくしたのは惜しいことである。
それを聞いて、法印公の御兜は昔の時のままなので、
当時の有様を思い知ることができる。

(甲子夜話三篇)

当時はまだ実用品だったと思われるので、
忠之が後に文化財改悪といわれるようなことをしたのも致し方ないようにも思える

262:人間七七四年
16/10/29 20:13:58.54 D/qq4jRl.net
天正5年(1577)、日向国伊東三位入道(義祐)は、薩摩の島津義久に打ち負け国を追われ、
豊後の大友宗麟を頼った、宗麟はこれを受け入れ、重臣を呼び出し、命じた
「伊東入道のため日向に出陣する。直ぐに国々へ陣触れを出すように。」
これを聞いた重臣の一人、斎藤重実は即座に申し上げた
「御出陣なされるという事は御尤もに思います。ですが、一旦下がって愚案を巡らして見るに、
これまで毛利陸奥守(元就)が度々我らに軍勢を差し寄越しましたが、遂に一度も利を得られず、
これについて子息(原文ママ)の右馬頭輝元は骨髄に思い入り、当家の盛衰に常に注目しています。
そのような中で島津義久と取り合いが起こり、御合戦で他に対処できない状況になれば、輝元が
豊前筑前に対し手を出すこと、疑いありません。そもそもこの両国は一度元就に内通した前例が
あるのです。輝元が旗を出せば、前々と同じようにするでしょう。
龍造寺隆信に関しても、彼は手の裏を簡単に返す、表裏者なのですから、我らが輝元、義久と
戦う状況になれば、彼も手を出してくること疑いありません。隆信一人でも、3万余りの軍勢を
有しているのですから、簡単に崩すことは出来ません。
それといいこれといい、今度の御合戦、大友家が直接関与すべき事ではありません。
ともかく、先ずは時をお待ちに成るべきです。」
そう出陣に反対したが、宗麟は承知無く、「急ぎ国々に触れを出し、各々支度をさせるように。」と
命じたため、斎藤も畏まり、御前を罷り立った。
その後、大友家老中である吉弘鎮信の元へ立ち寄り、終日日向出陣の事について相談し、様々に物語
した中で、吉弘鎮信はこう言った
「誠に、私ごときでは申しにくい事では有るが、今度の御弓箭は御大事な事だと考えます。
近年、大友家の御仕置は一つとして良き事がなく、御領分の六ヶ国の諸人は疲弊しています。それなのに、
何の好で一命を捨てて戦かおうとするでしょうか。
宗麟公は田原紹忍という大佞人を尊敬し、国家の仕置を彼に仰せ付けたため、御加恩は諸人を越え、
己が威勢のみを楽しみ、宗麟公に誤りがあっても、御異見など申し上げては御意に背き身のために
成らないことを痛み、とにかく御意をさえ取り請けていれば我が身長久であると心得、上にへつらい
下を掠め、あまつさえ宗麟公をたぶらかし、切支丹の敵であると、国々の大社伽藍を焼き払い、
或いは打ち崩し、咎なき出家、社人を殺されたこと、昔も悪行の例は多いと言えども、このような事は
終に承った事がありません。
今度の御陣は、仏神を破却された天罰に寄っても、お負けになってしまうでしょう。もし立花道雪が
旗本に居れば、そのように悪しきことばかりはないのでしょうが、現在毛利の押さえのために、境である
筑前に遣わされています。この事についても、宗麟公の御内意を知らない人は、当然の人事であると
考えているようです。ですが武勇に関して、道雪に劣らぬ人は、斎藤鎮実を始めとして、他の者を
遣わしても不足はありません、あれは道雪が近くにいることを、宗麟公が嫌がったため遣わしたのです。
吉岡宗観、臼杵越中が生きている間はお仕置きも良かったのに、両人が死んだ後は田原紹忍に仕置を仰せ付け、
国家は無道に成り、当家滅却の時期到来かと考えています。
島津中務(豊久)が籠もる高城を攻めている間は、諸軍は戦うふりもするでしょうが、城中難儀に及べば、
義久の大軍によって後詰めがあることでしょう。その時、当家六ヶ国の諸軍の旗色は心もとないものです。
あなた方や私は、ただ身の恥を悲しみ討ち死にするより他ないでしょう。」
これを聞いて斎藤は
「仰せの通り、今度の出陣は、義統公を始めとして当然相談のあるべき内容ですから、様々に申し上げたのだが
ご承知無く、誠にご運の末であるのかも知れない。こんな事を言えば、島津に怖気づいているように思われるかも
しれないが、弓矢の道において島津に負けるとは夢々思わない。さりながら宗麟公が天理に背いて居る。
その咎から逃れることが出来るだろうか。
その家が滅ぶべき前兆として、様々な事が乱れるものなのだな。」
そう、涙を流して悔やんだという。
(大友記)
大友宗麟の日向出陣に対しての、大友家重臣たちの反応である。

