戦国ちょっと悪い話43 ..
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654:人間七七四年
16/05/26 23:09:30.66 YW3TXSxA.net
 大坂落城の時、豊臣秀頼は秘かに薩摩に行かれたという一説がある。
このことは異域でも聞こえていると見えて、『湧幢小品』に(明の朱国禎が著したもので、第三十に見える)
「秀頼が敗走して和泉に入り城を焚て死す。又逃て薩摩に入ると言ふ者有り。」
と書かれている。「和泉に入る」とは誤聴である。

 また何で見たのだろうか、落城の時、神祖は天守に火がかかっているのをご覧なされて、
「早く場所を他に移せ。」
と仰せられた。
左右からは
「まだ秀頼の安否が分かっていません。」
と言上があったが、
「天守に火がかかれば落城である。」
との仰せなので、すぐに場所を移されたという。

 またある人が言うに、秀頼が薩摩に行った後、大酒で所々で困ったという。
酒の負債が多くあったともいう。


因みに、今高崎候の居間の襖には秀頼の画というものがある。
金地に老松を描き、その上に一体に空き間もなく廉を描いてある。
廉外に見える体である。もっとも着色である。
その筆は雅楽助、山楽などと見える。
(甲子夜話)

秀頼作の絵というものを一度は見てみたいですね

655:人間七七四年
16/05/26 23:33:24.77 aTn+OOyq.net
明の人「似たような話を聞いたことがあるな
父親が乞食から成り上がって天下とった後、子供のために粛清しまくったら
父親の死後、息子が叔父に(一応旭姫の夫だし)攻められ落城
焼死したということになってるが、実はどこかで生存しているという話を」

656:人間七七四年
16/05/27 18:48:52.10 /TJu3MHx.net
>>654
秀頼作
URLリンク(upload.wikimedia.org)







狩野秀頼だけど

657:人間七七四年
16/05/27 19:30:34.87 8hj2j5oy.net
>>656
そっちは"すえより"なんだよなあ


秀吉公の御時、ならかし(均し・徳政)という事があった。
貸した者が原金を失った上になお、放埓を働いた罪科は軽くないと、
再び黄金を出させましたので、

奈良かしや この天下殿 二重どり とにもかくにも ねだれ人かな
(醒睡笑)



奈良坂や 児の手柏の二面 とにもかくにも ねだれ人かな

の本歌取り

658:1/2
16/05/29 00:04:09.47 BEJ0ECpz.net
大阪冬の陣の和睦後も、畿内の情勢は安定せず、大阪勢が京都を襲うとの風聞が流れると
京は大混乱に陥った。この知らせを受け取った徳川家康は大いに驚き、これは未だ豊臣秀頼が
大阪城に在るために、大阪方諸浪人の者達の策動が収まらないのだと判断し、
秀頼に書状を送った

『連々考えるに、秀頼公が大阪城に在ることが、人々に疑心暗鬼を生んでいる。
であれば、国家安穏のためにひとまず大阪城を明け渡し、大和の郡山に移られよ。
その間に畿内を安定させ、大阪城も元通りに普請してお返しするだろう。
七十に余る私であるから、悪しきことは申し入れはしない。織田有楽、大野修理も
よくよく理解して秀頼公を諌めてほしい。

承知なければやむを得ず出馬となるだろうが、和睦から間もなく再び確執に及ぶのは
信を天下に失うに似たり。よくよく了解して、豊家の社稷を絶やさないよう計ってほしい。』

この知らせを受け取った大野治長は驚愕して秀頼に伝える。秀頼は諸士を千畳敷に集め評定を行ったが、
この時真田、後藤は思う所あって出席しなかった。

秀頼は今度の事態に「諸将の心底を聞きたい」と発言を促したが、一大事の儀であり、互いに目を見合わせ
誰も言葉を発せようとしなかった。

が、ここで長宗我部盛親が進み出た

「このように申すのは、思慮が短いかもしれません。ですが道理に合わなければ用いぬまでのことです。
去冬の扱いについて、天下の規範になるような証拠もなければ、和睦の儀は然るべからずと真田、後藤が
言っていたのは、つまりこの事であったのです。
あの時、和平が永く続かないことは、この私ですら解っていました。

今、関東の望みに任せてこの城を去って和州郡山にお移りあらば、一時的には穏便に済むでしょう。
しかし程なくまた難題を申しかけられ、さらに他境へ御座を移されることもあるでしょう。
そうなった時、七手組の者達は勿論、この城に集まった渡りの諸士たちまでも、郡山から他に移ると
成れば、どれほど志のある勇士であっても、望みを失い離散する者も多いことでしょう。
その頃になると今この城にある古老の者達は、寿命で尽く死に果てているでしょう。
であれば、一体誰があって君を守護するのでしょうか?御本懐を果たし申すべき者もなく、もはや
自滅より他ありません、

万一、十分な幸運を得たとしても、織田常真(信雄)と同程度の格式を得るくらいです。
秀吉公の時代、人はみな、この織田常真を卑怯の人として爪弾きにし、信長公の雄才までも、
この人のために罵られたのです。誠に口惜しきことではないでしょうか?

