龍造寺氏と、たまには鍋島氏を語るスレ2 at SENGOKU
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450:人間七七四年
16/03/14 13:57:55.77 QAF4LeB8.net
大内氏のあとって大友宗麟が継いだんだっけ
織田信長は毛利征伐後は長門周防は大友に与える予定だったとかなんとか

451:人間七七四年
16/03/14 15:44:37.10 9K6olGiU.net
信長が長宗我部にした仕打ちを考えれば大嘘ってのがよく分かる

452:人間七七四年
16/03/14 16:07:20.56 Govimni3.net
隆信の人事を見ていると、譜代集団の中に隆信が抜擢した人材を捻じ込んで相互監視させるような特徴が見える
先陣後陣で一単位扱いを徹底させていたのも、相互性というか物事の対称性に隆信の関心が高かったからだと見る
なので譜代組の代表格である鍋島が、横入りしてきた抜擢組と対立するのは必然だったと考える

453:人間七七四年
16/03/14 17:25:48.64 MAAqyV+o.net
>>450
> 織田信長は毛利征伐後は長門周防は大友に与える予定だったとかなんとか
それはないだろ。

454:人間七七四年
16/03/14 21:31:48.62 WFxk7Mjc.net
隆信を佐嘉より追い出した土橋栄益の官位だけど、九州治乱記、北肥戦誌では加賀守
肥陽軍記では伊賀守となってるがどちらがありなのかな。それとも両方ともありかな。

455:人間七七四年
16/03/15 09:31:28.96 tz0/7nmT.net
大友の支持を得て少弐体制を復古させ東肥前十九城主と連携し龍造寺の本拠を抑えていた土橋栄益が
なぜ落人に成り下がっていた隆信に負けたのか

456:人間七七四年
16/03/15 12:25:13.53 w/y3/YAv.net
傀儡政権だったから?

457:人間七七四年
16/03/15 13:33:27.02 a90zb4ds.net
龍造寺与党の地侍が多かったからとか?
剛忠の遺徳?

458:人間七七四年
16/03/15 15:34:11.00 3Oad7Tki.net
蒲地氏が隆信に兵か軍資金を貸したのではないだろうか?
隆信は軍事的才能はあったから、兵が集まればなんとか戦えたはず。

459:人間七七四年
16/03/15 18:34:39.90 7oMmszRL.net
対応の遅さからして防衛側が隆信挙兵を察知した時期がかなり遅い
挙兵を思い立ってから正味一週間ぐらいで一領具足3000+蒲池義勇兵200+与賀川副郷士1000集めて威徳寺で旗揚げ
後は合流する前に十九将の兵は各個撃破され土橋は捕縛後斬首

460:人間七七四年
16/03/15 19:00:24.89 a90zb4ds.net
そういえば佐賀の戦国史講演で、宗雪が助けたのも龍造寺領が筑後の方にあった縁ではないかとか言ってたなあ

461:人間七七四年
16/03/15 19:16:16.70 GqJ/75Wz.net
石井衆ら
龍造寺と縁がある地元の地侍が土橋に承服してなかったのも
大きかったんでは

462:人間七七四年
16/03/15 20:17:24.16 7oMmszRL.net
帰参するなら無条件で許すとか
あと徳政や租税免除とかを喧伝しながら住民各層を糾合している
これは家兼が馬場頼周を討った時と同じ手法だから
現金な連中も集まりやすい下地はあった

463:人間七七四年
16/03/15 21:05:22.56 5KKhGstk.net
土橋に呼応した者達
龍造寺鑑兼、龍造寺家重、龍造寺常家、龍造寺常直、龍造寺家就、龍造寺胤直、龍造寺家臣西岡美濃守、
高木、小田、神代、江上、八戸、馬場、横岳、犬塚、鴨打、徳島、本告、少弐千葉、他、総勢2万

464:人間七七四年
16/03/15 22:59:57.36 EgNx347G.net
最大の懸念材料であろう大友も一万田・宗像・服部の鎮圧と菊池義武への対処で介入は無理だと踏んでたろうね
少弐と戦いながら大友には土下座外交してとにかく対決は避けてる

465:人間七七四年
16/03/16 10:45:02.17 k85dmACx.net
土橋としては妻が少弐資元の娘で冬尚とは義兄弟の仲
冬尚を目の仇とする隆信に対して特別の感情があったんだろな

466:人間七七四年
16/03/16 11:44:44.49 fApGiI1w.net
冬尚って元は時尚でしょ、改名の理由は何なの?

467:人間七七四年
16/03/16 12:52:14.51 BmNZQELn.net
冬尚の名前の変遷は興経→時尚→冬尚
元服時は細川高国に仲介してもらって将軍家へ紹介されたとしているけど
大内義興の威勢が全盛の頃だろうから興を付けざるをなかったものと思われる
これも推測でしかないけど時尚に名を変えたのは父親と一緒に大宰府奪還軍を興して大内との対決を鮮明にした時で
冬尚にしたのは渋川家を降して服属させた時点でそう変えたのではないかと
冬尚とい名乗りの由来が九州探題と戦い始めた頃の少弐当主、頼尚・冬資からとするなら
渋川を完全に破って九州探題を崩壊させた記念として名を変えるというのはありそう、ただあくまで私見

468:人間七七四年
16/03/16 12:59:50.04 NPscOaQG.net
>>463
2万?
嘘これ本当?

469:人間七七四年
16/03/16 13:16:49.43 BmNZQELn.net
東肥前十九将それぞれ数千から数百人前後は動かせるので、総勢でそのぐらい居ただろうけど一所にあつまって軍になるのは無理
隆信軍の三千+αに対して数では圧倒的に優位だった、ぐらいのニュアンスで良いんじゃないの
遠征の兵数ではなく内戦の兵数だってのを念頭においてもらわないと

470:人間七七四年
16/03/16 13:23:15.79 MRtPFa5g.net
>>467
秋までに上洛するぞ!って祈願して改名した義秋君とは違うのか…

471:人間七七四年
16/03/16 13:29:59.17 BmNZQELn.net
アキとかハルとか名乗ってる奴が周りに多すぎるから自分はフユだ!というのもあったと思う

472:463
16/03/16 13:47:33.38 k85dmACx.net
>>468
小生も嘘か誠かは当時不在だったので分かりません
土橋氏の子孫が1730年代に書き残した資料からの転記です

473:人間七七四年
16/03/16 16:51:20.52 3o2tZ0Cp.net
隆信が大川で募兵した戦力を何事もなく川副まで移動させる事が出来たことで
既に栄益や冬尚は半分負けていた
だから隆信勢の渡海を妨害するなり、水際迎撃するなり
どのようにしても迅速に動く必要があった

