戦国ちょっといい話43 [転載禁止]©2ch.net at SENGOKU
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50:人間七七四年
15/11/29 08:00:19.40 U5u6YrIq.net
婿攻めに力を入れる非道な家康という汚名を着せるんじゃねーよ

51:人間七七四年
15/11/29 08:12:49.76 troKPAW1.net
一柳直末とか本多忠朝とか圧倒的な勝ち戦で討ち死にするのは何か恥ずかしい

52:人間七七四年
15/11/29 09:07:05.07 Kssy/nen.net
織田信長のちょっといい話
邪魔な弟は殺害。
子供たちを次々と名家へ養子に送り込み、その家を乗っ取る。
浅井・朝倉の頭蓋骨に金メッキを塗って、みんなで眺めながら酒を飲む。
(杯にしたという説もあり)
生意気なお寺は言うまでもなく攻撃対象。
長年忠誠を尽くした家臣も利用価値が無くなれば追放。
将軍だって言うに及ばず。

53:人間七七四年
15/11/29 15:13:54.22 4WwTOpEe.net
>>51
その二人の戦死を一括りで語るのはちょっと違うとも思うけど

54:人間七七四年
15/11/29 17:56:04.54 e0erDwHE.net
蘆名盛高の旗本であった猪苗代某は、当時14,5歳の美少年であり、新國藤兵衛と言う者と知音であった。
両者は談合して、盛高が羽黒に向かって留守の間に、若松の城を乗っ取った。
しかし盛高は帰ってその夜のうちに取り返した。上記の両人も城中にて打ち取り、その他の者たちも
撫で斬りにした。盛高の武勇は世の常にあらずと、人々は皆感じ入った。
この時、原田如礫と言う者、盛高に従い「今夜は頸3つほど取る!」と宣言し、結果その言葉の
通りであった。この如礫は会津三千騎の内でも無双の勇士であり、常にこのように言っていた
「総じて、合戦の場に挑んで人の集まっている所に向かうから手柄を致さぬのだ。
わたしはそういう時は、人の寄り付かぬ方に向かうようにしている。」
ある時、足軽を殺して立て籠もった者があった。人々が取り扱いかねた所に、如礫行って、
自分の太刀を縄にくくりつけて、立て籠もっている者に投げ渡し、話しかけた
「この上は安心して私を近づけよ!その方の誤りなき理由を聞かせよ!」
かの者も同心し、彼を近づけた、如礫はその所で踏み込み、これを召し捕った。
(武功雑記)
会津蘆名盛高の人間兵器のような主従についてのお話

55:人間七七四年
15/11/30 03:04:13.42 J6leepVc.net
 源氏物語は和国の奇筆である。細川玄旨法印(藤孝)の扈従に、宮木善左衛門孝庸という武士が、因州の牧に仕えなさっておられる。
私は若年の時から彼に随っていて、委細を伝授してもらった。慣例通りに、口伝での共有であった。
 あるときのこと、孝庸は玄旨法印に世間で便なる書は何を第一にするべきか、と尋ねなさったら、源氏物語と答えなさった。
また歌学の博覧の第一の物はと問いなさったら、同じく源氏と答えなさった。
玄旨法印からは何もかも源氏で済むことだと承った。源氏を百偏つぶさに見たものは、歌学が成就すると仰られた
と、孝庸は私に語られたことがある。
(本阿弥行状記)

56:人間七七四年
15/11/30 04:01:46.72 dM7cB86d.net
井伊直孝曰く、
「若年の時は一旦のことに迷い、理非のわきまえもなく、是非とも自分の
心のままにしようと思うことがあるものだ。
その時、父母兄弟朋友の意見によって心を取り直し、正道に帰る者もいる。
一方で、強情で意見を用いず、悪名を得てその身を滅ぼす者もいる。
この時が一生の吉凶の浮き沈みである。一旦の怒りで主君父母の恩を忘れ、
一門の名を穢すことは非義の至りであるからよくよく覚悟すべきことである」
―『松のさかへ(井伊直孝公御夜話)』

57:人間七七四年
15/12/01 03:19:13.97 o9Mt8xQ8.net
>>54
盛高さんってただのホモだと思ってたけど
武勇伝

58:人間七七四年
15/12/01 12:13:30.38 qaNYrNrp.net
それは"隆"さんでは
"高"さんが城を乗っ取られたことがあるかは知らないけど

59:人間七七四年
15/12/01 16:46:34.57 NTZPLXHk.net
ここが詳しい
URLリンク(bushomemo.blog.fc2.com)

60:人間七七四年
15/12/01 23:30:46.51 getXXJuT.net
松島の雲居和尚が夜の山で山賊どもに捕まったときの話。
山賊「坊主、金を置いていけ」
雲居「ワシはこの地の者で、遍歴の僧ではない。
   なので金銀は持ち歩いておらぬ。
   着物をやるから、命は助けてくれ」
山賊「無駄な者を捕らえてしまった。
   着物など金にはならぬ。
   とっとと行け」
と言って解放した。
一町ほど行ったところで雲居は引き返し、山賊のところへ戻り、
雲居「ワシは妄語戒を破ってしまった。
   銀がひとつ、巾着に入っていた。
   それを、うろたえて忘れていて、
   金銀など持っていないと言ったのがとても悔しい。
   この銀を受け取ってくれ」
と言った。
山賊は心を打たれ、その場で仏弟子となったそうである 【葉隠】

61:人間七七四年
15/12/01 23:50:59.82 Vw1VRYYz.net
偸盗戒やら蓄金銀宝戒やらはええのんかい

62:人間七七四年
15/12/02 09:43:47.95 qC7qXKAK.net
とにかく、けが無くって良かったんじゃね?
あれ?いつのまにか、お茶が置いてあるぞ?

63:人間七七四年
15/12/02 11:45:25.13 YtZOMAhh.net
>>60
葉隠大好きのキチガイさんよ
どこが戦国の話なんだい?お前は消えろよ

64:人間七七四年
15/12/02 12:25:14.17 LaNv7O+N.net
>>63
この出来事が寛永10年とされている。島原の乱が寛永14年。まあいいんじゃないかな?

65:人間七七四年
15/12/02 14:13:35.32 YtZOMAhh.net
龍造寺、鍋島の話ならともかく誰?坊さん?
死ねよ

66:人間七七四年
15/12/02 14:35:44.52 dQX6l5/j.net
別に武士だけの逸話をあげる場所ってわけでもないからねえ

67:人間七七四年
15/12/02 16:48:16.42 YtZOMAhh.net
名無しに用はない。消えろ。

68:人間七七四年
15/12/02 18:59:58.04 LaNv7O+N.net
大坂の陣の陣触れがあった時、伊達政宗は嘉例であるとして、仙台より七里出た所で
最初の宿所をとった。ところがその場所に到着した時分、そこに火事が出た。
ここで政宗は日比の山伏の格好をして貝を吹かせ、「さあ、鬨の声をあげよ!」と
軍勢に声を上げさせると
「なんとめでたい事だろうか!我の行く先、火の手が上がりたる!」
そう言って機嫌よく、次の在所にて宿泊した。
(武功雑記)
何故政宗は山伏のコスプレをしていたのか。

69:人間七七四年
15/12/02 19:33:24.71 0liDb3C6.net
吉野の花見のつもりじゃねぇか?

