戦国ちょっといい話43 [転載禁止]©2ch.net at SENGOKU
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100:人間七七四年
15/12/15 15:50:11.89 MojCNmAT.net
>>98
裏がありすぎだろw

101:人間七七四年
15/12/15 16:37:59.45 PYoQdxLi.net
鷹狩という物見

102:人間七七四年
15/12/17 02:26:31.03 eAW26nJ1.net
孕石『…』

103:人間七七四年
15/12/17 03:19:56.94 pFfurwkJ.net
ある人が林羅山に問うて曰く、「孝経の、『身体髪膚は父母に受けたり、敢て毀ひ
傷らざるは孝の始なり』というのは、自分の姿形は皆父母の身を分けたものだから、
少しも損ない傷つけないことが孝の始まりであるということだ。
ところが、礼記には『戦陣勇ならざるは孝にあらず』とある。免れて延命すれば
身体を損なわず、勇み進んで戦い死ぬ時は身体を損なうのみならず命をも失う。
これを孝とするとは何ぞや。こうであるのに、2つのどちらを取ろうというのか」
羅山は答えて曰く、「『我が身をつつしんで身体をやぶらず、父母全くして生む、
子全くして帰すべし』。これは姿形だけでなく心にも僻事のないようにという教えだ。
姿形でさえ損なわなければ、このように孝である。ましてや、心ならばなおさらだ。
あるいは、もしも戦いに臨んで死ぬべき時に死ななければ義ではないわけだが、
義をやぶるということは心を損ない傷つけることだ。どうしてそれが孝となるだろう。
中途半端に生きて恥辱をかき、親の名をも汚すのは不孝である。ただし死ぬべき
ではない時に死んでは愚かにして孝ではない。それゆえ、孝と義との2つながらも
背かずに、軽きを捨てて重きを取ることだ。小を捨てて大を取ることである」
―『儒門思問録』

104:人間七七四年
15/12/17 23:27:45.86 N9WvyaUM.net
原田角之丞は土佐の武士で、大坂冬の陣の時は藤堂高虎の郎党小林伊豆の配下だったが、
元は長宗我部家の譜代の臣であったことから、夏の陣では旧主盛親の下に馳せ参じて戦った。
そして首級一つを挙げただけでなく、長宗我部勢が撤退する際には道路の木戸を打ち破って、
置き捨ててあった玉薬の箱を拾い上げ、それを肩に担いで悠々と城中に引き上げてくるという武勇を見せたのである。
大石内蔵助良勝とその弟の信云は、進藤利英(近衛家家臣、内蔵助の妻の弟)から彼の武功を聞き、
浅野内匠頭長直の耳に入れた。
その結果、角之丞は寛永14年に食禄五百石、足軽頭として浅野家に招かれることになった。
さらにその5〜6年後には利英の娘・世牟を娶ることになる。
原田角之丞が玉薬の箱を担いでから87年後の師走の江戸の町に、亡き主君の仇の首級をくくりつけた槍を高々と掲げ、
同志たちとともに泉岳寺を目指す男の姿があった。
赤穂義士・潮田(うしおだ)又之丞高教。角之丞の孫にあたる人物である。
(大石家外戚枝葉伝)

105:人間七七四年
15/12/18 10:29:44.26 N8YCgJZl.net
寝台白布、これを父母に受く、あえて起床せざるは孝の始めなり(´ω`)ムニャムニャ

106:人間七七四年
15/12/19 02:07:29.01 vQ4u5pdt.net
天正7年、羽州比山勢(南部六郎、同七郎らが率いた時)が津軽へ押し入り茶臼館六羽川
で御合戦となった時、味方の弾薬が少ないので、すぐさま大浦城へ人を走らせたところ、
大浦でも蓄えは少なく、どうしたらよいかと慌てふためいた。
その際、夫人(戌姫。仙桃院。津軽為信正室)は多くの女中を集め給いて、錫類の器物を
ことごとく集めて丸を鋳造し、すりこ木を使って自ら合薬を作り、昼夜をかけて本陣に送った
ため、味方は大いに力を得たのであった。
―『津軽記』
仙桃夫人はとてもとても御仁心深く、御智謀も深遠であられて、為信公が御国家を治められた
時に、良く御内政を助けなさった。
桜田宇兵衛(為信公の功臣)の子・又七(後に斎藤平内兵衛とも、また桜田宇兵衛ともいう)や
折笠与七の子供などを慈しみなされ、皆を広敷に迎えて御長屋を建て、または御台所に置き
なされて、成長まで養育しなさった。
夫人が忠臣や孝子の類の子孫たちをこの如く扱われたことは、幾ばくあるのかを知れない。
―『斎藤平内兵衛由緒書』

107:人間七七四年
15/12/20 18:34:17.21 0xWi4/0S.net
愛媛県大三島の大山祇神社が所蔵する鎧に「紺糸裾素懸威胴丸」(重文)があり、
神社はこれを、戦国時代に大祝家の鶴姫が大内水軍との戦いに際して使用したもので、
「女性用の鎧」だとして宣伝しており、世間もこれを広く受け入れている。
その鎧の胴体は胸回りが張り出して腰が細くすぼまり、いかにも女性の体つきを思わせる。
しかし、古くからそう伝えられてきたわけではなく、この話が登場したのは昭和41年、
大祝家末裔で大山祇神社の関係者だった三島安精の素朴な思い込みに始まる。
三島はその胴丸の「いかにも」な見た目から「これは女性用の鎧に違いない!女じゃなきゃ着られない!」
と推測し、その使用者が誰だったかを探求した結果、『大祝家記』なる古記録に出てくる鶴姫という女性が、
その鎧を着たのだという筋書きで『海と女と鎧』という小説を書いて出版し、これが後で流布していったわけだ。
この話が有名になるのに一役買ったのが『図解 日本甲冑事典』などの著者である笹間良彦で、
彼が件の胴丸を着けた鶴姫の絵を描いて神社に奉納したらそれが大受けして土産物の包装紙やラベルに多用された。
けれども、『海と女と鎧』のベースであるはずの『大祝家記』は「門外不出」の書として公開されず、
しかも現在は所在がわからないという検証のしようがない代物で、偽書、創作、虚構を勘ぐりたくなる。
肝心の胴丸のほうも、一見すると確かに「いかにも」女性用だが、戦国期に作られた胴丸・腹巻は、
息をしやすくするために胸を大きく張ってスペースを確保し、重量を腰にも配分するためにウエストを絞り、
結果逆三角形の強い形状に変化していったのが当時の傾向であり、女性用として作られたという説は正しくない。
現在話題になっている徳川美術館の「しかみ像」の逸話のように、軽い思い付きや思い込み程度の話が人気を獲得し、
どんどん話が肉付けされていき、あたかも本当であるかのようにまでなってしまったというのが、
「鶴姫所用・紺糸裾素懸威胴丸」の実際のところである。

