戦国ちょっと悪い話44 at SENGOKU
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100:人間七七四年
16/09/24 00:59:13.74 JPViE3/E.net
【山口】裏表のない「正直ヒラメ」発見 体の両面が茶褐色 萩博物館で25日まで展示 [無断転載禁止]
コレは山口だが、まーくんの「両側が表の魚」の逸話はこういう魚を使ったんだろうな。
よく見つかったもんだ。

101:人間七七四年
16/09/24 05:46:27.15 MebFjYs2.net
3人が結束すれば、3本の矢のようにと、先祖の遺書を読み上げて訓示するが、
虫けらのことは伏せとく情報操作。

102:人間七七四年
16/09/24 06:25:36.41 O5X/52cq.net
>>101
広島城の二の丸にその虫けら云々ぬ手紙展示してあった気がする

103:人間七七四年
16/09/24 06:59:51.42 O5X/52cq.net
一休さんと次休さん
大永四年(1524年)、大内義興が嫡男義隆らと共に2万の兵を持って尼子経久に属する安芸の諸勢力を攻めた時の事。
安芸の守護武田光和が篭る銀山城を陶道麒(興房)と包囲した義隆であったが、堅固な銀山城の前に城攻めが長引いていた。
そんなある日、義隆は諸軍に備えを解かぬ様固く申し付けると、道麒を誘い根の次休蔵主の旧跡を見に土地の古老を道案内として出掛けた。
山を越え、谷を深く下り、道も細く丸木の橋も朽ち掛けた道を行き、漸く次休蔵主庵の跡へ着くと、
百年余りの歳月を経た為今や庵室は跡も無く成り果て、境界さえ見分けがたく、深い苔に礎も埋もれ、池の水は枯れ果て(以下長いので略)… と言った有様であった。
義隆は眼に映るものごとに心を動かされ、蔵主の昔のことを聞きたく思い、道案内の老人に話を乞うた。
古老曰く、申し伝えによれば百年余り前三蔵主とは。山城紫野の純蔵主(一休)、伊勢の養源寺の虎蔵主、それに安芸の次休蔵主のこととか、いずれも世に聞こえた禅僧であった。
その一人の一休禅師はある日「安芸の次休は深山の中に入り、跡をくらまし、名を隠そうとしておる。かの所に赴き、その邪か正かを見分けよう」と、次休に会いに紫野を旅立った。
次休蔵主は現在過去未来三世通達の僧ゆえ、一休の訪問を予め感知し、侍者に向かい
「一休宗純が私を試みようとたった今、龍宝山を、出発したよ」
とおっしゃり、そののち
「今日こそ到着の日、美味い魚を取ってもてなしてやろう」
と遥か遠い川辺に出て、釣り糸を垂れていた。一休はもとよりこれを知らぬが、川辺まで来て釣り糸を垂れる次休に
「これ、おじいさん。次休蔵主の庵室を知っておいでか?」
と問うと、次休は
「あなたは純蔵主でしょう」
と答え、一休は愕然として
「あなたは神通方便でも得ておるのか?なぜ拙僧の名を知っておられるのか?」
と尋ねた。次休はこれに
「貴方は私を試みる為にここまで来たのでしょう、私が次休です。」
と、名乗り手をたずさえ庵室に入り歓談が始まった。

104:人間七七四年
16/09/24 07:00:01.39 O5X/52cq.net
次休は自ら釣ったすずきの膾やじゅん菜の吸い物を進め
「あなたの旅の疲れを慰める為、わたしの神通方便をお見せしましょう」
と、皿の中の銀糸に作った膾をとって、むしゃむしゃと噛み
「この魚を再び元の魚に返してみせましょう」
と皿の上に吐き出した。」
すると、すずきはたちまち生き返って跳ね上がり、龍門三級の波を起こす程の勢いであった。
一休はこれを見て
「あなたは魚を再び生きた魚とされた(中略)拙僧はまたこの魚を仏にしてお目にかけましょう。」
と言うと、裳裾を高々と掲げて、
あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!!!!!! )
と敷物の上に糞を垂れ
「万法は一に帰す。食は尽く糞に帰す。されば糞中の虫である三世の諸仏は、この中に隠れておりますぞ。
昔の少康師は、一度南無と唱えれば、一体の仏、口より湧き出でさせ、続けて十声唱えれば、十体の仏を出したとか。
彼は口中より仏を出だす。拙僧は肛門から仏を出だす。少康師よりなお勝っていることよ」
と、手を打って大笑いした。
次休、これを見て「風顛漢め、人々をたぶらかすまいぞ」とおっしゃって、また一杯の水を口に含んで吐き出されると、炎となって空中にほとばしった。
一休は「あなたは孫博が草木をしてみな火光に変じた術を会得しておられるのか。(中略)拙僧もまた活手段を行じましょう」
と、鉢の水を飲んで、仏殿の内に向かい小便をし、「あなたは水を転じて火をなされた。拙僧はまた、山は是れ山、水は是れ水じゃによって、元の水に返したのじゃ」
とおっしゃった。
次休は「あなたは私を試みるがため、こうしてわざわざやって来られ、私はまたあなたの知恵を計るため、このような方便をお見せしました。
あなたはいまだ神通力を得ておらぬものの、自由自在の手段を用いられた。おかげさまで今日初めて高僧と言うものにお会いできたわけです。
我が禅宗、この国に伝わって年久しいが、今あなたが現れて、さだめし大いに世に興隆することでしょう」
と褒め称え給うたと申します。一休もまた「わたしもまた、生身の文殊支利菩薩にお会いできました」と、三度拝礼して、やがて暇乞いし、帰京した。(長いので以下略)

(陰徳太平記)

105:人間七七四年
16/09/24 07:57:01.24 XO9yYF3G.net
ダイナミックすぎる

106:人間七七四年
16/09/24 09:13:36.90 FJgE9Zqf.net
ノブも信忠と信雄以外の子供はガチで虫けら扱いだったけど
なぜか信孝だけは例外

107:人間七七四年
16/09/24 09:18:00.61 IZtf/wAU.net
とりあえずこの後は京に帰った一休さんが、次休がナンバーワンだと周りに語ったり次休が超能力で遠くの寺の家事を消したりする話を古老がして大内義隆から褒美貰って
大内義隆が、安芸を征服した暁には此処にまた大きな伽藍を建ててやると語って、大内義隆の安芸征服は是からだ、義隆先生の次回作にご期待くださいエンド
>>105
奇人と名高い一休さんも後世に脱糞ニキにされるとは思うまい

108:人間七七四年
16/09/24 10:26:50.80 lCi6cimj.net
信長自身が庶長子差し置いて家督を継いでるから
庶子と嫡子の扱いが全然違うし
戦国では常識なんだよな
権現様が異常なだけ

109:人間七七四年
16/09/24 14:06:08.96 lApELJe1.net
烏帽子親が柴田勝家だもんな
津田信澄が養育されてたのも柴田勝家
佐久間盛政といい柴田勝政といい勝家が教育した子供は有能だ

110:人間七七四年
16/09/24 15:00:04.77 Z00FwZP5.net
雑談だが
伊達政宗や立花宗茂さんが水野勝成さんの環境の中で生まれたら天下を取れたのだろうか?
逆に水野勝成さんが伊達政宗や立花宗茂さんの環境の中で生まれたら生き残れるか
興味ある。