不義卑怯の名を被って生きるのは、武士としてこれ以上の恥辱は有りません。ならば潔く討ち死にして
武名を千歳に残すことこそ願うべきです。
ですが、この城の要害は既に破却され、ここで大敵を防ぐというのは不可能です。
去年、真田、後藤は、美濃尾張までも進出し、また宇治瀬田において防ぐと言上しました。
これも去年であればこの作戦で充分勝利を得ることが出来たでしょうが、今は勝利も覚束ない状況です。
同計同束にてその勝敗が変わることは時の勢いです。

ですが、もはや要害不堅固の城に敵を引き受けても、あたかも籠の中の鳥が殺されるようで無念の第一です。
ですから、何れも討ち死にと覚悟の上は、遠境へ切って出て、五度も十度も強戦して両将軍家の旗本と見れば
左右を顧みず駆け入って奮戦して死にましょう。
木村殿と森殿が言い合わせて二条城に向かえば、京都所司代の板倉も、頭を出すことすら出来ないでしょう。
伏見や茨木に至っては恐るるに足らず。
かくなる上は例えこの城で君には万一御生害あるも、豊家の御恥辱にはなりません!」

この言葉に一座の者達は目の覚めた覚えを成し、「潔し!潔し!」「しからばそのようにしよう!」
そう異口同音に言い合った。

659:2/2
16/05/29 00:06:14.29 BEJ0ECpz.net
が、ここに小幡景憲があった。小幡は松平定勝、板倉勝重と申し合わせて大阪城に入っていた。
彼は武田二十四将の一人、小幡昌盛の次男であり武田兵法を良くすること、大阪城中に知られ、
大野主馬介治房が取り持って豊臣秀頼によって召し出された。
新参ではあったが弓矢の智識(合戦の専門家)であるとのことで、大野治長は彼を評定の席に
召し出し、その末座に在ったのだ。

彼は先程の盛親の言葉が、関東のために甚だよろしくないと判断した。
そこで進み出て申し上げた

「古参の歴々を差し置いて末座から異見するのは憚りあることですが、心頭に浮かんだことをそのまま
差し置くのは不忠の至りですから、その一通りを言上いたします。

徳川家康公は近代の良将たちと、あるいは敵対しあるいは従い、大いにその兵法を学ばれ、
治乱盛衰の機微を察し、欲を抑えることを心がけ、権謀に通じ、その知識の高さは現在において
万々の上に出ています。

聞いた所によると、京都伏見方面には既に段々と軍勢が登っているとのことです。
これは能く状況を知っているということでしょう。
大御所は必ず、盛親殿のような雄偉の将が京都を抑え、美濃の近くまで進出すれば
事難しくなると推察された事でしょう。それを知ったからこそ早速軍兵を登らせたのです。
そのような所にもし諸国の假武者(傭兵)を以って向かえば、敵のために捕虜にされに行くような
ものです。

この大阪城は、城郭の破却こそされたと言っても、七重の曲輪などはなお残っており、敵を防ぐに
便利です。そして八万の兵にその兵糧、玉薬は何れも欠けることなく、ことに城兵の武勇は、去年
両将軍にもみせつけたのですから、敵も簡単には攻め掛かって来ないでしょう。

城兵たちはただ、心を一つにして九死に一生の合戦を遂げるのです。そうすれば、特に西国の者達は、
去年の大阪の勝ち戦によって我々への見方を変えていますから、今度も暫く持久戦を遂げれば、その結果
我らに加担するものも多く出るでしょう。であれば、頼み有る戦となります。

それにこの大阪城本丸は、太閤御苦労の縄張りをして残した物ですから、仮に1,2の曲輪が
破却されても、この城を守衛する事こそ孝子の御本意というべきでしょう。」

そう雄弁を以って語った。
この時、大野治長は元から他境へ軍を出すことこ好まなかったため、小幡の意見に方針を決定した
のである。
これは秀頼公の不運であり、天命が既に然らしめる所であろうか。嗚呼。

(慶元記)

660:人間七七四年
16/05/29 01:45:53.35 cAiDNTPK.net
 大阪落城のとき、秀頼が薩摩に行ったことは前にも言った。
(URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com))l


 さてこの頃聞いたことに、初めは肥後の隈本に立ち退いたとのことである。
従者が五人いたが、三人はかの所で暇を出したそうだ。
肥後でも関東を憚り、薩摩に送り遣わしたという。
(この次第は、人名等を『白石紳書』に見えるという。予の書は戊寅(1818年・文化15年、文政元年)に焼亡したので、人がいうままに記す)