108:人間七七四年
15/12/20 18:38:48.08 GP8Xzf3C.net
申あ絶N

109:人間七七四年
15/12/22 17:25:33.97 dS7BPhVR.net
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110:人間七七四年
15/12/23 22:20:43.15 bLrOq9AT.net
黒田家の重臣吉田長利は官兵衛と長政を長利の家に招いて饗応するということが、時々あったらしい。
関ヶ原以降の豊前から筑前に移った際貰った知行の早良郡広瀬の別荘にも二人を呼んだりしたらしい。
ある時に長利が主君である長政を広瀬に招いて行った酒宴が数刻に渡って及び、長政は密かにその座を立って帰路についた。
それを聞いた長利は、瓢箪に酒をいれて杯を持って、馬に鞍もつけず乗り長政を追いかけた。
仙道川の辺りで追い付いたので、長利はふざけて
「あなたが昔戦場においても逃げ走るのを見たことがないというのに、今盃酒を捨てて逃げ帰るのはどういうことですか」と言った。
そう言われた長政は面白いと思ったらしく、そのまま河原でまた酒宴をしたらしい。
「或ル時 長政君広瀬ニテ御酒宴数刻二及ビ竊二其ノ座を立ッテ帰路二赴キ玉フ。長利是レヲ聞瓢二酒ヲ入レ杯ヲ持、肌背馬二乗ッテ御後ヲ慕、仙道川ノ辺リニテ追ヒ著キ奉リ、
 長利戯テ君昔シ戦場二於テ逃走玉フヲ見ズ。今マ盃酒ヲ捨テ逃帰リ玉フハ如何。長政君入興シ玉ヒ川原ニテ復御酒宴ヲ催サレシト」

こうして家臣の家に主君を招いて饗応する習慣この話を記述した吉田家五代目治年の頃にも続いており、
「家屋を飾り、饗応の美を尽くすことは古には勝っているが、その誠情の篤いことは古には及ばない。」と子孫に伝えられている。

(吉田家伝録)

111:人間七七四年
15/12/23 22:22:20.18 bLrOq9AT.net
ちなみにこの吉田さん
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
↑この逸話でも長政に突撃晩御飯かましてたりしてる人ですが
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
↑黒田家内で武功No.3のかなりの猛者です。

112:人間七七四年
15/12/23 22:54:41.58 nv20kWu5.net
あーあ
やっちゃった

113:人間七七四年
15/12/24 19:23:49.59 mS3DRJV8.net
加藤左馬助殿(嘉明)が家中の者を直ちに成敗致された時、少し手負いなされた
とのことを、いずれの人も利家卿の御前で御話になり謗りなさったが、利家卿は、
「いやいやそれは僻事である。両者身二つであるから、もし仕損じて手負い、
敵を逃した場合こそ落ち度ではないだろうか?
その者を仕遂げたならよくやったと申すべきだ。軽傷を負っても仕遂げたならば
落ち度ではあるまい。信長公の御時はそういう批評だった」
と仰せになり、「御もっともである」と、各々は申された。
―『菅利家卿語話(黒川本利家夜話)』

114:人間七七四年
15/12/24 20:34:28.11 Rzn6q80Y.net
新年の開運を願う佐嘉神社(佐賀市)の伝統行事「鰤祭(ぶりさい)」
毎年12月31日、神社本殿で開かれます。魚市場や鮮魚店から奉納されたブリを祭壇に供え、商売繁盛や五穀豊穣を願います。
祭典では、宮司が大きなブリの身に御神矢の矢尻で独特の切れ目を入れる「調理の儀」を行い、水産業者らも出席して豊漁を祈願します。 
この鰤祭は、佐賀藩祖鍋島直茂が文禄・慶長の役の朝鮮出兵から伊万里港に帰陣した際、
「ビターン!!」
直茂が乗っている船に大鰤が躍り上がって甲板に飛び込んできた。
佐賀では鰤のことを「ぶい」となまって呼ぶことから、直茂は鰤を武威にかけて
「武威が上がった、来るべき新年の瑞象である」とたいそう喜んだそうです。
鰤祭の後は、
祭にお供えした鰤を使い、「開運鰤雑煮」を接待する開運「鰤(武威)座」を斎行致します。
そして1月1日午前0時の一番祈願に参列いただき、お座に就いていただきます。
席上「鰤祭」で用いた神矢の鏃が当たる神くじが行われます。
ちなみに、直茂が乗っている船の甲板に飛び込んできた鰤は家臣たちに分け与えたそうです。
(佐賀城本丸歴史館で聞いた話)

115:人間七七四年
15/12/24 20:36:07.79 pe6afaTz.net
平清盛「わしの逸話をパクるな」
周の武王「お前もな」

116:人間七七四年
15/12/24 21:39:45.25 YyiCNFvr.net
鮭だけじゃないのね

117:人間七七四年
15/12/27 04:11:04.50 LWKcLI1N.net
殿様(前田利家)はたいへん御機嫌の良い時か、または御叱りなさる時に、
勘十郎(村井長明。著者)のことを“小又兵衛”と仰せになった。
その時は、「お前の父の豊後(村井長頼)は俺が名付けた“又兵衛”である。
今は天下も静まって武辺事は無いから、よく奉公仕り年齢20余りになったら
又兵衛になれ。その時は、小又兵衛とは言うまいぞ」と、度々仰せになられ、
もったいなく存じ奉る。斯様の仰せは生生世世ありがたく存じ奉ることである。
―『菅利家卿語話(黒川本利家夜話)』

118:人間七七四年
15/12/27 20:58:05.08 UDzJKn7e.net
永禄6〜7年の間に一向専修の門徒たちが徳川家康に対し反乱した時、
本多正信は舎弟三弥正重と共に上野の城に立ち籠もった。
永禄7年2月28日、諸寺の門徒たちはその罪を赦され、尽く降伏した。
しかし本多正信は国を出て、都の方に赴いた。
そこで松永弾正忠久秀が、正信を見て側の者にこう語った
「私は、少なくない数の徳川家から来た侍を見た。その多くは武勇の輩であった。
しかし、一人この正信は、強からず柔らかならず、また卑しからず。
必ず、世の常の人ではない。」
そう感想を漏らしたという。
(藩翰譜)
有名な松永久秀の本多正信評である。

119:人間七七四年
15/12/29 11:49:28.62 iXIovZrU.net
石川丈山(嘉右衛門重之)が語った所によると
「私は大御所(徳川家康)に多年に渡り仕えていたが、本多正信と何か事を謀っているように見えたのは、
僅かに2度しか無い。その内容も、世の人が事を謀る場合とは全く異なる、珍しきものであった。
先ず1度目は、大御所が正信の座している所を通った時、立ち止まって三言四言密かに仰せになった。
これを正信は大いに誉め、「よく候!よく候!」と申し上げていた。
もう一度は、大坂の陣が起こって、程なく和睦してのち、大御所は京に入られ、何某を召して
「汝大阪に行き、将軍にこのように申せ。家康はこれこれの日、駿河に帰ろうと思っている、と。」
大御所はそうおっしゃって、正信の方をご覧になり、「正信はどう思うか?」と聞かれた。
ところが正信は、例のごとく居眠りしており、答えようもない。
大御所は大きな声で「やあ佐渡守!!」とおっしゃった時、正信の目が開き、まずものも言わず、
右の手を上げて指を折り、物を数えるような仕草をして
「大殿よ、大殿よ、幾年前に伏見の御館にて正信が申したことを忘れ給うな。」
そう申すと、大御所は暫く案じるような御気色で、先に使いを命じた者に
「まず、今日は使いを参らせない。」
そう仰って内へと入られた。
そのようであったのに、今の世に伝わる所は、正信がややもすれば、
古を引き今を證とし、理義を分かって毫末に入るように言うのは、皆、後の弁を好む者の
空言である。」
(藩翰譜)
家康と正信の謀の様子、である

