戦国ちょっと悪い話44 at SENGOKU
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50:人間七七四年
16/09/01 19:03:25.11 szwZYy7K.net
将軍秀忠の娘(千姫)と豊臣秀頼との婚姻の沙汰有り、この執成を行ったのは加藤肥後守清正であった。
肥後守はこの当時、肥後熊本に在城して本知行70万石、御預り地24万石を支配し、誠に秀頼にとって
補佐の臣であった。
この姫君が大阪に輿を入れた後、暫くの間は天下無為の思いをなした。
このお輿入れは慶長8年7月28日という説があり、また慶長10年7月28日だったともいうが、これらは共に
妄説である。徳川家の実録によると千姫のお輿入れ慶長13年7月28日、輿添は池田輝政、浅野幸長とある。
しかしこの時豊臣秀頼は、関東(幕府)の仕方を悪み、そのため御台所とも不和であり、淀殿も後々には
対面すらしなくなった。この事は関東が、豊臣家に対する感情を悪化させる最初の出来事であった。
加藤清正は秀頼と千姫の不和を聞くと大いに嘆き、数ヶ条の言葉を以って諫言をしたが、秀頼は
全くその意見を聞かなかった。そしてこれは、大阪が社稷を失う基となったのである。
(慶元記)

51:人間七七四年
16/09/02 00:05:46.39 TDgDkPzi.net
>>49
森家ってあの森家?

52:人間七七四年
16/09/02 09:24:33.24 HDiKfvez.net
>>51
先代実録自体はいろんな書からの集成なんで(家記は大体そうだけど)
森家自体の話ではなくて森家が入った津山の地元の侍の話ね

53:人間七七四年
16/09/02 12:44:19.68 lZSj8fMP.net
大阪御城明ずの間の事
 大阪の御城内、御城代の居所の中に開かずの間というところがある。
この所は大きな廊下の側にある。ここは五月落城のときより閉じたままで、今まで一度も開いたことがないという。
よって代々のことなので、もし戸に損じがあれば版をもってこれを補い、開かざることとなし置くという。
 ここは落城のとき宮中婦女の生害された所という。
この故か、後になおその幽魂が残ってここに入る者があれば必ず変禍をなす事がある。
またその前にある廊下で臥す者は怪異に遇うともいう。
 観世新九郎の弟宗三郎、かの家伎のことによって、稲場丹州が御城代であったときに彼に付き従った。
ある日丹州の宴席に随って酒を飲み、覚えずかの廊下に酔い臥せった。
翌日丹州に
「昨夜、怪しいことはなかったか」
と問われたが宗三郎は覚えがないと答えた。
「さらばよし。ここはもし臥す者があれば異変が出る。お前は元来このことを知らなかった。
なので冥霊も許したのだろう。」
と言われると、宗三郎は聞いて初めて怖れて、戦慄居る所を知らなかった。
 また宗三郎の物語に
ある天気が快晴のとき、かの室を戸の隙間から窺がい見るとその奥に蚊帳と思しきものが
半ば外し、半ば鈎にかかっているものがほのかに見えた。
また半挿のようなもの、その他の器物が複数取り散らかしている体に見えた。
しかし数年久しく陰閉の所なので、ただその状態を察するのみであったという。
 いかにも身の毛が立つ話である。
また御城代の某侯、その権威でここを開いたことがあったが、たちまち狂を発せられて止めたという話も聞く。誰であったのだろうか。
 このことを林述斎に話せば大笑いして
「今の大坂城は豊臣氏の旧に非ず。偃武の後に築き改められた。まして家屋の類は勿論皆後の物である。
総じて世に流れる造説には実らしいこと多いものである。
その城代である人も旧事詮索しただけであろう、徒に斉東野人の語を信じて伝えるのは、気の毒千万である。」
という。
 
 林氏の説もまた勿論である。しかし世には意外の実跡もある。
また暗記の言は的証ともなしがたいものだ。
ゆえにここに両端を叩いて後、定めを待つ。
(甲子夜話)

54:人間七七四年
16/09/02 16:12:38.73 aSA/depL.net
>>53
なんだこの冷静な作者はw

55:人間七七四年
16/09/03 10:00:07.73 K223baAA.net
方広寺鐘銘事件について、難波戦記、片桐伝記、北川覚書などに記される所によると、
これが幕府から豊臣家を咎めた第一の理由であり、大坂の陣はこの事を理由に起こったように
記せられている。これは甚だしい妄説である。
幕府が片桐且元を召して告げた七ヶ条の御難題と、鐘銘事件は関係がない。
もちろんその七ヶ条の末の一ヶ条に、鐘銘に関東呪詛の文有りとの文言があるが、この事について
強く諌めてはいない。
いまここに、この鐘銘について記しているのは、世の人々皆が、この鐘銘より兵乱が起こったという説を
疑わず、童すらそう知っているためである。
この鐘銘の草案は前年の冬、片桐且元より本多佐渡守に遣わされ、「何か問題が有ればすぐに伝えてほしい」と
言いおかれている。しかしあえて供養の日に至って、板倉勝重より「関東調伏の文有りし故、供養は
延期するように」とその停止を求めた。これは本多正信、板倉勝重らの謀臣がこのように謀ったのでは
ないだろうか?
その奥意は深く計り難い。
(慶元記)

56:人間七七四年
16/09/03 19:52:23.95 wB+53SAg.net
今でも通説だよね

57:人間七七四年
16/09/03 19:54:56.38 AJFlgTjl.net
>>45のレスを見て思ったけど坂崎出羽守って歩く爆弾みたいなものだな
・宇喜多秀家(宇喜多騒動で家臣激減。関ケ原敗北で八丈島配流。ある意味直盛による最大の被害者)
・中村九郎兵衛(加賀前田家出身。宇喜多家執政。大坂で直盛に襲撃されて加賀へ逃亡)
・宇喜多忠家(息子が起こした騒動のせいで宇喜多家を退転隠棲する羽目になる)
・富田信高(直盛甥隠匿事件で改易に追い込まれた人その1)
・佐野信吉(富田信高の弟。直盛甥隠匿事件で改易に追い込まれた人その2)
・高橋元種(秋月種実の子。直盛のせいで改易に追い込まれた人その3)
以上は坂崎直盛被害者の会と言っていいと思う
その他
・千姫(直盛の逆恨みで襲撃されそうになった人)
・本多忠刻(忠勝の孫。小松姫の甥。千姫の再婚相手。直盛のとばっちりを受けそうになった人)
・立花宗茂(西国無双。千姫奪取未遂事件時に直盛の乱鎮圧の計策をひねり出したのはこの人らしい)
・柳生宗矩(宗茂の計策を胸に直盛を説得し切腹に追い込み乱を鎮める。二枚笠紋を直盛から譲られる)
・小野寺義道(元・出羽横手城主。直盛に恩義を感じ直盛十三回忌時に墓を建立)
・明石全登(大坂城七将星。元・宇喜多家客分。キリシタンになったのは直盛の勧めという)

58:人間七七四年
16/09/04 10:31:28.65 dE41Oe15.net
南部の地を仙台侵せしときのこと并侵地の広さ
奥州の南部の人がいる。
今青山大膳侯の家臣である。岡本祐助と称す。
彼は予の小臣の小楠十乃助なる者に以下の事を語った。
「南部侯の領内は広々と開けているので、
昔はあたかも限りが知れないと思われるほどの地であった。
ある頃の主は幼稚であったので、
隣接していた主の政宗とやらが、
徐々に領界の傍示を南部領へ移し立て、
仙台領を広めて、ついに大河がある辺りまで領境を及ぼした。
南部では大いに驚いたが、幸いにしてその河辺りに大洞窟があったのでそれを拠点にして、
この中に人衆を屯し弓銃を備え、仙台から人が来たら防御を専らとするようにしたら、
仙台の侵奪が止んだ。
今なおその穴の中に従卒を三十人ほど置いていて、
古昔からそのことは替わっていない。
なので今に至っても、交守して長城の塞兵の如しである。」
また言う。
「かの河向かいの、かつて仙台が侵略した地はおよそ二十万石とか。
今、目で全てを見渡すことができない大広田である。
今その所には、仙台侯の土着の士が多い。
それなのに南部侯の領有の地名を苗字にする者がいるのは、
彼らはかつて南部から仙台に従った、不義の輩であろう。」
以上は小人の話なので、実否は疑わしい。
(甲子夜話三篇)
バス停コピペを思い出す

