龍造寺氏と、たまには鍋島氏を語るスレ2 at SENGOKU
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250:人間七七四年
15/09/08 20:44:07.22 rE81YU17.net
正式な官位じゃないかな確か
義隆に斡旋してもらったんじゃないっけ?

251:人間七七四年
15/09/09 02:17:17.29 aOM8GGdW.net
近くに百武病院ってあるけど繋がりあんのかな

252:人間七七四年
15/09/10 01:43:51.90 Cnk8NCXc.net
筑紫広門の最盛期って何万石くらいあったの?
筑後国:上妻郡 肥前国:基肄郡 養父郡の一部を領有とあるが筑前国内
にも数城持ってるし、宝満城も一時支配したみたいだが

253:人間七七四年
15/09/10 09:08:56.82 PzuNz1ce.net
筑前:早良郡数郷・那珂郡南部・御笠郡半数・夜須郡半数・下座郡数郷
筑後:御井郡北西部・上妻郡数郷
肥前:基肄郡大半・養父郡半数・三根郡数郷・神埼郡数郷
広門の代の瞬間的な最大勢力でこのぐらいか、一郡一円支配という所は無い
石高だと五万石前後だろう、安定支配域となるとその半分程度

254:人間七七四年
15/09/10 18:59:41.05 Cnk8NCXc.net
>>253
ありがとう、 詳しいな。
博多を攻めた時、2千人は動員してたみたいなんでその位か
筑後:上妻郡 安堵って秀吉の差配は、そこまでひどいもんでもないのか

255:人間七七四年
15/09/11 20:47:42.40 n+Ll7c3P.net
今山合戦後、隆信の追撃から逃れる為に高木胤秀兄弟が臼杵氏の仲介で筑紫広門の所に身を寄せたものの
広門が高木胤秀兄弟を騙し討ちして龍造寺が兵を進める前に首級を隆信へ送った
という話があるわけだけど、当時(元亀元年)の広門は14、5歳
その後も続く節操のない行動から納得出来る気もするがこれは本当に広門本人が介在していたのか
それに臼杵が間に入って匿っていた亡命者を殺して龍造寺と和を請う事に大友は怒らなかったのか
元とはいえ義理の父と叔父のあまりな最後に鍋島信昌は思う所がなかったのか

256:人間七七四年
15/09/22 20:03:36.10 YHXuG2AE.net
>元とはいえ義理の父と叔父のあまりな最後に鍋島信昌は思う所がなかったのか
鍋島なんか何とも思っていないんだろ
嫁が再婚した相手の家も攻め滅ぼしているしな

257:人間七七四年
15/09/24 01:07:05.90 Ibflsg4Q.net
>>255>>256
これマジ?
娘の伊勢龍はよくグレなかったな…

258:人間七七四年
15/09/24 20:15:40.12 5cUAk8wF.net
高木胤秀兄弟が朝日山で殺されたのも慶円の再婚先の筑後鐘ヶ江氏が龍造寺に攻められたのも
おそらく筑後川の水運利権を隆信が掌握しようとしたのが原因
龍造寺一門衆の名簿に高木氏の縁者として筑紫信門の名があるのは、筑紫と高木の騒動の時に
隆信が高木の方に肩入れする形で信門を一門並みとして遇したのだと思う
それで朝日山の南、千栗周辺の少弐家老(馬場、横岳、あとは筑紫も)が管理していた土地に大して
信門へ所領を与える形で自分の影響力を捻じ込んだ
鐘ヶ江氏は当時の筑後川内にあった島の領主で、天正三年に龍造寺が放逐した安武氏の同族
同氏が龍造寺に攻められた時期がハッキリしないが安武氏放逐よりは後の話か
上流から徐々に降って筑後川対岸、中継地を制圧し船渡しの機能を奪ったと

259:人間七七四年
15/09/25 00:06:49.23 yh/J+Xhw.net
>>信門? 狭門の事?

