戦国ちょっといい話42 ..
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2:人間七七四年
15/05/10 22:44:41.16 UYDuZruA.net
        ∬ ∬    ∬ ∬    ∬ ∬  +
   +     人      人      人     +
         (__)    (__)    (__)
  +    (__)   (__)   (__)     +
.   +   ( __ )  ( __ )  ( __ )  +
<丶`∀´> <丶`∀´> <`∀´>
 +  (( (つ   ノ (つ  丿 (つ  つ ))  +
       ヽ  ( ノ  ( ヽノ   ) ) )
       (_)し'  し(_)  (_)_)

3:人間七七四年
15/05/11 10:50:15.45 eRrALTHT.net
この板でも途中で落ちるんだな

4:人間七七四年
15/05/11 18:31:18.92 9yEUVtvr.net
永禄6年(1563年)正月11日、松永久秀は居城の多聞山城に新しく作った茶室で
その開庵の茶事を行った。
招かれた客人は成(西)福院の住職・真名瀬道三・若狭屋宗可・松屋久政・竹内下総守秀勝の5名。
このうち松屋久政は当時の茶会の様子を記録に残している。
九十九茄子の茶入、平蜘蛛の釜を使用した茶会は濃茶→薄茶→会席料理と進行し
会席料理の品揃えは以下のようなものであった。
「本膳 煮昆布 汁チサ 揉み瓜 牛蒡 飯 塩 山椒 箸の台に白い箸
 二之膳 蓮 独活 芹焼 汁、各々土器に 干瓢・漬け物 アツメ五黄 上に結び昆布
 ツクツクシ
 三之膳 絵を書きて金の桶 宇治梅漬けて 亀足に刺して蒟蒻 金箔にて飾り 煎麩
 菓子は七種 結び昆布に作り花二種刺して青芽 美濃柿 慈姑 銀杏 焼栗 亀足刺して胡桃 楊梅」
(松屋会記)
(補足)
チサ=チシャ、レタスの仲間
芹焼=芹の炒め煮
土器(かわらけ)=使い捨ての素焼きの器、当時最も清浄な器とされた
アツメ五黄=投稿者の知識では不明 「棗(ナツメ)・牛黄(漢方薬の一種)」の意?
ツクツクシ=土筆
亀足(きそく)=串焼き等の串の持ち手部分に紙を巻き、捻って留めたもの

5:人間七七四年
15/05/11 18:56:40.07 UWP2O2tL.net
で、何がいい話?
保守のために、とりあえず投稿しているの?

6:人間七七四年
15/05/11 19:23:16.44 C/newK1P.net
こっちか
『今川家の赤薬』と言えば、世の中では急病に用いた場合効能の在る薬だと言われている。
この薬はそもそも、足利将軍光源院(足利義輝)の馬が患った時、乞食斎の僧が三条河原で
この馬を見て「たやすく治せる病なのに」と言っているのを、義輝が聞いて治療を望んだ所、
乞食が薬を用いると、たちまち患いは癒えた。
この時、義輝は一宮随巴という弓の師に言って、その薬法を学ばせ書き留めさせた。
そののち義輝が。永禄の変で斃れると、一宮随巴は駿河に下った。
駿河において、今川氏真は薬法などを面白がる人であったので、一宮は氏真にこれを教え、
そうして今川家の薬として世に広まったのである。
(明良洪範)

7:人間七七四年
15/05/12 06:26:14.78 VtUQjXB1.net
なぜ専門の医者ではなく、弓の師範の武士に学ばせたのか謎だ

8:人間七七四年
15/05/12 06:53:31.95 5z1PL6WJ.net
すでに出家してるかもしれんじゃろ

9:人間七七四年
15/05/12 15:32:03.05 8QhSMnKN.net
天下五剣 【大典太】他国宝15点 一般公開
北陸新幹線開業記念特別展「加賀前田家百万石の名宝−尊経閣文庫(そんけいかくぶんこ)の名品を中心に−」は24日、
金沢市の石川県立美術館で始まった。国宝の日本刀や古写本をはじめとする前田家伝来の秘宝が空前の規模で一挙公開され、
壮麗な加賀藩の文化遺産に来場者が目を見張った。
公益財団法人前田育徳会(東京)が管理する前田家の史料コレクション「尊経閣文庫」の収蔵品を中心に、国宝15点、
重要文化財(重文)35点を含む約120点が展示された。
URLリンク(www.ishibi.pref.ishikawa.jp)
国宝「太刀(たち) 銘光世作(めいみつよさく)」は、前田利家の四女豪姫(ごうひめ)が病気になった際に豊臣秀吉が利家に貸し与え、
枕元に置くと病が治ったという逸話がある。漆地に金箔を押した絢爛(けんらん)な具足(ぐそく)(重文)や、
お松の方の手製と伝わる「刺繍菊鍾馗図陣羽織(ししゅうきくしょうきずじんばおり)」(同)など、利家所用の品々も注目を集めた。
国宝となっている万葉集や土佐日記の古写本など、貴重な書籍、典籍類も数多く並んだ。
金具類などの実物資料やデザイン見本帳などを集めた「百工比(ひゃっこうひ)照(しょう)」も展示され
「工芸王国・石川」の礎となった加賀藩の文化政策をしのばせた。
展示は6月7日まで。期間中、一部は展示替えを行う。入場料は一般千円、大学生600円、高校生以下300円となっている。

10:人間七七四年
15/05/12 20:07:12.74 NZTF7fg3.net
利家がセコく秀吉から掠め取った名刀か(偏見

11:人間七七四年
15/05/12 20:08:02.19 K8EBCMLY.net
借りパクなんですかね?

12:人間七七四年
15/05/12 20:31:29.79 iS2UwS+t.net
慶長年中のこと。
尾州名古屋の城を建設の時、加賀の前田、池田、福島と言った諸侯はそれぞれ力を尽くしていた。
そんな中、天守を建てるための土木の事始めの日に至り、地鎮祭を行う旨を奉行の面々が沙汰したが、
徳川家康はこれを着くと、こう申し下した
「天守こそは、その城の鎮めであるというのに、それにまた、何の祈祷をするというのか?
そもそも城の盛衰というものは、城主たるものの武備、政治によるのだ。どうして地祭りを頼むべきか。」
これにより、地鎮祭は中止に成ったと、これはその当時を知る古老が語ったことである。
(明良洪範)

13:人間七七四年
15/05/13 06:46:17.53 jMiHk/Ke.net
東郷重位が、悪久に斬りかかられたのを扇子でかわした、という逸話ってもう出てたっけ?