263:人間七七四年
16/10/30 01:47:03.42 jR8hTmlP.net
また先年、(武田信玄は)嫡男の武田太郎義信をも生害しなさった。
その理由は、義信が父を討って家督を取ろうという陰謀をしたところ、
これが信玄の耳に入り、さえぎって義信を牢者とし、しまいに義信は
毒物により相果てなさった。
さては、父を追い出し子を殺して、甥の氏真の国を奪い取ったので、
大悪行を為したと思ったのだろうか、何者の仕業なのか次のような
落書があった。
「子を殺し 親に添てそ 追出す かかる心を 武田とや云」
―『当代記』

264:人間七七四年
16/10/30 02:33:47.44 +J0gnCcp.net
猛だってこと?

265:人間七七四年
16/10/30 23:52:44.11 ky4QU8i1.net
慶長5年、真田安房守(昌幸)は下野国犬伏という所から引き返し、信州へと向かった。
その途中の上野国は徳川家の領分であったため、人数を連ねて通ることは出来ず、昌幸は
真田左衛門佐(信繁)、桑原若狭、佐藤軍兵衛の四騎にて上野国赤山の麓へかかり、夜を日に継いで
沼田へと到達した、
安房守は沼田へ行き、左衛門佐では沼田の町に火をかけ焼く恐れがあると、木村土佐という家老を
沼田に遣わし、安房守は沼田に参着した。
沼田は伊豆守(信之)の領地であるが、普代の所であるから、百姓たちは急ぎ城へ参り、
「大殿が突然こちらにお出でになられた!」と伝えた。
伊豆守内儀(小松姫)はこれを聴くと
「伊豆守は家康公の御供をして東に向かった。家康公は今頃下野におられるはずだ。であるのに
安房守殿が帰ってくるのは不審である。」
そう考え、留守居たちに「大手の門に寄らせてはならない!」と命じ、門を固めているところへ、
桑原若狭が表れ、「安房守様をこちらにお連れしたい」といろいろ申し上げたが、内儀は
「城口にも近づけてはならない!」と拒絶し、安房守は仕方なく、沼田の町にある正覚寺という
浄土宗の寺に立ち寄ると、そこに石庵という半俗の者が参って「伊豆守様はどうなさったのでしょうか?」
と尋ねた。これに左衛門佐が
「伊豆守殿は浮木に乗って風を待っているのだ。」
と言い放ち、石庵は、これは話にならないと座を退いた。
安房守一行は暫く休息を取ると沼田を通過する事にしたが、沼田の町は伊豆守の行方がわからぬと
大騒ぎに成っていた。この様子に左衛門佐は腹を立て、「沼田の町に火をかけましょう!」と安房守に
申したが、安房守は「そういう事は時と場合による!たわけた事を!」と叱りつけ、その後は昼夜の境無く
上田へと急いだ。
この伊豆守内儀とは、本多中務(忠勝)の娘である。
(慶長年中卜斎記)
有名な逸話ですが、この慶長年中卜斎記だと真田信繁は何故か、
沼田に火をかけたくてしょうがなかったようですね。

266:人間七七四年
16/10/31 04:31:00.45 n0UEobMf.net
 宝台院前通の、常慶町教覚寺の話である。

権現様へ常慶と申す仏工が常に御懇意を蒙りいつも御前へ召されていた。
彼には御自像を彫らせ、その寺へ御安置もしたりした。
居間もその御像があるという。

 常慶は碁を嗜んでおり権現様は時々御相手されていた。
あるとき常慶がある提案をした。

「私が勝ちましたら、御頭を叩いてもよいですか」

「そのほうが負けたらどうするのか」

「私が負けましたら、再び御前に仕えません。」

結局勝負することとなったが、常慶が負けてしまった。
よって行方知らずとなった。
これからおいおい御尋があったがついに居場所が分からなくなった。

と寺では言い伝わっている。
(甲子夜話)

