龍造寺氏と、たまには鍋島氏を語るスレ2 at SENGOKU
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350:人間七七四年
15/12/18 21:44:44.17 50sIK0V3.net
筑後草野近辺に龍造寺や高木の地頭領があった筈なんだが実態がよく分からない
ただ其所との連絡や物資運搬用に船舶を持っていて
それを長信が統括していたのは確かになったが

351:人間七七四年
15/12/22 17:16:10.34 dS7BPhVR.net
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352:人間七七四年
16/01/22 22:11:13.69 SdvQF+3r.net
>>321須古といえば便槽死体

353:人間七七四年
16/01/23 02:00:33.46 faSDvhyX.net
政家(鎮賢)家督相続頃の主要人員
外様を継承した舎弟
1700 江上家種
1300 後藤家信
龍造寺領国中枢の家老
870 多久長信
570 龍造寺家晴
530 鍋島信昌
510 鍋島信房
500 納富賢景・小河信友・土肥家実
410 高木盛房
385 龍造寺家就
380 副島光家
300 倉町信俊・岩松信繁・水町信定・成松信勝・多久康房・勝屋勝一軒
280 百武賢兼
250 福地家盛
家老並みと思われる東肥前国衆
700 馬場鑑周
620 犬塚家広
570 犬塚盛家
540 神代信良
500 馬場信光
390 綾部鎮幸
300 姉川信安・吉田宗家・出雲信忠・横岳頼続・本居頼景
250 執行種兼
左の数字は所領の町歩面積

354:人間七七四年
16/01/23 09:39:26.81 uyTmdEpA.net
叔父の信周はどれくらいだろ
仇敵なのに馬場以外と多いな

355:人間七七四年
16/01/23 20:02:31.82 faSDvhyX.net
信周は500町で納富・小河・土肥と同格、権限的には家晴や信房信昌兄弟と差異はそう無いように思う
馬場一族に関しては馬場氏領の隣で頑強に抵抗を続けていた横岳鎮貞の存在故の大封かと

356:人間七七四年
16/01/24 21:06:11.73 dbc1N07A.net
少弐宗家が直轄の軍事力を持っていない代わりに
元から筑紫・馬場・横岳や平井の直率兵力は結構大きいから

357:人間七七四年
16/01/24 23:38:08.15 Ddnh+4Kw.net
小田の領地は誰に宛がわれたん?

358:人間七七四年
16/01/25 01:19:47.01 aN7zln67.net
蓮池城代が龍造寺一門限定職だったのを見ると龍造寺一族で分割している
多久家を除く龍造寺一族の総町部数が4700弱でそれ+αがおそらく旧小田領
もしくは龍造寺家親名義の5000町がそれに当たるかも、ただこちらは村中家の本貫地分だと思う

359:人間七七四年
16/01/25 02:25:19.44 EEPZlZSn.net
小田を捨て殺しにして主人のいない城を攻め落とすなんて非道だね

360:人間七七四年
16/01/25 11:20:38.37 aN7zln67.net
少弐冬尚を見限って龍造寺隆信に降伏した以上、小田政光以下旧冬尚派は江上・神代軍を自力で打ち破らないと面目が立たない
隆信自ら援軍に来いというのは江上・神代との共謀をまず疑われるし
一族の仇という恰好の攻撃材料がある政光を捨て殺す名分を隆信に与えている

361:人間七七四年
16/01/25 22:56:54.38 vlGaMHQB.net
沖田畷の戦い後佐賀城が島津軍に包囲される状況に至ったそうですが、
そのあとすぐ筑後に救援のため大軍を出してます、
そんな余裕がそんな状況でもあったのかと不思議です
どこからそんな兵力を出したんでしょうか?

362:人間七七四年
16/01/25 23:15:06.96 9yE/7xrm.net
沖田畷後に龍造寺領抜いて佐賀包囲できるほど島原の島津に余力はないと思う

363:人間七七四年
16/01/26 00:58:52.40 8HokZ302.net
不幸の首はいらんという劇的な場面を演出する為に城が包囲された事にしてある創作ものがあるのだろうけど
この件に関しては基本的に手紙のやり取りだった蓋然性が最も高い訳で
島原での敗戦以降、龍造寺首脳の方針が中々決まらず領内で色々騒動があり(鍋島信生本国召喚命令無視とか)
対島津の報復戦だと決まった矢先に大友の筑後侵攻が始まり、大慌てで島津との和睦を模索したという流れ
首云々に関して駆け引きがあったわけでも無く、状況が二転三転したから後から見れば支離滅裂な事になってしまっている
そうして侵入した大友軍に対して、倍する戦力がありながら野戦で敗退して持久戦へ持ち込まざるをえなくなり
大友へ集中する為の緊急避難的な対応であったとしても、それで島津に対し実質的な降伏をせざるを得なかった
この辺りの対応の拙さが今日まで続く政家の低評価の源泉になっているのでは
ただ相当舵取りが相当難しい局面でいきなり親父の様な果断な指導力を発揮しろというのも無茶な話だとは思う

364:人間七七四年
16/01/26 02:24:15.03 f+qlmgX9.net
そもそも対有馬戦略がうまくいってなかったから親父が出てきて沖田畷の露と消えたわけだし家督を相続させる人間を誤ったよね
俺は家種を推す

365:人間七七四年
16/01/30 23:03:09.07 rUObYXBK.net
有馬の造反については天正六年島原攻略時点での仕置きが手緩かったのが原因だと思う
これには有馬鎮貴に対して龍造寺より強かった頃の有馬の威勢を教え込んでいたであろう家老衆から分断して
鎮貴を佐賀へ移すぐらいの事を出来ればその後の処置も容易だったろうけど、これ程の事をやろうとすると島原での拘束時間がずっと長くなる
そうすると同時期南征にかまけた大友への対処機会を失する、島原の各勢力から質を取って有馬の勢力を削れる分は削った以上
脅威度がよりずっと高い大友を正面に見据えるべきであり、対大友への時間的猶予を優先して有馬に対しては妥協した
結果有馬に反抗の準備時間を与えてしまった
有馬からとった質人がそこまでの要人とは思えない人選(島原大学・土黒備中守)である事からして
有馬の造反は龍造寺にとって半ば折込済みだったのではという感じもする

366:人間七七四年
16/01/31 00:15:21.42 dYdpsyyl.net
大村有馬から女を質にとって息子に娶らせるなんてな
一体何に配慮したのだろうか

367:人間七七四年
16/01/31 01:54:19.69 F4/W81t8.net
龍造寺としては家中介入の口実を得るのと、序列を明確化させるパフォーマンス的な行動かな有馬大村からの嫁取りは
本来なら和議の証というのがまず来るのだろうけど、隆信の場合嫁のやり取りする時は計略を仕込まずにはおれないイメージが
有馬と大村は個別に思惑があっただろうけど、大村の方は嫡男と長女を質入れして臣従色がずっと強いね

368:人間七七四年
16/01/31 10:02:50.04 efilcM4o.net
大村から来たお福ちゃんは隆信にかわいがられて、討ち死にしたときも大層悲しんだと聞いた

369:人間七七四年
16/02/01 21:33:00.27 oBr28FF8.net
龍造寺が侵入した後の博多近辺、大友・龍造寺の勢力境界はどの辺だったんだろうか

370:人間七七四年
16/02/01 23:55:00.25 6Ur+OPyC.net
那珂川と御笠川使って大雑把に区切っていたと思う
当時の川筋がどのぐらい複雑だったのかは知らない

371:人間七七四年
16/02/02 00:07:01.01 eDeFHhTu.net
立花・高橋勢力域は宝満山系が目安でしょう

372:人間七七四年
16/02/04 08:29:03.27 oJGIR3kW.net
筑前国15郡を二つに分け、東北6郡は大友領、西南9郡は龍造寺領。
立花・岩屋・宝満などの大友の城周辺を除いた一円が龍造寺領とも。
隆信は多布施の石田信實を博多代官へ任じた。