14:人間七七四年
15/05/14 22:58:36.16 F/gHNE03.net
葵徳川三代見て、ふと思い出したから書かせてほしい。
ドラマ中じゃ、何かとコミカル的役割で描かれた常高院ことお初さんだけど、
大河やら戦国ゲーム等で浅井三姉妹の知名度が上がるずっと前に
知ってるつもり!?で彼女らを特集した時(常高院視点で描かれてた)に、
大坂の陣後の晩年、常高院が大坂の陣について秀忠に言ったという
「半ば恨み半ば喜ぶ」って言葉が印象に残った。
つまりこの戦で姉や甥などの肉親を死に追いやった事は万死に値するが、
太平の世が来た事でこのような戦で肉親が引き裂かれるような悲しい事はもうないって意味。
姉と妹の板挟みになって落城を四度も経験した姉妹随一の苦労人ならではの言葉だよなと思った。

15:人間七七四年
15/05/15 01:45:56.17 BTdMBp9q.net
家康公の危機を救った満光寺とニワトリ

元亀年間家康が若い頃、甲斐の武田信玄に敗れ、山の吉田まで落ち延びて来た。
夕方のことで疲れも激しく途方に暮れていたところちょうど満光寺という寺が目に止まった。
そこで住職に一夜の宿を頼んだ。住職は家康たちを一旦見て戦乱の常とは
いいながら大変気の毒に思い、心良く泊めることにした。
家康はたいへん喜んで住職にお礼を述べ更に
「ご住職誠に相済まぬが、私どもに故あって明朝早立したいと思う。
 よって一番鶏が鳴いたら必ず起こして戴きたい。」
と頼んで寝についた。そして真夜中になった頃であった。
不思議なことにその夜に限って、寺の鶏が真夜中に刻を告げた。

16:人間七七四年
15/05/15 01:46:54.12 BTdMBp9q.net
住職は随分早く鳴いたものだ、と思いながらも約束のことを思い、早速家康たちを起した。
家康たちは厚く住職にお礼を行って大急ぎで闇の中を出発した。
ところが家康たちが去って間もなく、武田の一隊が家康討伐のために寺を包囲したが、
家康一行は一瞬の差で危機を脱することができたと伝えられている。
後天下を統一した家康は、満光寺の鶏によって危うく命を救われたことを思い
寺領三石を与えて恩に報いたという。
その後、慶安二年(一六四九)三代将軍家光から寺領二十石が与えられた。
「山の吉田の満光寺さまの、とりになりたやにはとりに」
と今でも民謡として唄いつがれている。

以上、昨日ドライブで立ち寄った青龍山満光寺の立て札から書き起こしました。

17:人間七七四年
15/05/15 10:53:07.75 cxuy6oUb.net
寺領三石だの寺領二十石だのせこくね?

18:人間七七四年
15/05/15 18:05:21.32 H3nuxdTt.net
それなりの大名の菩提寺だと、数百石が相場だっけ?
増上寺はさすがに二万五石ほど貰っていたらしいが

19:人間七七四年
15/05/15 18:25:46.52 OFOyQM8N.net
>>7
なら氏真は医者かよ
この武士も薬法などを面白がる人であったのだろうな

20:人間七七四年
15/05/15 19:32:38.25 s4zE5pkM.net
羽犬塚
筑後にはかつて、「羽犬」と呼ばれる。羽の生えた獰猛な犬が居た。
羽犬は旅人を襲ったり家畜を食い殺すなど、住民から恐れられていた。
天正15年(1587)、豊臣秀吉の軍勢が島津征伐のためこの地を通った時、この羽犬に行く手を阻まれた。
これに秀吉は、大軍を繰り出し戦い、やっとの思いでこれを退治した。
秀吉は羽犬の賢さと強さに感心し、この犬のために塚を作り、丁重に葬った。
筑後市には今も、この伝説に基づく「羽犬塚」の地名が残る。
(筑後市の伝説)
秀吉の九州遠征軍、謎のモンスターと戦っていたらしいというお話。

21:人間七七四年
15/05/15 19:37:07.11 03diKZl+.net
九州ならそれくらい居てもおかしくない

22:人間七七四年
15/05/15 19:59:58.15 3qS2i5/P.net
犬猿の仲・・・?

23:人間七七四年
15/05/15 20:10:18.87 s4zE5pkM.net
ちなみに筑後市にはこの羽犬の像があちこちにあるそうで
URLリンク(shinshizo.com)
URLリンク(shinshizo.com)
URLリンク(shinshizo.com)

24:人間七七四年
15/05/15 20:37:35.07 8wddwc6e.net
>>23
悪魔マルコシアス…?

25:人間七七四年
15/05/15 21:25:52.80 hq8BC2Bh.net
翼の生えた猫なら知ってる URLリンク(karapaia.livedoor.biz)

26:人間七七四年
15/05/15 22:16:31.61 kpTcVJOQ.net
大軍を繰り出しって、どんだけ強かったんだよw
>>23
この像って、由来を知らなかったら意味不明だろうなw

27:人間七七四年
15/05/15 23:41:40.47 S1/8elDP.net
>>15-16
また家康公負けたのか
いつも武田軍から逃げてんじゃねえか

28:人間七七四年
15/05/16 00:24:39.11 S/RpVYMB.net
松江城天守、国宝に
URLリンク(headlines.yahoo.co.jp)

29:人間七七四年
15/05/16 08:05:24.71 +eeeJb8u.net
>>27
何度負けても、武田軍からは逃げ延びた権現様の生存能力の素晴らしさ
なお、茶屋のお婆さんからは逃げられなかった模様
この場合、武田騎馬武者がお婆さんより鈍かったのか
お婆さんが凄すぎたのか・・・?w

30:人間七七四年
15/05/16 08:23:12.40 aONeWj6R.net
>>28
まだ国宝じゃなかったんだね。馬鹿でかい縄張りに黒い天守。かっこいいよなあ。良いものつくるわ、堀尾さんは。

31:人間七七四年
15/05/17 19:52:46.25 5mtJsH7g.net
近世では、僧俗ともに床の間と呼ぶ書院座敷には、必ず書画などの掛け物を掛けるが、これは古には、
押板といって禅室に始まった。
京鎌倉において、臨済宗を崇敬している人々が、和尚に頼み本則を書いてもらうことを乞い、和尚は
一千七百則の要文を二三五字で書いて出した。これを押板に貼り付けて壁に掛けたのを、掛け字と呼び、
その字の心より悟入の工夫をしたのである。
禅室に入るには、睡眠を第一に戒められたため、眠気をもたらさないため芳名香茶を飲んで参禅したため、
自然と茶の一道が起こった。その後、征夷大将軍であった足利尊氏が禅学を尊んだため、
茶のことも徐々に盛んとなり、佐々木道誉、高師泰などが茶に耽って、掛け字も異国に求めた。
虚道の墨跡はこの時から世の中で賞翫され、天下第一の墨跡と成った。
後醍醐帝も茶を翫び、吉野山にて茶器を作らせられたのが、金輪寺の茶入れである。
虚堂を掛ける時に、必ず金輪寺の茶入れを置くようにするのは、一伝のあることなのだとか。
また、床の間に絵を掛ける習慣は、将軍足利義政より始まったことである、
当時は皆、唐宋の名画を用いた。馬遠玉子昴舜挙東坡などの類である。
日本の書画を初めて用いたのは、三好左京大夫(義継)が将軍義輝の御成の時に、新たに
狩野元信に書かせたものだという。
その後、阿倍仲麻呂の、小倉百人一首にある天の原の歌を色紙にしたものを掛けたところ、
人々大いに賞賛した。これが本朝の墨跡を用いるものの始まりだという。
これ以後、好事家の人々は藤原定家の小倉百人一首の色紙を、千金に変えて賞翫するようになった。
松永久秀は八重むぐらの色紙を所持し、これを「茂るの宿」と号し秘蔵していた。
これを所望する人々は多かったが、誰にも与えなかった。
ところが、千利休の茶道に掛ける志を久秀が感じて、彼に与えた。
これは利休の秘蔵第一の品とされていた。
その頃、大徳寺高月和尚の老父で、宗及という人が居て、この色紙をかねてから執心していたが、
利休はそのことを少しも知らず、ある時、かの茂の宿を掛けて宗及を招いて一服を進めた。
宗及が茶室に入ってこの掛け物を見ると大いに驚き、気鬱のあまり茶を飲むことも出来ず、
そのまま自分の家に帰って嘆き臥した。
その理由を利休は聞いて哀れに思い、翌日、色紙を手ずから持参し宗及に取り伝えたという。
やさしき心である。
(明良洪範)

