戦国ちょっと悪い話43 at SENGOKU
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400:人間七七四年
16/03/21 02:50:01.47 CTRuR/43.net
戦国時代は、集落の近辺は禿山ばかりだったはずだしなぁ

401:人間七七四年
16/03/21 07:36:20.97 YeOWXXly.net
>>400
燃料から資材として森林を使いまくっていたもんな
禿げ山だらけなんだよな
今の時代のほうが森林としては豊か

402:人間七七四年
16/03/21 09:45:43.45 3uzQrhf5.net
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            |  彡⌒ミ
           \ (´・ω・`)また髪の話してる
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               し \:::
                  \

403:人間七七四年
16/03/21 10:54:37.96 gb6tx5ZK.net
昔はヒノキの大木なんてそこら中に林立してたんだろうね

404:人間七七四年
16/03/21 11:17:12.46 497TVpTj.net
昔つっても大昔ならな

405:人間七七四年
16/03/21 16:33:21.41 gWI1KZhW.net
集落の近辺がみんな禿山ってありえるのか?
それなら集落維持できなさそうだが

406:人間七七四年
16/03/21 16:34:41.67 XdFMeAZt.net
京都がマツタケの名産地になったのは木材の需要が多い為
殆どの山が禿山になってしまい、その後アカマツしか生えなかったから

407:人間七七四年
16/03/21 19:27:17.85 vepE1UGe.net
木曾とかはどうなんだろ
もともと制限かけて守ってきたのかな?

408:人間七七四年
16/03/22 00:12:44.84 L2q8UnZ2.net
東海道53次の絵の背景はほどんど山に木がないのは実際そうだったからという話があるくらいだし
薪や家の木材としての消費量は凄かったんだろうな

409:人間七七四年
16/03/22 00:47:22.61 d6BmmApU.net
北朝鮮は燃料で伐採→山崩れで大惨事を未だにやってる

410:人間七七四年
16/03/22 06:37:23.96 RhZdWany.net
山の斜面にソーラーパネル並べて全滅させた画像思い出したw
ジャップもチョンと同じ思考だから安心しろよ

411:人間七七四年
16/03/22 07:14:08.35 MDylwIZJ.net
>>410
ニホンゴ上手デスネ

412:人間七七四年
16/03/22 08:34:24.41 v5R4mDdh.net
早く貴方も帰化するといいよ
一旦受け入れてもらえさえすればどうとでもなるから

413:人間七七四年
16/03/22 10:06:45.18 Sv+Wg9UP.net
白河の、結城七郎藤原義親は、かつて暦応(1338-1342)の頃、南朝の勅によって、国司北畠顕家卿の
要請に従い、奥州より攻め上り伊勢国にて死んだ結城上野入道道忠(宗広)から十代あまりの末裔である。
であるが、義親の一族である中島上野介という者は、義親へこう諫言した
「豊臣秀吉公が鎮西南海北陸に威を振るわれている事は、ここ5,6年の間に耳に触れてきたことです。
殊に、今度は坂東一の首長である北条の一族も間もなく滅亡するだろうと、世間もはっきりと取りざた
しております。ですから、直ぐに小田原に参向あって、秀吉公の味方に属せば、まさに当家中興の先表になると
考えております。」
しかし義親
「私もそうは思っているのだが、家が貧しいため行程の旅費、土産の品も沙汰しがたく、徒に日を移して
しまっているのだ。」
上野介
「今度のことはお家の大事なのですから、旅費・土産は家中の面々に課役をかけ調達すべきです。
先ず、土産の品は、秀吉公も小田原まで遠路の陣中なのですから、米ニ百俵を献上すれば然る可きと
考えます。その内の百俵は私が調達します。残りの百俵を、家中にて調達して下さい。
しかし、もし遠方への旅程を苦労に思われるのでしたら、恐れながら私が代官と成って秀吉公の
もとに向かい、宜しく申し上げます。」
こう言われても、白河義親は結局はこれに同意しなかった。
彼は奸佞の近習たちを集め「この事どう思うか?」と評議させた。
面々は兵粮運送の課役を厭い、言葉巧みに申し上げた
「今の乱世に諸民は疲弊しています。その上に白米ニ百俵の課役運送の人夫の費えは、民にとっても莫大な
ものになります。
また、あの中島上野介は、普通の人間以上に利口で弁舌の立つ人物ですから、彼が代官と成って秀吉公の
御前に出れば、何を言い出すか解ったものではありません。」
等々讒言したことに、白河義親も同意し使者すら送らなかった事こそ、運の尽きであった。
その後秀吉公が会津に下向した際、義親は御迎えに出たものの、彼は許されず領地は没収され、その地は
伊勢の住人である関右兵衛に与えられた。
この後、白河義親は城西の金勝寺という禅寺に密かに居住したが、関右兵衛はこれに遣いを立て伝えた
『そこでは下郎の推参もおぼつきません。ひとまず何処へなりともお退きされますように。
こう申すのも痛わしい事ですが、公儀を恐れ、このように申し入れているのです。』
義親は
「私もそう思っているのだが、暫く住居を求めている間にこの様に引き延ばしてしまった。
追っ付け立ち退くであろう。」
そう返答し、やがて那須の内湯元という所に移っていった。
後には伊達の一族の由縁があったため、仙台の門下に降った。
(伊逹秘鑑)

414:人間七七四年
16/03/22 10:25:05.84 mr3hUf0x.net
秀吉の脇坂へのお手紙も材木がああ本数がああ産地がああ早く送れええだからねw
どんだけ木に飢えてたことか

415:人間七七四年
16/03/22 21:57:40.20 3dUL2Xni.net
そういえば戦国時代かどうかは知らないけど日本昔話の「箸蔵山の赤い火」というので
箸蔵山ってのは神聖だから入ってはいけない、となっていたのに
ある百姓が落ちている木を薪として売ったところ大儲け
そのうち落ちている木だけじゃなく立っている木もどんどん切って売ったため大富豪となり
山の麓に大きな屋敷をつくった
しかしある雨の日、箸蔵山から石がとんできて何者かの轟くような声が聞こえたとおもったら
山崩れが起きて屋敷は潰れてしまいましたとさ
こうして「やはり箸蔵山には神が住んでいる」とそれからは誰も木を取ろうとはしませんでした
てのがあったが、こういう教訓話で伐採を禁じてたんだろうか

416:人間七七四年
16/03/23 01:09:40.50 iBFEBss3.net
 御大名方へ銀主と申す者達が御館入を務め、金銀の御借入れの事などを近年承っています事は甚だあってはならないことです。
万石取は町人風情の金銀を御借入れなくても、なさりようで毎年準備金を残すことができると思われます。
このような事等は誠に役人が物事を自らの仕事を済ますとすぐに立ち去るように取り扱うために起こるのであり、
この事情により御借入することが出てくるのであると思われます。
 銀主と申して館入を務めることは、秀吉公の御代から始まりましたことだそうで、
その余毒がただ今でも行われてきたことは、あってはならない事と思われます。
(本阿弥行状記)
天下一統により需要が増えたので借金しなければならなくなったのでは?
後、本阿弥家のある京阪では銀で、江戸では金なのですね

417:人間七七四年
16/03/23 01:48:20.33 OqS4BgTD.net
>>67
”羽柴長吉は太閤の小姓、比類なき美少年也。太閤、或時、人なき所にて近く召す。日頃男色を好み給はぬに故に、
人々皆奇特の思ひをなす。太閤問ひ給ふは、『汝が姉か妹ありや』と。長吉顔色好き故也。”(老人雑話)
この話の羽柴長吉って、当時秀吉の養子だった池田長吉のことなんだよね
もし姉妹を紹介してたら、見目の悪い天球院が