373:人間七七四年
16/02/04 18:35:38.16 9ZhKtkBk.net
博多三商が信長に謁見した時期が隆信が博多に滞在してから筑後へ拠点を移す時期と重なるけど
龍造寺の意向が謁見の目的に介在していたかどうかで大分話が変わるよね、龍造寺にとっては
信長秀吉にお揃いの帽子を進呈というのも多分この前後にあった事だろうし
島津家久の上洛というのもまた同じ時期でしょ

374:人間七七四年
16/02/05 16:20:33.19 fhv5E0ES.net
>>353
寺院の領地って家臣の領地と比べて凄いな。
33ヶ寺併せて126,767町だから、1ヶ寺平均で3,800町余りあった事になる。

375:人間七七四年
16/02/05 20:53:12.22 UYp2sqri.net
寺といえば龍造寺四天王のひとりである円城寺信胤の父親、連乗院の増ァ和尚が立花ァ千代の名付け親だという事

376:人間七七四年
16/02/07 11:57:16.62 IZ84iXUM.net
龍造寺領に隣接している開墾地の広い所領を取り込む度に
一門の知行をそこへ移し替えて行き、徐々にその知行規模も拡大させながら家中における一門の優位性を確保する
あくまで仮説だけど、自分の理解はこれ

377:人間七七四年
16/02/07 21:54:26.28 /9sN87XY.net
増ァの妻は神代勝利に呼応して反隆信派となった鹿江兼明の娘だな

378:人間七七四年
16/02/09 23:37:48.03 FuRuPTVt.net
増?・幸徳・増純の兄弟は世俗へ介入するのを嫌っていたのが却って信用されていただろうけど
佐嘉郡内では規模が大きく拠点性が高い寺社を兄弟で受け持っている事の影響力は大きいか

379:人間七七四年
16/02/11 15:28:30.35 3i5NUKD6.net
増ァの徳善院は弟幸遵の子盛純が継いだみたいだね
男子は信胤だけだったのかな

380:人間七七四年
16/02/13 19:18:50.98 fzCEU4Wj.net
龍造寺に四天王、両彈ニ島は知られているが、三法師は知らなかったな。
三法師とも揃って沖田畷で戦死か。

381:人間七七四年
16/02/13 21:38:52.71 D9s2QTLQ.net
従軍記録はないけど龍造寺の使僧ではある
あと徳善院は結構な人数の山伏を抱えていて、蓮乗院や実相院も同様のコミュニティがあった
この辺りを葉隠忍者として整理していけば捏造とか言われなくなると思う
神代勝利も忍者衆の頭領として再定義したら面白いかも

382:人間七七四年
16/02/17 19:44:50.59 jTMncDOi.net
神代が東千葉の家督を継承できたのは東千葉系人士との人脈を途切れさせない根回しをしていたからか
神代家が龍造寺家と戦うにあたって、山内へ逃げ込んだ東千葉残党勢力が果たした役割は大きかった筈

383:人間七七四年
16/02/20 00:06:35.55 Igbm1LqT.net
「こうじろ」なのか「くましろ」なのか、いまいちよくわからない
鍋島に乗っ取られてから読みが変わったんだっけ

384:人間七七四年
16/02/20 02:10:53.19 dk3GnACv.net
信生
これ何て読むの?

385:人間七七四年
16/02/20 03:57:08.90 naQ0HG4b.net
龍造寺氏の遺構でどこか観光できるとこないですか?

386:人間七七四年
16/02/20 07:39:56.82 Xdan2UBM.net
>>383
こうじろもくましろもいる、それだけのこと

387:人間七七四年
16/02/21 19:15:18.41 Igk8uyHe.net
>>381
> 神代勝利も忍者衆の頭領として再定義したら面白いかも

そういえば、龍造寺の忍者はあまり注目されたことがないな。
戦国時代だから当然、忍者は雇っていたわけなのだが。

388:人間七七四年
16/02/21 19:53:29.13 OF70w4Mf.net
>>384
ノブなり

389:人間七七四年
16/02/21 20:39:53.23 vgfv6hT7.net
佐賀の忍者と言えば最近嬉野のあたりにも忍びがいたかもと言うことがわかって
肥前夢街道が市からの公式なバックアップを受けられるようになってたな

390:人間七七四年
16/02/21 20:59:54.80 zjvx+JAb.net
>>385
佐賀城址、(十間堀・大財端城)、龍泰寺、高伝寺、龍造寺八幡、蓮池公園
(後多久氏;多久市)梶峰城址、東原庠舎、多久聖廟
(須古氏;白石市)須古城址、肥前犬山城
(武雄鍋島氏;武雄)武雄神社、武雄高校、御船山楽園
(諫早氏;諌早市)諫早公園、諫早高校、眼鏡橋
佐賀平野部の戦国当時っぽい遺構なら、姉川城址・直鳥クリーク公園・横岳クリーク公園
観光に耐えうるかどうかは入念に下調べしてもらわないと保証できない

391:人間七七四年
16/02/21 21:12:44.97 zjvx+JAb.net
あと徴古館と本丸歴史館に行ったら資料は貰えると思う

392:人間七七四年
16/02/25 23:40:07.42 1k21sikD.net
あのしょぼい本丸歴史館をどうにかしろ
地元の小学生の社会科見学にすら使われとらん

393:人間七七四年
16/02/26 10:46:33.06 hXUDPe1I.net
ボランティアの人に戦国期の歴史が少なすぎる(今山の戦いなど)と言ったら、
あくまでもここでは鍋島推しであって、隆信の扱いはそうならざるを得ない、と言ってた。
悲しいことだね。でもあそこは鍋島以来の佐嘉の通史から日本史(幕末・明治押し)
を学べるから、学生には丁度いいんじゃね?
戦国が好きな人にはあんまり面白くないよね。。

394:人間七七四年
16/02/26 10:54:50.91 QxzCz/kk.net
龍造寺あっての鍋島なのにね
歴史を切り離すことは出来ないのに

395:人間七七四年
16/02/26 13:50:45.78 ETrRapEI.net
佐賀にも戦国関連でなんかあればいいよなあ
こういうとこのアピールの弱さは戦国関連でメジャーになりきれないことに関係してそう

396:人間七七四年
16/02/26 14:36:01.07 wJbS32Th.net
くまもんって佐賀のゆるキャラだっけ?

397:人間七七四年
16/02/26 15:16:21.11 lph+Mutx.net
肥前と肥後の違いで惜しかった。

398:人間七七四年
16/02/26 15:26:05.59 wJbS32Th.net
肥後のは隅もんだからな
肥前のが熊もん

399:人間七七四年
16/02/26 15:45:26.38 CtvSgNHe.net
なぜ佐賀県なんて小さい県が存在してるの? 福岡長崎に分割されてしまえよ
などとよく2chなどで言われるが、佐賀県が存在している歴史的理由を辿っていくと
龍造寺がいて鍋島がいたから、という事実にたどり着かざるを得ないのである
佐賀になんかあるのかという問いも、山本常民先生が300年以上前、既に葉隠の一番最初
一番重要な事として既に答えを出しておられるのである