32:人間七七四年
15/05/19 12:59:21.94 UTKPfOmn.net
徳川家康没後400年記念【大関ヶ原展】
先の5/17で江戸東京博物館の東京の展示会は終わりましたが、京都と福岡の展示会はこれから
ただし開催期間中に展示品の入れ替えがあったり、「東京(前期・後期)」「京都(前期・後期)」「福岡(前期・後期)」「前期や後期に関係なしに期間限定スポット展示」でしか見られない品もある等、
過去最大級のイベントながらなかなかに大人の都合で全ての展示品を見ようとするのは困難
現時点では
東京会場限定…蜻蛉切、井伊直政の甲冑
京都会場限定…大名物茶入初花、知音院蔵徳川家康木像
福岡会場限定…黒田長政一の谷形兜
東京会場では当日券購入列も待ち時間があり、入場制限120分待ち等もあり
近畿と九州の方はローソンのロッピーで前売券が買えますので、こちらをお勧めしてみます
(´・ω・`)東京会場では本多忠勝の甲冑の数珠が前後逆にセットされたまま展示され、図録の数珠も左右掛けが逆の写真が掲載されていました
物販の図録は321点の宝物と解説・釈文で計393ページの人の殺せる厚み
歴史好きの人にはこちらも購入をお勧めさせて頂きます

33:人間七七四年
15/05/19 13:16:36.52 UTKPfOmn.net
東京会場の入口を入ったところにあったフリーペーパーの展示品「作品リスト」では東京で展示されたのは図録掲載321点中約160点。
前期後期通して全期間展示されたのはその内約30〜40点程。
見に行ける機会が一回な人は会場やタイミングも重要という罠…
…という訳で図録(図録のみ税込¥2800、トートバッグとのセットで税込¥3000)は本当に重宝しています
※「大関ヶ原展」で館内は撮影禁止
※東京会場でスタッフの方に聞いたところ、鉛筆とシャープペンでのメモは可能でした

34:人間七七四年
15/05/19 13:51:01.87 UTKPfOmn.net
東京会場の前売券はローソンでしたが
京都会場の前売券はセブンイレブンとファミマのようです
おまけ
東京会場の様子
(東京会場限定の真田昌幸の甲冑が徳川秀忠の鎧の脇に展示されている)
URLリンク(www.museum.or.jp)
※館内は撮影禁止

35:人間七七四年
15/05/19 19:03:38.42 dccwnytO.net
黒田孝高(官兵衛)・長政父子が、豊前において城井鎮房と戦っていた折のこと。
野中左京大夫、その弟の兵庫助はこれも豊前の国人で、他の者達より領地広く、殊に勇気人に優れた
者達であったが、城井方に付き、兵を多く集め、左京大夫は下毛郡津民村の長岩城に籠もり、
兵庫助は上毛郡友枝村の雁股ヶ岳城に立て籠もった。
両城共に堅固なる要害であった。
黒田長政は彼らを攻めるため、士卒を引き連れ向かうと、野中も居城より出て、井手の口と言う所で
対陣した。長政はここで大いに合戦して、野中勢を切り崩し、敵勢尽く城に逃げ入った。
その後、野中勢は籠城して手出ししてこようとしなかった。しかし彼の地は難所であるため、
急に攻め落とすことは困難であり、長政は孝高と相談し、栗山四郎右衛門(利安)に
「野中の城に馳せ向かい、何か手立てを以って攻め落とすように。」
と命じた。しかし四郎右衛門
「かの両城は切所であり、殊に敵は大勢です。私が小勢で攻めて、もし戦に負ければ、
お為になりません。他の者に仰せ付けられるべきです。」

長政はこれを聞くと激怒した
「四郎右衛門、臆したる返答なり!」
「そのように私を臆病者とお考えなら、なおさら他の者に仰せ付けなされ!」
「お前を選んで申し付けたのだ!どうあっても出陣しろ!」
そう再び命じた。
(長政是を聞て、四郎右衛門臆したる返答なりとて、以の外怒り給う。四郎右衛門申けるは、
左様に我等を臆病者とおぼしめさば、猶以余人に仰付られ候へと申しければ、
汝をえらびて申付るにてこそあれ、是非発向すべきよしふたたび命ぜられる。)

四郎右衛門は「この上はとかく申すに及ばず」と了承し、士卒を率いて彼の地へと赴いた。
彼はこの時『家臣多き中に、今度の打ち手に選ばれ指を向けられたことは、武士の面目、
これに過ぎる事はない。であれば、今度の戦に打ち勝って敵を平らげれば、生涯の大幸である。
もし撃ち負ければ、何の面目があって主君にも朋輩にも再び顔を向けられるだろうか。』と思い、
諸卒を励まし精力を尽くして戦った。
敵は山中より出て度々戦ったが、四郎右衛門はその度に戦の利を得たので、敵はその勇気に挫かれ、
叶わないと思ったか、ついに両城を放棄し退いた。
その後、野中兵庫助は豊後に逃げて身を隠していたのを、黒田孝高より大友に通報したため、
彼の地にて誅殺された。
今回の戦で、栗山四郎右衛門は度々の戦に打ち勝って敵を退治し、両城を乗っ取ったこと、
孝高・長政父子は甚だ感じ入り、その褒賞として野中の所領を四郎右衛門に与えた。
(黒田家譜)
なかなか面倒くさい、栗山利安の野中氏攻めの記事である。

36:人間七七四年
15/05/19 19:07:43.50 UTKPfOmn.net
城井さんの石高ってどれぐらいあったんだろう?

37:人間七七四年
15/05/19 21:05:01.61 De3nPYMt.net
10万程度

38:人間七七四年
15/05/20 05:54:28.96 78f3vBWR.net
十万石程度の相手に、卑劣な騙まし討ちをしないと駄目だった豊臣・黒田
城井がそれだけ凄かった、と考えるべきなんだろうか

39:人間七七四年
15/05/20 09:03:51.00 bRuGbdwU.net
城井さんと一族かわいそうだな クソ黒田&豊臣め

40:人間七七四年
15/05/20 09:08:39.46 tzsugiDo.net
勝てる見込みのない戦いはしないのが秀吉官兵衛であって勝つつもりで戦うのが長政

41:人間七七四年
15/05/20 14:29:31.28 1et9E2AO.net
>>38
程度っていうけど、12万石に封じられた大名が10万石の在地勢力を潰すって
かなり大変な気もする
秀吉が全面的に後援してなきゃさ

42:人間七七四年
15/05/20 16:18:47.83 O5wfIdSV.net
秀吉はそこの土地やるから鎮撫はお前らでやれというスタンスではなかったか

43:人間七七四年
15/05/20 17:17:58.71 R6AXP4Pj.net
>>42
んで、手に負えなくなって秀吉に泣きつくと、
改易が待ってる。佐々だの木村親子だの…

44:人間七七四年
15/05/20 17:34:59.81 gvyvudER.net
【雑談】大関ヶ原展
URLリンク(sekigahara2015.com)
「東京展」が終わり、これから「京都展」と「福岡展」。
行ける人は行った方がいい。そして買える人は図録も買った方がいい!