70:人間七七四年
15/12/02 22:39:09.32 lsnV0mh3.net
桶狭間の戦いから丁度100年経った1660年
伊勢朝熊で蟄居中の秋田実季は83歳で没した
その2年前には真田信之が93歳で没している
大坂の陣を戦った人間で生き残っていた大物は徳川頼宣や松平忠輝(蟄居中)ぐらい
彼らでも生まれは秀吉の天下統一以降である
実季こそ秀吉の天下統一前の時代を知る最後の人間と言っても過言ではないだろう
ちなみに「秋田実季、そのトラブルの連続」 URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)に登場した他の大名家の当主の移り変わりはこうなっている
秋田家:実季→俊季→盛季
戸沢家:盛安→光盛→政盛→正誠
南部家:信直→利直→重直
津軽家:為信→信枚→信義→信政
最上家:義光→家親→義俊(改易)→義智(寄合旗本)
仙台伊達家:政宗→忠宗→綱宗→綱村
芸州浅野家:長政→幸長→長晟→光晟
肥後細川家:忠興→忠利→光尚→綱利
由比正雪の乱ですらもう10年近く前の話
伊達騒動が勃発するのはこの11年後
上には上がいるとはいえいかに実季が長生きだったかがよくわかる

71:人間七七四年
15/12/02 23:06:37.84 LgiqV54Z.net
泳いで参ったの人も長生きだぞ!って1655年没か。
どうでもいいけど、宇喜多秀家って活動範囲が広すぎ。
紀州征伐、四国征伐、九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役
関ヶ原、薩摩へ逃亡、駿河久能山へ幽閉、八丈島へ島流し等。
生涯に移動した距離は戦国一では?

72:人間七七四年
15/12/02 23:18:15.97 TC7U/Vtp.net
支倉…

73:人間七七四年
15/12/03 00:37:51.04 n56OW2Q1.net
失火をした家臣を庇うなんていい主君だな

74:人間七七四年
15/12/03 02:07:07.72 qBLGZ1M9.net
寺沢家に仕えた池田市郎兵衛は度々戦功のあった人で、黒田家や細川家にも
望まれた人である。(URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com))
彼の清節は世人の及ぶところではなかった。
池田は常に隣家などへ行く時でも鎖具足と2,3日分の兵糧を挟箱に入れて持たせた。
夜寝る時には上から糸を下げて、枕元まで槍を吊っておいたのである。槍を取る時は
糸が切れてまったく支障がない。池田の平生の心がけは万事この類であった。
―『明良洪範』
武具を吊っておくといいという話ってちょいちょいあるんですな。
(URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com))

75:人間七七四年
15/12/03 09:17:46.96 UTzrdV/G.net
ダモクレス「そうだな」

76:人間七七四年
15/12/04 00:31:37.50 4kp9LciP.net
あれ?この話どこかで・・・牛の置物
島津の殿様(忠恒)は朝から機嫌が悪かった。
「だれかある」
小姓があわてて殿様の前に出てきました。
「あれを見い。床の間の置物を見い!」殿様は怒鳴った。
小姓は「おお、これは、えらいことになったぞ」と思いました。
牛の置物が大きく壊れていたのだ。
この置物は佐賀藩から贈られた陶器の牛で中国から渡来したものであった。
殿様はこの陶器がことのほかお気に召し、この焼き物を眺めながらお茶を飲まれるのであった。
その牛の置物の尻が大きく壊れているのであった。
「牛の置物を壊したのはそちか」
「いいい、いいえ、わたくしではござりませぬ」
「誰がいたしたのじゃ」
「わわわ、わたくしめには、わわわ、わかりませぬ」殿様の怒りがあまりに激しい為、言葉もすらすら出てこない。
「重役を呼べ!」
「はははっ!」
重役たちが恐る恐る御前に出ると、
「この牛の尻を見い!」と殿様は大きな声で怒鳴った。
重役たちも答えようがなく「ははあ!」と頭をさげただけだ。
「牛の尻をこのようにしておきながら、黙っているとは不届きな奴じゃ。手討ちにしてくれる。呼び出してまいれ!」
手討ちにされるのに「わたしが壊しました」と名乗り出てくる者はいない。
重役たちも手討ちになるのは気の毒ことだと思っていたので、熱心に犯人を捜そうとはしなかった。
時間を稼ぎ、殿様の怒りが静まるのを待っていたのだ。
ところが殿様はますますいらいらして、
「何をぐずぐずいたしておる!この部屋に入って来る者は決まっているはずじゃ。限られた者の中から
犯人を捜すのにこのように時間をかけるとは、まことに能力のないでくの坊ぞろいじゃ!」
犯人を探し出せば、お手討ちになるし、探し出さなければ殿様のそばに仕える者たちが罰を受けるかもしれない。
困った重役たちはある人物にこの一件を頼み込むことにした。
少しして、侏儒どんこと徳田大兵衛が殿様の前にまかりでた。
殿様は侏儒どんの顔を見ると、
「この牛を見てみい。情けない姿じゃ」と怒りが収まらず大きな声で言うのであった。
「まことに、醜い牛とあいなりました。牛も尻が欠けると仰せのように情けない姿でございます」
侏儒どんも負けない様に大きな声で言うのであった。
「腹が立って、腹が立って、たまらぬのじゃ」
「わたくしも、一目見ただけで、腹が立ってまいりました」
「まことにもって、ふとどきなやつじゃ」
すると侏儒どんは、つかつかと牛の置物のところに歩み寄った。
「殿様、かかるふとどきものは、厳しく処分いたさぬと癖がつきます」
「厳しく処分いたすつもりじゃ」
「いえいえ、殿様のお手をわずらわすまでもございませぬ。わたくしが処分いたしまする」
と侏儒どんは牛の置物を両手につかんで、頭よりも高く持ち上げた。そして、
「殿様の御前に醜い尻をさらしおって、この無礼者め消えうせろ!」
と叫ぶや否や、牛の置物を庭石めがけて力いっぱいなげつけた。
ガッシャーン
牛の置物は木っ端微塵に砕けてしまった。
殿様も、あまりのことに怒りも忘れて、ただ仰天するばかりであった。
(参考 椋鳩十全集24『日当山侏儒物語』など)
家久(悪)、唐代の牛の焼物を壊されて
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
こちらだと、中馬大蔵重方がその役割ですな。

77:人間七七四年
15/12/04 13:41:54.43 jcpUOsPd.net
ある時、石田三成の将・島左近の家士に罪科があり、下河原平太夫は左近の眼前で
放し討ちするように言い付けられた。
しかし、下河原は勇者であったがどうしてなのか切り損じ、かの者は負傷しながらも
走り出た。その時、大山伯耆という未だ弱冠にも及ばなかった者が次の間に居合わせ、
かの者を組み止めて刺し殺した。
伯耆は、「これほどの事を、私に内意を知らせて下さらないとは遺恨である」
と言い捨てて、門外に出た。「かの罪科人の父と弟は遠所にいる。きっと刺客が
向かうに違いない。その一部始終にも加わろう」と伯耆は思い、その地へ赴いた。
しかし伯耆は思い巡らせて、「本道は刺客が遮るはずだ。もし彼ら親子がこれを
知って逃れ走るとすれば、きっと脇道であろう」と考え、急いで脇道へ向かった。
案の定、刺客が向かう前に親子はこの事を漏れ聞き、僕も伴わずに父は馬上で、
子は徒歩で脇道から逃れていた。そこへ行き会った伯耆は2人がそうだと見て、
「まず、父を斬るか子を斬るか。父を斬れば、子は見捨てて逃げるかもしれない。
だが、子を斬れば父は絶対に逃げまい。それに馬上の父を斬れば、徒立ちの子は
素早く身構えて戦えるが、子を先に斬れば父は馬から降り立つせいで隙があろう」
と分別した。伯耆は2人の側を過ぎざまに抜き打ちして、まず子を斬り殺した。
そして、父が馬から飛び降りるところを走り寄り、父をもまた、たちどころに
斬り殺した。この時、伯耆は軽傷一つすら負わなかった。
親子3人をまんまと討つことができたのは、例の少ない手柄である。下河原は自分が
言い付けられた者を仕損じたが、人々はむやみに謗らなかった。彼には年来たびたびの
武功があったためである。伯耆は後に三成の直参となり、島に劣らぬ勇将となった。
―『武将感状記』

78:人間七七四年
15/12/04 14:14:32.59 nRQNg9c0.net
マジかよ時継最低だな

79:人間七七四年
15/12/04 23:04:06.53 p1W24k5C.net
念契にまつわる何か
「チョイといい話」
というのを聞かせて貰えぬか?

