戦国ちょっといい話42 ..
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51:人間七七四年
15/05/21 15:39:45.39 vH1plfPz.net
13日に行ったけど、大入りだったな
石田正宗がカッコよかったな

52:人間七七四年
15/05/21 16:26:57.90 e2/fTsRZ.net
>>29
最強BBAは次の無双系ゲームにぜひとも登場させてほしいな
キャラデザインは漫☆画太郎先生で是非

53:人間七七四年
15/05/21 19:42:45.37 CkbZKKly.net
東京の大関ヶ原展は
西国大名関係がイマイチ弱くてかなC
いま九博で九州の戦国武将展やってるのでそっちも見たが
大関ヶ原展と展示品が割とかぶってるんだなw

54:人間七七四年
15/05/22 00:58:24.40 nWgigd4P.net
紀伊國屋書店で九州国博の図録みたいな本が売られていた。
大友氏関連の物が多い様だけど、これに福岡の関ヶ原展ではどれくらい東国や近畿の展示物が加わるんだろう?

55:人間七七四年
15/05/23 00:10:21.86 fjqI42L/.net
>>51
石田正宗はトーハクで良く展示されてるけど
チラ見で素通りされてる

56:人間七七四年
15/05/23 01:12:08.39 ztRMeDO9.net
この前ここのスレみんが石田正宗の写真うpしてた稀ガス
俺も別の展示のときに見てきたな

57:人間七七四年
15/05/23 17:22:40.65 eWFh9jwA.net
刀剣乱舞という糞ゲーの影響で
ヲタが名刀に群がる異常

58:人間七七四年
15/05/23 21:19:47.98 LaXWbfSK.net
ヲタっつうか腐女子だろそれ

59:人間七七四年
15/05/23 21:22:46.22 8AduwBas.net
ここの住人も戦国ヲタが大半だろうから人のこといえんのでは
それに博物館に来る客が多くなることのどこに問題が

60:人間七七四年
15/05/23 21:57:06.52 waYCXyMN.net
ブームの恩恵には与れるし二年もしたらいなくなるだろうし問題ないだろ、多分

61:人間七七四年
15/05/23 21:57:56.12 Vg/aNVPg.net
名刀に興味もってもらうのは良いことじゃないか。

62:人間七七四年
15/05/23 22:27:07.37 NRdc/Hqp.net
関ヶ原展では客層のまんべんなさにビックリしたもんだが
(十代の子も多かった)例の名刀ゲームの影響もあったんだなw

63:人間七七四年
15/05/23 22:53:05.22 42ZDHsJt.net
>60-61
にかわ的に騒ぐ人に対して良い感情を抱かないのも理解できる
だけど新規のファンが入らないとジャンルとしては先細りしていくだけだから長い目で見ると新世代開拓は大事な事でもある

64:人間七七四年
15/05/23 23:04:18.97 LqKtIBUu.net
茨城の徳川ミュージアムには新規会員が寄付金を募っているそうだ。
学校の先生が「学割が効いても入場料を落としてあげて」と言っている商売下手な徳川美術館も入場者増と寄付金増でひと息つけているそう。
新たに興味を持つ人でもマナーが良ければ悪い事ではない。

65:人間七七四年
15/05/23 23:05:27.14 QZO3831n.net
まあ戦国ネタのゲームが出たら必ず排斥論は出るもんだからな
どうせお前ら、20年前は信長の野望から戦国好きになった奴をニワカだ殺せって言ってて、10年前は無双とかBASARAから戦国好きになった奴をニワカだ殺せって言ってたんだろw

66:人間七七四年
15/05/23 23:12:22.22 63iM2JB+.net
むしろそのニワカだったのが他人をニワカ扱いしてるのでは
自分もそのニワカに入るから強く主張はできんが

67:人間七七四年
15/05/23 23:44:30.65 XhOLNTjL.net
ミラクルワールドブッシュマンめ!

68:人間七七四年
15/05/24 03:20:07.71 dRszBFOX.net
むしろ最近のノブヤボのシステムのについていけない;;

69:人間七七四年
15/05/24 11:15:35.54 jncOzvIq.net
まだノブ野暮やってるの?w
もうオワコンでしょ

70:人間七七四年
15/05/24 14:43:57.97 dRszBFOX.net
今日は伊達政宗の命日か
「杜の都」の誕生
1610(慶長15)年、仙台城の大広間の完成式に招かれた良悦は杉苗2800本を持ち込み、政宗に杉の植樹による国家百年の富国策を講じた
持ち込まれた杉は本丸・花壇・領内の諸寺に植えられ、その数は7年間で2万本にも及んだ
この功により良悦は寺領として田畑2貫文を賜る
「杜の都」は、この杉の作る木立の名称であると言われる

71:人間七七四年
15/05/24 14:50:30.62 AT2hFnzK.net
杉は火災に強いからなあ

72:人間七七四年
15/05/24 15:29:45.48 dRszBFOX.net
防火・防風・防雪の江戸時代植樹の屋敷林に用いられた杉・松・唐松よりも、今の人には欅(けやき)並木の方が「杜の都」仙台のイメージが強くなってる
※街中の屋敷林は仙台空襲で焼失したり、戦後の道路拡張で伐採され、多くが姿を消した
欅はそれに代わる新植樹と言われる

73:人間七七四年
15/05/24 16:32:12.66 gYF3FGYa.net
>>69
オワコンって言葉使いたいだけか

74:人間七七四年
15/05/24 16:37:26.88 en1X08S6.net
とオワコンにしがみついてるニワカが発狂しています

75:人間七七四年
15/05/24 17:02:46.21 OS54wcIc.net
ニワカって言いたいだけだろ

76:人間七七四年
15/05/24 17:11:22.89 9l1gsEe+.net
お前ら何がきっかけで戦国好きになったのか教えてくれ
俺は戦国コレクションな
笑えばいいよ