45:人間七七四年
15/05/21 06:44:25.68 zW4gQv0C.net
大名行列の様に並んで、館内でも前の人の列に続いて流れ作業的にぞろぞろと展示物を見る様な状態だった。
4分間の関ヶ原のプロジェクションマッピング最後の「島津隊」の戦場離脱にはあちこちからどよめきと笑い声が起きてた。
会場と期間によっても見られなかった物があったのは後で知って痛かった…

46:人間七七四年
15/05/21 13:34:09.39 goU9eGLy.net
名古屋ではやらんのか....
これじゃあ関ヶ原行くほうが近いな。何もないけど。 (´・ω・`)

47:人間七七四年
15/05/21 13:39:39.53 T6mp2egz.net
関ケ原町歴史民俗資料館があるじゃない

48:人間七七四年
15/05/21 13:44:14.56 8YK/QazJ.net
関ヶ原ウォーランドがあるじゃない

49:人間七七四年
15/05/21 14:48:16.83 b+gF+i9v.net
飛ばされてこそ名古屋でしょ

50:人間七七四年
15/05/21 15:09:37.53 zW4gQv0C.net
石田正宗と蜻蛉切と徳川四天王全員分の甲冑の展示は東京だけかな?
京都限定・福岡限定の展示もある様。
行ける人はコンビニでの前売券購入で、当日券購入待機列の待ち時間をカットだ(京都展の前売券はセブンイレブンとファミマだったか)
URLリンク(www.museum.or.jp)
※大関ヶ原展は撮影禁止
※東京展で聞いたところ鉛筆とシャープペンでのメモはOKですた

51:人間七七四年
15/05/21 15:39:45.39 vH1plfPz.net
13日に行ったけど、大入りだったな
石田正宗がカッコよかったな

52:人間七七四年
15/05/21 16:26:57.90 e2/fTsRZ.net
>>29
最強BBAは次の無双系ゲームにぜひとも登場させてほしいな
キャラデザインは漫☆画太郎先生で是非

53:人間七七四年
15/05/21 19:42:45.37 CkbZKKly.net
東京の大関ヶ原展は
西国大名関係がイマイチ弱くてかなC
いま九博で九州の戦国武将展やってるのでそっちも見たが
大関ヶ原展と展示品が割とかぶってるんだなw

54:人間七七四年
15/05/22 00:58:24.40 nWgigd4P.net
紀伊國屋書店で九州国博の図録みたいな本が売られていた。
大友氏関連の物が多い様だけど、これに福岡の関ヶ原展ではどれくらい東国や近畿の展示物が加わるんだろう?

55:人間七七四年
15/05/23 00:10:21.86 fjqI42L/.net
>>51
石田正宗はトーハクで良く展示されてるけど
チラ見で素通りされてる

56:人間七七四年
15/05/23 01:12:08.39 ztRMeDO9.net
この前ここのスレみんが石田正宗の写真うpしてた稀ガス
俺も別の展示のときに見てきたな

57:人間七七四年
15/05/23 17:22:40.65 eWFh9jwA.net
刀剣乱舞という糞ゲーの影響で
ヲタが名刀に群がる異常

58:人間七七四年
15/05/23 21:19:47.98 LaXWbfSK.net
ヲタっつうか腐女子だろそれ

59:人間七七四年
15/05/23 21:22:46.22 8AduwBas.net
ここの住人も戦国ヲタが大半だろうから人のこといえんのでは
それに博物館に来る客が多くなることのどこに問題が

60:人間七七四年
15/05/23 21:57:06.52 waYCXyMN.net
ブームの恩恵には与れるし二年もしたらいなくなるだろうし問題ないだろ、多分

61:人間七七四年
15/05/23 21:57:56.12 Vg/aNVPg.net
名刀に興味もってもらうのは良いことじゃないか。

62:人間七七四年
15/05/23 22:27:07.37 NRdc/Hqp.net
関ヶ原展では客層のまんべんなさにビックリしたもんだが
(十代の子も多かった)例の名刀ゲームの影響もあったんだなw

63:人間七七四年
15/05/23 22:53:05.22 42ZDHsJt.net
>60-61
にかわ的に騒ぐ人に対して良い感情を抱かないのも理解できる
だけど新規のファンが入らないとジャンルとしては先細りしていくだけだから長い目で見ると新世代開拓は大事な事でもある

64:人間七七四年
15/05/23 23:04:18.97 LqKtIBUu.net
茨城の徳川ミュージアムには新規会員が寄付金を募っているそうだ。
学校の先生が「学割が効いても入場料を落としてあげて」と言っている商売下手な徳川美術館も入場者増と寄付金増でひと息つけているそう。
新たに興味を持つ人でもマナーが良ければ悪い事ではない。

65:人間七七四年
15/05/23 23:05:27.14 QZO3831n.net
まあ戦国ネタのゲームが出たら必ず排斥論は出るもんだからな
どうせお前ら、20年前は信長の野望から戦国好きになった奴をニワカだ殺せって言ってて、10年前は無双とかBASARAから戦国好きになった奴をニワカだ殺せって言ってたんだろw

66:人間七七四年
15/05/23 23:12:22.22 63iM2JB+.net
むしろそのニワカだったのが他人をニワカ扱いしてるのでは
自分もそのニワカに入るから強く主張はできんが

67:人間七七四年
15/05/23 23:44:30.65 XhOLNTjL.net
ミラクルワールドブッシュマンめ!

68:人間七七四年
15/05/24 03:20:07.71 dRszBFOX.net
むしろ最近のノブヤボのシステムのについていけない;;

69:人間七七四年
15/05/24 11:15:35.54 jncOzvIq.net
まだノブ野暮やってるの?w
もうオワコンでしょ

70:人間七七四年
15/05/24 14:43:57.97 dRszBFOX.net
今日は伊達政宗の命日か
「杜の都」の誕生
1610(慶長15)年、仙台城の大広間の完成式に招かれた良悦は杉苗2800本を持ち込み、政宗に杉の植樹による国家百年の富国策を講じた
持ち込まれた杉は本丸・花壇・領内の諸寺に植えられ、その数は7年間で2万本にも及んだ
この功により良悦は寺領として田畑2貫文を賜る
「杜の都」は、この杉の作る木立の名称であると言われる

