戦国ちょっといい話43 [転載禁止]©2ch.net at SENGOKU
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1:人間七七四年
15/11/16 10:06:51.93 1JNneR1V.net
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
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仕事前に見ようと思ったら落ちてた...... (´・ω・`)

2:人間七七四年
15/11/16 13:06:57.26 zgdpCvHx.net
いちおつ
徳川家康公の言われた事に、このようなものがあった
「昔から戦場において指物、その他何であっても落とす事を、比興であると言う者たちがあるが、
それは不見識の至りというものだ。高名をさえ仕れば、許すべきことだ。
例えば敵の頸を取ろうと言う時、片手で鑓を落とさないように持っているというのも、
了見の無い事ではないか。」
(武功雑記)

3:人間七七四年
15/11/17 02:35:46.67 ZH/DUF6/.net
堀西側に非常時脱出口「埋門」?
山形城跡の発掘調査で土橋出現
山形新聞 11月15日(日)10時52分配信
山形市の国指定史跡・山形城跡の「本丸西堀・西土塁跡」発掘調査に関する現地説明会が14日、同市の霞城公園内で開かれた。
非常時の脱出口ともなる「埋門」(うずみもん)があるとされる場所を調査した結果、堀を挟んで西側の地点から土橋が出現したことが報告された。
埋門は、江戸時代後半の山形城絵図に描かれることが多く、本丸一文字門、本丸北不明(あかず)門に次ぐ本丸第3の門とされる。調査は4月15日に開始。絵図や明治期の測量図を参考にしながら埋門の場所を推測し、発掘を進めた。
門の痕跡は見つからなかったものの、二ノ丸側から幅約10メートル、傾斜角度35度ほどの土橋が見つかった。
土の色から地山とみられ、堀を造成する際に掘り残した可能性が高いという。
完全には本丸とつながっていないことから、土橋と本丸の隙間に橋を架けて渡っていたと推測される。
現地説明会では、発掘現場から櫓(やぐら)台とみられる石垣の一部が出土したことなども報告された。
本年度の発掘調査は12月ごろまで続く。
山形新聞社
URLリンク(headlines.yahoo.co.jp)

4:人間七七四年
15/11/17 19:41:08.05 M2PXouXh.net
埋門といえば名古屋城の埋門の工事はもう終わったかな

5:人間七七四年
15/11/17 23:48:14.57 ZH/DUF6/.net
それぞれの駆け引き
慶長5(1600年)10月8日
最上義光から秋田実季宛の手紙
(´・ω・`)「大柿(大垣)に籠居候治部(石田三成)・刑部(大谷吉継)・備前中納言(宇喜多秀家)・嶋津(島津義弘)なとあをのゝ原へ罷出、人数十二万ほとにてひかへ候処へ
内府様(徳川家康)御人数八万ほとに候而被切懸候処に敗軍之躰に候処に、又筑前之中納言(小早川秀秋)後切を被成候故、尚々たまらす敗北仕候
治部・刑部事者主一騎にて伊吹をさして逃候を、被御触を廻、此等之者共生捕にいたし参候へよし被仰候間、定而百姓共とらへて参候ハんと申候
大柿之事者そのまゝ焼却被成候
、佐和山之事者十七日に落城仕候」
この手紙は10月1・2日に長谷堂で米沢へ退く直江兼続を追撃して後、谷地城に取り残された下吉忠を包囲していた時に書かれたものである

6:人間七七四年
15/11/18 23:17:48.97 ymBsGgqT.net
蒲生氏郷が追鳥狩をしていた時、氏郷が進むのに遅れた体の者があった。
氏郷がそれに気づき「あれはどういうことか!?」と指し示すと、氏郷の側近くのもの一人が
急ぎその者に駆け寄り引き立て、足の真ん中に小刀を突き、出血させ、そのまま引きずってくると氏郷に申し上げた
「この者は踏抜きをしてしまったようで、そのため歩き兼ねているのです。」
(武功雑記)
単純に遅れたと言っちゃうと、氏郷に手討ちにされますからね。

7:人間七七四年
15/11/18 23:30:58.40 qjIYofm2.net
工場長はそんな人では無い

8:人間七七四年
15/11/19 02:02:18.43 eRBqyffB.net
中村守和曰く、巖流と宮本武蔵との仕合について、昔日に老翁から聞いた物語によれば、
その期日に及んだ時、貴賎とも見物のために多くの人が船島に渡海した。
巖流も船場に至って乗船した。巖流は渡守に「今日渡海する人がとても多いのはどうしたことだ?」
と言った。渡守は「あなたは知らないのですか? 今日は巖流という兵法使いが、宮本武蔵と船島で
仕合するのです。だから見物しようと未明から渡海する人が引きも切らずなのです」と、答えた。
これに巖流は、「私がその巖流だ」と言った。
渡守は驚き、巖流に囁いて「あなたが巖流ならば、この船を他所につけるべきです。早く他州へ
お去りなさい。あなたの術が神の如くといえども、宮本の党はたいへん多いのです。絶対に命を
保つことはできません」と、言った。
これに巖流は、「お前の言う通りで、今日の仕合で私は生き延びることを望んではいない。とはいえ、
堅く仕合を約束したのに、たとえ死ぬとしても、約束を破るのは勇士のする事ではない。私はきっと
船島で死ぬであろう。お前は我が魂を祭って水をそそげ。賤夫とはいえ、その志には感じたぞ」と言い、
懐中から鼻紙袋を取り出して、渡守に与えた。渡守は涙を流して、その豪勇を感じた。
やがて船島に到着した。巖流は舟から飛び降りて武蔵を待った。武蔵もまたここにやって来て、
ついに刺撃に及んだ。巖流は精力を励まし、電光の如く、稲妻の如く術を振るったが、不幸にして
船島に命を留めたということである。
―『本朝武芸小伝』