80:人間七七四年
15/12/05 11:08:38.93 XxQWIDmT.net
秀吉、長篠戦であわやの判断ミス
学研「戦国武心伝」竹中半兵衛によると
長篠戦の序盤、武田勢は織田勢左翼へ動く素振りを見せた
これを見て羽柴秀吉は谷大膳(衛友)の進言を容れて左翼への移動を命じた
ところが半兵衛は武田勢が一時退却するものと読み迂闊に持ち場を離れるべきではないと
主張していた(このことで谷と激しい口論になった)ので秀吉の命を無視した
結果は半兵衛の予測どおりになったので秀吉も元の持ち場に戻ってきた
谷は面目を大いに失ったが半兵衛は勝ち誇るような態度を見せなかったという
(元ネタは『太閤記』巻十八「竹中半兵衛尉」)
この逸話から伺えること
・半兵衛の立場はあくまでも信長の家来であって秀吉の寄騎であり直臣ではない
・時と場合によれば秀吉の命令を無視できる立場だった
・秀長や蜂須賀・谷・神子田・尾藤たち羽柴の武将連に意見できる立場だったこと
竹中半兵衛が「今孔明」と言われた読みの鋭さ、羽柴軍団での地位の高さが伺える話
ついでに秀吉の野戦不得手ぶりも垣間見える話だと思う

81:人間七七四年
15/12/05 16:43:51.34 XxQWIDmT.net
半兵衛、宮田光次を引き合いに秀吉を窘める
天正7年、秀吉は家臣を集めて酒宴を開いた時のこと
上機嫌だった秀吉は「我が家の弓矢の勢は、昔に比べて随分盛んになったと思わんか」と家臣団に問うた
家臣たちは「三倍になりました」「五倍になりました」と述べた
有頂天の秀吉は「いやいや十倍になった」と大笑いした
これに対して秀吉の参謀だった竹中半兵衛は「弓矢、昔に劣れり」と反論
秀吉が驚いて半兵衛を問い詰めると半兵衛「宮田喜八死して以来甚だ劣れり」と述べた
これを聞き秀吉は三木城攻めで討ち死にした勇将・宮田光次(羽柴四天王の一人)のことを思いだし
「半兵衛の申すとおりだ」と言って嘆息を漏らしたという
(『名将言行録』)
半兵衛が病死する前年の話
半兵衛にすれば秀吉の慢心や驕りに対する危惧の念をこの時期から抱いていたのだろうか
後年半兵衛の危惧は的中するがそれは半兵衛が死んでからかなりの時間が経ってからのこと
ちなみに宮田光次は後年「太閤の臣に宮田喜八とて武勇第一の人あり」(老人雑話)と言われた武勇の士
秀吉に仕えていた時期は5年程度だったが羽柴四天王の中で最も秀でてたという
市松や虎之助とかがまだまだ出てこない時期であり宮田を喪ったことがいかに羽柴軍団にとって
大きいダメージだったかを半兵衛は言いたかったのだろう

82:人間七七四年
15/12/05 17:50:19.10 4KviSj0O.net
最上義光の新資料確認 県立図書館、所蔵の和装本4点11冊
県立図書館は4日、山形城主・最上義光(1546〜1614年)に関する和装本を新たに確認したと発表した。
著作者不明の「最上義光物語」を書き写した同館所蔵の4点(11冊)などで、著作者とされる人物を記していたり、流布本にはない記述がみられたりする資料。
書写時期は江戸末期から明治時代と推測され、5〜13日に同館で特別展示し紹介する。
県立図書館は本年度、郷土資料のデジタル化作業を進めている。
片桐繁雄元上山市立図書館長、新藤透米沢女子短期大准教授の協力を得て、本県関係の241点の中から67点をデジタル化対象候補に選定した。
このうち最上義光の資料については、義光の研究に当たる山形大人文学部の松尾剛次教授(日本中世史)が分析し、その作業過程で和装本を確認した。
4日に記者会見を開き板垣裕治館長、松尾教授が説明した。
4点は「義光物語 全」(1冊)「最上義光物語全」(1冊)「最上物語一〜六」(6冊)「最上盛衰記」(3冊)。
これらは1959(昭和34)年に購入した記録は残っていたものの、詳細な内容は明らかになっていなかった。
「義光物語 全」は、最上義光物語の著作者に関する記載があり、家臣の八鍬孫九郎との説を伝えている。
また「最上盛衰記」は46話で構成。一般的な25話を上回っており、
義光が謀殺したとされる谷地城主・白鳥十郎長久に関する細かな記述、各地であった戦の話など、流布本にはない記載がみられるのが特徴。
松尾教授は「そもそも原本には細かい話が書かれていたと推測される。
だがあまりにローカルな内容のため、次第に省かれていった経緯があるのではないか。
原本を知る上で貴重な資料」との見解を示している。
義光関連以外でも、米沢藩初代藩主・上杉景勝に関する「景勝公御武功記 全」などの資料5点も確認した。
これらの一部を県立図書館1階県人文庫で展示する。
板垣館長は「来年度中にはデジタル作業を終え、多くの人がホームページなどで閲覧できるようにしたい」と話している。
山形新聞社
URLリンク(headlines.yahoo.co.jp)

83:人間七七四年
15/12/05 19:35:55.18 XxQWIDmT.net
>>80を投稿した者ですが谷大膳は衛友の父の衛好のことでした
この衛好は後に三木合戦で戦死しています
そのついでと言っては何ですが息子の谷出羽守衛友が加藤清正と喧嘩になった時の話を一つ
ある時加藤清正は家臣を追放してしかも奉公構にした。その家臣は谷衛友を頼り衛友はその家臣を許すよう清正と直談判した。
しかし清正は丹波山鹿の小大名にすぎない衛友の意見を聞き入れない。衛友は清正の態度に怒り一喝して清正に詰め寄り
その膝を抑えて身動きできなくしてから脇差に手をかけて互いに睨みあったという。(武功雑記)
何しろラスボス化した後年の秀吉にも媚びることをしなかった全身肝っ玉人間だから清正相手に遠慮するわけもなく…
ちなみにこの件で清正は「喧嘩ハ下手ナリ」(武功雑記)と言われてる
ただし「肥後守(清正)はかような匹夫の勇などのような事はこれなく候」とも弁護されている

84:人間七七四年
15/12/05 20:08:31.85 RRIpbce0.net
>>81
残念ながら既出
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

85:人間七七四年
15/12/06 10:01:18.35 FENVfXfB.net
>>82
>流布本にはない記載
σ (´・ω・`)の新しい黒歴史が出て来たか!

