戦国ちょっといい話44 ..
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968:人間七七四年
17/05/30 06:48:47.32 RaAvraES.net
細部見たらコピペじゃなかった、スマソ

969:人間七七四年
17/05/31 08:17:21.51 Upp9in/W.net
羽柴下総守(滝川雄利)の家臣に、二蔵三蔵という弓矢にかしこき者があった。
下総守が居城において、城より出て働きがあったが、引き取る所を敵が追尾した。
この時二蔵三蔵は門役をしており、敵が城内に入った所で戸を下ろして、城内に閉じ込めた。
こうして敵は引き取ることもできなくなったが、そこで下総守は下知して門を開けさせ、その敵を引かせ、
討ち取ること無く終わった。

その頃、徳川家康より近藤石見守が下総守の所に加勢として派遣されていた。
石見守は下総守に、何故敵を逃したのかを尋ねると

「あの敵は閉じ込めにあって、死地の兵となっていた。これを討とうとすれば城中の人数も多く損じただろう。
また彼らを討ち取ったとしても戦全体の勝敗に関わらない。それ故である。」

そう答えた。
近藤石見守も武功の勇士であり、下総守の判断に感じ入ったという。

(士談)

970:人間七七四年
17/05/31 09:49:09.23 mUX2+cfS.net
弓矢で打ち取れよ、何のための伏線なんだい?

971:人間七七四年
17/05/31 12:25:38.54 N5X+zJ2b.net
どの戦いのことなんだろうな

972:人間七七四年
17/05/31 13:56:59.83 9KY4AUss.net
小牧長久手の時かその前後じゃね

973:人間七七四年
17/06/01 10:13:09.16 mK/jFESw.net
牧野右馬允(康成)の所に、伊賀甲賀のあぶれ者たちが武者修行と号して高國寺に滞在していたが、
織田信長生害の沙汰(本能寺の変)の事聞こえ、この者たちもこれを囁き色めく体であった。

これを稲垣平左衛門見て、右馬允に申した
「彼らの残らず、暇を与えるべきです。」

「現在の情勢は、一人でも人が多いことが求められるのに、どうしてそうするのか?」

「先んずれば人を制す、という事です。彼らの風情には見届けがたいものがあります。
こちらから先に暇を与え、『妻子たちも心もとないであろうから、早々に在所に帰るように』と言えば、
彼らも快く受け入れるでしょう。」

これを聞いて牧野は暇をとらせ、帰りの路銀まで与えた。そしていずれにも
『今度の儀であるから、本来なら先途をも見届けるべきであるが、たって暇を取らせる。
その上で家康公の御帰国に遭遇した時は、一層の忠節を仕るべし』
との誓詞をさせて帰した。

まことに要らぬ者を留めては、却って諸人の機をもうしない、惑いも産んでしまう。
この処置は早く機を知る故と言うべきであろう。

(士談)

974:人間七七四年
17/06/01 12:37:41.93 79OXoLCr.net
絶対戻ってこなさそうだが大丈夫か

975:人間七七四年
17/06/01 14:25:28.77 FaGXxtNv.net
>>974
戻ってきたら困るだろ

976:人間七七四年
17/06/01 18:58:01.67 dghqAmSn.net
家康公のご帰国に遭遇したのかな
伊賀越え成功した以上、こいつらは手出ししなかったんだろな

977:人間七七四年
17/06/03 01:38:20.51 I0x5Dvyw.net
東照宮物具の御物語 附小野木笠の事

東照宮の仰せに、

「物具が美麗なのは無益な事である。また重くするのも無益である。
井伊兵部(直政)は力もあって重い物具を着ているが度々手負いしている。
本多中務(忠勝)はそうではないが、手負いになった事がない。
ただ戦いやすいようにと心がけるべきである。
下級には薄い鉄の笠を着せるのが良い。急な時は飯も炊ける。」

とのものがあったそうだ。
 鉄の笠は甲州でも下級が着ていたという。
畿内の方ではそうではなかったが、丹州亀山の小野木縫殿助(重勝)が
足軽以下の者に鉄の笠を被せたので、その頃は小野木笠と言ったそうだ。

(常山紀談)