260:人間七七四年
15/09/29 20:32:40.07 2qPJKl4Q.net
両筑方面に何か経済的な欲があったとしても
天正初頭期の龍造寺の軍事的な戦略目標が肥前統一にある事は自明なので
両筑への限定的な攻撃は正面である西肥前方面への戦力集中を支える為のものでしょう

261:人間七七四年
15/10/06 11:43:38.12 V4JzvhS8.net
しかしよく龍造寺→鍋島の簒奪なんて可能だったよな
隆信実母で直茂継母の慶ァ尼や他の龍造寺一族も大勢いたのに何をやってたんだ

262:人間七七四年
15/10/06 23:19:20.98 DCEhcOYG.net
昔は人治の時代だし
柱がいないとまとまれないご時世だからな

263:人間七七四年
15/10/07 19:45:45.53 42ZqbRkQ.net
>>261
> しかしよく龍造寺→鍋島の簒奪なんて可能だったよな

乱世だったからな。
最初は鍋島を龍造寺勢力圏の長にしようとしたのではなく、
軍事内政を指揮指導してほしいということだったのだろうな。

264:人間七七四年
15/10/07 19:48:18.81 42ZqbRkQ.net
隆信の死後、豊臣秀吉により、龍造寺氏領の支配を委任され実権を握り、
(ウィキペディア)

最初は「雇われ社長」みたいな形だったが、
のちに「オーナー社長」になったということだろうな。

265:人間七七四年
15/10/07 20:57:20.72 Yn59PytI.net
・村中家が以前に当主を追放して本家嫡家を変えた前例があった事
・家兼が上記の騒動の後に執政として龍造寺全体の指揮を任されていた時期があった事
・家兼の興した水ヶ江家の家督継承が変則的であった事
・その水ヶ江直系の隆信が村中家の家督と水ヶ江の家督を統合し継承した事
・水ヶ江家の家督の変遷からみて長信と家晴には水ヶ江家相続の芽がある事
・隆信の戦死で村中家の継承を前例に倣い政家系以外へ移す動きがあった事
こう色々考えられる要因はあるけど、形の上では村中家を鍋島勝茂が相続
水ヶ江家は龍造寺家久(多久安順)が相続という事に
伯庵騒動の時に安順が龍造寺の正統というなら自分だと幕府に証言したのにも経緯がある

266:人間七七四年
15/10/07 21:00:32.41 42ZqbRkQ.net
中央政権が出来上がってしまうと、
田舎の武家としてはどうしようもないもんね。

267:人間七七四年
15/10/08 09:51:16.21 vrntJx0+.net
龍造寺高房が自決せずにあのまま生きながらえていたらどうなった
名目上は高房の子孫が藩主のままだったか

268:人間七七四年
15/10/08 17:27:46.67 DN39ge3A.net
>>267
決定権は徳川幕府にある。
幕府が「こーしろ」と言えば、大名は逆らえない。

269:人間七七四年
15/10/08 20:15:12.09 eVkjQFgy.net
政家高房が存命中は佐賀藩龍造寺家ではあったのよ
幕府は大坂時代からの慣例を追認しているだけであって
直茂勝茂親子はあくまで政権を一時預かっている執政
龍造寺宗家を宮さま、鍋島が幕府将軍、龍造寺分家が大名のミニ国家と思って貰えれば早い

270:人間七七四年
15/10/08 21:47:21.27 vrntJx0+.net
こんなことになるんだったら立花宗茂みたいに鍋島直茂を豊臣直臣にして龍造寺家から分離させた方がよかったな

271:人間七七四年
15/10/08 22:23:54.46 /FPZTiW8.net
直茂もその気満々だったけど、時節とタイミングが許さなかった感じよね

272:人間七七四年
15/10/09 10:23:07.28 BdqAvleI.net
高房が無理心中はかった時ちょうど大坂と江戸の関係が急速に悪化してて
大坂から江戸ヘと在府を転々としてきた高房が時勢をみて自身の境遇を悲観化したのも無理がない
帰国したがっていた高房を頑なに江戸へ押し留めていた国許も政治的には仕方ないだろうけど情が薄いと思う
ただ孫娘を殺されて直茂の方がキレたのも分かる

