戦国ちょっと悪い話43 at SENGOKU
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200:人間七七四年
16/02/21 12:56:58.54 F0kGDLfv.net
>>194
逸話スレに書く内容なのかなぁコレ

201:人間七七四年
16/02/21 14:27:00.42 ou0lTV7q.net
>>195
佐竹家老梅津政景の日記で、義宣と親しい景勝が普通に日記上で諱で登場するんだが
景勝が亡くなって定勝に代替わりすると普通に「上杉弾正少弼」に表記が変わるので
身分の上下などでは表せない個人に対する敬意や親しみなんかが
諱表記で表現されるんだろうって研究がある

202:人間七七四年
16/02/21 17:59:48.90 BiwxmhRL.net
斎藤龍興の家臣である、西美濃三人衆と呼ばれた氏家常陸介(直元)、稲葉伊予守(良通)、
伊賀伊賀守(安藤守就)がある時会合し、伊賀守は言った
「今の斎藤龍興の所業を見るに、日を追いつきを経るに従って、諌めを行い国家の為よろしき人と言うほどの
人物には、皆出仕を停止させ、阿諛追従する者ほど威名盛んである。不順、これより甚だしい物はない。
このようにして滅んでいった国々は、指を折っても数えきれない。
一方、織田信長は仁義の道を行われ、武勇智謀、最も優れている。この人を頼んで武功に励み、
奮功した家臣たちを撫育しようではないか!」

しかし氏家は
「承った話は、何れも至当であり、これに異議を唱えるものではない。しかしながら一度も
諫言に及ばずしてこのような事をするのは、ただ自分の身を立てようとするだけで、義に非ず。
先ず諫書を上げて、もし用いられなかった時は、そのようにしようではないか。」
こうして彼らは諫書を作り、龍興に差し上げた
一、君たる道を真の儒者に能く問われて、行いを然るべくされますように。
一、近習に侍っている執権たちは、国家の為には鴆毒です。急ぎ薬言の臣を用いられますように。
一、幽悪を察し、微善を試み、お心持ち至誠に、賞罰を行われますように。

このように諌めたが、阿諛する家臣たちは、却って之を取り消させるように讒言したので、
翌年になって三人衆は信長に使者を出し、味方に参る由を申し上げると、信長も「願う所の幸い、
天の与えるところである。」と、村井民部丞、島田所助の二人を派遣し能く語らしめた。
永禄七年八月朔日、信長は三河に攻め込む旨を触れ、小牧山に勢揃いした所で、三河には一言も触れず
「美濃国において然るべきこと有るぞ!進めや!」と宣言し、出陣し、瑞龍寺山へと駆け上がった。
この突然の軍勢の出現に、稲葉山城の者たち慌て騒いで「こは何者ぞ、敵か味方か?」と怪しむほどであった。
信長は片端より火をかけ、即座に裸城にした。このような所に三人衆もはせ参り、臣従を許したお礼を申し上げ
「この城攻めも苦労すると思っていましたが、このように何の問題もなく押し詰められた事、誠に御名誉です」
と申し上げた。
その日は強風が吹き雨も降りだしたので、翌日諸方の手分けをして、鹿垣を二重三重に結い廻し、
「一人も漏らすな」と下知した。
城内は、兵糧の支度もなく逃げ入ったものだから、早くも以ての外に弱り、「命を助けて頂ければ
城を明け渡します。」と様々に詫び言を申してきた。
信長は家臣を呼び集め、どうすべきかを尋ねた所、
「先ず龍興の一命を助けられ、この城を請取あって、国々太平の功を励ますことこそ宜しいかと思います。」
と、人々一致したため、信長も之に同意し稲葉山城を受け取り、龍興を退去させた。
こうして信長の武威は、飛竜が天に上がるがごとくであった。
(甫庵信長記)
まあ実際に稲葉山城を退去した永禄八年でも、まだ17歳なんですけどね龍興。

203:人間七七四年
16/02/21 20:51:34.09 sic6Ivqj.net
小田原陣の際、北条家第一の大名松田尾張守父子、氏政へ逆心し敵の勢を城中へ引き入れるという企てが会った。
この時、松田の末子左馬助は一向に合点しないので、父子は申し合わせて一間へ押し込んで、いよいよ逆心を取り急ごうとした。
ところが、左馬助は具足櫃に入って忍んで本城へ参り、父兄の逆意を申し上げたので松田父子は早速罪に処せられた。
 その後小田原落城の後、氏直と高野山へ登られたときも、この左馬助は付き添って忠を尽くされたという。
 惜しむらくは父兄への孝道が欠けていること、大いに玉に疵である。
父兄が罪に処せられましたときにすぐさま腹をも切ったら、忠孝二つとも全うできたものを残念な事である。
父は子のためにかくし、子は父のためにかくすという聖人の示された言は今更である。
(本阿弥行状記)
忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず

204:人間七七四年
16/02/21 21:23:58.99 MU5FSvyb.net
黒官「あれ、わしが秀吉の命令に背いて、
長男を殺して末子を助命した、て話は」

205:人間七七四年
16/02/21 21:32:00.19 fw1BDPma.net
城井一族を騙して皆殺しにしてるから、北条も適当に嘘ついて開城させたんだと思う

206:人間七七四年
16/02/22 06:10:51.84 8tZiaW+w.net
>>186
似たような話を関が原の時(前夜?)あったような気がするんだが
重い打線

207:人間七七四年
16/02/22 07:35:04.13 0hhC4clU.net
水野忠胤の父親の水野忠重が関ヶ原直前に堀尾吉晴や加賀井重望と三人で飲んでたら、
なぜか加賀井重望が水野忠重を殺害して、堀尾吉晴にも傷を負わせ、
堀尾吉晴に返り討ちにあった、て話では?
(徳川実記だと、加賀井重望は石田三成の刺客だったそうだが真偽は不明)

208:人間七七四年
16/02/22 09:19:05.90 8tZiaW+w.net
おーそれだ!

209:人間七七四年
16/02/22 10:48:42.25 5wqhA/F9.net
命がけの日々を送っていると
PTSDでおかしいやつらがそこら中に発生するんだね

210:人間七七四年
16/02/22 11:41:27.73 esA0ZeQ1.net
親兄弟が死んでる森長可のことですね

211:人間七七四年
16/02/22 11:47:11.23 0LMYINhw.net
政宗の父親や弟も悲劇的な最期を遂げてるから政宗がああなったのか

212:人間七七四年
16/02/22 11:59:23.35 SDvQUnR0.net
>>211
政宗の弟は政宗自身が殺したんだがな

213:人間七七四年
16/02/22 18:32:22.20 GQLxreIm.net
二本松義継「輝宗の死因は銃撃ですよね?」

214:人間七七四年
16/02/22 20:56:04.71 +cazqg1Z.net
>>201
親疎や経緯はありそうだけど、定勝は景勝に比べて官位などが
恐ろしくグレードダウンしてるから比較対象としてどうなんでしょう?