111:人間七七四年
16/09/24 15:29:56.46 InraK0pT.net
どうでもいい

112:人間七七四年
16/09/24 15:49:26.64 VxWqyVUz.net
>>103-104
一休さんの奇人エピソード多すぎぃ!
時代がちょっとずれそうだけど劇中劇?だからいいか。

113:人間七七四年
16/09/24 18:33:59.69 MebFjYs2.net
>>102 サンフレッチェは、3本(サン)の矢という意味だそうだが、
2軍選手に向かって、虫けらのよう
と言ったらやはり怒り出すだろうか。

114:人間七七四年
16/09/24 19:18:08.76 VxWqyVUz.net
言葉の意味や使い方なんて時代で変わるんだから、今の価値観で虫けら?酷い!ってのはいかがなものか。
子供の「供」は供物、って意味だから問題があるなんて言葉狩りが最近あって、メディアではひらがな表記になったとか。
300年後には昔の人は子「供」と書いてる、野蛮!と言われるようになるのかな。

115:人間七七四年
16/09/24 23:40:57.00 JPViE3/E.net
>>110
まーくんはどうだか知らんが、宗茂ならどんな環境でもうまく適応してやって行けると思うが、天下までは無理だろ。だいたい宗茂は天下狙うようなキャラかね?
勝成は、晩年の名君キャラに成長するまでは生き残れないんじゃね?
伊達家なら小田原後あたりで秀吉に殺されるだろ。
立花家なら関ヶ原後に切腹かな。

116:人間七七四年
16/09/24 23:49:36.43 0CbiVLMf.net
>>114
数年前、嫁が役員やってる子供会の名称が、「〇〇市子ども育成会」に変更になった。
こどもはおとなの「供」ではない!との観点から、名称を「子供育成会」から「子ども育成会」に変更しました、って説明受けたが・・・。

117:人間七七四年
16/09/24 23:53:39.77 FJgE9Zqf.net
虫けらはいつの時代も普遍的に虫けらだから馬鹿

118:人間七七四年
16/09/25 12:17:47.01 4EaSMYkj.net
そもそも勝成が天下とってねーし

119:人間七七四年
16/09/25 17:22:56.44 WSppQdy/.net
徳雲院様(細川持隆)の北の方は、周防の大内殿の娘であった。
彼女は、岡本美濃守の娘の小少将殿と申す人を小女房として奉公させていた。
ところが北の方には御子がなく、持隆は小少将殿に目をかけられ、やがて若君一人(細川真之)を産んだ。
三好実休は細川持隆を切腹させた後、「主君に御腹召させたのは天道恐ろしき事であり、
この若君を置いて前々のように主君として崇めよう。」とし、そうして小少将殿を自身の
妻に据えた。やがて実休とこの小少将の間に子ができた。この子は幼名を千代松といい、
烏帽子名は彦次郎。御名乗を長治という。
(三好記)
三好実休、良かれと思って細川真之を擁立し小少将を妻にした、というお話。なお

120:人間七七四年
16/09/25 19:39:11.35 OjONIPR6.net
ワハハ奸婦め!

121:人間七七四年
16/09/25 21:01:41.34 pd/6K8CZ.net
小少将はサゲマンという説が(元親の側室は単に同名のようだけど)
「小少将」の犠牲者の一覧
細川持隆 小少将の最初の夫。細川真之を設けたが、家臣の三好義賢に殺害された。
三好義賢 細川持隆謀殺後に小少将を嫁にして三好長治と十河存保を設けるも、久米田の戦いで戦死。
篠原長房 三好義賢戦死後に弟が小少将を嫁にしたが、弟の讒言により三好長治に攻められて敗死。
三好長治 小少将と三好義賢の子。小少将と細川持隆の子で異父兄の細川真之に討たれた。
細川真之 小少将と細川持隆の子。小少将と三好義賢の子で異父弟の十河存保に討たれた。
十河存保 小少将と三好義賢の子。小少将が側室になった長宗我部元親と共に参加した戦いで戦死。
長宗我部元親 小少将を側室にした四国の英雄。その後長男が九州で戦死し後を追うように病死。
長曾我部右近太夫アンド十河存英(存保の息子) 共に大坂の陣で大坂方について死亡

122:人間七七四年
16/09/25 21:41:39.15 YOONVF6X.net
       |
   \  __  /
   _ (m) _ピコーン
      |ミ|
   /  .`´  \
     ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (・∀・∩< 嫌な奴に小少将を押し付ければ!
    (つ久秀丿 \_________
    ⊂_ ノ
      (_)

123:人間七七四年
16/09/25 21:46:31.79 OjONIPR6.net
>>121
篠原長房じゃのーて一族の自遁な

124:人間七七四年
16/09/25 21:51:16.34 OjONIPR6.net
サゲマンて言うなら通じた奴の名で十分やろ

125:人間七七四年
16/09/26 09:29:22.17 Ro9cT0DI.net
徳雲院様(細川持隆)が切腹された時、柴原と申す在所に久米殿という武士が有った。
彼は三好実休の舅であり、細川持隆の家臣であった。
佐野河内という在所の野田義介という武士も、同じく細川持隆の家臣であった。
下八幡の二木日向殿という人は、持隆の一族だった。
彼らは持隆が切腹させられたことを口惜しく思い、必ず三好実休を討ち果たし本望を遂げようと
話し合った。久米殿は三好実休の舅であったのに、主君を殺したのは曲事であると、実休への
反乱を企てたため、これは後に久米の乱と言い伝えられた。
その頃、三好実休は勝端の町に在住していた。
久米たちに与する小倉佐介という者は、ここで実休の動向を探って来たが、帰る途中、
勝端の野辺において広言を吐いた
「実休を討果すのはいと容易いことである。」
仲間が聞いた「それはどういう事か?」
「彼の周囲には年若き小姓衆20人ばかり、あとは台所の人数だけで、いざという時
役に立つ人間が一人も居ないからだ。」
ところがこの会話を、そこで放牧していた牛飼いたちが聞いていた。
彼らは親方にこれを話し、この反乱計画が発覚する。勝端の町人たちは足具足を着けて
千人ばかりが雑兵姿となり実休の屋敷の警護を申し出、同時にこの小倉佐介の広言を申し上げた。
久米の在所である柴原とこの勝端との距離は一里ほどの近距離であり、また勝端は
久米側の人々の親類縁者も多かった。
そのため実休の所に町人たちが駆け付けたとの情報はすぐに久米側に伝わった。
これを聞いて久米たちは勝端を攻めることを諦め、実休の重臣である一宮長門守(成祐)を
夜討ちすることに方針を変更した。
一宮長門はこの時下屋敷に住んでおり、この四方は大竹藪であった、
夜討ち勢は大勢であったため、たやすく門を打ち破り屋敷に侵入した。
この時、一宮長門家臣に木村備前という人がいた。彼の宿所は一宮長門の屋敷から十町ばかり離れて
いたが、この夜討ち騒ぎを素早く聞きつけ、大竹藪の中をくぐり抜け長門の寝所にまっすぐに
駆け入ると、長門を引き出し藪の中に押し入れた。
夜討ちの軍勢が追い駆けてくるのも構わず、木村備前は長門を連れて逃げた。この時木村備前は背中を
二刀切られたが、藪の中であったので何とか逃げ切った。
一宮長門の妻は三好実休の妹であったので、夜討ちの衆はこれを生け捕り柴原へと連行した。
久米の反乱が発覚して三日の間に、実休の人数が上郡および淡路より、三千人ばかり駆け付けた。
久米方の人数は八百人ほどであり、方々の実休方に対処するため黒田原に軍勢を集結させていた。
そこで実休方は勝端より三千の軍勢で中富尾まで進出したところ、久米方八百人のうち、六百人ほどが裏崩れし逃亡した。
残ったニ百人は、破れかぶれに斬りかかったが、実休方は三千の人数でこれを包囲し、彼らを一人も残らず討ち果たした。
この戦いの中で、久米方の野田内蔵介という武士は普段から七十人力と呼ばれていた。
実休の三千人の人数のうち、五百人ほどが負傷したのだが、その大半はこの野田内蔵介によって
切られたのだと伝わる。
しかしこの野田蔵介も数多の敵に疲労した所に、淡路の住人である野口肥前という人が彼に挑戦した。
野口は二十人力と言われ、淡路においては一番の相撲取りであった。
野口は内蔵介と組み合い、大腰に投げつけた。しかし地力が違い、内蔵介はあっという間に
野口を押さえつけ上乗りとなった。
この時奥野右衛門(一説に左衛門)という者が駆け付け、内蔵介の首を打ち落とそうとして、
彼と組み合っていた野口肥前の手を切り落としてしまった。こうして野口は片手となったが、
死にはしなかった。
(三好記)
三好実休支配下の阿波における、久米の乱についての記述である。

