戦国ちょっと悪い話43 ..
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2:人間七七四年
16/01/16 18:16:23.65 VQB9pWsr.net
>>1
スレたて乙。

3:人間七七四年
16/01/17 16:57:13.23 F1FAFYEr.net
  ∧ ∧   
 ( ´・ω・)       >>1 大儀であった!好きな美姫を取るがよい
 ( ∪ ∪          ただし、自己責任じゃ!当方何があっても与り知らんぞ!
 と__)__)
 
             / ̄ ̄ヽ   ∞/⌒⌒丶∞   / ヾ丶     / ̄ ̄ヽ   ∞/⌒⌒丶∞
             | ノノ)ノ)))    <_Li(("))_>   |ノ从从|    ( ノノ( ノ)))    ( *((")) _)
             / │^ヮ゜ノ|     |│‘ヮ゜ノ|    ││゜σ゜ノ|   丿|│゜ヮ゜ノ|    丿|| ‘ヮ゜ノ| 
               おね      茶々       五徳       まつ      お市
             /⌒⌒丶    / ̄ ̄ヽ     /⌒⌒丶,    / ヾ丶     /⌒⌒丶
            |ノノ †)ノ)|    |ノ从从 |    | イ从|从)    |ノ从从|    ヽ从 从 _ノ
            丿ノ‘ヮ゜ノ(,    || ´ω`ノ|.   丿!#゜Д゜ノ|    ││;-;ノ|     ( ゜ヮ゜ )アーッ
             ガラシャ     新庄局      小松       亀寿       蘭丸
             /⌒⌒丶   ∞/⌒⌒丶∞   / ヾ丶     / ヾ丶オ     / ̄ ̄ヽ
             ( ノノ(-))))    <_Liミν )    |ノ从从|    ( ノノ)ノ)))タ    <_Li(("))_>
             ノ│゜Д゜ノ(    丿|│‘ヮ゜ノ|    ││ - ノ|    丿│^ヮ゜ノ|ベ   丿|│゜ヮ゜ノ|
              ァ千代      江与       瀬名       義姫       帰蝶

4:人間七七四年
16/01/21 05:15:56.58 TEmnWNJ0.net
文禄の役の講和のため、大明・朝鮮の伝奏が来日することは、小西行長が石田三成を通して
報告していたので、秀吉もかねてより、馳走すべきであると、その歓待のため家臣を奔走させた。
伝奏が登城すると、秀吉は上壇に着座し、伝奏は次の間に置かれたのを、伝奏は通詞を以って
秀吉に訴えた
「日本国太閤秀吉、大明国に和を乞うた以上は我らと同輩である。
そもそも私は、この冠を太閤に御免なされる勅使なのだから、太閤の態度は無礼である。
太閤は次の間に下り、大王より御免なされた勅書、冠を頂戴すべきである。」
これを聞いた秀吉は以ての外に激怒し、小西が表裏を言ったのだと思い、
「この冠を捨てよ!」と命じ、庭に捨てさせた。
そして明皇帝からの勅書を台長老、哲長老に読ませ、その内容を聞いた所、小西が報告したこととは相違し、
先ほど勅使が言った通りの内容であった。
秀吉はますます機嫌を悪くし
「この秀吉を大明国王の婿とし、朝鮮四道を割譲すると、小西が申した故に、軍勢を釜山浦まで引き取り、
朝鮮の王子たちも返したのだ!どれほど後悔しても及ばない。小西を呼べ!!」
そして呼び出された小西行長を見ると、「こやつの首をはねよ!」と怒ったが、小西は色々と
詫び言を申し上げ、また石田三成からもたっての取り成しを申し上げたため、当座の難を逃れた。
しかしこれによって、異国と本朝は再び手切れとなったのである。
(續撰清正記)

5:人間七七四年
16/01/21 23:02:07.90 XY4nnJys.net
親に不孝な人は運が悪いと申すことは天のなすことである。
 
 今武田流は軍学に一あって二ない軍学であるが、その軍学も間に合わず武田家が滅亡したのは何事であろうか。
 これは信玄公が父信虎公へ不孝であり、その他にも甚だ残忍なことがある大将なので、滅亡なさったのだろう。
 また、川中島合戦は古来から甚だ難しく、この戦で信州一円を信玄は領しなさりましたので、まずは勝ち戦の様に聞こえますが、
武田家は御舎弟左馬頭信繁殿をはじめ、歴々の名のある武士に討ち死にが多かった。
上杉家には格別名のある武士の討ち死を伝え聞いておりません。
 そうであるなら勝ち負けはまずなく互角の戦で、武田家は名のある武士を討ち死にさせて、信州一円を取りなさり、
上杉家は名のある武士を打ち取って、信州を武田家に渡されたということであろう。
(本阿弥行状記)

6:人間七七四年
16/01/22 18:52:25.90 Ckr/msp4.net
蒲生氏郷は名護屋に陣していた文禄2年の春、俄に体調を崩し下血夥しく、諸医術をなしたるも
験無く本国の会津へと帰還した。
同3年正月、病をおして上洛した。この年の11月、太閤秀吉は氏郷の邸に入り、饗宴の事があった。
その後も氏郷の病は日々重くなり、40歳という、文禄4年2月7日、都において死去した。
『かぎりあれば 吹かねど花はちるものを 心みじかき春の山風』
この歌を、氏郷は仮初の筆ずさみのように書き残していた。
この歌についてこういう説がある
去る天正19年、九戸での戦いが終わり、石田三成は都に帰還すると秀吉にこう報告した
「今回、蒲生氏郷が軍を運用する模様を見ましたが、彼はただ人ではありません。
彼の軍勢が道を通過するのに、7日ほども引きも切らないほどでした。
その上一人も軍法を犯すものがありません。
彼は殿下のお為に、二心を持たない限りは、あのような御固め世にも二つとないでしょう。
能く注意して見ておくべき人物だと思います。」
これを聞いて秀吉は、氏郷に密かに毒を與え、それによってたちまち病に冒され、終に空しくなった。
氏郷はこのことを察していて、このような詩を綴ったのだという。
(藩翰譜)

7:人間七七四年
16/01/22 19:48:52.60 8sLYXkgQ.net
徳川の世だし、悪口しかないよね

8:人間七七四年
16/01/22 20:39:59.59 nTLumAyT.net
まぁ、結局辻褄の合わない話が多いね
後世の創作は…

9:人間七七四年
16/01/23 01:51:56.84 OQs1dSBS.net
 唐土も本朝も、主君が征伐なさる官軍の他は皆貪兵と申すもので、戦に負け滅亡すると大将へ罪を負わせるものであります。
義兵は至って稀なものと考えております。
 これについて明智日向守(光秀)殿が悪人である事は誰もが存じていますが、
この人としても老年ということもあり、善悪の区別が無い人ではなかったが、信長公の御心が小さく
御身亡き後の信忠公の代で軍学といい、武術といい、その代に並びない日向守を生かしておいては、天下危うしという
信長公の深いお考えから、光秀に無理ばかり仰せられ、必ず謀反を起こすだろうという程の御仕置きをなされたので、
却って光秀が先をとったものと承っております。
 秀吉公とても忠義の人に非ず、信長公の御孫信秀公を天下へ据えられるところを、自分自身が天下をお取りなされました。
不忠不義は日向守も同じ事でありますが、秀吉公の悪はめぐり合わせがよく隠れているだけでございます。
(本阿弥行状記)
ここでは、本能寺の変は怨恨説ですね