474:人間七七四年
16/03/16 20:43:40.80 r4bSecKb.net
1度は確か防がれるかして筑後に戻ってるんだっけ

475:人間七七四年
16/03/17 10:22:07.98 39YxE8a3.net
暴風にあって杵島まで流された、という事だけど供回り数人との行動だから二回目と目的主旨が違うだろう

476:人間七七四年
16/03/17 11:45:23.97 PwD/CDv5.net
厳島みたいにまさかこんな日に来ないだろうと思わせて…遭難したんですねw

477:人間七七四年
16/03/17 14:04:25.69 1NamLV4P.net
目的地は千葉領芦刈だったのが暴風雨で有馬領側の柳津に突っ込んだという話だからね
もしかしたら佐賀にも寄るつもりはあったかもしれないけど
天文21年は飢饉が発生していてまず戦どころじゃなかった感じ
飢饉が発生したあと有馬勢が杵島の千葉領に対して大規模な略奪を行った
ただでさえ窮乏しているのに有馬が日増しに勢いを増している
それを危惧した千葉家臣鴨打胤忠が隆信に現状を知って貰おうと千葉領訪問を企画
それで隆信視察団が勢い余って有馬領に流されるという流れ

478:人間七七四年
16/03/17 16:47:11.30 a3JdFdP6.net
大河ドラマでそれやったらギャグパート間違いなし

479:人間七七四年
16/03/17 18:18:56.53 6NQM4Cg0.net
大内だ大友だの前にまず眼前の有馬問題を解決しろ
これが家兼や隆信を支持した層の主張だったのではないか
千葉にとっては死活問題だが少弐は有馬に対して殆ど危機意識が無かったように思う

480:人間七七四年
16/03/17 19:01:31.64 y11A3sWH.net
>>479
有馬氏は、スキあらば攻めてくるという家風ではなかったように思う。
専守防衛っぽい家風であって、無理に領土拡張するよりも
貿易で儲ければいいだろ的な家風だったように思う。

481:人間七七四年
16/03/17 19:47:57.31 9Qv7iut3.net
養子縁組で勢力拡大

482:人間七七四年
16/03/17 20:33:41.91 1NamLV4P.net
貿易だけで飯が食えるなら領主なんてのもいらんわけで
有馬は大陸側に公的な認知を受けた勢力ではないから大々的な取引をやる為の信用が足りないので
だからこそ相伴衆や屋形号獲得を志向した
それで大内滅亡直後に九州の特に北部で起こった銭の陳腐化と銀・米の基幹通貨化に顕著だけど
細川・大内滅亡による日本の対外的な信用崩壊で煽りをもろに受けたのが晴純体制下の有馬だったろうね
既存の貿易形態に有馬が乗っかっていたとしたら、有馬の手元には銭があっても銀や米は足りなかった筈だから
そこから倭寇・南蛮貿易志向へシフトするまで積極的拡張策への揺らぎもあるもんじゃないのかな

483:人間七七四年
16/03/17 22:26:32.50 gt+cqdm5.net
>>480
>有馬氏は、スキあらば攻めてくるという家風ではなかったように思う。
土橋の乱のドサクサに出兵して杵島郡を占領してるよ
当時の杵島郡、小城半郡は土橋栄益(和貞)の領地だったが隆信反撃のドサクサに
有馬義純が杵島郡へ乱入し占領してる。杵島の土橋栄益は小城郡多久の小侍城へ退却したが
こんどは龍造寺家信、千葉胤蓮に攻められ落城し一族討死と云う

484:人間七七四年
16/03/18 02:13:38.28 UmUohnuG.net
有馬晴純が脅威だという意識が少弐に共有されていなかったのだから
家兼・家門が構想した千葉・龍造寺・少弐の三家同盟体制は破綻するしかなかった
これが千葉少弐を取り込んで水ヶ江龍造寺が大名化する策なのが馬場頼周にはバレバレだったのだろう
水ヶ江龍造寺を粛清して千葉と龍造寺を傘下に収め
少弐一元支配体制を作ろうとした判断も大内と本気で戦うなら間違いではなかった
しかしどう考えても少弐では制御出来ていない有馬晴純ありきで龍造寺を潰そうというのが無茶すぎた

485:人間七七四年
16/03/22 22:55:26.37 +0KIgDM6.net
軍事的には勝てても本領を取り返した直後の龍造寺隆信では、少弐冬尚と比べて武家間の外交関係において劣勢だった
通常ならとっくの昔に詰んでいる局面でも盤外勝負に出て生き延びてきた少弐家を、本当の意味で詰ます為に何が必要だったか

486:人間七七四年
16/03/23 12:41:25.59 a/MEsvEf.net
族滅

487:人間七七四年
16/03/23 14:57:31.56 pG5V9E9c.net
>>485
大内氏が朝廷に献金して
少弐氏を上回る太宰府系の官位を購入したはずだが。
あれは意外と効果あったのではないか。
少弐氏のブランドイメージを低下させるという意味では。

488:人間七七四年
16/04/01 15:54:12.45 Ie7Yl6Uz.net
過疎ってるのは鍋島のせいだな

489:人間七七四年
16/04/01 20:37:27.69 RBUNIxfP.net
化け猫の祟りじゃ

490:人間七七四年
16/04/03 10:01:01.93 B2IO6kIS.net
鍋島のことは知ってても
龍造寺の話振ると
は?
どこかで聞いたような・・・
となる場合多し

491:人間七七四年
16/04/03 12:38:52.35 6hwxNeMU.net
鍋島の化け猫って江戸時代入ってからじゃないのか

492:人間七七四年
16/04/03 13:24:07.26 /vSZ4js2.net
里見に八犬伝の話を持ってくるようなもんだあね

493:人間七七四年
16/04/10 22:15:43.80 UCCXg33J.net
少弐は大友に大宰府返せとは言わなかったのかな
菊池に対する処遇みたくうやむやのまま既成事実にしちゃったみたいな印象しかないんだけど

494:人間七七四年
16/04/11 07:40:15.59 XDsKKaUS.net
>>493
言っても返してくれないだろ。

495:人間七七四年
16/04/15 19:49:01.75 NEZDvEm8.net
陶晴賢と毛利隆元が争っているとき少弐冬尚は毛利を支持していたけど
これが大友と完全に同調したものかというとまた違うだろう、大内と同様に少弐という家名も大友の地域覇権にとっては邪魔
とくに毛利が陶に勝って以降の時期だと、毛利が少弐の存在を保証して支援するという話になると重大な脅威ですらある
この点で大友と龍造寺は利害が一致していて、だから秋月文種の挙兵時などでは隆信も大友勢へ積極的に協力をしていた
それで結局大内義長と同じように見殺しにされて冬尚は隆信に討たれる
その後はそれを奇貨にして義鎮が堂々と肥前周辺への介入口実を得ると

496:人間七七四年
16/04/22 19:36:06.57 Fs+KrYhh.net
少弐冬尚が挽回するには結局戦場で龍造寺隆信を倒さないとダメ

497:人間七七四年
16/04/22 19:41:51.46 vNMv2JY9.net
こいつ陣頭に立ったことあったっけ?
城に籠ってるイメージがある

498:人間七七四年
16/04/22 21:15:26.64 eTSDNSnM.net
龍造寺氏は四国の大名とは音信はあったの?
儀礼としての使者のやりとりとか。

499:人間七七四年
16/04/22 21:58:09.10 v6VsiO77.net
弱小四国勢と誼通じて何かいいことあるの?