418:人間七七四年
16/03/23 18:05:18.90 69exh12o.net
賞の隠れたるはこれを探り、罰の顕れたるはこれを押さえる事こそ、名将の為す所である。
天下泰平の時代でさえ、人の心を疑い、善悪の偽説が往々に流言すること、これ世の常である。
いわんや戦国の人心、昨日は今日に替り、明日は今日に変ずる。これ乱世の常である。
おおよそ兵家において、その時によって虚偽を謀るのは一時の変であり、あえて不信不実の沙汰には
及ばない。ただ、君を欺き親を欺く徒のみその罪逃れる所なかった。
天下一定しない内は、諸侯互いにこれを謀ること、これは乱世の覇将たるもの専らすることであるので、
その事績においては虚実紛々である。
伊達政宗が豊臣秀吉の糾明によって私戦の伝評を立てられ、太閤の機嫌を損ね、首尾は他に異なる
ほどであったのに、合戦粉骨で得た地である仙道会津を召し上げられ、蒲生氏郷に与えられた事、
時の盛衰とは言いながら、時日も経ない眼前の賞罰に、伊達家の家臣たちは或いは怨み、或いは憤る者
多かったため、政宗自身の心中もああだろうと推察した者たちが言い広めたのだろうか、
ただ誰となく、このような話が唱えられた
『今度の奥郡発向を幸いに、大崎・葛西・南部の端々の者共一揆の結成を勧め、不日に蜂起すれば、
蒲生氏郷は兵を発してこれを制するであろう。その時政宗もかねてよりの先鋒であるから、出陣するも
一揆と密通して、時所を計り、土地の案内を知らない氏郷を引き入れ、包囲して討ち果たせ、
その後に自ら一揆を鎮めれば、氏郷は不運に滅亡したということに落ち着き、一揆を鎮めた功は
政宗に帰され、その賞として再び会津仙道を得る。その陰謀は実に巧みである。
見ていよ、不日に奥郡に一揆が起こるであろう。』
この話はここかしこにて囁かれ、会津仙道においては只事ではなく、この流言のみ飛び交っていた。
(伊逹秘鑑)
秀吉の奥州仕置の後の、風聞についてのお話。

419:人間七七四年
16/03/24 00:20:02.39 qtiUgdxf.net
石田三成について伝わる話によると、太閤秀吉の寵臣である石田治部少輔三成は近江国石田村の地士、
佐五右衛門という者の子であったという。この佐五右衛門は久しくこの土地に住んでおり、村邑の長と
称していた。

この妻が解任し一子を儲けた。佐吉と名付けられ、両親から限りなく寵愛された。
弱冠に及んで智計群を越え、器量もまた類いなかった。父母の喜びはさらに増したが、その家貧しく、
育て難かったため近隣の真言宗の寺に扈従として預けた。
ある時、羽柴秀吉がこの寺に参詣した折、佐吉が容貌艶やかで、立ち振舞も勝れていたのを見ると、
秀吉は彼を召して、夜には閨を同じくし、玉枕を並べた。
それより次第に立身し、二十万石の大名と成ったのだという。
(伊逹秘鑑)
珍しい、石田三成が秀吉の寵童だったという記述である。

420:人間七七四年
16/03/24 13:44:06.56 HBQcswxs.net
正澄が完全に無視されてるな

421:人間七七四年
16/03/24 22:22:56.31 hbwHPgnY.net
ちょっと訳しきれなかった所あるからあやふやだけどご勘弁

毛利隆元のお風呂マナー講座 〜主人と一緒の時〜
一、目上の方とご一緒する時は、下にむしろを敷いてはいけません。
一、風呂の湯殿に入る時は、自分の垢をきれいに掻き落としてからむしろを敷きます。
  主人が上がったら、いつまでも湯殿の中に残っていないで上り殿へ上がりなさい。
  本当に上がる時もちゃんと上り殿にいて、主人が帰った後は小風呂に入りなさい。
一、元結やさくすは小者に言って取ってもらいないさい、自分で取り寄せるんじゃない。
  湯殿の衆が上り殿に出てきたのに、小者達を上り殿に上げずにいたらこういう用がこなせません。
  前もって小者を上げておくこと。

当時の風呂も裸の付き合いとか言いながら、
会社の慰安旅行みたいに色々気を遣わなきゃいけないとこあったんだろうなーと
悲哀を感じたので悪い話で。
こんなマナーをメモに残しておくなんて、お兄ちゃん何かあったの……?

422:人間七七四年
16/03/24 22:29:41.72 gM8E/NV1.net
蒸し風呂とはいえあまりそこいらにあるものじゃないから、
使用方法に慣れてなかった人が多かったんじゃあるまいか

423:人間七七四年
16/03/24 22:43:06.27 VMlfcDmH.net
さくすって何?

424:人間七七四年
16/03/24 23:11:11.56 o+FjbNAE.net
さくすでググったらスクラマサクスって剣が出てきました

425:421
16/03/24 23:14:41.69 SiAtBDJm.net
>>423
すまん、自分もさくす分らんかった
元結と一緒に書かれてるから身の回りの品なんだろうとは思うんだが

426:人間七七四年
16/03/25 11:13:55.44 OLtmf2Ma.net
サクスもだけど、元結ってなんでしょうか?

427:人間七七四年
16/03/25 11:59:42.46 ZcUwe5A0.net
サクス…ザ・シンプソンズでリサが吹いてるやつだろ

428:人間七七四年
16/03/25 12:03:06.67 tbZyYa43.net
文七元結という人情噺でしったが髷を縛る紐

429:人間七七四年
16/03/25 13:25:17.28 10Tr2RE8.net
髷を結う紐だから、それに関係する物じゃないかな?
櫛とか椿かなにかの植物油とか、あるいは酢かもしれん

430:人間七七四年
16/03/25 23:38:53.66 EHKpoSn5.net
戦国時代のお侍のお風呂って、普段は
小物や近習と入って世話してもらったりするんかね?

昔の偉い人のお風呂ってーと、なんかよく
薄着一枚の女の人に世話してもらうみたいな
ピンク気味の接待と直結してそーなイメージがあるんだがw

431:人間七七四年
16/03/25 23:41:47.34 RsgRIGxx.net
蒲生氏郷「風呂は主人が焚くもの」

432:人間七七四年
16/03/25 23:50:22.81 10Tr2RE8.net
その人によるんじゃないのか?
男好きな奴だっているし

433:人間七七四年
16/03/26 00:22:19.25 uE+/Jy3t.net
細川政元「女じゃ刺客が来た時あてにならないから小姓の方が良いだろ」

434:人間七七四年
16/03/26 00:44:22.84 EmgUfXaA.net
風呂には木刀があれば大丈夫

435:人間七七四年
16/03/26 01:00:08.86 jRU1UnJO.net
竹光持って風呂入ろう

436:人間七七四年
16/03/26 01:19:29.02 zhcQj6Rq.net
風呂で刺客に襲われて死ぬのは嫌だな
源義朝とか太田道灌とか最期がみっともないからいまいち評価されてない

437:人間七七四年
16/03/26 02:07:41.44 B+a2Nk0M.net
風呂で小姓とイチャイチャしてるところを刺し殺されたんだっけ?

438:人間七七四年
16/03/26 03:15:25.75 hU6z037w.net
>>433
家康「主人とよく似た女を使って、いざってときに影武者にすればいいじゃない」

439:人間七七四年
16/03/26 04:40:26.45 3Pwn/aoY.net
式神でいいじゃん

440:人間七七四年
16/03/26 05:29:49.44 kKXYlWLB.net
源義朝の暗殺の話読んだ時おもったのは周囲に警戒してる手下いなかったんかね?
だったな

441:人間七七四年
16/03/26 07:49:44.86 I2IpVs83.net
剛毅な人ほど大胆に振る舞うからね
用心は臆病者のすること

442:人間七七四年
16/03/26 07:56:58.47 enf1COfj.net
>>436
確かに信長の最期が風呂で襲われて
「是非もなし!」
だったら大河ドラマとか無理そう。

443:人間七七四年
16/03/26 09:12:22.51 UjQLVa6U.net
世の中には厠で死んじゃった人だっているんですよ!