59:人間七七四年
16/09/05 12:22:55.41 A8Sc2ruY.net
本にすると面白いね

60:人間七七四年
16/09/05 13:31:03.55 WluS7hFV.net
初対面の額を平手打ちして激昂した相手に仕返しされる逸話が好き

61:人間七七四年
16/09/05 13:32:33.87 vV2TbTzk.net
政宗の逸話はしょうがねえなーって感想ばかりだw

62:人間七七四年
16/09/05 22:35:33.44 ZYCSMBwN.net
>>58
なんかほのぼのとしてワロタw

63:人間七七四年
16/09/08 08:59:52.56 Zv8WSUbD.net
須賀川の城落つる事

二階堂盛義の正室大乗院(一般には阿南姫と呼ばれる)は夫の盛義と次男の行親が相次いで
没したため、天正10年(1582年)から須賀川城主となっていた。
阿南姫は伊達晴宗の長女で政宗から見れば伯母にあたる人物だが
蘆名盛隆(実は蘆名氏に養子に入った阿南姫の長男)とその子が没したときに
伊達側が政宗の弟小次郎を養子に送り込もうと画策し失敗したことが
禍根となり伊達家とは絶縁状態であった。
天正17(1589)年、伊達政宗が摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼした後
親蘆名だった二階堂家の須賀川城にも数日中に攻め寄せる風聞が立った。
評定の席で家臣たちが阿南に
「伯母なのだからきっと悪いようにはしない(命は助けてくれる)でしょう」
と降伏をすすめると阿南は
「いや、そうではない。はかない女の身ながら一途に思い入れていることがある。
我が身が盛義と離れてから九年になるが、思うようにならず暮らしていたところを
田村清顕が浅ましくも小倉・松ヶ鳥屋に押し寄せてきて河東の郷を奪い取ろうとし
防戦したとは言え関河内まで難なく清顕が入ってきたとき、嬉しいことに
佐竹義重が大軍を後詰めに出してくれたため清顕を追い返すことが出来たのだ。
松ヶ鳥屋のあたりを今まで無事に領しているのはひとえに義重のおかげである」
「我が身を安々と政宗が手中に収めてしまえば、仙道筋の諸将であの者に逆らおうと
する者はいなくなるだろう。そうなれば横柄な政宗は上見ぬ鷲の挙動してすぐにも
義重に仇をなすだろう。我が身だけはせめて一日でも歯向かい義重の恩に報いたいのだ」
と訴えた後、重恩の郎党共を召し寄せて
「風聞通りなら間もなく政宗が大軍で押し寄せてくるだろう。そうなれば多勢に無勢の習いで
安々とこの城は落ち甲斐なく討たれることは必定だろう。また命を惜しみいずこへ落ち延びたところで
草葉を分けて探しだされ妻や子どもにさらに憂き目を見せるだけになるのではないか。
ここはそれぞれ思うように降り政宗に奉公してほしい。少しも恨むことはない」
「我が身は女ながらも思うことがあるので、一人でもこの城でこらえて政宗が寄せてくるのを
待って自害する。冥途まで一緒にと思う者は伴をせよ。そうでない者は暇を得させよう」
と目を涙でいっぱいにして訴えたので、そこにいた家臣たちも袂を顔に押し当ててしばらく
涙に咽んでいたが、少しあってから
「そこまで思い定めなさっているのに、誰が恩を忘れ見捨てることがあるでしょうか。
たとえどのようなことになってもまず私達が討死してからの御身のことだと思って下さい」
と頼もしげに言ったので、阿南もとても嬉しそうにしていた。

64:人間七七四年
16/09/08 09:00:44.01 Zv8WSUbD.net
しかし政宗が侵攻してくるという沙汰が頻繁になってくるといつしか家臣同士も不和となり
早くも降る人間も出始め、重臣の守屋筑後守も伊達側と裏切りの密約を交わした。
侵攻してきた政宗は、敵側の死狂いに味方が駆り立てられ死傷者が増えるので攻めあぐねていたが
そこで守屋が自分の指物を抜いて部下に合図し長祿寺という禅寺の便所に火を付けさせたところ
西風が激しく吹き城中の役所に燃え移り四方に焔を吹いて軒を連ねた舘共々、炎上した。
阿南はこの成り行きを見て守屋の謀反を悟り、城中にいた守屋の妻を呼んで
「守屋め、譜代重恩の身を忘れこのようなことをするとは情けない」
と言ってさめざめと泣いたので、守屋の妻は応えて
「まことお恨みの程、愚かな我が身にもこれ以上はないと思います。この上は
御胸を晴らす為に某をどのようにでもしてください、露ほども恨みはしません」
と涙ながらに言ったので、腹をすえかねた阿南が襟を掴み刺し殺そうとすると
流石に女の儚さでそばにいた女房が袂に取り付いて妨げたので、阿南は小刀で
自害しようとし、大勢でとどめることになった。
その後政宗の元から迎えの人間が十四、五人来たので女房八人侍九人が阿南に付き添って
炎の中から泣く泣く出てきたことは、哀れといえるだろう。
―『会津四家合考』
その後阿南は政宗によって保護されたが伊達側が用意した食事には手を付けず、政宗のことを嫌って
甥の岩城常隆を頼ったが常隆が亡くなると、さらに甥の佐竹義宣の下に身を寄せた。
慶長7(1602)年佐竹家の転封に伴い出羽国に赴く途中、須賀川付近で病を得て亡くなったという。

65:人間七七四年
16/09/08 14:06:48.26 jEld/eEc.net
>>63-64
嫌になるぐらいリアルだ…現実は小説や映画のようにかっこよくはいかないなぁ…。

66:人間七七四年
16/09/10 07:36:06.71 jkkgXYN4.net
佐竹義宣が石田三成と親しかったのは、理由の有ることであった。
常陸国には三十三館(南方三十三館)といって、名家の末があったら、年来義宣の下知に
従おうとしなかった。石田三成は関白秀吉の覚えめでたい人物であったので、義宣はこの人に
付いて「三十三館の者共が、関白の仰せを軽んじています。」と訴えた。
三成は秀吉の側にあり、これを取り次ぐと、秀吉は「下知に背くものは尽く誅すべし。」と
仰せ下した。
義宣はこれを受け、三十三館の者達を招き寄せると、そこに武士を伏せておき、尽くこれを殺した。
そして彼らの城々に討手を遣わしてその一党を攻め滅ぼし、所領尽く併呑した。
関ヶ原の後、佐竹は出羽国に転封となった。
この時佐竹家臣の群馬丹波守猛虎という者は義宣を諌めた
「君にはどうして、唯々諾々と先祖伝来の地を他人に渡されるのですか!?
ここには恩顧普代の侍が5万人あり、兵糧の蓄えも、10年ほどは不足しません。
さらに、この城(水戸城)は要害堅固であり、天下の兵を集めて攻められたとしても、
一気に落とされるようなことはありません!
しかし一旦ここを去ってしまえば、もうどうにも出来なくなるではありませんか。」
しかし義宣は言った
「お前の言葉は理あるに似ている。だがな、佐竹義久が内府のことを天の許せる英雄であると言ったのは
違っていなかった。
私は先に、三十三館の者たちを滅ぼし、その領地を尽く取り上げた。
今日、私に従っている者達の中には、その親族遺臣が少なからず居るが、彼らが背き離れようとしないのは
私を畏れるためではない。内府の威を憚っているからだ。
お前は私のために命を惜しまぬと言うが、どうしてかつての仇敵に縁のある人々を率いて、
天の許せる人に歯向かうことが出来るだろうか?戦が始まる前に、内乱が起こればそれこを
どうしようもなくなる。」
こうして、佐竹義宣は七十余騎のを率いて累代の地を去り、秋田城へと入った。
しかし群馬丹波守猛虎は
「よしよし、大腰抜けの大将の手に従って、何の功があるだろうか!我のやり方を見よ!」
そう言って手の者を率いて旧領に立ち返り、徳川家の代官を夜討ちしようとしたが、事表れて
捕縛され斬られた。
(話園)