薩州でも関東を恐れて、内々にその実を申し上げると、

「すでに大坂落城して、秀頼生害と披露したので、生存したとて死と同じである。
そのままにしておけ。しかし他国へは出してはならない。」

との御沙汰があり、秀頼は91、92まで存命したという。
その子孫は、今四世ばかりになって、木下谷山村というところに住居して、次郎兵衛という百姓であるとのことだ。


 朝川鼎(善庵)が西遊したとき、まさしく会って聞いてきたという。
秀頼の墓というのも行って見てきたが、同村の普門寺という寺にあって、無銘の石塔であった。
(この谷山村は鹿子嶋から二三里にあるという)
 かの百姓の家に秀頼の鎧、太刀、刀が今でも残り、その他の物は一切無い。
それは、秀頼が亡くなった後、所持の品はことごとく売り払い、それで田畑を買い取り百姓になったためだという。薩摩からは前後手当て等はなかったとのことである。
以上も次郎兵衛が鼎に話したことだという。
これは関東を憚ったためであろう。


 これらを思うと、今の天下の御勢を観ることができよう。
また豊氏の全盛の成果も憐れに思われよう。
(甲子夜話)

661:人間七七四年
16/05/29 11:44:32.98 kKdVXExc.net
大野主馬って悪い話ばっかだね。いい話といったら逃げずに死んだことくらいか。

662:人間七七四年
16/05/29 13:07:00.87 9kCyK6as.net
>>660
>薩摩からは前後手当て等はなかったとのことである。
創作なのに妙にリアルだw

663:人間七七四年
16/05/29 13:31:15.80 T5Pmts09.net
護衛や監視役はつかんのか

664:人間七七四年
16/05/29 14:30:47.88 VOiYXJi4.net
こいつ勝手に勘違いしてムキムキしてんだ?
チンパンキッズは文をよく読んで理解することからはじめよう

665:人間七七四年
16/05/29 14:45:42.87 9zW/C/i/.net
チンパンは安価の付け方すら知らないんだねw

666:人間七七四年
16/05/30 22:08:45.97 v9uyzl3r.net
永禄八年頃のこと、日向の伊東義祐は鬼ヶ城の城代を小松兵部太夫に命じた。
その頃は真幸口、飫肥口両方に軍勢を出し島津などとの合戦がうち続き、山東の軍勢は
休息する暇もなく、五番代わり、三番代わりに交代した。この事は二十日番と呼ばれ、
この軍役に対する上下の難儀は一方ならぬもので、この件への訴訟が絶えることなく
上がってきた。

このような状況ではあったが、城代の小松兵部太夫はその訴訟を押さえつけ受付なかった。
そのためか非常に機嫌が悪く、常に顔を膨らませて気色荒げていた。
そんななか、ある日何者かがこのような狂歌を詠んだ

『葛の根は 小松ばかりに残れるや いつも腫れたり番代がつら』

これは飢饉の年、窮民たちが葛の根を掘って食うと顔が腫れるということから、
この様に詠んだのである。

(日向纂記)

667:人間七七四年
16/05/31 11:42:44.20 zj+ISLhb.net
すべて島津が悪いんや

668:人間七七四年
16/06/01 07:19:31.54 uEn4toO7.net
何言ってんだこのチンパンw

669:人間七七四年
16/06/01 20:39:16.43 1B50yWuf.net
天正3年の正月、日向伊東家では元旦の賀儀も例年通りに行われ、出陣の沙汰もなく、国中無事にして
上下は喜悦している所に、贈於郡において大した理由もなく一つの騒動が起きた。
その元はこのような事であった

伊東右衛門佐(伊東加賀守祐安の弟)には二人の男子があった。嫡男は三河守といい、次男は金法師といった。
三河守は那珂郡の平等寺で教育を受けた。
金法師は伊東加賀守の嫡子・源四郎の養子となり、加賀守の名跡となった。
養父である源四郎は贈於郡の一乗院で教育を受けたので、金法師もここで教育されるべきだとされたが、
一方で金法師が三河守の弟なのだから、同じく平等寺で教育を受けるべきだとの意見も出て、贈於郡と那珂郡の
間で論争となった。

このような中、贈於郡の年少の者達36人が互いに連判し、那珂郡の者達と対決しその為には一命も投げ打つと
したが、このような行為を主君である伊東義祐が悪んだため、彼らは見の置き所がなくなり財部の落合を頼って
落ちていった。

彼らの首魁は落合丹後守、その他湯地又四郎、稲津又次郎、野辺孫次郎、杉尾甚兵衛、小山田掃部助、荒武某、
中村藤十郎、中村孫三郎、杉尾帯刀、八代新十郎、福永新七郎などをはじめとした36人であった。