10:人間七七四年
16/01/23 08:57:07.53 sF8lhDa4.net
本阿弥はなんか太閤に親でも○されたの?
太閤の治世は色々問題があったとは言え、ここ最近の本阿弥系統の逸話は悪口が多いように感じる
悪い話スレだから仕方ないかも知らんが

11:人間七七四年
16/01/24 01:52:33.44 1oPsJCju.net
豊臣秀吉は陸奥に赴く時、宇都宮で佐野天徳寺(房綱)を呼んで物語りをさせた。
天徳寺が武田と上杉の合戦の勢いが盛んであったことを語ると、秀吉は嘲笑い、
「おい天徳寺、謙信と信玄という坊主も早く死んだことは幸いであるな。
今も生き永らえていたなら、1人には薙刀を担がせ、1人には我が輿の先で朱傘
を持たせて馬の前に召し具したろうに、この世にいなければどうしようもない。
車懸りや座備が何だというのか。全て戯言である」と、言った。
(何條車がかり、坐備、皆戯言なり、とぞ言はれける。)
―『常山紀談』

12:人間七七四年
16/01/24 02:14:30.64 Xhod1L9J.net
生きていたら織田がどうなっていたことやら…

13:人間七七四年
16/01/25 01:40:42.53 GtrZCsB2.net
天正18年8月、豊臣秀吉は奥州会津・白河・二本松において90万石を蒲生氏郷に
与え、葛西・大崎を木村伊勢守(吉清)に与えた。伊勢守は登米にいて、嫡子の
弥一右衛門(清久)は古川におり、家来各々へ知行を分け渡した。
その中で岩手山を領する某という者は、自領内の農人の子を召し抱えて、小姓に
使っていて、いつも自分の髪などを結ばせた。
その某は前述の小姓の親に非分の事を言い掛けて苦しめていた。その親を、死罪に
すると決まった時、その小姓はいつものように主人の仰せにより、髪を結び掛けたが、
やがてその髪を取って某を引き倒すやいなや、一刀で某を刺殺した。
この事は誰言うとなく領内一円に知られ、たちまち百姓一揆が起こり、その日のうちに、
木村父子の家来を30余人打ち殺した。
これより一揆はますます大勢になり、国中が騒動に及んだので、伊勢守は古川へ
行って弥一右衛門と一所になろうと乗り出し、弥一右衛門は登米へ行って父と一所に
なろうと乗り出した。2人は途中で出会い、それから父子は佐沼の城へ籠ったが、
終いには家を亡ぼした。
―『明良洪範』

14:人間七七四年
16/01/25 12:23:36.93 3Cxazat6.net
鬼武蔵大河出演が決まったそうだが例の逸話を全国ネットでやってしまうのか?

15:人間七七四年
16/01/25 12:34:25.11 JTtuyOsL.net
農民相手に敗走する赤鬼っすかw

16:人間七七四年
16/01/25 13:19:03.18 8+YSOaBQ.net
関所の逸話ですね。分かります

17:人間七七四年
16/01/25 14:18:58.07 ugeCPIAk.net
>>14
例の逸話って、どの逸話?
26歳で死んだ人とは思えないほど逸話が多い人なので。

18:人間七七四年
16/01/25 15:31:23.82 yWDanqGL.net
信州で鬼武蔵と言えば、国人たちに色々親切にしてあげてたよね
烏帽子親になってあげたり...

19:人間七七四年
16/01/25 16:23:48.67 aCutGqKr.net
>>18
いい話だなー(棒)

20:人間七七四年
16/01/25 16:45:41.45 w9485U0J.net
でも烏帽子親になって森姓与えても結局自ら殺しちゃってるけどね

21:人間七七四年
16/01/25 18:18:57.84 SKaJqW/h.net
真田が主人公なんだから滝川さんがちょっといい話で去っていく中で「一方信濃では…」って感じで紹介されそう

22:人間七七四年
16/01/25 18:21:02.32 mzR+6PaL.net
ヒャッハー状態であった…

23:人間七七四年
16/01/25 18:55:04.65 ZMWEDtlT.net
天皇の名を叫びながら民間人を犯した関東軍と通底するものがあるよね

24:人間七七四年
16/01/25 19:22:29.21 mzR+6PaL.net
獅子心王じゃないけど
鬼の意味がヒトによって違うよなw

25:人間七七四年
16/01/25 19:22:46.51 ugeCPIAk.net
鬼武蔵のキャスト、まだ公表されてないんだな。
このスレの鬼武蔵みたいな、極端な悪者にしてほしくないが。

26:人間七七四年
16/01/25 19:29:12.53 Oh2x50Ry.net
>>25
出てるぞ
森長可(谷田歩)
URLリンク(www.nhk.or.jp)

27:人間七七四年
16/01/25 19:42:37.15 ugeCPIAk.net
ほんとだ。
でも、イケメンぽいけど年齢が高過ぎないかな?

28:人間七七四年
16/01/25 19:44:14.85 RkQTRoUZ.net
森長可(谷田歩)
もし、この鬼武蔵が頭良くて権謀術「数」、「計」略に富んでたら
タニタ歩数計と呼ばれて

29:人間七七四年
16/01/25 19:44:59.81 SKaJqW/h.net
江の信忠と同じ人らしいな…あんま覚えてないけど
野武士っぽい感じだな

30:人間七七四年
16/01/25 19:48:47.09 RkQTRoUZ.net
しかし今までなら、「森蘭丸の兄」と説明がつきそうなもんだけど
もう森長可単独で知名度高くなったから、弟については書いてないのか

31:人間七七四年
16/01/25 21:15:34.06 6uxYqnph.net
まぁ元々可成の跡継いだ森家の棟梁と言えば長可の方なんだし今までが空気過ぎたんじゃないのか

32:人間七七四年
16/01/25 23:29:18.20 8+YSOaBQ.net
なんか最近は森蘭丸の影が薄くない?
蘭丸くんの逸話とかあんまりないのかな

33:人間七七四年
16/01/26 06:01:49.94 aR5Bs2au.net
たしかに、歴ヲタの間では、なぜか微妙に影薄いな>蘭丸
ゲームでもいるにはいるけど、やっぱ微妙にキャラ立ってないし

34:人間七七四年
16/01/26 07:38:18.96 aRcSoxjZ.net
小賢しい逸話しかないからな
本能寺が宿舎になったのもこいつのせいだし傾国美童といっていい

35:人間七七四年
16/01/26 10:05:00.54 0IydTtIn.net
20前で死んでる小僧だしそう目立った逸話は本当はない

36:人間七七四年
16/01/26 13:06:33.49 S9dHEqe8.net
武将というより事務官だからしょうがあるめぇ

37:人間七七四年
16/01/26 13:12:50.25 Kn7fuvcZ.net
使者や奉行もやった仙千代やQ太郎とは違って内々の事しかやってない段階で死亡だからな