273:人間七七四年
15/10/09 10:48:32.07 BdqAvleI.net
一 隆信戦死後の各情勢(九州征伐、国一揆、関東征伐、朝鮮出兵、関ヶ原)の時に政家が軍事的リーダーシップを発揮して挙国一致体制を確立する
二 秀吉からの信任を政家が得る
三 一の重要な場面において隆信の遺言通りに直茂ともよく相談して最終的な決定は政家が下す
四 高房と毛利輝元娘との縁談を成功させる、高房の官位を早い段階で四位まで上げる
五 高房の佐賀への帰国を公儀に認めさせる
六 直茂の介在しない独自の財源を高房が確保しておく
七 天下普請などの公役は鍋島などに押し付けず龍造寺が正しくこなす
八 家中仲良く面当てなどしない
高房が正しく実権を握る為に直茂お恨み状の内容から逆にいえる事

274:人間七七四年
15/10/09 12:45:14.06 iJogn7Q0.net
政家の弟たちや叔父たちによる集団指導体制で鍋島を押さえ込めなかったのか

275:人間七七四年
15/10/09 22:02:47.52 RjSAt/L9.net
その人たちで直茂を担いだ形でもあるしな

276:人間七七四年
15/10/10 16:19:09.85 epKtnLa7.net
内紛していては元も子もないし、分知で家勢が減衰してしまうような事も避けたいという思惑の結果が鍋島体制でしょう
抑え込むというなら大村や松浦の独立を抑え込むべき

277:人間七七四年
15/10/10 19:28:12.38 h+mGLGzC.net
しかし龍造寺は少弐の家臣
少弐庶流の鍋島は龍造寺の家臣って何か違和感ある
なんで鍋島は少弐じゃなくて龍造寺に仕えたんだ

278:人間七七四年
15/10/10 22:46:49.84 N9TcoG29.net
一概に少弐家家臣というわけでもないかなたぶん

279:人間七七四年
15/10/11 01:50:09.94 Y+3KkuZD.net
少弐家家老:横岳 馬場 宗 筑紫 竜造寺
少弐さん状況によっては勢力拡大できたのでは?

280:人間七七四年
15/10/11 07:21:36.14 9Du/OlJ5.net
逆に勢力衰亡してったから、宗や龍造寺に助けられてるんだと思うよ

281:人間七七四年
15/10/11 16:17:12.43 +XOSfdUA.net
龍造寺史観による龍造寺の所属変遷 隆信の肥前追放まで
15世紀初頭の龍造寺の上司は今川、その同盟者に千葉、その上に探題渋川がいて少弐・菊池同盟と敵対
この頃はおおむね探題派が劣勢
15世紀中頃になると千葉の勢力浸食で今川が応仁元年に滅亡し龍造寺は千葉の被官化、千葉が探題派(東千葉)と少弐派(西千葉)に分裂すると龍造寺は少弐派に回る
龍造寺が少弐派になった切っ掛けは少弐が嘉吉の乱後の騒動で肥前へ拠点を移すことになった時、与賀館を提供したこと
15世紀末頃の龍造寺は少弐と千葉に対して二重被官、千葉が長い分裂で衰退すると龍造寺と西千葉の関係が対等同盟に変化
明応六年に少弐が渋川方(中身ほぼ大内)により一旦滅亡するも渋川家自体は死に体、肥前西部の有馬が活性化
16世紀初頭に横岳の庇護化で復活するも存続が危うい少弐は大友と同盟しつつ大内に対抗、田手畷の戦い等で龍造寺の発言力が強まる
渋川が実態を無くして大内の直接介入が始まると、龍造寺が大内と直接交渉するようになる
天文年間に入り大内龍造寺の交渉で、大内少弐間の和議が成立するが、少弐はその所領を全て失いまた一旦滅亡
また少弐の崩壊と同時期に、渋川も大内に攻め滅ぼされる
天文九年に小田の庇護下で少弐が再興を果たすと龍造寺、千葉との三家同盟で大内や有馬に対抗しようとする……
と思われたが少弐が龍造寺の主だった者を誅殺、東西両千葉の実権も一時は手に入れたが龍造寺・西千葉の反抗を受けて敗走
龍造寺は大内の被官となり少弐と対立
16世紀中頃になると今度は大内が大寧寺の変で滅亡、大友が旧探題派を糾合して大友派を形成
龍造寺内は大内派と大友派で分裂し大内派が一掃され、大友の友邦少弐もまた復権