71:人間七七四年
15/05/24 14:50:30.62 AT2hFnzK.net
杉は火災に強いからなあ

72:人間七七四年
15/05/24 15:29:45.48 dRszBFOX.net
防火・防風・防雪の江戸時代植樹の屋敷林に用いられた杉・松・唐松よりも、今の人には欅(けやき)並木の方が「杜の都」仙台のイメージが強くなってる
※街中の屋敷林は仙台空襲で焼失したり、戦後の道路拡張で伐採され、多くが姿を消した
欅はそれに代わる新植樹と言われる

73:人間七七四年
15/05/24 16:32:12.66 gYF3FGYa.net
>>69
オワコンって言葉使いたいだけか

74:人間七七四年
15/05/24 16:37:26.88 en1X08S6.net
とオワコンにしがみついてるニワカが発狂しています

75:人間七七四年
15/05/24 17:02:46.21 OS54wcIc.net
ニワカって言いたいだけだろ

76:人間七七四年
15/05/24 17:11:22.89 9l1gsEe+.net
お前ら何がきっかけで戦国好きになったのか教えてくれ
俺は戦国コレクションな
笑えばいいよ

77:人間七七四年
15/05/24 18:07:50.26 1azH/130.net
昔、学研で出てた信長の漫画。

78:人間七七四年
15/05/24 18:19:06.87 AF5p5I8t.net
他所でやれ

79:人間七七四年
15/05/24 18:30:13.16 yG6n96NO.net
天正12年(1584)、佐々成政は、前田利家の重臣・奥村助右衛門永福の守る、能登末森城を囲んだ。
世に言う末森城の戦いである。
成政は旗本を以って前田利家の後巻(救援)を抑え厳しく攻め立て「この城を打ち破れば
能登一国は即座に我々に従う。後巻が来ない内に乗っ取れ!」と下知した。
奥村はわずかに300ばかりの兵でここを守っていたが、あまりに激しく責め立てられたため、
「もはやこれまでである。自害しよう」と言い出した。
ところが、この奥村の妻は、小袖をたすき掛けにし鉢巻をして、刀を横たえ粥を煮て、
手桶に入れて下女に持たせ、城内の人々に手ずから汲んで食させながら、こう言って回った
「昔、楠木という大将は日本国を敵に受けて籠城したと聞き伝えられています。
明日には金沢より後詰めの軍が到着するでしょうから、今宵、ただ一夜だけ防いで下さい!」
奥村はこれを見て「今日の振る舞い男子にも優っている。さりながら女の力によってこの城を
持ちこたえるというのは口惜しいことだ。」とつぶやいた。
一方、佐々成政方は負傷者も増え、敵も容易くは落城しそうもないのを見て、これは火攻めに
すべきだと進言するものもあった。しかし成政は
「この城の大手の門を取って富山の城門とするのだ。また石動山の衆徒も私に心を合わせた。
慌てて火攻めを行う必要はない。」と下知し、既に二、三の丸を攻め取って夜が明けるのを待っていた。
この末森城から前田利家のいる金沢まで九里ばかり。その日の酉の刻(午後6時頃)、末森城より、
夜が明けるまではなんとしても城を守るという注進が入った。
前田利家はこの報告を聞くや金沢城の広間に出て、嫡子利長を呼んで
「汝はこの城の留守をせよ!」と命じた。しかし利長は
「いいえ、私が真っ先に出て佐々を打ち破ります!ここに残り留まるなど思いもよりません!」
これを聞くと利家
「ならば父子で打ち向かおう。敵の不意を打ってこそ利もあるだろう。兵を整える必要はない、
馬に鞍を置き次第一騎がけに打ち出よ!一足でも早く出る事こそ今夜の功だと思え!」
そして富田与五郎に
「おまえは津幡に行って不破彦三に末森の後巻きの先手をするように申せ」と下知した。
富田は直ぐに自宅に戻って馬を引き出し、不破彦三の元へと駆けた。
利家は士卒に「皆汁をかけて飯を食え!」と言いつつ具足を着て庭に自身の黒毛の馬を用意させていた。
この時、前田利家の婦人(芳春院)が三方にのし鮑を入れて入ってくると、利家・利長父子に従う者達に
向かって語りかけた
「おのおの、よく聞いて下さい。私は利長の母です。今日の後巻きは誠に大事の軍です。
それぞれ心を合わせて功名して下さい。
もし、末森城を的に取られたなら、皆々、討ち死にしなさい。
私も人手にはかかりません!」
そして利長の側近くに進んで我が子に対し「末森が落城したなら、あなたも討ち死にしなさい。」と言った。
利長これに「生死の別れですね。」と答えた。
利家はこれを見て「荒心であることよ。成政を打ち破ること必定である!」と言い放つやいなや、
具足の上帯を締めて、結ぶ端を切り捨てて馬に打ち乗り出撃した。
この時前田父子の兵はわずかに100人余であった。利家は馬上で
「味方が少数である事こそ吉事である!佐々が思いもよらない所に斬りかかって打ち勝つであろう!
奥村を死なせては生きる意味もない!」と叫んだ。
(明良洪範)
末森城の戦いにおける、前田利家出陣までの逸話である。

80:人間七七四年
15/05/24 21:41:29.28 58nrnPEJ.net
このスレや悪い話スレでも度々紹介されているとおり、前田利常は正室の珠姫と大変仲がよく、珠姫が若くして亡くなった際はたいそう嘆き悲しみ、ひと目もはばからず号泣したと言われている。
利常は珠姫の死後、姫の菩提を弔うため、金沢城よりほど近い場所(現在の金沢市小立野)に天徳院という寺院を創建した。
創建当時の敷地は4万坪ほどで、寺領は五〇〇石という立派なものであったといい、加賀藩から天徳院に宛てた知行宛行状は現在も当院で保管されている。
また、天徳院は昭和63年から一般公開されており、寺内では、珠姫の位牌と坐像、珠姫手製と伝わる紙雛人形、枕屏風、御膳など、珠姫縁の品々が展示されている。
珠姫縁の品々以外には、前述の知行宛行状のほか、前田光高が死去した際に八条宮智忠親王が納めた経なども展示されている。

先日立ち寄ったら、お寺の方が「団体客はそこそこ来てくださるが、個人のお客様が少ない」とおっしゃっていたので紹介がてら。
展示のほかに珠姫と利常のからくり人形なんかもあるし、立派な庭も深緑が美しかったので、石川県立美術館の『加賀前田家百万石の名宝』とセットでいかがだろうか。美術館からなら散策しながら徒歩で行かれる距離にあります。