444:人間七七四年
16/03/26 09:56:20.80 nqotctmz.net
>>442
イケメン俳優に湯船からザバーッと立ち上がらして裸で仁王立ちしたあとに是非もなし!なんかかっこいいw

445:人間七七四年
16/03/26 10:41:07.94 HD0VYwLt.net
信長「昔より 主人を討つ身の 風呂なれば 報いを待てや 日向惟任」
と言って斃れる信長か

446:人間七七四年
16/03/26 13:14:58.35 kiw4woY8.net
十河「馬から落ちて死ぬよりはマシ」

447:人間七七四年
16/03/26 15:13:32.43 tBtQgp7s.net
佐竹義重「源氏として頼朝公に倣っただけだから・・・」

448:人間七七四年
16/03/26 15:24:58.02 taSdLLLC.net
頼朝の死といえば、「東鑑」に頼朝の死亡あたりの年の記事がないもんだから
「頼朝にとって不名誉な死だったため、頼朝を崇拝していた権現様が削ったのだ」
と語られていたけど、択捉島に「日本の領土」という碑を立てた近藤重蔵が
「戦国末期の時点の写本でも欠落しているため、江戸に入って削られたものではない」
と考証したという話があるな
権現様が頼朝、東鑑を参考にしてたというのは有名だったんだな。

449:人間七七四年
16/03/26 23:16:31.64 y6nwLLrA.net
 秀吉公の御代から知行は四ツ物成(年貢が四割)になりまして、甚だ御禄のものが払底しております。
なにとぞ他のなされかたもあるのではないかと思われます。
 また公家方は三十石取といった御身上は、はてさて、恐れながら気の毒だと思われます。
多くの商人達の十人に九人は、公家方と申すと鬼神のように心得て掛売もしない。
なにとぞなされようがあってほしい事と思われます。
今は関白殿下を始めとして、揚名の官(名ばかりの官職)でして政に関与なさることはなく、
明け暮れ歌を詠み、香車風流ばかりを弄びなさっています。
きわめて小禄の公家衆は歌も詠まず、おおかた無理に飲むことで酒をたしなみ、身軽いので密かに勝負事の場所へ入り込まれています。
あるいは貧しい売女のような者に恥とも思わず馴れ通って、果てにはその売女を本妻にされる類も内内に聞いております。
 これは貧しいから起こることで、なんとも気の毒でございます。
なにとぞ全公家衆のもとへ三万石ばかり贈られれば、お行儀も直せるのではないでしょうか。
かつ禁裏様の御守護も重くなるのではないのでしょうか。
(本阿弥行状記)
全ての公家に三万石はきついでしょうねえ

450:人間七七四年
16/03/26 23:29:32.27 tBtQgp7s.net
合計で三万石ってことでしょうね

451:人間七七四年
16/03/27 02:28:56.27 IdgiLpGz.net
ああ、そうですね
公家の数を約130家としますと、一家に約230石ぐらいとなりますね

452:人間七七四年
16/03/27 07:56:29.16 vQfV29B3.net
実力で成り上がった秀吉は利用する価値もない泡沫公家なんか大嫌いだろw

453:人間七七四年
16/03/27 09:03:00.89 edYvsl2/.net
これ猪熊事件の頃の話じゃないのか

454:人間七七四年
16/03/27 09:18:58.21 pZZ2/1xg.net
織豊以前はもっと困窮してたろ

455:人間七七四年
16/03/27 09:33:37.01 7Jein4zk.net
この後に和子入内で秀忠が増やしてやってるんだよね

456:人間七七四年
16/03/27 09:35:50.11 U/uXeUMx.net
関白も政治に関与してないって事から
徳川幕府成立後の話なんでは。
秀吉公の〜ってのは予防線としての前置きみたいなもんだと思う。

457:人間七七四年
16/03/27 11:31:47.93 9X1WzsL8.net
4割と定まってるならそれ以上多額の税をかけるわけにもいかないということか
貧乏をこじらせてやることといったら飲む、打つ、買うってのは確かに哀れなんだよなあ
逆に戦乱で京都から亡命してた頃のほうがいい暮らしができてた人もいるんじゃないか

458:人間七七四年
16/03/27 11:59:36.91 Qwl0utdK.net
公家領は武士に対しては存在する軍役・賦役が無く、税収がまるまる懐に入るので実は武士より恵まれていた面がある

459:人間七七四年
16/03/27 13:17:44.94 9X1WzsL8.net
>>458
あー、言われてみればそれもそうか
でも同額面の武家の知行の数倍相当だとしても決して高くはないのでは

460:人間七七四年
16/03/27 13:29:35.72 7Jein4zk.net
亡命出来るくらいの公家は手に職持ってるからそれなりでは
亡命時代の日記みても今度は小姓に六韜講義しろって言われためんどくさとかいってたり
やっぱそれなりに大変そうやでw

461:人間七七四年
16/03/27 13:42:50.81 9X1WzsL8.net
>>460
確かにそれもそうだ

462:人間七七四年
16/03/27 18:00:19.13 4Aczxb8v.net
>多くの商人達の十人に九人は、公家方と申すと鬼神のように心得て掛売もしない。
どういう意味だろうと思ったら、ローンで買わせてくれないってことか。
金を返してくれない存在と商人たちが思ってたってことで。

463:人間七七四年
16/03/27 19:03:16.74 eo7a1+Z9.net
>>448
全く関係無いけどロシアの標識引っこ抜いて
大日本恵土呂府の標識建てた事は内緒な

464:人間七七四年
16/03/27 19:33:31.92 L8xTmexW.net
もっと関係ないけど、日本に「大」ってつけるようになったのっていつ頃?
戦国の頃はまだついてなかったような

465:人間七七四年
16/03/27 19:56:18.88 DDvpgp/d.net
大和だって「大」がついているわけで
独立国とか中華の皇帝に従わず独自の皇帝を持つという意思表示の一環では

466:人間七七四年
16/03/27 21:53:16.39 /od626cG.net
>>462
ローンじゃなくて現金払いかどうかって事。
クレジットカードに近いけど、集金するのがクレジット会社じゃなくて
商店自身がやらないといけないので、踏み倒す危険性が高い人は
掛け売りを断られてしまう。

467:人間七七四年
16/03/27 23:00:42.57 bRpg+Au9.net
なお細川家…

468:人間七七四年
16/03/27 23:45:07.53 4Aczxb8v.net
武家は武器で脅して踏み倒していたけど
公家はどういう理由で踏み倒し得たんだろ・・・

469:人間七七四年
16/03/27 23:49:49.56 4Aczxb8v.net
あー、公家は武家と違って一度不渡りを起こしたら二度と貸してもらえないんだ。
自分で解決した。武家が刀で脅すのは二度目ですね。