9:人間七七四年
15/11/19 11:50:01.73 i/5zibSr.net
昔むかし。 琉球王国の王様が尚真王(しょうしんおう)の時代のお話。(在位1477年(成化13年) - 1527年(嘉靖5年))。
沖縄本島の北部、今の金武町と言うところに、金武湾という港があります。
その港に小舟が1隻、漂着してきているのをある若者が見つけました。
この舟は、帆の柱が折れて壊れてしまっていて、どうみても難破船にしか見えませんでした。
若者が恐る恐る中を見てみると、そこに大きな箱がありました。
若者「この中に宝箱でもあるのかな。」そう思った若者は、その箱を開けました。
そしたら、中に、死にそうになっている若い僧侶が入っていました。
この僧侶の名前は、日秀上人(にっしゅうしょうにん)と言い、高野山で修行をしていたが
普陀落渡海を決意し、和歌山県の那智というところから西方浄土を目指して舟を出して旅をしていた途中でした。
若者はすぐにその僧をすぐに舟から助け出し、持っていたお米でお粥を作って食べさせました。
やがて、僧侶は元気になった。元気になった僧侶は、若者に「ふくらしゃ(誇らしや)みなと。」と言いました。
『ふくらしゃ』と言うのは、あなたは素晴らしい人だねぇと言う意味です。
その名残から、この港の名前は富花(ふっか)と言う名前になりました。
後に、日秀上人はお礼の意も込めてこの若者に、若者の家の近くを流れる樋川(ひじゃーがー)にちなんで、『比嘉』という姓を考え与えました。
その頃金武では、金武の洞窟に大きな蛇が住んでいた。
洞窟に続いている大川に、娘が水を汲みに行くと、その大きな蛇がその娘をさらって生肝を食ってしまった。
村人たちはこれにとても怖がって困っていたが、相手が恐い大きな蛇のため退治することも出来ませんでした。
そのうち、村の人は誰も大きな蛇を恐れてしまってその大川に誰も近づかなくなった。
これですめばまだ良かったのだが、この蛇が、今度は近くの畑の作物を荒らしに、村まで来てしまった。
その上、この蛇のせいか、運悪く長い間雨が降らない日が続きました。
村で作った作物は日照りで枯れてしまって、村人は美味しい水も飲めない、食べ物も食べれない事態になった。
この話を聞いた日秀上人が「私をその大蛇がいる洞窟に連れて行ってくれ。」と村人に頼みました。
村人は日秀上人をその洞窟に案内すると、洞窟の中から恐ろしい大蛇の唸り声が聞こえてきました。
しかし、日秀上人は、その声にひるまなかった。静かにその洞窟の前に座って、無心になってお経を読んだそうな。
そしたら、洞窟の中からさっきのうなり声よりも大きな声で、「ワァーッワァーッ、ヴォーヴォー」という音がかえってきた。
やがて大蛇は、叫び声とともに洞窟から頭を出した。村人達はその恐ろしさのあまり気を失ってしまった。
それでも日秀上人はお経を上げ続けた。
すると、この大蛇は勢いを失ってしまった。
と、同時に激しい雷が鳴って、雨が降り始めた。
日秀上人は、今がチャンスと言わんばかりに、この大蛇を洞窟の中に閉じ込めた。
そして、その洞窟の近くに金武観音寺を建立しました。
日秀上人は金武の洞窟にいた大蛇を退治してしまいました。
この話はやがて、首里城の尚真王の耳にも入り、尚真王はこの日秀上人を『仏教の師』として迎え入れたそうな。
そして日秀上人は、那覇の地に薬師、観音と言ったたくさんの神様を祀る護国寺を建てた。
日秀上人は「琉球国の護り神」となったのです。
(続く)

10:人間七七四年
15/11/19 11:50:43.29 i/5zibSr.net
(続き)
日秀上人はまた、当時、那覇から首里に上る『松川(まつかわ)』と言うところに妖怪が多く出て、通る人たちが困っているということを聞きました。
日秀上人はこの松川の地に、妖怪を退散させるための呪文を書いた石碑を建て、妖怪退散もした。
この石碑のおかげで、妖怪は退散し人々が無事に通れる道になりました。
残念ですが、この石碑に書かれている言葉は誰も知らないそうです。
石碑も古くなってしまって何が書いてあるのか、まったく読めなくなったようです。
だから、それも全部ひっくるめて「松川の碑文(= 秘文)」と言うようになったそうな。
松川と同じように、今度は、浦添から首里に行く途中の丘にも妖怪が出て人々を困らせていたところがあった。 
日秀上人は、その丘の上に『金剛経』と言うお経を書いた石を埋めたって。するとその丘からも妖怪は退散して、
そこを通る人々はそれ以降、安心して交通できるようになったそうな。
その丘は、お経を埋めた丘だったものだから、経(が埋まった)丘、経塚(ちょうちか)と人々から呼ばれるようになった。
浦添と那覇と西原の境目くらいにある浦添の経塚(きょうづか)と言う地名はそこから来ているそうです。
後年の話。
旅人がその経塚で昼寝をしていました。そしたら近くの村人が大騒ぎをしていたもんだから「何事ですか」と、目が覚めました。
辺りを見回しても火事があったわけでもなければ、妖怪が出たわけでもない感じ。そこで、旅人が村人に聞いた。
旅人「何かあったんですか」
村人「『何か?』じゃないよ、今、大地震があったでしょう。感じなかったの?」
旅人は近くの村がすべて大地震で揺れたのに、経塚だけはこの土地に眠っているお経の力で揺れなかったことを知った。
それから、沖縄で地震になった時には、「ちょうちか、ちょうちか。」と唱えるようになりました。(沖縄の昔話)
この話は、大隅正八幡(鹿児島神宮)で島津貴久と同じ夢を見た日秀上人が鹿児島に来る前の話しです。
島津貴久が国分の八幡宮を訪れたとき、とある夢を見た
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

11:人間七七四年
15/11/20 00:58:09.78 WxP7hhHh.net
豊臣秀吉は参内を決めて御幸町を通ることがあったが、ある時の御通りの折、
京童が秀吉を見上げて、「あの殿様は猿に似ている!」と声高に申したので、
秀吉は機嫌が悪く、伏見へ帰ってから鞘師・曽呂利新左衛門を呼んだ。
秀吉は、「今日、京童が私を見て、『あの殿は猿に似ている』と申したのだが、
本当に猿に似ているか?」と、新左衛門に問うた。
これに新左衛門は、「どうして不届きにも君が猿に似ていることでしょう。
むしろ、猿が君に似ているのです」と、言った。
これを聞いて秀吉は、「そうに違いないな」と言って、笑ったということである。
―『半日閑話』

12:人間七七四年
15/11/20 12:07:58.24 t9dNyZsw.net
結局のところ猿は猿なのよ

13:人間七七四年
15/11/21 03:23:55.74 sIJllXlx.net
まるで器の大きな名君だな

14:人間七七四年
15/11/21 10:14:41.04 CXP+uJlp.net
物吉貞宗
表裏に鍬型の梵字蓮花がある。家康公の御秘蔵で常にお差しなされたものだが、
よく切れることがたびたびあったので「物吉」とお名づけになった。(刀剣名物帳)

某刀ゲーで最近出た物吉貞宗、一般には「戦で必ず勝利できる幸運の刀だから物吉と名づけた」と解説されるが、
他での家康のネーミングセンスを考えるとこっちの「よく切れるよい物だから物吉だ!」の方がそれっぽそうである

15:人間七七四年
15/11/21 16:41:08.46 8PIo0dPf.net
刈田夜合戦
天正12年、小牧長久手の戦いの時のこと。
蒲生氏郷は羽柴秀吉から織田信雄より奪った伊勢国松ヶ島城を与えられたが、
周辺には未だ信雄に与して抵抗する戸木城の木造具康や小倭の諸士がおり、氏郷は織田信包と共にこれらを討伐することになった。
氏郷と信包は戸木城の周囲に付城を築いて包囲したが、具康の抵抗と天然の要害に攻めあぐね、
城内からの出撃に備えて合図の鉄砲を所々に置くと、信包からは分部光嘉、氏郷からは蒲生郷可らを残して引き揚げた。
そのうちに早苗取の頃となり、農民を悩ますは天恩に背くに非ずやと双方弓鉄砲を止めて田畑の営みを許し、
その間に城中では鏃を研ぎ兵糧玉薬の調議をし、氏郷の方では小倭の諸士を討伐していた。