77:人間七七四年
15/05/24 18:07:50.26 1azH/130.net
昔、学研で出てた信長の漫画。

78:人間七七四年
15/05/24 18:19:06.87 AF5p5I8t.net
他所でやれ

79:人間七七四年
15/05/24 18:30:13.16 yG6n96NO.net
天正12年(1584)、佐々成政は、前田利家の重臣・奥村助右衛門永福の守る、能登末森城を囲んだ。
世に言う末森城の戦いである。
成政は旗本を以って前田利家の後巻(救援)を抑え厳しく攻め立て「この城を打ち破れば
能登一国は即座に我々に従う。後巻が来ない内に乗っ取れ!」と下知した。
奥村はわずかに300ばかりの兵でここを守っていたが、あまりに激しく責め立てられたため、
「もはやこれまでである。自害しよう」と言い出した。
ところが、この奥村の妻は、小袖をたすき掛けにし鉢巻をして、刀を横たえ粥を煮て、
手桶に入れて下女に持たせ、城内の人々に手ずから汲んで食させながら、こう言って回った
「昔、楠木という大将は日本国を敵に受けて籠城したと聞き伝えられています。
明日には金沢より後詰めの軍が到着するでしょうから、今宵、ただ一夜だけ防いで下さい!」
奥村はこれを見て「今日の振る舞い男子にも優っている。さりながら女の力によってこの城を
持ちこたえるというのは口惜しいことだ。」とつぶやいた。
一方、佐々成政方は負傷者も増え、敵も容易くは落城しそうもないのを見て、これは火攻めに
すべきだと進言するものもあった。しかし成政は
「この城の大手の門を取って富山の城門とするのだ。また石動山の衆徒も私に心を合わせた。
慌てて火攻めを行う必要はない。」と下知し、既に二、三の丸を攻め取って夜が明けるのを待っていた。
この末森城から前田利家のいる金沢まで九里ばかり。その日の酉の刻(午後6時頃)、末森城より、
夜が明けるまではなんとしても城を守るという注進が入った。
前田利家はこの報告を聞くや金沢城の広間に出て、嫡子利長を呼んで
「汝はこの城の留守をせよ!」と命じた。しかし利長は
「いいえ、私が真っ先に出て佐々を打ち破ります!ここに残り留まるなど思いもよりません!」
これを聞くと利家
「ならば父子で打ち向かおう。敵の不意を打ってこそ利もあるだろう。兵を整える必要はない、
馬に鞍を置き次第一騎がけに打ち出よ!一足でも早く出る事こそ今夜の功だと思え!」
そして富田与五郎に
「おまえは津幡に行って不破彦三に末森の後巻きの先手をするように申せ」と下知した。
富田は直ぐに自宅に戻って馬を引き出し、不破彦三の元へと駆けた。
利家は士卒に「皆汁をかけて飯を食え!」と言いつつ具足を着て庭に自身の黒毛の馬を用意させていた。
この時、前田利家の婦人(芳春院)が三方にのし鮑を入れて入ってくると、利家・利長父子に従う者達に
向かって語りかけた
「おのおの、よく聞いて下さい。私は利長の母です。今日の後巻きは誠に大事の軍です。
それぞれ心を合わせて功名して下さい。
もし、末森城を的に取られたなら、皆々、討ち死にしなさい。
私も人手にはかかりません!」
そして利長の側近くに進んで我が子に対し「末森が落城したなら、あなたも討ち死にしなさい。」と言った。
利長これに「生死の別れですね。」と答えた。
利家はこれを見て「荒心であることよ。成政を打ち破ること必定である!」と言い放つやいなや、
具足の上帯を締めて、結ぶ端を切り捨てて馬に打ち乗り出撃した。
この時前田父子の兵はわずかに100人余であった。利家は馬上で
「味方が少数である事こそ吉事である!佐々が思いもよらない所に斬りかかって打ち勝つであろう!
奥村を死なせては生きる意味もない!」と叫んだ。
(明良洪範)
末森城の戦いにおける、前田利家出陣までの逸話である。

80:人間七七四年
15/05/24 21:41:29.28 58nrnPEJ.net
このスレや悪い話スレでも度々紹介されているとおり、前田利常は正室の珠姫と大変仲がよく、珠姫が若くして亡くなった際はたいそう嘆き悲しみ、ひと目もはばからず号泣したと言われている。
利常は珠姫の死後、姫の菩提を弔うため、金沢城よりほど近い場所(現在の金沢市小立野)に天徳院という寺院を創建した。
創建当時の敷地は4万坪ほどで、寺領は五〇〇石という立派なものであったといい、加賀藩から天徳院に宛てた知行宛行状は現在も当院で保管されている。
また、天徳院は昭和63年から一般公開されており、寺内では、珠姫の位牌と坐像、珠姫手製と伝わる紙雛人形、枕屏風、御膳など、珠姫縁の品々が展示されている。
珠姫縁の品々以外には、前述の知行宛行状のほか、前田光高が死去した際に八条宮智忠親王が納めた経なども展示されている。

先日立ち寄ったら、お寺の方が「団体客はそこそこ来てくださるが、個人のお客様が少ない」とおっしゃっていたので紹介がてら。
展示のほかに珠姫と利常のからくり人形なんかもあるし、立派な庭も深緑が美しかったので、石川県立美術館の『加賀前田家百万石の名宝』とセットでいかがだろうか。美術館からなら散策しながら徒歩で行かれる距離にあります。

81:人間七七四年
15/05/25 20:18:24.03 b5cGOzqd.net
毛利勝永の妻
毛利勝永は関が原の戦いで石田三成に与力して領地を没収され、父勝信と共に土佐にて蟄居した。
父勝信の死後、勝永は茶道を嗜んでいたためその家臣である窪田甚三郎を京大阪に遣わして、茶器を
求めさせた。時に大野治長は、この窪田甚三郎の従弟であったので、このつてを頼り秀頼の様子を聞いていた・
慶長15年の冬、秀頼はついに挙兵に及び、勝永もそれを勧誘された。かれはそれに応じようと思ったが、
その夜、密かに妻に語った
「私が先年、誤って石田方に属したために、現在妻子まで困窮させていることは見るのも忍びない。
いま、私にはひとつの志願があるが、濫りに口外できないことである。」
勝永の妻は言った
「私がこの家に嫁いだのも、前世よりの宿因のためでしょう。どうしてそのように
深く嘆くことが在るでしょうか?
女が、一度嫁いでより夫とともに浮沈するのは、女の道というものです。
これを憂うことなどありません。
どうかあなたの御志願を言って下さい。」
「…我家が、武名を以って天下に振るうこと6代にわたる。なのに今、この辺鄙な場所に流されて
虚しく朽ちるという事、本意ではない。
幸いにも今、天下が東西に分かれて戦いが起ころうとしている。私は秀頼君に属して今の汚名を雪ぎたい。
だが、私がこの地を逃れ出れば、きっと妻子は捕らえられ禁錮と成るだろう。これを私は憂いているのだ。」
所が妻は、これを聞いて笑い出した
「あなたの言うことは、間違っておられます。
大丈夫たらん者が妻子のためにほだされて武名を汚すなど、真に恥ずべきこと。
速やかにこの地を去って、先祖の家名を興すべきです!
その時心に、妻子のことを止めてはなりません。
あなたがもし討ち死にすれば、私もこの海に身を投げて死を共にしましょう。
勝利すれば、再度お顔を拝しましょう。」
勝永はこれに大いに喜び、大阪に至ろうとしたが、土佐では厳重に監視されていたため、国主である
山内忠義の元に、関東に味方するためと言って、嫡子を連れて土佐を脱出し大阪に籠城した。
はたして忠義は勝永の妻子を捕らえて、駿府の家康にその処置を尋ねた。
家康はこれを聞き
「丈夫の志のある者は、みな、斯くの如しである。
彼の妻子を宥恕し、罰してはならない。」
そう命じた。
これによって山内忠義は勝永の妻子を高知城中に入れて養育した。
毛利勝永は翌年5月5日、大阪落城の時、天王寺において奮戦し、潔く自害したが、
これらの名誉はすべて、その妻のおかげであった。
(明良洪範)