470:人間七七四年
16/03/28 03:32:00.26 kKHIffK9.net
???「借金?そんなもんは一揆起こせばチャラになるから怖くねーぜ!」

471:人間七七四年
16/03/28 20:01:43.88 V/JoKbcb.net
>>417
天球院の肖像画が残っているが普通に美人さんだよ

472:人間七七四年
16/03/28 21:18:00.92 DemqXdSQ.net
北条討伐により、豊臣秀吉は小田原城を攻め立てたものの、小田原は音に聞こえた名城であり、
落城する様子は見えなかった。秀吉は小早川隆景を召して言った
「この城を数ヶ月攻めているが、未だに陥落しない。この上は総攻めにしようと思っているが、
お主はどう考える?」
隆景答えて
「総攻めと命ぜられましたら、即座に攻め落とす事でしょう。ただし、味方も多くの死傷者が出るでしょう。
私の父である毛利元就は、数か国を乗っ取った者でありますが、父は城を囲んで弱らせる時は、
城中を割る謀を巡らせました。この時、仮に我らと語らった者共が、我々に同心しなかったとしても、
語らったという事実は漏れ聞こえ、城内の者達にに疑心暗鬼を生じさせ、程なく落城におよび、
人も損ないません。
殊更、この小田原城は大軍が立て篭もっていますから、必ず人心を統制することは出来ません。
籠城において人が多すぎるのは保ち難いものであると聞き及んでいます。
御計略によって、程なく落城させることが出来るでしょう。」
秀吉はこれを聞くと「兼ねて聞いていたことに増して、毛利元就とは謀略深厚な人物であることだ。」と
感心した。
そうして秀頼は富田将監を召し
「汝は北条氏政の老臣、松田尾張守と親しいのだから、これこれの通り松田に申し伝えよ。」
富田は松田に遣いを立て、『御味方に属せば伊豆相模両国を与える。』と密かに伝えた。
松田はたちまち心を変じ、味方する旨を返事し、嫡子新六郎、次男左馬助を呼び寄せ斯くと語った。
しかし次男左馬助は思う仔細有り、密々に主君氏政・氏直にこの事訴えた。
氏政は大いに驚き、松田を誅殺した。しかしこれにより隆景が考えた通り、城中の諸将兵士、
軽卒に至るまで、各々が疑心を持つようになり、城中騒乱して、今や諸軍の心は個々に立ち隔たる
有様と成った。
このように成っては防戦を遂げることも出来そうになく、城を保つことは難しい事態と追い込まれたため、
氏政・氏直父子は独夫の義勢も尽き果て、是非なく剃髪して秀吉の軍門に下った。
これによって関八州は併呑され、小田原に滞留し残党を征した。
(伊逹秘鑑)

473:人間七七四年
16/03/28 21:23:21.47 JZcHoAiY.net
本阿弥「親や兄を裏切るなら松田憲秀が誅殺された時点で自害しろよ」

474:人間七七四年
16/03/29 01:10:47.44 30ED7ZkZ.net
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
しかしまとめの逸話と大河を比較するといろいろ面白いな
加沢記の室賀や信幸や昌幸の娘の話とか、↑の春日信達の話とか
天地人とか江では比較する気にもならなかったけど

475:人間七七四年
16/03/29 13:49:51.82 ERoemA1V.net
大河見てないから分からねえ
どう違うのか教えてくれると有り難い

476:人間七七四年
16/03/29 19:07:39.68 ldznlRBE.net
>>472
まとめのほうで読んでて気がついたけど、中段で秀頼が富田将監を召してる

477:人間七七四年
16/03/30 00:34:23.46 6rIyf3Q2.net
 諸国に銀札と申す事があります。この事について思いもよらぬ刑罪の人が出てきています。
国々に銀札の替わりに銭を拵える事をお許しなされたら、日本国中でゆとりが生じ、万民がありがたがることができると思われます。
 ただしこの一事で承っております事に、秀吉公の御賢慮により
「随分色々と臨時の事を申しつけて、とにかく払底させることが天下太平の基」
と仰せられましたことは、一応その利が無いわけではありませんが、国々の困窮が甚だしくなり下々に響き総じて日本国の
弱みとなるかと思われます。民は国の元と承っております。
 秀吉公はあまつさえ千枚分銅とやら申して、黄金を数限りなく貯えられましたという。
秀頼公の御代で新たにお召し抱えた大名小名へ金子で知行を下されましたと聞いておりますが、
いかほどの名城でも日本国中の大名小名を敵にしましては、千枚分銅もだた当座逃れの事でついに落城しました。
 なにとぞ諸国で銭を鋳る事をお許しなされて、その下地の鉄を粗末にしないようにしたいことです。
鍋銭(寛永通宝鉄銭)では悪だくみの者が似せまして、銀札の偽札と同じようになるでしょう。
 ならびに銭の相場も下がるのではないかと思われます。とにかく金銀ともに相場と申すことなく、
銀六十目で金一両、銀十五匁で銭一貫文にしたいことです。
(本阿弥行状記)
札のほうが銭より手頃でいいのにね

478:人間七七四年
16/03/30 17:51:43.46 8Xmg7lP3.net
名古屋城天守閣の復元、竹中工務店案を採用 総事業費500億円
URLリンク(www.nikkei.com)
URLリンク(www.fnn-news.com)
URLリンク(www.sankei.com)
うーん…
どうしたものか

479:人間七七四年
16/03/30 18:29:34.45 YbXYRxtz.net
アメリカに請求すべき

480:人間七七四年
16/03/30 19:14:19.92 XQdkBBbY.net
織田の普請奉行が竹中工務店の創業者か
いっそ一夜城を

481:人間七七四年
16/03/30 19:49:12.66 5Y+KrJkh.net
公務員の給与カットするなら許す

482:人間七七四年
16/03/30 20:56:56.94 jnB2xSGc.net
>>478
あそこは市長も県知事もコスプレしょっちゅう披露してるような
それはそうと木造ではあるもののエレベーターを付けるのか
なんとなくいいんだか悪いんだかわからねえ
まあ鉄筋天守自体に価値が出てしまう前にやらないと木造再建できない気もする

483:人間七七四年
16/03/30 23:03:21.28 cMn3eGOe.net
犬山城の方を大事にしたら良いのに
江戸城の話はどうなったんだろう

484:人間七七四年
16/03/31 05:18:15.10 D7dfEllj.net
武田家滅亡の後、織田信長は武田の分国への仕置をなし、関東の管領として滝川左近将監一益を
上野国群馬郡厩橋の城に移した。武蔵・上野の旧武田分国の武士は残らずこれに出仕した。
真田昌幸は信州、上州両国に領地が在ったため、厩橋にも出仕した。
滝川一益は厩橋城で昌幸と対面した時、こう声をかけた
「あなたは承った所によると、以前は武藤喜兵衛と名乗っていたそうだ。しかし今回、つつがなく
武田が没落した以上は、鐵(かね)兵衛殿と呼ぶべきかな?」
そう、座興として言ったそうである。(喜兵衛を音が似ている金兵衛とかけた駄洒落である。)
その頃沼田の城は甲州の乱によって北条殿に横領され、藤田信吉は越後に浪人していた。
そこで一益は沼田の城に甥の滝川義太夫を城代として入れた。
一益は国中より人質をとったが、真田からの人質はなかった。これは真田信幸の姉が、人質として
安土に遣わされたためである。
(加沢記)

485:人間七七四年
16/03/31 11:05:32.88 8cICybwo.net
>>483
屏風絵とかから想像するしかない『僕の考えた江戸城天守』なんていらんわな

486:人間七七四年
16/03/31 12:37:15.33 JD4Uqr+I.net
現状の皇居がすでに歴史的遺物なので手を加える必要はないとは思う
そびえたつクソの大坂城名古屋城は好きにして

487:人間七七四年
16/03/31 22:43:16.68 5sfjcNmS.net
大阪城を作ったのは大林組ってのはネタになるけど、法隆寺を作ったのは金剛組ってのはネタにならんよな