500:人間七七四年
16/04/22 22:12:19.97 u1mSctlg.net
隆信は四国どころか五国の太守だもんな

501:人間七七四年
16/04/22 22:30:58.59 scFk1Jbv.net
少弐は大内との対抗上細川とは懇意にしていたけど四国側の細川となると
あと龍造寺近隣勢力で四国に所縁があるのは渋江一族ぐらいしか
それにしても戦国時代の西園寺に先祖の因縁を云々する筈もなく

502:人間七七四年
16/04/22 22:55:09.53 MHwWn1lj.net
>>498
国が海を馳せんで四国と面してる大友島津と違って
肥前と四国だと交友結ぶ意味も少なそう

503:人間七七四年
16/04/23 16:49:13.04 5vbWPgVJ.net
島津って四国勢力と誼通じたん?その理論は破綻してる

504:人間七七四年
16/04/23 17:32:53.96 qkTO4gkI.net
南海路の堺商人を利用して南蛮物得ようとする時は商人側が島津家にも話を通す、で南海路の中継地は四国南部
大友は大分湾へ商船を寄港させる事に腐心していたけど坊津・油津の地理的優位性は覆しがたい
油津の権益を島津が十分に掌握していたかというと伊東がいるから微妙だけど

505:人間七七四年
16/04/23 17:55:37.88 ADgx8brx.net
島津なんかどうでもいい

506:人間七七四年
16/04/23 19:49:39.92 5vbWPgVJ.net
政治的軍事的じゃないので却下

507:人間七七四年
16/04/24 11:37:58.87 +Bhys0ta.net
少弐の権威でもって外交関係では隆信より優越していた冬尚が追い込まれてしまったのは
隆信が外野の圧力を無視して冬尚派を攻撃し続けたから
権威で抑止しようという試みが通じない相手には実行力がないとその外交には意味がない

508:人間七七四年
16/04/24 22:52:41.68 hMPOmIBD.net
冬尚の墓って勢福寺城の麓にポツンと建ってるけど哀れさを感じるな

509:人間七七四年
16/04/27 01:55:40.26 mClrZ9Hn.net
冬尚の最後の状況は勢福寺城本丸へ登る暇もない程慌ただしかったんじゃないかと思う
山城各所へ兵が十分詰められる前に叩くための正月強襲だろうから
山手である北口まで囲まれているのを見てとりあえず南の江上の城原城へ落ちようとしたら
既に城原城も落されていて道中で進退窮まったのだろう
破約から完全包囲までの状況はまさに四面楚歌

510:人間七七四年
16/04/29 09:32:10.61 /xAOnw8G.net
永禄二年の筑紫氏の博多焼き討ちとされるものは冬尚の死が契機説を提示してみる
少弐宗家が滅んだのだからその遺産は分家のもんだと訴えた結果じゃないかなと

511:人間七七四年
16/04/30 13:46:41.52 IVrvvGje.net
龍造寺氏視点だといつの間にか本土側に居た宗氏分家が没落してるけど
少弐の滅亡に合わせて所在を無くしたのかな、筑紫氏と争って所領を失ったか

512:人間七七四年
16/04/30 15:41:26.74 RSMMJI8b.net
>>511
>本土側に居た宗氏分家
根拠地はどのあたりにあったの?

513:人間七七四年
16/04/30 17:51:45.89 IVrvvGje.net
三根郡のどこか

514:人間七七四年
16/04/30 17:59:26.04 RSMMJI8b.net
>>513
ぐぐったら
宗氏7代目の島主貞茂は三根郡佐賀に居館を置き
と発見

515:人間七七四年
16/04/30 19:12:49.23 IVrvvGje.net
それは対馬の三根郡で肥前の三根郡ではないよ
地名が一緒なのはおそらく偶然じゃないけど、再入植の名残りとか

516:人間七七四年
16/04/30 19:23:51.57 RSMMJI8b.net
>>515
あー、すまない。

517:人間七七四年
16/05/01 08:48:21.94 i7+iGwsw.net
宗尚貞は天正四年の筑後海津城攻めで功あり

518:人間七七四年
16/05/01 08:51:28.81 CEj4kYKf.net
宗氏が最も東まで遠征したのは
関ヶ原の時の大垣城攻めだっけ。

519:人間七七四年
16/05/02 00:52:10.02 8EAlj/BB.net
肥前宗氏の盛衰期は秀恒の時代かな
少弐氏の重臣として少弐・龍造寺×大内との田手畷合戰では活躍したが
その後大内・龍造寺×少弐との三根米田原(苔野口)合戰で討死
息子の尚貞は東肥前19城将の1人として隆信と敵対のち降伏

520:人間七七四年
16/05/02 02:56:56.38 u5gIoM5N.net
今山に行きたいんだが車で行ける?

521:人間七七四年
16/05/02 04:37:08.78 cnfJL4OU.net
こんな夜遅くに山に行きたいなんて物好きなw
練炭自殺かい?

522:人間七七四年
16/05/02 12:20:40.13 u5gIoM5N.net
いや今から行くの
一人気ままなドライブさ
他なんか史跡ある?

523:人間七七四年
16/05/02 14:32:41.26 dpTiNfEm.net
>>522
もう遅いかもしれないけど今山合戦前日にあった黒土原合戦の碑
大和町於保の黒土原の千人塚、県立林業試験場の裏手

524:人間七七四年
16/05/02 14:54:46.40 u5gIoM5N.net
今山古戦場跡なう
もっと上の大友公園とやらにも行きたがったが悪路の上、農薬散布中のおじさんに聞いたら何もないっていうから引き返した
ここが本陣とは壮観だなあ
城攻めの距離感としては広い方だよね
しかし布陣図の高橋紹雪てのは誤植? 隣の道雪に引っ張られたのかしら
>>523
さんくす
捜してみる!

