戦国ちょっと悪い話43 ..
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194:人間七七四年
16/02/20 16:32:33.76 nxqo7cq6.net
「鮎貝宗信謀反事件の真相」
天正十五年十月、伊達政宗は鮎貝一族に警戒を募らせていた。
当時の史料から読み取れる動向はまとめるとだいたいこんな感じである。
政宗「あいつらは伊達家中でも力を持っているし、最上領に近いしな。
あいつらが将来的に伊達・最上の境目にいる国衆をまとめて反抗したら相当ウザい。
何か理由つけて、境目の領地奪って伊達に完全に組み込まないとな」
そんな折、鮎貝父子間の仲が悪いと知った政宗は、これにかこつけ介入。
自ら出陣すると鮎貝城を攻め、数百人を討ち取った。
城は一日も持ちこたえられず落ち、鮎貝宗信は行方不明になった。
これにて一件落着と政宗は米沢に帰還した。
なお、当時最上義光は庄内侵攻で手一杯であり、本件には一切関与していない。
義光が動けないからこそ、最上領に近い鮎貝城を攻めたとも解釈できるのではないか。
これが伊達家公式記録『貞山公治家記』によればこうなる。
宗重「嫡子宗信は父である私と仲が悪く、最上義光から謀反をすすめられています。
私は止めたのですが、バカ息子は聞き入れなくて! 殿、なんとかしてください」
政宗「って宗重が言うから仕方なく出馬。最上も加勢するかもしれないし、他にもそそのかしているかも。
うちの家臣をそそのかすなんて義光はなんて卑怯なんだ!」
この記録が、世間では通説となっている。
が、繰り返すが、当時の史料を調べると最上義光は庄内で手一杯であり、本件には一切関与していない。大事なことなので二度書くが、最上義光は関与していない。
政宗の思惑を、最上義光のせいにしてごまかす、そもそも鮎貝宗信は謀反すらしていなかったという伊達家のちょっと悪い話。
(出典:大沢慶尋「再検証 鮎貝宗信謀反事件」)


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