126:人間七七四年
16/09/26 21:50:10.39 baLYiMg9.net
篠原長房の弟が自遁だから、>>121>>123も合ってるよね。
一宮長門守(成祐)は後に三好実休(義賢)と小少将の息子三好長治を殺す側に回ってる。
一宮長門守(成祐)の妻である三好実休の妹はこの後どうなったか三好記に記述はありますか?

127:人間七七四年
16/09/26 22:01:51.02 8NuzwDHO.net
>>126
残念ながらサゲマンというのはエッチした男じゃないとその効果は発揮しないのだよ
だから篠原長房の死は小少将とは無関係であって自遁にとって長房の死は得なのでサゲマンじゃのーてアゲマンとなる

128:人間七七四年
16/09/26 22:34:56.02 baLYiMg9.net
>>127 そっちの話ね。失礼しました。
ところで阿波の小少将については、息子たちを仲裁しようとして細川真之の元に
行く途中、真之の家臣たちに襲われて落命した話もあるようだけれど、
これも出典が分からない。

129:人間七七四年
16/09/26 22:47:42.76 baLYiMg9.net
スレチなので小声で
三年前、文科省は子ども表記を子供表記に変更した。文科省の公用文は今は子供表記。
一方で厚労省はまだ子ども表記。一般にこれが知れ渡るのはまだ先だろう。
当方は三好記の記述をさらにしりたい。一宮成祐の奥方はどう処遇されたのか。

130:人間七七四年
16/09/27 20:02:53.44 B9t1nf/c.net
三好海雲(元長)は京での合戦に切り負けて切腹された。
三好喜雲(之長)は和泉国の合戦に切り負けて、堺の町の堅法寺という寺で切腹した。
彼は切腹の際、腹わたを掴んで寺の天井に投げつけた。
その痕跡は諸国の人々が見物し、彼の死に様を褒め称えた。
だが大阪破滅の時(大阪の陣)、堺の町は焼かれ、その天井も焼失してしまった。
昔から今に至るまで、主君(阿波細川家)のために二代腹切った人は稀である。
(三好記)
三好元長は之長の孫ですが、元長の父が早逝して之長の後継者になっているので二代扱いなのですね。

131:人間七七四年
16/09/27 23:46:08.12 mNSOphMn.net
>>129
宇喜多「小声でスレを上げる129殿に茶を振舞おうぞ」
>>130
>三好元長は之長の孫ですが、元長の父が早逝して之長の後継者になっているので二代扱いなのですね。
TERU「祖父と一緒に叔父sも戦死しているとは裏山」

132:人間七七四年
16/09/28 16:11:15.27 7ZLbC4ak.net
>>131
景さま「ああん?体育館裏くるかコラ」

133:人間七七四年
16/09/28 16:39:45.14 QVxC1CUq.net
種無しのくせに(笑)

134:人間七七四年
16/09/29 09:58:51.10 UKcAPjuH.net
鹿児島市の西郷隆盛銅像の裏手、鹿児島市立美術館(鹿児島城(鶴丸城)二の丸跡)の一角に「ジメサア」と呼ばれる
お化粧をした変わった石像があり、毎年十月五日前後の日にお化粧が行われるのが恒例行事となって、その様子は
地元のテレビや新聞でも毎回報道されています。
案内板には「この石像は、島津家18代家久(忠恒)の奥方持明夫人像『ジメサア』の名で親しまれています。
持明院様は16代義久の娘で亀寿といい、器量には恵まれませんでしたが、その人間性が尊敬され、人々は
『器量はすぐれずとも、心優しく幸せな家庭を築いた』夫人の人柄を慕い、毎年10月5日の命日には、この像に
おしろいや口紅をぬって、夫人にあやかるようにおまいりするならわしが残っています。」と書かれています。
この石像にはこんな話があります。(文中の家久を忠恒に変えた以外は原文ママです)
持明の方(ジメサー)
鶴丸城のあと、二の丸に市の美術館がある。庭のかたすみ、こんもりとしげった木の下に女の顔をほった
大きな石がある。まっ白な顔、黒いまゆ、口べにのついたくちびる。
そこにはいつも色とりどりの花がそなえられていて、通りすぎる女の人が、その顔をなでていくのを見かける。
さて、この石にどんな話がかくされているのであろうか。
話は、今からおよそ四百年以上のむかしにさかのぼる。
島津第十六代藩主義久のむすめは、十八代の忠恒に持明の方(ジメサー)として縁付いた。
ある朝、持明の方が鏡に向かって化粧していた時、通りかかった忠恒が、「その顔で・・・」とあざけった。
持明の方はいろいろなやんだすえにとうとう自殺してしまった。忠恒も後悔してみたが、今となってはどうにも
ならない。それで、墓を福昌寺にたててとむらった。
ところがある晩、寺のおしょうさんの夢に「ここにはいたくない。わたくしを二の丸にかえしてくれませんか」と
持明の方がでてきた。おしょうさんはおどろいたが、そのとおりにするわけにもいかないので、大きな石を
錦江湾から引き上げてきて、女の顔をきざんで二の丸にすえて供養した。
ところがまた夢で、「もう少し私の顔を美しくしてくれませんか」という。それで城の女の人たちが、おしろいなど
を毎日ぬってやったら、もう夢にはでてこなかった。
そこでこの顔をなでると、顔が美しくなり、きれいな女の子がうまれるといわれるようになった。
(「鹿児島の伝説」 昭和五十二年発行より)
いろいろとツッコミどころのある話ですが、この話の一番のツッコミどころは
「この石像は、持明院(亀寿)の石像ではない」というところです。
島津家の歴史・文化と集成館事業を語り継ぐ博物館「尚古集成館」と歴史作家の桐野作人氏が再三
違うと言ってるのですが、未だに「持明院(亀寿)の石像」として伝わっています。
尚古集成館側と桐野作人氏の説明では、あの石像は大乗院(現・鹿児島市稲荷町・清水中学校)にあった
「白地蔵」と呼ばれていた石像だそうです。
江戸後期の紀行文「鹿児島ぶり」では
「白地蔵と云う石像あり。めづらしき像なり。土俗心願あれば、地蔵のおもてに白粉をぬるなりと云う」
と書かれています。
この石像が大乗院から現在の場所に移ったのははっきりしませんが、明治以降から戦後すぐあとではないか
と推測されています。
石像と亀寿と結びつけられてしまったのは、亀寿が大乗院に本尊の千手観音をはじめ、勝軍地蔵、毘沙門天
や経典などを寄進したという由緒と関係があるのではないかといわれています。
亀寿の容姿について、尚古集成館側は美人説、鹿児島市立美術館の案内板には不美人説が取り上げられて
いますが、世間一般には不美人説が強いらしく天文館アーケードに無料配布してある「天文館史跡めぐりマップ」
には鹿児島市立美術館の案内板と同じ内容が書かれていて、アーケード内の数箇所にマップが張られています。
※美人説・不美人説について桐野作人氏は「どちらの説も確証が得られていない」とおっしゃってました。
さつま人国誌「再考・ジメサアの由来」
URLリンク(373news.com)