82:人間七七四年
15/05/25 22:12:44.27 yMD7iU0O.net
いい話だなぁ

83:人間七七四年
15/05/26 20:49:13.15 FAT8l6IJ.net
阿茶局
阿茶局は、武田家の家臣であった飯田久右衛門の娘で、今川家の家臣、神尾孫兵衛久宗の妻と成った。
かつて、徳川家康が今川家で人質として生活を送っていた時、この神尾孫兵衛夫婦は家康に、
厚く礼を以って保護していた。
今川義元が桶狭間で戦死した時、神尾孫兵衛も同じく討ち死にした。
その妻はこの時妊娠していたが、実家の甲州に帰り、そこで男児を出産して猪之助と名づけた。
武田家滅亡の時、家康が甲州に入ると、この妻が息子を携えて道の傍で拝伏しているのに家康は気づいた。
家康は彼女が甲州に居る故を聞き、旧情を思い出し、彼女を召し出し、遠江にて奉公するようにと命じた。
すると、この妻が非常に明敏で、奉仕すること怠らず、家康はこれを高く評価し、後に奥の老女となり
阿茶局の名付けられた。
慶長19年大阪冬の陣の時、彼女は講和交渉の使者として大阪城中まで数度にわたって往復し、
大阪方の大蔵卿局、常光院(淀殿妹お初)などを説得した。
大阪冬の陣でついに講和が調ったのは、この局の功なのである。
この講和交渉の時、彼女が乗っていた肩輿は鉄で作られていて、矢石を防ぐようになっていた。
この肩輿は今、遠山七之助の家に伝わっているそうである。
後年、東福門院(秀忠娘)の入内の時に、御母代となり、従一位に叙任し慶賀を執行した。
没後、霊光院殿従一位尼公松誉周栄大姉と号す。
(明良洪範)

84:人間七七四年
15/05/27 21:48:19.61 9GfvjNwH.net
初めて書き込みさせていただきます。至らないところもありますがお願いいたします。
大河ドラマ化に弾み 島津義弘小説、6月からウェブで公開
URLリンク(373news.com)
 戦国武将・島津義弘ゆかりの地である姶良、日置、湧水、えびのの4地区の
「義弘公大河ドラマ誘致委員会」は、徳間書店と共同で、義弘の生涯を描く小説を企画している。
作家・井川香四郎さん書き下ろしの「島津三国志」。6月から、ウェブマガジン「歴史行路」
で公開する。関係者は「ドラマ化には原作の必要性も指摘されており、弾みになる」と期待を寄せる

85:人間七七四年
15/05/27 23:12:39.29 9GfvjNwH.net
84の続き
小説は約一年間毎月掲載され、閲覧は無料で書籍化も予定しているそうです。
(南日本新聞2015年5月27日記事より)
少し前に「義弘公大河ドラマ誘致委員会」主催の講座を聞きに言った時、
「最近の大河が振るわないのは、歴史に関心のある人が脚本を書いてなく、
いい原作がないからと思い徳間書店と共同で企画を考え、小説を書いて
もらっています。夏にはウェブで公開予定です。」と言ってましたが
本当に予定通りに進んでる…
あと、宮崎県えびの市に義弘の銅像を立てる計画も順調に進んでいる
そうです。

86:人間七七四年
15/05/28 00:35:05.46 LkWj94pc.net
ウェブマガジンってのはどうなのよ?
もっとメジャーな文芸誌や新聞とか週刊誌じゃないと
知名度上がらないし…

87:人間七七四年
15/05/28 07:26:31.84 Yy790yKb.net
島津だけでは正直薄いよなあ
やはりあの時代は暗黒太閤と化した秀吉あってこそ
しかし秀吉のキャラ立ちは圧倒的なので島津が食われかねない
だからといって九州内の覇権争いだけを描いてもなあ

88:人間七七四年
15/05/28 13:38:32.93 w8Exbow6.net
義弘を主役に派手さを狙うのは甘え
義久を主役にして権謀術数渦巻く知略戦を描くべき

89:人間七七四年
15/05/28 14:31:42.63 3nQUdxjC.net
義弘が主役なのは、義弘ゆかりの地である姶良、日置、湧水、えびのの4地区
の所が企画しているから当たり前のことですしねぇ。
(日置市と姶良市は義弘にまつわる歴史的なつながりなどから姉妹都市ですし
姶良市の市長さんの名前は笹山義弘さんですが、父親が島津義弘にあやかって
名づけたそうです)
義久を主役にした小説…読みたいけれど、多くは望みません。
ただ、今回の小説で義久が悪く書かれないよう祈るだけです。

90:人間七七四年
15/05/28 14:36:24.17 3nQUdxjC.net
なぜか、IDが変わってました。
84・85・89は同一人物が書きました。

91:人間七七四年
15/05/28 18:26:02.21 4mhNMucy.net
幸田彦右衛門尉は、織田信孝の家臣であった。
天正年中、賤ヶ岳の戦いの前、信孝は羽柴秀吉によって激しく攻められ、信孝は力尽きて
和睦を受け入れ、その母及び幸田の母を人質として送った。
しかし程なく和睦は破れた。秀吉は怒ってその人質を殺そうとした。幸田彦右衛門尉は孝子であったため、
この事態に心揺れ動いた。これを聞いた母は、書状をしたため彦右衛門尉を諭した
『お前が、この老婆の身の上を思って二心を懐かないように。
お前は硬く節を守って、我が君を補翼せよ。
然らば君に忠、母に孝であり、であれば幸いにも忠孝両全と成る。
私は殺されても悔いることはない。』
これによって幸田は志を決して、秀吉に叛いた。
秀吉は怒り、その母を磔にした。幸田はますます信孝に忠勤して、尾張内海で信孝が自殺した時、
奮戦して潔く戦死した。
(明良洪範)

92:人間七七四年
15/05/28 21:09:57.42 3nQUdxjC.net
84・85の補足です。
南日本新聞2015年5月27日記事の紙面の方には
井川さんは「これまでの猛々しいイメージとは異なり、東アジアから
世界へ向けた視線、家族愛や同胞愛など慈愛に満ちた義弘公を描きたい」
としている。
姶良市誘致委員会の会長さんは「多くの人に読んでもらい、大河ドラマ
の実現へ向けた機運の醸成につながれば」と話した。

93:人間七七四年
15/05/29 00:15:09.60 1I/mC1ZA.net
既に怪しい雰囲気が醸し出されてるなあ

94:人間七七四年
15/05/29 00:59:48.83 kUwDtlwJ.net
加藤清正のタイガードラマはよ

95:人間七七四年
15/05/29 03:12:59.38 6LcORnJI.net
>>92
つまり、島津ドラマ化のネックになっている朝鮮人皆殺しや琉球侵略を
「きれいなジャイアン」でごまかすってことかw

96:人間七七四年
15/05/29 06:26:43.57 05Bd7qhS.net
>>85
平清盛を見れば現実離れした見解だよなぁ

97:人間七七四年
15/05/29 07:20:57.75 uBMgoFHx.net
バカ知事が何か言いそうw

98:人間七七四年
15/05/29 07:51:37.37 X1R2YQCf.net
>>92
義弘が、「儂は戦は嫌じゃ」とか言い出しかねんなw

99:人間七七四年
15/05/29 07:55:35.24 mcDINiea.net
>>92
部下に優しくて敵には猛々しい義弘にできんのか。火鉢エピとか大工エピとか性格出てると思うんだが。

100:人間七七四年
15/05/29 08:33:20.77 TH6fkjnm.net
島津は映像化できないだろ・・・色々と悲惨すぎる

101:人間七七四年
15/05/29 10:54:25.41 5bj3lFUm.net
奴隷を南蛮に売ってたっけ?