38:人間七七四年
16/01/26 17:01:09.85 H4d7WJ4x.net
生駒壱岐守高俊は、藤堂高虎の外孫であり、土井利勝の婿であった。しかし彼は天性愚かなる人物で、
世の笑い草に成る事ばかり多かった。
生駒家の家老、石崎若狭・前野助左衛門という者二人は常に江戸にあり、中でも前野一人が
計らいとして生駒家全体を差配していた。それは在国している家老等には納得出来ないもの
ばかりであったが、前野は常に「御舅土井殿の仰せである」或いは「幕府執政の人々の旨を得ている」などと
言い送ったため、「ならばかの人々の仰せに背くのは、家のため然るべからず」と、曲げてその旨に従った。
そのようであったから、生駒家の政治は日々月々に善からぬこと多くなって行き、武士も領民も怨み苦しんだ。
ここに至り、在国の家老である生駒将監は「このままでは家が滅びるのも遠からず」と、密かに江戸に参り、
幕府の執政の人々に「高俊が家の事すべからく、早く関東よりのご沙汰を止められ、父祖の例によって
国の静謐を致すべきです!」と訴えた。
これを聞いた執政の人々大いに怪しみ、先ず前野助左衛門を召喚して尋問した。しかし前野は
「皆様の御下知を承らない事を、私がどうして国元に申し送るでしょうか?」
そう陳じた。このため生駒将監。前野助左衛門の両名を召して対決させた。
生駒将監は何も言わず、懐中より一枚の書状を出して執政の人々に捧げた。
彼らがこれを見てから「それを前野にも見せてください」と申し上げた。
前野はその書状を見ると思わず吹き出し、執政の人々に向かって言った
「これは将監の元から鯛二つが送られた時、私が送った礼状です。一体どういう意味があってこんなものを
ここで披露するのか。こんな不思議の事をやるような男ですから、今回のように跡形も無いものを訴えたり
するのですよ!」
将監、人々に向かい
「この書状は前野自ら書いたものか否かを尋ねて頂けますか?」
前野は人々より聞かれるより早く「勿論私が書いたものだ」と応えた。
「ならばその書状を返していただきたい。」そう言ってこれを再び懐中に戻すと、今度は別に大量の書状を
取り出した。それは数年に渡り、前野が、土井利勝を始めとした幕府執政の人々の仰せを承ったと騙り、
自らの心のままに国務を沙汰した文書であった。それらは全て、前野自身の筆跡であった。
ここに至り前野は争う様子もなくひれ伏した。執政の人々大いに怒り、彼を即座に搦め捕って禁獄した。
そして即座に生駒高俊およびその家臣たちを召喚し
「高俊が天性愚かである事、知らないわけではなかったが、父祖の功を捨てられぬため家を継がせたというのに、
このように家が乱れた上は、今後国を与えておくわけにはいかない。
しかし、心が至って愚かである以上、その罪も重くはない、とも言える。」
そう沙汰し、別の義を以って所領一所を賜った。
前野は一族尽く誅せられ、石崎若狭は、同じく江戸にあり、前野の振る舞いを見ていながら彼に従ったこと、
その罪逃れるべからず。しかし前野とは罪の科は同等であるべきではないと、誅殺は彼自身のみに留まった。
その他の家臣たちも、その罪の軽重によって尽く刑が行われたという。
(藩翰譜)
「馬鹿だから罪一等を減ずる」というのもひどい話ですな。

39:人間七七四年
16/01/26 17:13:55.78 Kn7fuvcZ.net
現代の精神鑑定してなんちゃらってのと同様やね。昔の記録にもちょくちょく出てくる

40:1/2
16/01/26 23:45:07.38 qMlN0UKE.net
 太閤様は朝鮮陣の時のことです。大明から加勢として名将李如松が三十万騎の総元帥として来たので、日本勢は小勢なので敵わないと、
朝鮮の都を立ち退きました。そこで、加勢の事を朝鮮から次々とお願いに来ましたが、大神君と加賀公の両公へご相談があったといえども、思った程には軍勢が整わなかった。
 殿下は小国に生まれましたので、口惜しくも軍勢が整わなかったと落涙されたという。
一応はその理が無いことではないが、殿下は不学なのでただこのような御上意をなされた事はもったいない事である。
中華とて格別に軍勢が有り余ることはない。民兵と申すものを拵え置いて、用のない時は百姓に、戦の時は組を取り決めておき、官軍にさし加わって働きます。
その方法の子細は中華の書にある。もっとも中華といっても時代によって違うというが、まずは大体この方法で軍勢を拵えると聞いております。
 または乱世では亡命無頼の者が最終的に天下を取ることもあります。このような事は日本神国で昔から無かったのは、無類の神国であるからと思われます。
殿下が遠征を思われたときにかねてから軍学者とご相談がありましたらこの後悔は無かったでしょう。
 その賢慮がなく却って本朝を小国と後悔されたことは、禁裏に対し甚だおそれあるお一言であり、諸事思い違いが多かったので、御代は永くなかった。

41:2/2
16/01/26 23:46:14.21 qMlN0UKE.net
 殿下は総じて他国との取り合いを御存じなく、下賤から日本を手に入れなさった考えでは、大明からの加勢で大いに思い違いをなされました。
このように、上見ぬ鷲とやらであり御利運になっても、朝鮮と我朝は海路で隔たっているのに、そのうえ秀次公のような人柄、器量が少しもない人を関白に進ませながらの御遠征は
始終のところ何の益もなく、兵は貪兵と申す類となり、朝鮮大明人などは倭奴入寇とけなす事は本朝の恥と言えます。
 終いには大明のあぶれ者の沈惟敬と申す説客が、大いに大明と日本をだましました。
この一件は小西行長、沈惟敬の受け持ちであり、大明から王号衣冠を贈られたことを、殿下は大明から我朝の尊さゆえに贈られたと心得られていた所、
その文章が甚だ横柄で、日本国王に封じたので朝鮮国王と和睦せよ、との事であったのでまた取り合いが始まった。
 この事は中華は外夷へ王号を贈り、中華の正朔(暦と年号とのことである)を請けるという事からきている。
つまり琉球なども薩摩公の御下知に随いながら、中華の正朔を請けており、中華の勅定によって王号を代替わりに申請しており、
外夷はみな二八月に貢物を捧げることなど、全く御存じなかったので、殿下は大いに思い違いをなされ、終いにつまらぬ和睦となってしまいました。
 なんにせよ民兵の事は天領私領問わずいてほしいことである。また民兵が始まりましたら、これまで書いてきました様に、甚だ工夫が必要な物だと思われます。
(本阿弥行状記)

42:人間七七四年
16/01/27 08:33:42.92 QK5rajFN.net
土井大炊頭が、坂崎出羽守愛用の三池典太の脇差を所望し、家臣の寺田某を
坂崎の屋敷に遣わした。寺田から話を聞いた出羽守は
「大炊様から脇差を所望されたのは、名誉なことである。斬れ味
を確認して頂いた上で進呈することとしよう。」
といい、家老を呼び、罪人がいるかどうかを尋ねた。
家老が
「今日はいません。」
と答えると、出羽守は
「昨日、不始末をし叱ったでかした坊主がいるだろう。そいつを
連れてこい。」
といい、連れてこられた坊主を木に吊るし、その脇差を抜き打ち
に胴切りにし、坊主の体を両断した。その一部始終を寺田に
見せた上で、脇差を渡した。
坂崎の凶暴さとともに、脇差の抜き打ちで胴を一刀両断にする
恐ろしい腕の冴えを伝えるお話し。
「元禄世間話風聞集」

43:人間七七四年
16/01/27 10:07:02.40 bmM4omYX.net
試し切りされる程の不始末ってどの程度の物なんだろ?
三才様家の庭師レベルなんだろか?