86:人間七七四年
15/12/06 17:21:21.40 j/u/LyDv.net
URLリンク(ninkyou.blogspot.jp)
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87:人間七七四年
15/12/06 18:51:57.80 pR+7aHjN.net
水野家の関ヶ原後の恩賞
関ヶ原後に水野勝成に対して加増はなかったが
水野勝成の弟2人に各1万石の加増があった。
関ヶ原の前年に徳川家康の仲介で水野勝成が水野家に復帰した
そして関ヶ原の直前に水野家当主である
水野忠重の暗殺によって水野家の家督争いが勃発仕掛けたが
丁度その時に関ヶ原の戦いになった。
水野勝成は関ヶ原の戦いに直接参戦せずに
大垣城攻略に廻された
その際に九州3武将の調略をして無事に大垣城を落城させ
父忠重の仇を倒した
その後の恩賞は勝成自身じゃなく弟2人に各1万石を与えられた
これは家康のファインプレーである。
この事により水野家の家督争いが無事に解決できたのである。

88:人間七七四年
15/12/06 23:42:09.83 9XhrOBxl.net
ここまで丁寧に説明してくれる人がいる事と
それまでの無知全開の流れに良くも悪くもこのスレらしいなと思うのです

89:人間七七四年
15/12/07 12:44:29.40 asqd5g/2.net
斎藤山城守(道三)は、山崎の油商の子であった。この父が、妻を連れて美濃に移住し、そこで
山城守を産んだ。そして土岐(美濃国主)に取り行って仕えていたが、土岐氏は末に至り、国も乱れる中、
どのようにしたのか、遂に美濃の国主となった。その時の落書に
 ときはれと のりたちもせず四の袴 三のはやぶれてひとのにぞなる
と云ったそうだ、彼は信長の舅であった。
(老人雑話)
斎藤道三二代説、老人雑話にとっくに出ていたんですね。

90:人間七七四年
15/12/07 18:58:49.88 AkyL+Tr5.net
 ひざ割大燈の一軸を小堀遠州のある家臣が所持していたところ、遠州公が御所望とのことで三百石の知行で贈呈した。
遠州公はこの一軸を殊の外大切になされていた。
 
 ある年遠州公の館で口切の茶会があり、そのときのお客は加州公であった。
中立の時間が迫ると、加州公は掛物を巻いて懐中に入れて席を立たれ、にじり上って部屋から出ようとなされた。
それを遠州はみつけて取り返そうとすぐさま部屋から出て追いかけなさったところ、加州公は石に躓いて膝頭にお怪我をなされた。
その後すぐに加州公は館に帰られたそうである。
明くる日、加州公は車三両に銀子を積んで、掛物のお礼を差し上げられた。
そこで今はひざ割大燈は加州公のお家の名物となったという。
(本阿弥行状記)
ひざ割大燈とは、いったいどんな掛け軸なのですかね

91:人間七七四年
15/12/07 20:41:16.55 f3damUoR.net
なぜどいつもこいつも茶道具をサラっとパクろうとするのか

92:人間七七四年
15/12/07 21:45:22.10 ortMqA78.net
徳川三代将軍・家光は梅の盆栽を熱愛するあまり、「もしこれを傷つける者が
いれば、すぐさま手打ちにする」との旨を、厳しく言い渡した。
ところが、大久保忠敬(忠教。彦左衛門)がその梅を殊更に傷つけて主君の
反省を促した。家光は自分の非を悟り、鉢を庭に捨てようとした。
その時、松前家当主・公広が伺候してその場にいたのだが、彼は特に請うて
その梅を拝領した。公広は江戸の藩邸にこれを埋めて“棄鉢の梅”と名付け、
後に居城福山に移植した。
現在、福山公園(松前公園)にある臥龍梅はすなわちこれであると伝えられる。
―『北海道の口碑伝説』
その梅がこちら。
URLリンク(archives.c.fun.ac.jp)

93:人間七七四年
15/12/09 01:25:51.65 Zkj0mP/2.net
 『すべて孝心無くては物事は先行しない』、と申すこと天理の自然が尊く恐ろしいことである。
 家光公の代に本丸に東照宮を建立されたとき、大御所様(秀忠公)の御目障りにならぬように甚だ小さい祠になさったことは、
家光公の家督相続はひとえに権現様のおかげなので、格別に御崇敬なされたといえども、また父君へ御遠慮からのことであり、もっともな孝心であります。
勿論、秀忠公も至って孝心を持っているが、本丸に御宮を勧請なさることはなかったので、
家光公は孫君ゆえ父君へ御沙汰が無いようにとの配慮なされましたとのことであります。
その東照宮は後に紅葉山へ遷座されました。
(本阿弥行状記)

94:人間七七四年
15/12/10 02:04:42.19 9nbKXfmu.net
蒲生の家老・田丸中書(直昌)が伊勢国の長井というところを押領した時、
入道円通庵と田丸の家来・村山半八が槍を合わせた。
円通庵の槍は5本にも10本にも見えて、半八は負けそうにばかり見えたが、
最後には半八が円通庵に槍を付けて首を取った。
「武功の者の槍は“地神”や“荒神”といって、多数に見えるものである」と、
老功の者たちは言ったそうである。
(武功の者の鑓は地神荒神とて数に見ゆるものなりと。老功の者共申候由。)
―『武功雑記』

95:人間七七四年
15/12/11 02:09:45.15 eZBB58jF.net
天正8年秋、富山では長雨が連日止まず、大いに出水した。
旧来、神通川は呉服山の麓を流れたが、この時から河身は東に転じ、
富山城の後ろに傾注したという。
また常願寺川も氾濫して富山城を浸し、家屋は漂流して人馬の溺死も
数え切れなかった。城主・佐々成政は大いにこれを憂いて、その後の
水患を除こうと望み、被害地を巡検して大いに治水に力を尽くした。
成政は馬を馬瀬口に進めて自ら人夫を指揮し、土石を運搬させ、
記念として巨岩に自分の氏名を刻み、これを河底に埋めて、その上に
堅固な石堤(敷石25間)を築いた。
また新たに洪水のために分派した支川を鼬川と名付け、原野を開墾して
禾穀を植えさせた。
―『富山市史』

96:人間七七四年
15/12/14 21:28:26.05 M3Jj7P8F.net
大坂の役でも先鋒として活躍した脇坂安元は当時、武家第一の歌人でもあった。
寛永の頃、幕府が諸家の系図を召した特、彼が提出したものは、祖父の代より記したもので、その初めに
『北南 それとも知らず此糸の ゆかりばかりの末の藤原』
(北家か南家か、その他京家、式家の何れとも知れませんが、たまたま藤原氏の末裔を名乗っております)
そう書いて提出した。これを見た将軍家光は大変感心したそうである。
(藩翰譜)

97:人間七七四年
15/12/14 21:37:19.43 /uHFtuBT.net
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
既出だが出典はなかったようだ

98:人間七七四年
15/12/15 15:16:54.37 p+/HRPcQ.net
 東照宮が伏見城に居られたとき、増田右衛門尉(長盛)を召されて、
「私達の事はあなたの方にも聞き及ばれている通り、若年のころから鷹狩りが好きなのですが
近年は国元を離れているので、只今は小鷹の一羽も飼っていません。
近々に鷹狩りに出かけたいので、あなた方に取り計らってくれませんか。」
との御上意があった。増田右衛門尉は
「もっともで至極のお考えと畏まってお受けいたします。」
とお請けられた。
 君は太閤様の代では鷹狩りの度にお供された面々へ申し付けて出かけられて、摂州茨木で一夜宿泊されました。
 このような他に上もいないほどの大身であるのに、鷹を一羽も持ちなさらない事の尊さから、君の身持ちを考えることができます。
(本阿弥行状記)