525:人間七七四年
16/05/02 15:01:01.10 nnx4qX8h.net
史跡ではないが、当時から存在している神社があれば参拝するといいかも。
建築物は当時のものは残っていないだろうが、場所が同一なら。

526:人間七七四年
16/05/02 15:22:15.55 u5gIoM5N.net
>>525
今山の前に近くの男女神社てとこに行ったよ
今山の時に一度焼失して宝物古文書もパアになったんだと
近くの寺の座主が神主も兼任してたんだとか
看板の情報で鍋島隊を山伏が手引きしたとは知らなかった

527:人間七七四年
16/05/02 15:50:30.97 u5gIoM5N.net
千人塚なう
思ったより質素
小山に卒塔婆一本

528:人間七七四年
16/05/02 16:07:32.31 dpTiNfEm.net
あと大友勢の仮本陣があった大願寺廃寺跡とか
信昌は三日月町の藤織・勝妙寺で部隊を編成し直して山を登った
それと鍋島町の新庄に鍋島勢の集合拠点だった勝楽寺など
勝妙寺には山本常朝の一族の墓がある、山側まで行くと藤隠の滝、もう少し東奥行くと清水の滝

529:人間七七四年
16/05/02 17:55:51.68 0/pmzu7+.net
で大友親貞って誰なん?

530:人間七七四年
16/05/02 18:27:03.50 dpTiNfEm.net
菊池義武の子供だろうというのが最近の説

531:人間七七四年
16/05/03 19:33:20.56 eaBu1xmy.net
今山、大願寺野にいた大友勢の主力は玖珠郡衆

532:人間七七四年
16/05/04 03:41:42.84 Ww23NjJS.net
肥前太田氏の祖と言われる太田資元て
どの系統なんだろ
太田資高の孫と言われてるけど
伝承の下向年考えると孫説は無理ありそう

533:人間七七四年
16/05/04 21:44:14.17 VCPXD5wn.net
武蔵の太田一族だとしても何を頼りに肥前へ来たのか?土地の関係的に小田か千葉の斡旋でもあったのか
龍造寺と肥前小田の勢力境界へ割って入り程なく龍造寺方になった時に小田方は何もしなかったのか
なぜ太田氏が水軍の将になったのか、よく分からない事が多いがともかく五千石の家老に収まった家である事だけが確か

534:人間七七四年
16/05/08 11:14:51.22 ZYj6muRi.net
北端津合戦で功をあげた太田源舜は隆信の兄弟子筋の人で
どちらも豪覚和尚に師事したあとに還俗という過去がある

535:人間七七四年
16/05/08 11:32:07.33 knQP7uiH.net
源舜って妻が鹿江兼明の娘だわな
隆信を裏切った兼明と共によく滅亡しなかったな

536:人間七七四年
16/05/12 12:23:04.88 kxBJ1PPo.net
信長の野望の新作を龍造寺関係者100人ぐらい追加して鍋島直茂でプレイしてたら
たまたま高木胤秀の娘と結婚することになってロマンシングでした

537:人間七七四年
16/05/15 15:55:29.76 g2dfRqf5.net
三根の横岳鎮貞が天正三年まで龍造寺に抵抗しているけど
同時期には久留米周辺の安堵関連で龍造寺の影響力が浸透していて
大友の統制どうなってんだという疑問が
あと玉鶴の蒲池鎮並への輿入れも天正三年〜五年前後だと思うのだけど時期が明確でない

538:人間七七四年
16/06/05 12:11:54.83 Pv43gWS8.net
蒲池が滅亡して一番得したのは大木統光だな
筑後の五百町は無くしたが、神崎横田の1百石から始まって瞬く間に1千石だろ
子孫は着座だしな

539:人間七七四年
16/06/13 01:27:35.01 LpgxV9kN.net
下蒲池旧臣とその一族は殆ど転封でバラバラに佐賀側へ配置換えされたのであって
皆殺しや大量処刑などがあったわけではない

540:人間七七四年
16/06/24 14:00:30.44 PtHxnS5F.net
‥‥

541:人間七七四年
16/07/03 15:39:00.89 KehFiC1B.net
龍造寺氏、鍋島氏に直接関係はないし、戦国時代かも微妙なところなのですが、
中世九州関連のアクティブなスレがあまりないので、こちらで伺います。
九州探題家の渋川万寿丸のことです。
兄の早逝によって家督を継ぎ、自らも1487年に家臣に殺害される人物です。
系図などの1468年生が正しいとすれば20歳での死亡であり、しかも渋川氏の当主ですから
当然元服していたと思うのですが、諱も伝わっていない可哀想な人です。
お聞きしたいのは、この当時の肥前(東肥前)とその周辺の情勢です。
万寿丸の父兄は筑後に本拠を構えていたというのを見たのですが、彼は肥前にいて肥前で殺されたようなのです。
少弐氏との関係とかを含めて、この当時の肥前の状況と渋川氏の位置づけなどご教示ください。

542:人間七七四年
16/07/03 17:10:43.35 JKYFVhJf.net
渋川満頼
満頼は諸大名の統制においては了俊に及ばないものの無難にその任
を勤め、肥前を探題の分国と定めて渋川氏が九州における一勢力とし
て戦国時代前期まで存続する基盤を築いた。満頼は筑前より肥前に
本拠を遷し、肥前養父郡綾部に肥前の守護館を設けた。これが渋川
氏代々の館となった。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

543:人間七七四年
16/07/03 17:12:04.53 JKYFVhJf.net
地形とか、周辺の敵対勢力の存在を考えると、
筑前より肥前のほうが守りやすかったのかなあという感じはするんですが。
どうなんでしょうね…。

544:人間七七四年
16/07/05 00:08:25.34 NLqK4d+x.net
でも、資料とか読むと、少弐氏が名前は肥前守護でも実態は一土豪ってのは解るんよ。
丁度地方的規模の野心家が担ぐには、色々と都合の良い家ですもんね。
でも、竜造寺氏が何故成り上がったのか不思議ですね。
佐賀郡の有力豪族ってだけにも見えるし?