102:人間七七四年
15/05/29 17:01:26.02 zdzYrMsl.net
日本じゃなくて東アジアからって書いてある時点で制作スタッフ臭すぎでしょ

103:人間七七四年
15/05/29 20:46:50.48 wwV7liSe.net
鉄砲伝来とか重要イベントあるから(震え声)

104:人間七七四年
15/05/29 21:09:32.57 7e3CBtA7.net
>>101
うん、大友とか大村とかもね
インドのゴアでは原住民対策の兵員として重宝したらしい

105:人間七七四年
15/05/30 02:18:09.14 CWM9Z+LL.net
>>98
代わりに義久さんが全ての原因になるんですねわかります

106:人間七七四年
15/05/30 07:17:33.57 5P1QqS+E.net
戦国の世の家族愛や同胞愛ってとっても猛々しいよねw

107:人間七七四年
15/05/31 00:32:49.85 DaNyHf8r.net
ラスボスの秀頼への家族愛で何人も死んだ

108:人間七七四年
15/05/31 16:05:45.71 EF3ETCaI.net
家族愛に満ちた父の教えを受け継いだ息子はその教え通り子を沢山成したというわけですね

109:人間七七四年
15/05/31 16:22:36.31 HMaA3uKM.net
大母殿は徳川秀忠の乳母で、賢良な女性であった。しかしその子の某は山中源左衛門の党類であったため、
流罪となった。(旗本である山中源左衛門が、江戸市中で無頼行為をしていたことが発覚し切腹となった事件)
しかしその後も、大母殿に対する秀忠の尊敬は衰えること無く、彼女の徒然を慰めるため、月に3,4度は
茶の子(菓子)を贈った。彼女はこれを近習の女中などに遣わし、話などして彼女たちの労を慰めた。
この大母殿には月に1,2度ずつ、決まって行うことがあった。
それは、大きな切板に飯をうずたかく盛って、六尺(雑務係)や中間たちまで自由に呼び入れ、
自身でこの飯を振る舞うことであった。
本多佐渡守(正信)これを聞き、初めてその様子を見て大いに驚き、大母殿に意見した
「ここには夫々の女中も多いのですから、誰かに申し付ければよいではありませんか。
ご自身で飯を盛るなど、あまりに軽々しいことです。」
これを聞いた大母殿は、飯を盛っていたしゃもじを止めて佐渡守に振り向き
「最近、あなたが驕っていると人々が言っていますが、私はそれは虚説だと信じていました。
しかし只今の一言で、そういった人々が言っていることも事実なのだと思いました。
その方、弥八郎と呼ばれた頃の事を忘れたのですか!?
この婆は三河では賤しき者であったのに、思わずも上様に御乳を差し上げ、今はこのように
御厚恩を蒙り、大変に結構にして頂いております。
私が三河にて賤しき時分は、5,6人の客人へ飯を振る舞う事も出来ませんでした。
しかし現在では、何人に振る舞うとも自由となりました。
それ故、賤しき時のことを思い出しこのように時分で飯を盛るのです。
現在は富貴の身となりましたが、この婆は昔を忘れません。
しかし其の方は、早くも弥八郎の時のことを忘れたように見えます、そんな心得では、大事のご政務に
預かっていることも心もとなく思います。」
これには流石の佐渡守も殊の外困惑して帰っていった。
その後、大母殿は病にかかり、甚だ心もとない体調であると聞こえたため、将軍秀忠は見舞いに行き
こう声をかけた
「思ったよりも顔色が良いではないか。しかし、今のうちに言っておきたいことが有れば、何事でも
申し置くように。どんなことでも叶えたい。」
その時、大母殿は
「何もありません。
今の私の願いといえば、ただ上様が、権現様の御条目を御違いあそばされず、天下のご政務が、
人に後ろ指をさされぬよう、常々ご油断の無きように願い奉る以外に、何も申すことはありません。」
秀忠も、大母殿の思いを理解した。
「しかし、それ以外に願うことはないか?」
「このように結構にして頂いているというのに、これ以上何の願いもありません。」
こうして秀忠は立座し部屋を出ていこうとした時、彼女は「上様」と呼び返した
「上様は先頃から、再三に何か願いはないかとお尋ねに成りました。この事は、私の伜のことを、
この婆が臨終に際して気にかけるとお考えに成ってのお言葉だと思います。
しかし、絶対に御赦免してはなりません。
もしこの婆に免じて御赦免されたなら、御乳を差し上げた馴染み故天下の大法を犯されたということであり、
後代まで政道に傷のつく、有るまじき事であり、それこそ私の黄泉への障りとなります。
どうか必ず、御赦免なされませんように。」
そう言い終わると、間もなく卒した。人々はみな、その志の程に感嘆したという。
(明良洪範)

110:人間七七四年
15/05/31 20:58:07.51 nVSvJ3lg.net
で、正信は?

111:人間七七四年
15/05/31 22:17:41.98 TLw/66af.net
いい話だ…
けどその後息子はどうなったんだろう。
あと、89歳とは長命だが、55歳で乳母って本当?

112:人間七七四年
15/05/31 22:38:07.67 EF3ETCaI.net
乳母といっても母乳を与える人だけをさすのではなく
母親の代わりに子育てや教育をする人も乳母というみたいですよ

113:人間七七四年
15/05/31 22:43:19.34 bw12OwFu.net
乳母も傅も「めのと」だしな

114:人間七七四年
15/05/31 23:09:52.54 utGOVjQL.net
秀忠は実母を早く亡くしてるからか乳母とか大切にしてそうなイメージあったな
個人的に