120:人間七七四年
15/12/29 12:05:32.83 UVYacPjq.net
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
既出

121:人間七七四年
15/12/29 19:34:17.76 eNT5wkkk.net
本多正信って茶坊主みたいな存在に思えるな

122:人間七七四年
15/12/30 11:20:22.23 r+hYBIID.net
先の肥後太守・加藤清正の祖父は、大織冠・藤原鎌足の末葉・加藤因幡守清信
という人である。彼は尾張犬山に住み、斎藤山城守(道三)の幕下にいた。
山城守と織田信長が犬山で一戦した時、清信は討死して果てた。
清信死去の折、子息が1人いた。鬼若といって2歳であった。彼は孤児となり、
母に養育されて成長し、尾張愛知郡中村というところで光陰を送って、後に
弾正左衛門兵衛と号した。弾正は38歳で死んだ。
彼には1人の男子がいて、その子は3歳だった。彼は虎之助と名付けられた。
どうにか母に育てられて5歳までは中村に住んだ。ところで、豊臣秀吉の母公
(大政所)と虎之助の母とは従姉妹の関係だった。それゆえ、虎之助の母は、
「木下藤吉殿はいま近江の長浜で5万貫の領地を治められ、豊かな様子である。
この子を田舎で育てたのでは武士の作法も知り難い。只々、秀吉公を頼み奉ろう」
と分別し、虎之助を連れて長浜に至り、秀吉の母公に委細を申し入れると、
母公は殊の外もてなしてくれた。
また、両人はともに秀吉の目にかけられ、母公の側で養育されることになった。
虎之助は15歳になった時、母公に申し上げて、「私はあなた様のおかげで
成人いたしました。15歳とはいえ、背たけも高くなりましたので、前髪を
落として奉公を勤めたく存じます」と、言った。
母公は、「大人らしく申すものだ」と思って秀吉に詳しく話すと、秀吉はひとしお
機嫌が良くなり、密かに虎之助の眼差しを見て、「よく祖父の清信に似ているもの
だと存じる。前髪を落とし申すとしよう」と言い、すぐに彼を男になし加藤虎之助と
名付けた。こうして虎之助は初めて170石の領知を与えられ、奉公の身となった。
ところで、秀吉の家中に塚原小才治という兵法者で、卜伝遠類の武士がいたのだが、
虎之助は彼に従って兵法を修行した。ある時、長浜の町人所へ、人を殺傷して閉じ
こもった者がおり、町中が騒がしくなった。虎之助はその様子を聞き付けて、
「常々伝授の兵法を使うのはこの時だ」と思い、かの町人所へ走り行くと、四方は
人で満ち満ちていた。彼は大勢の中を潜り入り、狼藉人を打ち倒して綱をかけて、
手傷1つをも負わずに捕らえて出て来た。閉じこもった者は秀吉の足軽・市足久兵衛
という者だった。
その首尾を秀吉はつぶさに聞き、「常々かの者は普通の若者のようでもなく、役に
立つことだろうと思ったのだが、よくぞやったものだ」と言い、200石を加恩して、
木村大膳組の小物見役に仰せ付け、虎之助は明け暮れ勤仕した。
―『清正記』

123:人間七七四年
15/12/30 20:53:53.21 l9PrY5lP.net
清正は明智光秀と同じ美濃の土岐氏だから
桔梗紋を使ってたという説を聞いたことがある

124:人間七七四年
15/12/31 20:08:40.52 N/fAyF/V.net
正月にちなんだ良い話はないのかね?

125:人間七七四年
15/12/31 21:01:13.68 mWcjfdKe.net
尼子経久の月山富田城奪還作戦

126:人間七七四年
15/12/31 21:03:58.16 mF55b+N7.net
>>124
佐野宗綱の、お正月だよ!足利侵攻!!・悪い話
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

127:人間七七四年
15/12/31 21:10:53.28 8T4/FNzT.net
それは去年の正月にでた
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
その他の正月話もいろいろ
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
尼子と正月なら忠臣の宇山久兼を尼子義久が元旦に讒言により誅殺した話もあるが、いい話ではないな
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

128:人間七七四年
15/12/31 21:33:41.69 N/fAyF/V.net
>>126
>>127
見てくる、ありが刀

129:人間七七四年
16/01/01 13:18:33.90 v6oP3eQM.net
慶長3年4月4日、小早川秀秋は朝鮮より大阪に帰還した。
翌5日、伏見の城に参上した。秀秋に従った7人の軍奉行、並びに加藤嘉明も同行した。
伏見に在住していた大名が尽く参集し、秀秋の凱陣を賀した。
やがて太閤秀吉が現れ、対面のあと、太田一正が秀秋の朝鮮での合戦の模様を詳細に弁じた。これを聞いた秀吉は言った。
「いやいや、大将軍が自ら諸軍と戦功を争って軽々しく戦うなどけしからぬ!
ワシは秀秋を差し向けたことを、返す返すも後悔している!」
秀秋は聞くやいな、押し返し申し上げた
「世の常の御使であれば、幼弱の身でありますから、辞し申したでしょう。追討の御使なればこそ、仰せを承ったのです。
しかし今、人々が聞く所で、御後悔の旨を承ること口惜しい!
この秀秋に不覚のことがあったのなら、軍奉行の人々よ、いま御前において率直に申し上げ、
速やかに秀秋の首を召され、御憤を散じられるよう計らうように!」
しかし秀吉は何も言わず座を立って内に入り、石田三成が参って秀秋の家老である、
杉原下野守、山口玄蕃充に向かって言った
「上様の御気色宜しからず。先ず御屋敷に帰られるように。」
秀秋は怒り、三成の首を落とそうとするように、打刀を取って立った。
ここで、その間に徳川家康が入り秀秋を制した。そして彼の屋敷へと伴うと、そこに秀吉よりの
使者として尼の孝蔵主が訪れ秀吉の仰せを伝えた
『さても去りし頃、蔚山の戦いにおいてる軽々しき振る舞いをし、また先程申した事も
甚だ奇怪の至りであった。この上は至急筑前国を返却し、越前の地に移るように』
秀秋は激怒し
「やあ尼よ!この秀秋の身に国を奪われるほどの罪を負った覚えはない!この生命あらん限り、
筑前を返すつもりはない!よって速やかにこの首を刎ねるようにと太閤殿下に申せ!」
そう言って追い返した。しかし家康は帰ろうとする孝蔵主に密かに言い含めた
「秀秋殿は『仰せ謹んで承ります』と言ったと報告するように。」
「内府様…。この上は内府様の御計らいこそ頼りです。北政所様へも、そのように申します。」
孝蔵主が屋敷を出ると、家康は秀秋に向かって説得した
「今は兎にも角にも仰せに従うことこそ大切です。その間に北政所が嘆かれれば、太閤殿下もいつまでも心強くはいられません。」
しかし興奮している秀秋は
「ならば、私自ら三成の首を斬った後で内府の言うとおりにいたしましょう!」
そう言って聞こうとしない。家康も、今は強いて本人を説得すべきではないと思い、家老の
杉原、山口を密かに呼んで言った
「先ずは家人を少しだけ、越前に派遣するのだ。」
そこで彼らは外様の侍を少人数さし下した。そこで家康は、前田利家とともに秀秋について嘆願しようとしたが、利家はそれを断った。
それより家康は毎日秀吉の前に参上したが、何を話すということもなかった。
秀吉は気になり「どうしてそのように毎日参るのか?」と尋ねると、
「秀秋殿が国を移されること、痛ましく覚えて、その事について申し上げようと参っているのですが、
どのように申し上げれば聞いていただけるかわからず、このようにしております。」
そう答え、その後も毎日参上した。秀吉は再び最初のように尋ねると、家康もまた最初のように答えた。
これに、秀吉も遂に根負けし
「そこまで思われているのなら、秀秋のことは内府の計らいに任せよう。」
家康は大いに悦び、秀秋の元に出向き、杉原、山口を召して越前へ下した侍たちを呼び戻させた。
程なく6月2日に、家康は秀秋を伴って登城すると、秀吉はこれに対面し、饗宴の儀を開き、
また両名に多くの引き出物を下された。
秀秋はこの日、長崎伊豆守を徳川家に使いさせ、
『今回の御芳恩はいつまでも忘れません。この恩に必ず報いるでしょう。」
そのように伝えた。
(藩翰譜)