67:人間七七四年
16/09/10 08:06:35.79 nMnnQhTV.net
車か

68:人間七七四年
16/09/10 10:01:45.01 FHiD7+jV.net
団吉さんの先祖か

69:人間七七四年
16/09/10 11:36:58.85 6O+I42Iv.net
猛虎魂を感じる

70:人間七七四年
16/09/10 12:10:51.78 FIfw/Yj9.net
ほんの10年前に小田原城ですら籠城諦めたというのに

71:人間七七四年
16/09/10 16:13:41.82 CLzpJJzs.net
勝てるわけねーw

72:人間七七四年
16/09/10 17:58:44.42 eb/flYs6.net
大坂から遠征してきた秀吉ですらあの破壊力なのに、江戸を本拠にしてる徳川に逆らうとか滅亡確実やんか

73:人間七七四年
16/09/10 20:19:46.69 VXkU+es6.net
片目の人「領土拡張のワンチャンあるでwww」

74:人間七七四年
16/09/12 00:02:56.43 LvRoFsZ9.net
三方ヶ原の戦いの後、武田信玄によって行われた野田城攻め、この戦いの中である夜、
武田方は不意に城を乗っ取ろうと寄せてきた。
野田城中ではこれに気がつくと、敵が近づくのを見計らい。弓鉄砲を一斉に放ち、近づいて
塀に取り付くものには大木を使って突き落とし、必死の防御をした。
ここに、小楠又右衛門という者が野田城南の曲輪を守っていたが、敵がそこに攻めてくるのを見ると、
彼は女房に矢櫃を持たせ、矢継ぎ早に敵に射かけた。彼は弓術の達人であり、あだ矢なく
射続けたが、遂に矢種が尽きてしまった。
ところがここで、矢櫃を持っていた又右衛門の女房(彼女は無双の大力であった)が大石を
礫のように投げ下ろした。これによって、敵には兜の鉢を打ち割られた者、或いは手足を
打ち折られた者が夥しく、慌てて引き退いたという。
(野田戦記)
敵の矢が尽きたと思ったら女ドンキーコングが居たでござるの巻

75:人間七七四年
16/09/12 00:11:04.55 Ml1ss3zT.net
矢の方がましだったでござる

76:人間七七四年
16/09/12 13:19:51.55 BBC0j9Np.net
>>66 悪名高い三十三館のだまし討ちですね。

77:人間七七四年
16/09/12 17:17:18.94 d/81xp/w.net
>>74
大石ってのが凄いなw

78:人間七七四年
16/09/12 18:14:36.53 bVa6Ctst.net
巨石じゃないけど…そんなにすごいの?

79:人間七七四年
16/09/13 01:17:27.18 Q/4NsHvX.net
人間の骨が折れるってことは最低でも大きめの漬物石くらいはあるな

80:人間七七四年
16/09/13 16:32:21.63 u8uFI+D3.net
大坂御城中、深夜には殺気ある事
新庄駿河守直規というのは〔常州麻生領主、一万石〕予の縁家で活達直情な人である。
寛政中、抜擢されて大番頭となった。
彼の話に、大坂在番に行って、御城中に居ると深夜などは騒々しい音がある。
松風かと戸を開いて聞くと、そうではなく正しく人馬喧乱争の声を遠く聞くようである。
しばらくすると止むが、時々このような事がある。
大坂の合戦で戦没の人の魂気が残っているためだと伝わっている。
予は奇聞と思い、その後在番した人に問うと、その事は知らないと言う。
駿州はでたらめを言う人ではない。
心無い輩は何事も気づかないのであろうか。
(甲子夜話)

どうやら、静山さんは洒落の通じない人は気に食わないようです

81:人間七七四年
16/09/16 00:06:48.75 SRMLoQW2.net
武田信玄に攻められていた三河野田城に籠城する者の中に、村松芳休(一節に法休)という者があった。
彼は伊勢国山田の出身で、笛の名人(異名を小笛芳休といった)であった。
この者、武田軍に包囲された野田城にあって、毎夜櫓に上って笛を吹いた。寄せ手の諸将も
これを聞いて、大いに感じ入ったと云う。
ある夜、芳休が例のごとく笛を吹き、その妙を極めた。この時武田信玄が陣廻りをしていて
この笛の音を聞き
「優しくも、明日を限りと覚悟して吹いているように感じる。しかし当世の笛の上手の中で、
これに過ぎる者があろうか。」
そう語ると、矢文を城中に射込ませた。その上書きには『笛の殿へ参る』と書かれていた。
その内容はどのようなものであったか、今に伝わっていない。きっと笛の妙技を賞美したのであろう。
菅沼家譜によると、この村松芳休が毎夜笛を吹き、敵もこれに聞き入る中、2月9日、竹を立て
紙を張り巡らせた中で堀端にて笛を聞く者が居た。これを鳥居三左衛門が訝り、この竹を目印にして
鉄砲を仕掛けおいた。
その夜、芳休がまた笛を吹くと、あの竹のあたりに人声が聞こえた。鳥居は敵が笛の音を聞きに
現れたことを知って、矢場より鉄砲を撃った。目当ての竹のあたりで、「大将が撃たれた!」と
叫ぶ声が上がり、敵陣は暫くの間驚動した。この時の鉄砲は、信玄に当たったのだと言い伝わる。
(野田戦記)

82:人間七七四年
16/09/16 10:12:01.06 NIv0BKyK.net
尼子政久「無粋なやつめ」

83:人間七七四年
16/09/16 11:09:41.21 BKFh2dMD.net
三村家親「まったくだぜ」

84:人間七七四年
16/09/16 13:36:01.71 B78Kd0Cs.net
神祖御山駕銃丸之細聞
前に、今の林祭酒(述斎)が日光御蔵にある神祖の御山駕籠を拝見されたときに、
この御駕籠の屋根から銃丸を見下ろしに打ち貫いてあることを知った。
何者がかかる非逆の所為をしたのかとの念が止まらなかったところに、
近頃宗耕にこの事いかんと問うと、以下の話をしてくれた。
「『武徳大成』には、
慶長十九寅年十月二十一日、彦根松原で神祖の御駕籠へ鉄砲を打ち入れた者がいた。
御目付山本新五右衛門が吟味したところ、
真田の家来の日下部五郎左衛門と申す者によることだとことであった。」
との記述があるらしい。
これによれば、大坂御陣のときと見える。
真田の奸計は、これに始まらないことであるが、彦根の松原は御味方随一の地であるのに、
ここにガマリをこのように出してきたのは、流石真田である。
されども御当家の御剛運は、神明諸仏も加護があるので、
いかに真田といえどもとても及ぶ所ではない。
そのうえおかしいことに、このように打ち損じたら人々は驚いてすぐ捜索するというのに、
日下部は木の上に居たので、逃げ遁れることも叶わずすぐに生け捕らえられたということだ。
筆記するだけでも笑えてくるのは、しかたのないことだ。
喜々粲々
(甲子夜話三篇)

85:人間七七四年
16/09/16 21:05:01.80 SRMLoQW2.net
天正18年、徳川家康の関東入国にあたり、家康は彦坂元正を派遣して菅沼定盈にその所領分限を尋ねた。
その頃定盈は東三河でも2,3を争う大身であったのだが、課役の重くなるのを恐れ、彦坂元正と相談の上
所領三千貫(三千貫とあるが三千石の誤りか)と言上した。
ところが、却って本知行の3倍、一万石を賜り、上野国阿保(一節に阿布)に移った。
菅沼定盈は阿保において隠居し、家督を嫡子新八郎定仍に譲った後、定仍に与えられた伊勢長島において
慶長九年七月十八日、六三歳にて逝去した。

