戦国ちょっといい話42 at SENGOKU
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964:人間七七四年
15/11/08 16:21:15.75 9WP2/rEK.net
43、忠臣の血痕

 明治の初め、政府に「弁官」という官があった。
この弁官の一人に武州忍藩出身の澤田某という人物いた。
詳しいことはわからないが、生真面目な性格の男だったらしい。

戊辰の役が終わってまだいくらも経たないころ、皇居西之丸にある門の楼上から一棹の長持が見つかった。
場所が場所だけに、徳川家の遺物であることは間違いない。
「いかがいたしましょう」
「中身がわからぬではどうしようもない。開けてみよ」
下役人から処理法を聞かれた澤田は、そう答えた。
そしてそのまま出かけていって現場に立ち合っているところをみると、案外興味もあったのかもしれない。
「鍵がかかっておりますが」
「壊せばいいだろう」
そこで鍵を壊して開けてみると、出てきたのは古畳が2枚と桃のタネが2つであった。
「……?」
意味も無くこんなところに畳をしまっておくというのも珍妙なので、
よくよく見てみると、畳の表面にシミのようなものがある。
「血の跡ではござりますまいか?」
なるほど、そのようである。
そこでよくよく調べてみると、驚いたことにこの畳は
慶長5年8月1日に、伏見城で鳥居彦右衛門元忠が切腹したときのものだとわかった。

965:人間七七四年
15/11/08 16:21:41.66 9WP2/rEK.net
鳥居元忠、といえば、関ヶ原の前段ですでに捨城の伏見城に籠って壮絶な戦死を遂げた、徳川家にとって超一級の忠臣である。
「なんと忠臣の血痕であったか」
澤田は感動したが、当時のこととて幕府の遺物は塵芥と同類で、「そんな汚物は捨ててしまえ」という声が強かった。
そこで古畳は危うく廃棄されるところだったのだが、
澤田が密かに鳥居家の公用人に連絡しておいたので、身体中の毛を逆立てて飛んできた鳥居家の家臣に危うく下げ渡された。

外国の博物館で過去の偉人たちの血痕や弾痕のある衣服などを展示しているという話は聞いたことがあるが、
我国において300年も昔の忠臣の血痕をかくも鄭重に保存しておいたとは、まことにもって驚きとしか言いようが無い。
保存させたのは家康公に違いあるまい。
海内一の強剛者たちの集まりであった三河武士軍団が、
家康公のために死をも厭わなかったのは、公のこういう優しさがあった故であろう。

ところで、もう一方の「桃のタネ」であるが……
伏見の名物は桃であったらしいから、おそらく鳥居元忠が最期に食べたのがこの桃だったのではあるまいか……?


URLリンク(homepage3.nifty.com)
ここの現代語訳志ぐれ草子より引用

966:人間七七四年
15/11/08 16:43:19.36 WG5J2xR6.net
血天井といえば、徳島の丈六寺に元親によって謀殺された新開氏の血天井があるな
既出だから書かないが
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

967:人間七七四年
15/11/08 17:44:37.66 g/S5eUq6.net
10%は一回失敗したら即抜け安定
それをされる事ぐらいは承知の上だよなぁ?

968:人間七七四年
15/11/09 07:49:45.05 xI4lJMJz.net
松平伊豆守信綱はこう言っていた

「悪日なんて物は無い。思い立ったことは、いつであっても行うべきだ。
風雪の日こそ悪しきものだ。」

(武功雑記)

969:人間七七四年
15/11/09 08:42:53.26 LfncsuBW.net
現実的だな
まあ、平和な日常ではこれが正しいよな

970:人間七七四年
15/11/09 17:04:56.18 mXldTkqM.net
風が吹いたら遅刻して〜雨が降ったらお休みで〜♪

971:人間七七四年
15/11/09 20:29:06.91 UjkMN3DA.net
今日、石見街道走って南に向かってたら北広島町のセブンイレブンにこんな案内が貼って有った。

▼講演会「吉川氏と大名毛利氏の戦国鉄炮史」

吉川氏の本拠城であった小倉山城跡から鉛玉(鉄砲の弾丸)が出土したことや、
町域出身者が吉川氏の鉄砲隊として出兵していることが記された古文書からわかるように、
北広島町と鉄砲隊には深いつながりがあります。今回は、講師に岸田裕之氏をお招きし、
吉川氏と毛利氏の鉄砲隊について講演をいただきます。

【日 時】平成27年11月29日(日)13:00〜14:30
【講 師】岸田 裕之(広島大学名誉教授)
【会 場】北広島町図書館 多目的ホール(北広島町新庄1031-1)
【その他】聴講無料・当日受付