かくて九月十五日の夜の事である。
戸木の城中より、田中仁左衛門尉、畑作兵衛尉、金子十助、堀金右衛門尉、中川庄蔵、
天花寺勘太郎、畑千次郎などの者が小川表(城の南方)へ刈田をしようと忍び出て来た。
木造勢は思うままに刈り取って心静かに引き揚げようという所、これに気付いた蒲生勢が迎撃してきたが散々に打ち破り、
勝鬨をあげて城へ引き揚げにかかった。
一方、松ヶ島の氏郷は兼て用意の合図の鉄砲でこれを知り、得たりや応!と唯一騎で馳せ付け、
木造勢に菅瀬(須賀瀬)村辺りで追い付いて散々に戦った。
その後、追々後続の蒲生勢が氏郷に追い付き、木造勢と入り乱れての戦闘となった。
そんな中、木造勢の一人である中川庄蔵という者、菅瀬村の見永という辺りを歩いていたが、そこで出会ったのは何と敵の大将・氏郷。
たちまち斬り合いとなり、庄蔵は氏郷の乗馬の平首をしたたかに斬り付け、氏郷も危うく見えたが
そこに氏郷の従兵田中新平という者が割って入り、庄蔵と新平は火花を散らして戦った。
しばらくはどちらが勝るとも見えない戦いであったが、遂には新平が打ち負け庄蔵に討たれた。
(氏郷はその間にどこかに行ってしまったようである。)
さて新平を倒した庄蔵はまた歩いて菅瀬村の高橋という所まで来たが、そこで“またも”氏郷に出くわした。
氏郷は庄蔵目がけて馬上から長刀を投擲、庄蔵はそれに兜の真向を切られてしまったが怯まず斬りかかる。
そこに、又も氏郷の馬前に黒川西と名乗って乗り入れた者があり、庄蔵は彼をも討ち取った。
(氏郷はまたその間にどこかに行ってしまい、)庄蔵は近くを味方の堀金右衛門尉の下人が通りかかったのを見つけると、
討ち取った田中・黒川の首を持たせ、心静かに引き揚げようとした。
が、庄蔵が庄村という所(見永から4km程の地点)までやってくると、そこで“三度”氏郷と出会ったのである。
斬りかかる庄蔵。だが、氏郷は何を思ったか突然槍を振り上げるとそのまま駈け通っていった。
徒歩の庄蔵は追うに追えず、ただ立ちつくすのみであった。
その間に首を持たせた下人は敵に生け捕られたのか、姿が見えなくなってしまっていた。

さて木造勢が漸く戸木城へ引き揚げた翌日のこと。行方知れずになっていた例の下人が松ヶ島城から戻されてきた。
その下人に敵方の様子を問うてみると、昨夜の戦いでは氏郷の兜に鉄砲が三発命中したそうで、
また中川庄蔵と二度三度馳せ違い、三か所で激しく戦うなど誠に軽率な大将だということだ。
下人が持っていた田中・黒川の首が露見したのでこの首を取った者は誰かと尋ねられ、
中川庄蔵だと下人が答えると、氏郷に三度まで渡り合った働きを敵方では大将(氏郷)を初め感心していたそうである。
下人を解放したのはそれを伝えるためだということは後になって知られたことであった。

その後の何度かの戦闘で城方の名のある者が幾人も討死し、寄手は諸方から一度に攻め寄せようと談合していると、
近くの一身田の門跡が来て和議の仲介を申し出、また信雄と秀吉も和睦したので十月下旬に戸木城を明け渡し、
木造具康は尾張へ逃れて行ったのであった。
(勢陽雑記)

夜の田んぼで敵の総大将に頻繁に出くわす羽目になった中川さんのお話。

16:人間七七四年
15/11/22 15:56:28.24 oPGCguPz.net
中川さんは相当すごいけど、なんというグダグダな話w

17:人間七七四年
15/11/22 17:00:44.43 ZKG53IaR.net
自分の功績もどきと不幸の自慢なら
よそでやってくれ

18:人間七七四年
15/11/22 17:35:03.31 X+C+Eq1Z.net
矢島(大井)五郎
豪勇で知られ、『奥羽永慶軍記』や『由利十二頭記』などでその名前を見る。
容貌は六尺九寸(約2m)の巨躯に「熊のような」毛が生えており、
愛馬「八升栗毛」にまたがり、七尺(2.1m)の筋金入りの樫の棍棒を振り回す勇ましい武将でし
*「八升栗毛」は合戦毎に八升の大豆を一度に食べて戦に臨むことから、その名が付いた。
仁賀保氏との対決では4代連続で仁賀保氏当主を討ち取るという活躍を見せ、
秋田氏の内訌では土崎湊城への一番乗りも果たしている。
まさしく、東北の誇る陸戦型モンスターである。

19:人間七七四年
15/11/22 17:41:25.73 X+C+Eq1Z.net
矢島満安(大井五郎)の続き
以上の前振りから既出への繋がり
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
最上義光との面会では、5〜6人前の食事を平らげ、鮭を1匹丸ごと食べるなど、
その豪胆ぶりを喜んだ義光が暗殺を止め、代わりに協力を約束したという逸話も残る。
しかし、その裏で義光(仁賀保氏とも)の調略により矢島で五郎の弟、与兵衛による謀反が勃発、
急ぎ戻った五郎の手により謀反は鎮圧したが、同族・重臣を失いその勢力は大きくそがれた。
最期は、由利十二頭(-1)による総攻撃で小野寺茂道の元へ離脱。
最上義光による小野寺義道へのけしかけで、茂道自害、五郎も自害と相成りました。
鮭様の目の前で鮭一匹残さず食べたことの結末・・・。
あ、悪い話でした!!ごめんなさい

20:人間七七四年
15/11/22 17:46:32.51 RNlTTGsL.net
さすが義光きたない

21:人間七七四年
15/11/23 02:53:42.93 ms45seLV.net
鮭食べられたから仕方ないね

22:人間七七四年
15/11/23 03:25:29.41 Ia/7i1kD.net
柳生宗矩の子・十兵衞三厳も父に劣らぬ名人であった。
三厳は若い時は忍び歩きを好んだ。ある時、京都粟田口を夜半にただ1人で
通っていたところ、強盗数十人が出て来た。
各々が抜刀を提げて、「命惜しくば衣服大小を渡して通れ!」と罵りかかった。
三厳は静かに羽織を脱いだ。それを衣服を置いて通ろうとしていると思った
盗賊たちは近くまで寄って来た。三厳はまず1人を眼下に切り伏せた。
盗賊たちは、「こいつは曲者だぞ!」と言って、一度に切り掛かって来た。
軽捷無双の三厳は、あるいは進み、あるいは退き、四方に当たって戦った。
太刀先に廻る者はことごとく切り倒され、ついに12人までが命を落としたので、
残る者らは「これは叶わない!」と言って、逃走したのであった。
―『撃剣叢談』

23:人間七七四年
15/11/23 13:43:48.12 qBMlgIUG.net
「武士の恩返しとつくつくぼうし」
天正九年(1581年)のこと、播磨赤松氏の軍師の律師光影が、二人の家来を連れて、竹田城主(太田垣朝延氏)のところへ、城を明け渡すようにとのりこんできました。怒った朝延は、三人を大路山の滝谷が原で切りすててしまいました。
数年後、村民は三人の霊を慰めるため、三体の石地蔵をつくり、手厚く祭りました。すると、あくる春からこの地蔵堂の付近だけ、つくつくぼうし(つくし)が生えるようになり、村民を驚かせました。
これを、三人の武士の恩返しと考え、のちに、毎年春の日の一日を村民たちは、つくし取りに楽しむようになりました。
(パンフレット「意外。おもろい。竹田城跡から見おろすまちのお話」 竹田むかし話)