81:人間七七四年
15/05/25 20:18:24.03 b5cGOzqd.net
毛利勝永の妻
毛利勝永は関が原の戦いで石田三成に与力して領地を没収され、父勝信と共に土佐にて蟄居した。
父勝信の死後、勝永は茶道を嗜んでいたためその家臣である窪田甚三郎を京大阪に遣わして、茶器を
求めさせた。時に大野治長は、この窪田甚三郎の従弟であったので、このつてを頼り秀頼の様子を聞いていた・
慶長15年の冬、秀頼はついに挙兵に及び、勝永もそれを勧誘された。かれはそれに応じようと思ったが、
その夜、密かに妻に語った
「私が先年、誤って石田方に属したために、現在妻子まで困窮させていることは見るのも忍びない。
いま、私にはひとつの志願があるが、濫りに口外できないことである。」
勝永の妻は言った
「私がこの家に嫁いだのも、前世よりの宿因のためでしょう。どうしてそのように
深く嘆くことが在るでしょうか?
女が、一度嫁いでより夫とともに浮沈するのは、女の道というものです。
これを憂うことなどありません。
どうかあなたの御志願を言って下さい。」
「…我家が、武名を以って天下に振るうこと6代にわたる。なのに今、この辺鄙な場所に流されて
虚しく朽ちるという事、本意ではない。
幸いにも今、天下が東西に分かれて戦いが起ころうとしている。私は秀頼君に属して今の汚名を雪ぎたい。
だが、私がこの地を逃れ出れば、きっと妻子は捕らえられ禁錮と成るだろう。これを私は憂いているのだ。」
所が妻は、これを聞いて笑い出した
「あなたの言うことは、間違っておられます。
大丈夫たらん者が妻子のためにほだされて武名を汚すなど、真に恥ずべきこと。
速やかにこの地を去って、先祖の家名を興すべきです!
その時心に、妻子のことを止めてはなりません。
あなたがもし討ち死にすれば、私もこの海に身を投げて死を共にしましょう。
勝利すれば、再度お顔を拝しましょう。」
勝永はこれに大いに喜び、大阪に至ろうとしたが、土佐では厳重に監視されていたため、国主である
山内忠義の元に、関東に味方するためと言って、嫡子を連れて土佐を脱出し大阪に籠城した。
はたして忠義は勝永の妻子を捕らえて、駿府の家康にその処置を尋ねた。
家康はこれを聞き
「丈夫の志のある者は、みな、斯くの如しである。
彼の妻子を宥恕し、罰してはならない。」
そう命じた。
これによって山内忠義は勝永の妻子を高知城中に入れて養育した。
毛利勝永は翌年5月5日、大阪落城の時、天王寺において奮戦し、潔く自害したが、
これらの名誉はすべて、その妻のおかげであった。
(明良洪範)

82:人間七七四年
15/05/25 22:12:44.27 yMD7iU0O.net
いい話だなぁ

83:人間七七四年
15/05/26 20:49:13.15 FAT8l6IJ.net
阿茶局
阿茶局は、武田家の家臣であった飯田久右衛門の娘で、今川家の家臣、神尾孫兵衛久宗の妻と成った。
かつて、徳川家康が今川家で人質として生活を送っていた時、この神尾孫兵衛夫婦は家康に、
厚く礼を以って保護していた。
今川義元が桶狭間で戦死した時、神尾孫兵衛も同じく討ち死にした。
その妻はこの時妊娠していたが、実家の甲州に帰り、そこで男児を出産して猪之助と名づけた。
武田家滅亡の時、家康が甲州に入ると、この妻が息子を携えて道の傍で拝伏しているのに家康は気づいた。
家康は彼女が甲州に居る故を聞き、旧情を思い出し、彼女を召し出し、遠江にて奉公するようにと命じた。
すると、この妻が非常に明敏で、奉仕すること怠らず、家康はこれを高く評価し、後に奥の老女となり
阿茶局の名付けられた。
慶長19年大阪冬の陣の時、彼女は講和交渉の使者として大阪城中まで数度にわたって往復し、
大阪方の大蔵卿局、常光院(淀殿妹お初)などを説得した。
大阪冬の陣でついに講和が調ったのは、この局の功なのである。
この講和交渉の時、彼女が乗っていた肩輿は鉄で作られていて、矢石を防ぐようになっていた。
この肩輿は今、遠山七之助の家に伝わっているそうである。
後年、東福門院(秀忠娘)の入内の時に、御母代となり、従一位に叙任し慶賀を執行した。
没後、霊光院殿従一位尼公松誉周栄大姉と号す。
(明良洪範)

84:人間七七四年
15/05/27 21:48:19.61 9GfvjNwH.net
初めて書き込みさせていただきます。至らないところもありますがお願いいたします。
大河ドラマ化に弾み 島津義弘小説、6月からウェブで公開
URLリンク(373news.com)
 戦国武将・島津義弘ゆかりの地である姶良、日置、湧水、えびのの4地区の
「義弘公大河ドラマ誘致委員会」は、徳間書店と共同で、義弘の生涯を描く小説を企画している。
作家・井川香四郎さん書き下ろしの「島津三国志」。6月から、ウェブマガジン「歴史行路」
で公開する。関係者は「ドラマ化には原作の必要性も指摘されており、弾みになる」と期待を寄せる

85:人間七七四年
15/05/27 23:12:39.29 9GfvjNwH.net
84の続き
小説は約一年間毎月掲載され、閲覧は無料で書籍化も予定しているそうです。
(南日本新聞2015年5月27日記事より)
少し前に「義弘公大河ドラマ誘致委員会」主催の講座を聞きに言った時、
「最近の大河が振るわないのは、歴史に関心のある人が脚本を書いてなく、
いい原作がないからと思い徳間書店と共同で企画を考え、小説を書いて
もらっています。夏にはウェブで公開予定です。」と言ってましたが
本当に予定通りに進んでる…
あと、宮崎県えびの市に義弘の銅像を立てる計画も順調に進んでいる
そうです。

86:人間七七四年
15/05/28 00:35:05.46 LkWj94pc.net
ウェブマガジンってのはどうなのよ?
もっとメジャーな文芸誌や新聞とか週刊誌じゃないと
知名度上がらないし…

87:人間七七四年
15/05/28 07:26:31.84 Yy790yKb.net
島津だけでは正直薄いよなあ
やはりあの時代は暗黒太閤と化した秀吉あってこそ
しかし秀吉のキャラ立ちは圧倒的なので島津が食われかねない
だからといって九州内の覇権争いだけを描いてもなあ

88:人間七七四年
15/05/28 13:38:32.93 w8Exbow6.net
義弘を主役に派手さを狙うのは甘え
義久を主役にして権謀術数渦巻く知略戦を描くべき

89:人間七七四年
15/05/28 14:31:42.63 3nQUdxjC.net
義弘が主役なのは、義弘ゆかりの地である姶良、日置、湧水、えびのの4地区
の所が企画しているから当たり前のことですしねぇ。
(日置市と姶良市は義弘にまつわる歴史的なつながりなどから姉妹都市ですし
姶良市の市長さんの名前は笹山義弘さんですが、父親が島津義弘にあやかって
名づけたそうです)
義久を主役にした小説…読みたいけれど、多くは望みません。
ただ、今回の小説で義久が悪く書かれないよう祈るだけです。

90:人間七七四年
15/05/28 14:36:24.17 3nQUdxjC.net
なぜか、IDが変わってました。
84・85・89は同一人物が書きました。

91:人間七七四年
15/05/28 18:26:02.21 4mhNMucy.net
幸田彦右衛門尉は、織田信孝の家臣であった。
天正年中、賤ヶ岳の戦いの前、信孝は羽柴秀吉によって激しく攻められ、信孝は力尽きて
和睦を受け入れ、その母及び幸田の母を人質として送った。
しかし程なく和睦は破れた。秀吉は怒ってその人質を殺そうとした。幸田彦右衛門尉は孝子であったため、
この事態に心揺れ動いた。これを聞いた母は、書状をしたため彦右衛門尉を諭した
『お前が、この老婆の身の上を思って二心を懐かないように。
お前は硬く節を守って、我が君を補翼せよ。
然らば君に忠、母に孝であり、であれば幸いにも忠孝両全と成る。
私は殺されても悔いることはない。』
これによって幸田は志を決して、秀吉に叛いた。
秀吉は怒り、その母を磔にした。幸田はますます信孝に忠勤して、尾張内海で信孝が自殺した時、
奮戦して潔く戦死した。
(明良洪範)