URLリンク(kitahiro-bunka.jp)


おもろそうや

972:人間七七四年
15/11/10 03:05:06.77 pcLi2wWH.net
井伊直孝曰く、

「面白いと思うことは、度々重ならないように覚悟すべし。何事をするにしても、
まずその事の実質を知って、よく考えて取り掛かるべし。害を知って上手く防げば、
その事は成就して、後悔することもない」

―『松のさかへ(井伊直孝公御夜話)』

973:人間七七四年
15/11/10 21:24:19.14 pcLi2wWH.net
ある時、豊臣秀吉は里村紹巴を呼んで“天下無上の大なる歌”を詠吟した。
秀吉は「これより上の歌があるか?」と言って、

「須弥山に 腰打ちかけて 大空を ぐっと呑めども 喉に障らず」

と詠み、「どうだどうだ」と言った。その言下に、紹巴はこう詠んだ。

「須弥山に 腰打ちかけて 呑む人を 睫毛の先で 突き転かしけり」

―『半日閑話』

974:人間七七四年
15/11/10 21:29:51.65 Rde+QCUb.net
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
落語「狂歌合わせ」の原型かな

975:人間七七四年
15/11/11 00:46:53.60 Vpr+gTBL.net
 貴人は勿論私風情まで、自分の悪しき所は見えぬもので、貴人へ諫言を申す人は甚だ少ないものと御心得なさってください。
 『主将の法務は英雄の心をとる』と記す七書の名言を用いなさった大将は、頼朝公、信長公
この外に本朝には伝え聞いておりません。これは我が朝の風俗と思われます。
 
 右幕下(頼朝)は鎌倉にいらしたまま、義経、範頼を大将として平家を征伐なさり、信長公は毎度家臣に敵国を拝領させると仰せ付けられたとのことである。
その他の大将はいつも自らを大将として征伐なされた。

(本阿弥行状記)

そうかなあ、二人以外にもいるような

976:人間七七四年
15/11/11 02:04:32.36 JsEdPrm9.net
謙信「ふむ…つまり良き大将とは本拠に留まり周りに目を光らせる者と言うことだな」
義光「まして大将自ら先頭に立って突撃などしないものであるな」

信長「……」

977:人間七七四年
15/11/11 16:12:42.99 gq1T9+z7.net
今日(11月11日)は鮭の日ということで鮭話

鞘書

「備前長船作
最上出羽守依頼富士山ニ大護摩修業之折護摩刀として伝え云々…」

変色した一口の白鞘の墨書から、この刀が最上義光が備前長船祐定に依頼し作らせ、富士山大護摩といった密教か山岳信仰の宗教儀式の折りに護り刀として使用していたものと判明した

しかし富士山大護摩がどの様な修業や儀式なのか
その詳細は伝わっていない

この刀は現在山形市の最上義光歴史館で
「慶長寺(光禅寺)葡萄図屏風」「お義かわいいよ、お義の手紙」「山形に帰りたい、最上の水が飲みたい望郷の手紙」「慶長五年件上杉征伐戸沢政盛宛誓紙」と合わせて
無料で一般公開中

978:人間七七四年
15/11/11 20:01:06.70 E1POGWlN.net
>>975
島津の留守番長男が筆頭

979:人間七七四年
15/11/11 20:35:41.33 lrHCFzn9.net
朝倉義景

980:人間七七四年
15/11/12 08:04:28.82 la6S9elc.net
>>975
大海人皇子

981:人間七七四年
15/11/13 00:44:09.19 YZvVgPpg.net
義光と宗教

山形の最上義光という人は仏教に留まらず、神教や修験道や古道など、様々な宗派を厚遇した

自身は禅宗に帰衣していたが、室(妻のとしよ姫)は浄土真宗で、人に頼まれ法華経を唱え、三河や甲州から武田旧臣の秋山某を浅間神職として招き、野州の大田原某を古峰社別当とした

そのため城下には寺社仏閣が入り交(混)じり、龍門事(最上義守の葬儀)にはどの寺を上位にするかですったもんだがあったと言われる

「山形の昔話」

982:人間七七四年
15/11/13 01:30:31.39 0/ZV6rMe.net
 光悦は八十歳で死んだ。病中板倉殿御父子(重宗、重郷)が度々お見舞いなされたときに、彼も木綿の夜着布団で寝ていたのをご覧になさりご感心成された。
重宗はもはや暇乞いなので光悦へお子の阿波守に何でも遺言してくれと仰られた。光悦はいやとも申さずにすぐに申した。