99:人間七七四年
15/12/15 15:25:19.06 SXIZwPjS.net
江戸に置いてきただけじゃ

100:人間七七四年
15/12/15 15:50:11.89 MojCNmAT.net
>>98
裏がありすぎだろw

101:人間七七四年
15/12/15 16:37:59.45 PYoQdxLi.net
鷹狩という物見

102:人間七七四年
15/12/17 02:26:31.03 eAW26nJ1.net
孕石『…』

103:人間七七四年
15/12/17 03:19:56.94 pFfurwkJ.net
ある人が林羅山に問うて曰く、「孝経の、『身体髪膚は父母に受けたり、敢て毀ひ
傷らざるは孝の始なり』というのは、自分の姿形は皆父母の身を分けたものだから、
少しも損ない傷つけないことが孝の始まりであるということだ。
ところが、礼記には『戦陣勇ならざるは孝にあらず』とある。免れて延命すれば
身体を損なわず、勇み進んで戦い死ぬ時は身体を損なうのみならず命をも失う。
これを孝とするとは何ぞや。こうであるのに、2つのどちらを取ろうというのか」
羅山は答えて曰く、「『我が身をつつしんで身体をやぶらず、父母全くして生む、
子全くして帰すべし』。これは姿形だけでなく心にも僻事のないようにという教えだ。
姿形でさえ損なわなければ、このように孝である。ましてや、心ならばなおさらだ。
あるいは、もしも戦いに臨んで死ぬべき時に死ななければ義ではないわけだが、
義をやぶるということは心を損ない傷つけることだ。どうしてそれが孝となるだろう。
中途半端に生きて恥辱をかき、親の名をも汚すのは不孝である。ただし死ぬべき
ではない時に死んでは愚かにして孝ではない。それゆえ、孝と義との2つながらも
背かずに、軽きを捨てて重きを取ることだ。小を捨てて大を取ることである」
―『儒門思問録』

104:人間七七四年
15/12/17 23:27:45.86 N9WvyaUM.net
原田角之丞は土佐の武士で、大坂冬の陣の時は藤堂高虎の郎党小林伊豆の配下だったが、
元は長宗我部家の譜代の臣であったことから、夏の陣では旧主盛親の下に馳せ参じて戦った。
そして首級一つを挙げただけでなく、長宗我部勢が撤退する際には道路の木戸を打ち破って、
置き捨ててあった玉薬の箱を拾い上げ、それを肩に担いで悠々と城中に引き上げてくるという武勇を見せたのである。
大石内蔵助良勝とその弟の信云は、進藤利英(近衛家家臣、内蔵助の妻の弟)から彼の武功を聞き、
浅野内匠頭長直の耳に入れた。
その結果、角之丞は寛永14年に食禄五百石、足軽頭として浅野家に招かれることになった。
さらにその5〜6年後には利英の娘・世牟を娶ることになる。
原田角之丞が玉薬の箱を担いでから87年後の師走の江戸の町に、亡き主君の仇の首級をくくりつけた槍を高々と掲げ、
同志たちとともに泉岳寺を目指す男の姿があった。
赤穂義士・潮田(うしおだ)又之丞高教。角之丞の孫にあたる人物である。
(大石家外戚枝葉伝)

105:人間七七四年
15/12/18 10:29:44.26 N8YCgJZl.net
寝台白布、これを父母に受く、あえて起床せざるは孝の始めなり(´ω`)ムニャムニャ

106:人間七七四年
15/12/19 02:07:29.01 vQ4u5pdt.net
天正7年、羽州比山勢(南部六郎、同七郎らが率いた時)が津軽へ押し入り茶臼館六羽川
で御合戦となった時、味方の弾薬が少ないので、すぐさま大浦城へ人を走らせたところ、
大浦でも蓄えは少なく、どうしたらよいかと慌てふためいた。
その際、夫人(戌姫。仙桃院。津軽為信正室)は多くの女中を集め給いて、錫類の器物を
ことごとく集めて丸を鋳造し、すりこ木を使って自ら合薬を作り、昼夜をかけて本陣に送った
ため、味方は大いに力を得たのであった。
―『津軽記』
仙桃夫人はとてもとても御仁心深く、御智謀も深遠であられて、為信公が御国家を治められた
時に、良く御内政を助けなさった。
桜田宇兵衛(為信公の功臣)の子・又七(後に斎藤平内兵衛とも、また桜田宇兵衛ともいう)や
折笠与七の子供などを慈しみなされ、皆を広敷に迎えて御長屋を建て、または御台所に置き
なされて、成長まで養育しなさった。
夫人が忠臣や孝子の類の子孫たちをこの如く扱われたことは、幾ばくあるのかを知れない。
―『斎藤平内兵衛由緒書』

107:人間七七四年
15/12/20 18:34:17.21 0xWi4/0S.net
愛媛県大三島の大山祇神社が所蔵する鎧に「紺糸裾素懸威胴丸」(重文)があり、
神社はこれを、戦国時代に大祝家の鶴姫が大内水軍との戦いに際して使用したもので、
「女性用の鎧」だとして宣伝しており、世間もこれを広く受け入れている。
その鎧の胴体は胸回りが張り出して腰が細くすぼまり、いかにも女性の体つきを思わせる。
しかし、古くからそう伝えられてきたわけではなく、この話が登場したのは昭和41年、
大祝家末裔で大山祇神社の関係者だった三島安精の素朴な思い込みに始まる。
三島はその胴丸の「いかにも」な見た目から「これは女性用の鎧に違いない!女じゃなきゃ着られない!」
と推測し、その使用者が誰だったかを探求した結果、『大祝家記』なる古記録に出てくる鶴姫という女性が、
その鎧を着たのだという筋書きで『海と女と鎧』という小説を書いて出版し、これが後で流布していったわけだ。
この話が有名になるのに一役買ったのが『図解 日本甲冑事典』などの著者である笹間良彦で、
彼が件の胴丸を着けた鶴姫の絵を描いて神社に奉納したらそれが大受けして土産物の包装紙やラベルに多用された。
けれども、『海と女と鎧』のベースであるはずの『大祝家記』は「門外不出」の書として公開されず、
しかも現在は所在がわからないという検証のしようがない代物で、偽書、創作、虚構を勘ぐりたくなる。
肝心の胴丸のほうも、一見すると確かに「いかにも」女性用だが、戦国期に作られた胴丸・腹巻は、
息をしやすくするために胸を大きく張ってスペースを確保し、重量を腰にも配分するためにウエストを絞り、
結果逆三角形の強い形状に変化していったのが当時の傾向であり、女性用として作られたという説は正しくない。
現在話題になっている徳川美術館の「しかみ像」の逸話のように、軽い思い付きや思い込み程度の話が人気を獲得し、
どんどん話が肉付けされていき、あたかも本当であるかのようにまでなってしまったというのが、
「鶴姫所用・紺糸裾素懸威胴丸」の実際のところである。