44:人間七七四年
16/01/27 12:27:56.12 +L0D7x0A.net
銘「大炊、刃に丸」

45:人間七七四年
16/01/28 01:54:28.78 jd9xfX/V.net
土井利勝に刀をもっていかれてムカついたんだろうなコレw

46:人間七七四年
16/01/28 08:10:08.01 mxjf220e.net
古田織部正は、古くから伝わる器などが完全に保存されているのを、「あまりに思うところがない」として
好まなかった。されば、書画のような物でも、かしこを切りここを裁ち、普通の茶道具も、多くは破損させ
或いは砕いて、それを再び補修し、継いで用いた。世の人々はこれを興あることと思い真似たため、
世の中から全き物は無くなってしまうようであった。
松平伊豆守信綱の実父である大河内金兵衛久綱は、古田織部について近くの人々に、
「彼は必ず禍に巻き込まれて死ぬだろう」と言っていた。
後年、織部は罪を蒙って誅せられた。
人々は大いに驚き、久綱に聞いた
「あなたはどうして、織部があのようになると知っていたのか?」
「古の宝器と聞こえた物も、世々の乱に多くは紛失し、現在まで残っている物は、皆神仏によって
護持されていたからこそ、このように世に残ったのです。それを、己一人の好みに合わせて破損させると
いうのは、必ず鬼神の憎むべき行為でしょう。ならば、それをしている人もまた、身を全うして終わることを
得られない。そう思って言ったのです。」
これは名言であると、古き人の物語を承った。この事は萬に渡り心得あるべきだろう。
(藩翰譜)

47:人間七七四年
16/01/28 13:10:40.58 WL2rLY7i.net
言いがかりだなぁ…
たまたま当たったからこうやって記憶にも記録にも残されてるけど
外していたらあっという間に忘れ去られているだろうよ。
安藤さんが本多正純の失脚を言い当てたのも同じようなもんだな。

48:人間七七四年
16/01/28 13:15:29.13 WL2rLY7i.net
織部のやつ怪しからんって思うのは個人の勝手だけど、織部には織部の思うところ(豊臣の存続?)があって
それの実現のために動いた結果、徳川政権と相容れなくなった。つまり結果論だろう。

49:人間七七四年
16/01/28 13:23:35.17 my13jaj9.net
DQN眼竜「ほんま名物壊すとかロクでもないな」

50:人間七七四年
16/01/28 14:36:46.95 jd9xfX/V.net
破袋みたいなゴミをありがたがってる織部の審美眼はかなり怪しいw

51:人間七七四年
16/01/28 14:59:43.17 nTarwUBU.net
審美眼は人それぞれだから何とも言えないけどわざわざ壊してまで好みに合わせるってのは凡人にはよく分からんなあ
自然に壊れたものに金継ぎしたり鎹打ったりしたものが味が出て喜ばれるってのなら分かる気もするけど

52:人間七七四年
16/01/28 15:06:16.95 et56NdCV.net
 私達が一年加州へ御用に下向して逗留している時に、御台所の勘定奉行がひどく使い込んでしまったので、
退役閉門、知行の内から毎年返納するよう仰せ付けられたということがあった。
 その人は常々懇意であった人だったので特別に気の毒に思った。
 この背景には利家公はきわめて御憐憫の深い君であったので、御家中で百石から千石の侍衆で身持ちが放埓でない貧しい人々を吟味して、
順番に御台所の勘定奉行に仰せ付けられたことにあります。彼らは捨てられた物を拾い、余った物を売り払い、先ずは横物成の類から着手していって、
一ヶ年毎に勤めさせてもらったので、君のおかげで身の上を取り直してきました。
 
この度の使い込んでしまった人は一粒一銭の私物化もなかったが、吟味が足らず、下に勤めている者らに対し、
様々なものに条件の良い値段をつけたので、御台所の出費がいつもより一ヶ年で三千両ばかり高く必要であると申し上げた。
そのため不足分を負債としてしまいました。
 この人はきわめて篤実な人ですが、器量がなかったのでこのようになってしまった。
 これにつきましては、親にひどく孝行して国家の用に挙げられたが、才が足らなかった人がいることを思い起こします。
 孝行といえばただ一道にして、その孝行には事情や立場あると考えられます。
(本阿弥行状記)

53:人間七七四年
16/01/29 02:11:06.15 cFB0egY4.net
安藤彦四郎はこう語ったという。
「武士の身の上には“伊達”というものがあるが、心得ている者は少ない。
武士の伊達には、討死にまさるものはあるまい」
―『武功雑記』
大坂夏の陣の時、安藤帯刀(直次)の子・彦四郎重能は、徳川秀忠の小姓の
成瀬豊後守(正武)の組であった。
彦四郎は常々人に語り、「およそ武士というものは、長生きして度々戦場に出て、
武功は多くとも死なずして世を送っては、格別に優れた勇士とは言い難い。ただ、
討死することこそ本望である」と、言った。
5月7日になって、彦四郎は「一番首と言わば彦四郎と思いなされ、一番に
討死と言わば、それも彦四郎と思いなされ!」と言い、撓いの指物を巻いて
井伊直孝の先陣へ行った。
そこで彼は庵原助右衛門(朝昌)に向かって、「いざ掛からん!」と言った。
しかし庵原は同意せず、「敵の待ち受けている矢先へどうして掛かることが
できるだろうか!」と、言った。
これに彦四郎は「待ち受けている矢先へ掛かってこそ勇士と言うべきである!」
と言うが、庵原は「いまだ早い!」と言って攻め掛からない。
すると彦四郎は、「さらば私が掛かってみせん!」と言った。庵原は彦四郎を
押し止めたが、彼はまったく躊躇わずに敵の中へ駆け入って討死した。
さて、父・帯刀は馬上で采配を取って諸軍を命令していた。そこへ従者が駆けて
来て彦四郎討死の旨を告げ、「屍をいかがいたしましょうか」と申し上げた。
これに帯刀は「犬に食わせよ」と言いながら、崩れた味方を立て直した。その後、
合戦が終わると、帯刀は大いに嘆いたということである。
―『明良洪範』

54:人間七七四年
16/01/29 03:22:56.23 i2sa2dX4.net
匹夫の勇ってやつかね
子育てに失敗した悪い話だな

55:人間七七四年
16/01/29 10:43:13.93 p3p9MENe.net
ヴァイキングの社会では戦場で勇敢に戦って死ぬとエインヘルヤル
としてヴァルハラに行けるが、天寿を全う、病死、海難事故は藁の死と言われて
地獄行きの恥ずかしい死に方とされていた。
鬼武蔵こそ大正義

56:人間七七四年
16/01/29 11:02:32.71 Rw0/EE71.net
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
犬に喰わせろ、の話は既出

57:人間七七四年
16/01/29 12:49:15.38 Rw0/EE71.net
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
伊達も出典はないが既出だった

58:人間七七四年
16/01/29 14:25:15.09 uO/yXBy0.net
い、伊達

59:人間七七四年
16/01/29 19:20:01.82 gZducy7M.net
一番首(討ち死に)=ファーストペンギンの役目ってことなのかな?
自軍を鼓舞するには手柄あげるにしろ死ぬにしろ勇敢に奮戦するところを見せること
ちなみに彦四郎殿は南龍公の茶入だかを酔った末に破損
→自害も覚悟したところを許してもらっており、拾った命と思っていたのもあるんじゃない?