24:人間七七四年
15/11/23 14:04:29.67 wTEHYNNU.net
オリーブって風媒花だったんだな

25:人間七七四年
15/11/23 14:24:04.53 oMQResU1.net
軍師じゃなくて軍使だろ
律師ってのは僧侶じゃないかな

26:人間七七四年
15/11/23 16:13:47.47 qBMlgIUG.net
突っ込みどころは数々あれど、とりあえずは原文のまま載せときました。

27:人間七七四年
15/11/24 16:11:00.95 EXbK5HYH.net
原文てw
ググってみたらちゃんとした原文もあったよ

28:人間七七四年
15/11/24 23:03:15.75 yGQyfsuC.net
徳川家康が語ったことに、このようなものがあった
「軍は気負いかかって勇むのがいい。そして勝負は運次第だと心得るのが良い。
願っても当たらす、願わなくても当たる事があるのだから、いらぬことに気を尽くすのは人として損である。
(武功雑記)
かなり雑な家康公の戦陣訓

29:人間七七四年
15/11/24 23:20:59.59 Mzvj19hM.net
物事なるようにしかならんしな
あとは結果が少しでもよくなるようにやるべき事をやるかどうかだわさ

30:人間七七四年
15/11/25 04:54:02.55 Tg1sHwCd.net
顰像とは何だったのか

31:人間七七四年
15/11/25 22:02:46.02 GS5vOgNk.net
一般的な顰像の由来は戦前に美術館にお客さんを呼び込むための御当主のリップサービスという説が今年出てきたね
実際には紀伊家の宗将の娘・従姫が尾張家に嫁ぐときの嫁入り道具として持っていったものなんだそうな

32:人間七七四年
15/11/26 02:41:14.19 f6OhH1ci.net
福島正之、のち津軽信枚の正室となった満天姫はある年、
養父・徳川家康に願って、
「長く子孫の宝としたいので、関ヶ原御屏風2双のうち1双を
拝借仕りたく存じます」と、申し上げた。
これに家康は、「それはとても望みを叶え難い。他の品であれば、
何なりとも望みを叶えよう」と、返答した。
しかし、姫は「他の御品は少しも望んではおりません。何よりも
頂戴仰せ付けられたく…」と、涙を流して一途に願うので、
家康は、「それほどのことならば、しばらく預けておくから、
少しばかり遠国の慰みにでもせよ」と、件の品を預けたという。
―『藤田氏旧記』

33:人間七七四年
15/11/26 05:25:23.60 1wZsGKAV.net
福島正之=のち津軽信枚の正室となった満天姫
に見えたw

34:人間七七四年
15/11/26 07:35:47.64 V2ZL0Ks2.net
無知を晒すなよw

35:人間七七四年
15/11/26 12:33:23.74 xoNX82Hw.net
程よく馬鹿であることが
いい話を産むんです
例え馬鹿でも阿呆じゃなければいいじゃない

36:人間七七四年
15/11/26 12:39:13.95 ieUx67E2.net
馬鹿と阿呆の違いって単に地方ごとに使われる頻度が異なるだけだと思うがニュアンスがわからん
ほんとかしらんが、両方「烏滸をこ」から来た説もあるし

37:人間七七四年
15/11/26 13:27:05.86 G0lZK8IS.net
まあ、なんて尾籠な

38:人間七七四年
15/11/26 21:19:33.99 UmHPvjDh.net
関ヶ原の戦いのあと、丹羽長重が赦免された理由の一つとして、
大相国家(徳川秀忠)が未だ童形であった頃、この長重と親しく語り合い、
『如何なる事があってもこの好を決して忘れない!』と、
固く誓った事があった。
このことを密かに家康に伝えた人があり、それもあって赦免に至ったのだという。
これを家康に伝えたのは、土井利勝だとも、本多正信だとも伝わる。
(藩翰譜)
徳川家康、息子の友だちならしゃーないと丹羽長重を許すの巻

39:人間七七四年
15/11/26 23:43:35.70 Anv+yfLZ.net
前田利常が人質だったときの逸話があるし、仁徳者だったんだろうね

40:人間七七四年
15/11/27 02:36:52.67 UUgAMIah.net
○本多正信壁書
淫酒は早世の地形    堪忍は身を立てる壁
若年の苦労は栄華の礎 倹約は主君に仕えるための材木
珍膳珍味は貧の柱    多言慮外は身を滅ぼす根太
仁の情は家を作る畳   法度は僕を使うための屋根
華麗は借金の板敷    我儘は朋友に嫌われる障子
右の十ヶ条は常に忘れてはならぬものである。
―『半日閑話』

41:人間七七四年
15/11/27 09:25:25.21 E4PkoWX/.net
戦国ちょっといい話と言えば…
URLリンク(facebook.com)

42:人間七七四年
15/11/27 20:18:20.14 kDnuCvlR.net
流れ読みません。信之公のご位牌が発見されたそうです。
<真田幸村>兄の位牌発見 長野・上田の正念寺
URLリンク(headlines.yahoo.co.jp)
戦国武将・真田幸村(信繁)の兄で松代藩(長野市)初代藩主、信之の位牌(いはい)が、
長野県上田市の正念寺で見つかった。
167年前の資料に存在が記されていたが、所在不明となっていた。
奥寺浩司住職(37)が2月、本尊裏を掃除していると「隠し納戸」が偶然開き、位牌を発見。
上田市などの調査では数え年93歳で死去した1658年ごろの作で、
明治期の廃仏毀釈(きしゃく)で隠された可能性もあるという。
表面には真田の家紋「六文銭」が。折しも、来年の大河ドラマ「真田丸」に地元が沸く中での発見に、
奥寺住職は
「信之公に『そろそろ出せ』と言われたようだ」
と、手を合わせていた。

いくら、影が薄いからってそんなところにいらっしゃらなくても…・

43:人間七七四年
15/11/27 20:24:49.11 p13VVRHB.net
そういえば本屋行ったら真田幸村(信繁)関連の文庫本と信之関連の文庫本が平積み台に置かれてたけど
幸村関連のは普通に表紙が見えるように平積みされていて
信之関連のは背表紙だけが見えるように縦に置かれていた
まあ文庫本が置かれてるだけ上等だけど

44:人間七七四年
15/11/28 02:23:44.73 IBZe3G5q.net
それでも扱いひどくないか

45:人間七七四年
15/11/28 05:25:10.29 H/OUhG6h.net
みゆきちゃんの出身地だし

46:人間七七四年
15/11/28 20:16:54.35 JYeIdMzd.net
オマエらこういうの行ったりしないの?
富山市郷土博物館 特別展「戦国の強者 津田遠江守重久」
URLリンク(www.city.toyama.toyama.jp)

特別展なのに渋い人選
ゲームとかに影響された変な人選じゃなくてこういう人をもっと掘り下げて欲しい

47:人間七七四年
15/11/28 20:19:42.78 cPHZixvg.net
富山か…流石に遠いな…

48:人間七七四年
15/11/28 23:08:32.19 d+tbKNRi.net
 小田原の陣で山中の城を落とそうとしていた時、中村家の臣渡辺勘兵衛と申す者、
城へ一番乗りをしようと決めていたが、東照宮のご家臣戸田左門が一番乗りをしてしまった。
 終わった後に、左門は勘兵衛と話しかけた。
「賭けとなってしまったことは残念に思います。
もっとも貴殿の働きは殿下の軍奉行、黄母衣衆に見届けられていましたよ。」
という趣旨の会話を東照宮の御座の隣でしていたので、家康の耳に入ってしまい左門は御前へ召出されてしまった。
「只今お前が申したことを逐一聞き届けた。もっともではあるが、聟の氏直の持ち城を、我等が手勢で攻め落とたところで、
たいして手柄にもなることはない。お前が骨を折った事は、我等にさえ聞き届けたら済むことで、今後山中の城攻めの事では、
とにかく力を入れるべきではない。」
との旨を仰られた。
程なくして、国替えの時に、戸田左門に五千石の加増が有ったという。今の戸田殿の先祖の事である。
(本阿弥行状記)