108:人間七七四年
15/12/20 18:38:48.08 GP8Xzf3C.net
申あ絶N

109:人間七七四年
15/12/22 17:25:33.97 dS7BPhVR.net
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110:人間七七四年
15/12/23 22:20:43.15 bLrOq9AT.net
黒田家の重臣吉田長利は官兵衛と長政を長利の家に招いて饗応するということが、時々あったらしい。
関ヶ原以降の豊前から筑前に移った際貰った知行の早良郡広瀬の別荘にも二人を呼んだりしたらしい。
ある時に長利が主君である長政を広瀬に招いて行った酒宴が数刻に渡って及び、長政は密かにその座を立って帰路についた。
それを聞いた長利は、瓢箪に酒をいれて杯を持って、馬に鞍もつけず乗り長政を追いかけた。
仙道川の辺りで追い付いたので、長利はふざけて
「あなたが昔戦場においても逃げ走るのを見たことがないというのに、今盃酒を捨てて逃げ帰るのはどういうことですか」と言った。
そう言われた長政は面白いと思ったらしく、そのまま河原でまた酒宴をしたらしい。
「或ル時 長政君広瀬ニテ御酒宴数刻二及ビ竊二其ノ座を立ッテ帰路二赴キ玉フ。長利是レヲ聞瓢二酒ヲ入レ杯ヲ持、肌背馬二乗ッテ御後ヲ慕、仙道川ノ辺リニテ追ヒ著キ奉リ、
 長利戯テ君昔シ戦場二於テ逃走玉フヲ見ズ。今マ盃酒ヲ捨テ逃帰リ玉フハ如何。長政君入興シ玉ヒ川原ニテ復御酒宴ヲ催サレシト」

こうして家臣の家に主君を招いて饗応する習慣この話を記述した吉田家五代目治年の頃にも続いており、
「家屋を飾り、饗応の美を尽くすことは古には勝っているが、その誠情の篤いことは古には及ばない。」と子孫に伝えられている。

(吉田家伝録)

111:人間七七四年
15/12/23 22:22:20.18 bLrOq9AT.net
ちなみにこの吉田さん
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
↑この逸話でも長政に突撃晩御飯かましてたりしてる人ですが
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
↑黒田家内で武功No.3のかなりの猛者です。

112:人間七七四年
15/12/23 22:54:41.58 nv20kWu5.net
あーあ
やっちゃった

113:人間七七四年
15/12/24 19:23:49.59 mS3DRJV8.net
加藤左馬助殿(嘉明)が家中の者を直ちに成敗致された時、少し手負いなされた
とのことを、いずれの人も利家卿の御前で御話になり謗りなさったが、利家卿は、
「いやいやそれは僻事である。両者身二つであるから、もし仕損じて手負い、
敵を逃した場合こそ落ち度ではないだろうか?
その者を仕遂げたならよくやったと申すべきだ。軽傷を負っても仕遂げたならば
落ち度ではあるまい。信長公の御時はそういう批評だった」
と仰せになり、「御もっともである」と、各々は申された。
―『菅利家卿語話(黒川本利家夜話)』

114:人間七七四年
15/12/24 20:34:28.11 Rzn6q80Y.net
新年の開運を願う佐嘉神社(佐賀市)の伝統行事「鰤祭(ぶりさい)」
毎年12月31日、神社本殿で開かれます。魚市場や鮮魚店から奉納されたブリを祭壇に供え、商売繁盛や五穀豊穣を願います。
祭典では、宮司が大きなブリの身に御神矢の矢尻で独特の切れ目を入れる「調理の儀」を行い、水産業者らも出席して豊漁を祈願します。 
この鰤祭は、佐賀藩祖鍋島直茂が文禄・慶長の役の朝鮮出兵から伊万里港に帰陣した際、
「ビターン!!」
直茂が乗っている船に大鰤が躍り上がって甲板に飛び込んできた。
佐賀では鰤のことを「ぶい」となまって呼ぶことから、直茂は鰤を武威にかけて
「武威が上がった、来るべき新年の瑞象である」とたいそう喜んだそうです。
鰤祭の後は、
祭にお供えした鰤を使い、「開運鰤雑煮」を接待する開運「鰤(武威)座」を斎行致します。
そして1月1日午前0時の一番祈願に参列いただき、お座に就いていただきます。
席上「鰤祭」で用いた神矢の鏃が当たる神くじが行われます。
ちなみに、直茂が乗っている船の甲板に飛び込んできた鰤は家臣たちに分け与えたそうです。
(佐賀城本丸歴史館で聞いた話)

115:人間七七四年
15/12/24 20:36:07.79 pe6afaTz.net
平清盛「わしの逸話をパクるな」
周の武王「お前もな」

116:人間七七四年
15/12/24 21:39:45.25 YyiCNFvr.net
鮭だけじゃないのね

117:人間七七四年
15/12/27 04:11:04.50 LWKcLI1N.net
殿様(前田利家)はたいへん御機嫌の良い時か、または御叱りなさる時に、
勘十郎(村井長明。著者)のことを“小又兵衛”と仰せになった。
その時は、「お前の父の豊後(村井長頼)は俺が名付けた“又兵衛”である。
今は天下も静まって武辺事は無いから、よく奉公仕り年齢20余りになったら
又兵衛になれ。その時は、小又兵衛とは言うまいぞ」と、度々仰せになられ、
もったいなく存じ奉る。斯様の仰せは生生世世ありがたく存じ奉ることである。
―『菅利家卿語話(黒川本利家夜話)』

118:人間七七四年
15/12/27 20:58:05.08 UDzJKn7e.net
永禄6〜7年の間に一向専修の門徒たちが徳川家康に対し反乱した時、
本多正信は舎弟三弥正重と共に上野の城に立ち籠もった。
永禄7年2月28日、諸寺の門徒たちはその罪を赦され、尽く降伏した。
しかし本多正信は国を出て、都の方に赴いた。
そこで松永弾正忠久秀が、正信を見て側の者にこう語った
「私は、少なくない数の徳川家から来た侍を見た。その多くは武勇の輩であった。
しかし、一人この正信は、強からず柔らかならず、また卑しからず。
必ず、世の常の人ではない。」
そう感想を漏らしたという。
(藩翰譜)
有名な松永久秀の本多正信評である。

119:人間七七四年
15/12/29 11:49:28.62 iXIovZrU.net
石川丈山(嘉右衛門重之)が語った所によると
「私は大御所(徳川家康)に多年に渡り仕えていたが、本多正信と何か事を謀っているように見えたのは、
僅かに2度しか無い。その内容も、世の人が事を謀る場合とは全く異なる、珍しきものであった。
先ず1度目は、大御所が正信の座している所を通った時、立ち止まって三言四言密かに仰せになった。
これを正信は大いに誉め、「よく候!よく候!」と申し上げていた。
もう一度は、大坂の陣が起こって、程なく和睦してのち、大御所は京に入られ、何某を召して
「汝大阪に行き、将軍にこのように申せ。家康はこれこれの日、駿河に帰ろうと思っている、と。」
大御所はそうおっしゃって、正信の方をご覧になり、「正信はどう思うか?」と聞かれた。
ところが正信は、例のごとく居眠りしており、答えようもない。
大御所は大きな声で「やあ佐渡守!!」とおっしゃった時、正信の目が開き、まずものも言わず、
右の手を上げて指を折り、物を数えるような仕草をして
「大殿よ、大殿よ、幾年前に伏見の御館にて正信が申したことを忘れ給うな。」
そう申すと、大御所は暫く案じるような御気色で、先に使いを命じた者に
「まず、今日は使いを参らせない。」
そう仰って内へと入られた。
そのようであったのに、今の世に伝わる所は、正信がややもすれば、
古を引き今を證とし、理義を分かって毫末に入るように言うのは、皆、後の弁を好む者の
空言である。」
(藩翰譜)
家康と正信の謀の様子、である

120:人間七七四年
15/12/29 12:05:32.83 UVYacPjq.net
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
既出