215:人間七七四年
16/02/22 22:17:26.49 pY+DLWFU.net
 北条三代目の氏康公は御子の氏政公と御昼食の時、氏政公が飯へ汁を二度かけて召し上げられたのを氏康公はご覧名さなれ、
 「後に関八州は氏政が世で亡ぶだろう。わずか飯椀の中に汁を入れるということさえ、一度だけで行う加減がわかっていない。
そのようなひととなりではどうやって八ヶ国の人々の目利きをすることができようか」
と御落涙したという。
 その言葉の通り氏政公の御代で滅びました。厳密にいうと氏政公は滅びなさったときは御隠居で、氏政公の御子氏直公の御代で亡びましたということだが、
彼はひどいうつけ者であり、氏政公はその愚昧の氏直公へ御相続させられましたことから、汁かけ飯での氏康公のお目利きは神のごとしだと思われます。
 冷泉家は北条執権のころ無二の懇情でしたが、その後君の御憎しみがつよく遠流となられ、
程経て帰洛の後に、家の掟で武家と縁組等を無くし、今でもその通りであります。
先代の掟をこのように守りなされることは甚だ感心します。
 その他の公家方は時節につれてなされたように思われます。
心ある堂上方はこのことを恥と申されたという。清貧と申す事はとかくならぬ事と思われます。
(本阿弥行状記)

216:人間七七四年
16/02/22 22:27:17.81 +ttG42F8.net
本阿弥光悦の時にこの話が広まっていたとは驚き

217:人間七七四年
16/02/23 01:45:53.87 nRXKJORI.net
氏政暗愚説っていうか、まぁ時流を読み間違えたのはそうなんだろけど
だからって汁かけ飯ごときで暗愚判定されるとは、氏政も草葉の蔭で泣いてるんじゃないかな…
もうちょっとこう…あるだろ

218:人間七七四年
16/02/23 09:35:44.71 WdzuTFCx.net
☆ 日本の核武装は早急に必須ですわ。☆
総務省の『憲法改正国民投票法』、でググってみてください。
日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、日本人の悲願である
改憲の成就が決まります。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。お願い致します。

219:人間七七四年
16/02/23 16:51:20.67 drP4ghCp.net
2度目に薬味も入れとけばこうもこき下ろされずに済んだハズ

220:人間七七四年
16/02/23 20:56:52.37 xvX4Nzda.net
氏政と黄梅院の話とか、夫に尽くす早川殿、北条夫人をみると
北条家が戦国時代を生き残るのは難しかった気がする

221:人間七七四年
16/02/23 22:31:33.07 4Krux0rQ.net
早いうちに同盟を結び後々臣従すれば生き残れただろう
しかしながらどこの大大名も猿ごときなどと侮って過小評価してるからなw
魔王くらいインパクトないと畏怖しないんだね

222:人間七七四年
16/02/24 11:03:12.07 GZz9U8JJ.net
ぶっちゃけ東国組で速攻秀吉と手を結んだのは
勝家との確執って理由があった(勝家の対抗馬なら誰でも良かった)上杉くらいですし

223:人間七七四年
16/02/24 11:43:00.97 GDc0Jsbf.net
上杉毛利は勝ち組、徳川についた奴は負け組

224:人間七七四年
16/02/24 11:43:57.09 OZ8/vebl.net
西国だってそうだわ。毛利は秀吉と勝家を両天秤にかけてて、賤ヶ岳合戦のあと秀吉から糾弾されてる。

225:人間七七四年
16/02/24 11:59:32.29 lg3xEMyk.net
北条まで本領安堵なんかしちゃったら与える土地が全く無くなるからな
北条が生き残るには秀吉が西より東から統一してなきゃ無理だな

226:人間七七四年
16/02/24 14:22:15.78 GDc0Jsbf.net
そもそも抵抗してる時点で詰んでるよ
本拠地を攻められて降服じゃあ相模伊豆安堵も危うい
やるなら野戦して降服しないと

227:人間七七四年
16/02/24 18:25:33.36 yQOMArRR.net
小牧長久手の時にラスボスと同盟結んで背後から徳川を攻撃する事以外、
北条が生き残る道は無かった
それ以外にラスボスに恩売るタイミング無かったし

228:人間七七四年
16/02/24 19:54:52.15 6Blzu3C3.net
北条は大領で本領安堵は難しいという説はよく聞くが、実際どうかな?
状況は違うが家康は5か国安堵してもらっているし、毛利・上杉もそう。
家康入府以前に関東なんて大して開けてないし、九州征伐前後の時期、
北条から腰を折って来たら秀吉も受け入れたのでは?

229:人間七七四年
16/02/24 20:26:16.51 kmCFO9Qi.net
かろうじて河内狭山藩主として残ってるからま、多少はね?

230:人間七七四年
16/02/25 14:45:44.31 TxbN0KVY.net
バカは黙って三国志板に行ってこいよ

231:人間七七四年
16/02/25 17:47:51.90 O9n+VizP.net
>>228
その時は受け入れるが、後々徳川と両天秤に掛けられてどちらかが潰されてた気はする
そうなるとより大身で色々と火種を抱えやすいほうが・・・

232:人間七七四年
16/02/25 19:04:08.22 EPBFhMLJ.net
東国の大大名で徳川と上杉は仲悪いから睨み合わせておけるけど、
北条は徳川と仲良さそうだし、両家で連合したらラスボス相手でも
抗しえるので、北条が関東制覇したままの状態で残ることは難しそう。
もっともラスボスには大陸制覇の野望があるから、北条があっさり
降伏する分、前倒しで唐入りし、うまく大陸に大領土を拡張できたら、
徳川、北条が大大名でもあまり気にしないだろが。

233:人間七七四年
16/02/25 19:07:39.55 VV52jl0m.net
>>222
青森勢も秀吉よいしょしてたような
うろ覚えだけど

234:人間七七四年
16/02/25 22:50:02.06 rYsnAXrG.net
(関ヶ原の結果)内府様(徳川家康)は日本全国の君主となるに至ったが、他の君主のように
勝利の後に暴虐を行うことはなかった。彼は捕虜となった敵に対して穏和の手段をとったが、ただ
3人だけは許さなかった。閣員(奉行衆)の軍を率いて彼に反抗した近江の王・治部少輔(石田三成)、
肥後半国の王・ツノカミ殿(小西摂津守行長)、毛利殿が顧問としていた安国寺(Ancocugis 恵瓊)である。
彼らは甲斐守(Cainecanis 黒田長政か?)に捕らえられ、初めはその身分に応じた待遇を受けたが、
程なく大阪に幽閉され、死刑を宣告された。彼らは大阪において痩せ馬に乗せられ、市内を引き廻れたる後、
荷車を以って都に送られた。彼らの周囲には市民が群集して、貴人の不幸を憐れむ者もあり、また之を
罵る者も有り、治部少輔は第一の車に在り、安国寺はこれに次ぎ、ツノカミ殿は最後にあった。
ラッパ手が各人の前に行き、彼らは謀反人なるを以って恥ずべき死刑に処せられることを声高に叫んだ。
この時、ツノカミ殿はいささかも勇気を失わなかったが、他の二人は無罪を陳じて、当局者の処置に対し
愁訴した。
彼らが刑場に近づくと、近隣の仏教僧が数人やってきて彼らに説教を行い、かつ、全ての罪悪を
浄める為の、多くの笑うべき儀式を行ったが、これは死後、不潔な精神を有さずして阿弥陀の前に
出るためであった。これによって処刑者はいささかの慰安を得て、永久の生に確信を持ったようであった。
ところが、ツノカミ殿は頑として僧の説教を拒み、あくまでキリスト教徒たる態度を示した。
刑台に上がる時、高僧が来た。彼は通常は外出せず、ただ高貴な人が悩むときにおいて顔を出すのみであった。
彼は多数の日本僧を伴い、手には釈迦の聖典を携えていた。
彼は様々な呪文を唱え、また作法を行った後、治部少輔と安国寺が死せんとする時、聖典を取り出して
これに接吻させた。しかしツノカミ殿はこの高僧を罵り、己がキリスト教徒であることを公言した。
そして帯の間から、キリストとマリアの小さな絵を取り出した。これは皇帝チャールズ5世
(神聖ローマ皇帝カール5世)の同胞、ポルトガル国の女王(王女?)カザリン(キャサリン)がエスイト教徒
(イエズス会)の手を経て彼に贈ったものである。
ツノカミ殿はこの絵を両手に捧げ、これを熟視して祈祷をなし、首を差し伸べて剣手の刀を待った。
剣手は3度にてこれを刎首した。他の2名も同様に処刑され、その死骸は焼かれた。
ツノカミ殿の死骸はエスイト教徒の手に渡り、都において、良き屍衣によって覆われ、ローマ教会の儀式によって
埋葬された。
(モンタヌス日本誌)