135:人間七七四年
16/09/30 15:02:35.59 Zp91inL8.net
昔、阿波の御屋形様(阿波細川家)は、万事を家老衆に任せて、軍の事を少しもお構いなかった。
彼らは能、蹴鞠、囲碁、将棋、お囃子といった遊びばかりしていた。
一方、三好殿の衆は、兵法、鑓、長刀、弓といった武道ばかりで、とにかく強いことだけを求め、
文道には少しも関心を示さなかった。そして理非をとなえるような人を『よわ者』と蔑んだ。
だがそのために御家は滅びた。
(三好記)

136:人間七七四年
16/10/01 08:28:56.39 ILEHhOb7.net
本能寺の変を起こし織田信長・信忠親子を討ち取った明智日向守(光秀)は、床机に座って
洛中の人々の礼を受けると、京中の地子(家屋税)を免除する意向を示し
「織田信長は殷の紂王であった。」
そう語った。
京童たちは『彼は自分を周の武王に比しているのだ。片腹痛いことだ。』と思ったが、
地子を免除されることの嬉しさに、万歳と祝い、光秀の成功を賀した。
今に至るまで京中の屋地子が無いのは、明智日向守のおかげである。
(豊内記)

137:人間七七四年
16/10/01 09:03:44.86 nw5adTKJ.net
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
既出
(秀頼事記=豊内記)

138:人間七七四年
16/10/01 18:33:01.29 hdHYlRFK.net
大友義鑑には3人の子があったが、惣領である義鎮(宗麟)に家督を譲ろうとしなかった。
彼の後妻が産んだ、到明子殿という末子に家督を譲ろうと考えていて、義鎮に対しては普段から
対面することもなく、到明子殿への本意は深かった。
身分の高い者でも低い者でも、継子継母の関係ほど難しいものはない。
到明子殿の母は義鎮を失わせ、どうにかして到明子殿を大友家の当主に立てたいと日夜胸を痛めており、
彼女は家老の入田丹後守親誠を頼った。丹後は心得、それからはいつもよりも義鑑に忠を尽くし、抜きん出た
奉公をして義鑑から高い信頼を得、義鑑は何事も丹後に相談するようになった。
ある時、義鑑は丹後を召して問うた
「義鎮については、私は思うところがある。到明子に代を譲るのはどうだろうか?」
丹後、畏まり
「ご質問でありますから申し上げます。ご兄弟の皆様は何れも御器用にてあられますが、中でも
到明子御曹司は世に超えた人物であるところ、人々は広く沙汰しています。大友中興の祖である
親世公の生まれ変わりではないかとすら思われます。」
などと様々に褒め上げると、義鑑は大いに機嫌を良くした。
その後、義鑑は義鎮に対し、湯治のため別府へ出かけさせた。
そして重臣である斎藤播磨守、小佐井大和、津久見美作、田口といった人々を召して言い渡した
「私は到明子に家督を譲ろうと考えている。」
この言葉に一同は驚き
「一体どういう理由で義鎮様を差し置いて、後末子の到明子殿に家督を譲られるのですか!?
御意ではありますが心得かねます!」そう、一斉に反対した。
これに義鑑は何も言い返せず、機嫌を悪くし、重臣たちはそれぞれ御前を下がった。
義鑑は
「あの者達を誅殺し心のままにせん」と、その日の暮れに斎藤、小佐井の両名を召して、大門において
誅した。
この時、津久見、田口の2人も召されたのだが、詐病をして登城しなかった。彼らは斎藤、小佐井が
殺されたことを聞くと、
「我々ももはや逃げられぬだろう。ならば」
彼らは密かに大友屋形の裏門から入って二階の間に入ると、「到明子殿に久しくご対面していない。
さぞかし成長された事だろう。少々御目見得をさせて頂きたい」警備の者達にそう言いながら奥の高間へと
強引に入ると、そこに居た到明子を一刀に斬り殺し、引き取る刀で彼の母も害した。
そして一の台にいた局たちを一人残らず切り伏せ、田口は二階の間から居間へと通り、義鑑が上段に居たのを
駆け寄って斬った。
田口はお側の衆に討ち取られたが、大友義鑑もこれで深手を負い、天文19年2月9日、遂に儚くなった。
どういう御分別だったのだろうか。実に浅ましい事である。
(大友記)

139:人間七七四年
16/10/01 22:27:51.55 +ELXDe/8.net
>>138
その後の宗麟の酷さを見ると義鑑の考えが正しかったような…。
いやそんな事があったから歪んだというべきか?

140:人間七七四年
16/10/02 02:27:18.87 6qfdtbzd.net
神西元通の変心と中原善左衛門の忠死
伯耆の国、末石城の城将神西元通は元は尼子十旗の一つで第七、出雲神西城の守将であったが
毛利家の出雲侵攻の際に降服し、月山富田城の落城後は毛利家の命で毛利の目付中原善左衛門と小寺佐渡守とともに、
伯耆の末石城に籠っていた。
1569年、毛利家が北九州立花で大友家との争いを繰り広げていたころ、その隙をついて
尼子勝久を擁した山中鹿介・立原久綱らの尼子再興軍が海路より出雲へ侵攻を開始。
島根半島に上陸して忠山の砦を占拠した尼子再興軍はそこから尼子旧臣らに檄を飛ばしたところ、
同心するもの数多く、尼子再興軍は急激にその勢力を拡大していった。
そんな中、神西元通は末石城に籠り沈黙を保ったままであったがある日、山中・立原の両将から使いが訪れる。
そして扇を出すと「これに一筆頂きたい」と言う。何故か?と問う元通に使者は
「山中殿・立原殿がおっしゃるには、『尼子家に人は多いが、神西殿とは特に朋友の契り浅からず。
今は敵味方となってしまって簡単に会うことはできないが、昔のよしみは忘れられず、懐かしく思い出される。
人の思い出としては、筆跡以上のものはないという。
神西殿はなかなかの名書家であるから、何でもいいから一筆書いてもらってきてほしい。
顔を合わせていると思って筆跡を見たい』とのことです」
と、鹿介より言付かった通りに返答すると、元通は「山中・立原との昔のよしみは深く、私にとっても忘れ難いならば一筆書きましょう」
と答えると扇に「ふるかう小野の本柏」とだけ書いて使者を返した。これを見た鹿介と立原はこの歌が古今和歌集の、
『石の上ふるかう小野の本柏もとの心は忘られなくに(いその神ふるから小野の―本の心は忘られなくに)』
から来ていることを見て、元通に脈ありと見て再度使者を送ると、案の定元通は尼子再興軍に味方することを約束して使者を返した。