121:人間七七四年
15/12/29 19:34:17.76 eNT5wkkk.net
本多正信って茶坊主みたいな存在に思えるな

122:人間七七四年
15/12/30 11:20:22.23 r+hYBIID.net
先の肥後太守・加藤清正の祖父は、大織冠・藤原鎌足の末葉・加藤因幡守清信
という人である。彼は尾張犬山に住み、斎藤山城守(道三)の幕下にいた。
山城守と織田信長が犬山で一戦した時、清信は討死して果てた。
清信死去の折、子息が1人いた。鬼若といって2歳であった。彼は孤児となり、
母に養育されて成長し、尾張愛知郡中村というところで光陰を送って、後に
弾正左衛門兵衛と号した。弾正は38歳で死んだ。
彼には1人の男子がいて、その子は3歳だった。彼は虎之助と名付けられた。
どうにか母に育てられて5歳までは中村に住んだ。ところで、豊臣秀吉の母公
(大政所)と虎之助の母とは従姉妹の関係だった。それゆえ、虎之助の母は、
「木下藤吉殿はいま近江の長浜で5万貫の領地を治められ、豊かな様子である。
この子を田舎で育てたのでは武士の作法も知り難い。只々、秀吉公を頼み奉ろう」
と分別し、虎之助を連れて長浜に至り、秀吉の母公に委細を申し入れると、
母公は殊の外もてなしてくれた。
また、両人はともに秀吉の目にかけられ、母公の側で養育されることになった。
虎之助は15歳になった時、母公に申し上げて、「私はあなた様のおかげで
成人いたしました。15歳とはいえ、背たけも高くなりましたので、前髪を
落として奉公を勤めたく存じます」と、言った。
母公は、「大人らしく申すものだ」と思って秀吉に詳しく話すと、秀吉はひとしお
機嫌が良くなり、密かに虎之助の眼差しを見て、「よく祖父の清信に似ているもの
だと存じる。前髪を落とし申すとしよう」と言い、すぐに彼を男になし加藤虎之助と
名付けた。こうして虎之助は初めて170石の領知を与えられ、奉公の身となった。
ところで、秀吉の家中に塚原小才治という兵法者で、卜伝遠類の武士がいたのだが、
虎之助は彼に従って兵法を修行した。ある時、長浜の町人所へ、人を殺傷して閉じ
こもった者がおり、町中が騒がしくなった。虎之助はその様子を聞き付けて、
「常々伝授の兵法を使うのはこの時だ」と思い、かの町人所へ走り行くと、四方は
人で満ち満ちていた。彼は大勢の中を潜り入り、狼藉人を打ち倒して綱をかけて、
手傷1つをも負わずに捕らえて出て来た。閉じこもった者は秀吉の足軽・市足久兵衛
という者だった。
その首尾を秀吉はつぶさに聞き、「常々かの者は普通の若者のようでもなく、役に
立つことだろうと思ったのだが、よくぞやったものだ」と言い、200石を加恩して、
木村大膳組の小物見役に仰せ付け、虎之助は明け暮れ勤仕した。
―『清正記』

123:人間七七四年
15/12/30 20:53:53.21 l9PrY5lP.net
清正は明智光秀と同じ美濃の土岐氏だから
桔梗紋を使ってたという説を聞いたことがある

124:人間七七四年
15/12/31 20:08:40.52 N/fAyF/V.net
正月にちなんだ良い話はないのかね?

125:人間七七四年
15/12/31 21:01:13.68 mWcjfdKe.net
尼子経久の月山富田城奪還作戦

126:人間七七四年
15/12/31 21:03:58.16 mF55b+N7.net
>>124
佐野宗綱の、お正月だよ!足利侵攻!!・悪い話
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

127:人間七七四年
15/12/31 21:10:53.28 8T4/FNzT.net
それは去年の正月にでた
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
その他の正月話もいろいろ
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
尼子と正月なら忠臣の宇山久兼を尼子義久が元旦に讒言により誅殺した話もあるが、いい話ではないな
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

128:人間七七四年
15/12/31 21:33:41.69 N/fAyF/V.net
>>126
>>127
見てくる、ありが刀

129:人間七七四年
16/01/01 13:18:33.90 v6oP3eQM.net
慶長3年4月4日、小早川秀秋は朝鮮より大阪に帰還した。
翌5日、伏見の城に参上した。秀秋に従った7人の軍奉行、並びに加藤嘉明も同行した。
伏見に在住していた大名が尽く参集し、秀秋の凱陣を賀した。
やがて太閤秀吉が現れ、対面のあと、太田一正が秀秋の朝鮮での合戦の模様を詳細に弁じた。これを聞いた秀吉は言った。
「いやいや、大将軍が自ら諸軍と戦功を争って軽々しく戦うなどけしからぬ!
ワシは秀秋を差し向けたことを、返す返すも後悔している!」
秀秋は聞くやいな、押し返し申し上げた
「世の常の御使であれば、幼弱の身でありますから、辞し申したでしょう。追討の御使なればこそ、仰せを承ったのです。
しかし今、人々が聞く所で、御後悔の旨を承ること口惜しい!
この秀秋に不覚のことがあったのなら、軍奉行の人々よ、いま御前において率直に申し上げ、
速やかに秀秋の首を召され、御憤を散じられるよう計らうように!」
しかし秀吉は何も言わず座を立って内に入り、石田三成が参って秀秋の家老である、
杉原下野守、山口玄蕃充に向かって言った
「上様の御気色宜しからず。先ず御屋敷に帰られるように。」
秀秋は怒り、三成の首を落とそうとするように、打刀を取って立った。
ここで、その間に徳川家康が入り秀秋を制した。そして彼の屋敷へと伴うと、そこに秀吉よりの
使者として尼の孝蔵主が訪れ秀吉の仰せを伝えた
『さても去りし頃、蔚山の戦いにおいてる軽々しき振る舞いをし、また先程申した事も
甚だ奇怪の至りであった。この上は至急筑前国を返却し、越前の地に移るように』
秀秋は激怒し
「やあ尼よ!この秀秋の身に国を奪われるほどの罪を負った覚えはない!この生命あらん限り、
筑前を返すつもりはない!よって速やかにこの首を刎ねるようにと太閤殿下に申せ!」
そう言って追い返した。しかし家康は帰ろうとする孝蔵主に密かに言い含めた
「秀秋殿は『仰せ謹んで承ります』と言ったと報告するように。」
「内府様…。この上は内府様の御計らいこそ頼りです。北政所様へも、そのように申します。」
孝蔵主が屋敷を出ると、家康は秀秋に向かって説得した
「今は兎にも角にも仰せに従うことこそ大切です。その間に北政所が嘆かれれば、太閤殿下もいつまでも心強くはいられません。」
しかし興奮している秀秋は
「ならば、私自ら三成の首を斬った後で内府の言うとおりにいたしましょう!」
そう言って聞こうとしない。家康も、今は強いて本人を説得すべきではないと思い、家老の
杉原、山口を密かに呼んで言った
「先ずは家人を少しだけ、越前に派遣するのだ。」
そこで彼らは外様の侍を少人数さし下した。そこで家康は、前田利家とともに秀秋について嘆願しようとしたが、利家はそれを断った。
それより家康は毎日秀吉の前に参上したが、何を話すということもなかった。
秀吉は気になり「どうしてそのように毎日参るのか?」と尋ねると、
「秀秋殿が国を移されること、痛ましく覚えて、その事について申し上げようと参っているのですが、
どのように申し上げれば聞いていただけるかわからず、このようにしております。」
そう答え、その後も毎日参上した。秀吉は再び最初のように尋ねると、家康もまた最初のように答えた。
これに、秀吉も遂に根負けし
「そこまで思われているのなら、秀秋のことは内府の計らいに任せよう。」
家康は大いに悦び、秀秋の元に出向き、杉原、山口を召して越前へ下した侍たちを呼び戻させた。
程なく6月2日に、家康は秀秋を伴って登城すると、秀吉はこれに対面し、饗宴の儀を開き、
また両名に多くの引き出物を下された。
秀秋はこの日、長崎伊豆守を徳川家に使いさせ、
『今回の御芳恩はいつまでも忘れません。この恩に必ず報いるでしょう。」
そのように伝えた。
(藩翰譜)