「板倉殿は伊賀守(勝重)から二代、都の御執権をなさり名人であると聞こえています。この次もまた阿波守でございましょうと人々は申しております。誠にめでたき事です。
さりながら、難しいことでございます。武家の御本意ですので、唯々一筋に武勇の心掛けに専念なされ、明日どういう事が出てきても、板倉殿こそ天下の御用人で有るだろうと諸人が申すほど、
指を指す程に御心掛けなさらなければなりません。
 それについて申し上げます。家来の人々に深く情をお掛けなされ、ああ一命を捧げるほどの事もできたらなあと、朝夕ありがたく思われますようにお恵みをなさってください。
『藁苞(わらづと)に傾く』と言われることもございます。どれほど正しき主人でも、少しけちでございましたら、家来の思いは付いてこないものでございます。
心に取り入るのが難しい恐ろしい主人でも、分を過ぎて物を贈りなさる主人であったら良く思われて、法度もよく働くでしょう。
欲に惹かれるというわけではございませんが、家来は主人からの御志をありがたく思うものです。
 文武の道に覚えが有る、へつらいの無い浪人にお目をかけて、御伽衆にでもなされて、古き物語をお聞きなさってください。人の良い噂悪い噂も聞かなくてはお知恵は上がらないことでございましょう。」

 諏訪守殿はお聞きになって、常々の願いはこれだと仰せになり、殊の外お喜びなされた。また私にも一言意見してくれと仰られるので、


「常々見させていただくに、訴訟人が憎い面で、筋の無いことを言い募ったり、御前と口論する者がございましたら、諏訪守殿はその者の愚かなことをひとしお憐れみなされるので、ついに公事場でお怒りの声を聞きませんでした。
またはじめにお聞きに成された事よりも、後に申し上げた事情をよく聞き分けられております。このようにあなたはお知恵をもってらしているので、けっして凡夫ではござらないだろうと思われます。
 ただ心に懸かりますことは、お食事を養生の第一と思い、程よくなさってください。上様への御奉公で最も大事な事と思われます。このほかに大事な事はございません。」

と申し上げれば、諏訪守殿はまことによく合点なされて、我々の事はけっして心配しないようにと仰せられた。
(本阿弥行状記)

まあ、次に京都所司代になるのは牧野親成で、重郷はなることはなかったのだけどね

983:人間七七四年
15/11/13 05:59:27.14 l13YTDmb.net
証明がいい演出になってますね!思いつかなかった!真似させていただきますww

984:人間七七四年
15/11/14 03:54:32.24 yMPR9k3F.net
一、信長公が比叡山を焼き捨てられた時、梶井宮は延暦寺の座主として、東塔の円融坊になられていた。
信長公はひそかに使者を送り、
「叡山を焼き討ちにするつもりなので、その間下山お願います」
との事を申し上げると、
「当分の間居場所が無いのは迷惑なことだ」
と仰せられたので、それならばとすぐに大原に寺を建て、そこへ移りなさるようにした。
今は掛所であるそうだ。この寺は今、大原村極楽院の御境内に礎石だけが残っているという。

一、信長公が建立して、梶井宮が上られなさった大原の御殿は、後世になって、今の京都の梶井の宮へ建てなさったので、
大原にはその礎石だけが残ったのだ。そのため御殿の寺号は比叡山延暦寺、円融坊東塔宮、三千本貫首三千人梶井または梨本と言うとか。

一、その比叡山を取り巻いて攻めた人のうち、羽柴筑前守秀吉は吉王山へ神に誓われるには、
「何とぞ我が方から敗れないように。この願いを守られなさったら、我が出世した後には元の如く叡山の堂塔を残らず再建します。」
と願われたということだ。
 この事を叡山の僧徒が聞き伝えて、大切な宝物などを悉く秀吉の陣書へ送り預けたそうだ。
多くの山徒が忍び忍びに落ちて、山で死んだ人はわずかであった。
 明智日向守も秀吉と同じ趣意なので、知識者高僧達は無難に下山なされたという。

一、戒壇堂の下には伝教大師が帰朝されたときに持って帰ってきた天竺・中華の土が収めてあった。
兵火のために焼失する事を嘆いて焼かれる前に、戒壇堂を潰しその場所を隠したのでつつがなく残ったという。
 釈迦在世の時より伝来の燈火は今に伝わって叡山にあるという。

以上の五ヶ条はさる方かたに承って書き残し置くものである。
流布されている話にはないものである。
(本阿弥行状記)

穴だらけの比叡山焼き討ち


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