267:人間七七四年
16/10/31 07:56:12.11 0R+9GM9r.net
仕えているのが嫌になったんだな

268:人間七七四年
16/10/31 23:09:10.75 PVC4EiTg.net
>左衛門佐は腹を立て、「沼田の町に火をかけましょう!」
>安房守は「そういう事は時と場合による!たわけた事を!」
草刈昌幸と堺幸村で見たかったなこのやりとり

269:人間七七四年
16/11/01 17:53:18.23 FXCUFiSz.net
慶長5年8月10日、会津・上杉征伐の途中、江戸にあった徳川家康はこの日、非常に機嫌がよく、
午の刻(正午ころ)に「鶴を料理しよう」と、鍋を持ってきてそれを火にかけ鶴鍋を作った。
前には本多中務(忠勝)、某、全阿弥の3人が呼ばれ馳走され、特に中務は暖炉裏の家康の
すぐ近くに座っていた。
この時、どこから到着したのか、いかにも細かく書かれた書状が家康に渡された。
家康はこれを読んで、誰へともなく呟いた、「伏見城が、落城した。」
そして西の方を見て、はらはらと泣き始めた。
本多中務はこれを見て、御前を走り出て、次の間に逃げた。
全阿弥も逃げ、某も逃げた。
その後家康は、「中務はいるか?」と思って探した所、殿中からそのまま宿舎の方まで退出したと
いうことであった。
(慶長年中卜斎記)
家康が鶴鍋を前に泣き出したら何だか知らんが忠勝はじめみんな逃げた、というお話

270:人間七七四年
16/11/01 18:06:12.45 rD+ufxCs.net
一体どんなめんどくさい泣き方するんだろ

271:人間七七四年
16/11/01 20:00:44.57 Iubn3vBM.net
忠勝が走って逃げるほどヤバい状況になったのか

272:人間七七四年
16/11/01 22:42:42.41 80crETN7.net
感情が昂って脱糞だろうな

273:人間七七四年
16/11/01 23:21:48.40 CJYMPgVy.net
そらもう、とりい乱しちゃうんですよ

274:人間七七四年
16/11/01 23:28:30.91 SYhha0a6.net
「卜斎記」といえば、
会津攻めの前、伏見城の千畳敷で家康が笑ってた話を思い出す

275:人間七七四年
16/11/02 15:16:03.06 Ih9U6azj.net
>>269
なんで逃げるんだよw気を遣ってさがったにしても逃げるって表記が面白い

276:人間七七四年
16/11/02 15:27:11.53 XeQ0r+Kz.net
>>273
評価する

277:人間七七四年
16/11/02 20:54:16.38 /RmjyhkS.net
>>273
やりおるのう
お味噌進呈いたす

278:人間七七四年
16/11/05 01:14:15.22 ueBpyrnR.net
氏家内膳宅趾
 領邑平戸城の西北一里余、神埼という山の北、海に向かった所の人里を離れた地に"あぼ"という名がある。ここには"どうこく"という所がある。
思うに人名で〔今文字が詳しくなく、ただその唱に依るしかない〕、今はその廃宅の跡がある。
宅の辺りには石垣がなお存在する。その渓間は小竹が生い茂り、人が窺う隙がない。
 さて近頃聞いた話では、この地は氏家内膳正(行広)が関が原の戦に利なくなった後に
西国へ下ったときにこの所に潜伏し名を変えて住んでいたという。
しかし大坂陣起こったときにこの地を去ってしまい、その跡がなくってしまったそうだ。
きっと大坂に赴き与したのだろう。この後廃宅となったと。
 案ずるに、『武事紀戦略考』に、
「九月十五日の暁、長束大蔵大輔正家、関ヶ原を落ちて大嶋にいると聞いて、
道阿弥が手勢三百ばかりで大嶋に押し寄せ、大いに戦った。
長束は敗軍して逐電した。〔大嶋は長嶋かた二十余町南北。〕
十六日、山岡はまた桑名に押し寄せた。氏家内膳正行広は和を乞うて城を渡した。
〔桑名は長嶋から二十四、五町南〕
それから山岡は、また神戸に赴いた。」
との記述がある。同書によると氏家常陸介入道卜全〔濃州大垣城主〕は、美濃斎藤家三人衆の一人であるそうだ。後に信長に従って、度々の戦功があったとか。
(『石卵余史』巻十には、
「桑名の城主氏家内膳正兄弟は、彼方此方に忍び、
後に御侘びすると口では言っても、内心は御憎み深く、
内膳正は池田輝政に、志摩守行継は福島正則に御預けられたが、
後に慶長十九年大坂陣の時内膳正も籠城した。その時は萩野信濃守と号した。」
と書かれている。)