141:人間七七四年
16/10/02 02:28:20.59 6qfdtbzd.net
神西元通はこの事を表に出さず固く秘して隠していたが、いち早くこれに気付いた者が居た。
毛利から目付として付けられ一緒に末石城へ籠っていた中原善左衛門である。
彼は吉田郡山の戦いで一矢にて尼子経久の弟である尼子久幸を討ち取るなど、歴戦の勇士であったが
また智にも優れた者であった。
中原は神西元通の変心に気付いたがそ知らぬふりをし、密かにかつ迅速に対処しようと同じ目付の小寺佐渡守を呼ぶと
「神西について何か気付いたことはないか?」と尋ねた。小寺は「何も気付いたことはない」と答えた。
中原はそれに「いや、神西はどうも逆心を抱いているように見える。しかし、何の証拠もなしに彼を討っても胡乱の極みと人から笑われるだろう。
そう思い見過ごしてきたが、このままでは神西はそろそろ事を起こし、私と貴方を討ち果たそうとするだろう。これまでは無闇に波風立てまいと貴方には
黙っていたが、もう神西の逆心は疑いなく思えたので貴方に教えたのだ。私はここで神西と刺し違えて討ち死にしても元就様の厚恩に報いようと思う。貴方はどうだ?」
と、尋ねると小寺はつくづく思案して「中原殿の覚悟、実にその通りだ。だがこの城で無駄に討たれても意味なく思う。だから命を全うし、再び元就様の役に立ちたいと思う。」
と答えた。
中原は冷笑し「あなたの言うことはもっともだ。今ここで討たれて勝久へ首を捧げられるのは実に悔しい。
しかし一隅を守る私は何の才覚・智謀なくこの城に籠った日から神西に野心あれば刺し違え、
毛利に忠を尽くし敵に囲まれるなら神西と共に自害せよと命じられたと考えている。だから気にすることはないのだ。
あなたは命を全うしして、五百八十歳まで生き永らえるとよろしい。
私は死して善道を守り、忠義の名を子孫に残そう」と言った。
小寺はやがて神西に「両足を痛めたので、牛尾の出湯に入って養生したい」と暇を請うた。
神西は「好きにするといい」と言うので、小寺は喜んで、すぐに城を出て逃げていった。
しかし芸陽には帰れず、豊後へ渡って大友金吾入道を頼り、また老後になってから本国に帰ってきたという。
(異説では軍議の為、城を出て安芸へ向かったとも言われる)
この後中原は神西と刺し違えようと思い決めていたが、証拠もなしに神西を討てば人々から
『中原自身の思慮が足りずに、さしもの忠功の神西と刺し違えたのだ』と口さがなく言われるに決まっている。
どうにかして、神西が私を討とうと目の色を変えたときにこそ、一打に斬るしかない。
あの小男一人なら、掴み殺すのも簡単だと思って今まで放っておいたが、
もし私が討たれてしまえば、私が油断したから易々と討たれたのだと、
人々はあざ笑うだろう。これも口惜しい」と思った。
それでこのことを詳細に書き記すと、「妻子に伝えよ」と、下人一人を故郷へ帰したのだった。
こうして中原は、神西の反逆の証拠があれば一刀のもとに切り捨てようと考えて、心を許さずにいた。
神西もなかなかのつわものなので、少しも態度に出さずに時が過ぎていったが、
あるとき神西は、同朋(近侍の僧体の者)の林阿弥という者と中原の囲碁対戦を所望した。
中原は「よろしいですとも」と答えて神西のところへと向かう。
神西は碁を討っているそばからのぞくように見物して、
指を折りながら「十、二十、三十、四十」と数え、
「そこに打って取れ、ここの石を拾え、投了させるな」などと言っていたが、
「そこで切れ」というのを合図に、討手にキッと目配せした。
神西が林阿弥に「切れ」と言ったのと同時に、討手の者たちが抜き打ちにそばから丁と切る。
中原は前から覚悟していたことだ。自身も屈強な太刀の達者であったので、碁箱でもって受け流し、
一尺八寸の脇差を抜いて討手の眉間を二つに切り破る。
二の太刀で碁の相手の同朋を袈裟懸けに切り捨てる。
その際に神西は中原の左手をしたたかに切った。
中原は切られながらもスッと立って打ち払い、八面に敵を受けながらしばらく戦って、
数多くを切り伏せまたは怪我を負わせて、自身もぼろぼろになって死んだ。
勇といい義といい忠といい、まさに類まれな者だと、これを聞く人は皆たいへん感心した。
神西も情けのある者なので、これまでのよしみが忘れがたいと、中原を手厚く供養したとのことだ。
(陰徳記)

142:人間七七四年
16/10/02 02:49:09.71 6qfdtbzd.net
ちなみにこの中原善左衛門であるが、末石城跡とされる場所にある碑には
この逸話の2年後の1571年に吉川元春が末石城を囲んだ際、和議の使者となった
在郷の勇士と共にその目付として城に入り、和議成立を偽装した城方に寄って騙し討ちされ
退去の際に丸腰の所を使者と共に斬られたとされている。

143:人間七七四年
16/10/02 03:18:36.35 7qJmlchd.net
林 阿弥「解せぬ」

144:人間七七四年
16/10/02 12:14:42.18 H2n6JpLG.net
>>139
一次資料だと案外まともなんだけどな宗麟は

145:人間七七四年
16/10/02 12:33:26.78 zc7ZWW+f.net
>>138
頼朝「兄より」
信長「すぐれた」
秀忠「弟など」
(●∀゚)「存在しねぇ!!」
(´・ω・`)「弟など存在しない…」

146:人間七七四年
16/10/02 12:37:06.65 zszeXnAQ.net
>>145
隆元「ウチは弟達の方が優れてましたよ(胃をキリキリさせながら)」

147:人間七七四年
16/10/02 12:49:26.79 hxDXM2tQ.net
元就「兄より優れててすみません。皆さん弟は大事にしましょうね」

148:人間七七四年
16/10/02 13:55:37.76 zszeXnAQ.net
>>145
TDIE「皆々様の仰る通りでございます。兄より優れた弟などこの世に存在致しませぬ」(鎖帷子を着ながら)

149:人間七七四年
16/10/02 21:12:09.36 +e23W/r8.net
そりゃお福と密通してたからなあ

150:人間七七四年
16/10/03 01:38:24.33 Om5w01zA.net
尼子再興軍、和議の使者を騙し討つ 〜美甘塚由来〜
1571年、吉川元春の軍勢6000に囲まれた山中鹿介と神西元通の籠る末石城。
僅か500程度の城方に対し三層の櫓を組むと石礫や鉄砲、矢を撃ち込み攻撃する吉川勢。
守る城方も土塁を築き必死に抵抗し、3日に渡り激戦が続いた。
その中、吉川勢は和議の使者として地元の所子と言う所に住む美甘与一右衛門(みかもよいちえもん)と言う血気盛んな勇士を送り込む。
毛利氏の依頼を受けた美甘与一右衛門は目付の中原善左衛門と共に城へ入るが、和議に刀は不要と入り口で刀を取り上げられた。
交渉は順調に進み、和議成立となり歓待の宴が開かれる。宴も終わり、2人が退出しようとしたところ城方の兵士は不意に美甘と中原に斬りかかる。
未だ刀を返されていなかった美甘は身近にあった石を手に立ち向かうが、敢え無く中原と共に討たれて死んでしまう。
数日の後宍戸隆家、口羽通良を通じて城方は降参を申し出た為吉川元春は城を受け取った後、亡くなった美甘与一右衛門の義を讃えると共にその死を悼み、碑を建て厚く葬った。
現在も末石城跡には美甘塚が残り、美甘家の人が与一右衛門が城方に立ち向かった時の石を力石として碑の近くに保存供養を続けているとの事である。
当地に残る美甘塚の案内板などより