しかしこの財部においてある夜、野辺孫次郎が小山田掃部に向かって
「我々がこんな事になったのは、全く落合丹後のせいだ!」
そう終夜にわたって語った。
この時落合丹後は黙って聞いていたが、遂に激怒し
「さてこそ、互いに恨まず一味同心と連判したのではないか!それを今窮迫したからと私一人を恨む事こそ
遺恨である!」
と、そのまま二人を討ち果たした。
この時杉尾甚兵衛も丹後に味方して戦い、手傷を負ったそうだ。

そして丹後は
「我ら流浪の身となっても、伊東家に帰参するつもりでいた。だがこのような事になってはもはや
生命助かる身ではない。ならば佐土原に駆け入って恨みの一刀をなそう!」

そう考え仲間とともに、伊東家の首府である佐土原へと向かった。
この事は早くも佐土原に聞こえ、丹波が来ると騒動に成り、武士たちは一斉に彼らと馳せ合わせ
戦った。落合丹後は大勢を負傷させ自分も数ヶ所傷を蒙り、島原右近と組み打ちに及び、
右近が組み伏せられ既に危うく見える時、杉田宗伴が馳せ来て丹後を刺殺した、
こうして徒党の乱は鎮まった。

この時の狂歌に
『金法を 一乗院と法印と くらびあまして田坪へおする』
とあった。

(日向纂記)

670:人間七七四年
16/06/02 09:01:46.80 afek4XZV.net
たしか既出

671:人間七七四年
16/06/02 23:39:25.10 2TWZEUxR.net
チンパンしかいないスレだなw

672:人間七七四年
16/06/02 23:58:48.10 O+HgB1r6.net
そりゃこんなに露骨なアフィスレもないし

673:人間七七四年
16/06/03 21:36:49.07 QWsdQD4s.net
日向伊東家の旧臣である長倉勘解由左衛門祐政は忠勇義烈の士であり、島津家に奪われた本国を
必ず回復すると、密書を以って日向に残った伊東家故旧の輩に作戦を授け、ここには3,40人、
あそこには5,60人と一味連判をして、天正6年10月10日、火の手を合図に蜂起し、
贈於郡に討ち入って一時に本国を乗っ取ろうとの謀りであった。

ところが、この同志の中から薩摩に心変わりしたものが出て、この計画を密告したため、
同月9日、一味の者達大勢が薩摩勢によって討ち取られた。
伊東旧臣たちを後援していた豊後の大友家は、兵員を載せた船を、内海折生迫まで乗り付け、
合図は今かと待っていたが、火の手は上がらず音もせず、手筈相違したため、空しく豊後へと帰っていった。

しかし長倉祐政の策によって、同月24日に平野や三納の兵たちが平郡粂田に火の手を上げ河原田へと
押し寄せ、贈於郡に討ち入ろうとした。

しかし諸方と当初の計画と違い、また既に多くの一味の者が討ち取られており、一方敵はますます大勢となり、
僅か千名に満たないこの軍勢は多くの死傷者を出し三納城へと挽き退いた。

三納城には八代駿河守を初めとして、佐土原摂津守、湯地三河守ら伊東家に忠烈なる人々立て籠もって、
少しも弛まず11月18日まで島津勢の攻撃を退けた。
そこで島津勢は策を設けた。彼らは六野原に伏兵を置き、三納城の囲みを解いて撤退した。
三納城の兵たちは敵地の中にあり、他に頼む援兵も無かったため、敵が退いたのを幸いと、城を出て
豊後へ向かった。そこで伏兵を受け、駿河守、摂津守、三河守以下、名ある忠臣30余人が討ち死にした。

この時は本国を回復する絶好の機会であったのだが、心変わりの者があってその事を成せなかったのは、
伊東家の運命拙き故とは言いながら、口惜しいことである。

(日向纂記)

674:人間七七四年
16/06/03 21:59:58.87 PsfaBUpp.net
確かにこりゃ口惜しい

675:人間七七四年
16/06/04 20:10:57.35 4NzI32HK.net
イギリス東インド会社のジョン・セーリスの航海日誌から
1613年、セーリスの乗ったグローブ号が平戸に着き、平戸藩主松浦隆信の大叔父の松浦信実が乗船してきた。
ついでにセーリスが何人かの身分の高い婦人を自分の船室に案内すると、壁には半裸のヴィーナスの絵。
その絵を見た婦人たちはひざまずき、ヴィーナスを(おそらくマリア像だと思って)拝み、
セーリスに小声で「実は私たちはクリスチャンです」と囁いた。
一方、信実や後で乗ってきた隆信といった殿方の反応は日誌に描かれてないが、セーリスはイギリス本国に
「日本では猥褻な絵や戦争の絵の需要が大きいからできるだけ大きいのを送ってくれ」
と書いているため、だいたいの想像は可能かもしれない。