545:人間七七四年
16/07/05 03:08:14.97 /kTmmjpZ.net
筑前側の姪浜付近より肥前側の綾部付近の方が守りやすいというのは勿論あるだろうけど
まず九州探題の本拠を肥前に置く事を志向してその整備を始めたのは今川了俊で、渋川満頼はその事業を引き継いだ形
私見としては肥前を本拠にというのは鎮西探題の失敗を踏まえての事だと思う
政治的には大陸外交の最前線であろう博多の前面に探題府がある方が格好がつくだろうけど
これはどうしても太宰府を本拠を置く少弐家の存在が邪魔して
有事の際の動員には山向こうの鎮西探題直轄であった肥前側を頼らないといけない
しかしそれが出来ずに結局鎮西探題は少弐から滅ぼされてしまったので
ならば探題直轄地に探題府をおいて一体化してしまおうと
九州探題も結局は失敗している訳だけど了俊の構想がそのまま彼自身の手で実現していたらまた結果は違った筈
あと少弐が室町幕府下で肥前守護であった事は一度もない、というよりも幕府が公的に肥前守護を設置した形跡がない
大内・少弐・大友がその様なものと振る舞っていたのはおそらく正しいが、建前上の肥前守護はずっと渋川
肥前守護を名乗るのは九州探題である事とほぼ同一だと言っても良い、この辺りは大内・大友ともに意識していた部分
龍造寺の勃興もこの話と無関係では無くて、九州探題でなくなった後の今川氏に残った肥前での本拠が与賀郷・川副郷だった
この二か所は龍造寺一族(の本家である高木氏)にとってもコア住居地で、かつ与賀郷は長い事少弐の地頭領でもあった
最も早くに今川の支配に組み込まれていてその直近にいても、少弐との関係も切れた訳ではないというのが室町前期の龍造寺の強みだった

546:人間七七四年
16/07/05 03:28:55.95 /kTmmjpZ.net
>>541
1460年代の肥前国内に限れば、探題である渋川氏を今川氏と千葉氏が両輪になって支えるというような体制が漠然とあったようだけど
しかし千葉氏の方が着々と大村氏や渋江氏の所領を侵犯しつつ、朝鮮との交易も取り仕切り
千葉元胤の代あたりで最盛期を迎えた。寛正年間の勢力は少弐教頼や菊池為邦と比肩する程だった
その千葉元胤が1464年に病死して、同じころ将軍足利義教の九州にも介入しだすと争乱が起きた
まず今川胤秋が渋川教直と組んで、千葉の跡を継いだ千葉教胤追い落としを謀ったという噂が立ったらしく
それに対して千葉家の執権であった中村胤頼が先手を打とうと二千騎を率いて肥前佐賀の今川館を襲撃
千葉方に裏切りが出て中村勢が敗退し撤退中に中村胤頼が戦死すると千葉と今川は一旦講和。これが1465年の5月末頃
前後する1465年の4月には筑後守護代菊池為安と大友親繁の部将志賀親家が筑後高良山で交戦(原因は義教)
菊池為安が戦死して菊池方が完敗すると同年の7月には菊池勢が筑後自体からも引き揚げて筑後全域が大友の管理下に入った
同9月3日には筑前守護であった大内教弘が出先で死亡、同9月10日少弐教頼が筑前守護として補任?(この時点で自称かどうかハッキリしない)され
同9月23日に大内政弘が大内の家督を継ぐとさっそく少弐の筑前守護に対して意義を申し立てつつ筑肥の騒動に干渉を始めた
応仁の乱が始まった1467年には今川胤秋が本当に渋川教直と組んで千葉に対して合戦を仕掛けたが今川胤秋が討死にして今川・渋川方が敗北
今川の領地は丸ごと千葉が接収するという事で渋川教直と手打ちに
その教直はその翌年の1468年には大内方と共同で少弐教頼を討った

547:人間七七四年
16/07/05 06:25:07.11 99KLGlpQ.net
541です。
皆さん、>>546さま
いろいろなご教示、ありがとうございました。お話に出てくる渋川教直は万寿丸の父とされる人物です。
渋川氏自身の実力が本当にどの程度あるのかはよくわかりませんが、
幕府の介入(直接は大内氏の介入か?)の強弱と渋川氏当主の能力の強弱がうまく合うと勢力が拡大しているようです。
万寿丸は教直の死の時点でまだ少年であり、逆に少弐は勢いに乗っている時と重なったことが不幸だったのでしょう。
殺害の直接的な原因は渋川家内の内紛とのことですが、家勢が衰えてきていることと全く無関係とは思えません。

548:人間七七四年
16/07/05 07:49:55.60 tGM32cag.net
>>547
> 殺害の直接的な原因は渋川家内の内紛とのことですが、
家勢が衰えてきていることと全く無関係とは思えません。

勢力が低下すると、内紛が起きやすくなるからね。
いまだと社民党とかああいう感じw

549:人間七七四年
16/07/05 16:24:55.90 Hz+nD2It.net
渋川が日本九州都元帥を対外的な名乗りにしていたなら
少弐はなんだったのかね日本大宰府都督という感じか
宗麟は日本九州大邦主だが

550:人間七七四年
16/07/05 23:07:59.93 99KLGlpQ.net
>>546さま
知識がないのでお教えください。
今川胤秋の話で「佐賀」の今川館というのが出てきますが、これは今の佐賀市にあったという意味でしょうか?
今川胤秋は1467年に討ち死だとすると、龍造寺家兼はすでに生まれており、
龍造寺家が佐賀市(周辺)を領有していたのかと思ったのですが、今川と重複しないのでしょうか?

551:人間七七四年
16/07/06 02:15:45.04 a4u1fG92.net
なんか直茂の簒奪って無茶苦茶うまくいったよな。他の家だと隆信の息子
がいかほど馬鹿でも、政家派みたいのが何人かはいて、肥前を真っ二つにして
の内乱ってのがデフォなのに、家臣一同で政家を政務から遠ざけてしまうとか、
政家が馬鹿すぎたのか、直茂が狡猾だったのか?それとも肥前特有の気質なのか?

552:人間七七四年
16/07/06 03:05:45.17 knxRolp3.net
>>551
まあ竜造寺隆信の勢力が急拡大したのって晩年の15年くらいですしね。
肥前の殆どの豪族に取って、別に竜造寺譜代の家臣って訳でも無いしって考えが
有るんでしょう。
それと、竜造寺隆信は旧主の少弐家を滅ぼした当人ですからね。
下剋上した家が息子の代に下剋上されるって良く有る話です。

553:人間七七四年
16/07/06 03:54:25.79 kzql7xOF.net
>>550
今川氏の館は現代で言えば佐賀市鍋島町、昔の呼び方で言えば新庄郷西新庄西分大屋敷
この大屋敷はその後、日向伊東氏の家督争いで敗れ肥前に逃れていた伊東祐郡が譲り受けた
与賀と川副は龍造寺系の一族集団にとって鎌倉以前からの地盤であるので
直接の地頭職でない期間でも郷内には結構な量の不入地分が存在していたと思われる
あと今川氏が新庄に居を構えているというのが重要で、まず与賀郷本庄に対して未開墾地であったから新庄という風な地名なわけだけど
本庄の方は少弐教頼が一時期本拠地にしていた程に少弐の影響力も高く、この少弐の与賀への本拠移転には龍造寺が土地を提供したとされている
また川副は干拓によって時代ごとに南方へ拡張していった地域で、自分達で拡げた土地は永代所有が認められていた
結論として今川氏の与賀・川副郷地頭職は龍造寺党をはじめとする土豪を組み込んでのものではあったものの、開発領主的な側面がかなり強く
また今川が龍造寺の土地を組み込もうとしなかったという話ではないが、それは以前からあった少弐や龍造寺などの影響力を排他的に扱うものでは無かったものではなかったのかと
つまり重複していても重層的支配に矛盾が無い時代だった、ちなみに龍造寺の本家も地頭なので他地域に地頭領がある