235:人間七七四年
16/02/25 23:57:07.10 PgRWsO7d.net
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
半分は既出のような

236:人間七七四年
16/02/26 10:19:24.41 flISSs7M.net
でも寺や神社に祀られるんでしょ

237:人間七七四年
16/02/26 14:38:32.53 wJbS32Th.net
高野山で逢いましょう

238:人間七七四年
16/02/26 14:59:51.90 BOOoXAE2.net
島原の役の時、真田信之が細川忠利にこう言った
「今回、板倉内膳正重昌が討ち死にした事で、敵を急ぎ踏み潰すためにあなた方を
遣わされるようですが、ただし、手間取って思ったようには成らないでしょう。
そのように心得ておくべきです。
私が昔、忍城の成田氏を攻めた時のことです、
軍勢は勇まず、下知を聞こうとしませんでした。帰陣した後、私は父の安房守(昌幸)に言いました
『あのような腰抜けばかりを選んで私に付けられたので、今度の合戦で勇まないのです。』
安房守は怒って申しました
『若輩者が!何を不智な事をいうか!?それはお前が、去年合戦で後れを取ったためだ。
一度後れては3年失せぬものである!』
今度の島原も、内膳正は討ち死にし、軍勢は損害を受け、みな恐怖心を持っているでしょうから、
軍勢は勇もうとしないでしょう。であれば、手間取ります。
その分別をして、ご出陣すべきです。」
(名将言行録)

239:人間七七四年
16/02/26 15:29:09.86 wJbS32Th.net
そりゃあ総大将がアレですから

240:人間七七四年
16/02/26 16:05:21.65 linV+D2a.net
>>238
小童!ではないのか。

241:人間七七四年
16/02/26 17:55:57.98 DxkpIThN.net
去年合戦で遅れをとった、て名胡桃城取られたこと?
信幸に責任あったっけ

242:人間七七四年
16/02/26 18:23:49.08 rVEZlCrD.net
沼田の責任者だからだろ

243:人間七七四年
16/02/26 18:34:42.29 vERWSTmf.net
そのお陰で北条攻めの名分が出来たのに…

244:人間七七四年
16/02/26 18:46:04.34 Wke8w9Jz.net
天正の末、参州水野和泉守の嫡男、水野六左衛門は
太閤秀吉公の扈従であったが、相撲の諍いによって傍輩を殺して出奔した。
秀吉公大いに怒って、諸国を尋ね求めてこれを殺さんとした。
六左衛門は勇敢身に備えたる人であったので、九州へ下向し
姓名を改め、所々の戦闘に参加し功があった。
名が既に顕れたので、ここも逃げ去り、糧食も尽き、身も塞がってしまったので
漢の韓信が釣りを垂れる苦しみであった。
美作国へ往き、安藤という百姓の聟(むこ)となった。
しかし農作を勤めず、朝夕川に臨んで網釣を事とし
山へ登って禽獣を狩ってばかりいた。
安藤、これを見て「汝は我跡を相続する者ではあらず」と大いに怒り、追い出した。
恥辱と思ったのだろうか、刀を抜き刺殺し、ここをも走り去り、三村紀伊守を頼った。
(西国太平記)

245:人間七七四年
16/02/27 10:38:18.43 r+I6p6vK.net
>>244
毎度お馴染みの水野さん

246:人間七七四年
16/02/27 10:42:43.56 mTZkIgw9.net
どの話でもだいたい大筋の流れ同じだからやっぱり本当にDQNだったのだろう

247:人間七七四年
16/02/27 12:16:09.29 fqUtjaJs.net
>>242
その時沼田は小田原に割譲済だけど?

248:人間七七四年
16/02/27 12:27:16.72 nDdVzJi9.net
つ名胡桃

249:人間七七四年
16/02/27 14:14:58.07 4EbOraoe.net
>>244
水野「ヒャッハーッ!血だ!血を寄こせ!」
各地でこれだもんな

250:人間七七四年
16/02/27 20:42:54.44 Qr2b1qrj.net
それが中国大陸で娘娘を強姦して廻った日帝軍人に引き継がれるわけですね
旧家にある銃剣で若い娘娘を突き刺してる曾祖父の古写真を見るたび日本人である自分を呪いたくなります

251:人間七七四年
16/02/27 20:46:55.21 XgP8Ra7H.net
釣れますか

252:人間七七四年
16/02/27 23:34:13.73 D76wOlY2.net
250はパンチョッパリニカ?

253:人間七七四年
16/02/28 00:26:07.39 +mnejghW.net
>>244
水野勝成は今で言うADHDっぽい。
衝動性や他人への共感性の欠如や
自伝での虚言癖等、当てはまる要素が多い。
ADHDは適性に合った職や環境に出会うと改善するが
勝成の場合、家督を継いで小藩を治める、というのがそれだったんだろう。

254:人間七七四年
16/02/28 06:02:43.25 8i+MnqKv.net
>>253
それ言いだすと、鎌倉時代以降〜元禄期までの武士はADHDだらけだぞ。
毎日人を殺さないと気が晴れないとか、生首を飾ってないと機嫌が悪いとか、悪口から周囲を巻き込んで殺し合いとかごろごろしてる。

255:人間七七四年
16/02/28 07:02:41.61 5s/MLQ/I.net
当時はそれが仕事だから

256:人間七七四年
16/02/28 07:53:29.36 MPqumkkl.net
>>244
これでも水野一族ではまともの方なんだよな
勝成さん以外の水野一族の方々も
表に出てないだけで勝成さん以上の無茶ぶりをやらかしてるし
三河では勝成さんクラスのDQNが当たり前だから
たまたま勝成さんは奉公構えで全国を彷徨ったから目立っただけだから
ただこの狂気な水野一族の血脈から天下人が出て来たから
ある意味勝ち組何だが

257:人間七七四年
16/02/28 09:00:58.75 xgbWrhES.net
それが当たり前なら、勝成を始めとする水野一族を
無理に持ち上げなくてもいいような気がするんだけど。
どうしても高く評価されないといかんのか?