(野田戦記)
軍役が嫌で所領少なめに申告したらその三倍もらっちゃったでござるの巻

86:人間七七四年
16/09/16 22:41:53.10 3G+Fzqpe.net
三千貫なら一万石でだいたい合ってる気もする

87:人間七七四年
16/09/17 00:25:27.25 iAZnnAm7.net
方広寺大仏殿開帳(天保三年,1832年)のとき、
京都を通行した者が来て、そこで聞いた話をしてくれた。
かの大仏の宮の殿内、宝物を置いた間が所々ある中で、
書院の縁側、幅二間長さ十間ばかりの所の板天井に
血がついた手の跡、足形、またはすべったかとみえる痕がある。
その色赤いのもある。黒づいているのもある。
板天井一面がこのようである。
人に伝わっているところでは、
昔関白秀次生害のとき、随従の人が腹切り刺違えなどして死んだときの
板敷の板を、後に天井板にしたものという。
(甲子夜話続編)

88:人間七七四年
16/09/20 20:41:46.34 b/22oOZi.net
元和元年、大阪夏の陣でのこと。
5月6日朝、菅沼定芳の属する本多忠政隊は、道明寺口にて大阪方の後藤又兵衛基次、薄田隼人正兼相、
井上小左衛門時利たちの部隊と戦った。
菅沼定芳の家臣である菅沼権右衛門定栄は、騎馬武者30人ばかり預り、大阪方の侍大将、
井上小左衛門時利と渡り合い、互いに組み合いとなった。
井上時利は剛強なる者であり、定栄を組み敷きまさに首を取らんとした。
この時菅沼定栄の若党が気が付き、急ぎ駆け付けたが、時利も定栄も同じ毛の物具を着けていたため
見分けがつかず、大声で聞いた
「菅沼権右衛門は上か、下か!?」
ところが両人同時に答えた
「上だ!」「下だ!」
これに若党は、何れが自分の主人なのかと狼狽えた。しかし下に居た菅沼定栄が叫んだ
「声で聞き取れ馬鹿者め!!」
この言葉で若党は気付き、すぐさま井上時利を斬りつけた。
流石剛勇の時利もこれに怯んだ所を、主従力を合わせて彼の首を取った。
(菅沼勲功記)

89:人間七七四年
16/09/21 10:33:11.80 8ubvevsu.net
後藤基次「そこはニヤニヤしながら眺めなされ」

90:人間七七四年
16/09/21 18:43:13.55 yeydsKu6.net
「この口の悪さ、殿様に違いねえ!」

91:人間七七四年
16/09/21 19:10:03.72 tHBPXEBD.net
うまいな

92:人間七七四年
16/09/21 22:42:00.20 vph+TqPt.net
スタートレックのカーク船長であったな
こんなシーン

93:人間七七四年
16/09/22 14:26:37.91 Dv6EZXBZ.net
天文22年、阿波守護である徳雲院様(細川持隆)は腹立ちの事があり、奉行人の四宮与吉兵衛という者と
談合し、
『三好実休を相撲があると知らせ呼び寄せ、討ち果たそう』
そう仰せに成った。この時、相談相手の四宮与吉兵衛が実休に返り忠をしているとは、持隆は夢にも
知らなかった。
持隆は用心もなく勝端の町の北の河端に、龍音寺という寺が在ったが、そこに遊山に出かけた所、
実休は上郡の人数二千を呼び寄せこの付近に集結させた。
これを知った持隆は肝を潰し、そこから堅昌寺という寺に移ったが、お供の者達は藪へ隠れ方々に
逃散して、最後には星相殿と蓮池清助という者の2人のみがお供をしているという有様であった。
ここで実休は持隆の無道を悪み、「たった今、お腹を召されよ」と申し付け、これにより
星相殿が介錯をして切腹された。蓮池清助という者は不肖者ではあったが、常々持隆の悪しき点を
申し上げ諫言していたため、御意に違い御扶持も枯れ枯れの状態であったにもかかわらず、
「お供申す」と立ち腹を切って果てた。この清助の最後を褒めぬ者は居なかった。
実休はこの後、返り忠をした四宮与吉兵衛知行を与えたが、1年間召し使った後に成敗した。
この時実休はこう言った
「どんな身の上であっても、表裏して主君を果たした事は、悪きことである。」
この処分を人々は褒め称え、また四宮与吉兵衛を悪まぬ者はいなかった。
(三好記)

94:人間七七四年
16/09/22 20:13:44.66 5ZQAlpas.net
>「どんな身の上であっても、表裏して主君を果たした事は、悪きことである。」
爆弾正「果たしてそうでござろうか?」

95:人間七七四年
16/09/22 21:11:25.97 aXC+X0IO.net
持隆の側室を妻にした下剋上男が何を言うか

96:人間七七四年
16/09/22 21:29:35.60 SBZd/A5r.net
今発売中の別冊宝島「戦国史を動かした武将の書簡」というものに、武将の手紙が
カラー写真で載っている。文章は知っていたが、手紙そのものをカラーで見るのは初めてのものも
多い。その中で、ちょっと悪いかもしれない話。
原 文「唯今虫けらのやうなる子ども候」
        ↓
口語訳「虫けらのような分別のない庶子がいる」
虫けら呼ばわりだが、原文の手紙を見ると、年少の子どもなので
「まだ小さくて、物事の分別がつかない虫のような子どもたち」という、気の毒に思っている
ニュアンスがある。

97:人間七七四年
16/09/22 23:41:33.75 aXC+X0IO.net
元就「虫けらのくせに立場をわきまえないから家騒動や謀叛が起きるんだよ。

98:人間七七四年
16/09/23 07:35:19.39 oEw7Rsfg.net
小早川隆景>>>>>>>>吉川元春>>>>
穂井田元清>>>>>>テルの父

99:人間七七四年
16/09/23 12:29:28.42 v51T/mcu.net
虫けらの子孫が毛利の嫡流になるとは
思っても居ない元就でした

100:人間七七四年
16/09/24 00:59:13.74 JPViE3/E.net
【山口】裏表のない「正直ヒラメ」発見 体の両面が茶褐色 萩博物館で25日まで展示 [無断転載禁止]
コレは山口だが、まーくんの「両側が表の魚」の逸話はこういう魚を使ったんだろうな。
よく見つかったもんだ。

101:人間七七四年
16/09/24 05:46:27.15 MebFjYs2.net
3人が結束すれば、3本の矢のようにと、先祖の遺書を読み上げて訓示するが、
虫けらのことは伏せとく情報操作。

102:人間七七四年
16/09/24 06:25:36.41 O5X/52cq.net
>>101
広島城の二の丸にその虫けら云々ぬ手紙展示してあった気がする

103:人間七七四年
16/09/24 06:59:51.42 O5X/52cq.net
一休さんと次休さん
大永四年(1524年)、大内義興が嫡男義隆らと共に2万の兵を持って尼子経久に属する安芸の諸勢力を攻めた時の事。
安芸の守護武田光和が篭る銀山城を陶道麒(興房)と包囲した義隆であったが、堅固な銀山城の前に城攻めが長引いていた。
そんなある日、義隆は諸軍に備えを解かぬ様固く申し付けると、道麒を誘い根の次休蔵主の旧跡を見に土地の古老を道案内として出掛けた。
山を越え、谷を深く下り、道も細く丸木の橋も朽ち掛けた道を行き、漸く次休蔵主庵の跡へ着くと、
百年余りの歳月を経た為今や庵室は跡も無く成り果て、境界さえ見分けがたく、深い苔に礎も埋もれ、池の水は枯れ果て(以下長いので略)… と言った有様であった。
義隆は眼に映るものごとに心を動かされ、蔵主の昔のことを聞きたく思い、道案内の老人に話を乞うた。
古老曰く、申し伝えによれば百年余り前三蔵主とは。山城紫野の純蔵主(一休)、伊勢の養源寺の虎蔵主、それに安芸の次休蔵主のこととか、いずれも世に聞こえた禅僧であった。
その一人の一休禅師はある日「安芸の次休は深山の中に入り、跡をくらまし、名を隠そうとしておる。かの所に赴き、その邪か正かを見分けよう」と、次休に会いに紫野を旅立った。
次休蔵主は現在過去未来三世通達の僧ゆえ、一休の訪問を予め感知し、侍者に向かい
「一休宗純が私を試みようとたった今、龍宝山を、出発したよ」
とおっしゃり、そののち
「今日こそ到着の日、美味い魚を取ってもてなしてやろう」
と遥か遠い川辺に出て、釣り糸を垂れていた。一休はもとよりこれを知らぬが、川辺まで来て釣り糸を垂れる次休に
「これ、おじいさん。次休蔵主の庵室を知っておいでか?」
と問うと、次休は
「あなたは純蔵主でしょう」
と答え、一休は愕然として
「あなたは神通方便でも得ておるのか?なぜ拙僧の名を知っておられるのか?」
と尋ねた。次休はこれに
「貴方は私を試みる為にここまで来たのでしょう、私が次休です。」
と、名乗り手をたずさえ庵室に入り歓談が始まった。