151:人間七七四年
16/10/03 06:46:55.58 FrR4NjML.net
>>150
中原「ワシは何回死ねばええんじゃ…」

152:人間七七四年
16/10/03 19:18:04.90 +ZXcHLbM.net
>>150
未だに供養が続いてるって凄いな。

153:人間七七四年
16/10/03 23:42:14.17 9IRF6OyF.net
大友義統悪逆の事及び彦山の意地
天正九年秋、義統は大友家に反目する彦山を襲撃する。かつて大友氏の監視下にあった彦山だがこの頃は秋月種実との関係を強めていた
義統は嗣子に恵まれない十四代座主舜有の後嗣に自身の弟を押し込もうとしたがこれを嫌った舜有は娘婿・秋月種長の子を後嗣にと取り決めたことで
義統の狙いを封じた。そして義統への返答として彦山は義統の使者を殺害する
これに激怒した義統は清田鎮忠と上野鎮俊を大将に、彦山を滅ぼすべく日田郡へ陣を進めた
清田上野の両将は、まず彦山に降参勧告を行ったが彦山は拒否し戦いになる
秋月さらには龍造寺の援軍を得た彦山は一歩も引かず善戦したものの
激戦の末に大講堂を占拠した大友勢は一山の宗坊悉くに火を放つと彦山は一宇も残らず炎上した
この時山伏二人は「大友七代までも怨霊とならん」と罵り腹掻っ切り火中へ飛び込んだ。
こうして一ヶ月に及んだ大友の彦山襲撃で彦山は大きく勢力を失った
しかし彦山はその後も秋月氏さらには龍造寺氏と連携して反大友軍事同盟を結成し戦い続けることになる
さらには秀吉の九州征伐時には島津氏とも連携し豊臣(&大友)勢とも戦うが最後は衆寡敵せず豊臣勢に降った
参考資料:大友記、豊筑乱記、筑前戦国史など
ちなみにこの話は
宗麟公悪逆之事
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
の別バージョン
焼討を命じたのが義統だったり焼討後も義統に屈さず秋月・龍造寺・島津と連携して戦い続けているところなどが相違点

154:人間七七四年
16/10/05 04:01:44.58 Ib0P9j1i.net
合戦は百日の内に埒の明くものである。関ヶ原は、7月中旬から9月15日に埒が
明いた。大坂は10月から1月20日までに埒が明いた。大坂後の合戦は3月から
5月7日までに済んだ。有馬(天草一揆)は、1月から2月27日までに済んだ。
―『武功雑記』

155:人間七七四年
16/10/05 07:37:24.77 6nfw2tfV.net
石山合戦
三木城籠城戦
月山富田城籠城戦


応仁の乱

156:人間七七四年
16/10/05 07:57:16.26 5J8+ztnF.net
妙玖の方、吉川家臣を説得
1550年、毛利元就の命令で布川(現広島市安佐北区深川)に隠居していた吉川興経は謀反の疑いを受け天野、熊谷率いる手勢により殺害された。
この報を受けた吉川家重臣、吉川伊豆守(吉川経世?)と森脇和泉守は直ぐさま郡山の城へ駆け付け、2人は元就に涙を流し抗議し
「興経を討ち果たすのであればどうしてお知らせくださらなかったのですか。
隠居蟄居の身となったのですから、どうして反逆など企てられましょう。
こうして誅罰なさるとは、なんともお情けのないことです。
私たちも、興経に対して私怨があってこのように(興経から元春への家督相続)したわけではありません。
吉川の家のことを考えたからこそ、一旦は主従の間を乱すような振る舞いをしたのです。
確かに興経に楯突いたと同じようなものですが、本当は家のためを思い、
それに興経の不義を正すために行ったのです。
こうなったら私たちも、縁側の片端を汚して自害させていただきます」と大騒ぎした。
元就はあれこれとなだめたものの、二人はまったくおさまらない。
その騒ぎを聞きつけたのか、元就の北の方が姿を現し、
「伊豆守殿にとって興経は甥ですが、わたしにとってもまた甥です。
甥を殺されたのが無念だといって自害なさるのなら、私も女の身ではありますが自害すべきでしょう。
伊豆守殿、どうか私に免じて自害を思いとどまってください」と、
一度は怒り、一度は涙を流して説得した。
吉川伊豆守はこれにしぶしぶ自害を思いとどまったので、森脇和泉守も強行することができずに涙を抑えて自害をやめた。
(陰徳記)
ちょっとツッコミどころの有る逸話なので悪い話に持って来ました。

157:人間七七四年
16/10/05 08:09:09.82 w5JhOUZD.net
切る切る詐欺か

158:人間七七四年
16/10/05 08:29:12.59 5J8+ztnF.net
>>157
違う、そこじゃない

159:人間七七四年
16/10/05 11:18:22.35 3PMHM5EC.net
妙玖(みょうきゅう、明応8年(1499年) - 天文14年11月30日(1546年1月2日))は、戦国時代の女性。
毛利元就の正室。妙玖は法名で本名は不詳。父は吉川国経、母は高橋直信の娘、兄弟には吉川元経、吉川経世ら。
子に長女(高橋氏人質、夭折)、毛利隆元、五龍局、吉川元春、小早川隆景。

あっ…(察し)

160:人間七七四年
16/10/05 13:20:12.96 7Lcaw4B2.net
んー?わからんぞ

161:人間七七四年
16/10/05 13:24:48.02 o/sCiXIJ.net
>>160
えぇ…
>>159の初めの辺りをよく読んで再度>>156を読めば分かる筈…

162:人間七七四年
16/10/05 16:16:28.54 QTk5iYVv.net
黄泉返りなんて日常茶飯事

163:人間七七四年
16/10/05 16:45:39.11 c3gMfmgy.net
大河で呂宋助左衛門がでてたので
堺市の大安寺本堂は元、呂宋助左衛門の屋敷であったが、
呂宋助左衛門が秀吉にフィリピンの便所壺を高く売りつけたのがバレて
呂宋助左衛門がフィリピンに逃亡した際に移築したと言われている。
呂宋助左衛門が屋敷を建てた時のこと、松永久秀を招待したところ、あまりにも豪勢な屋敷に驚いた松永久秀は
刀で柱にざっくり傷をつけてしまった。
呂宋助左衛門が「なにをする!」と怒ったところ、松永久秀は
「盈つれば欠けるもの、完璧なのはかえっていかん」と言ったとか。
この柱の傷は今でも見られるらしい。

164:人間七七四年
16/10/05 17:44:42.46 YH2lTrzx.net
MTHR「ウチの嫁が不細工とか適当書いてんじゃねーYo」

165:人間七七四年
16/10/05 18:56:59.20 aJPKN53C.net
大女だったんだろ

166:人間七七四年
16/10/05 19:33:13.35 QTk5iYVv.net
>>164
お前んち、大嫌いなんだもん

167:人間七七四年
16/10/05 19:40:19.74 c3gMfmgy.net
周瑜は美人の妻を娶ったために早死にした。
一方孔明は不美人の妻を娶った。
よって孔明の方が賢かった。
というような評と同じく、むしろ元春が女色に溺れなかったことを褒めてたんじゃなかったっけ