258:人間七七四年
16/02/28 10:02:18.56 LfsNoNs8.net
それでも島津軍法みたいなのは基地だと思う
おかげで島津軍の通ったあとの九州各県は兵だけでなく
片っ端から村人殺されペンペン草も生えない大虐殺だらけで
薩摩以外からはいまだに嫌われてる
まあ黒田とかも好かれてないが

259:人間七七四年
16/02/28 13:48:59.74 sDx5l1XY.net
水野一族は変わり者が多いからな
天保の改革で有名な水野忠邦なんか
老中になりたいが為に実質20万石以上ある
唐津藩を捨てて6万石程度の浜松藩に転封したぐらいだからな

260:人間七七四年
16/02/28 15:03:20.59 RTpfv5yA.net
松平の血で中和出来たんだろうか?
でも諸々のエピソード聴くと短気なところは受け継いでるな

261:人間七七四年
16/02/28 15:06:43.79 iethBXAo.net
まさか本気で言ってないよね

262:人間七七四年
16/02/28 22:05:47.55 cPzbsdgc.net
やっぱ水野一族も面倒くさい三河武士なんだな

263:人間七七四年
16/02/28 23:37:23.34 FsKlazUS.net
お前らと一緒だな

264:人間七七四年
16/02/28 23:44:27.96 /m5uHHqe.net
>>259
いやあれはもうしょうがない。
忠元系水野家5代の忠之が勝手掛老中になってしまったことで、
水野家としては「老中を輩出した」という事実が重く乗っかっている。(それ以前もこの家
幕府の重職についている家格だし)
なので、このまま埋没した場合「先祖の威名を汚した」として、大名連中から物笑いの種に
なってしまう。
綱吉の頃だったか老中になりたいために、譜代大名が柳沢に運動したりとか
そこら辺の苦労話みたいなものもあるしねえ。(それですらなかなかうまくいかないのだが)

265:人間七七四年
16/02/29 10:51:29.31 EDpWGsSr.net
水野の創作文芸信じて、勝成最強!!とか言っちゃうのって、
中学生ぐらいまでにしておきたいよなぁ。

266:人間七七四年
16/02/29 13:56:08.18 mGas1m50.net
最強は本多忠勝だろ三河人なら園児でも知ってるわ

267:人間七七四年
16/02/29 14:07:41.95 xXfunMOA.net
>>266
父上…最強の名乗りは私を倒してからなさいませ

268:人間七七四年
16/02/29 18:06:02.01 2zRB3gVd.net
>>265
でも勝成ファンってギャグセンスあると思う。
ネットで「黒駒合戦で一人で300の首級を上げた」ってのを見て
首供養10回分じゃん!って笑っちゃったもん。

269:人間七七四年
16/02/29 18:34:30.73 UZopRqti.net
>>256
表に出てないのに、お前は何で知ってんの?

270:人間七七四年
16/03/02 16:03:33.41 zQw4wQ1m.net
ブラタモリ見たけど城下町を造るって大変だな
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
参考
URLリンク(www.yonkeiren.jp)

こんなに苦労して城と城下町造っても、会津に転封....
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

271:人間七七四年
16/03/02 17:35:51.92 ybjpJ4JY.net
地味な作業じゃのう

272:人間七七四年
16/03/02 18:14:15.33 8pSP80LN.net
蒲生氏郷「俺のことかと思ったのに」

273:人間七七四年
16/03/02 21:06:02.36 xVGEjDjB.net
残念ながら熱帯雨林は酸素供給なんてしてないぞ

274:人間七七四年
16/03/02 21:11:33.40 ybjpJ4JY.net
お、おう

275:人間七七四年
16/03/03 22:14:31.27 23E5b8t+.net
松永弾正少弼(久秀)は、その嫡子右衛門佐(久通)と共に計った
「織田信長は若年の頃より、小勢を以て大軍を砕き、度々勝利を得たのは、時の運に乗じたのみではない。
武勇も世に超え、智謀も人に優れ、古今に傑出した人なるが故である。
往を以って来を計るに、今後彼の武威はいよいよ四海を覆うだろう。私が危険に逼迫してから屈服しては、
敵にも味方にも侮られてしまい、それから悔いても意味は無い。未だ余裕のある内に降参し、和州多聞城を
明け渡して偏に忠をなせば、きっとその益もあるだろう。」
そう議定し、内々に佐久間右衛門尉信盛に遣いし、この旨を述べると、信盛は早速岐阜に参じて
これを取り次いだ。信長は言った
「松永久秀は武略にも達し、かつ聡明な人物だが、隠れなき佞人である。
己が名利のために計る者は、その威積累する時には、果たして国家を乱すこと、掌を返すより
簡単に行ってしまう。そのような徒者をどうすべきだろうか?」
佐久間は答えた
「それは暗君に仕えての事です。まず御赦免されれば、天下静謐の功も、速やかに成し遂げられるでしょう。」
これに信長も説得され
「ならば汝が、兎にも角にも計らうように。」と信盛に任せた。
これによって降参の義は調い、先ず多聞城を請取、こうして松永父子は元亀4年4月10日に
岐阜に参向し御礼申し上げ、不動国行の刀、薬研藤四郎の脇差など進上した。
こうして多聞城には山岡対馬守を入れ置かれた。
(甫庵信長記)
甫庵信長記より、松永久秀臣従の模様である

276:人間七七四年
16/03/04 10:11:20.67 752mqM54.net
全て甲斐の生臭坊主が悪い

277:人間七七四年
16/03/04 14:20:47.94 1i+wHq0y.net
>>276
人とは欲を生きることじゃ、己の欲に生き生き抜いてこそ見える境地あるかもしれぬ

278:人間七七四年
16/03/05 07:35:27.90 3KJccw/e.net
ある時、徳川家康物語の折、大久保忠世が言った
「奥州一揆(葛西大崎一揆)の時のことです。蒲生氏郷は伊達政宗に謀られ、名生城を攻め懸けましたが、
危うい合戦に打ち勝ったのはまさに武功の大将です」
家康はこれを聞くと
「蒲生氏郷は武勇の士であり、武功とは言いがたい。
おおよそ”功”と言えば、智謀勇あって勝つことを武功と呼ぶ。”功”は”いさお”と読むと、
これは「功績」を意味する。
また”剛”は強きを意味する。氏郷は武剛と呼べるであろうが、謀は不足している。
第一客戦(敵の領内での戦争)の法をわかっていない。
敵国に入るには、郷導を5人も10人も求めて、地理および士民の風俗、粮の有無を案内者に
尋ねた上で働くのが定まった法である。然るに案内者を求めなかったのは智謀の足らざる所である。
これによって不覚を取ったといえる。
氏郷が伊達政宗を唯一の案内者と頼み、彼が申すのを真実としたのは智の不足である。
政宗が味方だからといって、その言葉を真実と受け取るのは愚かなことだ。
勇士の習いとして、人を出し抜き独り功を立てんと思う輩は、偽り、謀を構えること、
その例多い。昔、佐々木高綱は梶原景季の馬の腹帯が伸びていると偽って先に登った。
近くでは九戸城攻めの時、堀尾帯刀が病気と偽り、先陣と定められていた氏郷を出し抜き、
九戸城をただ一人で攻め落として蒲生の手を失わせたという例がある。
そもそも名生を攻める前、政宗に思うところあって氏郷を茶に招いた時、氏郷は政宗の
企みを察し、郎党も含めて用心していた。それなのに政宗の、高清水のほか敵は居ないという
言葉を事実と心得、案内者も求めず名生城を攻め立てたのは、正直に言って全く智謀がない。
兵は偽りの道である。ではあるが、偽りを以って躰とはしない。実を以って躰とし、偽りを
権に用いる。
戦争では虚実の変がある。これを判断できなければ、いざという時、必ず失う物が多くなる。」
この言葉に、一座伺候の者達は皆感心した。
(伊逹秘鑑)