282:人間七七四年
15/10/14 14:50:53.19 /c/+QD0Y.net
少弐にとっては龍造寺粛清が集権大名として軍権を束ねる最後の機会であった
馬場頼周も結果が伴わずとも少弐の忠臣

283:人間七七四年
15/10/15 21:48:19.28 ds9cK0v0.net
少弐家は室町時代を通して肥前国守護に任命された事が無い
室町幕府が肥前守護職を設置した痕跡が今の所見つかっていない
この事実は重要

284:人間七七四年
15/10/16 13:45:22.38 ojB0sHZu.net
肥前守護職はだいたい九州探題とセットだったからね

285:人間七七四年
15/10/17 08:24:20.28 bABHVsXy.net
>>273
> 高房の官位を早い段階で四位まで上げる
> 高房の佐賀への帰国を公儀に認めさせる

この2つは朝廷と幕府の承認がいることだから、空証文になるおそれもあったのではないか?

286:人間七七四年
15/10/17 08:25:29.46 bABHVsXy.net
少弐家は当主の戦死率が高すぎ。
戦法に問題があったのではないか?

287:人間七七四年
15/10/17 08:32:10.58 bABHVsXy.net
>>277
> なんで鍋島は少弐じゃなくて龍造寺に仕えたんだ
そう言われればそうだな。

288:人間七七四年
15/10/17 12:37:34.21 s1CJ1wtO.net
腐っても少弐だよ
どこの馬の骨かわからんのを直臣にする訳がないわな

289:人間七七四年
15/10/17 12:45:48.80 ce5mErMu.net
どこの馬の骨って自分のところの分家筋だろ

290:人間七七四年
15/10/17 14:24:40.38 sv2Vu9yz.net
近世大名の鍋島家は横岳の流れから少弐の血も引いてはいるが
戦国期の地侍鍋島氏が少弐の分家だという記録は同時代には存在しない
ただ少弐家領としての佐嘉郡与賀荘(現在の与賀の他、本庄・新庄含む)に鍋島氏エリアが重複しているので
少弐宗家が与賀荘に本拠を据えていた時期には関係があったと思われる

291:人間七七四年
15/10/17 17:37:10.92 dPFUOVYS.net
> なんで鍋島は少弐じゃなくて龍造寺に仕えたんだ

尾張織田氏の一族で、なぜか甲斐武田の家来になっていて
のちに尾張に戻ってきて信長の家来になった人がいたと記憶している。

292:人間七七四年
15/10/17 17:38:10.97 dPFUOVYS.net
>>287
大名としての将来性が
龍造寺 >> 少弐
だったようにも思われる。

293:人間七七四年
15/10/17 21:19:52.61 s1CJ1wtO.net
勝茂が少弐の流れと口走ったものだから系図の模造に苦労したんだよな

294:人間七七四年
15/10/17 21:25:45.51 iI3DGz/l.net
鍋島経房が少弐教頼の落胤て話だろ

295:人間七七四年
15/10/17 21:48:15.68 jQXjKTb3.net
小さな武家だと実際にその土地で影響力を持つ在地領主の下について
その舵取りに従った方がいいもんなんじゃないの

296:人間七七四年
15/10/18 00:04:03.92 s3nC6T8D.net
少弐の庶流っていうのは嘘なのかよ
15世紀の話だぞ、この時代に捏造なんてできるのか

297:人間七七四年
15/10/18 06:08:53.50 iaT6PfEP.net
15世紀の話を捏造したのは17世紀になってからだよ〜ん
なんでかな〜 なんでだろ〜

298:人間七七四年
15/10/18 08:59:52.40 CydtFwbY.net
>>296
佐竹だって源氏じゃん
力さえあれば系図はどうにかなる

299:人間七七四年
15/10/18 09:57:36.26 uqyyHPKN.net
鍋島氏が少弐の末枝、少なくとも本姓藤原を名乗っていたのは
本庄神社に鍋島清房が納めた天文二年の戦勝祈願、鍋島信房・信安兄弟の永禄八年戦勝祈願で確認できる