130:人間七七四年
16/01/01 16:18:26.54 7z8qiSfe.net
見事な関ヶ原フラグ

131:人間七七四年
16/01/01 16:28:24.10 mjKAu8Ji.net
実際はフツーに越前に転封してるけどねぇ…
藩翰譜の頃にはあれこれ分からなくなってたんだろうな

132:人間七七四年
16/01/01 17:05:46.54 BFP4Ll5e.net
お前が阿呆なのはよく分かった

133:人間七七四年
16/01/01 17:26:27.04 wII7VMDj.net
徳川家だったらサドの守あたりがやりそうな話
やはり内府様も三河者だなめんどくせー

134:人間七七四年
16/01/01 20:36:43.22 +Bnqog12.net
秀秋は朝鮮で実際には前線切り込みなんてしなかったそうだし、
三成下げ家康上げの為の逸話だわな

135:人間七七四年
16/01/01 20:54:20.74 21XobQQ6.net
でもこうやって裏で動いてると楽しいんだよなぁ、俺やってるぜ感が半端無い

136:人間七七四年
16/01/02 00:04:55.88 yriiHi8D.net
正月と言えば隆信が鏡神社の大宮司である草野氏を討伐した時に読んだ狂歌がこれ
「正月の一日二日の事なれば草野を焼きて鏡餅かな」
そんな熊さんのちょっと言語センスのいい話

137:人間七七四年
16/01/02 11:39:26.48 szi0CsCr.net
正月早々に戦とかって足軽テンション駄々下がりだろな

138:人間七七四年
16/01/02 12:51:14.70 zm4IvZ6I.net
道雪「だからといって戦線離脱する子は処断だよ」

139:人間七七四年
16/01/02 21:26:21.89 xEHA5cdj.net
貴久「正月早々死にそうになりましたが何か?」

140:人間七七四年
16/01/03 20:14:15.56 po6e0zLa.net
>>137
隆信は何回か新年あけまして死ね作戦をやってる

141:人間七七四年
16/01/03 20:20:51.12 mQ13eeTc.net
毛利家臣「幕府を倒す準備が整いました」
毛利「今はまだその時ではない」
そうせい侯が「そうせい」と言うまで繰り返したんだっけ

142:人間七七四年
16/01/03 20:35:53.03 oM9JF4Bv.net
そうせい言うまで幾星霜

143:人間七七四年
16/01/03 22:13:39.30 N5kWQ7Ba.net
こんなのあった
佐野宗綱の、お正月だよ!足利侵攻!!悪い話
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

144:人間七七四年
16/01/03 22:22:36.57 mQ13eeTc.net
>>126

145:人間七七四年
16/01/04 23:43:38.85 E0f3ljj0.net
>>140
明けましておめで討か

146:人間七七四年
16/01/05 08:04:02.71 Gt/NnWm1.net
コブラみたいなやつね
ありがと

147:人間七七四年
16/01/06 18:44:23.75 QAqgW5J8.net
加藤清正公がある時の夜咄に語ったことである
「賤ヶ岳の一戦の折、私は秀吉公のお側近くにいたが、先に合戦が始まると見及んだため、一人抜け駆けして
良き敵あらば討ち取ろうと思い、何でも無い体で抜けだそうとした所、秀吉公は屹とこれを見つけ、
「虎之助、法螺貝を吹け」と命じた。
しかし私は聞こえなかったふりをして2,3間(3〜50メートル)ほど進んだが、そこで急に思い直した
『事の急なる時、臆病者が吹く貝は音が出ないと、世間では言い習わしている。ならば、私も
心臆しているため貝を吹かなかったのかと、秀吉公も思われ、また諸人もそう考えるであろう。
そうなったら、仮に手柄をいたし、もしくは討ち死にした後までも弓矢の上の恥辱、これに過ぎたる
物は無い。』
そう考え、立ち戻って貝を取り、いかにも静かに吹き上げ、法の如くに吹き終わると、馬を引き寄せ
打ち乗って、急ぎ先へと進んだ。
ところがここで、谷兵太夫という者が道の脇で私を見つけて声をかけた
「そこを通るのは虎之助ではないか。若輩なる者が逸りすぎて、敵前近くなって馬に輪をかける(馬の
速度を上げる)のは見苦しいものであるぞ。控えて馬に乗るように。」
私は『近頃にない悪き言葉だ。どのように彼に返答すべきか。」と思い、振り返って見てみると、
谷は少し小高い場所に、馬を横ざまに立てていた。いやまったく、彼は巧の入った老武者である。
味方はわずかの勢であるから、もし追い立てられ、敵が勝ちに乗じて競って来たなら、そこの横槍を入れて
突き返すためにそのように控えているのだと見えた。
とかく曲者である。何も言わないほうがマシだと思い、私はそのまま馬を早め進み、一番鑓を初め、
名のある敵の戸波隼人を討ち取ったため、味方はこれに利を得て、喚き叫んで攻め戦った。
この勢いに敵は辟易し、多く討ち取られる体たらく。天に光り地に響き、血は馬蹄に蹴りかけられ、
多くの死体が野に横たわり、寸尺の地も余さないほど夥しいものであった。
こうして私は戸波隼人の首を秀吉公の実検に備え、その後立ち退いて見ると、あの谷兵太夫は未だに
傍らでうずくまっていた。
「こここそ最前の返答すべき所よ!」
私は戸波隼人の首を彼に向かって投げつけると叫んだ
「先ほど其方が申した如く、若輩者が逸り過ぎて、馬に輪をかけた者は、これほどの手柄を立てたぞ!
能く能く見ておいて、汝の子孫までの物語にせよ!」
そう言い捨てカラカラと笑うと、かの者は目尻でこれを見て、更に一言の返答も出来ず、顔を真赤にして
俯いていた。
これこそ、我が一代の快き振る舞いである。」
清正公が機嫌の良い折は、いつもこれを声高に仰せになり、御喜悦なされていた。
(續撰清正記)

148:人間七七四年
16/01/06 19:53:54.29 U2hLlxMH.net
谷兵太夫でググったら既出なのが分かった

149:人間七七四年
16/01/06 21:52:48.17 H+6WH/5C.net
 周防の山口太守大内義隆公、陶尾張守の謀反によって、同国の菩提所大寧寺にて自害した。
さらに尾張守は大寧寺を焼き立てて、僧俗によらず切り捨てた。
その内の出家の者であった玉堂和尚は、大寧寺へ義隆公から寄付された名茶入を三、四つに割り、鉄鉢の底に入れ、
危ういところから命からがら助かり都へ上り、茶入をくっつけて売り払った。
この茶入は継ぎ手があるというのでかえって値段も上がったという。
 この和尚は玉堂と申すので、そのまま茶入の名となった。
 この僧は尾張守が滅亡の後、この金子で大寧寺を再興し今も残っている。甚だ殊勝な出家のものである。
(本阿弥行状記)
この茶入と思しきものが徳川ミュージアムにあるのですが、
特につなぎ目みたいなものは見当たりませんでしたね..