60:人間七七四年
16/01/30 12:34:06.81 OQaqTFvJ.net
   おきて
一、足さすり候とき、居高なるていをし候者においては、ふちふち十石返させ申すべく事
一、湯殿の裏への供番、代わりたるべく候事
一、秀吉・お祢に口答え候はば、一日一夜縛り申すべく事
以上
天正十三年十一月廿一日 でんか
( 豊臣秀吉文書集二 1757 足さすり等掟)
ちょっとブラックな豊臣家が垣間見える掟
(読みづらいので原文より漢字を増やしてます)

61:人間七七四年
16/01/30 14:30:24.35 g4DmB2LH.net
>>60
この時代はどこもこうだったのか、それとも厳しい方なのかわからん。

62:人間七七四年
16/01/30 14:59:09.43 ZGufmnku.net
天正十三年十一月だと関白になって四国平定した後くらいかな

63:人間七七四年
16/01/30 22:00:54.95 +Q47h22A.net
>>11
そういえば、乃至政彦「戦国の陣形」っていう近頃出た本で陣形についての話が載ってた
要点を書き出すと
・律令政治の頃は大陸や朝鮮との関係悪化の可能性があったため、大規模な動員を可能にし、それなりに陣形も研究していた
・常備軍が必要なくなると、各々の領主が部下を率いるという形で全体を統率するようなことはなく、陣形は不可能であった。
・文献で「魚鱗の陣」「鶴翼の陣」「鳥雲の陣」などはたしかに見られるが、それは単に密集とか散開などを意味するだけで大して意味はなかった。
・戦国時代になってやっと大名による大規模な動員が可能になり、おそらく山中勘助が八陣を耳学問ででっち上げて信玄に具申し、陣形をとることにした。
・しかし、信玄に追い詰められた村上義清がやぶれかぶれで兵種ごとに統率した戦術によって陣が崩れ、信玄も負傷したため陣形の重要性が薄れた。
・上杉謙信は亡命してきた村上義清の戦術を大々的に組織し、信玄と度々対峙したため、北条氏なども五種の兵種に分けるという戦術を採用。
・川中島の「車懸り」というのも、実は螺旋状の陣形ではなく、単に上杉家の戦法のひとつで八陣とは関係なし。
・織田や関西勢力も上杉らとの戦いから、だんだん五種の兵種に分けて統率する手法が主流となり、陣形などは顧みられなくなった。
・そもそも実際の戦争は流動的であり、両者が互いの人数を確認したうえで布陣、などはほとんどない
・江戸時代に入り、甲州軍学が流行したため、山中勘助の言っていた「八陣」が戦国時代の主流と勘違いされた。
・なお、陣形の元祖である中国大陸でも、「八陣」という名はあったので、孔明たちが研究。
・孔明は思考実験をしていたのだが、後世、孔明の「八陣」と称するものがあらわれ、もともとは「8つの陣」を主軍の周りに配置、という意味だったはずが
いつの間にか「8種類の陣」と意味が変わってしまっていた。
・結論:中国の「陣形」も日本の「陣形」も実戦ではほとんど意味を持たなかった
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
で真田信之が「戦闘開始後、敵と味方の勢いを見て随時補強が先決、陣形などは二の次、三の次」
というような事を言っているが、実戦の経験がある武将には合戦譚などは笑止千万だったんだろう

64:人間七七四年
16/01/31 09:01:17.81 hehjqzBp.net
乃至は人間として駄目だ
@prometheus1575 ごツイートに大変勇気づけられました。一般書のみならず論文もまたインターネットで批判する意味がないですね。みなさん現行の学者でないにも関わら歴史学を代表して発言されるので、歴史学はそういう世界なのかなと考えさせられていました。
URLリンク(twitter.com)

こんなことを平気でいう奴に未来はない

65:人間七七四年
16/01/31 14:46:26.08 dYdpsyyl.net
不利になれば重いもの置いて逃げるのが一兵卒だもんな
予備兵投入するか督戦しないと瓦解する

66:人間七七四年
16/01/31 16:18:16.06 12F+pkU1.net
>>63
最近は軍事学本増えてうれしい
軍事オンチがこの手の本を書くなやってのは置いといてw

67:人間七七四年
16/01/31 20:14:35.20 QPFGXANS.net
ある人の語った所によると、山崎家盛の妻は、池田勝入の娘であり、池田輝政の
妹であったが、彼女は極めて見目悪く、そして手足の力は人にはるかに超えていた。
そのような女性であったので、夫婦の仲も睦まじいとは言えないものだったが、
彼女はそれに怨む色も見せなかった。
さて、大阪の奉行たちが軍を起こした時(関ヶ原の乱)、輝政は家康とともに東国にあり、
彼の北の方は大阪に置かれていた。この北の方というのは徳川家康の娘であり、家盛の妻からすれば
兄嫁に当たる。
この時、山崎家盛は大阪に留められ、西軍より中の渡の新関の守備を命ぜられた。
しかし、元より東軍に心を寄せており、色々と謀って輝政の北の方を盗み出し、彼女と、
自分の妾、及びそれの産んだ子を、居城である三田の城に落とした。そして奉行たちが
輝政の北の方を奪い取り人質にしようとしたなら、親戚の好によっていかにも欺き、
叶わぬ際には自ら腹切ろうと思い定めていた。
ところがこのような所に、奉行衆が細川忠興の妻を取り損なう事が起き、その後
「東国に下った人々の人質を取るには及ばない。しかし大阪に在る人々は人質を上げるように。」
との命が下った。
山崎家盛は妻を参らせようとしたが、夫からそれを聞いた彼女は、夫に近づくとその手を捕らえ、
守り刀を引き抜いて喉元に当て
「古より、妻が夫の身代わりになった例は珍しくありません。ならばどれほど、普段から情けのない
関係であっても、夫となし妻となったからには、あなたの身に代えるべき人がなければ仰せに従うでしょう。
ですが、これはそういう話ではありません!
先ず、あなたは私の兄嫁を、内府の姫君であるからと、命をかけて盗み出しました。
また愛おしく思っている妾を、幼い子供を付けてこれも同じく落とし、命に代えて守りました。
一方、私はその間留め置かれたままで、今人々の手に渡れと言うのは、あまりに恨めしきお計らいでしょう!
私はそんなつれない人のために命を失おうとは思いません!
それでも行けと言われるのなら、私も思うところがあります。さあ、いかにやいかに!?」
そう刀を突きつけて言われると、山崎家盛は大いに恐れて言った
「あ、あなたがそう言われるのも道理である!私の過ちを許してほしい。
この上はどうしてあなたを人質に参らせるだろうか!」
「ならば、あなたの過ちであったという言葉に、偽りはないと誓って下さい。」
家盛は神仏にかけてとこれを誓った。すると妻は
「私は普段から怨みに思っていなかったわけではありませんが、色に出して見せないようにしていました。
しかし今このように本心を顕した以上、再びあなたとまみえようとも思いません。」
そして供をする侍女2,3人を召し、伝馬を借りてそれに打ち乗るとそのまま三河国へと駆け、
兄輝政の城に下り、やがて尼となり天久院と名乗った。
その後、この人の住む所に盗賊4,50人ほどが押し入ったことがあった。
この時天久院は大薙刀を手に取ると走り向かい、彼女に向かってきた者3人をなぎ倒し、
残る奴原を散々に手負わせて撃退した。
池田勝入のような人の娘であるから、心も剛で、理にも通じた人であったと伝わる。
本当かなあ?(実事なるにや)
(藩翰譜)

68:人間七七四年
16/01/31 20:46:40.25 Kg5LzJi3.net
水野勝成は天正十五年、関白殿が筑紫に向かった時、肥後国に渡り
(都にて闘争し、人を討ったので肥後に行ったとも言う。本当であろうか?)
佐々陸奥守成政に仕えて、国人等が乱を起こした際所々の戦にて高名した。
成政が滅んだ後、小西摂津守行長に仕え(千石を領すると云う)
そこを出て(また人を斬って退去とも言われている)
加藤主計頭清正に仕えるが(千石を領すると云う)
またここも去って(ここにても人を斬ったと云う)
豊前の国へ行き、黒田甲斐守長政に仕えた(千石を領すると云う)。
長政が船に乗って大坂に上がる際、勝成を召し、帆柱にある縄を解けと命じた。
勝成は「自分は心が猛しと言えども、このような技に慣れていない。
これほど走る船の帆柱に登れとは奇怪な事を言う人だ」と腹を立てたが
断るのもさすがに口惜しと思い、帆柱に登り、縄を引き解いて下り
「このような辟事を言う主に仕えるに益なし」と
その夜、船が着いた所より立ち去った。
このような事であったので、畿内も九州も皆たたずむべき所がなくなり
備中国に隠れ住んだ。
(藩翰譜)