115:人間七七四年
15/06/01 22:06:22.26 u3nXAbjb.net
伊達遠江守秀宗が行列で通行していた時、旗本の某が、かんの強い馬に乗って通りかかった所、
どうしたわけかその馬が暴走し、秀宗の方に向かって駆けてきた。
この時、秀宗の供の武士である大藤某という者、即座にこれに立ち向かい、この馬の口をとって
動きを止めた。この間に秀宗は通り過ぎた。
この旗本某の供の者達は、暴走した馬を抑えようと後から追いかけてきたのだが、大藤が馬の口を取って
立っているのを見て、何を勘違いしたのか彼に向かって刀を抜こうとした。
これを見た伊達の供の者達が、大勢で駆けつけ取り押さえた。この混乱に馬上の旗本某も鑓を
取ろうとしたが、大藤は馬を抑えながらもう片手でその鑓をしっかりと握りったところ、
旗本は鑓を全く動かすことが出来なかった。そして大藤は
「こういう事はあるものです。御馬がかんが強くて駆け出てきたため、止めたに過ぎません。
慮外なことは少しもやっていません。」
しかし旗本某
「このように取り押さえるのは慮外ではないというのか!?」
「それはあなたのご家来が粗忽なことをしそうだったので止めたまでの事です。慮外、無礼と
言われるような事は行っていません。」
そう言うと、伊達家の者達は退いた。これに、馬上の旗本某もそのまま通り過ぎた。
この大藤某という人は大力無双の勇士であり、よく物の道理に通じた人手あったので、
大藤の一言で、この騒動も事無く済んだのである。
(明良洪範)

116:人間七七四年
15/06/01 23:38:29.44 fMzXZk0C.net
島津貴久の乳母も乳母になった時に50歳を越していたらしい
と聞いたことがあるから、珍しいことではなかったのかも。

117:人間七七四年
15/06/02 00:43:01.72 e34da1J/.net
>>115
もうあったでござる
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

118:人間七七四年
15/06/02 20:16:36.29 XBzNw/+v.net
戦国武将のリストラ逆転物語 2015/6/1時点の記事一覧
 URLリンク(www.zakzak.co.jp)
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武田信虎 息子・信玄に追放されるもしぶとく生き抜く

119:人間七七四年
15/06/02 20:45:09.32 NjYek0MW.net
【雑談】大関ヶ原展京都展開幕
(´・ω・`)茶器初花に骨喰藤四郎か…
東京展では開催期間が終わってからの「終わってたの?」等の悲鳴が凄かった

120:人間七七四年
15/06/03 00:46:24.04 VATj5Zxx.net
わたし、昼間は女子大生で、夜は名古屋のヘルスで働いています。
今夜そんなわたしをデートに誘ってくれたのは、名古屋で一番いい大学に通うAクン(23)。
そんな彼は何かにつけてすぐ下ネタを絡めてくるんです。こんなに下衆な話ばかりするヒト、
風俗のお客さんでもそうそういなくて、ちょっと引いちゃいます。
今日も得意気に「この岐阜城をノブナガが攻めるために墨俣城を建てたんだぜ!
お前はヘルスのスマタ嬢だけどな」なんて大きな声で言っちゃってるんです。
普段こんなこと言ってるけど、このひと実はお勉強ばっかりの童貞なんじゃない?
なんて思ってた私は、ちょっと彼を試してみたくなって
「じゃあ、今日はわたしのお股城に攻めてきてよ!」って誘ったら
カレは一気に鼻息を荒くして「今すぐホテルに行こう!一夜でお前を攻める。まさにスマタ一夜城だぜ」
って、車に乗せられてラブホに直行させられちゃいました。
金華山では暗がりで分からなかったけど、明るいホテルで見たら
もう彼の股間はムクムクと美濃のマムシのごとく立派なものになっていたんです
(童貞っぽいし、スマタでイカセて終わりにしよ)なんて思ってた私のアソコは
美濃のマムシに見とれて、すでに長良川のごとくヌレヌレ。
「こんやは長良川の鵜飼じゃ〜」なんて言いながら、美濃のマムシは
まるで鵜飼のような突きで、わたしのお股城に攻めてきました。
「あぁ〜ん。いくぅー」と叫びながら、私は不覚にも絶頂を迎えました。
お股城で美濃のマムシをスマタで一夜で攻め落とすはずが、
逆に一時間もかからずに攻められてしまいました。

121:人間七七四年
15/06/04 09:24:05.94 DmYZl92r.net
加藤肥後守清正が茶会を催すという時、所持している名物の茶碗を出して置いたままにしていたが、
ここに小姓たちが集まって、撫でさするなどして見ていた所、その中の一人が誤って落とし、
これを割ってしまった。
皆驚いたが、さすが武功の者達の子供だけあって、「この事決して、割った当人の名を言わない。
たとえどれほど厳しい詮議があっても、互いに言うことはない」と誓った。
清正が席に戻ると、名物の茶碗が割れ置かれている。
立腹して小姓たちを呼んで詮議したが、彼らは清正の問に一言も答えず黙然としていた。
清正は睨みつけ、
「その方共は若輩とはいいながら、臆病なる者共かな!何れも父は武功の者であるというのに
かくも臆病なる有り様、父の名を汚す者共だ!」
この怒声に、加藤平三郎という14歳になる者が、頭を上げて清正の顔を見
「我々がどういう理由で、父の名を汚す臆病だと言うのでしょうか!?」
清正いよいよ怒って
「名物の茶器を割った科によって切腹をもさせられると思い、命を惜しんで割った者の名を言わないのであろう!
これによって臆病者といったのだ!」
「我々の中に命を惜しむ臆病者は一人もおりません!茶碗を割った者の名を申し上げないのは、どれほどの
名物の茶碗であっても、それは無くても事に欠けるものではありません。そんな器物のために、我々の内
一人足りとも、傷のつくことを惜しんで名を申し上げないのです。
無くても事に欠けないと申した理由は、国家を治められるのに器物が何の御用に立つでしょうか?
いまにも、御領国を奪おうと敵軍が押し寄せてきた時は、我々は命を捨てても敵を討ち取り御領国を
守護いたします。また、状況によっては主君の命にも代わり討ち死にいたします。
であれば、どれほどの名物の茶碗であっても我々の中の一人に代える理があるでしょうか?
これ故に、割った者の名を申し上げなかったのですが、我々の親たちの武功までも仰せだされた上は、
猶以ってその者の名は決して申し上げられません!」
清正はこの、まさに理の当然伏し
「あっぱれなる小姓共である。ゆくゆくは、父にまさるとも劣るまじき武士と成るだろう。
頼もしき者共かな。」と讃えたという。
(明良洪範)

122:人間七七四年
15/06/04 19:21:04.25 hzq95kPr.net
ぐぬぬ…次に戦が起こったら、こいつら先陣だな

123:人間七七四年
15/06/04 19:41:37.51 sHXMCJ0d.net
仕えてたのが清正殿でよかったな三斎殿ならどうなっていたやら

124:人間七七四年
15/06/04 19:52:52.92 Fpk8mbag.net
茶器を割られたこと自体には大して立腹してないんだな

125:人間七七四年
15/06/04 20:26:42.62 VYwm1czs.net
いい話か?これ
適当に言いくるめただけじゃん

126:人間七七四年
15/06/04 21:50:40.89 lnWP1Ttc.net
>>121は既出
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
名将言行録にも収録されてる事は知ってたけど
既出の方には出典無しなので出典明記thx