104:人間七七四年
16/09/24 07:00:01.39 O5X/52cq.net
次休は自ら釣ったすずきの膾やじゅん菜の吸い物を進め
「あなたの旅の疲れを慰める為、わたしの神通方便をお見せしましょう」
と、皿の中の銀糸に作った膾をとって、むしゃむしゃと噛み
「この魚を再び元の魚に返してみせましょう」
と皿の上に吐き出した。」
すると、すずきはたちまち生き返って跳ね上がり、龍門三級の波を起こす程の勢いであった。
一休はこれを見て
「あなたは魚を再び生きた魚とされた(中略)拙僧はまたこの魚を仏にしてお目にかけましょう。」
と言うと、裳裾を高々と掲げて、
あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!!!!!! )
と敷物の上に糞を垂れ
「万法は一に帰す。食は尽く糞に帰す。されば糞中の虫である三世の諸仏は、この中に隠れておりますぞ。
昔の少康師は、一度南無と唱えれば、一体の仏、口より湧き出でさせ、続けて十声唱えれば、十体の仏を出したとか。
彼は口中より仏を出だす。拙僧は肛門から仏を出だす。少康師よりなお勝っていることよ」
と、手を打って大笑いした。
次休、これを見て「風顛漢め、人々をたぶらかすまいぞ」とおっしゃって、また一杯の水を口に含んで吐き出されると、炎となって空中にほとばしった。
一休は「あなたは孫博が草木をしてみな火光に変じた術を会得しておられるのか。(中略)拙僧もまた活手段を行じましょう」
と、鉢の水を飲んで、仏殿の内に向かい小便をし、「あなたは水を転じて火をなされた。拙僧はまた、山は是れ山、水は是れ水じゃによって、元の水に返したのじゃ」
とおっしゃった。
次休は「あなたは私を試みるがため、こうしてわざわざやって来られ、私はまたあなたの知恵を計るため、このような方便をお見せしました。
あなたはいまだ神通力を得ておらぬものの、自由自在の手段を用いられた。おかげさまで今日初めて高僧と言うものにお会いできたわけです。
我が禅宗、この国に伝わって年久しいが、今あなたが現れて、さだめし大いに世に興隆することでしょう」
と褒め称え給うたと申します。一休もまた「わたしもまた、生身の文殊支利菩薩にお会いできました」と、三度拝礼して、やがて暇乞いし、帰京した。(長いので以下略)

(陰徳太平記)

105:人間七七四年
16/09/24 07:57:01.24 XO9yYF3G.net
ダイナミックすぎる

106:人間七七四年
16/09/24 09:13:36.90 FJgE9Zqf.net
ノブも信忠と信雄以外の子供はガチで虫けら扱いだったけど
なぜか信孝だけは例外

107:人間七七四年
16/09/24 09:18:00.61 IZtf/wAU.net
とりあえずこの後は京に帰った一休さんが、次休がナンバーワンだと周りに語ったり次休が超能力で遠くの寺の家事を消したりする話を古老がして大内義隆から褒美貰って
大内義隆が、安芸を征服した暁には此処にまた大きな伽藍を建ててやると語って、大内義隆の安芸征服は是からだ、義隆先生の次回作にご期待くださいエンド
>>105
奇人と名高い一休さんも後世に脱糞ニキにされるとは思うまい

108:人間七七四年
16/09/24 10:26:50.80 lCi6cimj.net
信長自身が庶長子差し置いて家督を継いでるから
庶子と嫡子の扱いが全然違うし
戦国では常識なんだよな
権現様が異常なだけ

109:人間七七四年
16/09/24 14:06:08.96 lApELJe1.net
烏帽子親が柴田勝家だもんな
津田信澄が養育されてたのも柴田勝家
佐久間盛政といい柴田勝政といい勝家が教育した子供は有能だ

110:人間七七四年
16/09/24 15:00:04.77 Z00FwZP5.net
雑談だが
伊達政宗や立花宗茂さんが水野勝成さんの環境の中で生まれたら天下を取れたのだろうか?
逆に水野勝成さんが伊達政宗や立花宗茂さんの環境の中で生まれたら生き残れるか
興味ある。

111:人間七七四年
16/09/24 15:29:56.46 InraK0pT.net
どうでもいい

112:人間七七四年
16/09/24 15:49:26.64 VxWqyVUz.net
>>103-104
一休さんの奇人エピソード多すぎぃ!
時代がちょっとずれそうだけど劇中劇?だからいいか。

113:人間七七四年
16/09/24 18:33:59.69 MebFjYs2.net
>>102 サンフレッチェは、3本(サン)の矢という意味だそうだが、
2軍選手に向かって、虫けらのよう
と言ったらやはり怒り出すだろうか。

114:人間七七四年
16/09/24 19:18:08.76 VxWqyVUz.net
言葉の意味や使い方なんて時代で変わるんだから、今の価値観で虫けら?酷い!ってのはいかがなものか。
子供の「供」は供物、って意味だから問題があるなんて言葉狩りが最近あって、メディアではひらがな表記になったとか。
300年後には昔の人は子「供」と書いてる、野蛮!と言われるようになるのかな。

115:人間七七四年
16/09/24 23:40:57.00 JPViE3/E.net
>>110
まーくんはどうだか知らんが、宗茂ならどんな環境でもうまく適応してやって行けると思うが、天下までは無理だろ。だいたい宗茂は天下狙うようなキャラかね?
勝成は、晩年の名君キャラに成長するまでは生き残れないんじゃね?
伊達家なら小田原後あたりで秀吉に殺されるだろ。
立花家なら関ヶ原後に切腹かな。

116:人間七七四年
16/09/24 23:49:36.43 0CbiVLMf.net
>>114
数年前、嫁が役員やってる子供会の名称が、「〇〇市子ども育成会」に変更になった。
こどもはおとなの「供」ではない!との観点から、名称を「子供育成会」から「子ども育成会」に変更しました、って説明受けたが・・・。

117:人間七七四年
16/09/24 23:53:39.77 FJgE9Zqf.net
虫けらはいつの時代も普遍的に虫けらだから馬鹿

118:人間七七四年
16/09/25 12:17:47.01 4EaSMYkj.net
そもそも勝成が天下とってねーし

119:人間七七四年
16/09/25 17:22:56.44 WSppQdy/.net
徳雲院様(細川持隆)の北の方は、周防の大内殿の娘であった。
彼女は、岡本美濃守の娘の小少将殿と申す人を小女房として奉公させていた。
ところが北の方には御子がなく、持隆は小少将殿に目をかけられ、やがて若君一人(細川真之)を産んだ。
三好実休は細川持隆を切腹させた後、「主君に御腹召させたのは天道恐ろしき事であり、
この若君を置いて前々のように主君として崇めよう。」とし、そうして小少将殿を自身の
妻に据えた。やがて実休とこの小少将の間に子ができた。この子は幼名を千代松といい、
烏帽子名は彦次郎。御名乗を長治という。
(三好記)
三好実休、良かれと思って細川真之を擁立し小少将を妻にした、というお話。なお

120:人間七七四年
16/09/25 19:39:11.35 OjONIPR6.net
ワハハ奸婦め!