一方、イギリスに帰国したセーリスは日本で個人用に枕絵(春画)を大量に購入し、周りに見せて回ったのがばれ
東インド会社の顰蹙を買ってしまい、なくなく枕絵を焼却したという。

676:人間七七四年
16/06/05 01:37:55.04 EebVO3wP.net
古今東西男というのは変わらないな

677:人間七七四年
16/06/05 10:05:32.73 /0DFBIH6.net
大内義隆「そうなの?」

678:人間七七四年
16/06/05 23:53:05.02 uGuy/QER.net
生身の女をいくらでも手に入れられる立場にいながら、それでも絵が欲しいってホント現代とかわんないな

679:人間七七四年
16/06/06 02:45:04.77 NtgvmjWl.net
ある人の言ったことには、

「私はこの世に生まれて嬉しいことが3つある。1つ目は
男に生まれたことである。2つ目は下戸に生まれたことだ」

とのことで、もう1つは言わなかった。しかし、強いて
問われた後にその人は、

「大名の子に生まれなかったことが嬉しい」

と言った。その理由は何故だと問えども問えども、その人は
秘密にして明かさなかった。どんな意味であったのだろうか。

―『備前老人物語』

680:人間七七四年
16/06/06 06:54:13.70 DnmM45Zt.net
メフメト2世「せやな」

681:人間七七四年
16/06/06 13:50:10.93 KkNZ28zy.net
毛利元就?

682:人間七七四年
16/06/06 21:05:39.99 q6VDGptn.net
元就は親兄弟が飲酒で短命なのを見て
酒断ちだっけ

683:人間七七四年
16/06/07 02:35:36.30 oFUqmr/s.net
多分、まだ出ていないかな。曽呂利新左衛門と秀吉の茶の話。

豊臣の秀吉の家臣、曽呂利新左衛門は、いつも絶妙の湯加減で茶を点てていた。
その極意が知りたくなった秀吉は、ある茶席にて、直に極意を確かめようとした。
新左衛門が次の間にて茶の用意を始めると、こっそりと後をつけて、ふすまの隙間から中を覗いてしまった。
すると新左衛門は、茶碗に釜の湯を注ぎ、自分の舌で湯加減を確かめていたのだ。

秀吉が急いで前の間に戻ると、早速新左衛門が次の間に案内してくれた。
いざ次の間に入ってみれば、秀吉の前に出されたのはなんと、新左衛門が口をつけた茶碗。
無論、濃茶ならば回し飲みをするものだが、それとこれとは話が別。そこで秀吉、新左衛門にこう告げた。

「お主、この世で最も汚い事は何と心得る?」

「覗き見をする心でござる」

新左衛門、覗き見されていた事をちゃーんと知っていた。
湯加減を見たら茶碗は変えるつもりだったのだが、秀吉の覗き見を嗜めようと、同じ茶碗を使ったのだ。

そんな、秀吉のばつが悪い話。

684:人間七七四年
16/06/07 15:23:08.34 hLnkzSCo.net
好きな話だけど前に見た気がする

685:人間七七四年
16/06/07 21:16:19.28 bDyBXs41.net
倍々ゲームの人だっけ?

686:人間七七四年
16/06/08 00:49:24.05 fbNcmqXW.net
 芝の宿坊雲晴院は、増上寺で役を勤めた者で、年をとって引退し故里因州に帰っていたが、
故あってまた私の宿坊の住持としている。
 この僧はかつて方丈の虫干しに関わった者なので、よくそのことは知っている。
虫干しの品も数多いことゆえ、御朱印部類、御甲冑部類、御刀剣部類など唱えて、
御代々御寄附等の品々をよく干していたという。

 分けて御秘蔵の品として伝わる物は、方丈の書院に干す。
その中に、台徳院(徳川秀忠)が着られた御具足があった。その御背の所に、銃丸の痕が所々あったという。
恐れ入ることである。台廟は、神祖のように御戦場の話はあまり聞き及ばないが、どこでこのような危うい御事があったのだろうか。
これが御秘蔵の御物なのはしかるべきことであろう。

 宗耕曰く、『慶長外伝』に中に書いてあるそうだ。
『慶長五年九月七日、江戸中納言[台廟]、信州上田へ御出勢なされましたとき、
城中から真田勢が打ち出で、その他、山からの手勢と合わせまして、
御旗本へ鉄砲を撃ち掛けましたので、御勢は三町まで繰り上げましたという。』
これによれば、この御具足は正しくはこの時のものである。
この時御側の輩にも、不慮の討ち死に等が有った。
との話である。

(甲子夜話三篇)