?御家来としては、国学心懸くべきことなり。今時、国学目落しに相成り候。
大意は、御家の根元を落ち着け、御先祖様方の御苦労、御慈悲を以て、御長久の事を本づけ申すために候。
剛忠様御仁心御武勇、利叟様の御善根御慈悲を以て御長久の事を本づけ申すために候。
隆信様日峯様御出現、其の御威力にて御家長久、今が世迄、無双の御家にて候。
今時の衆、斯様の義は唱え失い、余所の仏を尊び候。我等は一円落着き申さず候。
釈迦も孔子も楠木も信玄も、終に龍造寺鍋島に被官懸けられ候儀これなく候へば、当家の家風に叶い申さざる事に候。
如睦甲冑ともに御先祖様を崇め奉り、御指南を学び候て、上下共に、相済み申す事に候。
其の道々にては、其の家々の本尊をこそ尊び申し候へ。御被官ならば、余所の学問無用に候。
国学得心の上にては、余の道も慰みに承るべき事に候。
よくよく了簡仕り候へば、国学にて不足の事、一事もこれなく候。
今他方の衆より龍造寺鍋島の根元、又龍造寺の領事が鍋島領地になり候謂われ、
また「龍造寺鍋島は九州にて槍突きと承り候が、如何程の武功に候や」などと尋ねられ候時、
国学知らざる衆、一言の応えも成るまじく候。
以上、葉隠・夜陰の閑談:序文の冒頭部分

400:人間七七四年
16/02/26 17:10:02.81 85o+RkFS.net
>>399
子供の頃「なぜ安房国などという小さい国があるのか?」と思っていた。

401:人間七七四年
16/02/26 17:30:24.32 KiUnn0lb.net
クニがあるのはそこに歴史があるからという事を正しく認識出来ない人がいるという問題が
300年経った今でも全然解決出来ていない、というより悪化している問題

402:人間七七四年
16/02/26 17:33:04.82 wJbS32Th.net
>>400
志摩のほうが小さくないか?

403:人間七七四年
16/02/26 19:07:56.85 /N+GS6ND.net
>>402
志摩は伊勢神宮があるからなんとなく納得できた。
安房は理由がわからなかった。

404:人間七七四年
16/02/26 19:08:39.83 ePrVPfcp.net
房総半島と言っても房と総が違い過ぎるな

405:人間七七四年
16/02/26 22:17:01.04 CEjoXTu8.net
赤司志摩守家貞 蒲池志摩守鑑広 上瀧志摩守盛貞 武富志摩守 萩原志摩守 百武志摩守賢兼 前田志摩守尚忠

406:人間七七四年
16/02/27 12:41:28.80 DT5UJVr0.net
>>393
戦国好きだと龍造寺の方がメジャーな気もするけどね

407:人間七七四年
16/02/27 13:17:39.79 Qr2b1qrj.net
四天王が今山合戦で夜襲かけて総大将を撃破して死体の山を築いたんだよね

408:人間七七四年
16/02/28 14:40:13.32 Q+pjCBHX.net
歴史の意味としての今山合戦は独立戦争と定義するべきで
この独立戦争を経て龍造寺領国は独立的な外交関係を樹立し、独立した公として認知を受けた

409:人間七七四年
16/02/28 16:48:28.52 NtOAxB77.net
では、歴史館で今山の戦いを扱わないのは、ない罠

410:人間七七四年
16/02/28 17:37:34.19 i5cEpYhr.net
名護屋は朝鮮資料館だし佐賀って性がないわな

411:人間七七四年
16/02/28 18:15:41.37 Q+pjCBHX.net
佐賀の方はアイデンティティを幕末に自力で近代化した事と、政府高官を大量に出した所に置いていて
唐津の方は日本の文明の魁は唐津であって、大陸や朝鮮とのを交流をする上で果たした唐津の役割に重きをおいてる
なので名護屋は朝鮮資料館という批判は誤りだ
名護屋城博物館は朝鮮とこれだけ交流があった唐津凄いぞ博物館なんだよ、意図としては

412:人間七七四年
16/02/28 20:07:06.14 JwumCHnv.net
神代勝利の小説が出たんだな
佐賀駅の本屋の週間ランキング8位に食い込んでいた

413:人間七七四年
16/02/29 10:50:20.31 w2bYUFyp.net
神代勝利は山幸彦で龍造寺隆信は海幸彦なんだな、ヤマの代表とサトの代表

414:人間七七四年
16/02/29 16:24:19.05 W7lVpSa/.net
神代勝利は名前がかっこいい

415:人間七七四年
16/02/29 17:56:55.79 AjG61BJC.net
かみだいしょうり

416:人間七七四年
16/03/01 10:00:02.21 B5vRBfyL.net
じんだいしょうりって読んだほうがかっこいい

417:人間七七四年
16/03/04 18:00:01.06 chv6JHQH.net
龍造寺家臣の中では小川、納富氏あたりが勇猛果敢だったのかな

418:人間七七四年
16/03/04 21:17:54.23 752mqM54.net
鉄布峠の戦い

419:人間七七四年
16/03/04 21:34:03.54 avQY6TDv.net
小河家も本来なら佐賀藩政期で着座家老位の勲功はあった筈なんだけど
名跡継いだ忠茂の系統が勝茂とイザコザやったせいで割喰らった感じ

420:人間七七四年
16/03/05 19:41:17.69 Wb1IWVI0.net
>>411
うぜー
幕末なんて戦国好きの連中から一部流れてきた層だろ

421:人間七七四年
16/03/05 19:44:17.87 ZeMm1oSb.net
維新の嵐の影響は否めないな

422:人間七七四年
16/03/05 21:46:25.79 RNhFACH0.net
よく鍋島閑叟を口説いたっけ

423:人間七七四年
16/03/06 22:51:17.21 BdfZyVxK.net
>>419
小河家家督相続
信安―信俊―家俊―直房―利清―俊方―俊武
信安 神代勝利との鉄布峠合戦にて戦死
信俊 養子 直茂弟 島原沖田畷合戦にて戦死
家俊 文禄(二年)の役弟家久と共に朝鮮にて病死
直房 養子 鍋島直茂次男 のち鍋島へ復姓 鹿島藩主
利清 養子 千布政利の子 祖母(千布賢利の妻)が信俊の娘
俊方 兄清氏早世により相続 小河舎人祖
これでいいのかな

424:人間七七四年
16/03/07 21:57:50.99 mL5Q18+A.net
神代勝利は筑後国人領主の子
小河信安は筑後守護代菊池為安の孫
どちらも大友勢との抗争で肥前へ亡命してきた家
落ち延びた先でも武家であるから世の常として肥前で相争う
千布家は神代家の重臣で神代一族を保護した家
ならば小河の家をまた保護するのに不都合があろうか
その様な所縁あって千布氏が小河の名跡を継ぐ

425:人間七七四年
16/03/08 12:07:42.07 CtCv5O1/.net
竜造寺隆信が当主に就いた時天下を狙うからそのつもりで精進せよと家臣に言ったら
反発した家臣たちに追放されたという話が歴史群像の九州三国志にのってたんだが
これって事実なんかね

426:人間七七四年
16/03/08 14:25:56.46 LUpIL1Zv.net
隆信公御年譜天文十九年、胤栄が死去し隆信が惣領七千二百二十町を得る時の所信表明的な場面
御一族鍋島駿河守、龍造寺右衛門太夫,同左馬太夫,同新五郎,同越前守,同伊豆守,同隠岐守,同河内守,同石見守,同右京亮,同伯耆守,同右馬太夫
並時の老臣小河筑後守、納富但馬守、福地長門守、石井尾張守の前で隆信がこう言った
「今我が代に成りける処に、国中蜂の如くに鉾を砥ぐ折なり。剛忠公の御遺言にも冬尚を討ち御響応すべしとある。
彼を討て御本意を達し、速やかに根を断つべし。この外諸将が我を侮るだろうが何事のものか。
敵に先取られるより早く旗を出して我が鉾を見せん。冬尚、小田、江上を討ち東を得ん。有馬、波多を討ち西を治めん。
是を凡そ五年の手間で取る。彼を討ち、隣国に出馬し、菊池、大友、原田、秋月、島津を従え、四国、中国へ乗出てこれをとる。
ただ決して油断をしてはいけない」
それを受けて曰く
「五年を限って陳用すべしと仰るが未だに肥前国中さえ治める事ができていません。
諸将をたやすく従わせられるという思召しが却ってそれを難しくさせる元になります」
隆信の此儀に応じて家老の皆が感じるところは『この眼は本気のものだ』というところで皆は密々と軍議を談じた
ただこの時家中の内にはこれを余りに剛強大思過ぎると危ぶんで
『隆信では当家を治めるのが却って難しいだろうから左衛門太夫鑑兼を代わりに立てよう』という風説が出た
しかして胤栄の老臣土橋伊賀守は初めから隆信を否定していた