121:人間七七四年
16/09/25 21:01:41.34 pd/6K8CZ.net
小少将はサゲマンという説が(元親の側室は単に同名のようだけど)
「小少将」の犠牲者の一覧
細川持隆 小少将の最初の夫。細川真之を設けたが、家臣の三好義賢に殺害された。
三好義賢 細川持隆謀殺後に小少将を嫁にして三好長治と十河存保を設けるも、久米田の戦いで戦死。
篠原長房 三好義賢戦死後に弟が小少将を嫁にしたが、弟の讒言により三好長治に攻められて敗死。
三好長治 小少将と三好義賢の子。小少将と細川持隆の子で異父兄の細川真之に討たれた。
細川真之 小少将と細川持隆の子。小少将と三好義賢の子で異父弟の十河存保に討たれた。
十河存保 小少将と三好義賢の子。小少将が側室になった長宗我部元親と共に参加した戦いで戦死。
長宗我部元親 小少将を側室にした四国の英雄。その後長男が九州で戦死し後を追うように病死。
長曾我部右近太夫アンド十河存英(存保の息子) 共に大坂の陣で大坂方について死亡

122:人間七七四年
16/09/25 21:41:39.15 YOONVF6X.net
       |
   \  __  /
   _ (m) _ピコーン
      |ミ|
   /  .`´  \
     ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (・∀・∩< 嫌な奴に小少将を押し付ければ!
    (つ久秀丿 \_________
    ⊂_ ノ
      (_)

123:人間七七四年
16/09/25 21:46:31.79 OjONIPR6.net
>>121
篠原長房じゃのーて一族の自遁な

124:人間七七四年
16/09/25 21:51:16.34 OjONIPR6.net
サゲマンて言うなら通じた奴の名で十分やろ

125:人間七七四年
16/09/26 09:29:22.17 Ro9cT0DI.net
徳雲院様(細川持隆)が切腹された時、柴原と申す在所に久米殿という武士が有った。
彼は三好実休の舅であり、細川持隆の家臣であった。
佐野河内という在所の野田義介という武士も、同じく細川持隆の家臣であった。
下八幡の二木日向殿という人は、持隆の一族だった。
彼らは持隆が切腹させられたことを口惜しく思い、必ず三好実休を討ち果たし本望を遂げようと
話し合った。久米殿は三好実休の舅であったのに、主君を殺したのは曲事であると、実休への
反乱を企てたため、これは後に久米の乱と言い伝えられた。
その頃、三好実休は勝端の町に在住していた。
久米たちに与する小倉佐介という者は、ここで実休の動向を探って来たが、帰る途中、
勝端の野辺において広言を吐いた
「実休を討果すのはいと容易いことである。」
仲間が聞いた「それはどういう事か?」
「彼の周囲には年若き小姓衆20人ばかり、あとは台所の人数だけで、いざという時
役に立つ人間が一人も居ないからだ。」
ところがこの会話を、そこで放牧していた牛飼いたちが聞いていた。
彼らは親方にこれを話し、この反乱計画が発覚する。勝端の町人たちは足具足を着けて
千人ばかりが雑兵姿となり実休の屋敷の警護を申し出、同時にこの小倉佐介の広言を申し上げた。
久米の在所である柴原とこの勝端との距離は一里ほどの近距離であり、また勝端は
久米側の人々の親類縁者も多かった。
そのため実休の所に町人たちが駆け付けたとの情報はすぐに久米側に伝わった。
これを聞いて久米たちは勝端を攻めることを諦め、実休の重臣である一宮長門守(成祐)を
夜討ちすることに方針を変更した。
一宮長門はこの時下屋敷に住んでおり、この四方は大竹藪であった、
夜討ち勢は大勢であったため、たやすく門を打ち破り屋敷に侵入した。
この時、一宮長門家臣に木村備前という人がいた。彼の宿所は一宮長門の屋敷から十町ばかり離れて
いたが、この夜討ち騒ぎを素早く聞きつけ、大竹藪の中をくぐり抜け長門の寝所にまっすぐに
駆け入ると、長門を引き出し藪の中に押し入れた。
夜討ちの軍勢が追い駆けてくるのも構わず、木村備前は長門を連れて逃げた。この時木村備前は背中を
二刀切られたが、藪の中であったので何とか逃げ切った。
一宮長門の妻は三好実休の妹であったので、夜討ちの衆はこれを生け捕り柴原へと連行した。
久米の反乱が発覚して三日の間に、実休の人数が上郡および淡路より、三千人ばかり駆け付けた。
久米方の人数は八百人ほどであり、方々の実休方に対処するため黒田原に軍勢を集結させていた。
そこで実休方は勝端より三千の軍勢で中富尾まで進出したところ、久米方八百人のうち、六百人ほどが裏崩れし逃亡した。
残ったニ百人は、破れかぶれに斬りかかったが、実休方は三千の人数でこれを包囲し、彼らを一人も残らず討ち果たした。
この戦いの中で、久米方の野田内蔵介という武士は普段から七十人力と呼ばれていた。
実休の三千人の人数のうち、五百人ほどが負傷したのだが、その大半はこの野田内蔵介によって
切られたのだと伝わる。
しかしこの野田蔵介も数多の敵に疲労した所に、淡路の住人である野口肥前という人が彼に挑戦した。
野口は二十人力と言われ、淡路においては一番の相撲取りであった。
野口は内蔵介と組み合い、大腰に投げつけた。しかし地力が違い、内蔵介はあっという間に
野口を押さえつけ上乗りとなった。
この時奥野右衛門(一説に左衛門)という者が駆け付け、内蔵介の首を打ち落とそうとして、
彼と組み合っていた野口肥前の手を切り落としてしまった。こうして野口は片手となったが、
死にはしなかった。
(三好記)
三好実休支配下の阿波における、久米の乱についての記述である。

126:人間七七四年
16/09/26 21:50:10.39 baLYiMg9.net
篠原長房の弟が自遁だから、>>121>>123も合ってるよね。
一宮長門守(成祐)は後に三好実休(義賢)と小少将の息子三好長治を殺す側に回ってる。
一宮長門守(成祐)の妻である三好実休の妹はこの後どうなったか三好記に記述はありますか?

127:人間七七四年
16/09/26 22:01:51.02 8NuzwDHO.net
>>126
残念ながらサゲマンというのはエッチした男じゃないとその効果は発揮しないのだよ
だから篠原長房の死は小少将とは無関係であって自遁にとって長房の死は得なのでサゲマンじゃのーてアゲマンとなる

128:人間七七四年
16/09/26 22:34:56.02 baLYiMg9.net
>>127 そっちの話ね。失礼しました。
ところで阿波の小少将については、息子たちを仲裁しようとして細川真之の元に
行く途中、真之の家臣たちに襲われて落命した話もあるようだけれど、
これも出典が分からない。

129:人間七七四年
16/09/26 22:47:42.76 baLYiMg9.net
スレチなので小声で
三年前、文科省は子ども表記を子供表記に変更した。文科省の公用文は今は子供表記。
一方で厚労省はまだ子ども表記。一般にこれが知れ渡るのはまだ先だろう。
当方は三好記の記述をさらにしりたい。一宮成祐の奥方はどう処遇されたのか。

130:人間七七四年
16/09/27 20:02:53.44 B9t1nf/c.net
三好海雲(元長)は京での合戦に切り負けて切腹された。
三好喜雲(之長)は和泉国の合戦に切り負けて、堺の町の堅法寺という寺で切腹した。
彼は切腹の際、腹わたを掴んで寺の天井に投げつけた。
その痕跡は諸国の人々が見物し、彼の死に様を褒め称えた。
だが大阪破滅の時(大阪の陣)、堺の町は焼かれ、その天井も焼失してしまった。
昔から今に至るまで、主君(阿波細川家)のために二代腹切った人は稀である。
(三好記)
三好元長は之長の孫ですが、元長の父が早逝して之長の後継者になっているので二代扱いなのですね。