488:人間七七四年
16/03/31 23:45:58.71 h5aaAhzw.net
江戸城天守造りたいなら千葉にでも建てとけ

489:人間七七四年
16/04/01 00:03:45.33 q8KEpmAM.net
フランシス・カイロンは、彼が江戸に有った時に起こった一事件に関して語った。曰く、
エムベロム(将軍)の一領地を支配する貴族があった。その領地における借地人に、
エムベロムが命じたもの以上の借地料を課していた。この方法によって彼は自己を富ませたが、
人民はその負担に耐えることが出来ず、団結して内閣に至って領主を訴えた。
内閣はこれを調査してその罪有ることを知るや、該当の貴族は家族とともに切腹して自ら死刑に
就かせることと定めた。
彼には一人の同胞があって、肥後の王に仕えていた。肥後は江戸から離れること西方247リーグである。
またそこから30里隔てた薩摩に一人の伯父が有った。
第2子は江戸より東に隔てること110リーグに住してマッサマ(Massama)の王に仕え、第3子は
インカノ(Inquano)のエムベロムの城に在った。末子は大阪の裕福なる商人の娘と結婚していた。
兄弟2人はエムベロムの近衛であった。
これらすべての人々は、彼らの兄、弟、又は父の罪のために、同一の日時に切腹することと成った。
処刑者の為すべきことは次の物である。
第一に、死の使者が悲報を最も遠くにある親戚に伝えるべき日時を計算し、これを最終時間として、
それ以上の執行猶予を許さない。最も近くにある者も、最も遠くの者と同日に正午を期して厳命に従い、
各々が自己の残酷なる破壊者となる。
然れどもその日、大阪の商人となった末子は自殺をしなかった。大いなる恐怖に打たれた彼は、
知らせを聞くや直ちに死んだためである。
彼の唯一の子であった女児は罰せられることはなかった。しかし自殺せんと欲し、自ら食を絶って
11日目に死んだ。
ただし、これらの人々に関係ある婦人が、如何にしてこの数家族の破壊中に身を脱したのかは、
カイロンは語らなかった。
(モンタヌス日本誌)

490:人間七七四年
16/04/03 15:18:51.96 s1yGAbCK.net
大坂城の女中が集まる三の間に大砲の弾が撃ち込まれ茶箪笥を打砕き、淀殿の居間まで悲鳴が聞こえるようになるにつけ、
淀殿の口も和らぎ、織田有楽斎、大野修理へ「何卒和談を取り付けたい、秀頼の為なら自分が江戸へ下向してもいい」と言ったが、
秀頼が承知せず、この上は近臣の出頭の者に諫言させようと相談した。
渡辺内蔵助は鴫野の一戦以後秀頼の前を損し、
薄田隼人も博労淵の出曲輪を取られ、日頃の力量自慢ほどではないと城中のひとに取沙汰されているのを恥じて万事控えめになっている。
木村重成は後藤又兵衛が今福の戦いを秀頼に報告し、以前の倍も信頼を受けている、木村から言ってもらうのがいいだろう、と
有楽斎、大野が木村を招いて、和談の上淀殿を江戸へ差し出すことを秀頼へ提言するように言ったが、これを聞いた木村は
「今の話は片桐が最初に話したことと少しも違いはなく、今さらそのような申し上げはできない。
各々に幾度でも言うが、このような次第になったのは畢竟秀頼さまのご運の末と嘆くほかない」
と言うので、二人ともあきれ果てた。
その後後藤から強く申し付けたことで秀頼も得心し、和議の相談が進むようになった。
この話は難波戦記等にはないが、牧尾是休斎が語ったことである。
落穂集から抜粋
木村重成がいかにも若いな〜って感じだ

491:人間七七四年
16/04/04 20:37:29.38 c0Q39Gk6.net
1646年8月15日、平戸にて起こった一連の事件は、日本の婦人の貞操を証明するに足るだろう。
ヤカタイ(jakatai)と称する身分有る一男子がとある婦人と結婚し、間もなく要務のため都に赴いた。
この事より以前、ある一貴族はこのヤカタイと結婚した若き婦人に求婚を申し込んでいた。
彼は「もし承諾なくば他の婦人を娶らない!」とまで言ったが、彼女より拒絶されていた。
しかしこの機会に乗じて、多数の従者を従えこの婦人の家に押し込み、強いて情欲を満足させた。
彼女は、このような害を受けた以上復讐せんと決心し、彼を引き止めて再度の享楽を有すべき希望を
抱かせたが、そのような間にヤカタイは都より帰宅した。
主人の帰宅の歓迎のため、家人たちは家の最上階にて宴を設けた。そして彼女は自分の友人、
およびかの貴族を招くようにと命じた。
こうして宴たけなわの頃、ヤカタイの妻は立って問うた
「近頃一婦人あって狼藉に遭いました。彼女は如何なる罰を受けるべきでありましょうか?」
席の者達は口々に言った
「その曲事の主を殺すべきである」
彼女は声高に叫んだ
「私は実にその女である!そして之を行った者もあそこに座している!
乞う、私の生命を奪え!このような行為を忍ぶという恥辱が、外の婦人を汚さないよう、
私のような劣悪な者が人間の中に生存せぬように!」
一同はこの告白を皆意外に思ったが、特に驚いたのは夫のヤカタイであった。彼は婦人を慰撫し、
「今後、この事を忘れるのだ。」と説得したが、彼女はその言葉に満足せず
「郎君は私の被った恥辱に対する復讐をされないのか!?ならば私自ら為すべし!」
言うやいなや、その家の最上階より飛び降り、頸を折って死んだ。
客中にあった暴行者も、生前愛した者と死を共にしようと、階下に降り、切腹して婦人の死骸の上に倒れた。
(モンタヌス日本誌)

492:人間七七四年
16/04/05 23:06:15.09 OD6R1q59.net
関ヶ原により家康の天下となると、自然諸国の大名はみな駿府へと参勤した。慶長10年の春、徳川家康は
上洛、大納言徳川秀忠は3月27日に、前田利長、結城秀康を供として上洛した。
この時、徳川家康が伏見城の舟入の楼に上って秀忠の京着の行裝をご覧になるということだったので、
御供の面々は綺羅を輝かせ美麗を尽くし、見物の貴賎は巷に満ちて、目を驚かすばかりであった。
4月26日、徳川秀忠は参内し、叡感あって正二位内大臣征夷大将軍淳和奨学両院別当源氏長者に宣下された。
この時、結城秀康にも正三位権中納言に任じられ、源家の繁栄は日比に越えた。
これより徳川家康は、大御所と称し、秀忠は新将軍と称し天下の大小名は何れも妻子を引き連れ、
江戸と駿府とに相詰めた。
このような中、豊臣家の衰退は日に顕れ、豊臣秀頼の権威も日に衰え、哀れなる有様であった。
殊に徳川家康は、関ヶ原以後は上洛しても大阪に下向すること無く、ただ使番などを以ってその旨を
伝えるだけであった。
大阪には摂津河内両国意外に蔵入地も無くなったため、諸国人は勿論、あるいは絵所、或いは四座の
猿楽に至るまでおおよそ技芸のある者達は、みな大阪を去って関東に罷り下った。
なかんずく、慶長12年、朝鮮国の信使が来朝した時も、直ぐに関東に下向して、大阪には登城すること
なかった。
豊臣秀頼、淀殿を始めとして豊氏恩顧の輩は、何れも憤慨を差し挟むこと少なくなかったが、独り
豊臣家執権の片桐且元が時々に異見していたため、これによって表面化するに至っていなかったのである。
(慶元記)
豊臣家の不満を片桐且元が抑えていたという、慶元記の記事である

493:人間七七四年
16/04/05 23:14:19.67 QEURfml4.net
秀忠は源氏長者にはなって無いんじゃなかったっけ?

494:人間七七四年
16/04/06 11:18:32.94 dN10VpVF.net
源家って河内源氏の嫡流(頼朝の家系)に使う言葉じゃねえの?