逸話は物語だという前提をおいて物語調に出典だろう物の意訳をする

427:人間七七四年
16/03/08 14:35:13.73 r7xJ2uUt.net
天下云々は置いといて、主筋の小2を蔑ろにするような方針だったからじゃないの?
信長が健在時に秀吉が天下を目指すとか言ってるドラマがあるけど、普通なら粛清されるよなw

428:人間七七四年
16/03/08 17:35:45.08 LUpIL1Zv.net
水ヶ江家の一族重臣が多数粛清され、それを主導した頼周が家兼の逆襲によって討たれた時点で
少弐と水ヶ江龍造寺の共存は完全に否定されている。どちらかが滅ぶまでやり合うしかない
しかし村中龍造寺ならそうでも無い、遺恨が残っている水ヶ江家は既に多くを失っていて弱体化しており、怨敵の馬場家にしても家勢は弱まっている
水ヶ江家の始祖でありそのものだった家兼爺はようやく死んだ。胤栄の死去を契機として代替わりで少弐と再び和を請うのも可能じゃないか
残った水ヶ江の当主はデカい事言ってるがつい最近まで寺に入れられていた武家の作法もよく知らない坊主
そんなのに村中の惣領まで継がせる事なんてないだろう。というものだと思う

429:人間七七四年
16/03/08 18:54:42.37 Oq/q/4+o.net
そいで都合良く大寧寺で後ろ盾の義隆が死ぬんだからな、まあしょうがないな

430:人間七七四年
16/03/08 21:19:38.22 W/5+xgzA.net
龍造寺家中にも隆信の後ろ楯というか、権力を支えるものが何もないからね
表面上はいきなり現れて当主になったクチだから
家兼直系長男家の嫡子なのに僧籍に入ったまま放置されていて
円月坊だった隆信の処遇が本来どうあるべきだったかを知る歴代当主は全員死んで真相は墓の中
円月が還俗した時にあったのは家兼の遺言とそれを守れと主張する小川信安等の一部家老のみ

431:人間七七四年
16/03/08 23:56:51.57 3aUMl9Ql.net
>>429
義隆の横死後も
隆信が偏諱捨てなかったのは大内に対する恩義があったからかな

432:人間七七四年
16/03/09 07:15:30.35 1bNIM6x/.net
面倒臭いだけなんじゃ…

433:人間七七四年
16/03/09 19:26:42.44 DAqoICVu.net
隆はリュウとも読めて龍に通じる、始祖としている藤原隆家を意識など隆の字が気に入っていた説を推す

434:sage
16/03/10 09:16:39.61 RdptX6nt.net
いえかねの遺言が真実だとして
何故隆信を強く後継に推したんだろうね

435:人間七七四年
16/03/10 15:56:02.36 j4/B8arX.net
フィーリング

436:人間七七四年
16/03/10 17:16:38.50 IOefV46f.net
8歳で平家物語を暗唱し、その時点の龍造寺家がどうだったと注釈を入れて女中に語っていたとか
12歳時点で成人した修行僧より故事に通じており学識が高かったとか、記憶力が尋常じゃないとする逸話が隆信には多い
直茂も西千葉での養子時代関連で賢かった逸話があるけど、こっちはおませな子で済む程度
隆信は幼少の頃から可愛げがない賢しい子供だったのは想像に難くない
隆信の持っていた賢しさ、頭が良いのは認めるがそれに家臣が果たしてついてこれるのか
指導者としてその鋭敏さが本当に適切なのかどうか判断しかねたから
直接指名ではなく遺言という形にして、家臣にも隆信の人品を見定めさせる為に詮議の機会を設けたんだろう
結局最後は託宣で隆信の後継が決まったけど

437:人間七七四年
16/03/10 22:26:08.16 8+iMcMPF.net
天文十六年に龍造寺西千葉勢と筑前の大内勢で少弐勢力の追い落としをやっているけど
この直後に東肥前で検地をやったらしく、これで隆信は国衆からかなり恨みを買ったんじゃないかと

438:人間七七四年
16/03/11 21:09:13.65 K4ccai4W.net
『隆信』になった最初の一年だけは大内家の肥前守護代的な立場だったのだろう
山城守への任官も大内の本気度が垣間見えるといいますか
大宰少弐・筑前守を打ち消すのに大宰大弐・山城守と並ばせると説得力は相当ある

439:人間七七四年
16/03/13 09:38:09.52 cY3IBFl5.net
鍋島って隆信擁立反対派だったんだよな
あの時鍋島全員打ち首獄門にしてればよかった

440:人間七七四年
16/03/13 09:59:19.70 5o1xlSQq.net
今山合戦って本当にあったの?大友親貞って正史には出てこないじゃん。
全部鍋島の捏造なんでしょ。隆信がヘタレなわけないじゃんか。

441:人間七七四年
16/03/13 10:55:50.74 cI6KyMii.net
少なくとも翌日に多久まで電撃戦やれるだけの打撃を与えたのは事実だろう

442:人間七七四年
16/03/13 11:11:58.96 G91djuCo.net
>>439
円月を還俗させる前に水ヶ江家の遺産相続配分が家門の遺産は鑑兼(或いは家就)へ、家純と家兼の遺産は慶法師長信へと
これも家兼の遺言通りに決定していたので、ならば円月の相続分はどうするんだという話になるはず
家兼の遺言通りにすると円月は家督だけ継いで台所分は無しという無茶なことになってしまい
この問題をどう解決したのかがよく分からない、けど多分遺産問題は棚上げされて、清房が懸念した部分はここだったのだと思う
だから還俗直後の領主としての胤信はおそらく自分の都合で動かせる資産や人員を何一つ持っていない
多少は周家の遺産から分知を受けてはいただろうが

443:人間七七四年
16/03/13 17:21:08.37 aLWUgVx3.net
龍造寺胤栄死去直後を狙って肥前復帰した少弐冬尚の場合や
粛清騒動が冷め止まない内にとって返して馬場頼周を討ち肥前復帰した家兼の場合と違い
隆信の肥前復帰戦は前触れもなく突然起こった
様に見せる為の計画が前々から練られていたという点で異なる

444:人間七七四年
16/03/13 20:57:32.32 cY3IBFl5.net
>>431
隆信は大内氏には格別の好があったんだろな
隆信自身が義隆から貰った偏諱のほかに、隆信は義隆亡き跡を継いだ
義長へ偏諱を願い出て弟家信を長信と変えた

445:人間七七四年
16/03/13 22:19:20.66 aLWUgVx3.net
大内遺臣らしい勝屋勝一軒が隆信に仕え始めた時期はよく分からないけど
大寧寺の変後に筑後で互いに浪人中だった時知り合った、というのが蓋然性高いと思う
それで勝屋勝一軒と鍋島信昌を競わせていたのは
相良武任と陶隆房の関係を模して改良したもので
隆信は自分なら統制出来る確信を持っていたのだろう