『武功雑記』には、
元亀三年、信玄、遠江へ出張の条に、
「信長公から権現様へ加勢として、一番手平手中書(汎秀?)、二番手佐久間右衛門尉(信盛)
三番手大垣の氏家常陸入道卜全。」
と記述してある。卜全は思うに行広の父であろう。
(甲子夜話)
わざわざ平戸くんだりまで潜伏する氏家さん

279:人間七七四年
16/11/08 06:43:10.14 haaJnWgE.net
月次の連歌会があった。
宗長のおられる席の末座から弟子である人が句を詠んだ。
決まりに触れたこともなく、書記が記録している様子をみて
『さては今の句はよく出来たのだな』と思い、
気をよくして宗長に対して手をつき、
「どう聞こえましたか」
と問うと
「中々よく聞こえた」
と言われた。
しばらくたった後又一句詠んだ。
その句も記録されたので、ちと思いあがってまた手をついて
「どう聞こえましたか」
と言うと宗長は
「聞こえた。そこからここまでよ〜く聞こえた」
と返された。
(醒睡笑)

280:人間七七四年
16/11/08 09:49:47.06 4jJkcgOV.net
つまり「凡人」判定だったと?

281:人間七七四年
16/11/08 20:32:26.56 ZmqVOuEJ.net
天正15年、伊東祐兵は豊臣秀吉より飫肥を拝領したが、島津家の将である上原長門守(尚近)は飫肥城から
退去せず、引き渡そうとする気色もなかった。
伊東家はその年の8月初めより川崎又右衛門尉を大将、川崎宮内左衛門尉を副えて郷原水城に陣を取り、
上原を説得したが、彼はこれに従おうとせず、あまつさえ8月10日には軍勢を出して、郷原において
苅田を行った。
伊東勢もこれに打って出て、飫肥城勢を広木田まで追い詰め、大勢を討ち取って引き上げた。しかし味方にも、
桜木藤七兵衛尉、海老原清左衛門尉の両名が討ち死にした。
この事は豊臣秀吉に報告され、秀吉は早速、土井九右衛門尉を上使として飫肥に差し下した。
土井九右衛門尉は豊臣家の朱印を持って、同年12月13日、飫肥に到着した。
彼は上使であったので一の城戸を騎乗のまま乗り通り、二の城戸まで乗り通ろうとした所で、
上原の門卒たちが「乗打無礼なり!」と腹を立て、九右衛門尉を始めとしてその一行のうち13人を
惨殺した。その時は伊東家からも、平原河内守、松浦甚助が案内者として同行していたが、平原は
殺され、松浦は生け捕りにされ、のちに解放された。
上原長門守は門卒たちの濫妨を聞いて驚愕した
「上使を殺した罪は逃れがたい!お前たちは私の首を斬ったのと同じであるぞ!」
そう悔やんだが及ばず、程なくこの事件は秀吉に聞こえた。
秀吉は激怒し、即座に上原長門守を召喚した。
上原は、とても逃れられないと思ったか、嫡子城之介を名代として大阪に上らせたが、上使を殺した罪により、
この嫡子が斬罪となった。
飫肥城は天正16年閏5月3日、伊東家に引き渡された。
(日向纂記)
島津家の上原尚近、よりによって秀吉の上使を無礼討ちにしたというお話。

282:人間七七四年
16/11/08 23:42:29.86 RvUCPlAS.net
息子を斬らせて助かるなんて…

283:人間七七四年
16/11/09 04:27:01.27 LHaGcvNP.net
???「子供なんていくらでも産めばいいのよ」

284:人間七七四年
16/11/09 04:55:48.51 oIThLz4f.net
何そのカテリーナ・スフォルツァ

285:人間七七四年
16/11/10 11:25:31.29 K23paop2.net
芸州寂静寺デイウス画像の事
 寛政己酉(1789年)、予は東勤のとき、安芸の怒田本郷駅に宿泊した。
この所に寂静という親鸞宗の寺がある。
予の医者がここに宿泊したときに、その住職が語った話である。
 寛永の肥前天草一揆騒乱のときにあたり、ある僧がどこからとなくこの所に来て説法講談した。
聴者の群集は日ごと多くなった。
ある時にその僧はついに耶蘇の法をすすめ、信じる者が多くなったので、
領主からかの僧を捕らえ、東武へ連れて行ったそうだ。
 かの僧が置いていったデヰウスの画像が今も本郷禅宗の寺にあるという。
この事を語った僧も見たそうだ。
その像は阿弥陀のようで威霊があったと。
奇聞である。
 天草に凶徒蜂起のとき、安芸にこのような事があったとは
世人に知らないことである。
(甲子夜話)
デウス像見たいなあ