495:人間七七四年
16/04/06 11:26:50.48 zjgig030.net
イエヤスのはわけわからないほど末流の詐称だしな

496:人間七七四年
16/04/06 11:36:33.71 gjRGJ1K1.net
twitter やってないんでこっちに書き込むけど行軍速度は
URLリンク(goo.gl)
のようにきちんとした軍勢で率いているときは、世界トップクラスで1日20km強。
10km程度でも一般兵混ざってるなら上々。
40kmは普通の軍隊なら強行軍。
まあ南北朝の連中をみると感覚が麻痺するけど。こいつら最低ラインが20kmなんで。

497:人間七七四年
16/04/06 11:48:23.55 gjRGJ1K1.net
もちろん供回りだけのような少人数で後方がほとんどないならば40kmはそこまで無茶じゃないけど。それでも戦国時代の平均行軍速度が40km/日はありえん。

498:人間七七四年
16/04/06 12:16:02.98 njOBvGKX.net
馬の話しの蒸し返しか
それとも全く関係ない話しか

499:人間七七四年
16/04/06 12:40:54.54 gjRGJ1K1.net
>>498
いや、
URLリンク(goo.gl)
とか
URLリンク(goo.gl)
の反論。
供回りだけで40km/日ならあり得なくないけど、軍勢率いているときに40km/日は十分強行軍。10km/日でも普通なら良質な軍勢の行軍。

500:人間七七四年
16/04/06 12:57:24.97 yeSLQlMd.net
>>498
唐突にこういうこと書くのは往々にして基地外だから、放置でそ。