446:人間七七四年
16/03/13 22:38:51.76 jUQxFgV1.net
子孫に代ゼミの講師がおったんか

447:人間七七四年
16/03/14 02:31:25.82 Ung8RkjJ.net
その結果先陣の負けは次陣の負けを破ってすら勝屋を見捨てそうになる信昌

448:人間七七四年
16/03/14 02:39:37.44 9K6olGiU.net
広橋を死なせたり勝屋を見殺しにしようとしたりライバルの蹴落とし方はえげつないものがある。
こんなクズだからこそ主家乗っ取りが平気に出来た。

449:人間七七四年
16/03/14 06:25:53.45 3o/k6KrZ.net
>>446
対馬の宗さんの当主は教師やっているらしい。

450:人間七七四年
16/03/14 13:57:55.77 QAF4LeB8.net
大内氏のあとって大友宗麟が継いだんだっけ
織田信長は毛利征伐後は長門周防は大友に与える予定だったとかなんとか

451:人間七七四年
16/03/14 15:44:37.10 9K6olGiU.net
信長が長宗我部にした仕打ちを考えれば大嘘ってのがよく分かる

452:人間七七四年
16/03/14 16:07:20.56 Govimni3.net
隆信の人事を見ていると、譜代集団の中に隆信が抜擢した人材を捻じ込んで相互監視させるような特徴が見える
先陣後陣で一単位扱いを徹底させていたのも、相互性というか物事の対称性に隆信の関心が高かったからだと見る
なので譜代組の代表格である鍋島が、横入りしてきた抜擢組と対立するのは必然だったと考える

453:人間七七四年
16/03/14 17:25:48.64 MAAqyV+o.net
>>450
> 織田信長は毛利征伐後は長門周防は大友に与える予定だったとかなんとか
それはないだろ。

454:人間七七四年
16/03/14 21:31:48.62 WFxk7Mjc.net
隆信を佐嘉より追い出した土橋栄益の官位だけど、九州治乱記、北肥戦誌では加賀守
肥陽軍記では伊賀守となってるがどちらがありなのかな。それとも両方ともありかな。

455:人間七七四年
16/03/15 09:31:28.96 tz0/7nmT.net
大友の支持を得て少弐体制を復古させ東肥前十九城主と連携し龍造寺の本拠を抑えていた土橋栄益が
なぜ落人に成り下がっていた隆信に負けたのか

456:人間七七四年
16/03/15 12:25:13.53 w/y3/YAv.net
傀儡政権だったから?

457:人間七七四年
16/03/15 13:33:27.02 a90zb4ds.net
龍造寺与党の地侍が多かったからとか?
剛忠の遺徳?

458:人間七七四年
16/03/15 15:34:11.00 3Oad7Tki.net
蒲地氏が隆信に兵か軍資金を貸したのではないだろうか?
隆信は軍事的才能はあったから、兵が集まればなんとか戦えたはず。

459:人間七七四年
16/03/15 18:34:39.90 7oMmszRL.net
対応の遅さからして防衛側が隆信挙兵を察知した時期がかなり遅い
挙兵を思い立ってから正味一週間ぐらいで一領具足3000+蒲池義勇兵200+与賀川副郷士1000集めて威徳寺で旗揚げ
後は合流する前に十九将の兵は各個撃破され土橋は捕縛後斬首

460:人間七七四年
16/03/15 19:00:24.89 a90zb4ds.net
そういえば佐賀の戦国史講演で、宗雪が助けたのも龍造寺領が筑後の方にあった縁ではないかとか言ってたなあ

461:人間七七四年
16/03/15 19:16:16.70 GqJ/75Wz.net
石井衆ら
龍造寺と縁がある地元の地侍が土橋に承服してなかったのも
大きかったんでは

462:人間七七四年
16/03/15 20:17:24.16 7oMmszRL.net
帰参するなら無条件で許すとか
あと徳政や租税免除とかを喧伝しながら住民各層を糾合している
これは家兼が馬場頼周を討った時と同じ手法だから
現金な連中も集まりやすい下地はあった

463:人間七七四年
16/03/15 21:05:22.56 5KKhGstk.net
土橋に呼応した者達
龍造寺鑑兼、龍造寺家重、龍造寺常家、龍造寺常直、龍造寺家就、龍造寺胤直、龍造寺家臣西岡美濃守、
高木、小田、神代、江上、八戸、馬場、横岳、犬塚、鴨打、徳島、本告、少弐千葉、他、総勢2万

464:人間七七四年
16/03/15 22:59:57.36 EgNx347G.net
最大の懸念材料であろう大友も一万田・宗像・服部の鎮圧と菊池義武への対処で介入は無理だと踏んでたろうね
少弐と戦いながら大友には土下座外交してとにかく対決は避けてる

465:人間七七四年
16/03/16 10:45:02.17 k85dmACx.net
土橋としては妻が少弐資元の娘で冬尚とは義兄弟の仲
冬尚を目の仇とする隆信に対して特別の感情があったんだろな

466:人間七七四年
16/03/16 11:44:44.49 fApGiI1w.net
冬尚って元は時尚でしょ、改名の理由は何なの?

467:人間七七四年
16/03/16 12:52:14.51 BmNZQELn.net
冬尚の名前の変遷は興経→時尚→冬尚
元服時は細川高国に仲介してもらって将軍家へ紹介されたとしているけど
大内義興の威勢が全盛の頃だろうから興を付けざるをなかったものと思われる
これも推測でしかないけど時尚に名を変えたのは父親と一緒に大宰府奪還軍を興して大内との対決を鮮明にした時で
冬尚にしたのは渋川家を降して服属させた時点でそう変えたのではないかと
冬尚とい名乗りの由来が九州探題と戦い始めた頃の少弐当主、頼尚・冬資からとするなら
渋川を完全に破って九州探題を崩壊させた記念として名を変えるというのはありそう、ただあくまで私見

468:人間七七四年
16/03/16 12:59:50.04 NPscOaQG.net
>>463
2万?
嘘これ本当?

469:人間七七四年
16/03/16 13:16:49.43 BmNZQELn.net
東肥前十九将それぞれ数千から数百人前後は動かせるので、総勢でそのぐらい居ただろうけど一所にあつまって軍になるのは無理
隆信軍の三千+αに対して数では圧倒的に優位だった、ぐらいのニュアンスで良いんじゃないの
遠征の兵数ではなく内戦の兵数だってのを念頭においてもらわないと

470:人間七七四年
16/03/16 13:23:15.79 MRtPFa5g.net
>>467
秋までに上洛するぞ!って祈願して改名した義秋君とは違うのか…

471:人間七七四年
16/03/16 13:29:59.17 BmNZQELn.net
アキとかハルとか名乗ってる奴が周りに多すぎるから自分はフユだ!というのもあったと思う

472:463
16/03/16 13:47:33.38 k85dmACx.net
>>468
小生も嘘か誠かは当時不在だったので分かりません
土橋氏の子孫が1730年代に書き残した資料からの転記です

473:人間七七四年
16/03/16 16:51:20.52 3o2tZ0Cp.net
隆信が大川で募兵した戦力を何事もなく川副まで移動させる事が出来たことで
既に栄益や冬尚は半分負けていた
だから隆信勢の渡海を妨害するなり、水際迎撃するなり
どのようにしても迅速に動く必要があった

474:人間七七四年
16/03/16 20:43:40.80 r4bSecKb.net
1度は確か防がれるかして筑後に戻ってるんだっけ

475:人間七七四年
16/03/17 10:22:07.98 39YxE8a3.net
暴風にあって杵島まで流された、という事だけど供回り数人との行動だから二回目と目的主旨が違うだろう