69:人間七七四年
16/01/31 20:57:33.56 /4NCAMRO.net
>>67
一方、姉?の池田せんは花隈城主として鉄砲隊を率いてた
もし、鬼武蔵の嫁さんがこっちの妹の方だったら
どんな子供が生まれただろうか

70:人間七七四年
16/01/31 23:26:42.51 dzmKXgHh.net
>>67
『犯したる!!』のねーさんみたいな人だなw

71:人間七七四年
16/02/01 00:02:19.34 xg2IiiUZ.net
枢斬暗屯子さんかよ

72:人間七七四年
16/02/01 17:44:54.90 ttxrTago.net
>>67
作者も疑ってるのが面白い。

73:人間七七四年
16/02/02 10:13:31.55 8nDx0e9s.net
>>68
の続き
この後勝成、乗乃助と名を変えて、毛利が家人、備中国の住人三村紀伊守という
三千石を領する人の家に行き、十八石の禄を受けて仕え、この国にて子息美作守をもうけた。
あらたまの春となり、三村が家に椀飯の事があり、饗膳をはり、茶を賜る事があったが
下様の人には及ばなかった。
勝成、さすがに昔を思い出し、どうにかして飲みたいと思ったので
茶を点てる童坊に近寄り、手をつかねて、事なさげに
「我にもお茶をたまわれ」と言うと、この童坊
「これはうえさまの人々に給はるもので、おこと等にまいることは叶わず」
勝成これに対して
「さればである。それゆえこうして望んでいるのだ」と言ったが
つれなく聞き入れられず
勝成「侍ほどの者に飲食の物にて恥は見せぬものだ」と言うと
童坊カラカラと笑って「おことも侍の数に入るのか、ああおかしい」と言ったので
勝成、大いに怒り、大の眼に角を立て、はたと睨んで
「憎っくき今の言葉かな、思い知らせてくれん」とつぶやきつぶやき立ち出でて
この童坊が茶の事終わりて帰る所を、ただ一刀にて斬り捨て
ここを去りて都を指して登って行ったと言う事である。
(藩翰譜)

74:人間七七四年
16/02/02 13:36:56.89 SLtLAPZq.net
水野勝成はほんと生まれる時代を間違えなかった

75:人間七七四年
16/02/02 14:56:38.29 /5a0my5b.net
>>73
ただ、勝成に限らず戦国時代に侍を挑発すれば、切り捨てられてもまあ当然。

76:人間七七四年
16/02/02 21:41:31.05 euXDDpox.net
これでも水野家ではまともな人だったわけだが

77:人間七七四年
16/02/03 01:25:22.33 nCCVptJZ.net
 学問を好む人がまたしても仏をそしり、韓退之の仏骨表をほめそやして、
梁の武帝が台城で逆臣侯景により飢え死にさせられた事に対して、『この武帝が仏を信じたため餓死されたのだ』と笑うものはわずかである。
 しかれども韓退之の一生を聞き伝わると甚だ不人柄で、時の執権にこびへつらって京兆の司(日本ノ所司代ニ準ズ)になられたようである。
大いに笑うべし。ただ物知りとはほめ申すべし。
君に忠臣、民に慈愛ある、国家の用に立つ人ではさらさらない。
 また梁の武帝が仏法の信仰が厚く、それゆえに侯景に餓死させられたのではさらさらない。
父子の恩愛を大いに間違えた人で、昭明太子が憂いながら死なれたことをわきまえるべきだ。その訳は史書に詳しい。
 その他、漢代で賈誼という人が、天下の田地・商人の元手まで平等にしようと致されたのを、陳平・周勃らが大いに讒言したので失脚された。
後にこの賈誼は江南の諸侯の附家老となり早世されたという。
 かの賈誼などが、所謂腐れ儒者と申す者である。例えば兄弟を同じくし、百姓ならば田畑、商人ならば元手銀を同じに渡しても、
その身の幸、不幸でいろいろとなるものである。小さいことですらこのようである。
まして天下一統平等にしようという事は、管の中から天を見るに等しい。
自己の少量の見識で造物主の御気に違い、埒もない事を申し上げ、ついには天の御罰を蒙ったのか,
たった三十歳ばかりで死去、ああ恐るべし。
 彼が申す事を用いなさったら、漢家四百年の基礎となる事業はどうしてたもてただろうか。
 儒仏ともその人の用い様で治乱あるが、中華の歴代を考えると、天下を乱した博学高才の学者は多い。
学問を好むとも、文華の学問は用いてはならない。
 特に天下の政務に仏法は甚だよろしく、上宮太子などが所々に寺を御建立されたことでわかるでしょう。
 今もてはやされている林道春などは、太子をそしり、兼好法師の徒然草、源氏物語をそしられています。
このようなことは、朱晦菴の遺風を真似られていることと、我々はおかしくおもっています。
(本阿弥行状記)
さすが代々の法華宗の本阿弥一族
仏嫌いの林羅山に容赦ない

78:人間七七四年
16/02/03 08:01:35.51 bT7LTetB.net
備前守(浅井長政)の嫡子に万福という者がいた。越前に人質として
送り遣され、越前平定後は加賀国に行って隠れていたが、
盲人となったので、母、または祖母公(信長の母)を頼って出たところ、
近江国木本にて信長により誅殺された。
―『当代記』

79:人間七七四年
16/02/03 11:18:19.84 zF8xJyop.net
>>73
勝成は水野側の資料(主張)がホント酷い。
例えば大坂夏の陣では後藤・真田・明石・薄田等
名だたる武将は全部水野家が討ち取り
越前松平、家康の窮地をも救って大坂城内一番乗りとかそういうレベル。
白石先生は藩翰譜でそういうホラ話は採用せずに淡々と記述してるが、その点はさすが。

80:人間七七四年
16/02/03 19:39:36.83 IZjFTMLJ.net
白石と羅山、どうして差がついたのか…慢心、環境の違い

81:人間七七四年
16/02/03 19:43:52.65 DQrJ04RJ.net
徳川家の半分は水野家のDQNの血統で出来てます。
特に越前家に濃く出てます。

82:人間七七四年
16/02/03 20:02:37.17 DQrJ04RJ.net
≫79
そんなの言ったら真田の方が酷いだろ
真田十勇士とか無茶苦茶じゃないか

83:人間七七四年
16/02/03 20:56:53.62 zF8xJyop.net
水野の場合は家伝、つまり藩の公式見解がぶっ飛んでるってこと。
松代藩の記録には十勇士が出てこないでしょ。