今でも残ってはなさそうですねえ

687:人間七七四年
16/06/08 01:16:10.80 vr887YWi.net
当たっただけで貫通はしてないのかな

688:人間七七四年
16/06/08 05:35:28.46 YdrSKFuN.net
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
遺骨調査によると骨まで達した銃創痕があったとか
真田のせいだとしたらそりゃ九度山下山を許されませんわ

689:人間七七四年
16/06/08 10:03:38.48 YCJF0dkB.net
>>688
第二次上田合戦で秀忠が負傷した記録は、伝承も含めて一切存在しないし、
仮にそんな重症を負ったら、逆にあんなに早く家康のもとに駆け付けられない。

690:人間七七四年
16/06/08 11:41:35.45 8tzKO/kN.net
隠蔽したんじゃないの?ひと揉みに攻めたら反撃くらって負傷とか跡目相続に関わる事件だわ

691:人間七七四年
16/06/08 12:36:54.76 CmxE+Ops.net
隠蔽って便利な言葉だな。

692:人間七七四年
16/06/08 13:07:12.04 mrEuZqdb.net
まあ、この話も甲冑に弾の痕とはあるけど怪我したとは書いてないね
軽傷くらいは負っていそうだけど、骨に残るような銃創ていつ負ったんだろうね

693:人間七七四年
16/06/08 15:40:34.79 EuFT9BDA.net
>>688
こういう逸話を思わせるのいいね、ロマンだわ(実話とはいってない

694:人間七七四年
16/06/08 21:37:51.16 fbNcmqXW.net
 前に、増上寺虫干しのとき、台廟(徳川秀忠)の御具足を出し、
その御鎧に銃丸の痕が所々有ることを言った。
予は台廟は御戦場でこのように銃を蒙りなされたこと無かったと疑った。

 然る後に、軍講者の宗耕に会う。このことを語ると、
「不審もっともでございます。それは関が原の御合戦の時、
小山御陣で台廟が御物見として通りなさったところを、真田が山上から銃を連ねて撃ったときのものです。
このとき御側衆には、討ち死にの人が二、三人有ったとの事です。」
と話した。

予は聞いて歎息し恐れ入った。これらは(坂本)天山が伝える所の、道器一致の旨にかなう。
(甲子夜話三篇)

道器一致ってなんでしょうかね

695:人間七七四年
16/06/08 22:01:15.68 etFF9G+S.net
道器、道具、甲冑

696:人間七七四年
16/06/08 22:06:27.62 xCyA6pUL.net
同母弟のがほぼ同時期に狙撃されたのは偶然なのか

697:人間七七四年
16/06/09 12:03:16.65 Acm8aK/8.net
暗殺だよ。

698:人間七七四年
16/06/10 21:21:03.04 hbwty/xh.net
稲津次兵衛尉重房は、永正の頃、綾の地頭であった稲津越前守重頼の孫であった。
伊東家の日向没落の時は僅かに14歳であり、伊東義祐への供奉に遅れ、心ならずも
薩摩島津家の幕下に属し、その後、島津家大阪邸に勤務し、母と妻は薩摩に留め置いていた。

そのような所に、伊東祐兵に日向国飫肥が拝領されたとの話を聞き、「累代の旧君を他所から見るのは
快からず。たとえ死すとも帰参せねば」と思い立ち、譜代の郎党たちを呼び

「私の心底はこの通りだ。お前たちは早急に薩州に下り、母と妻を連れて飫肥へ脱出せよ。
私はその頃合いを合わせて、この邸を立ち退き飫肥に到着するようにしよう。」

こうして郎党たちに早船を求め、薩摩に向かって下らせた。そして稲津は、郎党たちが薩摩の近くまで
行ったであろう頃合いに、にわかに邸を脱出した。

薩摩邸の番頭は稲津が逃亡したことに気がつくと、すぐに早船を仕立ててこの事を国元に報告した。
ところが、稲津の郎党たちが乗った船ははるか以前に大阪を出たのに、海上が風波悪しく、殊の外
到着が延び、却って番頭からの注進の船より1日遅れて薩末に着いたのでbった。

この時島津家では「この事について寛大な処置を取れば、家中の他の、旧伊東家の者達への差し障りとなる。」と、
稲津重房の母と妻は殺されるに至った。

稲津重房は飫肥に帰参し、これに伊東祐兵はニ百石を与えた。
その後慶長5年10月9日、木脇口にて戦死した。37歳であった。

(日向纂記)

699:人間七七四年
16/06/11 09:15:35.13 Y560JUK/.net
最近熊に三斎取りに行って襲われて死亡者が出たってニュースでハッとしてしまう
いやまあ本当は山菜なんだけど