150:人間七七四年
16/01/06 22:35:33.17 L9nbHTsQ.net
大寧寺と言う法灯を今に繋いだと言うことか

151:人間七七四年
16/01/07 02:53:24.13 VhdIqWPd.net
そして宗教へと続く

152:人間七七四年
16/01/07 03:58:53.66 8GTdO5fn.net
継ぎといったら古織という勝手な思い込みがあるが、先人がおるんやな

153:人間七七四年
16/01/08 03:23:54.44 iX36EQHW.net
必要もなく壊してくっ付けたのと一緒にすべきなのだろうか

154:人間七七四年
16/01/08 22:33:21.84 81OdLAL0.net
 志賀の松は昔のものは枯れたが、天正年中に江州百万石の佐々木義郷公が、
歌を詠み祝して昔の松に似ているものを植えなさったという。
 このお家は今志賀郡で郷士の様に御相続されています。
この義郷公は甚だ義の者であったが、石田の讒言でお家断絶となってしまい、残念なことである
(本阿弥行状記)

155:人間七七四年
16/01/10 18:39:02.84 bD2uLmCA.net
さっきテレビでやってたんだが、岡崎市でプチブレイク中のラーメン。
「家康らぁめん 味噌仕立て」
わかっててやってるだろ岡崎市民。
「焼き味噌仕立て」じゃないからいいのか?

156:人間七七四年
16/01/10 18:53:05.84 qVmRiohc.net
岡崎には八丁味噌のカクキューがあるから
URLリンク(www.kakukyu.jp)

157:人間七七四年
16/01/10 21:06:32.44 zMeJSstW.net
見延山は昔、女の登山は高野山と同様に禁制であった。
紀州様、水戸様の御母堂、御万の方(剃髪後養珠院殿と号す)が、
万部経を興行なされ、魔をお鎮めなされました。
その後女が登山致すことができたことで、万代の功徳を蒔きなされた。
ためし稀なる女性である。
(本阿弥行状記)

158:人間七七四年
16/01/10 21:13:53.27 5YO+qwu8.net
多少大目に見てあげてはいかがか

159:人間七七四年
16/01/10 21:32:10.75 bD2uLmCA.net
>>156
「岡崎」で「味噌ラーメン」なのは問題ない。
「家康」で「味噌ラーメン」なのが問題有り。
しかも、忠勝バージョンとか訳分からんこと書いてあったし。
他にどんなバージョンがあるんだよ。

160:人間七七四年
16/01/10 21:34:24.46 A05CQKtF.net
後に徳川は将軍も御三家もお万の子孫になるから功徳があったんだろうな

161:人間七七四年
16/01/10 21:52:18.76 pE/Xa6DI.net
つボイノリオ

162:人間七七四年
16/01/10 22:21:49.44 My8zH9Tj.net
お万子

163:人間七七四年
16/01/11 13:29:12.04 ys1zp3di.net
家康ラーメンでググってみた。
sakai-style(海老すくいのエビ風味)
honda-style(厚切りチャーシューとニンニク)
sakakibala-style(家紋源氏車がモチーフ)
ee-style(紅しょうがとエビで赤備えを表現)
hattori-style(白味噌から八丁味噌への変化)
mizuno-style(麹味噌と八丁味噌の二つの味)
komatsuhime-style(八丁味噌と豆乳の坦々麺)
小松姫に激しい違和感。

164:人間七七四年
16/01/11 16:58:56.39 J2TE0C90.net
>>157 お万の方 水戸光圀のばーちゃん
小田原戦役のころ(11歳のロリ姫様である)、
勝浦城落城のさいに、
布をつないで断崖絶壁に垂らし、大脱出を敢行

165:人間七七四年
16/01/11 18:14:01.63 ys1zp3di.net
>>164
断崖絶壁から下に敷いた布団めがけて投げ落とされないだけマシ、って思ってしまったオレはこのスレに毒されすぎなんだろうな・・・。

166:人間七七四年
16/01/11 18:45:41.15 y3ojcd3p.net
>>161
草井お万か・・・

167:人間七七四年
16/01/11 19:18:14.09 J2TE0C90.net
お万の方養珠院。日蓮宗の僧・日遠に帰依する
いっぽう家康は浄土宗大好き(あの馬印)
家康の宗教政策で、日蓮宗は迫害を受ける
いや、それまで、他宗教との抗争上等で論戦をふっかけては、
積極的に布教(物理)して、トラブル連発させていた日蓮宗も悪いのだけれど
家康は「浄土宗vs日蓮宗どっちが優れてる?」江戸城にて
仕込みアリのヤラセ公開討論会を開いた
(討論会前日に家康は日蓮宗側論客を家臣に襲わせ、半死半生にさせていた)
結果、「浄土宗最高! 日蓮宗2流カルト!」
日蓮宗を邪教認定し、一部教義内容の放棄を宗門に迫った(1608年:慶長宗門)
日遠は日蓮宗布教をやめず、幕府による教義内容変更要求もつっぱねたため、
日遠は捕らえられ、安倍川で磔刑にされかかる
「おや。わが妻よ、何をお裁縫してるのだ?」
「死に装束2着ですわ。我が師匠を処刑なさったら、わたしも一緒に死にます」
布教(物理)は咎められても当然だが、
政治がいちいち教義内容にまで手ぇつっこんだら、宗教は宗教でなくなるだろ常考
そこまでやりとりがあったかは知らないが、
ともかく、
お万の方の必死の助命嘆願により、日遠は殺されずに済んだ
翌1609年、日遠は身延町大野に本遠寺を創建する
(お万の方は死後、ここに葬られる)
という経緯があるので、>>157は、ただのウーマンリブ破戒じゃない

168:人間七七四年
16/01/11 19:22:50.07 J2TE0C90.net
>>165 URLリンク(cmeg.jp)
半島の先、灯台のあるところが、勝浦城跡(勝浦八幡公園)

169:人間七七四年
16/01/11 19:28:18.92 cGP+fKXN.net
家康がしっかり日蓮宗潰しとけば創価学会なんて糞みたいなもんも公明党なんてバカげたものも無かったのかな…

170:人間七七四年
16/01/11 20:02:05.79 xoCkDG/u.net
日蓮宗の宇喜多家臣匿ってたやん

171:人間七七四年
16/01/11 20:26:30.55 J2TE0C90.net
>>168 勝浦城を北西側から。168は東側・勝浦湾内から
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
×八幡公園
○八幡岬公園 だわ訂正

172:人間七七四年
16/01/11 20:56:45.49 ys1zp3di.net
>>169
日蓮宗がなければなんか違うのが出てきたんじゃないの?