92:人間七七四年
15/05/28 21:09:57.42 3nQUdxjC.net
84・85の補足です。
南日本新聞2015年5月27日記事の紙面の方には
井川さんは「これまでの猛々しいイメージとは異なり、東アジアから
世界へ向けた視線、家族愛や同胞愛など慈愛に満ちた義弘公を描きたい」
としている。
姶良市誘致委員会の会長さんは「多くの人に読んでもらい、大河ドラマ
の実現へ向けた機運の醸成につながれば」と話した。

93:人間七七四年
15/05/29 00:15:09.60 1I/mC1ZA.net
既に怪しい雰囲気が醸し出されてるなあ

94:人間七七四年
15/05/29 00:59:48.83 kUwDtlwJ.net
加藤清正のタイガードラマはよ

95:人間七七四年
15/05/29 03:12:59.38 6LcORnJI.net
>>92
つまり、島津ドラマ化のネックになっている朝鮮人皆殺しや琉球侵略を
「きれいなジャイアン」でごまかすってことかw

96:人間七七四年
15/05/29 06:26:43.57 05Bd7qhS.net
>>85
平清盛を見れば現実離れした見解だよなぁ

97:人間七七四年
15/05/29 07:20:57.75 uBMgoFHx.net
バカ知事が何か言いそうw

98:人間七七四年
15/05/29 07:51:37.37 X1R2YQCf.net
>>92
義弘が、「儂は戦は嫌じゃ」とか言い出しかねんなw

99:人間七七四年
15/05/29 07:55:35.24 mcDINiea.net
>>92
部下に優しくて敵には猛々しい義弘にできんのか。火鉢エピとか大工エピとか性格出てると思うんだが。

100:人間七七四年
15/05/29 08:33:20.77 TH6fkjnm.net
島津は映像化できないだろ・・・色々と悲惨すぎる

101:人間七七四年
15/05/29 10:54:25.41 5bj3lFUm.net
奴隷を南蛮に売ってたっけ?

102:人間七七四年
15/05/29 17:01:26.02 zdzYrMsl.net
日本じゃなくて東アジアからって書いてある時点で制作スタッフ臭すぎでしょ

103:人間七七四年
15/05/29 20:46:50.48 wwV7liSe.net
鉄砲伝来とか重要イベントあるから(震え声)

104:人間七七四年
15/05/29 21:09:32.57 7e3CBtA7.net
>>101
うん、大友とか大村とかもね
インドのゴアでは原住民対策の兵員として重宝したらしい

105:人間七七四年
15/05/30 02:18:09.14 CWM9Z+LL.net
>>98
代わりに義久さんが全ての原因になるんですねわかります

106:人間七七四年
15/05/30 07:17:33.57 5P1QqS+E.net
戦国の世の家族愛や同胞愛ってとっても猛々しいよねw

107:人間七七四年
15/05/31 00:32:49.85 DaNyHf8r.net
ラスボスの秀頼への家族愛で何人も死んだ

108:人間七七四年
15/05/31 16:05:45.71 EF3ETCaI.net
家族愛に満ちた父の教えを受け継いだ息子はその教え通り子を沢山成したというわけですね

109:人間七七四年
15/05/31 16:22:36.31 HMaA3uKM.net
大母殿は徳川秀忠の乳母で、賢良な女性であった。しかしその子の某は山中源左衛門の党類であったため、
流罪となった。(旗本である山中源左衛門が、江戸市中で無頼行為をしていたことが発覚し切腹となった事件)
しかしその後も、大母殿に対する秀忠の尊敬は衰えること無く、彼女の徒然を慰めるため、月に3,4度は
茶の子(菓子)を贈った。彼女はこれを近習の女中などに遣わし、話などして彼女たちの労を慰めた。
この大母殿には月に1,2度ずつ、決まって行うことがあった。
それは、大きな切板に飯をうずたかく盛って、六尺(雑務係)や中間たちまで自由に呼び入れ、
自身でこの飯を振る舞うことであった。
本多佐渡守(正信)これを聞き、初めてその様子を見て大いに驚き、大母殿に意見した
「ここには夫々の女中も多いのですから、誰かに申し付ければよいではありませんか。
ご自身で飯を盛るなど、あまりに軽々しいことです。」
これを聞いた大母殿は、飯を盛っていたしゃもじを止めて佐渡守に振り向き
「最近、あなたが驕っていると人々が言っていますが、私はそれは虚説だと信じていました。
しかし只今の一言で、そういった人々が言っていることも事実なのだと思いました。
その方、弥八郎と呼ばれた頃の事を忘れたのですか!?
この婆は三河では賤しき者であったのに、思わずも上様に御乳を差し上げ、今はこのように
御厚恩を蒙り、大変に結構にして頂いております。
私が三河にて賤しき時分は、5,6人の客人へ飯を振る舞う事も出来ませんでした。
しかし現在では、何人に振る舞うとも自由となりました。
それ故、賤しき時のことを思い出しこのように時分で飯を盛るのです。
現在は富貴の身となりましたが、この婆は昔を忘れません。
しかし其の方は、早くも弥八郎の時のことを忘れたように見えます、そんな心得では、大事のご政務に
預かっていることも心もとなく思います。」
これには流石の佐渡守も殊の外困惑して帰っていった。
その後、大母殿は病にかかり、甚だ心もとない体調であると聞こえたため、将軍秀忠は見舞いに行き
こう声をかけた
「思ったよりも顔色が良いではないか。しかし、今のうちに言っておきたいことが有れば、何事でも
申し置くように。どんなことでも叶えたい。」
その時、大母殿は
「何もありません。
今の私の願いといえば、ただ上様が、権現様の御条目を御違いあそばされず、天下のご政務が、
人に後ろ指をさされぬよう、常々ご油断の無きように願い奉る以外に、何も申すことはありません。」
秀忠も、大母殿の思いを理解した。
「しかし、それ以外に願うことはないか?」
「このように結構にして頂いているというのに、これ以上何の願いもありません。」
こうして秀忠は立座し部屋を出ていこうとした時、彼女は「上様」と呼び返した
「上様は先頃から、再三に何か願いはないかとお尋ねに成りました。この事は、私の伜のことを、
この婆が臨終に際して気にかけるとお考えに成ってのお言葉だと思います。
しかし、絶対に御赦免してはなりません。
もしこの婆に免じて御赦免されたなら、御乳を差し上げた馴染み故天下の大法を犯されたということであり、
後代まで政道に傷のつく、有るまじき事であり、それこそ私の黄泉への障りとなります。
どうか必ず、御赦免なされませんように。」
そう言い終わると、間もなく卒した。人々はみな、その志の程に感嘆したという。
(明良洪範)

110:人間七七四年
15/05/31 20:58:07.51 nVSvJ3lg.net
で、正信は?