978:人間七七四年
17/06/03 11:24:26.85 4Ghf+TWg.net
家康の着てた鎧がどんなのかって江戸時代はあまり知られてなかったのかな

979:人間七七四年
17/06/03 12:36:01.54 dYQCQZul.net
本多忠勝

「わが本多の家人は志からではなく、見た目の形から武士の正道にはいるべし」

武具も実用より見た目重視だから

980:人間七七四年
17/06/03 13:12:34.08 Mg9NhrRV.net
>>979
それは「まず形から」って話かと

981:人間七七四年
17/06/03 13:15:57.43 Lh7C7hE7.net
そう言う忠勝が練習だとヘタだけど実戦ではめちゃくちゃ強いタイプだったりする

982:人間七七四年
17/06/03 14:15:54.11 Ljz3XT3y.net
平八は本気を出すと人を殺しちゃいそう

983:人間七七四年
17/06/03 19:11:33.78 R/r5VpoW.net
テラフォーマーかよ

984:人間七七四年
17/06/04 17:36:56.32 8oGghPA5.net
羽柴秀吉による中国退治の時、村上彦右衛門(通清)は船手の案内を命ぜられ、浅野長政に付けられた。


長政は備前児島を攻めるべしと、児島に上がり様子を窺った。村上も手船一艘にて同道し、塩飽より下津井の
浦まで行き、山に上り児島の様子を見て回っていた所、敵が大勢出てきた。

村上は申し上げた
「船は陸と違い、急に乗ることが難しいものです。先に船に乗ってください。後は某におまかせあれ。」

そして長政を引き立て船に乗せると、自身は後を取り鎮めて居た所、敵2,3百が打ちかかってきた。
しかし村上が山影にわずかの手勢を待ち伏せにしているのを見て、敵も警戒しかかってこず、
少々の近づいてくる敵も皆追い払って船に乗り込んだ。

そこに敵も追々襲来したが、船と陸のことであれば、別状無く引き取ることが出来た。
秀吉はこのことを聞いて、「船手のあしらい神妙なり」と、感状並びに陣羽織が与えられたという。

(士談)

985:人間七七四年
17/06/04 21:10:27.63 1YzJkvJp.net
トーハクの茶の湯に最終日に行ってきたが
実物の伊賀焼き花入れの生爪見た。
松井康之が利休最後の手紙を受け取ったというのも初耳だった

986:人間七七四年
17/06/05 02:50:22.57 DEb+6auF.net
松井康之は利休←→忠興の身分差が大きいから形式上は間に居て取り次いでた
その一方で個人的にも利休と親しかった様子

987:人間七七四年
17/06/05 16:24:11.36 bu89Ei3i.net
天皇から号もらってもダメなもんはダメか

988:人間七七四年
17/06/07 02:05:06.33 MvKnZtxw.net
牧野成里、池田輝政の仲介により帰参


牧野伝蔵成里は十六歳で父の仇を討って当家(徳川家)を立ち退き
久留米侍従(長谷川)秀一や関白秀次に仕えた。
関白の事があってからは、石田三成に仕え関ヶ原の戦でも石田方にいたが
大敗したので兵十余人ばかりを引き連れ、大敵の中を切り抜けて
池田輝政の所に来たので、輝政は播州に(伝蔵を)伴って帰った。
そのまま輝政の所に身を寄せ、剃髪し一楽斎と名乗った。

(伝蔵が)播州で輝政に(徳川家への)帰参の事を乞うたが、年月を経ても
その沙汰がなかったので、ある時播州から伏見に参り輝政に向かって
「させもが露も年ふりし」*
などとほのめかせば、輝政は
「まだそのような折ではない。成里は先に帰国するように
 我もまた見はからうとしよう」
と言って慰めた。
その後(家康の)御夜話に侍する者に、(輝政は)この後折を見て
成里の事を言い出してくれと頼んだ。

ある夜(家康が)三遠にいらっしゃったときの話だが、いつもより機嫌よく
伺候している者の膝近くまで御座を進められ、近づかれて来られたので
牧野伝蔵と板倉四郎左衛門が縁故のあることに話が及んだときに
「伝蔵は今も永らえているようですよ」
と一人が申し上げた。
君(家康)はどうとも思っていないような様子だったので、みな固唾を呑んだ。


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