476:人間七七四年
16/03/17 11:45:23.97 PwD/CDv5.net
厳島みたいにまさかこんな日に来ないだろうと思わせて…遭難したんですねw

477:人間七七四年
16/03/17 14:04:25.69 1NamLV4P.net
目的地は千葉領芦刈だったのが暴風雨で有馬領側の柳津に突っ込んだという話だからね
もしかしたら佐賀にも寄るつもりはあったかもしれないけど
天文21年は飢饉が発生していてまず戦どころじゃなかった感じ
飢饉が発生したあと有馬勢が杵島の千葉領に対して大規模な略奪を行った
ただでさえ窮乏しているのに有馬が日増しに勢いを増している
それを危惧した千葉家臣鴨打胤忠が隆信に現状を知って貰おうと千葉領訪問を企画
それで隆信視察団が勢い余って有馬領に流されるという流れ

478:人間七七四年
16/03/17 16:47:11.30 a3JdFdP6.net
大河ドラマでそれやったらギャグパート間違いなし

479:人間七七四年
16/03/17 18:18:56.53 6NQM4Cg0.net
大内だ大友だの前にまず眼前の有馬問題を解決しろ
これが家兼や隆信を支持した層の主張だったのではないか
千葉にとっては死活問題だが少弐は有馬に対して殆ど危機意識が無かったように思う

480:人間七七四年
16/03/17 19:01:31.64 y11A3sWH.net
>>479
有馬氏は、スキあらば攻めてくるという家風ではなかったように思う。
専守防衛っぽい家風であって、無理に領土拡張するよりも
貿易で儲ければいいだろ的な家風だったように思う。

481:人間七七四年
16/03/17 19:47:57.31 9Qv7iut3.net
養子縁組で勢力拡大

482:人間七七四年
16/03/17 20:33:41.91 1NamLV4P.net
貿易だけで飯が食えるなら領主なんてのもいらんわけで
有馬は大陸側に公的な認知を受けた勢力ではないから大々的な取引をやる為の信用が足りないので
だからこそ相伴衆や屋形号獲得を志向した
それで大内滅亡直後に九州の特に北部で起こった銭の陳腐化と銀・米の基幹通貨化に顕著だけど
細川・大内滅亡による日本の対外的な信用崩壊で煽りをもろに受けたのが晴純体制下の有馬だったろうね
既存の貿易形態に有馬が乗っかっていたとしたら、有馬の手元には銭があっても銀や米は足りなかった筈だから
そこから倭寇・南蛮貿易志向へシフトするまで積極的拡張策への揺らぎもあるもんじゃないのかな

483:人間七七四年
16/03/17 22:26:32.50 gt+cqdm5.net
>>480
>有馬氏は、スキあらば攻めてくるという家風ではなかったように思う。
土橋の乱のドサクサに出兵して杵島郡を占領してるよ
当時の杵島郡、小城半郡は土橋栄益(和貞)の領地だったが隆信反撃のドサクサに
有馬義純が杵島郡へ乱入し占領してる。杵島の土橋栄益は小城郡多久の小侍城へ退却したが
こんどは龍造寺家信、千葉胤蓮に攻められ落城し一族討死と云う

484:人間七七四年
16/03/18 02:13:38.28 UmUohnuG.net
有馬晴純が脅威だという意識が少弐に共有されていなかったのだから
家兼・家門が構想した千葉・龍造寺・少弐の三家同盟体制は破綻するしかなかった
これが千葉少弐を取り込んで水ヶ江龍造寺が大名化する策なのが馬場頼周にはバレバレだったのだろう
水ヶ江龍造寺を粛清して千葉と龍造寺を傘下に収め
少弐一元支配体制を作ろうとした判断も大内と本気で戦うなら間違いではなかった
しかしどう考えても少弐では制御出来ていない有馬晴純ありきで龍造寺を潰そうというのが無茶すぎた

485:人間七七四年
16/03/22 22:55:26.37 +0KIgDM6.net
軍事的には勝てても本領を取り返した直後の龍造寺隆信では、少弐冬尚と比べて武家間の外交関係において劣勢だった
通常ならとっくの昔に詰んでいる局面でも盤外勝負に出て生き延びてきた少弐家を、本当の意味で詰ます為に何が必要だったか

486:人間七七四年
16/03/23 12:41:25.59 a/MEsvEf.net
族滅

487:人間七七四年
16/03/23 14:57:31.56 pG5V9E9c.net
>>485
大内氏が朝廷に献金して
少弐氏を上回る太宰府系の官位を購入したはずだが。
あれは意外と効果あったのではないか。
少弐氏のブランドイメージを低下させるという意味では。

488:人間七七四年
16/04/01 15:54:12.45 Ie7Yl6Uz.net
過疎ってるのは鍋島のせいだな

489:人間七七四年
16/04/01 20:37:27.69 RBUNIxfP.net
化け猫の祟りじゃ

490:人間七七四年
16/04/03 10:01:01.93 B2IO6kIS.net
鍋島のことは知ってても
龍造寺の話振ると
は?
どこかで聞いたような・・・
となる場合多し

491:人間七七四年
16/04/03 12:38:52.35 6hwxNeMU.net
鍋島の化け猫って江戸時代入ってからじゃないのか

492:人間七七四年
16/04/03 13:24:07.26 /vSZ4js2.net
里見に八犬伝の話を持ってくるようなもんだあね

493:人間七七四年
16/04/10 22:15:43.80 UCCXg33J.net
少弐は大友に大宰府返せとは言わなかったのかな
菊池に対する処遇みたくうやむやのまま既成事実にしちゃったみたいな印象しかないんだけど

494:人間七七四年
16/04/11 07:40:15.59 XDsKKaUS.net
>>493
言っても返してくれないだろ。

495:人間七七四年
16/04/15 19:49:01.75 NEZDvEm8.net
陶晴賢と毛利隆元が争っているとき少弐冬尚は毛利を支持していたけど
これが大友と完全に同調したものかというとまた違うだろう、大内と同様に少弐という家名も大友の地域覇権にとっては邪魔
とくに毛利が陶に勝って以降の時期だと、毛利が少弐の存在を保証して支援するという話になると重大な脅威ですらある
この点で大友と龍造寺は利害が一致していて、だから秋月文種の挙兵時などでは隆信も大友勢へ積極的に協力をしていた
それで結局大内義長と同じように見殺しにされて冬尚は隆信に討たれる
その後はそれを奇貨にして義鎮が堂々と肥前周辺への介入口実を得ると

496:人間七七四年
16/04/22 19:36:06.57 Fs+KrYhh.net
少弐冬尚が挽回するには結局戦場で龍造寺隆信を倒さないとダメ

497:人間七七四年
16/04/22 19:41:51.46 vNMv2JY9.net
こいつ陣頭に立ったことあったっけ?
城に籠ってるイメージがある

498:人間七七四年
16/04/22 21:15:26.64 eTSDNSnM.net
龍造寺氏は四国の大名とは音信はあったの?
儀礼としての使者のやりとりとか。

499:人間七七四年
16/04/22 21:58:09.10 v6VsiO77.net
弱小四国勢と誼通じて何かいいことあるの?