279:人間七七四年
16/03/05 09:59:03.17 6uru3vLx.net
俺が氏郷ならDQNをぶっ殺してラスボスには、こいつが黒幕でした
って事後報告するわ
DQN殺して、咎められるとは到底思えん

280:人間七七四年
16/03/05 10:31:57.42 rfLBdCmG.net
何、このゲーム脳

281:人間七七四年
16/03/05 11:24:16.14 RMpi+8RN.net
>>278 一行にまとめると「政宗を信用するとか、バカなの?死ぬの?」ってことか。

282:人間七七四年
16/03/05 11:51:18.60 2PJRhSNT.net
家康は甲斐で一揆を扇動して、河尻秀隆を殺してるから
大崎葛西で一揆を扇動した政宗の心理も良く分かった事だろう
工場長は優秀なんだけど順風満帆な人生のせいで、悪人に対応する
スキルが不足している気がする

283:人間七七四年
16/03/05 14:17:51.74 ZeMm1oSb.net
上手いこと言うね

284:人間七七四年
16/03/05 21:46:17.24 vA0aQVHO.net
信長の野望で水野勝成がやっと評価されたらしいな

285:人間七七四年
16/03/07 17:15:06.26 kS/hBmPc.net
織田信長の元へ、鏡屋の宗白という者を、村井長門守(貞勝)が召し連れ、彼は手鏡を献上して
御礼申し上げた。
信長はこの手鏡を取り上げると言った
「たいへん明白に映る鏡だ。願わくば心の善悪も見ることの出来る鏡はないものだろうか?
世の癖として、諸侯太夫、寵臣たちは、良くも悪くも皆適切な発言をする。しかしこれによって
主君たる者は却って心を暗まされてしまう事、日々月々にいや増しているが、行いの悪しきを
諫むる者は居ない。
だからこそきちんとした諫臣を得なければ、政道の実利は聞こえてこなく成るものなのだ。」
そんな事を語りながらふと鏡の裏を見ると、そこには『天下一』と銘してあった。
信長の機嫌はたちまち悪化した
「去年の春、どこぞの鏡屋が献じた物にも『天下一』と銘じてあった。天下一はただ一人あってこその、
一号にてあるべきだ!それが二人もあるのは濫りというものではないか!
これは偏に長門守の不明より起こったことであるが、汝の不明は私の不明である!」
そう、殊の外ショックを受けたようであった。(事の外にぞ痛み思召し給ひける。)
(甫庵信長記)

286:人間七七四年
16/03/07 17:26:02.55 3as9S0BN.net
オンリーワンて意味だろ

287:人間七七四年
16/03/07 22:10:39.31 Zknb0aiq.net
そもそも、信長が色んなものに天下一って評価を与えてるんじゃなかったっけ?
自分が関係ないところで「天下一」を使ってることに起こったんじゃないか?

288:人間七七四年
16/03/08 10:24:08.55 42/aHoLr.net
おこなの?

289:人間七七四年
16/03/09 03:13:53.82 kDB78OH7.net
URLリンク(i.imgur.com)

290:人間七七四年
16/03/09 07:08:15.44 1bNIM6x/.net
誰これ?ブスしかいない

291:人間七七四年
16/03/09 22:03:39.93 GlMZAr4d.net
ヤフーニュースから
URLリンク(pbs.twimg.com)
みんなだったらどこ座りたい?
※なお森長可の人間無骨は二つ隣りの席まで届くものとする

292:人間七七四年
16/03/09 22:38:37.40 pIU/YpjM.net
>>291
15かな

293:人間七七四年
16/03/10 21:45:32.61 C5sK8azt.net
>>291
元ネタはこれかな?
スレリンク(sengoku板:294番)

294:人間七七四年
16/03/11 10:16:15.46 axDp3R6T.net
>>291
少なくとも5の席の机の上には花瓶と花が置いてあるのはわかる

295:人間七七四年
16/03/11 13:54:35.08 P+Fw5RO8.net
>>285
信長が政道とか言っても説得力ないよね 悪逆無道で滅ぼされたんだから

296:人間七七四年
16/03/11 14:40:54.41 8yyrruOc.net
>>291
小野木公郷助命問題で忠興と揉めた直政と
ガラシャが隣ってのが上手いね。
とりあえず教科書忘れたガラシャに机くっつけてあげる直政と
それを歯ぎしりして見ている忠興の図は想像できた。

297:人間七七四年
16/03/11 19:00:42.70 cGLcVCWY.net
天正19年、愛息鶴松を失った豊臣秀吉は、10月19日、諸大名、奉行たちを尽く集め、
朝鮮への出兵を宣言した
「先ず朝鮮を征して、従えばこれに先登させて進むべし。従わずば尽く攻め平らげ、
そのまま大明国に攻め入ろう。何の難しいこともない。各々、どう思うか!?」
諸大名は驚愕した。みな、秀吉は愛子を失い、嘆きのあまり狂気したのだと思い、
口を閉じて答える者はいなかった。
徳川家康は上座に居たが、彼はこう思っていた。我々は連年の軍旅に疲れ、去年に成ってようやく
一息ついたというのに、またもや兵を三韓に出せば、人民がどれだけ困窮するか言葉にもしがたい。
そして秀吉の言葉が聞こえなかったかのように、何も答えなかった。
秀吉は家康が答える様子がないのを見て、憤怒の表情になり、歯を食いしばり拳を握った。
その時、毛利輝元、前田利家、上杉景勝などが、その気色に恐れ口々にいった
「甚だ然るべき、誠に神功皇后以来の大事業です!武将と呼ばれるほどの人物の中で、兵威を
異朝に輝かせるのは、秀吉公にあらずして誰が及ぶでしょうか!」
このように阿ると、秀吉はたちまち喜びを表情に表し、すぐに九鬼嘉隆に命じて、伊勢の浦にて
巨大な艦船数百艘を作るよう命じた。その中で最も巨大なものは日本丸と号した。また中国四国九州の
諸大名は、秀吉の命に従い戦船を調え粮米を集め、兵を動員した。このように、当座の狂言とばかり
思われたものが、終に実際の出来事となり、大小名に至るまで興を覚ます思いをした。
こうして御前伺候の者たちが退出する中、浅野長政一人、見舞いと称して徳川家康の屋敷を訪ねた。
長政は聞いた
「今日の、秀吉公が韓朝を攻めるという話をどう思うか?」
「…名を末代に留めようとする者は、これを是とするだろうか?はっきり言えば、全く益のない企てである。
仮に三韓を攻めて日本に従わせたとしても、それから得られる利益はない。みな日本の費えになってしまう
だろう。
また、大明を日本の国力で従わせることが出来るとは思いもよらない。年月を経ても大明は雌伏するだろう。
10年も20年も戦えば、日本は兵力が尽きて、却って異国に奪われてしまう。
また大明を攻めてその兵を撤退させる時、大明の国王が、どうしてそれをそのまま置いておくだろうか?
彼らを見捨てることは出来ないのだから、撤退させるためにさらに軍を派遣しなければならない。
そうなれば日本の民はさらに疲弊し、亡国となるだろう。
あの時私は、秀吉公が怒ってその仔細を問うて来たなら、叶わぬまでも問答して押し止めようと思っていた。
ところが輝元たちが秀吉公に阿って非を是とした。忠臣の法ではないよ。
秀吉公は愛子に別れ、狂してああいう心が出たのだろうが、3年5年も過ぎずに後悔するだろう。
去年、北条が滅んでようやく静謐と成ったのに、今また朝鮮への企てを成す。是非を論ずるまでもない。
おおよそ、天下の主は万民の父母である。天下は一人の天下ではない。それなのに我意にまかせ名利を
貪り、民を苦しめる。本人は果報によって安穏に居られるかもしれないが、子孫は覚束ないだろう。
惜しいかな、秀吉公は、士を恵み民を慈しめば武運長久であるのに。」
長政はこれを聞くと言った「願わくば、秀吉公を諭していただけないだろうか?」
しかし家康
「皆が一同揃って然るべからずと諌めれば、もしかすれば説得することも出来ただろう。
だが、私一人が何度言っても、承服するような性格ではないだろう?
曲がった言葉を出す者は、また人の言葉も曲げて入るという。言わぬほうがマシだ。」
これに長政も「その通りだ」と答え、夜になって帰っていった。
(伊逹秘鑑)