127:人間七七四年
15/06/04 22:53:15.39 QtANnKKS.net
清正なら割れた茶器見て、良い道具が出来たぐらいにしか思わないだろ。

128:人間七七四年
15/06/05 00:41:25.97 Cm6ghtPS.net
>>123
自分だったらそもそも
その辺に三斎様が放り出しといた名物茶器を
手に取って触れてみる勇気が出ない

129:人間七七四年
15/06/05 06:48:23.58 hzmwGSOp.net
名物の茶器割りすぎぃ

130:人間七七四年
15/06/05 07:34:37.53 UY1KKN2U.net
>>123
それについて、いい歌が詠めないと切腹

131:人間七七四年
15/06/05 07:48:12.64 LG4jWxex.net
手討ではなく切腹とはお優しい三斎様

132:人間七七四年
15/06/05 09:04:39.23 4WknGMYa.net
ことさら機嫌がいい日には切腹だけで許すこともある

133:人間七七四年
15/06/06 23:54:15.63 3+sHj+DJ.net
継げば趣がでるジャマイカ(鼻糞ホジホジ)

134:人間七七四年
15/06/07 00:04:09.67 qZFD/2I3.net
織部はすっこんでなさい

135:人間七七四年
15/06/07 01:55:54.17 hvMzztQS.net
武辺者の清正だから大した茶碗など持ってなかったのだろう
文化系大名だとこうなる。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)

136:人間七七四年
15/06/07 09:52:14.21 DFE7lzNk.net
中途半端なまーくんは自分で割るんですね?

137:sage
15/06/07 11:43:16.67 ifUBeCSR.net
>>135
打ち割りて接がれぬものは備前鉢 つかふものにも用心をせよ

138:人間七七四年
15/06/07 17:21:06.42 ecbDPL9G.net
天正14年(1586年)の事。
浜城城主・長与純一は兄の順平の死後その領地を押領し、親戚一同が諌めるにも関わらず
乱暴狼藉を働き、ついには主君である大村純忠に反乱を起こしました。
大村純忠は浜城に討伐軍を差し向けましたがその抵抗は激しく、また浜城は山城である為
攻め手は皆息を切らし、喉の渇きに苦しんでいました。
そんな中大村勢の中のある武者が \梅干し!梅干し!/ と大声で叫び出しました。
「梅干し」という言葉を聞いたため、兵士達は口の中に溜まった唾を飲みこみつつ奮戦し
無事浜城を攻め落とすことが出来ました。
こういう事があった為、浜城はこれ以降「唾飲城(つのみじょう)」と呼ばれるようになりました。
ちなみに\梅干し!梅干し!/と叫んだのは大村彦衛門という人物で
彼と彼の子孫は江戸時代には永代家老として長く大村藩に仕えたのだそうです。
(長崎県西彼杵郡の民話)

139:人間七七四年
15/06/07 18:01:58.25 6W5fCB+Y.net
曹操「パクんな」

140:人間七七四年
15/06/07 18:13:18.11 mDwpJFzN.net
梅林止渇の故事に倣ったら城を攻め落とせました

141:人間七七四年
15/06/07 18:29:58.63 rLUE+A1a.net
梅干しと聞いた大村方の兵たちは
「このまま城を落とせなかったらこめかみを拳骨でグリグリされてしまう!」
と必死になったのであったとさ(大嘘

142:人間七七四年
15/06/07 23:05:43.45 RARX4r5x.net
梅干し食べてスッパマン

143:人間七七四年
15/06/07 23:49:18.50 /OfgG08C.net
梅干しを食べたら忍者になるの?

144:人間七七四年
15/06/08 00:35:42.57 boPiY47B.net
止渇問題ですね

145:人間七七四年
15/06/08 02:45:45.11 w+a0g1Ia.net
清正が宇多尾の城を攻めた時の事。
戦後の論功行賞で清正は庄林隼人を戦功第一、第二を森本儀太夫とした。
しかし儀太夫は
「隼人は首を一つも取ってこなかったけど、俺は首を二つも取って来た。
それなのに俺の戦功が隼人より下なんて納得いかない!」
と呟き
「こんな見る目のない主君に仕えても俺には何の益も無い!」
と言い捨てて席を立とうとした。
すると清正は儀太夫を呼び止め、以下のように評価の理由を説明した。
「確かに今回の戦では隼人は首を一つも取ってないね。
でも隼人は俺を手伝って勝利に貢献したからこそ個人的な戦果は挙げられなかったのね。
おまえは首を二つ取って来たけど、俺が首を確認したらそれをすぐ投げ捨てたでしょ?
自分が功を立てる事ばかり考えて、主君を助けることは二の次にしてるから
そんな行動をしたんだなーと思ったのね。
だから今回の戦の論功行賞では隼人を一番にして、おまえを二番にしたのね。」
「ぐぬぬ…。」
こう言われては儀太夫も納得せざるを得なかった。
(名将言行録)

146:人間七七四年
15/06/08 07:18:03.54 Ai3rzuJe.net
ぐぬぬ…(子供の頃こいつに剣で勝ってれば)

147:人間七七四年
15/06/08 09:30:11.18 eScDMtkg.net
剣てw

148:人間七七四年
15/06/08 10:00:08.08 FPCtpOyh.net
>>145
へうげもののちょっちゅね清正で脳内再生された

149:人間七七四年
15/06/08 13:46:30.65 aPwIQt1M.net
初投稿失礼します。
普段、まとめサイトの方を見て楽しませて貰っているものです。
母方の群馬の実家に「大日向の火とぼし」という火祭りがあるのですが。
「火とぼし」は南牧村の大日向地区に4百年以上も昔から伝えられてきた、
県内に残されている最大級の火祭りです。火祭りの方式は「あばれ祭り」の型です。
住民の先祖が永禄4年、武田信玄軍が上州に攻め入った際、武田勢を助け、
領主勢の軍を打ち破った時の喜びを「火祭り」の形で伝えたものといわれています。
笛や太鼓とともに、南牧川に架かる大日向橋の上から、長さ2〜3メートルの縄に
くくり付けたワラ束を燃やし、2〜3人ずつでぐるぐると回します。
丸い炎の軌跡が闇の中に浮かび上がり、真夏の夜のひととき、力強さと幻想的な雰囲気が辺りを包みます。
URLリンク(www.youtube.com)
(南牧村HPから転載)
気になってまとめサイトを調べてみたら、まさにその時の話がありました。
「武田信玄の国峯城攻め・いい話」
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
500年以上前の出来事を地元の人達が文化として綿々と伝えてきたいい話?でした。

150:人間七七四年
15/06/08 16:38:28.27 yb1ny3h6.net
>>148
本家がそろそろクライマックスだからその後はこんなちょっとした話を集めた
デフォルメ武将たちのスピンオフでもやってほしいな