131:人間七七四年
16/09/27 23:46:08.12 mNSOphMn.net
>>129
宇喜多「小声でスレを上げる129殿に茶を振舞おうぞ」
>>130
>三好元長は之長の孫ですが、元長の父が早逝して之長の後継者になっているので二代扱いなのですね。
TERU「祖父と一緒に叔父sも戦死しているとは裏山」

132:人間七七四年
16/09/28 16:11:15.27 7ZLbC4ak.net
>>131
景さま「ああん?体育館裏くるかコラ」

133:人間七七四年
16/09/28 16:39:45.14 QVxC1CUq.net
種無しのくせに(笑)

134:人間七七四年
16/09/29 09:58:51.10 UKcAPjuH.net
鹿児島市の西郷隆盛銅像の裏手、鹿児島市立美術館(鹿児島城(鶴丸城)二の丸跡)の一角に「ジメサア」と呼ばれる
お化粧をした変わった石像があり、毎年十月五日前後の日にお化粧が行われるのが恒例行事となって、その様子は
地元のテレビや新聞でも毎回報道されています。
案内板には「この石像は、島津家18代家久(忠恒)の奥方持明夫人像『ジメサア』の名で親しまれています。
持明院様は16代義久の娘で亀寿といい、器量には恵まれませんでしたが、その人間性が尊敬され、人々は
『器量はすぐれずとも、心優しく幸せな家庭を築いた』夫人の人柄を慕い、毎年10月5日の命日には、この像に
おしろいや口紅をぬって、夫人にあやかるようにおまいりするならわしが残っています。」と書かれています。
この石像にはこんな話があります。(文中の家久を忠恒に変えた以外は原文ママです)
持明の方(ジメサー)
鶴丸城のあと、二の丸に市の美術館がある。庭のかたすみ、こんもりとしげった木の下に女の顔をほった
大きな石がある。まっ白な顔、黒いまゆ、口べにのついたくちびる。
そこにはいつも色とりどりの花がそなえられていて、通りすぎる女の人が、その顔をなでていくのを見かける。
さて、この石にどんな話がかくされているのであろうか。
話は、今からおよそ四百年以上のむかしにさかのぼる。
島津第十六代藩主義久のむすめは、十八代の忠恒に持明の方(ジメサー)として縁付いた。
ある朝、持明の方が鏡に向かって化粧していた時、通りかかった忠恒が、「その顔で・・・」とあざけった。
持明の方はいろいろなやんだすえにとうとう自殺してしまった。忠恒も後悔してみたが、今となってはどうにも
ならない。それで、墓を福昌寺にたててとむらった。
ところがある晩、寺のおしょうさんの夢に「ここにはいたくない。わたくしを二の丸にかえしてくれませんか」と
持明の方がでてきた。おしょうさんはおどろいたが、そのとおりにするわけにもいかないので、大きな石を
錦江湾から引き上げてきて、女の顔をきざんで二の丸にすえて供養した。
ところがまた夢で、「もう少し私の顔を美しくしてくれませんか」という。それで城の女の人たちが、おしろいなど
を毎日ぬってやったら、もう夢にはでてこなかった。
そこでこの顔をなでると、顔が美しくなり、きれいな女の子がうまれるといわれるようになった。
(「鹿児島の伝説」 昭和五十二年発行より)
いろいろとツッコミどころのある話ですが、この話の一番のツッコミどころは
「この石像は、持明院(亀寿)の石像ではない」というところです。
島津家の歴史・文化と集成館事業を語り継ぐ博物館「尚古集成館」と歴史作家の桐野作人氏が再三
違うと言ってるのですが、未だに「持明院(亀寿)の石像」として伝わっています。
尚古集成館側と桐野作人氏の説明では、あの石像は大乗院(現・鹿児島市稲荷町・清水中学校)にあった
「白地蔵」と呼ばれていた石像だそうです。
江戸後期の紀行文「鹿児島ぶり」では
「白地蔵と云う石像あり。めづらしき像なり。土俗心願あれば、地蔵のおもてに白粉をぬるなりと云う」
と書かれています。
この石像が大乗院から現在の場所に移ったのははっきりしませんが、明治以降から戦後すぐあとではないか
と推測されています。
石像と亀寿と結びつけられてしまったのは、亀寿が大乗院に本尊の千手観音をはじめ、勝軍地蔵、毘沙門天
や経典などを寄進したという由緒と関係があるのではないかといわれています。
亀寿の容姿について、尚古集成館側は美人説、鹿児島市立美術館の案内板には不美人説が取り上げられて
いますが、世間一般には不美人説が強いらしく天文館アーケードに無料配布してある「天文館史跡めぐりマップ」
には鹿児島市立美術館の案内板と同じ内容が書かれていて、アーケード内の数箇所にマップが張られています。
※美人説・不美人説について桐野作人氏は「どちらの説も確証が得られていない」とおっしゃってました。
さつま人国誌「再考・ジメサアの由来」
URLリンク(373news.com)

135:人間七七四年
16/09/30 15:02:35.59 Zp91inL8.net
昔、阿波の御屋形様(阿波細川家)は、万事を家老衆に任せて、軍の事を少しもお構いなかった。
彼らは能、蹴鞠、囲碁、将棋、お囃子といった遊びばかりしていた。
一方、三好殿の衆は、兵法、鑓、長刀、弓といった武道ばかりで、とにかく強いことだけを求め、
文道には少しも関心を示さなかった。そして理非をとなえるような人を『よわ者』と蔑んだ。
だがそのために御家は滅びた。
(三好記)

136:人間七七四年
16/10/01 08:28:56.39 ILEHhOb7.net
本能寺の変を起こし織田信長・信忠親子を討ち取った明智日向守(光秀)は、床机に座って
洛中の人々の礼を受けると、京中の地子(家屋税)を免除する意向を示し
「織田信長は殷の紂王であった。」
そう語った。
京童たちは『彼は自分を周の武王に比しているのだ。片腹痛いことだ。』と思ったが、
地子を免除されることの嬉しさに、万歳と祝い、光秀の成功を賀した。
今に至るまで京中の屋地子が無いのは、明智日向守のおかげである。
(豊内記)

137:人間七七四年
16/10/01 09:03:44.86 nw5adTKJ.net
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
既出
(秀頼事記=豊内記)

138:人間七七四年
16/10/01 18:33:01.29 hdHYlRFK.net
大友義鑑には3人の子があったが、惣領である義鎮(宗麟)に家督を譲ろうとしなかった。
彼の後妻が産んだ、到明子殿という末子に家督を譲ろうと考えていて、義鎮に対しては普段から
対面することもなく、到明子殿への本意は深かった。
身分の高い者でも低い者でも、継子継母の関係ほど難しいものはない。
到明子殿の母は義鎮を失わせ、どうにかして到明子殿を大友家の当主に立てたいと日夜胸を痛めており、
彼女は家老の入田丹後守親誠を頼った。丹後は心得、それからはいつもよりも義鑑に忠を尽くし、抜きん出た
奉公をして義鑑から高い信頼を得、義鑑は何事も丹後に相談するようになった。
ある時、義鑑は丹後を召して問うた
「義鎮については、私は思うところがある。到明子に代を譲るのはどうだろうか?」
丹後、畏まり
「ご質問でありますから申し上げます。ご兄弟の皆様は何れも御器用にてあられますが、中でも
到明子御曹司は世に超えた人物であるところ、人々は広く沙汰しています。大友中興の祖である
親世公の生まれ変わりではないかとすら思われます。」
などと様々に褒め上げると、義鑑は大いに機嫌を良くした。
その後、義鑑は義鎮に対し、湯治のため別府へ出かけさせた。
そして重臣である斎藤播磨守、小佐井大和、津久見美作、田口といった人々を召して言い渡した
「私は到明子に家督を譲ろうと考えている。」
この言葉に一同は驚き
「一体どういう理由で義鎮様を差し置いて、後末子の到明子殿に家督を譲られるのですか!?
御意ではありますが心得かねます!」そう、一斉に反対した。
これに義鑑は何も言い返せず、機嫌を悪くし、重臣たちはそれぞれ御前を下がった。
義鑑は
「あの者達を誅殺し心のままにせん」と、その日の暮れに斎藤、小佐井の両名を召して、大門において
誅した。
この時、津久見、田口の2人も召されたのだが、詐病をして登城しなかった。彼らは斎藤、小佐井が
殺されたことを聞くと、
「我々ももはや逃げられぬだろう。ならば」
彼らは密かに大友屋形の裏門から入って二階の間に入ると、「到明子殿に久しくご対面していない。
さぞかし成長された事だろう。少々御目見得をさせて頂きたい」警備の者達にそう言いながら奥の高間へと
強引に入ると、そこに居た到明子を一刀に斬り殺し、引き取る刀で彼の母も害した。
そして一の台にいた局たちを一人残らず切り伏せ、田口は二階の間から居間へと通り、義鑑が上段に居たのを
駆け寄って斬った。
田口はお側の衆に討ち取られたが、大友義鑑もこれで深手を負い、天文19年2月9日、遂に儚くなった。
どういう御分別だったのだろうか。実に浅ましい事である。
(大友記)