84:人間七七四年
16/02/04 02:26:28.65 SO9y3j9I.net
 親類の中にひどく貧しい人がいるのは一家の恥である。何とぞはなるべく助け合いなさい。
貧しい人がいないようにするべきことは、人間第一の事である。
 前に御大将方について残忍であることを申しました。
この残忍というのは親類を倒し、父子兄弟を殺し、時が来ていないうちは志をたわめて自分の悪念を隠し、勢いに乗った時に功臣を殺すなど、
不仁のことがあまたあることである。
 その中でも、信長公は仏神に悪く当たり、日枝山を焼き、弟を殺し、功臣を殺しなさった事のように、ひどく残忍大過の君であった。
それゆえ明智により落命、御子孫はあるのかないのかわからないほどとなり、信雄公と有楽齋はその家の武備には疎くて、
むしろ茶事に名があるようなことは残念なことである。
 おおよそ聖人に近い君は中華では後漢の光武帝、我が朝では東照宮、この両君を除いて後の世の人はわからないが、
当御代まで決して他に聖君がいたとは知らない。
難有る時代に生まれました事と毎度落涙しております。
また、残忍の志は下々にもずいぶんあることです。よくよく慎むように。
(本阿弥行状記)
信康は…まぁしょうがないよね

85:人間七七四年
16/02/04 06:34:50.07 TjKaqYJR.net
この頃には、徳川家をはばかって信康はあまり知られてないか
信長のせいにされてたのかもね。
てか、本阿弥が大好きな日蓮宗は信長、家康が揃って懲罰してるけど
いいのかなぁ

86:人間七七四年
16/02/04 07:53:35.67 Zu+5XOiX.net
>>85
日蓮宗全体を禁じてるわけじゃなくて、過激派の不施受派が弾圧されてるだけだろ

87:人間七七四年
16/02/04 08:46:37.67 wXRNGBqO.net
本阿弥家がそこまでイエヤスキーになる理由って何よ
信長秀吉に比べて全然態度が違う。いくら最終的な勝者とは言え…

88:人間七七四年
16/02/04 09:12:19.19 gntg+EyP.net
>>87
信長は天下が確定する前に死んでるからともかく、秀吉に関しては特に晩年は、政権と繋がって既得権得ている人間以外は
「早く終われ」と思ってた人のほうが多かったでしょ。

89:人間七七四年
16/02/04 09:32:09.40 wXRNGBqO.net
>>88
本阿弥家って、権益なかったのかね
まぁ家康と結び付きを強めたから良く言っておこうということなのかもしれんが。

90:人間七七四年
16/02/04 09:56:40.01 UvpVzQgq.net
>>87
鷹峯の土地を家康から拝領してるし

91:人間七七四年
16/02/04 18:33:02.25 ZsWPVkYs.net
なんだ家康プロパかよ本阿弥…

92:人間七七四年
16/02/04 19:32:14.33 TtalNbCl.net
あーだこーだ好き勝手言った後
徳川アゲで締める事で
予防線を張る意味合いもあるんやで。

93:人間七七四年
16/02/04 20:46:42.83 usWz4Ldn.net
>>88
秀吉みたいないわば典型的な独裁者が全国を支配するのって、日本じゃ希だしねい

94:人間七七四年
16/02/04 23:12:11.42 QKehDki4.net
>>92
ここのまとめサイトが
まさにそんな空気ですな
disられるのは主にラスボス

95:人間七七四年
16/02/05 00:56:23.91 wJtdm8/P.net
浅井の平生の存念は、越前が平定すれば、江北は肝要の
場所であるため、浅井も追い立てられるであろうというもので、
その旨嫌疑に及び、先年敵対したのだとか。
およそ信長公は大心第一の将であるため、そのようなことは
あるはずもないものを、
このように疑ったのは浅井の運の窮するところであろうか。
―『当代記』

96:人間七七四年
16/02/05 18:59:38.80 mLQrqOXT.net
大谷刑部少輔(吉継)は徳川家康に無二の忠節を申し上げ、大事の相談の在った時も、心底に残す所無く
家康の御為を大切にした人物であった。
ところが、宇喜多黄門(秀家)家中において不慮の紛争が起こった時(宇喜多騒動)、大谷はこれを取り持ち
榊原康政も引き加えて紛争を解決しようとしたが失敗、戸川肥前守、宇喜多左京、岡越前守、花房志摩守などは
「宇喜多秀家から討ち手を向けられれば打って出る!」と、その時の相印として上下皆坊主にした。
これを家康は聞き及び、康政を叱りつけた
「関東よりお前と交代する平岩主計頭が既に上ってきているのに、式部(康政)はどうして関東に下らず、
要らぬ他家への取り持ちをしているのか?そのように欲にふけり、取り持ちに対する礼物を欲しがるような
者だったとは思わなかった!」
康政はこれを聞くやいなや、どこにも暇乞いすらせず早々と関東に下っていった。
大谷吉継はこのことを聞いて思った
「式部をそのようにお叱りなされたということは、私も同様に思われているということだ。
それにして言い方があるではないか。取り持ちをしたのを礼物目当ての汚らしい心中であると仰せになったことは、
草履で面を踏まれたのも同然だ!」
そう家康を怨み、腹を立てて泣いたという。
(玉露叢)

97:人間七七四年
16/02/05 21:06:05.15 dLnsTis+.net
康政を挑発して帰還させ、宇喜多家の騒動の泥沼化→弱体化させる魂胆ですか?

98:人間七七四年
16/02/06 08:40:02.41 qGRq9v6i.net
 東照権現と号する勧請の事、関東からお願いが有ったといえども勅許は無かった。
しかたなく叡山の座主梶井宮へお願いして、宮のお取成しで、禁裏から権現号の勅許を梶井宮へ下されました。
右の宣命の写しを関東へ送られ、本紙は梶井宮の宝蔵に納めてあるという。
もちろん梶井宮の御勧請という。実に末世であるといっても、日月地に墜ちずと言うべきである。
(本阿弥行状記)
今でも写しはあるのですかね

99:人間七七四年
16/02/06 14:01:14.90 j7aiHJz8.net
大坂の陣が調停となって堀を埋めた時、豊臣秀頼より女中方が使いとして
やって来て、「堀の埋めさせられようは、どのように致しましても、御情けの
なきなされようでございます!」と、恨み申し上げた。
徳川家康にしても秀忠にしても応対しかね、老中も返事を申しかねたので、
女中方はますます激しく、恨み深く申していたところ、成瀬隼人(正成)が
女中の傍へと近寄り、
「おやおや、こなたは女中であるのに、よくものを申される人ですねえ」
と言って、女中の尻をつねった。女中はこれに困って赤面し、言葉を発する
ことができなかったそうである。
この事は、「時に臨んで功者な手段」と言われたとのことである。
―『武功雑記』