501:人間七七四年
16/04/06 13:17:47.98 4iFAKkPp.net
まぁせめて関連スレでやれと。基地外に言ってもアレだが

502:人間七七四年
16/04/06 13:47:18.22 zdeMXY5Y.net
変なきたなー

503:人間七七四年
16/04/06 13:54:06.32 lxIl+MXh.net
生まれてきて恥ずかしいと思わないのかねこのゴミクズ

504:人間七七四年
16/04/06 23:41:39.93 CKPeu+PL.net
どうもゴミんなさい

505:人間七七四年
16/04/07 20:20:35.10 rYUEzry+.net
>>504
【審議中】
    |∧∧|       (( ) )   (( ) )  ((⌒ )
 __(;゚Д゚)___   (( ) )   (( ⌒ )  (( ) )
 | ⊂l     l⊃|    ノ火.,、   ノ人., 、  ノ人.,、
  ̄ ̄|.|.  .|| ̄ ̄   γノ)::)  γノ)::)   γノ)::) 
    |.|=.=.||       ゝ人ノ  ゝ火ノ   ゝ人ノ
    |∪∪|        ||∧,,∧ ||∧,,∧  ||  ボォオ
    |    |      ∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
    |    |      ( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
   ~~~~~~~~     | U (  ´・) (・`  ). .と ノ
              u-u (    ) (   ノ u-u
                  `u-u'. `u-u'

506:1/2
16/04/07 22:53:45.27 p5esZawi.net
慶長16年、上洛した徳川家康は二条城での秀頼との対面の要求を伝え、この知らせが届くと
大阪城では「これ容易の事に非ず、評定を遂げるべし」と、大寄合を開催した。
列座したのは、織田信雄入道常真、織田有楽斎、大野道犬、大野治長、大野治房、渡辺糺、浅井長房、
織田出雲守、中島氏重、速水甲斐守時之、真野頼包、青木信重、伊藤長実、堀田勝吉、野々村雅春。
郡主馬介良列、生駒正継、三浦義世、千石宗也斎、祝尚玄ら、都合30人であった。
これがこの当時、評定衆と呼ばれた面々である。
しかし、これほどの大事であるのに筆頭の家臣である片桐且元が何故除外されているかといえば、
片桐は大野一族と不和だったためにこれに招かられなかったのである。
このような所に、加藤清正は前日に熊本から大阪へと到着し、この日に大寄合があると聞いて押して
登城した。清正の性質は勇敢にして且つ智謀が有り、故太閤の前であっても心に違うことは憚り無く
発言する人物であった。
暫くして秀頼が大寄合の行われる千畳敷に御出でになった、母堂淀殿も簾を隔てて聴聞した。
しかしこの事は誠に豊家の一大事であったため、何れもお互いに譲り合い、発言するものが
居なかった。
が、ここで大野道犬進み出て
「今回、大御所が秀頼公に御上洛を勧められた事、そこに道理は一つもありません!
どういう事かといえば、官位昇進の御礼を禁裏に仰せ上がるのに、大御所への御対面のついでのように
仰せ上がるのは道に背いています。また、縁者への御礼というのなら、直接の御義父である将軍(秀忠〉を
差し置いて御祖父への御礼とはその意を得ません。
豊国大明神への参内もまた、この対面の理由とすべきではありません。大明神への参拝といっても、
今どうしてもしなくてはならないわけではありません。
であれば、兎に角理由をつけて御上洛の事を引き伸ばし、大御所がどうしても御対面したいのであれば、
以前のように大阪に御下向あるべきです。以上の儀を以ってご返答されるべきです!」
この様に余儀なく言い切ったが、誰もその意見に一言も申しだそうとしなかったので、道犬は声高に叫んだ
「太閤殿下の他界以降も、いつも家康公は大阪に御下向あって対面されていました。それなのに今回に限って
御上洛を促されるというのは、その由緒も全くありません!」

507:2/2
16/04/07 22:54:17.38 p5esZawi.net
この時、加藤清正が座の中央に進み出た
「道犬の今の言葉、理が有るに似て非ざる物なり!
大御所も前々のようならば大阪に下向すると言うだろう。だが、庚子の兵乱(関ヶ原〉以後、天下の権勢は
皆関東に帰した。である以上、以前を以って見るべきではない!
殊に我が君(秀頼〉は未だ帝都の土を踏まれておらず、その上外の世界で天下の武士と交わりが無いため、
人はみな、君を懶惰の将軍と言っている。今度の大御所からの招きにも上洛なければ、いよいよ以って
比興の君と評価され、そうなれば一体誰が志を当家に寄せるだろうか?
一方で関東の両将軍は常に天下の大小名に御入魂の事を心にかけられている為、先君の鴻恩深き
大小名も、今は皆関東に帰伏して大阪の廃亡を心にかける者はいません。
今回は、仮にお招きがなくても、久方御対面が無い事に寄せて、御上洛あるべきなのです。
それを幸いにもお招きがあったのですから、速やかに御上洛有るのが当然です!
清正は不肖では有りますが、御供仕ります。その折、藤堂高虎は有馬の湯治からの帰路、天満の屋敷に
滞在していると聞いていますので、彼もお召しあって扈従を仰せ付けるべきです。高虎は先君の御恩を
山よりも高く蒙った者ですから、違背することは無いでしょう。仮に辞退するようなことに成っても、
私が共々に申し勧めます。
もし今、今回上洛しなければ、御難題を仰せかけられ、その禍目の当たりに来るでしょう。ただ一日も早く
御上洛のご返答あってしかるべきです!」
しかし大寄合は両論に別れ結論を出せなかった。清正は居丈高になって言い放った
「道犬は元は浅井家の臣!今は淀の方様に従って当城に在りといえども先君の御代では部屋住み同然にて
評定の席などで見る人物ではなかった!それなのに、いかに当城に人物が無いと言って、このような
重要な評議に、歴々を差し置いて彼のような者が加わっているのはどういうことか!?
その上発言も一々道理に叶っていない。
この清正は人々もご存知のように先君お取り立ての者であるが、既に御門葉にも列しており、どうして
おため悪しき事を申すであろうか?
道犬のような輩の評定は皆以ってこのようだから、それ故に関東の心象を悪くし、そして当家の御難儀と
なっているのだ!
そもそも今日の評議に片桐兄弟が座していないのは不審の第一である!」
そう荒々しく言うと、秀頼も「清正の言葉然り」として、直に片桐を召した。
(慶元記)

508:人間七七四年
16/04/08 02:53:27.66 DcYidf8p.net
井伊兵部(直政)家中の木俣土佐の家来・何右衛門は九戸陣で首をひとつ取ったのだが、
その首を朝比奈左大夫が頻りに奪い取ろうとした。何右衛門は為す術なく奪い取られる
時に、その首の右耳の外れから左へ一刀を突き通した。
後に首実検の時、朝比奈はその首を持って出た。そこへ何右衛門はつるつると走り寄り、
「重いものをここまで御持参してもらいかたじけない」と、言うと、羽織を首へ被せて、
「この首をそれがしが取ったことは疑いない、 あの男が奪ったのだ! 証拠がある!」
と、言った。朝比奈は、「下がれ! 推参をぬかしおる!」と言うも、何右衛門は少しも
屈さずに、首の耳下の証拠を告げた。
朝比奈は終いに男(武士)をやめて法体となり、道無と名を改めて駿河様のもとへ出て、
その後に三河守殿に仕えた。
大須賀五郎左衛門(康高か)の家来・福岡太郎八は前述の朝比奈の甥である。太郎八の
取った首を朝比奈が奪ったことがあったが、太郎八は敵陣へ駆け込んで、別の首をまた
ひとつ取った。末頼もしき武辺であるというのに、太郎八は前述のことを最後まで一言も
人に語らなかったという。太郎八は加藤喜八の別腹の兄である。
―『武功雑記』

509:人間七七四年
16/04/08 10:47:21.12 E4HK9LdF.net
毛利元就が厳島の合戦で陶氏の大軍を破った後、勢いに乗って次々と陶氏の城を落としていき、
ついには都濃郡須々万まで兵を進めたが、盆地にある須々万城は四方から川が流れ込む沼城で攻めにくい場所である。
毛利2万の軍勢を2つに分けて毛利元就が北側の緑山に陣を張り、息子の小早川隆景が正面から攻めることになったが、
城を守る大将の山崎伊豆守も勇将であったのでなかなか落ちなかった
弘治元年(1555年)の年末から攻め始めたが、にらみ合ったまま時は過ぎて、とうとう弘治3年の春となった
おぼろ月が見える春の夜、城のそばの沼地にあやしい人影が見えた。なんと水をたたえた沼の上を一人の若い女が
歩いていたのだ。それを見た攻め手の兵士たちは幽霊ではないかと騒ぎ立てたが、その若い女は沼の真ん中で立ち止まって
城へ向けて「おまえさまあ」と呼びかけ、「恋う人は 沼のかなたよ ぬれぬれて わたるわれをば とがめたもうな」と歌を詠んだ。
彼女は城内にいる恋人に会いにきたのである
相手が敵方の女と知った毛利側の兵たちは鉄砲でその女を撃とうとしたが、大将の小早川隆景はそれをやめさせて様子を見た。
すると城の中から鉄砲の音がして女は倒れて水しぶきがあがった。味方によって女は撃たれてしまったのだ。そこへ小早川隆景が
大声で、「みなのもの、見たか。女の通ったところが浅瀬だ」と叫んだ。
その声で我にかえった兵士たちは、女が通ったところに竹のすのこや むしろなどを重ねて道をつくり、一気に沼を渡って攻め入った。
あれほど守り続けていた城もこの攻撃には耐え切れず、とうとう須々万城は陥落した。
恋人に会いたい一心だった女の振る舞いが自分や恋人だけでなく、須々万城まで滅ぼす悲劇を招いたわけだが、この女性を憎む話は
伝わっておらず、誰もがあわれなことだと噂しあったそうである

510:人間七七四年
16/04/08 21:46:41.33 wX2tR8C9.net
天正10年は、織田信長、武田勝頼のご生涯があったため、都鄙兵乱止むことがなかった。
信濃国には、徳川家康、上杉景勝が出兵し、上州には北条氏政・氏直父子が出兵した。
真田昌幸は徳川家康に出仕を遂げるべしとて、伊奈の家康陣へ父子にて出仕した。
そのほか。禰津、矢澤、室賀、八代、芦田、保科、常田といった人々、何れも伊奈に出仕し
御礼申し上げた。しかし当時、家康は秀吉との合戦の最中であったため、国々の地頭も居城に引き籠もり、
我が意に任せて大身は小身を掠め、強は弱を侵し領地を争ったため、片時も合戦は止まなかった。
ここに信州室賀の城主、室賀兵部大輔(正武)は文武智謀の勇将であった。
遠く先祖を尋ねるに村上源氏義清公の類葉であり、禰津宮内大元直の嫡子長右衛門尉利直の舅であり、
その上昌幸とは甲府数代の傍輩、知音の仲であったが、真田昌幸が甲州没落後、信濃衆が諸方へ行動を
起こす時、まるで大将のようにこれを取り仕切り、多くの一族はその通り、万事昌幸の指図を
受け入れていたが、室賀はそれに納得しない態度を見せたため、互いに疎遠になっていった。