300:人間七七四年
15/10/18 12:48:16.88 s3nC6T8D.net
>>298
佐竹は新羅三郎義光の子孫だろ
仮冒なんて話あるのか

301:人間七七四年
15/10/18 13:05:56.34 CydtFwbY.net
>>300
誰の子かはっきりしていない
血統書で親の名前がはっきりしないなんて有り得ないだろ
新田も足利も義国の子だとわかってるのに同時代の佐竹が分からないって有り得ない
佐竹氏が現代も権力を持ってるから誰も触れられないだけ

302:人間七七四年
15/10/18 14:31:03.58 s3nC6T8D.net
佐竹昌義が父義業と4歳差しかないのはおかしいって話か

303:人間七七四年
15/10/18 20:38:02.78 xvxgNSdg.net
鍋島清久は龍造寺家に仕える前は千葉興常の所にいた
千葉興常の食客から身を興した神代勝利と似た経歴だったのかも

304:人間七七四年
15/10/18 23:18:28.89 oepnksTo.net
絶滅のはずが…九州で“クマ”の目撃相次ぐ
URLリンク(www.news24.jp)

305:人間七七四年
15/10/19 22:02:30.62 MkJWPvk6.net
はいはい、また伯庵のせい

306:人間七七四年
15/10/21 16:14:02.01 o6Zqu8Fb.net
>>303
胤家が筑前へ逃亡したのは確か千葉興常のせいだったような

307:人間七七四年
15/10/22 17:28:57.29 FSR+69b+.net
>>303
>神代勝利

名前がかっこいい!
(が、房総半島武田家の武田信長さんには負ける)

308:人間七七四年
15/10/22 20:33:37.08 FRc0Tf33.net
え、佐竹が正当な源氏だからって徳川虚仮にしてた
とか小説家の作り出した嘘だったのか

309:人間七七四年
15/10/27 18:22:33.64 3t6mfoBR.net
武雄市図書館で武雄温泉の企画展やってたんだけど、勝茂の書状とかもあったよ
あと秀吉が出した塚崎温湯掟書とかも

310:人間七七四年
15/11/09 21:38:49.15 NpXv5gaz.net
センゴク最終章でついに沖田畷があったな
今後の展開のために一話で終了だったけど、龍造寺家の描き方がパーフェクトに近かったように思う

311:人間七七四年
15/11/15 05:49:13.38 CTgSbdJf.net
>>310
筑紫広門は出ないよな

312:人間七七四年
15/11/15 20:27:24.24 Gyj8hf42.net
漫画で見ちゃうとifを語りたくなっちゃうな
沖田畷に勝ち肥前を盤石にしたうえで肥後での優位を確立し160万石程の勢力圏で何ができるか

313:人間七七四年
15/11/17 22:11:27.47 9gomI6zn.net
筑後川水系と有明海沿岸地域を統合し分水界で完結した勢力を維持する

314:人間七七四年
15/11/21 21:01:03.71 nzqk5f5M.net
島津の本体は丸まるのこっておる上に
すぐに秀吉チャンが介入してくるで
まぁ史実より島津の影が薄くなる程度かね
秀吉家康が広大な筑紫平野を盤石にした勢力がそのままほっとくわけないし

315:人間七七四年
15/11/21 23:20:13.28 anBYKsJL.net
筑紫国は豊臣に
豊国は大友に
肥国は龍造寺に
日向国は島津に
これが一番穏当だったのではないか

316:人間七七四年
15/11/22 09:37:08.81 JgnQLVXo.net
下手に龍造寺が負けて均衡崩したせいで島津が止まれなくなって
結局は九州の大名全体的に損した感あるな、秀吉に美味しい所もっていかれて
大友が一次的に得した風でも難癖で潰されたし
義久も政家も隠居に追い込まれてるし、それでも隠然とした影響力持ってる辺り義久は流石なんだけど

317:人間七七四年
15/11/24 06:14:19.50 7GeK2OIv.net
五州ニ島之大守龍造寺山城守藤原隆信

318:人間七七四年
15/11/24 10:55:16.95 /Ln/OVA8.net
肥後の対島津に関しては龍造寺が御船の甲斐氏をどこまで守る気があったのかが争点かな
甲斐独力では戦力として厳しいなら宇城辺りに境界を定めて金峰山に龍造寺の城代入れる事になるか
交渉が決裂したら白川とか緑川挟んで決戦