49:人間七七四年
15/11/29 00:35:47.05 rjToysbX.net
だれか解説してくれ

50:人間七七四年
15/11/29 08:00:19.40 U5u6YrIq.net
婿攻めに力を入れる非道な家康という汚名を着せるんじゃねーよ

51:人間七七四年
15/11/29 08:12:49.76 troKPAW1.net
一柳直末とか本多忠朝とか圧倒的な勝ち戦で討ち死にするのは何か恥ずかしい

52:人間七七四年
15/11/29 09:07:05.07 Kssy/nen.net
織田信長のちょっといい話
邪魔な弟は殺害。
子供たちを次々と名家へ養子に送り込み、その家を乗っ取る。
浅井・朝倉の頭蓋骨に金メッキを塗って、みんなで眺めながら酒を飲む。
(杯にしたという説もあり)
生意気なお寺は言うまでもなく攻撃対象。
長年忠誠を尽くした家臣も利用価値が無くなれば追放。
将軍だって言うに及ばず。

53:人間七七四年
15/11/29 15:13:54.22 4WwTOpEe.net
>>51
その二人の戦死を一括りで語るのはちょっと違うとも思うけど

54:人間七七四年
15/11/29 17:56:04.54 e0erDwHE.net
蘆名盛高の旗本であった猪苗代某は、当時14,5歳の美少年であり、新國藤兵衛と言う者と知音であった。
両者は談合して、盛高が羽黒に向かって留守の間に、若松の城を乗っ取った。
しかし盛高は帰ってその夜のうちに取り返した。上記の両人も城中にて打ち取り、その他の者たちも
撫で斬りにした。盛高の武勇は世の常にあらずと、人々は皆感じ入った。
この時、原田如礫と言う者、盛高に従い「今夜は頸3つほど取る!」と宣言し、結果その言葉の
通りであった。この如礫は会津三千騎の内でも無双の勇士であり、常にこのように言っていた
「総じて、合戦の場に挑んで人の集まっている所に向かうから手柄を致さぬのだ。
わたしはそういう時は、人の寄り付かぬ方に向かうようにしている。」
ある時、足軽を殺して立て籠もった者があった。人々が取り扱いかねた所に、如礫行って、
自分の太刀を縄にくくりつけて、立て籠もっている者に投げ渡し、話しかけた
「この上は安心して私を近づけよ!その方の誤りなき理由を聞かせよ!」
かの者も同心し、彼を近づけた、如礫はその所で踏み込み、これを召し捕った。
(武功雑記)
会津蘆名盛高の人間兵器のような主従についてのお話

55:人間七七四年
15/11/30 03:04:13.42 J6leepVc.net
 源氏物語は和国の奇筆である。細川玄旨法印(藤孝)の扈従に、宮木善左衛門孝庸という武士が、因州の牧に仕えなさっておられる。
私は若年の時から彼に随っていて、委細を伝授してもらった。慣例通りに、口伝での共有であった。
 あるときのこと、孝庸は玄旨法印に世間で便なる書は何を第一にするべきか、と尋ねなさったら、源氏物語と答えなさった。
また歌学の博覧の第一の物はと問いなさったら、同じく源氏と答えなさった。
玄旨法印からは何もかも源氏で済むことだと承った。源氏を百偏つぶさに見たものは、歌学が成就すると仰られた
と、孝庸は私に語られたことがある。
(本阿弥行状記)

56:人間七七四年
15/11/30 04:01:46.72 dM7cB86d.net
井伊直孝曰く、
「若年の時は一旦のことに迷い、理非のわきまえもなく、是非とも自分の
心のままにしようと思うことがあるものだ。
その時、父母兄弟朋友の意見によって心を取り直し、正道に帰る者もいる。
一方で、強情で意見を用いず、悪名を得てその身を滅ぼす者もいる。
この時が一生の吉凶の浮き沈みである。一旦の怒りで主君父母の恩を忘れ、
一門の名を穢すことは非義の至りであるからよくよく覚悟すべきことである」
―『松のさかへ(井伊直孝公御夜話)』

57:人間七七四年
15/12/01 03:19:13.97 o9Mt8xQ8.net
>>54
盛高さんってただのホモだと思ってたけど
武勇伝

58:人間七七四年
15/12/01 12:13:30.38 qaNYrNrp.net
それは"隆"さんでは
"高"さんが城を乗っ取られたことがあるかは知らないけど

59:人間七七四年
15/12/01 16:46:34.57 NTZPLXHk.net
ここが詳しい
URLリンク(bushomemo.blog.fc2.com)

60:人間七七四年
15/12/01 23:30:46.51 getXXJuT.net
松島の雲居和尚が夜の山で山賊どもに捕まったときの話。
山賊「坊主、金を置いていけ」
雲居「ワシはこの地の者で、遍歴の僧ではない。
   なので金銀は持ち歩いておらぬ。
   着物をやるから、命は助けてくれ」
山賊「無駄な者を捕らえてしまった。
   着物など金にはならぬ。
   とっとと行け」
と言って解放した。
一町ほど行ったところで雲居は引き返し、山賊のところへ戻り、
雲居「ワシは妄語戒を破ってしまった。
   銀がひとつ、巾着に入っていた。
   それを、うろたえて忘れていて、
   金銀など持っていないと言ったのがとても悔しい。
   この銀を受け取ってくれ」
と言った。
山賊は心を打たれ、その場で仏弟子となったそうである 【葉隠】

61:人間七七四年
15/12/01 23:50:59.82 Vw1VRYYz.net
偸盗戒やら蓄金銀宝戒やらはええのんかい

62:人間七七四年
15/12/02 09:43:47.95 qC7qXKAK.net
とにかく、けが無くって良かったんじゃね?
あれ?いつのまにか、お茶が置いてあるぞ?

63:人間七七四年
15/12/02 11:45:25.13 YtZOMAhh.net
>>60
葉隠大好きのキチガイさんよ
どこが戦国の話なんだい?お前は消えろよ

64:人間七七四年
15/12/02 12:25:14.17 LaNv7O+N.net
>>63
この出来事が寛永10年とされている。島原の乱が寛永14年。まあいいんじゃないかな?

65:人間七七四年
15/12/02 14:13:35.32 YtZOMAhh.net
龍造寺、鍋島の話ならともかく誰?坊さん?
死ねよ

66:人間七七四年
15/12/02 14:35:44.52 dQX6l5/j.net
別に武士だけの逸話をあげる場所ってわけでもないからねえ

67:人間七七四年
15/12/02 16:48:16.42 YtZOMAhh.net
名無しに用はない。消えろ。

68:人間七七四年
15/12/02 18:59:58.04 LaNv7O+N.net
大坂の陣の陣触れがあった時、伊達政宗は嘉例であるとして、仙台より七里出た所で
最初の宿所をとった。ところがその場所に到着した時分、そこに火事が出た。
ここで政宗は日比の山伏の格好をして貝を吹かせ、「さあ、鬨の声をあげよ!」と
軍勢に声を上げさせると
「なんとめでたい事だろうか!我の行く先、火の手が上がりたる!」
そう言って機嫌よく、次の在所にて宿泊した。
(武功雑記)
何故政宗は山伏のコスプレをしていたのか。

69:人間七七四年
15/12/02 19:33:24.71 0liDb3C6.net
吉野の花見のつもりじゃねぇか?