700:人間七七四年
16/06/11 09:48:36.99 lS4coEcf.net
肥後ぅの死を遂げてしまったんか

701:人間七七四年
16/06/11 11:41:42.75 N9GWttvD.net
虎狩りは聞くが熊狩りはきかんね

702:人間七七四年
16/06/11 11:48:31.18 /xz9nhOV.net
奥方と目を合わせてしまったか

703:人間七七四年
16/06/11 12:44:18.20 YhwbplKI.net
俺の奥方は松茸を探してる

704:人間七七四年
16/06/11 20:03:28.08 s+ecTLZB.net
殴られただけで致命傷になりかねんし、大きな熊相手は洒落にならん気がする

てか、被害が出てるのを知っていても山に入ってしまうもんなんだな

705:人間七七四年
16/06/11 21:03:12.83 TAS59Rdp.net
良家久「沖田畷で熊狩りや」

706:人間七七四年
16/06/13 02:04:39.09 ZCjPkN6A.net
 或る人より聞いた。
駿海産の甘鯛を生干しにたのは”おきつ鯛”と称して名品の一つである。
今は興津鯛と書いて、興津の産であるなどと考える人もいるが、誤りである。
これは駿城に烈祖が在られたとき、奥女中のおきつと云う者が宿下りして戻ったとき生干甘鯛を献じた。
これが非常に御口にかない、戯れに”おきつ鯛”と御定めあってから名高くなり、その地で専ら”おきつ鯛”と呼ぶに至ったという。

このようなことにさえ転訛は多いものである。

 また楽翁(松平定信)が話されたことに、
世に”一富士二鷹三茄子”という事がある。この起こりは、神君が駿城に御座いましたとき、
初茄子の価が高く、数銭を払わなければ買えなかったので、
その価の高さから

「まず一に高いは富士の山だ。その次は足高山だ。その次は初茄子である。」

と言われたという。
かの土俗は、足高山をタカとのみ略語で言ったので、今では鷹と訛り、
その挙句には三物はめでたいものを寄せる等と考え、画に描いて掛けてもてあそぶとまで至るのは
余りあることである。

(甲子夜話)

707:人間七七四年
16/06/13 02:13:55.79 OcMckIT/.net
うっかり信じてしまいそうなホラ話だな

708:人間七七四年
16/06/13 03:33:09.48 Ymp9C8Dm.net
そんなやついねーよバーカw

709:人間七七四年
16/06/13 05:46:50.58 lfL2wtaG.net
鏡みろよチンパンw

710:人間七七四年
16/06/13 14:09:26.65 WDc3Al78.net
権現様また命名してる・・・(´・ω・`)

711:人間七七四年
16/06/13 17:15:53.28 ZCjPkN6A.net
信長公に対し、公方が御謀反された時、
信長公が御出馬されて、上京を放火なされたことがあった。
その後連一検校が御前に出て
「このたびの御陣の洛中での騒ぎで、上下が怖がり恐れることは前代未聞のことです。」
と申し上げれば、信長公が
「そうであろう。さてその恐れたる様子とは?」
と仰せられたので、連一検校は以下の話をされた。

「上京に火がかかったと見ると、二条にいた者の妻が、
まず我が子だけでも連れて逃げればすむと思い、
三つか四つの子を背中に負い、慌てて走り、四条の橋のたもとまで逃げきった。
あまりに苦しくて、ちょっと子を降ろして休もうと思って地面の上にどっと置いてみると、
石臼でございました。」
(醒睡笑)

712:人間七七四年
16/06/13 18:27:43.12 rxTBNthZ.net
>>711
落語みたいw

713:人間七七四年
16/06/13 20:03:03.72 ceKeV3cO.net
>>711
>信長公に対し、公方が御謀反された時、

謀反ってw

714:人間七七四年
16/06/13 21:36:16.80 tavheLe0.net
天皇御謀反ともいうんだから公方が謀反したっていいだろ

715:人間七七四年
16/06/13 21:53:46.47 F7+1vUHt.net
室町将軍が都を追い出されるのはよくあった事だけど
義昭の場合、昵近公家衆がついて行かなかったんだよな。

716:人間七七四年
16/06/13 23:48:29.32 xgZWF6Y2.net
義輝の時点であまりついていかなかったそうだ
正確には京を退去するまでは従ったが、亡命先までは付いて行かなかった

717:人間七七四年
16/06/13 23:54:02.95 zYwTxKAt.net
>>713
信長公なんだから信長が主人公、公方は敵役

718:人間七七四年
16/06/14 00:12:22.96 twXBwpVX.net
東洋史学の岡崎文夫は魏の皇帝である曹髦が臣下のはずの司馬昭に対してクーデタを図ったのを
「浪漫的な反抗」と評してたが
義昭に対してそういう言葉を使う人はいないんかな
それともナポレオン3世の自己クーデタ(こっちは成功)のような喜劇扱いだろうか