168:人間七七四年
16/10/06 00:04:46.44 DPpI50nX.net
>>163
>「盈つれば欠けるもの、完璧なのはかえっていかん」
家光「なるほど」
藺相如「せやろか」

169:人間七七四年
16/10/06 05:33:39.65 //aE3BIv.net
>>167
留守中に浮気してないだろうか?
子供は俺の子だろうか?
悩みの種が無くならないね

170:人間七七四年
16/10/06 05:45:34.63 sSiOXkFU.net
晋恵帝「嫁が不細工な上に残虐で辛いです」

171:人間七七四年
16/10/06 13:36:49.56 JZZmnAdY.net
>>163
前田慶次にも同じ逸話があったような

172:人間七七四年
16/10/06 19:39:45.16 HlWdKe1k.net
大友義鑑が津久見美作、田口らに斬られ最後の体となった事は、早馬によって別府に湯治に出かけていた
大友義鎮へと注進され、義鎮は早急に帰還した。
義鑑にその三男到明子の擁立を勧めていた入田丹後守(親誠)は身の危険を感じ、一類を語らい己の居城に
立て籠もろうとしたが、戸次伯耆守(立花道雪)、斎藤重実の手の者がこれに追撃をかけたため、
入田は入城できず、彼は肥後国阿蘇惟豊が舅であっったので、彼を頼って落ちていった。
しかし、雨の中頼む木の元にも雨が漏っていた。惟豊は入田丹後に向かってこう言った
「あなたは御屋形様の咎を蒙り、討手を下された。
大軍を引き受け一戦を遂げ討ち死にすれば、亡き後までも面目であった。
しかし甲斐のない命が助かるために私を頼って来ることは、卑怯の至である。
代々相伝の主君に盾突いた悪逆人を、婿であるからと言って助けるべきではない。」
そして袈裟懸けに入田を斬った。
その首は豊後へと送られ、獄門に晒された。
その後、程なくして大友義鎮は、大友十八代目の探題となった。
若いが仕置宜しく、豊筑肥六ヶ国の上下万民は共に、この主君を上に戴いたことを喜んだ。
行儀作法は他国に優れ、いかなる世の末までも、誰がこれを傾けようとするだろうか。
目でたかりし世の中と成ったのである。
(大友記)
入田丹後の最後についてのお話。

173:人間七七四年
16/10/06 22:00:56.45 qLWXhDd3.net
千光禅師将来の俳優并高麗町。熊川明神
 予の封邑に、筑前から浄瑠璃歌舞伎をする者が時として来てこの技をする。
これを寺中と呼ぶ。これまでいかなる故かを知らなかった。
 そういった中で印宗和尚が、行脚で博多の聖福寺に行ったときの話をしてくれた。
『かの開山千光禅師が入宋から帰朝のとき、宋国の多くの俗人が随従した。
よって聖福寺創立の時、境内にこの人を住ませた。
今はその子孫は増え広がり、皆歌舞伎を業とし、
渡世して他邦にも行ってその事をなしている。
昔は住所を八町と言われていたが、今は四町である。
なので人は寺中と称す。』
との話であった。
 また聞いた。
かの寺中と称する者は、人賤しんで、今も結婚するのはその一画に限ると。
これ思うにその党はもと異邦の人であるからだろう。
 予の城下にも高麗町と称して、一群の人が居る所がある。
これは祖先宗静公〔式部卿法印〕(松浦鎮信)が、
朝鮮の役に虜としてかの民を多く率いて帰られたときの子孫である。
よって昔は諸士の城家に勤仕する者の食事を調うことを担当していて、至賤の者であった。
この党も他と結婚をなさない。これもまた外国を卑しんだためである。
しかし歳月を経るに従って、その子孫はこれを嫌い、段々とそのところから出て、
我が民に混じり、ついに今では朝鮮の血脈が絶えた。
ただ我が邦の賤夫はその事をもって名のみ高麗町と呼ぶ。
これをもって思えば、博多の寺中はその祖先を思っている者か。阿々。
 これによって言う。
予の領邑の陶器を、世に平戸焼と呼んで名産としている。
この器は城下から十三里の辺邑に産している。
その地の陶匠の頭を今村某と言う。すこぶる富んでいる。
この祖も朝鮮の虜である。
予が先年領内を巡見したとき、その家で憩うと、家屋も狭くなく、
庭に仮山があって樹石の好景がある。
その山の中ほどに小祠はあって、鳥居を建てて額を掛けていた。
『熊川明神』と標してあった。
 予は始め疑って、熊川(クマカハ)とはいかなる神かと問うと、
某の祖先だと答えてきた。
すぐに悟り、朝鮮人の子孫であるためかと思った。
熊川(コモカイ)は朝鮮の地名なので、その地の人であったのだ。
(甲子夜話)

174:人間七七四年
16/10/06 22:09:40.02 6txp1WuR.net
熊川ではコムチョンになると思うのだが
熊江ならコムカンでコモカイにならなくもない

175:人間七七四年
16/10/06 22:37:00.52 1rBePjzd.net
入田家の後日談
親誠の嫡男・義実(宗和)は若年につき赦され永禄末から元亀の頃(天正8年(1580年)頃説もあり)に宗麟から旧領の一部である筑前国鞍手郡若宮庄350町分を安堵された
宗麟に笠木城勤番を命じられたりするなど父のこともありながら宗麟時代はそれなりに信頼された義実だが義統時代になると俄然大友家での立場は悪化する。
天正12年から14年にかけて不仲だった戸次統貞(玄珊)の讒言によって大友義統と対立し討伐を受け居城を栂牟礼城を逃れて緩木城に移していた。
そんな義実に対して島津義弘は新納忠元を通じて宗和に寝返りを進めてきた。しかし宗和は最初「武門の素意に非ず」と断っていたが結局島津への内通を決意する。
天正14年(1586)豊薩合戦の際、南部衆の志賀親度(道益)・南志賀鑑隆(道運)や一萬田紹伝らは入田宗和主導でで島津氏に内通して大友氏の敗北に一役買った。
その後豊臣軍の豊後上陸後、宗和は岡城の志賀親次さらには豊臣秀長たちの軍に追われ豊後から薩摩に撤退し以降は日向に所領を貰い島津家臣として仕え家は斉彬や久光の時代まで続く
参考:大友宗麟のすべて(新人物往来社刊)ほか

176:人間七七四年
16/10/07 02:48:56.69 rn89lw8F.net
>>175
栂牟礼城は佐伯氏の居城だから入田の居城は津賀牟礼城の間違えだろうな