298:人間七七四年
16/03/11 19:10:28.83 IF10bqjj.net
>>297
家康が反対しても潰されるだけだろうしなぁ…。
五大老全員反対してれば秀吉も内乱で負けると思って止めるかも?

299:人間七七四年
16/03/11 19:54:37.49 vSo0yAL7.net
>>297
プロバイダ臭い話だなぁ…
まぁ戦前のジャップに聞かせてやりたくはあるな

300:人間七七四年
16/03/11 21:41:13.17 qQZv496K.net
プ、プロバイダ・・・

301:人間七七四年
16/03/11 22:30:03.85 hLsw5c9k.net
プロの売女(バイタ)といえばあれか

302:人間七七四年
16/03/11 23:23:51.80 QmcX+9hA.net
ご・・五大老
今の時代に五大老っすか

303:人間七七四年
16/03/12 01:20:28.36 UuO6uAQQ.net
プロバイダ?

304:人間七七四年
16/03/12 02:20:14.43 8i4G8LAa.net
お、OCNとか?

305:人間七七四年
16/03/12 10:35:48.14 Hphtd2wu.net
                                              ヾ~ソゝ
                       >゛<                     ,.ゝ゛く
                      // ヽ\        ,.-―-、        (   )
        /|    /|         < / ハ >、`>       (_,,.......,,_)       ヽ_ソノ
       | .|   / .|          `'`..'┃'         \V/        ノソゝ
      /(,...).lノ /          _,,....,,_┃        _,,....,,_┃      ,(_)、....,,,┃
     _(‘ー‐'ノヽノ―、       ///ハ ヽ        ///ハ ヽ      `()'ハヽヽ
  _∧ソ゚Д゚ィ^’l '´  ヽ  _∧∠/二ヽっl    _∧∠/二ヽっl   _∧∠二ヽっ l
 (_・ |7(・_・ ヽ ヽ ー | (_・ |/(・_・ ヽ=ヽ  (_・ |/(・_・ ヽ=ヽ (_・ |/(・_・ ヽ=ヽ
    |\Ю ⊂)|√ヽヽ,/    |\Ю ⊂),√ヽ   |\Ю ⊂),√ヽ   |\Ю ⊂),√ヽ
   (   ̄ ~∪ )^)ノー‐'    (   ̄ ~∪ )^)ノ   (   ̄ ~∪ )^)ノ  (   ̄ ~∪ )^)ノ
    ||` || ( | ( |        ||` || ( | ( |      ||` || ( | ( |      ||` || ( | ( |
    '~ ~ '~ '~         '~ ~ '~ '~      '~ ~ '~ '~      '~ ~ '~ '~
    '~ ~ '~ '~         '~ ~ '~ '~          '~ ~ '~ '~       '~ ~ '~ '~
   桜井左吉       糟谷助右衛門     平野権平     加藤孫六
プロバイダ臭い話だなぁ…         プロパティ臭い話だなぁ…
           プロパンガス臭い話だなぁ…        プロパガンダ臭い話だなぁ…

正解は誰?

306:人間七七四年
16/03/12 17:32:37.08 mQ0JMx2g.net
 昔々、建部宗右衛門正遠という戦国武将がいました。
正遠は領内に重税を課し、領民からは悪評でした。
一揆が起きても全く聞く耳を持たず、武力で弾圧し、
さらなる重税を課すほどでした。
 ある時、そんな正遠の前に美少女が現われました。
彼女は領内の百姓の娘でした。
正遠はすっかり少女に一目惚れしました。
そんな正遠に彼女は言いました。
「領民を苦しめるのは、お止めなさい」と。
正遠は、「それならば、私の妾になるのなら、
その願いを聞いてやろう」と言いました。
そして、2人は結婚し、すぐに子供ができました。
正遠は子供に、「我が家は正が通字だから正の字と、
妾の名前の貴恵(きえ)から恵の字で、名前は正恵
(まさやす)と名付けよう」と言いました。
しかし、これには貴恵も猛反対しました。
「あなたの家の通字の正の字と、私の家の通字の氏の字で、
正氏(まさうじ)にしなさい」と言いました。
既に貴恵に逆らえない状況になっていた正遠は、
それをすんなり承諾しました。
領内から一揆がすっかり無くなり、税金も殆ど課さず、
領民に対するいじめも無くなりました。
 ある日、突然、貴恵と正氏が家を出ていきました。
驚愕した正遠は城を留守にし、妻子を探しに向かいました。
主をなくした城では、「隣国から敵が向かっている」と大騒ぎになりました。
それは建部家の長年の敵である、今川佐渡守近氏の軍勢でした。
近氏は正遠の城を包囲しました。主がいなく、また、
これまで減税して武力に補強していなかった城はすぐに陥落しました。
建部の城に近氏が入城しました。なんと、そこには貴恵と正氏も一緒でした。
実は貴恵は近氏の妾で、正氏は近氏の実子でした。
こうして、正遠がいなくなった建部の城は、今川の城となり、
領内に重税を課しました。領民は一揆を起こしましたが、すぐに鎮圧。
正遠の首を持ってきて、仕官しようとした領民も現われましたが、
それも無視しました。
こうして、近氏と貴恵と正氏は幸せに暮らしましたとさ。

307:人間七七四年
16/03/12 17:54:02.73 5hIwlm3z.net
建部正遠可哀想

308:人間七七四年
16/03/12 17:55:50.96 5hIwlm3z.net
俺の子供の名前、正恵にするわ。

309:人間七七四年
16/03/12 18:54:34.74 gTxoU8K6.net
創作?