70:人間七七四年
15/12/02 22:39:09.32 lsnV0mh3.net
桶狭間の戦いから丁度100年経った1660年
伊勢朝熊で蟄居中の秋田実季は83歳で没した
その2年前には真田信之が93歳で没している
大坂の陣を戦った人間で生き残っていた大物は徳川頼宣や松平忠輝(蟄居中)ぐらい
彼らでも生まれは秀吉の天下統一以降である
実季こそ秀吉の天下統一前の時代を知る最後の人間と言っても過言ではないだろう
ちなみに「秋田実季、そのトラブルの連続」 URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)に登場した他の大名家の当主の移り変わりはこうなっている
秋田家:実季→俊季→盛季
戸沢家:盛安→光盛→政盛→正誠
南部家:信直→利直→重直
津軽家:為信→信枚→信義→信政
最上家:義光→家親→義俊(改易)→義智(寄合旗本)
仙台伊達家:政宗→忠宗→綱宗→綱村
芸州浅野家:長政→幸長→長晟→光晟
肥後細川家:忠興→忠利→光尚→綱利
由比正雪の乱ですらもう10年近く前の話
伊達騒動が勃発するのはこの11年後
上には上がいるとはいえいかに実季が長生きだったかがよくわかる

71:人間七七四年
15/12/02 23:06:37.84 LgiqV54Z.net
泳いで参ったの人も長生きだぞ!って1655年没か。
どうでもいいけど、宇喜多秀家って活動範囲が広すぎ。
紀州征伐、四国征伐、九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役
関ヶ原、薩摩へ逃亡、駿河久能山へ幽閉、八丈島へ島流し等。
生涯に移動した距離は戦国一では?

72:人間七七四年
15/12/02 23:18:15.97 TC7U/Vtp.net
支倉…

73:人間七七四年
15/12/03 00:37:51.04 n56OW2Q1.net
失火をした家臣を庇うなんていい主君だな

74:人間七七四年
15/12/03 02:07:07.72 qBLGZ1M9.net
寺沢家に仕えた池田市郎兵衛は度々戦功のあった人で、黒田家や細川家にも
望まれた人である。(URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com))
彼の清節は世人の及ぶところではなかった。
池田は常に隣家などへ行く時でも鎖具足と2,3日分の兵糧を挟箱に入れて持たせた。
夜寝る時には上から糸を下げて、枕元まで槍を吊っておいたのである。槍を取る時は
糸が切れてまったく支障がない。池田の平生の心がけは万事この類であった。
―『明良洪範』
武具を吊っておくといいという話ってちょいちょいあるんですな。
(URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com))

75:人間七七四年
15/12/03 09:17:46.96 UTzrdV/G.net
ダモクレス「そうだな」

76:人間七七四年
15/12/04 00:31:37.50 4kp9LciP.net
あれ?この話どこかで・・・牛の置物
島津の殿様(忠恒)は朝から機嫌が悪かった。
「だれかある」
小姓があわてて殿様の前に出てきました。
「あれを見い。床の間の置物を見い!」殿様は怒鳴った。
小姓は「おお、これは、えらいことになったぞ」と思いました。
牛の置物が大きく壊れていたのだ。
この置物は佐賀藩から贈られた陶器の牛で中国から渡来したものであった。
殿様はこの陶器がことのほかお気に召し、この焼き物を眺めながらお茶を飲まれるのであった。
その牛の置物の尻が大きく壊れているのであった。
「牛の置物を壊したのはそちか」
「いいい、いいえ、わたくしではござりませぬ」
「誰がいたしたのじゃ」
「わわわ、わたくしめには、わわわ、わかりませぬ」殿様の怒りがあまりに激しい為、言葉もすらすら出てこない。
「重役を呼べ!」
「はははっ!」
重役たちが恐る恐る御前に出ると、
「この牛の尻を見い!」と殿様は大きな声で怒鳴った。
重役たちも答えようがなく「ははあ!」と頭をさげただけだ。
「牛の尻をこのようにしておきながら、黙っているとは不届きな奴じゃ。手討ちにしてくれる。呼び出してまいれ!」
手討ちにされるのに「わたしが壊しました」と名乗り出てくる者はいない。
重役たちも手討ちになるのは気の毒ことだと思っていたので、熱心に犯人を捜そうとはしなかった。
時間を稼ぎ、殿様の怒りが静まるのを待っていたのだ。
ところが殿様はますますいらいらして、
「何をぐずぐずいたしておる!この部屋に入って来る者は決まっているはずじゃ。限られた者の中から
犯人を捜すのにこのように時間をかけるとは、まことに能力のないでくの坊ぞろいじゃ!」
犯人を探し出せば、お手討ちになるし、探し出さなければ殿様のそばに仕える者たちが罰を受けるかもしれない。
困った重役たちはある人物にこの一件を頼み込むことにした。
少しして、侏儒どんこと徳田大兵衛が殿様の前にまかりでた。
殿様は侏儒どんの顔を見ると、
「この牛を見てみい。情けない姿じゃ」と怒りが収まらず大きな声で言うのであった。
「まことに、醜い牛とあいなりました。牛も尻が欠けると仰せのように情けない姿でございます」
侏儒どんも負けない様に大きな声で言うのであった。
「腹が立って、腹が立って、たまらぬのじゃ」
「わたくしも、一目見ただけで、腹が立ってまいりました」
「まことにもって、ふとどきなやつじゃ」
すると侏儒どんは、つかつかと牛の置物のところに歩み寄った。
「殿様、かかるふとどきものは、厳しく処分いたさぬと癖がつきます」
「厳しく処分いたすつもりじゃ」
「いえいえ、殿様のお手をわずらわすまでもございませぬ。わたくしが処分いたしまする」
と侏儒どんは牛の置物を両手につかんで、頭よりも高く持ち上げた。そして、
「殿様の御前に醜い尻をさらしおって、この無礼者め消えうせろ!」
と叫ぶや否や、牛の置物を庭石めがけて力いっぱいなげつけた。
ガッシャーン
牛の置物は木っ端微塵に砕けてしまった。
殿様も、あまりのことに怒りも忘れて、ただ仰天するばかりであった。
(参考 椋鳩十全集24『日当山侏儒物語』など)
家久(悪)、唐代の牛の焼物を壊されて
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
こちらだと、中馬大蔵重方がその役割ですな。