173:人間七七四年
16/01/11 21:04:22.19 k+2QYclN.net
厭離穢土ゴングショー

174:人間七七四年
16/01/11 21:10:30.54 cGP+fKXN.net
>>170
ありゃ裏があるでしょ
>>172
多分そうだけど少なくとも公明党みたいに大きな政党にまではならなかったかもと思う
しかし政治に宗教が絡むとろくな事にならないってこれだけ歴史的に繰り返しながら何故学習しないんだろ…まぁ金になるからだろうが

175:人間七七四年
16/01/11 21:28:21.50 hPEgswFR.net
いつもの
  ┏━南都仏教━┓        ┏━━━━━━┓
  ┃  華厳宗    ┃    ┌─╂    鎌  倉  幕  府    ╂─..臨済宗いいよ臨済宗 .─┐
┌╂  法相宗    ╂─│┐┗━┿━━━┿━┛            ┏禅宗━━┿━━━━━━┓
│┃┌──┐┃    ││      お         ↑│↑    ハ,,ハ      ┃            ↓                ┃
│┃│律宗    │┃    ││      前          氏│└─..( ゚ω゚ ) ─┐┃  ┌臨済宗──────┐┃
│┗┿━━┿┛    ││      が          ぬ└支援するよ ─┐│┃  │Q バナナはおやつに入りますか ? │┃
│  │真言律宗│←氏ね─┐    な        よ            ││┃  │∧_∧                  │┃
│  └──┘      │││    ↓          │              ││┃  │( ´・ω・)  入りますん         │┃
│┏━平安仏教━━┓│││  ┏日蓮宗━━┿━━━┓││┃  │( つ旦O                      │┃
│┃┌─密教─┐  ┃│││  ┃                    ┃││┃  │と_)_)                  │┃
│┃│  真言宗  │  ┃││└─╂\(^ν^)/ 法華経こそ正法   ┃││┃  └────────┘┃
│┃│┌──┐│←╂─氏ね╂   l_l   邪法は氏ね     .┃││┃  ┌曹洞宗──────┐┃
│┃└┤天台宗├┘  ┃││    ┃  / \                   ┃│└╂─┼                        │┃
│┃  └┼─┼┘    ┃││    ┗━━━┿━━━┿━┛└─╂→│                        │┃
│┗━┿━┿━━┛││                氏          └─氏ね→┃  │(-_-)  …                    │┃
└──┼───┘│                ね                    ┃  │(∩∩)                  │┃
        │  └───┴────│─.汚物は消毒だ〜!!.→.┃  └────────┘┃
    うるさい黙れ                    │                    ┗━━━━━━━━━┛
        ↓                          ↓
┏━浄土宗系━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃┌浄土宗──┐┌浄土真宗────┐┌時宗─────┐┃
┃│ナムアミダブツナムアミ││ /⌒ヽ 善人(笑)が     .││♪ ∧,_∧   レッツ !!     │┃
┃│( ゚д゚ ) ダブツナム││∩ ^ω^)浄土に逝けるなら....││   (´・ω・`) )) ダンシング♪ │┃
┃│ノヽノ |.アミダブツナ.││|   ⊂ノ 悪人のオイラも   .││ (( ( つ ヽ、    ♪     │┃
┃│ < <ムアミダブツナ││|    _⊃余裕で逝けるお   . ││   〉 とノ )))         │┃
┃│. ムアミダブツナムア.││し ⌒               ││  (__ノ^(_)          │┃
┃└────┘└──────┘└──────┘┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

176:人間七七四年
16/01/11 21:49:46.35 o6xv6HzO.net
日蓮は基地外だけど、キリスト教とかイスラム教の基地外に対抗出来る
のは奴しかいない
内村鑑三の「代表的日本人」の一人に選ばれるだけあるw

177:人間七七四年
16/01/11 21:57:30.64 ec3QsGx4.net
>>174
そんな空海が密教を導入しなかったらオウム真理教は生まれなかったみたいな話されてもなあ…

178:人間七七四年
16/01/11 22:05:37.49 ys1zp3di.net
>>174
日蓮宗ってほんと日本の仏教の中でも特殊だよな。
仏教の一派なのに「日蓮」宗なんて名称だし。
石原莞爾とか井上日召とかさ、日蓮主義者の異常性っていうか・・・。
ま、オレの実家のお宗旨は代々日蓮正宗(創価学会の元総本山)なんですけどね。

179:人間七七四年
16/01/11 22:09:57.64 iWayTfBO.net
長尾為景の治めていた府内の城外では、盗賊が出て人々を脅かしていた。
そこで為景はその盗賊を斬って首を獄門にかけた。
そんなある夜、為景が近侍のものに「あの盗賊を首を取ってこい」と命じたが、
皆恐れをなして取りにいこうとはしなかった。
すると猿松(謙信)が「自分が行こう」と言い出した。
為景は猿松に小刀を与えたが、彼は傘だけさして雨夜の中盗賊の首を取って、
(複数いたのか)その髪をつなぎ合わせて引き摺り引き摺り府内へ帰ったそうだ。

180:人間七七四年
16/01/11 22:21:43.79 iWayTfBO.net
柿崎和泉守景家は非凡の猛将であった。
ある時、部下の老兵が「小蛇を土中に埋めた祟りだ」と発狂しだしたので、
景家は出陣の途中老兵の家に立ち寄って、蛇を掘り出して、
老兵の面前でムシャムシャこれを食べてしまった。
そして「このような珍味を土中に埋めておいたのではもったいないではないか。」と平気でいった。
それを見たものは皆、舌をまいた。
伝え聞いた謙信も「和泉は大食いのじいさんだなぁ」と大笑いしたそうだ。

181:人間七七四年
16/01/11 23:13:53.40 wLnAeNmK.net
>>175
このAAはいつ見ても面白いw

182:人間七七四年
16/01/11 23:49:08.65 8B8Yyb4N.net
| こいつ最高にアホ       |   同意
\                   \
  ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄       ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
           ∩_
          〈〈〈〈 ヽ         /  ̄ ̄ ̄ ̄ \
          〈⊃  }         /、          ヽ
  / ____ヽ|__|        |ヘ |―-、       |
  | | /, −、, -、l !    !        q -´ 二 ヽ      |
  | _| -|  ・|< || |  /         ノ_/ー  |     |
 (6  _ー っ-´、} /           \     |     /
  \ ヽ_  ̄ ̄ノノ/              O=====|
/ __  ヽノ /              /         |
(_|__)   /             /    /      |

183:人間七七四年
16/01/11 23:55:22.13 ys1zp3di.net
>>180
ヘビは寄生虫の塊みたいなもんだから生食はダメ。素手で触るのも宜しくない。触ったら念入りに手洗い。
ナマで食って平気なのは鬼武蔵くらいだからな。