554:人間七七四年
16/07/06 06:09:45.55 CbVq2D6J.net
>>553さま
丁寧な解説、ありがとうございました。理解できました。

555:人間七七四年
16/07/06 14:25:54.94 LzsvT5h9.net
>>552
小2が主人とか頭沸いてんのかよ
お前の性癖と一緒にすんな

556:人間七七四年
16/07/06 15:03:53.58 /uQ0Puu0.net
隆信基準だと家督を継いだ時からずっと戦闘状態にある少弐を主君だとはとても思えないだろ
外部からその辺介入する場合に少弐再興を名分として来るのは当前の政治攻勢だろうがね
渋川は途中でみんなアカンと思って名前も出さなくなったのかな

557:人間七七四年
16/07/06 21:00:54.07 knxRolp3.net
>>556
少弐の名は、丁度中央の足利将軍や管領みたいで重いと思うけどね?
実際に庶流家や、なんらかの姻戚関係に有る豪族だらけなんですからね。
大体、何時の間にか鍋島氏が少弐庶流を自称してたりする訳ですし。

558:人間七七四年
16/07/06 23:57:47.11 /uQ0Puu0.net
少弐の影響力は弱くなったと言っても馬鹿にならないのと
隆信が少弐に対して恩を受ける機会が当初からないのは別の話でしょ
少弐と仲直りしよう派も龍造寺の中にもいたけど
その一派はクーデター起こして隆信を追放したのだから

559:人間七七四年
16/07/07 06:18:45.24 icV5mZk/.net
>>551
戦国まっただなかならともかく、
中央政権の意向を無視できない状態だったからね。

560:人間七七四年
16/07/07 06:22:42.22 icV5mZk/.net
>>556
> 隆信基準だと家督を継いだ時からずっと戦闘状態にある少弐を主君だとはとても思えないだろ

思っていなくても、いちおう主筋である以上、表面上だけでも尊重しないわけにもいかない。

561:人間七七四年
16/07/07 08:36:50.54 Dwf5TH3M.net
長曽我部のように何の恩義もないのに尊重できるわけがない。
尊重してた例がありますか?

562:人間七七四年
16/07/07 10:19:38.42 X4MXCsQL.net
>>561
三好長慶だって、親の仇だと思ってる細川管領家を途中まで担いていたやん?
軍事的には勝利して何時でも首が取れる状況でも、将軍も管領もわざと逃がしたりしたじゃん?
元々、細川分家の阿波守護家から養子が入る時に、家老の守護代三好氏も付いて行った訳ですから
先祖代々の恩義を説かれると厳しいですしね。
竜造寺隆信は主君に腹を切らせた訳ですからね。

563:人間七七四年
16/07/07 13:30:17.00 H7XvzEWe.net
龍造寺隆信が担いでいたのは千葉胤連と大内義隆、偏諱はこの二人から受けていて軍事的な援助を受けたのもここぐらい
あくまでこれは龍造寺家の主張だから
先祖の恩に対して龍造寺家は少弐家に報いろと少弐が主張するのも武家社会上は通るね
それと少弐冬尚個人の所業を龍造寺隆信個人が許すかはまた別

564:人間七七四年
16/07/07 15:51:40.88 Dwf5TH3M.net
>>562
それは利用価値があるからな。少弐にはないだろ。そっちの例を出してみろって。ほらほら。

565:人間七七四年
16/07/07 18:23:56.45 H7XvzEWe.net
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                 |       (__人__)    |   これからは武藤少弐の時代たい
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大寧寺の変直後は本気でこんな感じだったと思う

566:人間七七四年
16/07/07 18:25:07.86 f3+R9/p0.net
むしろ少弐の方が与賀に迎えてもらった恩があったとか聞いた

567:人間七七四年
16/07/07 18:56:53.95 H7XvzEWe.net
水ヶ江龍造寺は少弐から新恩として千町歩を本家と別に貰って
そこから少弐と直接主従関係になっていったからそこはおあいこ
報恩奉仕が成立しなくなったのは少弐が龍造寺を粛清したからとしか言えない
後は少弐が滅ぶまで敵対関係

568:人間七七四年
16/07/07 18:59:48.84 Vg4zqYpr.net
蒲池家の呪い

569:人間七七四年
16/07/07 19:24:42.27 H7XvzEWe.net
蒲池にしてもそれぞれ思惑があって結んだ盟によって大友領を侵犯した後に
仲違いした結果の籠城戦だから一概にどっちが悪いというものでも無いね
龍造寺隆信が個人的に恩があったのは蒲池鑑盛で蒲池鎮並の方では無いから
鑑盛を結果的に見殺したのは隆信と鎮並の判断によってだ

570:人間七七四年
16/07/07 20:34:14.53 f3+R9/p0.net
恩人殺しの方は深町さんの方が業が深いと思う
隆信もこっちは悔恨した

571:人間七七四年
16/07/08 06:16:41.95 v6i3QfJ9.net
隆信が少弐冬尚を滅ぼした理由は政治的な問題よりも軍事的な問題を解決する方に比重があった
鉄布峠での敗戦を隆信なりに分析して、少弐派の扇の要である少弐冬尚をまず叩かないと山岳に篭った神代勝利打倒は困難
少なくとも龍造寺の直轄兵力だけでは攻略不可能という結論を出したと見られ
それまで動員が掛からなかった旧少弐派の小田や犬塚も動員した冬尚攻めを行った

572:人間七七四年
16/07/08 14:45:28.18 lTB88R8t.net
心理作戦ですね

573:人間七七四年
16/07/08 19:17:53.38 fa9bsjJf.net
やっぱし、九州では太宰少弐の名は重かったんかね。
島津だって、分家が本家の守護家を乗っ取ってるけど家名は継いでるしね。
安易に旧主に腹を切らせた祟りが息子に行った感じですね。
普通に、わざと逃がすで駄目だったんだろうか?