111:人間七七四年
15/05/31 22:17:41.98 TLw/66af.net
いい話だ…
けどその後息子はどうなったんだろう。
あと、89歳とは長命だが、55歳で乳母って本当?

112:人間七七四年
15/05/31 22:38:07.67 EF3ETCaI.net
乳母といっても母乳を与える人だけをさすのではなく
母親の代わりに子育てや教育をする人も乳母というみたいですよ

113:人間七七四年
15/05/31 22:43:19.34 bw12OwFu.net
乳母も傅も「めのと」だしな

114:人間七七四年
15/05/31 23:09:52.54 utGOVjQL.net
秀忠は実母を早く亡くしてるからか乳母とか大切にしてそうなイメージあったな
個人的に

115:人間七七四年
15/06/01 22:06:22.26 u3nXAbjb.net
伊達遠江守秀宗が行列で通行していた時、旗本の某が、かんの強い馬に乗って通りかかった所、
どうしたわけかその馬が暴走し、秀宗の方に向かって駆けてきた。
この時、秀宗の供の武士である大藤某という者、即座にこれに立ち向かい、この馬の口をとって
動きを止めた。この間に秀宗は通り過ぎた。
この旗本某の供の者達は、暴走した馬を抑えようと後から追いかけてきたのだが、大藤が馬の口を取って
立っているのを見て、何を勘違いしたのか彼に向かって刀を抜こうとした。
これを見た伊達の供の者達が、大勢で駆けつけ取り押さえた。この混乱に馬上の旗本某も鑓を
取ろうとしたが、大藤は馬を抑えながらもう片手でその鑓をしっかりと握りったところ、
旗本は鑓を全く動かすことが出来なかった。そして大藤は
「こういう事はあるものです。御馬がかんが強くて駆け出てきたため、止めたに過ぎません。
慮外なことは少しもやっていません。」
しかし旗本某
「このように取り押さえるのは慮外ではないというのか!?」
「それはあなたのご家来が粗忽なことをしそうだったので止めたまでの事です。慮外、無礼と
言われるような事は行っていません。」
そう言うと、伊達家の者達は退いた。これに、馬上の旗本某もそのまま通り過ぎた。
この大藤某という人は大力無双の勇士であり、よく物の道理に通じた人手あったので、
大藤の一言で、この騒動も事無く済んだのである。
(明良洪範)

116:人間七七四年
15/06/01 23:38:29.44 fMzXZk0C.net
島津貴久の乳母も乳母になった時に50歳を越していたらしい
と聞いたことがあるから、珍しいことではなかったのかも。

117:人間七七四年
15/06/02 00:43:01.72 e34da1J/.net
>>115
もうあったでござる
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

118:人間七七四年
15/06/02 20:16:36.29 XBzNw/+v.net
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119:人間七七四年
15/06/02 20:45:09.32 NjYek0MW.net
【雑談】大関ヶ原展京都展開幕
(´・ω・`)茶器初花に骨喰藤四郎か…
東京展では開催期間が終わってからの「終わってたの?」等の悲鳴が凄かった

120:人間七七四年
15/06/03 00:46:24.04 VATj5Zxx.net
わたし、昼間は女子大生で、夜は名古屋のヘルスで働いています。
今夜そんなわたしをデートに誘ってくれたのは、名古屋で一番いい大学に通うAクン(23)。
そんな彼は何かにつけてすぐ下ネタを絡めてくるんです。こんなに下衆な話ばかりするヒト、
風俗のお客さんでもそうそういなくて、ちょっと引いちゃいます。
今日も得意気に「この岐阜城をノブナガが攻めるために墨俣城を建てたんだぜ!
お前はヘルスのスマタ嬢だけどな」なんて大きな声で言っちゃってるんです。
普段こんなこと言ってるけど、このひと実はお勉強ばっかりの童貞なんじゃない?
なんて思ってた私は、ちょっと彼を試してみたくなって
「じゃあ、今日はわたしのお股城に攻めてきてよ!」って誘ったら
カレは一気に鼻息を荒くして「今すぐホテルに行こう!一夜でお前を攻める。まさにスマタ一夜城だぜ」
って、車に乗せられてラブホに直行させられちゃいました。
金華山では暗がりで分からなかったけど、明るいホテルで見たら
もう彼の股間はムクムクと美濃のマムシのごとく立派なものになっていたんです
(童貞っぽいし、スマタでイカセて終わりにしよ)なんて思ってた私のアソコは
美濃のマムシに見とれて、すでに長良川のごとくヌレヌレ。
「こんやは長良川の鵜飼じゃ〜」なんて言いながら、美濃のマムシは
まるで鵜飼のような突きで、わたしのお股城に攻めてきました。
「あぁ〜ん。いくぅー」と叫びながら、私は不覚にも絶頂を迎えました。
お股城で美濃のマムシをスマタで一夜で攻め落とすはずが、
逆に一時間もかからずに攻められてしまいました。

121:人間七七四年
15/06/04 09:24:05.94 DmYZl92r.net
加藤肥後守清正が茶会を催すという時、所持している名物の茶碗を出して置いたままにしていたが、
ここに小姓たちが集まって、撫でさするなどして見ていた所、その中の一人が誤って落とし、
これを割ってしまった。
皆驚いたが、さすが武功の者達の子供だけあって、「この事決して、割った当人の名を言わない。
たとえどれほど厳しい詮議があっても、互いに言うことはない」と誓った。
清正が席に戻ると、名物の茶碗が割れ置かれている。
立腹して小姓たちを呼んで詮議したが、彼らは清正の問に一言も答えず黙然としていた。
清正は睨みつけ、
「その方共は若輩とはいいながら、臆病なる者共かな!何れも父は武功の者であるというのに
かくも臆病なる有り様、父の名を汚す者共だ!」
この怒声に、加藤平三郎という14歳になる者が、頭を上げて清正の顔を見
「我々がどういう理由で、父の名を汚す臆病だと言うのでしょうか!?」
清正いよいよ怒って
「名物の茶器を割った科によって切腹をもさせられると思い、命を惜しんで割った者の名を言わないのであろう!
これによって臆病者といったのだ!」
「我々の中に命を惜しむ臆病者は一人もおりません!茶碗を割った者の名を申し上げないのは、どれほどの
名物の茶碗であっても、それは無くても事に欠けるものではありません。そんな器物のために、我々の内
一人足りとも、傷のつくことを惜しんで名を申し上げないのです。
無くても事に欠けないと申した理由は、国家を治められるのに器物が何の御用に立つでしょうか?
いまにも、御領国を奪おうと敵軍が押し寄せてきた時は、我々は命を捨てても敵を討ち取り御領国を
守護いたします。また、状況によっては主君の命にも代わり討ち死にいたします。
であれば、どれほどの名物の茶碗であっても我々の中の一人に代える理があるでしょうか?
これ故に、割った者の名を申し上げなかったのですが、我々の親たちの武功までも仰せだされた上は、
猶以ってその者の名は決して申し上げられません!」
清正はこの、まさに理の当然伏し
「あっぱれなる小姓共である。ゆくゆくは、父にまさるとも劣るまじき武士と成るだろう。
頼もしき者共かな。」と讃えたという。
(明良洪範)


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