77:人間七七四年
15/12/04 13:41:54.43 jcpUOsPd.net
ある時、石田三成の将・島左近の家士に罪科があり、下河原平太夫は左近の眼前で
放し討ちするように言い付けられた。
しかし、下河原は勇者であったがどうしてなのか切り損じ、かの者は負傷しながらも
走り出た。その時、大山伯耆という未だ弱冠にも及ばなかった者が次の間に居合わせ、
かの者を組み止めて刺し殺した。
伯耆は、「これほどの事を、私に内意を知らせて下さらないとは遺恨である」
と言い捨てて、門外に出た。「かの罪科人の父と弟は遠所にいる。きっと刺客が
向かうに違いない。その一部始終にも加わろう」と伯耆は思い、その地へ赴いた。
しかし伯耆は思い巡らせて、「本道は刺客が遮るはずだ。もし彼ら親子がこれを
知って逃れ走るとすれば、きっと脇道であろう」と考え、急いで脇道へ向かった。
案の定、刺客が向かう前に親子はこの事を漏れ聞き、僕も伴わずに父は馬上で、
子は徒歩で脇道から逃れていた。そこへ行き会った伯耆は2人がそうだと見て、
「まず、父を斬るか子を斬るか。父を斬れば、子は見捨てて逃げるかもしれない。
だが、子を斬れば父は絶対に逃げまい。それに馬上の父を斬れば、徒立ちの子は
素早く身構えて戦えるが、子を先に斬れば父は馬から降り立つせいで隙があろう」
と分別した。伯耆は2人の側を過ぎざまに抜き打ちして、まず子を斬り殺した。
そして、父が馬から飛び降りるところを走り寄り、父をもまた、たちどころに
斬り殺した。この時、伯耆は軽傷一つすら負わなかった。
親子3人をまんまと討つことができたのは、例の少ない手柄である。下河原は自分が
言い付けられた者を仕損じたが、人々はむやみに謗らなかった。彼には年来たびたびの
武功があったためである。伯耆は後に三成の直参となり、島に劣らぬ勇将となった。
―『武将感状記』

78:人間七七四年
15/12/04 14:14:32.59 nRQNg9c0.net
マジかよ時継最低だな

79:人間七七四年
15/12/04 23:04:06.53 p1W24k5C.net
念契にまつわる何か
「チョイといい話」
というのを聞かせて貰えぬか?

80:人間七七四年
15/12/05 11:08:38.93 XxQWIDmT.net
秀吉、長篠戦であわやの判断ミス
学研「戦国武心伝」竹中半兵衛によると
長篠戦の序盤、武田勢は織田勢左翼へ動く素振りを見せた
これを見て羽柴秀吉は谷大膳(衛友)の進言を容れて左翼への移動を命じた
ところが半兵衛は武田勢が一時退却するものと読み迂闊に持ち場を離れるべきではないと
主張していた(このことで谷と激しい口論になった)ので秀吉の命を無視した
結果は半兵衛の予測どおりになったので秀吉も元の持ち場に戻ってきた
谷は面目を大いに失ったが半兵衛は勝ち誇るような態度を見せなかったという
(元ネタは『太閤記』巻十八「竹中半兵衛尉」)
この逸話から伺えること
・半兵衛の立場はあくまでも信長の家来であって秀吉の寄騎であり直臣ではない
・時と場合によれば秀吉の命令を無視できる立場だった
・秀長や蜂須賀・谷・神子田・尾藤たち羽柴の武将連に意見できる立場だったこと
竹中半兵衛が「今孔明」と言われた読みの鋭さ、羽柴軍団での地位の高さが伺える話
ついでに秀吉の野戦不得手ぶりも垣間見える話だと思う

81:人間七七四年
15/12/05 16:43:51.34 XxQWIDmT.net
半兵衛、宮田光次を引き合いに秀吉を窘める
天正7年、秀吉は家臣を集めて酒宴を開いた時のこと
上機嫌だった秀吉は「我が家の弓矢の勢は、昔に比べて随分盛んになったと思わんか」と家臣団に問うた
家臣たちは「三倍になりました」「五倍になりました」と述べた
有頂天の秀吉は「いやいや十倍になった」と大笑いした
これに対して秀吉の参謀だった竹中半兵衛は「弓矢、昔に劣れり」と反論
秀吉が驚いて半兵衛を問い詰めると半兵衛「宮田喜八死して以来甚だ劣れり」と述べた
これを聞き秀吉は三木城攻めで討ち死にした勇将・宮田光次(羽柴四天王の一人)のことを思いだし
「半兵衛の申すとおりだ」と言って嘆息を漏らしたという
(『名将言行録』)
半兵衛が病死する前年の話
半兵衛にすれば秀吉の慢心や驕りに対する危惧の念をこの時期から抱いていたのだろうか
後年半兵衛の危惧は的中するがそれは半兵衛が死んでからかなりの時間が経ってからのこと
ちなみに宮田光次は後年「太閤の臣に宮田喜八とて武勇第一の人あり」(老人雑話)と言われた武勇の士
秀吉に仕えていた時期は5年程度だったが羽柴四天王の中で最も秀でてたという
市松や虎之助とかがまだまだ出てこない時期であり宮田を喪ったことがいかに羽柴軍団にとって
大きいダメージだったかを半兵衛は言いたかったのだろう

82:人間七七四年
15/12/05 17:50:19.10 4KviSj0O.net
最上義光の新資料確認 県立図書館、所蔵の和装本4点11冊
県立図書館は4日、山形城主・最上義光(1546〜1614年)に関する和装本を新たに確認したと発表した。
著作者不明の「最上義光物語」を書き写した同館所蔵の4点(11冊)などで、著作者とされる人物を記していたり、流布本にはない記述がみられたりする資料。
書写時期は江戸末期から明治時代と推測され、5〜13日に同館で特別展示し紹介する。
県立図書館は本年度、郷土資料のデジタル化作業を進めている。
片桐繁雄元上山市立図書館長、新藤透米沢女子短期大准教授の協力を得て、本県関係の241点の中から67点をデジタル化対象候補に選定した。
このうち最上義光の資料については、義光の研究に当たる山形大人文学部の松尾剛次教授(日本中世史)が分析し、その作業過程で和装本を確認した。
4日に記者会見を開き板垣裕治館長、松尾教授が説明した。
4点は「義光物語 全」(1冊)「最上義光物語全」(1冊)「最上物語一〜六」(6冊)「最上盛衰記」(3冊)。
これらは1959(昭和34)年に購入した記録は残っていたものの、詳細な内容は明らかになっていなかった。
「義光物語 全」は、最上義光物語の著作者に関する記載があり、家臣の八鍬孫九郎との説を伝えている。
また「最上盛衰記」は46話で構成。一般的な25話を上回っており、
義光が謀殺したとされる谷地城主・白鳥十郎長久に関する細かな記述、各地であった戦の話など、流布本にはない記載がみられるのが特徴。
松尾教授は「そもそも原本には細かい話が書かれていたと推測される。
だがあまりにローカルな内容のため、次第に省かれていった経緯があるのではないか。
原本を知る上で貴重な資料」との見解を示している。
義光関連以外でも、米沢藩初代藩主・上杉景勝に関する「景勝公御武功記 全」などの資料5点も確認した。
これらの一部を県立図書館1階県人文庫で展示する。
板垣館長は「来年度中にはデジタル作業を終え、多くの人がホームページなどで閲覧できるようにしたい」と話している。
山形新聞社
URLリンク(headlines.yahoo.co.jp)

83:人間七七四年
15/12/05 19:35:55.18 XxQWIDmT.net
>>80を投稿した者ですが谷大膳は衛友の父の衛好のことでした
この衛好は後に三木合戦で戦死しています
そのついでと言っては何ですが息子の谷出羽守衛友が加藤清正と喧嘩になった時の話を一つ
ある時加藤清正は家臣を追放してしかも奉公構にした。その家臣は谷衛友を頼り衛友はその家臣を許すよう清正と直談判した。
しかし清正は丹波山鹿の小大名にすぎない衛友の意見を聞き入れない。衛友は清正の態度に怒り一喝して清正に詰め寄り
その膝を抑えて身動きできなくしてから脇差に手をかけて互いに睨みあったという。(武功雑記)
何しろラスボス化した後年の秀吉にも媚びることをしなかった全身肝っ玉人間だから清正相手に遠慮するわけもなく…
ちなみにこの件で清正は「喧嘩ハ下手ナリ」(武功雑記)と言われてる
ただし「肥後守(清正)はかような匹夫の勇などのような事はこれなく候」とも弁護されている

84:人間七七四年
15/12/05 20:08:31.85 RRIpbce0.net
>>81
残念ながら既出
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

85:人間七七四年
15/12/06 10:01:18.35 FENVfXfB.net
>>82
>流布本にはない記載
σ (´・ω・`)の新しい黒歴史が出て来たか!