719:人間七七四年
16/06/14 02:53:59.02 MKd78BCA.net
すでに傀儡だったじゃん。実権ねえから謀叛なんだって。

720:人間七七四年
16/06/14 20:20:08.45 dzuNT2ui.net
文禄の役でのこと。

文禄元年10月18日、朝鮮に派遣されていた伊東祐兵は駐屯していた鐵原より出陣、19日早朝に
朔寧の城を攻め落とし、400名余を討ち取った。

するとその後、日本軍が占拠している王城(ソウル)において、朝鮮人が群集し、痛く泣き
哀しんでいた。不審に思った石田治部少輔(三成)が彼らに理由を尋ねると、このように答えた

「鐵原の上官(伊東祐兵)によって、朔寧の監司を討ち取られたとの事なのです。それ故に嘆いて
いるのです。」

石田はこの事を伊東祐兵に伝え、急ぎこの監司の首を送るように言った。
この使いに伊東祐兵は大いに驚いた

「夜懸けであったので切り捨てにしたため、大将を討ち取ったことも知らなかった!
急ぎその首を探すのだ!」
そして落合九右衛門尉、川崎又右衛門尉両人に、士卒70を付けて朔寧城に派遣した。

両人は朔寧に住む朝鮮人二人を捕え、監司の死骸について問うたが、彼らは有無の返答も
しなかった。この態度に落合、川崎は大いに怒り、即座に一人を惨殺した。
すると残った一人は大いに怖れ、死骸のある場所を知っていると白状した。
そこで彼を先に追い立て案内をさせた所、朔寧城から三里ほど奥にある松山に入った。
ここには墳墓が多くあったのだが、監司を埋めた所は墳も築かず、上に木の葉などを撒き散らして
何事もない体に偽装していた。

落合たちは士卒に命じてこれを掘り出し、死骸は長持に入れ、金襴の類にて包んだ。
冬のことであったので、色もほとんど損じていなかった。
そして首を斬って持ち帰ると、すぐに王城へと送った。

この首は中台門に曝されたが、朝鮮人はこの首の前を通る時、必ず再拝して泣いたという。

(日向纂記)

721:人間七七四年
16/06/15 15:03:58.67 WbFdR36L.net
今頑張ってるのコイツだけ?

722:人間七七四年
16/06/15 21:08:19.93 0Q9E5mRm.net
明応2年(1493)4月22日、明応の政変が起こり、将軍足利義材が細川政元によって廃され、義澄が新将軍となった。

4月28日、新将軍義澄が細川政元の邸を将軍御所として移った事を祝う宴が行われ、それが終わり人々退出し、
四半時ほども経った頃である。

大館尚氏がこの屋敷から出て半町ほど過ぎた頃、退去した屋敷の方から、数百人が騒ぐような声を
尚氏とその供の者達全員が聞いた。しかし程なく、そのまま静かになった。
ところがこの騒ぎの中、尚氏の被官である松本蔵人という者が、主人の太刀を預かっていながら
忽然と姿を消した。

翌日、尚氏は人を出して方々を探させた所、松本蔵人は京の外れの野の中にある、小さな庵で
発見された。何故こんな所にいるのか尋ねたが、松本は「鞍馬の僧正が、谷に所用がある」と言い捨て
出て行ってしまった。探索の者達は松本の後を追い捉えると、松本は

「僧正は谷まで行ってまた戻ってきたが、その時、桐の小枝を持っていた。彼はそれを指し示し
『これは枝が枯れている。細川家に難儀が降りかかるであろう。』と言った。」

そう語った。

この後、松本蔵人は京に連れ戻されたが、一向に正気を取り戻さなかった。これらはすべて天狗の所業であると
言われた。

(後法興院記)

723:人間七七四年
16/06/15 21:19:44.81 ZSZT4DHF.net
>>722
わけわからんwそりゃ天狗のせいにするわ

724:人間七七四年
16/06/15 22:29:25.01 ktDOEWmB.net
京兆家では良くある事

725:人間七七四年
16/06/15 22:29:32.40 3H7wGKyS.net
細川政元→飯綱の法→飯綱三郎天狗→八天狗→鞍馬山僧正坊


なんとなく話は繋がってる

726:人間七七四年
16/06/15 23:47:26.13 rHhvGcTa.net
     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: :   | `ー----−' |__////
          松本蔵人

727:人間七七四年
16/06/16 00:17:28.80 /6VPyBFD.net
>>726のAAが出てきて一安心

728:人間七七四年
16/06/16 02:06:35.99 gKmKYVve.net
お前みたいな阿呆がいてくれてこっちも助かるよ

729:人間七七四年
16/06/16 18:39:03.32 jdI/7Ysw.net
リアルが報われないから匿名掲示板で噛み付くスタイル


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