139:人間七七四年
16/10/01 22:27:51.55 +ELXDe/8.net
>>138
その後の宗麟の酷さを見ると義鑑の考えが正しかったような…。
いやそんな事があったから歪んだというべきか?

140:人間七七四年
16/10/02 02:27:18.87 6qfdtbzd.net
神西元通の変心と中原善左衛門の忠死
伯耆の国、末石城の城将神西元通は元は尼子十旗の一つで第七、出雲神西城の守将であったが
毛利家の出雲侵攻の際に降服し、月山富田城の落城後は毛利家の命で毛利の目付中原善左衛門と小寺佐渡守とともに、
伯耆の末石城に籠っていた。
1569年、毛利家が北九州立花で大友家との争いを繰り広げていたころ、その隙をついて
尼子勝久を擁した山中鹿介・立原久綱らの尼子再興軍が海路より出雲へ侵攻を開始。
島根半島に上陸して忠山の砦を占拠した尼子再興軍はそこから尼子旧臣らに檄を飛ばしたところ、
同心するもの数多く、尼子再興軍は急激にその勢力を拡大していった。
そんな中、神西元通は末石城に籠り沈黙を保ったままであったがある日、山中・立原の両将から使いが訪れる。
そして扇を出すと「これに一筆頂きたい」と言う。何故か?と問う元通に使者は
「山中殿・立原殿がおっしゃるには、『尼子家に人は多いが、神西殿とは特に朋友の契り浅からず。
今は敵味方となってしまって簡単に会うことはできないが、昔のよしみは忘れられず、懐かしく思い出される。
人の思い出としては、筆跡以上のものはないという。
神西殿はなかなかの名書家であるから、何でもいいから一筆書いてもらってきてほしい。
顔を合わせていると思って筆跡を見たい』とのことです」
と、鹿介より言付かった通りに返答すると、元通は「山中・立原との昔のよしみは深く、私にとっても忘れ難いならば一筆書きましょう」
と答えると扇に「ふるかう小野の本柏」とだけ書いて使者を返した。これを見た鹿介と立原はこの歌が古今和歌集の、
『石の上ふるかう小野の本柏もとの心は忘られなくに(いその神ふるから小野の―本の心は忘られなくに)』
から来ていることを見て、元通に脈ありと見て再度使者を送ると、案の定元通は尼子再興軍に味方することを約束して使者を返した。

141:人間七七四年
16/10/02 02:28:20.59 6qfdtbzd.net
神西元通はこの事を表に出さず固く秘して隠していたが、いち早くこれに気付いた者が居た。
毛利から目付として付けられ一緒に末石城へ籠っていた中原善左衛門である。
彼は吉田郡山の戦いで一矢にて尼子経久の弟である尼子久幸を討ち取るなど、歴戦の勇士であったが
また智にも優れた者であった。
中原は神西元通の変心に気付いたがそ知らぬふりをし、密かにかつ迅速に対処しようと同じ目付の小寺佐渡守を呼ぶと
「神西について何か気付いたことはないか?」と尋ねた。小寺は「何も気付いたことはない」と答えた。
中原はそれに「いや、神西はどうも逆心を抱いているように見える。しかし、何の証拠もなしに彼を討っても胡乱の極みと人から笑われるだろう。
そう思い見過ごしてきたが、このままでは神西はそろそろ事を起こし、私と貴方を討ち果たそうとするだろう。これまでは無闇に波風立てまいと貴方には
黙っていたが、もう神西の逆心は疑いなく思えたので貴方に教えたのだ。私はここで神西と刺し違えて討ち死にしても元就様の厚恩に報いようと思う。貴方はどうだ?」
と、尋ねると小寺はつくづく思案して「中原殿の覚悟、実にその通りだ。だがこの城で無駄に討たれても意味なく思う。だから命を全うし、再び元就様の役に立ちたいと思う。」
と答えた。
中原は冷笑し「あなたの言うことはもっともだ。今ここで討たれて勝久へ首を捧げられるのは実に悔しい。
しかし一隅を守る私は何の才覚・智謀なくこの城に籠った日から神西に野心あれば刺し違え、
毛利に忠を尽くし敵に囲まれるなら神西と共に自害せよと命じられたと考えている。だから気にすることはないのだ。
あなたは命を全うしして、五百八十歳まで生き永らえるとよろしい。
私は死して善道を守り、忠義の名を子孫に残そう」と言った。
小寺はやがて神西に「両足を痛めたので、牛尾の出湯に入って養生したい」と暇を請うた。
神西は「好きにするといい」と言うので、小寺は喜んで、すぐに城を出て逃げていった。
しかし芸陽には帰れず、豊後へ渡って大友金吾入道を頼り、また老後になってから本国に帰ってきたという。
(異説では軍議の為、城を出て安芸へ向かったとも言われる)
この後中原は神西と刺し違えようと思い決めていたが、証拠もなしに神西を討てば人々から
『中原自身の思慮が足りずに、さしもの忠功の神西と刺し違えたのだ』と口さがなく言われるに決まっている。
どうにかして、神西が私を討とうと目の色を変えたときにこそ、一打に斬るしかない。
あの小男一人なら、掴み殺すのも簡単だと思って今まで放っておいたが、
もし私が討たれてしまえば、私が油断したから易々と討たれたのだと、
人々はあざ笑うだろう。これも口惜しい」と思った。
それでこのことを詳細に書き記すと、「妻子に伝えよ」と、下人一人を故郷へ帰したのだった。
こうして中原は、神西の反逆の証拠があれば一刀のもとに切り捨てようと考えて、心を許さずにいた。
神西もなかなかのつわものなので、少しも態度に出さずに時が過ぎていったが、
あるとき神西は、同朋(近侍の僧体の者)の林阿弥という者と中原の囲碁対戦を所望した。
中原は「よろしいですとも」と答えて神西のところへと向かう。
神西は碁を討っているそばからのぞくように見物して、
指を折りながら「十、二十、三十、四十」と数え、
「そこに打って取れ、ここの石を拾え、投了させるな」などと言っていたが、
「そこで切れ」というのを合図に、討手にキッと目配せした。
神西が林阿弥に「切れ」と言ったのと同時に、討手の者たちが抜き打ちにそばから丁と切る。
中原は前から覚悟していたことだ。自身も屈強な太刀の達者であったので、碁箱でもって受け流し、
一尺八寸の脇差を抜いて討手の眉間を二つに切り破る。
二の太刀で碁の相手の同朋を袈裟懸けに切り捨てる。
その際に神西は中原の左手をしたたかに切った。
中原は切られながらもスッと立って打ち払い、八面に敵を受けながらしばらく戦って、
数多くを切り伏せまたは怪我を負わせて、自身もぼろぼろになって死んだ。
勇といい義といい忠といい、まさに類まれな者だと、これを聞く人は皆たいへん感心した。
神西も情けのある者なので、これまでのよしみが忘れがたいと、中原を手厚く供養したとのことだ。
(陰徳記)


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