319:人間七七四年
15/11/24 16:49:53.33 9SHRczGH.net
その情勢での決戦だと島津と龍造寺果たしてどっちが優勢になるんだろうね

320:人間七七四年
15/11/24 18:22:41.03 /Ln/OVA8.net
単純な兵数は龍造寺が優勢だろうが適地は島津が先に抑えてしまえるので防勢なら島津が有利
ただ隈本城の城氏がどう動くかで状況が変わると思う
城氏が龍造寺にさっさと降伏するなら島津も八代を動かず待ち構えたままでいいが
もし城氏が龍造寺に対して徹底抗戦だという情勢になった場合に島津が後詰を出すかどうか
隈本城での防衛戦という事になると北西から龍造寺、北東から隈部、東から阿蘇、南東から甲斐と包囲される事になり
肥後国人一揆で佐々成政のおかれた状況にかなり近く、そしてより酷い状況に城氏はおかれる
ここで島津が後詰を出す場合は隈本城との連絡を絶たれない為に甲斐へ抑えを出しつつ
隈本城にも戦力を入れなければいけない、しかしこれはまた各個撃破の的にされる危険性がある
島津はどこで迎え撃つかをすぐに決めて、どれだけ早く陣地を固められるか
龍造寺は玉名に駐屯している別動隊が先行して御船への援軍や他友軍との連携確認を迅速に整えられるか
それに先立って天草や宇土の辺りで水上戦もあるだろうけど

321:人間七七四年
15/11/26 19:27:03.13 revrR6vE.net
隆信が淫居した須古城なんだが
伝承でそこの城主の姫様があまりにも不細工で
結婚できずに自殺したという話を聞いたことあるんだが・・・
なんか龍造寺と関連するんかね
土着の婆様方から聞いた話だから陳腐なオカルトじゃないはずだが

322:人間七七四年
15/11/26 21:18:06.29 hDQW6Ody.net
ひどい誤変換を見た

323:人間七七四年
15/11/26 21:23:06.11 uYULLQhz.net
>>322
ホワイトクリスマスは降雪でも交接でも、どちらでも正しい変換。

324:人間七七四年
15/11/26 21:41:36.15 UBTbi1dZ.net
龍造寺って釣り野伏せに引っ掛かって討ち死にだもんなw
戦国でも稀な事例

325:人間七七四年
15/11/26 22:11:37.06 v0CIYVlx.net
隆信の戦没地から推定して釣り野伏せをそこでやる為には
島津有馬軍は全員水中に潜んで、中軍は背水になってる川を泳いで突っ切らないと成立しない

326:人間七七四年
15/11/26 23:18:14.03 ApD7TfUC.net
実態は砲撃で怯んだ海手の援護に行って討ち死にじゃないかと思うから
釣り野ぶせかと言われると違うんじゃないかなって思う

327:人間七七四年
15/11/27 03:24:52.62 8nhID62X.net
吉田信景は隆信敗死の原因を作った島原における矯令について
政家から詰られ,起請文を提出している(藤竜家譜/大日料11‐8)
吉田信景って清内本人?それとも一族?

328:人間七七四年
15/11/27 09:11:18.53 DWRJqiU2.net
その時期の起請文は家中全体に再提出させているもので
戦犯探しが目的ではないから
吉田一族から逃亡者が出ているが家長に異心は無いという事でしょ

329:人間七七四年
15/11/27 17:49:41.60 9y0qKgoq.net
沖田畷時の龍造寺軍が急いでいたってのはあると思う、おそらく各個撃破を狙っていただろうし
島原に後詰がどれだけ寄せてあるかは分からないから態勢整う前に制圧したかった筈

330:人間七七四年
15/11/30 22:03:14.31 C8jZAaj8.net
島原完全に制圧できたら
北と西から北肥後伺えるし南肥後も捉えられるし
龍造寺としては是非ともとりたいよね

331:人間七七四年
15/12/01 08:27:46.07 lriEo1EV.net
深江城の安富下野守純泰は有馬方の不穏な動きを隆信へ報告し援軍を依頼した。
隆信は與力として横岳兵庫頭家実、筑後の安武式部大輔家教、さらに神代貴茂の軍勢を派遣した。
また島原城は島原式部大輔順豊が守っていたが與力として深江城主安富純泰の父安富伯耆守純治および弟新七郎が入った。
さらに大村勢300余人が入った。大村勢は本来深江城の援軍だったが途中島津軍へ遮られ島原城への入城となった。
鍋嶋信昌を大将として、兵5,000人を海上より島原浜ノ城への入城を試みたが有馬勢の兵船に遮断され引き返してしまった。