184:人間七七四年
16/01/12 20:11:24.02 nH5mbrsG.net
お万の方。紀州家頼宣(家康10男)を生み、水戸家頼房(家康11男)を生む
頼宣。のちに南龍公と呼ばれる、紀州家の暴れん坊殿様も、
まだ子供のころは、無邪気な少年であった
ある日、遠乗りに出かけたら、アサガオが昼過ぎになっても咲いている
珍しいや、と取って、母親(お万の方)あての手紙に添えて送った
しばらくして、母から返事が来る
「長持ちアサガオなんて珍しいものをありがとう。
花の寿命も、人の寿命も、同じね
もとが短くったって、
適切な管理がハマれば、このように長生きするのよ
この現象は、しっかり肝に銘じておきなさい
家中や国家のマネジメントだって、同じことなんだから
適切にケアすれば長持ちで問題なく続くのよ」
……母親は(一応)喜んでくれたようである
個人の修身=国家運営。論語ですな
けっこう教育ママさん
頼宣「朝間の花、午を過ぎて猶ほ栄ゆ。一粲に供する所以なり」
お万「朝花の贈りもの、奇観喜ぶべし。抑も人寿も猶ほ此の花のごとし。
苟しくも其の養を得ば、短き者も亦た之をして長からしむべきなり。
之を勉めよ之を勉めよ。即ち家国を養ふも、亦た唯だ此の心にて之を視ば、
国祚何ぞ長久ならざるを患へんや」

185:人間七七四年
16/01/13 02:19:26.40 o6xk6LZS.net
萩原殿は吉田にお館があるようである。その館とは細川幽斎公の別荘である。
元来萩原殿は豊国大明神の社司で、大仏の南、今は宮様のお館になられていますところに一万石領されていた。
ほかに一万石を豊国の修復料としてもらっており合わせて二万石領されていた。
そうであるところに、大坂落城したため豊国社は破却され、二万石も召し上げられました。
そのとき萩原殿は細川三斎公の御息女御菊殿の婿君であったので、吉田の別荘を細川家から進上されて、
細川家の取り成しで段々と千石を領することができた
(本阿弥行状記)

186:人間七七四年
16/01/13 09:17:42.59 x5ZvWWHA.net
>>184 既出があった
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
昨日の身延山話は、別人あつかいになってる
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

187:人間七七四年
16/01/13 13:08:11.73 TjaJYsFf.net
>>179
水戸光圀の伝記で同じような話を見たが
(刑場から父の命令で幼少の頃夜に罪人の首を持ってくる)
度胸試しとしてありふれてたのか、それともどっちかがもう一つの逸話をもとにしたのか

188:人間七七四年
16/01/13 14:40:02.70 HMNPAWK4.net
中野神右衛門が子供たちに言っていたこと。
「末代の子孫に至るまで、どんなに大勢の子供を持っても、決して見捨てることがあってはならぬ。
その者その者の器量によって、草履取りでも馬取りでも、奉公に差し出すとよい。
草履取りの役目には侍の末子を差し出したいものである」 【葉隠】

189:人間七七四年
16/01/14 19:02:51.36 eUEOCpxp.net
天草国人一揆において、加藤清正が本渡城を攻めた折のこと。その本丸まで攻め入った時、敵三十人ほどが
甲・具足を着て鑓・薙刀を持って、どっと斬って出たのを、清正の軍は取り囲み、ひとり残らず討ち取って
その死骸を見ると、男は一人もなく、皆女人であったため、首を取らず斬り捨てにした。
この戦闘で、清正の軍に負傷した者が5,7人あったのを、清正の側の者たちが、いかに働くとも
女人に斬られ突かれるというのは弱いというように取りざたしているのを清正が聞いて、申し下した
「さだめてそれは不吟味なる若輩者共の申し分である。女人は逃れがたき所であっても、命を惜しむというのが
世の中一般に言われることだが、死を軽んじ、思い切って出てくる心中は、却って男子より堅固なものだ。
そういう相手に対し負傷したのは越度にならない。
そうでがあるが、女人には男ほどの働きは出来ないので、高名にもなり難い。
それにしても、一人残らず打ち捨てたのは、一段と気分が良い。」
そう仰ったのである。
(續撰清正記)

190:人間七七四年
16/01/15 19:57:16.12 PiZdnrgl.net
文禄4年7月、秀次事件が起き、関白秀次が切腹すると、彼の側室となっていた最上義光の娘も
誅せられた。その上義光も秀次の謀叛に与していたとの噂が流れ、最上家滅亡かと思われた時、
徳川家康の計らいによりその罪免ぜられた。義光がこれに感謝することこの上ないものであり、
如何にもしてこの恩報じ参らせんと決意した。
明けて慶長元年閏7月12日の夜、伏見に大地震が起こり、伏見城も崩壊した。
この時、伏見に在った諸侯は皆、太閤秀吉の元に馳せ集まった。
しかし最上義光一人は、家の子郎党を具し、裸馬に打ち乗って徳川家康の館に馳せた。
「このような時には人心も計り難いものです。御館を御出になるべきではありません。
いかなる事態になろうともこの義光がこのように居る以上、お心やすくいて下さい。」
そう申して家康の館を守った。
その後、秀吉自ら茶を点て、家康にも参るようにと言ってきた。
この事、怪しく聞こえたため、義光は急遽秀吉の御所に参り、家康に近づくと
「相構えて、今日のことお気をつけ下さい。義光がここに侍っている以上、何の差障りも
起こさせませんが、しかしながら思うところもあり、事が終われば直ぐにお帰りに成るべきです。」
そう申し上げ、茶会が終わると家康の供をして御所を下がった。
(藩翰譜)

191:人間七七四年
16/01/15 21:40:35.81 Fbvw596u.net
えらく屈強なボディガードやね…<家康の供をする鮭様

192:人間七七四年
16/01/15 21:54:51.20 CiWguw9k.net
 殿下秀吉公、上杉中納言景勝と御和談が調い、中納言は一万騎で上洛された。
もっとも御和談のうえであるので常の行列であるとはいえど、ことのほか厳重でありましたところ、殿下は密に粟田口まで御覧なされ、
ひどく上杉家の行列の備えを誉められました。分けても景勝の乗り物が多人数で取り巻きなさる勢いは誠に鉄城のようだと、
かえずがえす上杉家の軍法に大いに興味を持ちなされました。
 それにひきかえ、いかに治世であるといっても、大小名方は日雇いの人数を行列に遣わすのは余りのことである。
これというも大小名方は前と違って、生活の状態が悪いのでこのようなのである。ああ。
(本阿弥行状記)
大名行列って日雇いばっかだったんですけど、戦国以前では全員軍人だったのですかね

193:人間七七四年
16/01/15 22:04:06.42 Fbvw596u.net
(清正は)江戸上り下りの船中でも四書の講義を聞いていたそうだ。
或る時、伏見に居た時に、清正は手ずから論語に朱筆で注釈を書き入れていたが、
飼っていた猿がその様子をじっと見ていた。
清正が用事が有って席を外している間に、この猿は筆に朱を付け、
論語にめちゃくちゃに塗り付けて落書きだらけにしてしまった。
(戻って来た清正は)この様子を見ると、
「昔々から猿は見た物を学習するものらしい。
昔、終南山に住む僧侶が失くした袈裟をその山に住む猿が盗み、
その袈裟を身に着けて岩の上で坐禅を組んだ。
彼の他の多くの猿達もその姿を真似て坐禅を組んだ。
その猿は戯れに袈裟を身につけ、ただ人の真似をして坐禅を組んだのだけれども、
その功徳によって仏に成る事が出来たと聞いている。
この猿も悪戯で論語に朱注を付けたのだけれど、
(この功徳によって)少しは聖人の道に叶った行動が出来るように成るだろうか。」
と言って笑ったそうだ。
武勇一辺倒の大将にはこのような事は出来まい。
(続撰清正記)
訳注:終南山=中国陝西省西安市に位置する中国仏教における霊山
有名な「論語猿」の逸話・続撰清正記ver.。
単純に動物好きとも本人の苦悩の反映とも解釈される事が有る逸話だけど
どうやら仏教説話の影響が濃厚な模様。