286:人間七七四年
16/11/10 23:19:34.25 K23paop2.net
摂津国高槻の城主である和田という侍。
信長公の御前で出世し出世頭となった。

信長のきてはやぶるる京小袖     わたがさしでてみられざりけり
信長から貰ったため着過ぎて破れてしまった京小袖 
綿が出てきて(和田が出しゃばって)見られないものになってしまった
                                  
(醒睡笑)

287:人間七七四年
16/11/11 02:18:29.80 1jlJkqVM.net
今日は鮭の日なので、鮭様関連の話を一つ
※原文準拠
最上駿河父之遺跡を受て後
駿河守家親(最上家親)父の遺跡を受て後 日々に花車を好み 双六鞠俳諧に日を送り 殿宅に金銀を鏤むを 諸人諌めける
昔時源頼朝公政道正敷諸士に情深かりしが共 御子右衛門督頼家政道宜しからず
終に弟の実朝に殺れ玉ひ 実朝は頼家の子悪禅師公暁に討れ 頼朝父子三代治世纔四十余年にして亡びぬ
是頼朝平家を亡さんと多くの人の命を断し故 其積悪子孫に報ふて断絶せり
去れば義光も頼朝の如く政道正敷 万民に情深く 寺社を敬ひ其領を寄付し 古今に稀なる大将と云へ共
以謀略多くの領主を打亡 栄花身に余ると云へ共 其積悪子孫に報ふて 源五郎(最上家信=最上義俊)殿御代に至て没落せり
彼頼朝父子の古へに不異
家親御行跡宜しからざる由 三浦上総助御諌言申ければ 御腹立有て終に切腹被仰付けり
延沢能登守(遠江守延沢光昌の誤り)楯岡甲斐守(楯岡光直)御一門顔にして御異見無れば 最上家の家の可亡時節至来と見へたり
去れば聖人禍福将に至らんとし善必先知之 不善必先之を知と云り
孔子も国家将に興らんとし必禎祥有 国家将に亡んとし必妖□(けつ=草冠に辟)有と 云り
「信辮手記」等

288:人間七七四年
16/11/12 12:45:58.55 ase/33+1.net
さて、どんな悪い話になるのかw
URLリンク(mogamiyoshiaki.jp)
【お知らせ】歴史秘話ヒストリア「最上義光と義姫(仮)」
歴史秘話ヒストリア「最上義光と義姫(仮)」
NHK総合テレビジョン
放送予定日 平成28年11月18日(金)20:00〜20:43
※北海道→11/26(土)10:05〜10:48
※福島県→11/27(日)13:05〜13:48
※高知県→未定

「戦国一のワル?最上兄妹の素顔」
戦国一「邪悪」と言われた山形の武将・最上義光と妹・義姫。
しかし新たな史料からその素顔が明らかに。
大河ドラマ「真田丸」と同じく家族・故郷を大切に生きた武将の物語。
NHKオンライン「歴史秘話ヒストリア」より
2016/11/10 10:00 (C) 最上義光歴史館

289:人間七七四年
16/11/13 00:58:06.85 ixMh2+he.net
イスラム人種差別→撤回
オバマ批判→会ったら丁寧
大統領選までの言動が大人の対応に変わっとるトランプって
斎藤道三に会いに行ったときの織田信長みたいだよな

290:人間七七四年
16/11/13 23:27:31.06 2jXX2utE.net
支持者は納得してないだろw

291:人間七七四年
16/11/14 00:55:44.29 5M7DLXjN.net
?東寺観智院密教御朱印の事

 東寺の観智院に、真言密教の疏が百冊入っている箪笥が五百あった。
神祖の命があり
「密教なので門外不出にするべし。
ただし高野はその本なので、ここには送るべし。」
との御書付が今も有るという。
またこの経疏により永伝の料として別に五百石の御朱印を下されたという。
これは普門律師(円通)の語ったことである。
 どうして神祖の御事は何もかもこのように広大なのかと敬感される。
しかし律師が言うに
神祖の命もこのようであったが人情は釈徒も同じことで、
東寺はついに高野に送らず今に及んでいるとのことであった。
(甲子夜話)