500:人間七七四年
16/04/22 22:12:19.97 u1mSctlg.net
隆信は四国どころか五国の太守だもんな

501:人間七七四年
16/04/22 22:30:58.59 scFk1Jbv.net
少弐は大内との対抗上細川とは懇意にしていたけど四国側の細川となると
あと龍造寺近隣勢力で四国に所縁があるのは渋江一族ぐらいしか
それにしても戦国時代の西園寺に先祖の因縁を云々する筈もなく

502:人間七七四年
16/04/22 22:55:09.53 MHwWn1lj.net
>>498
国が海を馳せんで四国と面してる大友島津と違って
肥前と四国だと交友結ぶ意味も少なそう

503:人間七七四年
16/04/23 16:49:13.04 5vbWPgVJ.net
島津って四国勢力と誼通じたん?その理論は破綻してる

504:人間七七四年
16/04/23 17:32:53.96 qkTO4gkI.net
南海路の堺商人を利用して南蛮物得ようとする時は商人側が島津家にも話を通す、で南海路の中継地は四国南部
大友は大分湾へ商船を寄港させる事に腐心していたけど坊津・油津の地理的優位性は覆しがたい
油津の権益を島津が十分に掌握していたかというと伊東がいるから微妙だけど

505:人間七七四年
16/04/23 17:55:37.88 ADgx8brx.net
島津なんかどうでもいい

506:人間七七四年
16/04/23 19:49:39.92 5vbWPgVJ.net
政治的軍事的じゃないので却下

507:人間七七四年
16/04/24 11:37:58.87 +Bhys0ta.net
少弐の権威でもって外交関係では隆信より優越していた冬尚が追い込まれてしまったのは
隆信が外野の圧力を無視して冬尚派を攻撃し続けたから
権威で抑止しようという試みが通じない相手には実行力がないとその外交には意味がない

508:人間七七四年
16/04/24 22:52:41.68 hMPOmIBD.net
冬尚の墓って勢福寺城の麓にポツンと建ってるけど哀れさを感じるな

509:人間七七四年
16/04/27 01:55:40.26 mClrZ9Hn.net
冬尚の最後の状況は勢福寺城本丸へ登る暇もない程慌ただしかったんじゃないかと思う
山城各所へ兵が十分詰められる前に叩くための正月強襲だろうから
山手である北口まで囲まれているのを見てとりあえず南の江上の城原城へ落ちようとしたら
既に城原城も落されていて道中で進退窮まったのだろう
破約から完全包囲までの状況はまさに四面楚歌

510:人間七七四年
16/04/29 09:32:10.61 /xAOnw8G.net
永禄二年の筑紫氏の博多焼き討ちとされるものは冬尚の死が契機説を提示してみる
少弐宗家が滅んだのだからその遺産は分家のもんだと訴えた結果じゃないかなと

511:人間七七四年
16/04/30 13:46:41.52 IVrvvGje.net
龍造寺氏視点だといつの間にか本土側に居た宗氏分家が没落してるけど
少弐の滅亡に合わせて所在を無くしたのかな、筑紫氏と争って所領を失ったか

512:人間七七四年
16/04/30 15:41:26.74 RSMMJI8b.net
>>511
>本土側に居た宗氏分家
根拠地はどのあたりにあったの?

513:人間七七四年
16/04/30 17:51:45.89 IVrvvGje.net
三根郡のどこか

514:人間七七四年
16/04/30 17:59:26.04 RSMMJI8b.net
>>513
ぐぐったら
宗氏7代目の島主貞茂は三根郡佐賀に居館を置き
と発見

515:人間七七四年
16/04/30 19:12:49.23 IVrvvGje.net
それは対馬の三根郡で肥前の三根郡ではないよ
地名が一緒なのはおそらく偶然じゃないけど、再入植の名残りとか

516:人間七七四年
16/04/30 19:23:51.57 RSMMJI8b.net
>>515
あー、すまない。

517:人間七七四年
16/05/01 08:48:21.94 i7+iGwsw.net
宗尚貞は天正四年の筑後海津城攻めで功あり

518:人間七七四年
16/05/01 08:51:28.81 CEj4kYKf.net
宗氏が最も東まで遠征したのは
関ヶ原の時の大垣城攻めだっけ。

519:人間七七四年
16/05/02 00:52:10.02 8EAlj/BB.net
肥前宗氏の盛衰期は秀恒の時代かな
少弐氏の重臣として少弐・龍造寺×大内との田手畷合戰では活躍したが
その後大内・龍造寺×少弐との三根米田原(苔野口)合戰で討死
息子の尚貞は東肥前19城将の1人として隆信と敵対のち降伏

520:人間七七四年
16/05/02 02:56:56.38 u5gIoM5N.net
今山に行きたいんだが車で行ける?

521:人間七七四年
16/05/02 04:37:08.78 cnfJL4OU.net
こんな夜遅くに山に行きたいなんて物好きなw
練炭自殺かい?

522:人間七七四年
16/05/02 12:20:40.13 u5gIoM5N.net
いや今から行くの
一人気ままなドライブさ
他なんか史跡ある?

523:人間七七四年
16/05/02 14:32:41.26 dpTiNfEm.net
>>522
もう遅いかもしれないけど今山合戦前日にあった黒土原合戦の碑
大和町於保の黒土原の千人塚、県立林業試験場の裏手

524:人間七七四年
16/05/02 14:54:46.40 u5gIoM5N.net
今山古戦場跡なう
もっと上の大友公園とやらにも行きたがったが悪路の上、農薬散布中のおじさんに聞いたら何もないっていうから引き返した
ここが本陣とは壮観だなあ
城攻めの距離感としては広い方だよね
しかし布陣図の高橋紹雪てのは誤植? 隣の道雪に引っ張られたのかしら
>>523
さんくす
捜してみる!

525:人間七七四年
16/05/02 15:01:01.10 nnx4qX8h.net
史跡ではないが、当時から存在している神社があれば参拝するといいかも。
建築物は当時のものは残っていないだろうが、場所が同一なら。

526:人間七七四年
16/05/02 15:22:15.55 u5gIoM5N.net
>>525
今山の前に近くの男女神社てとこに行ったよ
今山の時に一度焼失して宝物古文書もパアになったんだと
近くの寺の座主が神主も兼任してたんだとか
看板の情報で鍋島隊を山伏が手引きしたとは知らなかった

527:人間七七四年
16/05/02 15:50:30.97 u5gIoM5N.net
千人塚なう
思ったより質素
小山に卒塔婆一本

528:人間七七四年
16/05/02 16:07:32.31 dpTiNfEm.net
あと大友勢の仮本陣があった大願寺廃寺跡とか
信昌は三日月町の藤織・勝妙寺で部隊を編成し直して山を登った
それと鍋島町の新庄に鍋島勢の集合拠点だった勝楽寺など
勝妙寺には山本常朝の一族の墓がある、山側まで行くと藤隠の滝、もう少し東奥行くと清水の滝

529:人間七七四年
16/05/02 17:55:51.68 0/pmzu7+.net
で大友親貞って誰なん?

530:人間七七四年
16/05/02 18:27:03.50 dpTiNfEm.net
菊池義武の子供だろうというのが最近の説

531:人間七七四年
16/05/03 19:33:20.56 eaBu1xmy.net
今山、大願寺野にいた大友勢の主力は玖珠郡衆

532:人間七七四年
16/05/04 03:41:42.84 Ww23NjJS.net
肥前太田氏の祖と言われる太田資元て
どの系統なんだろ
太田資高の孫と言われてるけど
伝承の下向年考えると孫説は無理ありそう

533:人間七七四年
16/05/04 21:44:14.17 VCPXD5wn.net
武蔵の太田一族だとしても何を頼りに肥前へ来たのか?土地の関係的に小田か千葉の斡旋でもあったのか
龍造寺と肥前小田の勢力境界へ割って入り程なく龍造寺方になった時に小田方は何もしなかったのか
なぜ太田氏が水軍の将になったのか、よく分からない事が多いがともかく五千石の家老に収まった家である事だけが確か

534:人間七七四年
16/05/08 11:14:51.22 ZYj6muRi.net
北端津合戦で功をあげた太田源舜は隆信の兄弟子筋の人で
どちらも豪覚和尚に師事したあとに還俗という過去がある

535:人間七七四年
16/05/08 11:32:07.33 knQP7uiH.net
源舜って妻が鹿江兼明の娘だわな
隆信を裏切った兼明と共によく滅亡しなかったな