194:人間七七四年
16/01/17 22:18:58.56 ztzdwhA7.net
天正十三年旧暦十一月二十九日の深夜、近畿・東海・北陸一帯を強い揺れが襲った。
いわゆる天正地震である。
この時の近江長浜城主は山内一豊だった。
水辺の軟弱な地盤に築かれた城は城下町ごと崩壊し、各地で火災が起きて死傷者が多く出た。
折悪しく一豊は京都にいて、城は一豊夫人と家老たちが守っていた。
一豊と夫人の間には「およね」という六歳の一人娘がいて二人はこの子を可愛がっていた。
だが地震は夫人と姫の寝ていた長浜城の御殿をつぶしてしまう。
地震直後に駆けつけてきたのは家老の五藤市左衛門だった。
深夜のことで何も見えなかったが、御殿のあった辺りから声がした。
「市左衛門か?」
一豊夫人の声がする。
市左衛門が「はい」と答えると「およねは?」尋ねられた。
夫人は倒壊した御殿からなんとか抜け出ると闇の中で娘を探していたのだ。
市左衛門は姫は無事ではなかろうと思いつつも夫人を避難させるため
「ご無事でございます」と嘘をいって安全な場所に連れて行った。
そしてすぐに引き返して御殿の屋根を切り破って捜索したところ、
棟木の下から姫が乳母とともに息絶えているのが見つかった。
夫人は覚悟していたもののその嘆きは深かった。
やがて急を聞いた一豊も駆けつけてきた。
かつて矢で頬を貫かれても平然としていたこの男は、変わり果てた娘を前に周囲もはばからず号泣したという。

その後一豊夫人は城下で捨て子を見つけた。
藁のかごに入れられて短刀一振があり、武士の子と思われた。
一豊夫人は哀れに思い、その男児に「拾」と名づけて自ら養育することにした。
のちに拾は家臣の北村十兵衛正雄の子だという噂が耳に入っても気にしなかった。
最初はなくした姫の代わりのつもりもあったが、山内夫妻は実子のように慈しみ育てた。
拾は非常に利発な子で一豊は大層気に入り、一時は養子にしようか思案するほどだった。
拾が十歳になったとき、山内夫妻は拾と相談して彼を妙心寺で修行させることにした。
そのとき夫妻は拾の学費として黄金百枚を用意したという。
拾は学才があり、成長して湘南宗化という学問僧になった。
彼の門下からは山崎闇斎が出、山内忠義も門下に加わった。
土佐藩を学問藩にしたのはこの湘南宗化の功である。

195:人間七七四年
16/01/20 03:18:16.12 8QvfyOqv.net
ある日のことだが、かつて豊臣秀吉は数多の金銀の蟹を作らせ、それを
庭の泉水、あるいはそのほとりに放って楽しみとした。
しばらくすると秀吉は、「見飽きた」と思って、近習の者に、「何ぞ一用を
言い出した者にはこれを与えよう」と、言った。
これに皆々は大いに喜び、「臣はこれを紙押さえにします!」とか、「臣は
金の茶釜の蓋さえもないので、せめてこれをその蓋のつまみにします!」
とか、あるいは何と言い、こうと言い、各々1個ずつを賜った。
その中で曽呂利新左衛門がどのように乞うたかというと、「臣は人の相撲は
既に見飽きたので、この蟹を集めて相撲を致さんと存じます」とのことだった。
これに秀吉は、「相撲となれば5個や10個ではその興も薄かろう。ことごとく
持って行くがよい」と言って、残りの蟹を全て新左衛門に与えたということだ。
その頓才は実に驚くべきものであり、また感ずべきものである。
―『常山紀談(異本に拠る)』

196:人間七七四年
16/01/20 06:43:37.38 nFk5QTFx.net
>>195
曽呂利新左衛門のエピソードを聞くと
とんちが利くと言うより、秀吉の喜ぶ事を熟知しているって気がする

197:人間七七四年
16/01/20 07:06:27.14 BQ9uWYM5.net
正体が幽斎様だとしても驚かない

198:人間七七四年
16/01/20 07:06:58.43 /uw8fHcl.net
うん、周りからはすげー嫌われてそうなイメージ

199:人間七七四年
16/01/20 08:13:07.91 1vfJMcPu.net
秀吉の逸話の中でしか語られないからやっぱそういう人物だったんだろうな

200:人間七七四年
16/01/20 16:55:15.78 yZOpTE7P.net
劉邦、朱元璋なんかも最後の方は猜疑心の塊みたいになってたし
独裁者というのは、自分の政権を誰かが転覆させるんじゃないかという
強迫観念に必ず襲われるからな
曽呂利みたいな道化がいなかったら、秀次事件以上の粛清の嵐が発生していた
だろう。
つまり、曽呂利は家康の大恩人。

201:人間七七四年
16/01/20 18:17:50.86 /uw8fHcl.net
それはあるかもね
独裁者というか基盤地盤を持たずに成り上がった人間は怖いんだろね
自分みたいな奴が現れたらと思うと

202:人間七七四年
16/01/20 18:32:23.99 tl6YVjYO.net
>>200
家康が豊臣家を徹底的に抹殺したのも同じ理由だったんだろうな

203:人間七七四年
16/01/20 19:59:12.56 zvCPSfLJ.net
秀忠でさえ色々な大名を潰しにかかってたよな

204:人間七七四年
16/01/20 20:18:35.18 6ktvD0p2.net
まぁ、清盛なんかは情けをかけた結果があれだったし

205:人間七七四年
16/01/20 20:25:30.92 ZjOTw8Px.net
創作なんかだと家康は豊臣に寛大で秀忠が潰したがってるよね

206:人間七七四年
16/01/20 20:28:04.45 /uw8fHcl.net
それ原哲夫だろw

207:人間七七四年
16/01/20 20:32:51.06 ry+NMqZj.net
つか史実でも家康は決して豊臣を滅ぼそうとはしてないんだよなあ。
大坂の陣の後でも、秀頼の男系を処刑しただけだし。

208:人間七七四年
16/01/20 21:51:54.97 WF3cKGfg.net
そもそもやる気満々で浪人囲いまくってんだから
それを見逃したら頭沸いてるとしか

209:人間七七四年
16/01/20 23:00:26.07 DnMYjG3n.net
秀頼さまが、媚びて生きるより、戦って滅びる思考だったのもあるんじゃないの?

210:人間七七四年
16/01/20 23:20:07.79 xVgyn3Zo.net
死ぬなら独りで死ねよ
巻き添えになった家臣はたまったものではない

211:人間七七四年
16/01/20 23:43:50.44 S5kACRif.net
それでもついていったんだろ。

212:人間七七四年
16/01/20 23:58:32.17 /uw8fHcl.net
せめて出陣してればな

213:人間七七四年
16/01/21 00:25:03.68 39WG4Oxb.net
家康の愛読書が吾妻鏡な時点で、何をしても秀頼は死ぬ運命だった


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