574:人間七七四年
16/07/08 20:54:09.66 Xw9CQoX5.net
雨が降る度に生えてくる筍のように謀反が絶えまなく続くだろうよ

575:人間七七四年
16/07/08 22:45:49.57 DIQ/qk1r.net
隆信が筑後から再起を図ったときに、どうして少弐派の19城将は団結しなかったんかな

576:人間七七四年
16/07/08 23:00:27.08 Y0A1Wvp3.net
山本七平のいう所の多重権力構造をもって肥前の特殊性を説明すると
東肥前の場合は武家間の多重権力構造が成立しており
室町初期から数えると渋川、今川、千葉、少弐が権力として並立し
更に西肥前も含めると松浦党や有馬等も同時に存在
更に九州近郊も含める外部権力としては大内、大友といった有力大名
更に大枠で足利幕府が存在する状態にあった
また同氏の提唱する下剋上的秩序『下が上に向かって実質的な権力を行使することであっても
下が上を打倒して、自らが上になることではない。従って、下は上に向かって権力を行使しうるために、
あくまでも上下の関係を下が維持しようとする一面をもつ関係」
この下剋上秩序における反乱『上がその下剋上的秩序に従わない場合』に起こる下の反乱事例が少弐と龍造寺の関係に該当する
龍造寺隆信の場合は終生この反乱に身を投じた様な人物であり、彼はよく下剋上大名という言葉で説明されるが
下剋上的秩序に対する謀反人、あるいは反逆者や革命家とでも呼んだ方がこの場合適切だ
なので下剋上的秩序に「まつろわぬもの」である龍造寺隆信に対して自業自得、祟り、恨みや怨念といった類の言霊が付くのはある種当然といえる
またマックスウェーバー的な解説をすると少弐氏が伝統的支配、龍造寺隆信がカリスマ的支配、鍋島氏が合法的支配に該当すると思われる

577:人間七七四年
16/07/09 02:19:13.44 XQ8fSMXw.net
>>575
神代勝利 佐賀郡在番の自兵を使って抗戦するが隆信勢に敗退、八戸宗暘を連れて山内へ撤退
高木鑑房 飯盛城の戦いで隆信勢に敗退し居城に篭るが降伏、翌年前田家定の下へ身を寄せようとしたが家定に討たれる
高木胤秀 居城を隆信勢に囲まれ降伏
小田政光 佐賀城回復後の隆信勢に攻められ降伏、後に長者林の戦いで神代・江上勢と戦い戦死
八戸宗暘 高木勢と共に隆信勢を迎え撃つが敗れる神代勝利と合流し山内へ撤退
江上武種 勢福寺城に篭り隆信勢を迎え撃つが落城、自身は脱出して城原城へ撤退
横岳資誠 少弐冬尚の守りとして動かず
馬場鑑周 同上
筑紫惟門 小原の叛乱への同調を大友から疑われ動けず
姉川惟安 佐賀城に隆信が入るとこれに臣従
本告頼景 小田政光救援として親族の義景を派遣するが隆信勢に討たれる、後に長者林の戦いで戦死
宗尚夏   詳細不明だが横岳・馬場と同様の行動であったと思われる
藤崎盛義 同上
出雲氏忠 同上
犬塚尚重 小田政光救援に出撃するが隆信勢に敗退、領地を追われるが後に隆信の妹婿となり復帰
犬塚鎮尚 尚重と共に政光救援に出て敗退、領地を追われるが大友の援助で復帰
犬塚鎮直 佐賀城に隆信が入るとこれに臣従
綾部鎮幸 隆信の勢福寺城攻めの後これに臣従
朝日宗資 詳細不明だが鎮幸と行動を共にしたか

578:人間七七四年
16/07/09 04:23:59.79 eJxSWiJb.net
>>574
織田信長だって、別に足利恩顧でも無いのに足利義昭をわざと逃がしてるじゃん。
尾張守護の斯波氏の当主も追放に留めてるしね。
後に津川姓に変えて帰服してますし、やっぱり主君殺しの悪名は大きいんじゃないかね?

579:人間七七四年
16/07/09 10:00:55.60 7a6K6sqA.net
要は少弐を傀儡にしちゃえばよかったのにという話でしょ
それを千葉も包括した状態でやろうとした(少なくとも馬場頼周がそう感じた)のが家兼親子だったのよ
鍋島彦法師丸が千葉胤連の養子になったのはこの一環
この政治体制の結果が龍造寺一族の大量粛清まで発展した

580:人間七七四年
16/07/09 16:26:40.72 I2t0EApV.net
>>576
> 更に大枠で足利幕府が存在する状態にあった

龍造寺氏と幕府や朝廷の関係というのは考えたことなかったな。
献金して官位もらったりはしていたんだっけ?

581:人間七七四年
16/07/09 16:29:47.72 I2t0EApV.net
>>579
> 要は少弐を傀儡にしちゃえばよかったのにという話でしょ

カイライにしたとしても、足利義昭みたいにちょこまか動きまわられたら困るってのはあったかも。
もっとも少弐さんにそういうキメ細かい政治力があったかというと、おそらくなかったと思うが。

582:人間七七四年
16/07/09 18:37:42.48 7a6K6sqA.net
>足利義昭みたいにちょこまか動きまわられたら
少弐冬尚には前科があるから、実行犯は馬場頼周という事になってるけど
龍造寺隆信としては冬尚を放置しておいた場合にまた外患誘致をやらないという確証がもてず
粛清の一件は親族一同の生存の危機だったんだから
やらなきゃやられると親族からの突き上げもあった筈

583:人間七七四年
16/07/09 20:18:39.33 ujHbGg1n.net
     l ト、::::`....´:::::::::::::::::::::::::::::::::::;;;_;::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ |:::::::::::
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584:人間七七四年
16/07/09 23:52:32.49 Tw72sWUz.net
隆信死後龍造寺から権力が移譲した鍋島直茂が千葉の養子で少弐庶流というも当時家中ではそれなりに意味があったのかも

585:人間七七四年
16/07/10 01:58:19.26 FLei2dje.net
言いだしっぺの勝茂も信じていないような『鍋島氏が実は少弐庶流』説の家中統制上の意味は限定的
鍋島家の正統性を外でアピールするには都合がよいから横岳鍋島家の系図をひっぱり出してみせたのだろう
三支藩を設立する為の権威づけにはなっているが、ここから龍造寺の正統性を相対化する意味はあったか
本藩―三支藩―親類―親類同格(龍造寺四家)―家老の関係や
三支藩の本藩に含まれるが大名として幕府公認という在り方も、それまでの肥前における権力の複雑な構造を考えれば自然であったと感じる
むしろ「龍造寺家」対「龍造寺家に組み込まれた個々の旧権力」という正統性の対立軸が本来存在した所を
「鍋島家」対「龍造寺家」という構造にすり替える事で旧権力側の存在感を打ち消したのには意図的なものがある

586:名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
16/07/10 15:57:36.19 t70hQvZ/.net
>>585
> 三支藩の本藩に含まれるが大名として幕府公認という在り方

これは鍋島さんのほうから幕府に頼んだのか?
それとも幕府の方で
「肥前が政情不安になるのはまずい」
という判断があったからなのか?