177:人間七七四年
16/10/07 03:50:54.34 L67YRt7f.net
陶興房、嫡子次郎興昌を殺すこと
陶尾張守入道全薑(隆房)は主君義隆卿を討ち果たしたことで、神明仏陀の神罰を恐れて当然となった。
さらに「養父の入道道麒(興房)が草葉の陰で怒っているだろう」と噂され、
隆房は先々のことが恐ろしくなった。
かつて道麒入道には次郎という一人の子がいて、器量骨柄も世に優れ、実にすばらしい若侍だった。
しかし、ややもすれば自分の才能を鼻にかけ、義隆卿を見かけると
「隋の煬帝の詩にでも出てきそうな大将だな。
この人は武士が主君と仰ぐべき大将ではない。
出家くずれか流浪の公家のようなことばかりしているではないか」と、眉をひそめて嘲笑っていた。
父の道麒入道は、「嫡子の次郎は武も文も全備しているし、
そのほかの芸能の道も、弓馬は達者、乱舞にも堪能、
詩歌・管弦に至るまで、人間がたしなむべき道では一つとして劣ったものなどない。
このような末法の世には稀有な才能だ。
しかし自身が勇ましく熟慮できるからといって、それを鼻にかけ、
主君の義隆卿を何かにつけて侮っているようだ。
これは非常にまずい。天の呵責を受けることになろう。
『春秋左氏伝』にも、『内では君主の過ちを諫め、外では君主のすばらしさを称揚するものだ』
と書いてあるというのに、次郎の振る舞いときたら、この入道の心にはまったく適わない。
きっと将来、義隆卿の政道にほんの少しでも私情が入れば、
次郎は大いに恨みを抱いて、いつか復讐しようとするかもしれない。
まったくどうしたものか」と嫡子次郎を評価しつつも行末を憂慮していた。
そんな折、越前から幸若太夫が下向してきたので義隆卿は非常に喜んでもてなし、「烏帽子折」を所望した。
太夫が広縁で手拍子を打ちながら舞うと、
聞いていた人々は貴人も賤民も皆感動にたまりかねて涙で袖を濡らした。
道麒入道は宿に帰ると次郎に「おまえはいつも舞を好んで舞っている。幸若の音曲を学んでみるか」と問うた。
次郎は「私が幸若を真似るのは、実にカラスがカラスの真似をするようなものですが、
父の命であれば、似せて舞ってみましょう」と扇を手に取り、手拍子を打って舞った。
次郎の舞は、先の幸若太夫の舞よりもさらに趣深いものだった。
父の道麒入道も、「わが子ながら、なんと器用なものだろう」と感心したが、
これでさらに主君のことをないがしろに言うようになるのではと懸念を深めた。
またそのころ、大明国から義隆卿に書簡が届いた。
義隆卿は香積寺・国清寺などの長老西堂を呼び集め、その書簡を訳させた。
その末座に陶次郎も列席していたので、父の道麒入道は自宅に帰ってから次郎を呼び寄せ、
「おまえは今日の書簡の内容をだいたい覚えているか」と問いかけた。
次郎は父に「末座で一度聞いたところで覚えられるわけがないでしょう。
しかし推量で内容を当ててみましょう」と言って墨をすり、サラサラと書き始めた。結果、一字一句の間違いもなかった。
入道が「それを読んでみなさい」と言うと、次郎は立て板に水を流すかのように読み進める。
父の入道は、「次郎は人ではないのかもしれない。菅原道真の再来なのだろうか」と、ただ呆然としていた。

178:人間七七四年
16/10/07 03:51:21.12 L67YRt7f.net
その後も道麒入道は注意を払って次郎を観察していたが、次郎の器用才芸にはさらに磨きがかかり、
また義隆卿を軽んじるような考え方もやめなかった。
道麒入道は、「次郎は将来、義隆卿を侮って主従の礼を乱し、
大内家の頭痛の種になるかもしれない。
主君の御ためを思えば、わが子など取るに足らない」と考え、ひそかに次郎に毒を飲ませた。
この為に次郎は十五歳になった春のころに、哀れにも亡くなってしまった。
その後陶道麒入道は、問田紀伊守の嫡子を養子として、五郎隆房と名乗らせた。
道麒にとっては妹の子に当たるので、養嗣子にむかえたとのことだ。
道麒入道は十六歳から屋形に近侍し、最後まで他家には見向きもしなかったそうだ。
『礼記』に「人の臣下となっては外に交わることなく、二君に見えることなし」と書かれているのも、
この入道の生涯と同じことである。
道麒入道は、主君に対して二心を抱かなかったために、
可愛がって大事に育てたたった一人の子を殺し、忠節を尽くした。
これは異国にも稀なことだろう。我が国でも聞いたことすらない。
それというのに、当代の隆房は義隆卿に恨みを抱いて反逆を企て、
ついに主君を討ち果たしてしまった。
それどころか、摂政関白殿をはじめとして多くの公卿を討ち、悪逆の限りを尽くした。
そのため神の怒りに触れてたちまち天罰を蒙るばかりか、
亡父の道麒入道の怒りも深く、不孝の罪を免れないだろう。
陶の行く末は恐ろしいことになりそうだと思わない者はいなかった。
(陰徳記)

179:人間七七四年
16/10/07 04:22:53.06 L67YRt7f.net
ちなみにこの陶次郎興昌の墓は陶家の居館から程近い海印寺(山口県周南市上横矢)に有り、父興房の次兄・興明の墓と並んでおり、1529年(享禄二年)25歳で亡くなったと記されている。
また、興房の兄興明は長兄武護出奔後に陶家の家督を継いだものの、その後出戻った武護に殺害され家督を奪われており、この海印寺には二代続いて陶家当主の兄の墓が並んでいる。
興房の兄の事は陶家だけでなく、大内家中の様々な内部抗争も絡んでそうで、隆房とYSTKの事と言い大大名のお家の内部事情って大変だなと思った今日この頃

180:人間七七四年
16/10/07 07:45:34.37 L67YRt7f.net
義隆先輩「お前の事好きだったんだよ」
次郎「やめてくれよ…(絶望)」
義隆先輩「」
興房「…次郎、茶しかないけど良いかな?(サーッ)」
痴情のもつれだったに100義隆

181:人間七七四年
16/10/07 11:51:42.07 WHtokoA7.net
へー隆房って養子だったんだ
子孫が養子に罪を擦り付けたのかと思った

182:人間七七四年
16/10/07 12:21:42.78 BPF3ObJe.net
陰徳記やからなぁ

183:人間七七四年
16/10/07 19:08:46.94 6k9oMf0i.net
天正6年(1578)3月、大友家は評定によって、日向に侵攻した島津勢に対する攻撃を決定し、支配下の国々に
その旨を伝達した。
この決定以降、大友一門や重臣の面々は日夜あちらこちらで寄り合い、会合を設け珍膳を尽くした饗宴ばかり
行い、また茶の湯の会、酒宴と暇もない有様であった。これは彼らが、大友家の武運が徐々に傾いていることを
理解していたので、それぞれ討ち死にして生前の報恩として、死を以って報いようと一途に思い定め、
その最期の名残として、このような宴を設けたのだと言われた。
こうして大友宗麟は3万5千3百の軍勢にて豊後府中から出陣した。
そして、まず戦場に向かう門出であると、豊後一宮である柞原八幡宮に「矢を一筋奉れ」と命じた。
すると足軽2,3百が打ち出て弓鉄砲を揃えて、八幡宮に射かけた。
また行軍中、道の悪しき場所では仏神の尊容を取り壊して、これを踏んで通るようにさせた。
これらは前代未聞の悪行である。
いにしえ、高師泰は石川河原に陣取り楠を攻めた時、彼の配下の悪逆無道の者共が仏塔の九輪を外して
帷子に鋳たという。
また延文四年の夏の頃、畠山入道が楠を攻めた時は、その奴たちが神社仏閣に乱入し神宝を奪ったという。
この時の狼藉はもはや制止がきかず、獅子や狛犬も打ち割られ薪にされ、仏教典は売り飛ばされ
その代金で魚鳥を購入したそうだが、これなどは師泰の悪行に百倍する稀代の罪業であると書き残されている。
しかしこの度の大友勢のやったことは、それと比べてすら千倍する。浅はかというのも愚かである。
心無い者はこのような悪行に却って勇んだが、智有る者達はこの行為を恐れ、
「今度の合戦ははかばかしく成らないだろう。」
そう囁き合ったという。
(大友記)
耳川の戦いに至る大友軍の日向出陣について


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