130:人間七七四年
16/01/01 16:18:26.54 7z8qiSfe.net
見事な関ヶ原フラグ

131:人間七七四年
16/01/01 16:28:24.10 mjKAu8Ji.net
実際はフツーに越前に転封してるけどねぇ…
藩翰譜の頃にはあれこれ分からなくなってたんだろうな

132:人間七七四年
16/01/01 17:05:46.54 BFP4Ll5e.net
お前が阿呆なのはよく分かった

133:人間七七四年
16/01/01 17:26:27.04 wII7VMDj.net
徳川家だったらサドの守あたりがやりそうな話
やはり内府様も三河者だなめんどくせー

134:人間七七四年
16/01/01 20:36:43.22 +Bnqog12.net
秀秋は朝鮮で実際には前線切り込みなんてしなかったそうだし、
三成下げ家康上げの為の逸話だわな

135:人間七七四年
16/01/01 20:54:20.74 21XobQQ6.net
でもこうやって裏で動いてると楽しいんだよなぁ、俺やってるぜ感が半端無い

136:人間七七四年
16/01/02 00:04:55.88 yriiHi8D.net
正月と言えば隆信が鏡神社の大宮司である草野氏を討伐した時に読んだ狂歌がこれ
「正月の一日二日の事なれば草野を焼きて鏡餅かな」
そんな熊さんのちょっと言語センスのいい話

137:人間七七四年
16/01/02 11:39:26.48 szi0CsCr.net
正月早々に戦とかって足軽テンション駄々下がりだろな

138:人間七七四年
16/01/02 12:51:14.70 zm4IvZ6I.net
道雪「だからといって戦線離脱する子は処断だよ」

139:人間七七四年
16/01/02 21:26:21.89 xEHA5cdj.net
貴久「正月早々死にそうになりましたが何か?」

140:人間七七四年
16/01/03 20:14:15.56 po6e0zLa.net
>>137
隆信は何回か新年あけまして死ね作戦をやってる

141:人間七七四年
16/01/03 20:20:51.12 mQ13eeTc.net
毛利家臣「幕府を倒す準備が整いました」
毛利「今はまだその時ではない」
そうせい侯が「そうせい」と言うまで繰り返したんだっけ

142:人間七七四年
16/01/03 20:35:53.03 oM9JF4Bv.net
そうせい言うまで幾星霜

143:人間七七四年
16/01/03 22:13:39.30 N5kWQ7Ba.net
こんなのあった
佐野宗綱の、お正月だよ!足利侵攻!!悪い話
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

144:人間七七四年
16/01/03 22:22:36.57 mQ13eeTc.net
>>126

145:人間七七四年
16/01/04 23:43:38.85 E0f3ljj0.net
>>140
明けましておめで討か

146:人間七七四年
16/01/05 08:04:02.71 Gt/NnWm1.net
コブラみたいなやつね
ありがと

147:人間七七四年
16/01/06 18:44:23.75 QAqgW5J8.net
加藤清正公がある時の夜咄に語ったことである
「賤ヶ岳の一戦の折、私は秀吉公のお側近くにいたが、先に合戦が始まると見及んだため、一人抜け駆けして
良き敵あらば討ち取ろうと思い、何でも無い体で抜けだそうとした所、秀吉公は屹とこれを見つけ、
「虎之助、法螺貝を吹け」と命じた。
しかし私は聞こえなかったふりをして2,3間(3〜50メートル)ほど進んだが、そこで急に思い直した
『事の急なる時、臆病者が吹く貝は音が出ないと、世間では言い習わしている。ならば、私も
心臆しているため貝を吹かなかったのかと、秀吉公も思われ、また諸人もそう考えるであろう。
そうなったら、仮に手柄をいたし、もしくは討ち死にした後までも弓矢の上の恥辱、これに過ぎたる
物は無い。』
そう考え、立ち戻って貝を取り、いかにも静かに吹き上げ、法の如くに吹き終わると、馬を引き寄せ
打ち乗って、急ぎ先へと進んだ。
ところがここで、谷兵太夫という者が道の脇で私を見つけて声をかけた
「そこを通るのは虎之助ではないか。若輩なる者が逸りすぎて、敵前近くなって馬に輪をかける(馬の
速度を上げる)のは見苦しいものであるぞ。控えて馬に乗るように。」
私は『近頃にない悪き言葉だ。どのように彼に返答すべきか。」と思い、振り返って見てみると、
谷は少し小高い場所に、馬を横ざまに立てていた。いやまったく、彼は巧の入った老武者である。
味方はわずかの勢であるから、もし追い立てられ、敵が勝ちに乗じて競って来たなら、そこの横槍を入れて
突き返すためにそのように控えているのだと見えた。
とかく曲者である。何も言わないほうがマシだと思い、私はそのまま馬を早め進み、一番鑓を初め、
名のある敵の戸波隼人を討ち取ったため、味方はこれに利を得て、喚き叫んで攻め戦った。
この勢いに敵は辟易し、多く討ち取られる体たらく。天に光り地に響き、血は馬蹄に蹴りかけられ、
多くの死体が野に横たわり、寸尺の地も余さないほど夥しいものであった。
こうして私は戸波隼人の首を秀吉公の実検に備え、その後立ち退いて見ると、あの谷兵太夫は未だに
傍らでうずくまっていた。
「こここそ最前の返答すべき所よ!」
私は戸波隼人の首を彼に向かって投げつけると叫んだ
「先ほど其方が申した如く、若輩者が逸り過ぎて、馬に輪をかけた者は、これほどの手柄を立てたぞ!
能く能く見ておいて、汝の子孫までの物語にせよ!」
そう言い捨てカラカラと笑うと、かの者は目尻でこれを見て、更に一言の返答も出来ず、顔を真赤にして
俯いていた。
これこそ、我が一代の快き振る舞いである。」
清正公が機嫌の良い折は、いつもこれを声高に仰せになり、御喜悦なされていた。
(續撰清正記)

148:人間七七四年
16/01/06 19:53:54.29 U2hLlxMH.net
谷兵太夫でググったら既出なのが分かった

149:人間七七四年
16/01/06 21:52:48.17 H+6WH/5C.net
 周防の山口太守大内義隆公、陶尾張守の謀反によって、同国の菩提所大寧寺にて自害した。
さらに尾張守は大寧寺を焼き立てて、僧俗によらず切り捨てた。
その内の出家の者であった玉堂和尚は、大寧寺へ義隆公から寄付された名茶入を三、四つに割り、鉄鉢の底に入れ、
危ういところから命からがら助かり都へ上り、茶入をくっつけて売り払った。
この茶入は継ぎ手があるというのでかえって値段も上がったという。
 この和尚は玉堂と申すので、そのまま茶入の名となった。
 この僧は尾張守が滅亡の後、この金子で大寧寺を再興し今も残っている。甚だ殊勝な出家のものである。
(本阿弥行状記)
この茶入と思しきものが徳川ミュージアムにあるのですが、
特につなぎ目みたいなものは見当たりませんでしたね..


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