310:人間七七四年
16/03/12 19:00:39.20 y5ta8Keg.net
創作だな

311:人間七七四年
16/03/12 22:13:44.06 mQ0JMx2g.net
戦国武将・建部宗右衛門政遠公
 昔々、建部宗右衛門政遠という戦国武将がいました。
政遠は領内に重税を課し、領民からは悪評でした。
一揆が起きても全く聞く耳を持たず、武力で弾圧し、さらなる重税を課すほどでした。
 ある時、そんな政遠の前に、美少女が現われました。
彼女は領内の百姓の娘でした。
政遠はすっかり少女に一目惚れしました。
そんな政遠に彼女は言いました。
「領民を苦しめるのは、お止めなさい」と。
政遠は、「それならば、私の妾になるのなら、その願いを聞いてやろう」と言いました。
そして、2人は結婚し、すぐに子供ができました。
政遠は子供に、「我が家は『政』が通字だから『政』の字と、妾の名前の貴恵(キエ)から『恵』の字を取って、名前は政恵(まさやす)と名付けよう」と言いました。
しかし、これには貴恵も猛反対しました。
「あなたの家の通字の『政』の字と、私の家の通字の『胤』の字で、政胤(まさたね)にしなさい」と言いました。
既に貴恵に逆らえない状況になっていた政遠は、それをすんなり承諾しました。
領内から一揆がすっかり無くなり、税金も殆ど課さず、領民に対するいじめも無くなりました。
 ある日、突然、貴恵と政胤が家を出ていきました。
驚愕した政遠は城を留守にし、妻子を探しに向かいました。
主をなくした城では、家臣たちが「隣国から敵が向かっている」と大騒ぎになりました。
それは建部家の長年の敵である、椎名越後守親胤の軍勢でした。
親胤は、家臣の阿部平八郎と斎藤与五左衛門に命令し、政遠の城を包囲しました。
山名与三郎と南部七郎兵衛ら、政遠の家臣らも必死に抵抗しましたが、主がいなく、また、これまで減税して武力を補強していなかった城は、すぐに陥落しました。
政遠の城に親胤が入城しました。
なんと、そこには貴恵と政胤も一緒でした。
実は貴恵は親胤の妾で、政胤は親胤の実子でした。
こうして、政遠がいなくなった建部家の城は、椎名家の城となり、領内に重税を課しました。
領民は一揆を起こしましたが、すぐに鎮圧。
政遠の首を持ってきて、仕官しようとした領民も現われましたが、それも無視されました。
こうして、親胤と貴恵と政胤は幸せに暮らしましたとさ。

312:人間七七四年
16/03/13 00:43:33.66 Dlmlh6PJ.net
戦国武将・建部宗右衛門政遠公
 駿河国の戦国大名・今川氏の家臣、遠江国の戦国武将・井伊氏の家臣・建部宗右衛門政遠は、領民に重税を課し武力を補強していました。
そのため領民は困窮を極めていました。
反対に建部氏の家臣らは贅沢を極めていました。
政遠は武力を極めることで、今川氏や井伊氏らの家臣の中で力をつけようと企てており、領内の政治のことには無関心でした。
ですから領民が声を上げても、政遠の耳には全く届きませんでした。
主がこの様なありさまなので、政遠の家臣らは腐敗堕落していきました。
領民に因縁をつけては、その場で刀を抜き領民を刺し殺したり。
領内の民家に強盗しては、良さそうな娘を強姦して拉致して監禁したりしていました。
この状況に異議を唱えた家臣もいました。
それが山名与三郎と南部七郎兵衛ら戦国武将です。
素行の悪い家臣らを捕まえては、その場で首を切り落としたりしました。
仲間が山名らに斬られたのをみた他の家臣らは、喧嘩を売られたと政遠の所に訴えに行きました。
政遠は山名らを罪人としました。
山名と南部らは濡れ衣だと訴えました。
しかし、政遠は領民に優しい山名らよりも、民家を強盗して得た金品や、拉致して嬲った後の女を分け与えてくれる家臣らを優遇しました。
山名と南部らはどうしようもできません。
そんなときでした。
隣国の赤佐源太夫直孝が、政遠の領内の酷さを噂に聞き、偵察しに来ました。
領内の現状をみた直孝は酷く憤りを感じました。
すぐに政遠を呼びつけ叱咤しました。
しかし、政遠は逆に直孝に恨みを持つようになりました。
政遠は家臣らの腐敗堕落を利用して、さらに領民を苦しめました。
領民には既に抵抗する気力もありません。
領内には女もいなければ、食べ物もなく、餓死者であふれていました。
そうこうしているうちに、領民の人口は1/10にまで減少。
しかし、家臣らの子孫だけは増えていきました。
人口が減り、領民から搾取できなくなった政遠は、武力も低下して、望み通りにいかなくなっていきました。
そんなときです。
山名と南部らが檻から脱出し、隣国の赤佐氏の領内に逃げ込みました。
そして、赤佐氏の軍勢は建部氏の領内に向かいました。
政遠や腐敗堕落した家臣らには、武力もありませんでした。
直孝は、家臣の阿部平八郎と斎藤与五左衛門らに指示し、建部氏の城を包囲させ、すぐに陥落しました。
腐敗堕落した家臣らは、一族共々全員が斬首されました。
政遠は、自らの元の家臣である山名与三郎と南部七郎兵衛らの下役として、赤佐氏の家臣に取り込みました。
建部氏の腐敗堕落した家臣ら一族を斬首したこともあり、家臣らの子孫ばかりだった領内の人口も、さらに減っていた状況でした。
しかし、直孝は、政遠の旧領を山名与三郎と南部七郎兵衛らに治めさせ、彼らに領内の復旧を任せました。
こうして、領内には、山名与三郎と南部七郎兵衛の子孫だけが増えましたとさ。

313:人間七七四年
16/03/13 01:39:22.08 Dlmlh6PJ.net
戦国武将・建部宗右衛門政遠公
 時は戦国、六角氏が治める近江国に、宗次郎という百姓のせがれがいました。
宗次郎は本を読むことが好きで、仕事をしながら勤勉に励みました。
ある時、近辺を治める、六角氏の家臣・後藤越後守祐豊が、宗次郎の前を通り過ぎました。
宗次郎は祐豊に仕官を望みました。
祐豊は、宗次郎の勤勉さにひかれ、彼を家臣としました。
その後、宗次郎は、建部宗右衛門と名乗り、建部朝臣政遠という名前を持ちました。
政遠は祐豊の家臣として、300石を拝領しました。
その後、政遠は戦で次々と戦功を得てきました。
政遠は、祐豊の家臣の中でも、次第に頭角を現すようになります。
政遠のことは、祐豊の主である六角氏にもとどろく様になりました。
その後、政遠は、祐豊の下役として、六角氏の家臣となり、10000石を拝領するに到りました。
そして政遠は、今の地位に安住してしまい、幸せに暮らしましたとさ。

314:人間七七四年
16/03/13 05:23:41.44 J76LvMUu.net
この年、天正19年は改元して、文禄元年となった。
諸国の軍兵は豊臣秀吉の命を受け、筑紫に赴き、朝鮮に入る準備をした。
12月28日、近江中納言豊臣秀次は関白に任じられ、天下の政治を掌握した。
そして秀吉は太閤と称した。
秀次はこの日参内し、日本中の大小名の内在京しているものは、尽くこれに供奉した。
その行列は予め定められ、1番に蒲生氏郷、2番に伊達政宗、3番が山形(最上)出羽守義光であった。
ところがこの事に対し、蒲生氏郷が秀吉に訴え出た
「山形は源氏の末裔であり、また伊達政宗に対して母方の伯父であります。それなのに義光が
政宗の跡に立つのは本意に非ずと、出羽守は頻りに嘆いています。」
秀吉はこれを聞くと
「誠に私の過ちである。山形は源氏、政宗は藤原氏。山形は伯父、政宗は甥である。
また山形は忠節人、政宗は降参人であるので、山形を先にするのが道理である。」
こうして義光が政宗の先に立つことに決まった。
義光は大いに喜び、蒲生氏郷に対し
「天下に面目を立てることが出来ました。一生この恩は忘れません。もし会津に一乱有れば、
必ず義光が救いに参ります。」
その証人として、息子の駿河守を人質として会津まで送ったが、氏郷はこれを丁重に送り返した。
さて、伊達政宗は、これに間に合うよう年内に上洛していたのに、その甲斐もなく義光が
行列の2番に立つことになった。政宗はこの顛末を聞くと、蒲生氏郷を憎むこと骨髄に至るほどであった。
蒲生氏郷と伊達政宗の関係が、水と火の如くであることを、秀吉はよく知っていた。
だからこそわざと隣同士においてその境を守らせたのである。
(伊逹秘鑑)
蒲生氏郷と伊達政宗の悪関係、実は秀吉が煽っていた、というお話