100:人間七七四年
16/02/06 19:28:45.21 vYxxbSP+.net
セクハラパワハラ

101:人間七七四年
16/02/06 20:24:25.19 uEIFzPgd.net
この女中は美人で名高いお玉の方か

102:人間七七四年
16/02/06 20:39:46.22 OlPnY2tG.net
女中がァ千代だったら死んでるだろ成瀬

103:人間七七四年
16/02/06 21:05:46.48 QbI8M+bu.net
そこへ現れる大蔵卿局

104:人間七七四年
16/02/07 11:37:11.36 uIIEMHG4.net
逸話というか書状ネタ
上杉家の家臣、狩野新介秀治。
元々は尼子勝久の家臣だったといい、何がどう流れてきたのか越中神保氏の家臣狩野氏の養子となり、謙信に仕えたらしい。
御館の乱では謙信の馬廻り衆として景勝とともに春日山籠城組の一人だったらしいのだが
この時何をしたのか分からないが景勝に超気に入られる。
謙信時代の重臣達や景勝の直臣衆である上田衆すらも差し置いて万事取り次ぎを任される執政扱いになった。
秀治は景勝より20歳ばかり年上だったということだが清貧で控えめな人となりだったらしく、
なかなか重臣達が言うこと聞かなくて苦労していた青年当主景勝はそんなところが気に入っていたのかもしれない。
兼続が直江の跡取り娘お船の入り婿になると上杉家は秀治と兼続の二大執政状態になる。
秀治はしかし、根なし草である自分が景勝様に大層気に入られ重用されている事態を憂い、嫉妬を呼ぶだろうと考え
春日山に粗末な庵を結んで質素に暮らした。
景勝が秀治には内政も外交も重要な仕事をたくさん任せているので、秀治がそのような粗末な姿では上杉の面子に関わる、
屋敷を受け取れ、せめて兼続と同禄受け取れと再三命じても固辞し続け、ボロ小屋に住み続けた。
上杉家の筆頭家老なのにボロ屋住み(兼続は後輩なので秀治の方が順位上)
ある日、春日山に嵐が来た。
他のきちんと普請された屋敷はなんともなかったようだがお粗末な庵の狩野宅には被害が出たらしく
景勝から「一昨日風にて其元家損し候て、時分と云、造作笑止に候」と書状が届いた。
景勝は他にも秀治に「お前の家マジ狭い」とネタにしているのでもうちょっとマトモな家に住めよ!ということだろう。
なお生活環境悪かったのかはたまた過労かしばらく後に秀治は病死し、景勝は二度と秀治の代わりとなる者を作らなかった。

105:人間七七四年
16/02/07 13:10:44.24 K/Hk/8cI.net
景勝が「笑止に候」と出しても想像できない

106:人間七七四年
16/02/07 13:14:55.43 WI66Vt05.net
三条の大面城を貰ってるみたいだね

107:人間七七四年
16/02/07 13:34:46.02 Kd2+emmN.net
当時の「笑止」って気の毒に思うってことやで

108:人間七七四年
16/02/07 14:40:36.45 K/Hk/8cI.net
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
そうだったのか、前にも自分と同じ勘違いしてた人がいたようだ
確かに「笑いが止まる」だから字面的には気の毒の意味になるな

109:人間七七四年
16/02/07 17:36:57.83 a4eBAu+p.net
昨日風であなたの家が壊れたと聞いたんだけどほんと酷い家ですねぐらいの意味に読んだ
>>106
秀治はほぼ春日山城詰めだったと思われるので
城貰ってもそこでは殆ど暮らしてないかと

110:人間七七四年
16/02/07 21:47:33.00 v2SG8Npp.net
これは明治時代の話になるのだがご容赦を
勝海舟は政敵・小栗上野介忠順について氷川清話の中でこう評していた
「小栗上野介は幕末の一人物だよ。あの人は精力が人に優れて計略に富み世界の大勢にもほぼ通じてしかも誠忠無二の徳川武士で先祖の小栗又一(忠政)によく似ていたよ。
一口にいうとあれは三河武士の長所と短所とを両方備えておったのよ。しかし度量の狭かったのはあの人のためには惜しかった」
当時は小栗又一忠政が誠忠無二の三河武士として高く評価されており子孫の上野介も初代又一に例えられたのは非常な名誉だったかもしれない

111:人間七七四年
16/02/07 21:55:24.17 YvvETfm6.net
>>110
勝海舟はどんな話でも自分を持ち上げる為に他人を使うから大嫌い

112:人間七七四年
16/02/07 22:37:06.32 SGOzzvqe.net
福沢諭吉「せやな」

113:人間七七四年
16/02/07 23:28:07.22 t9+ef2vY.net
小栗さんの子孫は漫画家になったんだよな
昔、ジャンプで連載された
テンテン君の作者がそうらしい

114:人間七七四年
16/02/07 23:35:42.59 t9+ef2vY.net
水野成貞ってかなりのDQNだったらしいな
旗本奴の元祖らしいが
余りにもDQN振りが格好良くて
ある大名家の姫様が惚れて嫁入りしたそうだ
その息子がアレなんだけどね
ちなみに水野成貞が主人公で書かれた小説は
隆慶一郎氏のかぶいて候なんだよね

115:人間七七四年
16/02/08 19:22:35.46 gDL8B/I9.net
>>110
小栗上野介さんものすごい面倒くさそうです

116:人間七七四年
16/02/08 19:33:17.55 SQuCyOuj.net
幕臣で一番めんどくさそうな勝海舟がそれを言うのも面白い。
そういえば、勝海舟を大久保彦左衛門にたとえる人がいるけど、
晩年の境遇はともかく、実績があまりにも違いすぎだろうに…

117:人間七七四年
16/02/08 21:29:47.41 Iwd3FKrA.net
>>116
これどっちのが実績あると見るの?
戦国贔屓だから
戦国時代に武功を上げた彦左の方が実績あると考えたけど

118:人間七七四年
16/02/08 21:39:52.32 ZgTfYKA/.net
局地戦で活躍しただけの人と日本を揺るがしかねない事態を何とかした人とじゃ
流石に勝のほうが実績あると思うけどな

119:人間七七四年
16/02/08 21:40:41.93 wm+Ql6zV.net
そら海舟やろ

120:人間七七四年
16/02/08 21:44:21.48 OlPz/peZ.net
大久保って愚痴日記出したのが功績だろ?
海舟とはラベルが違うと思うが

121:人間七七四年
16/02/08 22:13:29.21 ncGGk0Ei.net
伊藤博文も勝海舟もちょっと前の先祖が農民って所が幕末乱世

122:人間七七四年
16/02/08 22:16:20.27 leHnml7m.net
昨今の幕末史研究では、江戸無血開城も、いわゆる西郷と勝の会談よりも前に決まっていたらしく、勝はどうも、それを自分の手柄に
でっち上げたフシがあるらしいぞw

123:人間七七四年
16/02/08 23:20:32.83 QKtuFps3.net
勝みたいなハッタリ野郎に比べたら小栗の方が有能だな
明治維新で薩長がやろうとした事はみんな
小栗が考えてた事のコピーだから
正直、小栗上野介と河井継之助は生かして欲しかった

124:人間七七四年
16/02/08 23:48:57.97 wm+Ql6zV.net
そろそろ板違い

125:人間七七四年
16/02/09 09:39:37.05 jY5+LRJV.net
水野成貞は旗本奴の元祖である。

126:人間七七四年
16/02/09 09:48:17.59 9/TruwmO.net
慶長19年5月22日、天台宗の面々が登営し南殿に出御した時、南光坊天海がこんな事を言った
「最近、比叡山の八王子三ノ宮で珍事がありました。それは先ず、学林坊の奴である次郎を天狗がさらって
行方知れずとなった事件から始まりました。
10日ばかり過ぎて、この次郎は帰ってきてこう云いました
『私はこれまでの間、当山の大天狗、次郎坊の使者として、愛宕山の太郎坊、鞍馬山の大僧正、
彦山の豊前坊、大山の伯耆坊、上野の妙義法印、彼ら何れにも叡山に参るべき旨を振れ回りました。』
このように大天狗たちが叡山に登る旨を聞いた人々は、皆不思議に思い、そこからかの三ノ宮に参詣してみると、
天にわかに曇り、激しい風雨が巻き起こったかと思えば、大霰まで降ってきました。
そしてあの次郎が三ノ宮の社殿の棟に飛び上がり、しかしそのまま落ちると、軒端にて起き上がり、
足を上げて立ちました。
その他天狗の眷属たち大勢が、社の上にて様々に不思議な事をし、扇を以って歌舞を行うのを人々は目撃しました。
また三ノ宮の扉を、これは普通は2,30人で持ち上げるような物ですが、その扉2枚ずつを回し投げました。
それなのに、この扉にはいささかの傷もなかった。
また、虚空より大礫を数多打っていたそうです。」
そのように云々したという。
(玉露叢)


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