86:人間七七四年
15/12/06 17:21:21.40 j/u/LyDv.net
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87:人間七七四年
15/12/06 18:51:57.80 pR+7aHjN.net
水野家の関ヶ原後の恩賞
関ヶ原後に水野勝成に対して加増はなかったが
水野勝成の弟2人に各1万石の加増があった。
関ヶ原の前年に徳川家康の仲介で水野勝成が水野家に復帰した
そして関ヶ原の直前に水野家当主である
水野忠重の暗殺によって水野家の家督争いが勃発仕掛けたが
丁度その時に関ヶ原の戦いになった。
水野勝成は関ヶ原の戦いに直接参戦せずに
大垣城攻略に廻された
その際に九州3武将の調略をして無事に大垣城を落城させ
父忠重の仇を倒した
その後の恩賞は勝成自身じゃなく弟2人に各1万石を与えられた
これは家康のファインプレーである。
この事により水野家の家督争いが無事に解決できたのである。

88:人間七七四年
15/12/06 23:42:09.83 9XhrOBxl.net
ここまで丁寧に説明してくれる人がいる事と
それまでの無知全開の流れに良くも悪くもこのスレらしいなと思うのです

89:人間七七四年
15/12/07 12:44:29.40 asqd5g/2.net
斎藤山城守(道三)は、山崎の油商の子であった。この父が、妻を連れて美濃に移住し、そこで
山城守を産んだ。そして土岐(美濃国主)に取り行って仕えていたが、土岐氏は末に至り、国も乱れる中、
どのようにしたのか、遂に美濃の国主となった。その時の落書に
 ときはれと のりたちもせず四の袴 三のはやぶれてひとのにぞなる
と云ったそうだ、彼は信長の舅であった。
(老人雑話)
斎藤道三二代説、老人雑話にとっくに出ていたんですね。

90:人間七七四年
15/12/07 18:58:49.88 AkyL+Tr5.net
 ひざ割大燈の一軸を小堀遠州のある家臣が所持していたところ、遠州公が御所望とのことで三百石の知行で贈呈した。
遠州公はこの一軸を殊の外大切になされていた。
 
 ある年遠州公の館で口切の茶会があり、そのときのお客は加州公であった。
中立の時間が迫ると、加州公は掛物を巻いて懐中に入れて席を立たれ、にじり上って部屋から出ようとなされた。
それを遠州はみつけて取り返そうとすぐさま部屋から出て追いかけなさったところ、加州公は石に躓いて膝頭にお怪我をなされた。
その後すぐに加州公は館に帰られたそうである。
明くる日、加州公は車三両に銀子を積んで、掛物のお礼を差し上げられた。
そこで今はひざ割大燈は加州公のお家の名物となったという。
(本阿弥行状記)
ひざ割大燈とは、いったいどんな掛け軸なのですかね

91:人間七七四年
15/12/07 20:41:16.55 f3damUoR.net
なぜどいつもこいつも茶道具をサラっとパクろうとするのか

92:人間七七四年
15/12/07 21:45:22.10 ortMqA78.net
徳川三代将軍・家光は梅の盆栽を熱愛するあまり、「もしこれを傷つける者が
いれば、すぐさま手打ちにする」との旨を、厳しく言い渡した。
ところが、大久保忠敬(忠教。彦左衛門)がその梅を殊更に傷つけて主君の
反省を促した。家光は自分の非を悟り、鉢を庭に捨てようとした。
その時、松前家当主・公広が伺候してその場にいたのだが、彼は特に請うて
その梅を拝領した。公広は江戸の藩邸にこれを埋めて“棄鉢の梅”と名付け、
後に居城福山に移植した。
現在、福山公園(松前公園)にある臥龍梅はすなわちこれであると伝えられる。
―『北海道の口碑伝説』
その梅がこちら。
URLリンク(archives.c.fun.ac.jp)

93:人間七七四年
15/12/09 01:25:51.65 Zkj0mP/2.net
 『すべて孝心無くては物事は先行しない』、と申すこと天理の自然が尊く恐ろしいことである。
 家光公の代に本丸に東照宮を建立されたとき、大御所様(秀忠公)の御目障りにならぬように甚だ小さい祠になさったことは、
家光公の家督相続はひとえに権現様のおかげなので、格別に御崇敬なされたといえども、また父君へ御遠慮からのことであり、もっともな孝心であります。
勿論、秀忠公も至って孝心を持っているが、本丸に御宮を勧請なさることはなかったので、
家光公は孫君ゆえ父君へ御沙汰が無いようにとの配慮なされましたとのことであります。
その東照宮は後に紅葉山へ遷座されました。
(本阿弥行状記)

94:人間七七四年
15/12/10 02:04:42.19 9nbKXfmu.net
蒲生の家老・田丸中書(直昌)が伊勢国の長井というところを押領した時、
入道円通庵と田丸の家来・村山半八が槍を合わせた。
円通庵の槍は5本にも10本にも見えて、半八は負けそうにばかり見えたが、
最後には半八が円通庵に槍を付けて首を取った。
「武功の者の槍は“地神”や“荒神”といって、多数に見えるものである」と、
老功の者たちは言ったそうである。
(武功の者の鑓は地神荒神とて数に見ゆるものなりと。老功の者共申候由。)
―『武功雑記』

95:人間七七四年
15/12/11 02:09:45.15 eZBB58jF.net
天正8年秋、富山では長雨が連日止まず、大いに出水した。
旧来、神通川は呉服山の麓を流れたが、この時から河身は東に転じ、
富山城の後ろに傾注したという。
また常願寺川も氾濫して富山城を浸し、家屋は漂流して人馬の溺死も
数え切れなかった。城主・佐々成政は大いにこれを憂いて、その後の
水患を除こうと望み、被害地を巡検して大いに治水に力を尽くした。
成政は馬を馬瀬口に進めて自ら人夫を指揮し、土石を運搬させ、
記念として巨岩に自分の氏名を刻み、これを河底に埋めて、その上に
堅固な石堤(敷石25間)を築いた。
また新たに洪水のために分派した支川を鼬川と名付け、原野を開墾して
禾穀を植えさせた。
―『富山市史』

96:人間七七四年
15/12/14 21:28:26.05 M3Jj7P8F.net
大坂の役でも先鋒として活躍した脇坂安元は当時、武家第一の歌人でもあった。
寛永の頃、幕府が諸家の系図を召した特、彼が提出したものは、祖父の代より記したもので、その初めに
『北南 それとも知らず此糸の ゆかりばかりの末の藤原』
(北家か南家か、その他京家、式家の何れとも知れませんが、たまたま藤原氏の末裔を名乗っております)
そう書いて提出した。これを見た将軍家光は大変感心したそうである。
(藩翰譜)

97:人間七七四年
15/12/14 21:37:19.43 /uHFtuBT.net
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
既出だが出典はなかったようだ


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