315:人間七七四年
16/03/13 19:24:19.35 aCW8pZdW.net
中日新聞福井版2月21日
県庁前に秀康が“2人”? 結城会が新設に動く
現在の像「容姿」に異論
URLリンク(www.chunichi.co.jp)
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江戸時代初期に福井藩の初代藩主を務めた徳川家康の次男、結城秀康(一五七四〜一六〇七年)の騎馬像について、
結城家のゆかりの福井市民らが違和感をもち、新像の設置を模索している。福井城跡である市内の県庁前に立つ
現在の像には子孫関係者からも異論が出ており、インターネット上で「中国風」「日本の美意識がない」と批判
されたのを機に動き始めた。今の像を計画した市側は静観するが、二つの像が並び立つ日が来るかもしれない。 (中場賢一)
馬にまたがり、手綱を持つ姿で、県庁の来訪者を迎える秀康の石像。越前国北ノ庄(現福井市)入りから四百周年を
二〇〇一年に迎えたのを記念し、福井市と、市の歴史や文化を紹介する公益財団法人「歴史のみえるまちづくり協会」が
城跡を管理する県に贈呈し、〇二年に除幕された。
制作したのは県と友好提携している中国浙江省の石像作家。協会が依頼したが、デザインや制作先を決めた経緯について、
協会関係者は「当時関わった人が在籍しておらず、詳細は分からない」と話す。
建立直後から、結城家の家臣の子孫の市民らでつくる「福井結城会」には、秀康の子孫の結城松平家や結城家の関係者から
「イメージに合わない」と異論が届き、撤去するよう要請があった。ネット上では「中国風にデフォルメされている」
「日本独自の美意識が感じられない」と評されている。
会の片岡賢三副会長兼事務局長(67)は「不評や失笑どころか怒りを買っている」と新像を計画。秀康に関する資料を精査し、
銅像制作を手掛ける富山県高岡市の「竹中銅器」に昨年十二月にデザインを発注し、一月に完成した。
その姿は秀康が愛用していた唐冠形兜(とうかんなりかぶと)をかぶり、手には天下三名槍(めいそう)の誉れ高い
「手杵(てぎね)の槍(やり)」が握られている。顔は「ナマズに似ていた」ともされているが、イケメン風にアレンジ。
ただ、片岡さんは「あくまでたたき台」と強調する。

316:人間七七四年
16/03/13 19:44:56.84 mmYKOCFu.net
容姿に異論、ていうからギイに似ているとか鼻が欠けた姿にしていたのかと思いきや

317:人間七七四年
16/03/13 19:53:36.58 Q9hijGnh.net
>>315
>「当時関わった人が在籍しておらず、詳細は分からない」
キックバック?公益財団法人の悪い話…。

318:人間七七四年
16/03/13 20:46:50.74 xNctmjgV.net
>>297家康の本音「キマシタワ〜!これで豊臣も終わり、次は儂のターン( ̄▽ ̄)bニヤリ」

319:人間七七四年
16/03/13 21:14:50.13 /SDAcKHs.net
>>315
>制作したのは県と友好提携している中国浙江省の石像作家。協会が依頼したが、デザインや制作先を決めた経緯について、
>協会関係者は「当時関わった人が在籍しておらず、詳細は分からない」と話す。
態々、浙江省の石像作家に頼むからこんな中華風な像なるんだよな
国内の製作者でも戦国の騎馬武者像を正しく作れる人がどれくらい居るかも分からんのに

320:人間七七四年
16/03/13 23:42:28.69 AcXeEgg+.net
>>315
御手杵を馬上で使える訳無いだろw
関係者に馬鹿しかいねぇwww

321:人間七七四年
16/03/13 23:59:30.17 wbpvzEpq.net
はい草

322:人間七七四年
16/03/14 01:14:31.04 Vz9aN3QN.net
>>320
変に関羽みたいになっとるw

323:人間七七四年
16/03/14 15:55:50.98 X6LOFWbh.net
戦国時代騎馬武将の写真なんてあるわけないし
当時かかれた絵もおもいっきりデフォルメされてるので細部は全くの不明
誰も本当の姿なんて知らないし県庁前とおるほとんどの通行人も興味もないししりたいとも思わないので
わざわざ作り直す必要性もないだろう

324:人間七七四年
16/03/14 17:24:28.52 fT7s1wsQ.net
左手にサイコガン付けようぜ

325:人間七七四年
16/03/14 17:38:31.19 lbTjKK+/.net
ヒューッ!

326:人間七七四年
16/03/14 17:54:03.61 Yc5G3ZeV.net
天正壬午の乱の結果、信州一国は徳川家康に属することになったが、ここで天正11年6月、
真田安房守昌幸は国中を従えんと企て、先ず室賀を討つべしと一門を一手に引き連れ
室賀の館に押し寄せた。
しかしこれに、室賀兵部太夫(正武)は自ら打って出て、篠山において火が出るほど激しく戦い、
互いに多くの郎党が戦死したため、双方ともに引いた。しかし翌日、真田は再び取って返して押し寄せ、
これに室賀より和睦を請うてきたため、これを許して帰国した。
室賀入道は真田に従属したことを無念に思い、翌天正12年6月、高井彦衛門尉を通じて
遠州の徳川家康に訴えた。これに対し家康は、「謀を以って真田を討つべし」との返答を得た。
室我入道はこれに大喜びし、それから上田に見舞いに参ること甚だ頻りとなった。
ある時、上方より囲碁の上手が上田へと参り、これに室我入道は招待された。
室賀は「よき時節なり」と考え、日限を定め、一門の室賀孫右衛門を以って
「来月7日、真田の居城に囲碁に参りますが、この時真田昌幸を討ち取ります。
ですのでご加勢下さるように。」
と、徳川家臣の鳥居氏に申し送った。
ところが、この室賀孫右衛門は内々真田昌幸に通じていたため、その書状を直に上田に持って行き、
その内容を語った。真田昌幸は大いに喜び、孫右衛門を馳走して反した。
一方、室我入道は全てうまく行っていると思い、家の子である桑名八之助、相澤五左衛門尉、
堀田久兵衛などを従えて上田に参ると、昌幸は兼ねて用意してあった通り、書院に招いて
囲碁を始めた。
この時、長野舎人、木村戸右衛門が討ち手に決められており、合図を出すのは禰津宮内太輔、麻利子藤八郎、
長命寺、安楽寺であった。
長野、木村は次の間より太刀を抜き出し、室が入道を無常にも殺した。
室賀の家臣である桑名、相澤、堀田はこの騒ぎを聞くより早く殿中に斬り入り、散々に戦った。
しかし、たとえこの3人が項羽の勇を顕したとしても、多勢に取り巻かれ、最後には生け捕りにされた。
この3人は後には心を変じて真田に仕え、無二の忠を成した。
この時、桑名八之助は深手を負った。
室賀の妻子たちはこのことを聞くと、取るものも取りあえず早々に甲州へと落ちていった。
(加沢記)


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