151:人間七七四年
15/06/09 02:29:39.68 8aW1a38G.net
有名な話なので皆さん既にご存じかと思うのですが
既出チェックしたら未投下のようなので書いてみます。
加藤清正の中備の吉村又市が釜山海で敵と戦い、戦闘は日暮れにまで及んだ。
清正は「そろそろ兵を退かせなければ危険だね。誰に頼もうか…」と考えて辺りを見回し
遠く離れた所に居た庄林隼人を呼んで兵を退かせるよう命じた。
隼人は早速采配をとって馬を交戦中の両軍の間に乗り入れ、無事兵をまとめ引き揚げてきた。
さてこれで良し…と思った清正がふと隣に視線をやるとΣ(゚Д゚)
直ぐ側に控えていた森本儀太夫が(´;ω;`)ブワッて感じで泣いていた。
しかも何やら怒っているようにも見える。
驚いた清正が泣いている理由を尋ねると儀太夫はこう答えた。
「隼人と俺は同じように殿に従ってずっと一緒に戦ってきたから
俺が決して隼人に劣らない事は殿もずっと見てきて知っている筈と思ってたんだけど、
俺が側に居なくて隼人だけが殿の側に居たんだったらどうも思わないんだけど、
すぐ隣に居る俺に(兵の撤収を)命じずにわざわざ遠くに居る隼人を呼んで命令するなんて
殿は俺より隼人の方が優れてる、役に立つと思ってるんだー!!。゚(゚´Д`゚)゜。ウァァァン」
ウァーン・゚・(ノД`)ヽ(゚Д゚ )ナクナ
清正は泣き続ける儀太夫に笑いかけ、以下のように言って宥めた。
「そんなことは無いのね。二人共同じように俺の手足みたいに大事な家来なのね。
 ただ仕事をしてもらう時は性格や能力に合わせた仕事を頼むようにしてるのね。
(「汝等は均しく予が股肱腹心なり、使ふ所は其器に従ふのみ。」)
 もしお前に兵の撤収を頼んだら、お前は勇敢な気性だからきっと一戦交えてくるでしょ。
でもそうしたらかえって兵に損害が出ちゃうでしょ。
隼人は敵に取り合わずにさっさと引き揚げてくるだろうから彼にお願いしたのね。
もし強い敵や堅固な陣地を攻める時が有ればその時は必ずお前にお願いするよ。
お前に頼めば倍以上の敵だって怖くないね。
そういう強い敵を打ち破ることにかけてはお前に及ぶものは居ないよ。
儀太夫の良い所ってそこなんだからね。」
「殿がそう言ってくれるなら面目が立つような気がします…(´Д⊂グスン」
これを聞いて儀太夫は泣き止み、機嫌を直した。
(名将言行録)

152:人間七七四年
15/06/09 03:20:50.41 QT0enhVZ.net
力士うぜーなw
それにしても清正いい殿やね

153:人間七七四年
15/06/09 04:13:16.97 7/phbquE.net
たぶん、これに類する話って他でもあったんじゃなかろうかね

154:人間七七四年
15/06/09 07:55:21.61 Fz4IUy28.net
清正は脳筋家臣との友情話が多いな。西の清正、東の義光って感じか。

155:人間七七四年
15/06/09 08:14:07.46 pAiKCJVZ.net
>これを聞いて儀太夫は泣き止み、機嫌を直した。
お前は彼氏と喧嘩した女子大生かとw
てか、武士って結構すぐ泣くよなw

156:人間七七四年
15/06/09 14:14:28.45 YEEyi+y6.net
面倒くさいのは三河武士だけかと思ってたけど
ほとんど全ての武士が面倒くさい性格してるように思えてきた

157:人間七七四年
15/06/09 14:46:01.42 yywcjHnx.net
武者はヌコとも言え畜生とも言え、面倒くさき事が本にて候

158:人間七七四年
15/06/09 15:34:49.62 zqv3JMd7.net
確かにヌコも面倒くさいwww

159:人間七七四年
15/06/09 19:07:35.37 wS1pXIFy.net
加藤清正の家臣、飯田覚兵衛は、始めは6石取りであったが、後に2千石の部将となった。
その後、清正の命に違うことがあって牢人し、伏見に退居し、草履や馬踏などを作って生計を立てた。
福島正則はかねてより飯田の武勇を知っていたので、4千石で招きたいと言ったが、飯田は仕えようとしなかった。
その後も正則の下より度々使いが来たが、全て断った。この使いに飯田は言った
「私は清正の不興を蒙り、このように浪士の身となりましたが、二君に仕える心は持っていません。
今でも、清正の出陣が有るなら一番に馳せ付け、清正の馬前にて討ち死に致す覚悟です。」
正則はこれを聞いて深く感じ入り、早速清正にこの事を語った。
このため、清正はやがて飯田を呼び戻し、元の通り2千石を与えた。その後度々の武功で、6千石にまで成った。
(明良洪範)

160:人間七七四年
15/06/09 22:50:04.06 OQCpTe6Q.net
なんか前もみた覚えあるんだが

161:人間七七四年
15/06/09 23:42:38.23 QT0enhVZ.net
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
既出やね

162:人間七七四年
15/06/10 01:15:57.60 34KnPauR.net
       /´⌒ヽ
     /〆    i
   / /′    ,i       _,..r:ァ
  /"  i;       ノ'{`゙ヤ'"´⌒ /
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>>157
武者はヌコとも言え畜生とも言え、面倒くさき事が本にて候

163:人間七七四年
15/06/10 02:45:26.69 2vPuCum7.net
>>162
うちが撮ってデスクトップに貼ったヌコそっくりや

164:人間七七四年
15/06/10 05:10:11.95 bxb4SBnb.net
キャットぅ清正

165:人間七七四年
15/06/10 22:28:02.23 HAFLfQDK.net
龍造寺高房「鍋島を呪ってやるにゃっ」

166:人間七七四年
15/06/11 00:56:18.40 WFJ6n8Hm.net
池田備中守長幸の家臣、水野善右衛門は、文武に達し、至忠の老臣であった。
長幸が10歳の時のこと、善右衛門は長幸を強く争諫したことがあった。長幸はこれに大いに怒り、
物も言わずその席を立った。
一時程して、善右衛門は長幸に呼び出された。
「その方の先刻の諫言、心から承知した。
私のこの頃の行いは、甚だ心得違いであった。誤り入るものであった。
今後はその方の諫めの通り、行いを必ず改める。
それについて、その盃を飲んで、私に差し出してほしい。」
主君に盃を差し出すという行為を、善右衛門は僭越なことだと考えこれを硬く辞した。
長幸は再び言った
「その方の先刻の諫言によって、私は本心に立ち返ったのだから、その方は私のための
良き師である。ならば、身分は君臣であっても、道においては師弟である。
師より弟子に盃を与えることを、どうして固辞することがあるだろうか?
さあ、差し出してほしい。」
善右衛門は平伏したまま号泣し、再び頭を上げることも出来なかった。
世の人は浅野長幸を良将であると言う。これは水野善右衛門が彼を良将としたのである。
(明良洪範)