587:名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
16/07/10 17:15:22.32 FLei2dje.net
幕府が慣例として直参扱いしていたものを鍋島光茂がこの三藩は陪臣であるとして申し立てて
三支藩の二重被官を制度的に確定させたから、頼んだのは光茂になるね
その後も何度か佐賀藩と三支藩のいざこざを幕府が調停する事になっていくけど
だいたい佐賀藩側の言い分が通るから、幕府が政情の不安定化を望んでいないというのもあっただろう
何より四藩分の参勤交代に長崎警護と相応の負担はし続けているから文句も無いだろうし

588:人間七七四年
16/07/10 23:25:17.04 AnDtrLf3.net
基本、肥前だけじゃ無くて、九州は国人の連合政権みたいな感じなんじゃないのかね?
少弐だろうと竜造寺だろうと鍋島だろうとね。
考えると竜造寺家の為に命を賭ける義理は無いですよね。
一代前まで対等だったと思ってる訳ですから。

589:人間七七四年
16/07/11 12:01:12.42 IJV6mjPG.net
連合的になったのは江戸時代以降の話でそれ以前の政体を説明するのにはそぐわないと思う
連合政権というより複合政権とでも言うべきで、複合内にいるものは対等関係が成立していない
力関係が対等ではないのが明白だから

590:人間七七四年
16/07/11 14:15:28.39 /C3AncH0.net
複合政権(笑)

591:人間七七四年
16/07/11 14:41:55.66 XO83lDau.net
天正二年隆信公御一家及御家中幕下之衆知行附
御一家御家中(国侍分)知行総計37,475町
知行上位10氏族
御一家3,999町
大村氏2,000町
小河氏1,496町
鍋島氏1,460町
犬塚氏1,390町
石井氏1,170町
西郷氏1,000町
馬場氏900町
嬉野氏860町
高木氏715町

592:人間七七四年
16/07/11 16:14:01.67 8x2hcyq3.net
>>588
竜造寺家の為に命を賭ける義理は無いかもしれないが
いちおうの「顔をたてる」程度の義理はあったと思う。

593:人間七七四年
16/07/11 16:17:22.70 8x2hcyq3.net
>>589
常陸国の江戸氏とか真壁氏は、戦国時代には事実上の半独立勢力であったが
それでも戦場に出れば佐竹氏の指揮下に入っていたらしいな。
そんな感じだろうか。

594:人間七七四年
16/07/11 16:24:14.29 XO83lDau.net
御家中のうち知行上位者
江上又四郎(家種)700町 備考:幼少
犬塚三郎右衛門尉(家広)620町 備考:幼少
空閑三河守(光家)600町
龍造寺七郎左衛門(家晴)570町
犬塚弾正忠(盛家)570町 備考:筑後配流中
鍋島左衛門大夫(信昌)530町
鍋島豊前守(信房)510町
小河大炊佐500町
小河玄蕃允500町
土肥出雲守(家実)500町
馬場筑後守(鑑周)500町
嬉野陸奥守(通益)500町
神代刑部大輔(長良)500町

595:人間七七四年
16/07/11 17:27:53.24 XO83lDau.net
龍造寺播磨守(家親)500町を入れ忘れたので
300町より上の残り3名も追記
鹿江宮内少輔400町
綾部備前守(鎮幸)390町
副島長門守(光家)380町

596:人間七七四年
16/07/11 19:01:33.17 IJV6mjPG.net
>>593
連合や同盟というよりは関係が近く土着の宗教勢力も取り込んでいて上下関係の区別はついているのだから
複合権門体制とでも呼んだ方が適切なんじゃないのかと

597:人間七七四年
16/07/11 21:02:41.08 XO83lDau.net
>>591
まずこれは一次史料ではないのと、史料内で追記されていた数字はほぼ無視
例外として土肥出雲守は50町であったのを時期を考慮して追記の500町とした
なお追記を加味するとまず冒頭から江上又四郎は1700町
波多善次郎(後藤家信)が1300町となり天正八年の隆信公幕下着到とも一致する

598:人間七七四年
16/07/11 22:57:56.93 XO83lDau.net
>>594
小河大炊佐500町 信俊
小河玄蕃允500町 信貞
しかし土肥出雲については天正6年の鎮賢への家督相続時点で納富常陸介(賢景)100町と共に500町へ加増されたと見た方がいいか
二人とも加増は段階的に行われたのち三老職についたとみるべきか

599:人間七七四年
16/07/12 07:51:57.57 hUBa+HKC.net
隆信が家督相続の時に継承したのは川副郷の千町と小津郷の八十町

600:人間七七四年
16/07/12 22:31:44.75 B+8x570+.net
天正2年付とされるものでは松浦郡・彼杵郡・高来郡いわゆる西肥前の知行高があまり把握されておらず
天正8年で把握されているものとの差分を考慮しても、その時点における肥前国内の耕地面積は4.6万〜4.8万町歩前後だったと推測される
ただ「国衆」の知行となると天正8年では5.2万町程になる
こうしてみると隆信の弟二人、信周と長信が家老並みの知行になるのは遅い時期であり
家晴や鍋島兄弟より知行的には劣位だった期間が長い

601:人間七七四年
16/07/12 23:13:50.18 toR9SZ93.net
信周と家就が筑前豊前方面だったとして長信は何してたの?

602:人間七七四年
16/07/12 23:39:28.62 B+8x570+.net
肥前統一前
信周:後方予備、外交窓口
家就:隆信の執政家老の一人
長信:松浦方面担当、物資管理
肥前統一後
信周:政家の執政家老の一人、豊前方面担当
家就:政家の執政家老の一人
長信:全体の後方・補給担当
家就は隆信・政家の旗本頭的な役割でどこかの担当というのは確認されていない
筑前方面は江上・執行や倉町、空閑、副島辺りの担当

603:人間七七四年
16/07/13 00:14:04.29 RwOldxhu.net
天正2年だと藤津・彼杵・高来郡の攻略はこれからだが、すでに嬉野、大村、西郷氏が
幕下に加わっているな

604:人間七七四年
16/07/13 00:58:57.93 5vspypoV.net
天正初年頃から大村は平戸・後藤および西郷・深堀連合に攻められているので
大村純忠はその時期に龍造寺へ起請文を出して状況の打開を図っている
西郷純堯は純忠より前に起請文を出しているが、純忠と同じような意図があったと思う
天正期に入ってから肥前の国衆が龍造寺へ起請文を提出する量が劇的に増えているが
平戸・後藤や後は鶴田等の一部上松浦党が参加する同盟体は龍造寺にまだ起請文は出さず、大友との書状のやり取りがある
これには西肥前で何とか龍造寺の攻勢を凌いでいた横岳氏や馬場氏の一部も連携していた


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