東寺と高野山の仲がちょっと悪い話

292:人間七七四年
16/11/14 20:19:39.54 C207vzPJ.net
高麗の役の時、太閤秀吉は肥前名護屋に御座し。加藤清正は高麗へと派遣された。
この頃、肥後と薩摩の国境に佐布という城があった。清正はそこに、加藤与左衛門という者を
置いていたが、この時は与左衛門も清正に従い高麗へと赴いた。
その後に、薩摩の地より一揆が起こって、この佐布城を乗っ取った。
一揆の大将は梅北宮内左衛門(国兼)、東郷甚右衛門という者達であった(梅北一揆)
しかし佐布城には留守居として、井上弥一郎、酒井善左衛門という者が残されていた。
彼らは謀って一揆の大将を討ち取り、城を取り返した。これは天下無双の功名であった。
この一揆が起こったゆえに、秀吉の高麗行きも中止に成った。当時それほどの大事件だったのである。
井上、酒井には殊の外の褒美、感状が下された。
井上弥一郎は肥後にあって知行千石。肥後加藤家改易のあとは、青山大蔵の元で隠居分となり、
その子に三百石が与えられた。最近になって死に、今は孫の代になっているという。
実は太閤秀吉は井上、酒井の功を感じ入り、さらに高い知行を与えようとしたのだが、
これは石田三成が遮って止めたという事である。
(老人雑話)

293:人間七七四年
16/11/14 22:28:59.24 +JFwenuX.net
全方向に敵を作るスタイルの三成www

294:人間七七四年
16/11/15 10:02:08.52 BlZItxjU.net
うわあぁ

295:人間七七四年
16/11/15 11:02:07.77 VCJjAYaY.net
元々加藤を敵に回してるんだからその手下くらいなんでもないんだろ

296:人間七七四年
16/11/15 11:46:41.33 746nQs1x.net
この程度で天下の大事だったら九州で一揆起こし放題だな
三成はたいしたことねーよと言ってこれ以上の内乱をおさめたのさ

297:人間七七四年
16/11/15 11:52:10.79 VCJjAYaY.net
乾煎り中の秀吉名護屋在陣のときに九州で大規模な叛乱あったら大事だと思うが…

298:人間七七四年
16/11/15 14:30:49.92 zN7Iv9r2.net
戦国時代の武将って結構妖怪と遭遇するよな。
政宗座敷童子、家康肉人とか

299:人間七七四年
16/11/15 16:08:51.54 8GREXPLx.net
肥後の北側を清正が、南側を行長が統治してたって認識だったんだけど
薩摩に近い佐布は清正が統治してたの?

300:人間七七四年
16/11/15 16:37:19.62 746nQs1x.net
>>297
その一揆が契機となって大規模な物へと発展することはあっても二人で鎮圧できた一揆なんて大したことないよ
そんなんで褒美与えてたら急所を敵に知らせるようなものです

301:人間七七四年
16/11/15 23:04:18.80 02+9kijt.net
甲州伝目つぶし之法?活薬

 会談で、小幡勘兵衛景憲かた伝わる目つぶしの法として聞いた。
『蛍火 山蔭のたにし 青とかげ ムカデ 馬の目〔馬の目をほりとったもの〕
各等分にして卵の中皮?に入れる』
 これは大いに験がある。投げて胸や四肢に当たればそのところはたちまちしびれて、
手は揺らすことができず、胸は気が塞がって身を動かせない。
また鼻口に当ればすぐに絶倒するという。
聞いた話だが、これも甲州の伝で基本信玄から出たものだという。
信玄は毒矢を用いたことはこれと似ている。
またこれに遭った者のための活薬がある。
『塩 ひき茶』
この二物をといてその当った所に塗れば、すぐにその毒気が散って動揺が生じる。
また絶倒したら湯を加えて服させたら回復するという。
(甲子夜話)

信玄がなぜ塩を断たれたら困るのかが分かりますね〜

302:人間七七四年
16/11/16 08:38:58.73 GV3HsWUU.net
気持ち悪いものを投げて当たったら塩と茶を塗れとか
小学生かっ

303:人間七七四年
16/11/16 11:16:58.83 LWmC7QHM.net
        ::::::::::::::::∧口∧   そうやってなんでも
        ::::::::: ( ::;;;;;;;;:)      信玄の発明にしてりゃいいさ…
          _..  /⌒:::;;;;;ヽ
-― ―'ー'-''―-''/ / ::;;;;;;;;:| |―'''ー'-''―'`'
 ,,  '''' .  ''''' と./ゝ_;_;_ノヽつ   、、, ''"        
    ,,, ''  ,,,    ::;;;;;;;;;::: ,,  '''''  ,,,,  


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