このため真田昌幸は室賀を退治しようと、禰津に行った。
禰津の家臣である加澤与七郎、別府若狭の両人は、智謀の勇兵であった。彼らに昌幸は、
矢沢頼綱を通じて様々に指示を出し、これによって室賀の家来である室賀九右衛門、松江、堀田らに
調略を廻した。この際別府・加澤に昌幸が与えた証文によると
『おのおのの調略によって室賀家中の過半は我らに納得し、同意したこと、これは忠信の至りであり
感悦している。彼の地について本意を遂げれば、そこから一所を宛がうであろう。
天正十年四月三日                  昌幸
                   別府若狭殿
                   加澤与七郎殿

このような事があって、4月下旬、昌幸は室が城に攻め懸けたが、室賀も聞こえる兵であれば
打ち取ること出来ず、居城に戻り、互いに互いを討つことを計った。
(加沢記)

511:人間七七四年
16/04/09 01:12:36.52 OQYVEnfc.net
>>507
極左グループの会議がだいたいこんな感じなんだよなぁ。違うのが加藤清正にあたる人物の発言が前者よりキチになるってだけで

512:人間七七四年
16/04/11 16:11:56.56 IoCtMYLU.net
松永久秀が三好三人衆との戦いで南都多聞城に籠城した時、三人衆は三好日向守、岩成主税介を大将として
大仏殿に陣取っていたが、松永はここを夜討ちし、槍中村と呼ばれた中村新兵衛を討ち取って、大仏殿を
焼いたが、これは松永久秀が切腹したのと同じ10月10日であったという、不思議な事である。
所でこの中村新兵衛とは、当時隠れなき勇士であり、三好の一党が四国より攻め上がって、京都畿内での
合戦で、毎回のように先駆け殿の働きをし、寡を以って多に勝ち、万死一生を出ること多く、
槍中村と異名された。
後に三好一党が彼を大将に選出した時、固く誇示したがかなわず、大仏焼き討ちの時には大将の号を
得ていた。
彼は松永の攻撃から逃げようと思えば逃げることが出来た。しかし
「私を選んでくれたことに応じなければ、生きた印がない」
そう言って義名を清めて討ち死にした。その姿は誠に剛死と呼ぶべきである。
(甫庵信長記)

513:人間七七四年
16/04/11 17:36:29.39 6nxEBH5I.net
東大寺を本陣とした三好と東大寺に夜襲した松永、どちらが卑怯だろう
生き残るために悪名を取った松永は偉いと思う

514:人間七七四年
16/04/11 21:13:44.25 EBCmPijS.net
中村新兵衛ってどっかで聞いたなと思ったら
菊池寛の小説に出てくるやつか
自分の鎧だか陣羽織を貸してやった若武者が
新兵衛のネームバリューにビビった敵相手に無双して
普段と違う出で立ちの新兵衛は相手も気後れせず立ち向かってきて討ち取られるってやつ

515:人間七七四年
16/04/11 21:48:53.58 6VygWZv8.net
「形」の元ネタ話なら数年前に出てた
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

516:1
16/04/11 23:05:09.37 IoCtMYLU.net
いわゆる方広寺鐘銘事件への対応で駿府の家康のもとに交渉に赴いた片桐且元は、家康よりの豊臣家への
糾弾に対し、本多正純へ次のように反論した
「今度御前において七ヶ条の仰せを蒙り、甚だ困惑しております。このこと、帰国を許されれば
秀頼公に委細申し上げたく思いますが、ここであなたにお尋ねしたいことが有ります。
問題がなければ、貴殿より大御所様にお聞かせして頂きたい。
一、慶長五年の関ヶ原合戦のあと、大阪の蔵入りを百万石と定められ、秀頼公を外様大名にように
  扱われていることは、御母子が常に憤られていることです。これが一つ。
一、七手組を警備に用いているのはひとえに大阪警護のためであって、専ら秀頼公を敬っているように
  見えますが、その実は却ってそうではなく、関東に対して別心のある者が出た時、それを速やかに
  防ぐためなのです。なので幕府の懸念は我々には理解できません。これが二つ。
一、我々兄弟は執事として大阪に在りますが、諸人はまったく心服しておらず、その職を全うできる
  状況ではありません。先に大仏殿再興に関する奉行をしていた時も、ただ空しく長い月日を
  浪費していただけでした。これらは家臣である私の身ではどうにも出来ることではなく、ただ
  困惑しながら日を送っている有様です。
  今の立場は私に対し、関東のご指図によって俄に仰せ付けられた物ですから、そのせいでも有るでしょう。
  一体私に何の過怠があって、大阪に付けられたのでしょうか!?今はただ、御役御免して頂くことを
  ひとえに願い奉るところです。これが三つ。
一、二代将軍(秀忠)の将軍宣下、ならびに氏の長者の御綸紙が関東に下りましたが、この際大阪には
  一応のお届けもありませんでした。大御所の将軍宣下の際は、秀頼公も未だ弱冠にも至っていません
  でしたから話もわかりますが、秀忠公においては大阪へのお届けの儀も有るべき筈なのに、絶って
  その御沙汰はありませんでした。
  そもそも古今の武将たるもので、この征夷大将軍の職を重要視するのは、一人秀頼公に限ったものでは
  ありません。誠に、枯骨が蘇生した喜びも、この職に勝るものではないでしょう。だからこそ秀頼公は
  これを常に羨み、母君はまた憤っていますが、これもあながち理のないことではありません。
  先日、御前において左近中将様(松平忠吉)が亡くなられた時、そのお悔やみに日にちを得て後に
  平侍を以って御追悼を申し上げたのは失礼であると、ごもっともな仰せが有りました。然るに、
  将軍の宣下があったのに大阪に在る大小名に、皆駿府、江戸への参勤をすべしというお届けが無かったのは、
  何れに用捨があるのでしょうか?これ四つ。
一、太閤殿下が薨去のみぎり、五大老三老五奉行、そのほか列侯牧伯には各々盟約を捧げ、秀頼公15歳に
  成られたら天下の政を知らしむべしとのこと、これ天地にあるもの皆知らぬということありません。
  ですが殊更に虚談を構えて、秀吉公が
  『秀頼公15歳とならば天下の政道を任すべし。但し、もしその器に非ずんば譲ってはならない。
  天下は一人の天下にあらざるなり。』
  そう遺言されたと云々されています。
  はっきり言いますが、秀吉公は堯舜のような君主ではありません!どうして我が子を捨てて他人にこれを
  与えるでしょうか!?このことは最も大切な儀であります。これ五つ。
一、朝鮮人、オランダ人らが来訪の時も、直に皇都へ至りそこから江戸駿府に下って礼をなしました。
  異域からは長らく来朝の事ありませんでしたが、太閤の武威を以って朝鮮人を日本に来訪させることを
  得ました。であるのに先年の来訪の時も大阪へは入りませんでした。また毎年オランダ人が来ていますが、
  大阪に来ることはありません。これらの事、秀頼公の恥辱は日本ばかりか外国までの恥辱です。これも
  母子が常に鬱屈しているところです。これ六つ。
一、この事は砂を噛むような瑣末な事であり、もとより言うに足らぬものですが、四座の猿楽から絵所に至るまで
  皆駿府に呼び寄せられ、大阪には一人も置かれません。これらも御無礼と成るのではありませんか?

517:2
16/04/11 23:05:36.34 IoCtMYLU.net
一、先日御前において、秀頼公に対し、福島正則、加藤清正、黒田長政、浅野長晟、加藤嘉明といった
  諸大名が別して御入魂である事は、秀忠公に対して無礼であるとの仰せが有りました。ですが、彼らは
  あなたも御存知の通りみな太閤お取り立ての大名であり、今は数少ない大家です。であれば、禽獣は
  いざしらず、いやしくも人倫たる者は誰が秀吉公の御恩を忘れる者が在るでしょうか?故に
  秀頼公には四季時々の御礼、又は国の産物を差し上げるのです。関東でもし、譜代の輩が突然
  ご奉公を怠ればそれをお許しないでしょう?大阪であってもそれは同じです。太閤の御恩を厚く
  蒙った人々の内、秀頼公に粗略になった者達には、秀頼公も処罰を仰せ付けたいと思っているのですが、
  現在の状況はただ穏便にしようという他なく、時勢を守っているのです。
  この件に関してこの且元の心底には、少しも弁じ難い所はありません。これ八つ。
一、兵具を調え武芸を習っているという指摘は御尤もですが、鎧の毛を抜き、鞍の損じを繕い、
  武具馬を整えて常に武芸を学ぶことは治に乱を忘れざるの所であり、古来良将が常に兵を鍛錬するのも、
  一旦事ある日に即座に備えられるようにしている為です。ただし、徳川の御家には、弓を袋にし
  太刀を鞘に納め、飽煖の安きに居て金革を布くの苦しみ、矢石を侵す危うき等を知らざるを以って
  善とされるのでしょうか?
  軍の勝敗は瞬間の間にあって、治世の政とは異なるものです。だからこそ武芸のことは常に鍛錬しなければ
  ならないのです、であるのに、独り大阪城中の士ばかりは女童の勤めのみを成せばよいのでしょうか?
  これ九つ
一、将軍御父子には、秀頼公に対し御粗略にすることはないと仰せに成りましたが、近年御上洛あっても
  大阪へは御下向の御沙汰これなく、殊に秀頼公と御台所(千姫)との御仲不和の事を、昼夜思召して
  忘れずと仰せに成ったことは、これは御孫姫君の事ですから勿論のことですが、大阪よりは毎年、
  念頭の御礼として七手組の内一人と、淀殿の御使として局一人、姫君の御使として女中一人は必ず
  関東へ下っています。これは御縁者たるの礼儀を重んじているためです。一方、関東からは旗本の士
  一人を登らされますが、女房の御使はかねて沙汰すら聞いたことがありません。姫君がいらっしゃるの
  ですから、これは在るまじきことです。
  また去々年の秋、大阪の河口が、舟入が悪いため川床を浚っていたところ、江戸よりお咎めあれば
  工事半ばにして中止しました。その時、泰平には要害はいらぬという仰せでした。ならば、現在の
  江戸城の御普請は一体何の為なのでしょうか?これ十。
一、江戸城普請の人足には天下に千石夫を仰せ付けられ、また遠近につき五百人夫を仰せ付けられました。
  ところが大阪はそこから除外されました。しかしこれは大阪を敬しているようで、その奥に深い
  意味があります。武威を示す為に諸侯に仰せ付けられるだけでは、太閤の時代に大阪、伏見城を
  築かれたのと変わりません。
  また大阪城では仮に少しの破損があっても、そのままにして差し置いています。これは関東に対しての
  御遠慮なのです。これ十一。」
以上の十一ヶ条の外は末代への規範にも成らず、また豊家の瑕瑾にもならざる事ですから差し控え、
今この条々は現在天下の人の知るところです。しかしこれを直に申し上げるのは甚だ恐れある事ですから、
あなたからお伝え下さい。但しこれは、先に仰せに成られた七ヶ条への、豊臣家としての返答ではありません。
ただ全く、この愚臣が考えたことです。」


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