536:人間七七四年
16/05/12 12:23:04.88 kxBJ1PPo.net
信長の野望の新作を龍造寺関係者100人ぐらい追加して鍋島直茂でプレイしてたら
たまたま高木胤秀の娘と結婚することになってロマンシングでした

537:人間七七四年
16/05/15 15:55:29.76 g2dfRqf5.net
三根の横岳鎮貞が天正三年まで龍造寺に抵抗しているけど
同時期には久留米周辺の安堵関連で龍造寺の影響力が浸透していて
大友の統制どうなってんだという疑問が
あと玉鶴の蒲池鎮並への輿入れも天正三年〜五年前後だと思うのだけど時期が明確でない

538:人間七七四年
16/06/05 12:11:54.83 Pv43gWS8.net
蒲池が滅亡して一番得したのは大木統光だな
筑後の五百町は無くしたが、神崎横田の1百石から始まって瞬く間に1千石だろ
子孫は着座だしな

539:人間七七四年
16/06/13 01:27:35.01 LpgxV9kN.net
下蒲池旧臣とその一族は殆ど転封でバラバラに佐賀側へ配置換えされたのであって
皆殺しや大量処刑などがあったわけではない

540:人間七七四年
16/06/24 14:00:30.44 PtHxnS5F.net
‥‥

541:人間七七四年
16/07/03 15:39:00.89 KehFiC1B.net
龍造寺氏、鍋島氏に直接関係はないし、戦国時代かも微妙なところなのですが、
中世九州関連のアクティブなスレがあまりないので、こちらで伺います。
九州探題家の渋川万寿丸のことです。
兄の早逝によって家督を継ぎ、自らも1487年に家臣に殺害される人物です。
系図などの1468年生が正しいとすれば20歳での死亡であり、しかも渋川氏の当主ですから
当然元服していたと思うのですが、諱も伝わっていない可哀想な人です。
お聞きしたいのは、この当時の肥前(東肥前)とその周辺の情勢です。
万寿丸の父兄は筑後に本拠を構えていたというのを見たのですが、彼は肥前にいて肥前で殺されたようなのです。
少弐氏との関係とかを含めて、この当時の肥前の状況と渋川氏の位置づけなどご教示ください。

542:人間七七四年
16/07/03 17:10:43.35 JKYFVhJf.net
渋川満頼
満頼は諸大名の統制においては了俊に及ばないものの無難にその任
を勤め、肥前を探題の分国と定めて渋川氏が九州における一勢力とし
て戦国時代前期まで存続する基盤を築いた。満頼は筑前より肥前に
本拠を遷し、肥前養父郡綾部に肥前の守護館を設けた。これが渋川
氏代々の館となった。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

543:人間七七四年
16/07/03 17:12:04.53 JKYFVhJf.net
地形とか、周辺の敵対勢力の存在を考えると、
筑前より肥前のほうが守りやすかったのかなあという感じはするんですが。
どうなんでしょうね…。

544:人間七七四年
16/07/05 00:08:25.34 NLqK4d+x.net
でも、資料とか読むと、少弐氏が名前は肥前守護でも実態は一土豪ってのは解るんよ。
丁度地方的規模の野心家が担ぐには、色々と都合の良い家ですもんね。
でも、竜造寺氏が何故成り上がったのか不思議ですね。
佐賀郡の有力豪族ってだけにも見えるし?

545:人間七七四年
16/07/05 03:08:14.97 /kTmmjpZ.net
筑前側の姪浜付近より肥前側の綾部付近の方が守りやすいというのは勿論あるだろうけど
まず九州探題の本拠を肥前に置く事を志向してその整備を始めたのは今川了俊で、渋川満頼はその事業を引き継いだ形
私見としては肥前を本拠にというのは鎮西探題の失敗を踏まえての事だと思う
政治的には大陸外交の最前線であろう博多の前面に探題府がある方が格好がつくだろうけど
これはどうしても太宰府を本拠を置く少弐家の存在が邪魔して
有事の際の動員には山向こうの鎮西探題直轄であった肥前側を頼らないといけない
しかしそれが出来ずに結局鎮西探題は少弐から滅ぼされてしまったので
ならば探題直轄地に探題府をおいて一体化してしまおうと
九州探題も結局は失敗している訳だけど了俊の構想がそのまま彼自身の手で実現していたらまた結果は違った筈
あと少弐が室町幕府下で肥前守護であった事は一度もない、というよりも幕府が公的に肥前守護を設置した形跡がない
大内・少弐・大友がその様なものと振る舞っていたのはおそらく正しいが、建前上の肥前守護はずっと渋川
肥前守護を名乗るのは九州探題である事とほぼ同一だと言っても良い、この辺りは大内・大友ともに意識していた部分
龍造寺の勃興もこの話と無関係では無くて、九州探題でなくなった後の今川氏に残った肥前での本拠が与賀郷・川副郷だった
この二か所は龍造寺一族(の本家である高木氏)にとってもコア住居地で、かつ与賀郷は長い事少弐の地頭領でもあった
最も早くに今川の支配に組み込まれていてその直近にいても、少弐との関係も切れた訳ではないというのが室町前期の龍造寺の強みだった

546:人間七七四年
16/07/05 03:28:55.95 /kTmmjpZ.net
>>541
1460年代の肥前国内に限れば、探題である渋川氏を今川氏と千葉氏が両輪になって支えるというような体制が漠然とあったようだけど
しかし千葉氏の方が着々と大村氏や渋江氏の所領を侵犯しつつ、朝鮮との交易も取り仕切り
千葉元胤の代あたりで最盛期を迎えた。寛正年間の勢力は少弐教頼や菊池為邦と比肩する程だった
その千葉元胤が1464年に病死して、同じころ将軍足利義教の九州にも介入しだすと争乱が起きた
まず今川胤秋が渋川教直と組んで、千葉の跡を継いだ千葉教胤追い落としを謀ったという噂が立ったらしく
それに対して千葉家の執権であった中村胤頼が先手を打とうと二千騎を率いて肥前佐賀の今川館を襲撃
千葉方に裏切りが出て中村勢が敗退し撤退中に中村胤頼が戦死すると千葉と今川は一旦講和。これが1465年の5月末頃
前後する1465年の4月には筑後守護代菊池為安と大友親繁の部将志賀親家が筑後高良山で交戦(原因は義教)
菊池為安が戦死して菊池方が完敗すると同年の7月には菊池勢が筑後自体からも引き揚げて筑後全域が大友の管理下に入った
同9月3日には筑前守護であった大内教弘が出先で死亡、同9月10日少弐教頼が筑前守護として補任?(この時点で自称かどうかハッキリしない)され
同9月23日に大内政弘が大内の家督を継ぐとさっそく少弐の筑前守護に対して意義を申し立てつつ筑肥の騒動に干渉を始めた
応仁の乱が始まった1467年には今川胤秋が本当に渋川教直と組んで千葉に対して合戦を仕掛けたが今川胤秋が討死にして今川・渋川方が敗北
今川の領地は丸ごと千葉が接収するという事で渋川教直と手打ちに
その教直はその翌年の1468年には大内方と共同で少弐教頼を討った

547:人間七七四年
16/07/05 06:25:07.11 99KLGlpQ.net
541です。
皆さん、>>546さま
いろいろなご教示、ありがとうございました。お話に出てくる渋川教直は万寿丸の父とされる人物です。
渋川氏自身の実力が本当にどの程度あるのかはよくわかりませんが、
幕府の介入(直接は大内氏の介入か?)の強弱と渋川氏当主の能力の強弱がうまく合うと勢力が拡大しているようです。
万寿丸は教直の死の時点でまだ少年であり、逆に少弐は勢いに乗っている時と重なったことが不幸だったのでしょう。
殺害の直接的な原因は渋川家内の内紛とのことですが、家勢が衰えてきていることと全く無関係とは思えません。


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