167:人間七七四年
15/06/11 04:57:45.14 EcOF5DD+.net
池田なのか浅野なのかはっきりしてくれ

168:人間七七四年
15/06/11 06:49:38.64 WFJ6n8Hm.net
>>166
>>167
池田です。申し訳ない。

169:人間七七四年
15/06/11 10:59:26.83 Dq6A5+cE.net
毒入り盃かと勘繰ってしまった

170:人間七七四年
15/06/11 17:09:41.67 G2dBjRRI.net
同じく勘繰った。
盃飲み干して「ぐはっ」
長幸「出過ぎたことを申すからじゃ」
とか思ってたら、そうそういい話の方だったと。
長幸公はお歳の割には老成しておられますな。

171:人間七七四年
15/06/11 19:44:23.07 WFJ6n8Hm.net
伊賀の住人であった日比惣八郎は、徳川家康がまだ三河一国の時代に招かれ、
鉄砲鍛冶棟梁として召し抱えられた人物であった。
ある時、冬の中鉄砲増産に励む惣八郎の姿を見ていた家康が、このように言った。
「日々に増えるものは胝(あかぎれ)であるなあ。よし、日比の姓を改め、胝と名乗るように!」
あかぎれのひびと惣八郎の苗字の日比をかけたわけである。
こうして日比惣八郎は胝惣八郎となった。
当初は”胝”と書いて本の姓と同じ”ひび”と読ませていたらしいが、やがて”あかがり”と読むようになった。
胝惣八郎はその後も家康とともにあり、関ヶ原、大坂の陣も徳川家の武器製造職人頭として活躍した。
また、江戸においては隅田川流域の土地を家康より直々に拝領し、ここを鉄砲町とした(現在の中央区本町)。
配下の職人たちを移住させ、惣八郎家は代々、この鉄砲町の名主役と成った。
(胝家文書)

家康命名シリーズ。胝惣八郎編

172:人間七七四年
15/06/11 19:49:49.33 xObTtLXF.net
>>171
ほんと、権現様のネーミングセンスって…

173:人間七七四年
15/06/11 20:49:06.57 Ztm/hrp0.net
>>171
内容は頑張る職人さんを労ういい話なのに
権現様のネーミングセンスが悪い話でもある…

174:人間七七四年
15/06/11 21:02:36.78 DR3qRAZ6.net
また権現さまの被害者が出てしまったのか

175:人間七七四年
15/06/12 08:39:44.80 loM7he5t.net
珍名だな。そんな名前は聞いたことないな。

176:人間七七四年
15/06/12 08:52:14.28 Hy7VMFPA.net
>>175
珍名だからこそ、聞いたことないんでそ。
あと、権現様由来の名前って、維新期に変えてしまう例もあるしなぁ

177:人間七七四年
15/06/12 13:14:46.81 NjHw0L8m.net
家事をがんばるママの手を見て「お前、名前手湿疹な」て言うような…?

178:人間七七四年
15/06/12 18:26:48.14 NF0l0HPn.net
薩隅の戦国お菓子 ふっかん
少し前に見た、鹿児島のテレビ番組で地元のタレントさんが鹿児島各地の
商店街などを巡るコーナーがあるのですが、とある和菓子屋さんに
「浜の市名物 ふっかん 期間限定」と書かれた看板が…
タレントさんが、お店の奥さんに「ふっかん」のことを聞いてみると
「富隈城に(島津)義久公がいらした時に献上されたお菓子で」
「皆に福が来るようにということで福+羹(かん)でふっかんです」
といわれてました。
ふっかんを検索しましたら、とあるHPでは
ぷるぷるつるんとして、もちもちの食感。口の中に広がる黒糖の風味は、
何だか懐かしさを感じます。「ういろう」にも似たその食べ物は「ふっかん」
といい、隼人町の浜之市で昔から作られてきた伝統菓子です。
ふっかんを製造・販売している○○庵(隼人町富隈地区)の(和菓子屋の
ご主人)さんは「浜之市は琉球との交易で黒砂糖が手に入ったので、
それを使って作るようになったようです。富隈城のお殿様に献上したところ
大変喜ばれ、自分だけでなく多くの民にも食べてほしいと言われたことから、
人々に福が訪れる”福の羹(かん)(羊羹(ようかん))“ と呼ばれる
ようになったという説もあります。私の母が商品化しましたが、母の死を機
に販売を辞めたところ、続けてほしいと多くの声をいただきました。
地域の食文化と食べてくれる人のうれしそうな笑顔を守らねばと今も作り
続けています」と話します。
HPには家庭用にアレンジされたレシピも載ってました。
ふっかん(20個分)
〈材料〉
小麦粉300g、黒砂糖(粉状)300g、片栗粉20g、水700t
〈作り方〉
1.小麦粉、黒砂糖(粉状)、片栗粉を混ぜ、ふるう。
2.1. の中に水を入れ、ざるでこし、型(直径7p程度のわん型)に流し入れる。
3.20 〜 25分蒸す。
4.冷めたら竹串を使って型から取り出す。
タレントさんが食べたときの感想は「さっぱりしていて、餅と羊羹の
間みたいな感触です」
このお菓子は浜の市地区でしか知られてないお菓子で、田植えの時の
お茶菓子として昔は各家庭で手作りしていたそうです。
お昼ごろには売り切れる人気商品で、田植えの時期から7月くらい
までの期間限定品だそうです。
(MBC 南日本放送 ズバッと!鹿児島 のぶらり商店街2015年6月6日
放送分より霧島市隼人町の「霧島市はやとサン・シティ通り篇」)

179:人間七七四年
15/06/12 18:36:01.47 5Afn7Ytw.net
春駒を思い出した
(黒くて太長いから「馬の魔羅」と呼んでたが薩摩殿様にその名で献上するのはちょっと、
てことで「春駒」に名前が変えられたういろうっぽい菓子)

180:人間七七四年
15/06/12 19:41:09.87 K8meW4ni.net
(´・ω・`)由来はともかく春駒も美味しいお

181:人間七七四年
15/06/12 20:15:23.31 NF0l0HPn.net
春駒については、とある鹿児島のお菓子屋のHPでは
>明治五年時の明治天皇が鹿児島に行幸された際、このお菓子を献上した処、
この名前をお尋ねになり、県知事がとっさに「春駒」とお答えしたと云う
エピソードが今も伝えられております。
となってますね。
ふっかんについては義久に関連するお菓子が400年以上絶えることなく
残っていた事が嬉しいです。

182:人間七七四年
15/06/14 00:08:51.24 rsqBmLUF.net
春駒#菓子
 Wikipedia項目リンク
 > 昔は数十cm程に長く作られた為、その形状から馬の陰茎を指す、
 > うまんまら(馬ん摩羅)と呼ばれていた。
 > 春駒と呼ばれる様になったのは、この菓子が献上され、その名称を
 > 尋ねられた時に、「うまんまら」と言う表現が直接的だった事から、
 > 周囲が閉口してしまった為、言い替えられた物であるとされており、
 > その時に献上された人物については、当時の島津藩主や、行幸で
 > 鹿児島を訪れた皇族等、諸説様々な話が伝えられている。
黒人陰茎とか呼べばいいのに


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