332:人間七七四年
15/12/01 16:36:21.29 cdXBVgiO.net
有馬が離反した事で海上の優勢を取られてんだよな
有馬が従っていた時期は松浦や大村の水軍まで動員して天草から八代まで抑える事が出来ていたけど
離反されると島津の水軍が筑後まで来れる事態になってる
早崎瀬戸の海峡を有馬が掌握している事の意味は大きい

333:人間七七四年
15/12/02 06:40:10.01 UIBXhkax.net
龍造寺の水軍はどの程度、強かったんだ?

334:人間七七四年
15/12/02 10:31:00.62 8NIEUp7V.net
龍造寺の自前の水軍は数千程度の量の人員やそれに準ずる量の物資を運搬できる輸送能力はある
ただし敵対勢力の水域に入り込んで湾岸や敵船を襲撃するような類のものではない
その様な海軍力は西肥前の傘下勢力に依存していたと思われる

335:人間七七四年
15/12/02 13:33:52.97 Oj0jd/LZ.net
自前の戦力って言うと、鴨打とか有明海側のやつらが主かね

336:人間七七四年
15/12/02 18:28:32.50 8NIEUp7V.net
龍造寺が直接船大将を任命して動かしていたのは有明海側の水軍だけでしょう
松浦側や長崎側の水軍を有明海側の水軍と合わせて集中運用出来ればそれは強いだろうけど
島原半島が他所に抑えられていると合流がまず出来ない
ちなみに、本来は松浦党である鴨打が千葉領に招致されて有明海側に移り住んだ理由も千葉家の水軍に携わる為というのもあったと思う
龍造寺の直下水軍も主に統括していたのは千葉党である石井一族であるし
石井一族の出である鍋島茂賢が長崎の深堀氏を継承したのもそこからくる人選かと

337:人間七七四年
15/12/03 20:17:06.48 g8xRULsB.net
肥前兵は弱兵なんて侮られてる資料見たことある?
ネットでそういう意見ちらほらみたことあるんだが

338:人間七七四年
15/12/03 23:57:10.24 D1VocrN3.net
人国記だと肥前は勇者しかいないのが美点かつ欠点みたいな評価になってるね
九州内なら旧菊池系統の評価は高かったんじゃないかな、菊池の人士には一目置いてる様な記述は見た事ある
それに戦国期の九州の武士は大なり小なり菊池千本槍という戦術思想のフォロワーみたいなものだから
菊池千本槍の影響から脱却しつつあった龍造寺がそれを愚直に押し通した島津に負けてしまったのはそれ以後の評価に影響はあったかも

339:人間七七四年
15/12/05 13:41:34.56 NTIpULz6.net
朝鮮出兵時に
他藩から低評価受けてるような記述をどっかで見たような・・・

340:人間七七四年
15/12/05 16:36:33.35 bMoSaTvl.net
九州征伐の時
上方勢に馬鹿にされた話はあったよな

341:人間七七四年
15/12/05 17:56:05.37 /uNa8CB2.net
それは葉隠聞書第三の三四九・太閤秀吉「龍造寺は九州の槍突」と違法の道押を黙認す、が出典でしょう
題の通りに秀吉が龍造寺の軍法を黙認したというのが逸話の本筋

342:人間七七四年
15/12/05 18:40:20.75 jsosMf+t.net
朝鮮で戸籍帳作成とか人口や租税調査までやったの龍造寺ぐらいじゃないの

343:人間七七四年
15/12/06 09:45:14.47 HPgcxWBH.net
地域毎での純粋な兵士の質って面白いテーマだとは思うんだが
それを検証するのってかなり困難だと思う。
貧しい農村の兵隊は強くて商業地の兵士は弱いとか(尾張兵は弱兵で有名だというが、
根拠が乏しすぎ)
時代は違うが戦争期大阪の軍隊は弱い弱いといわれてるが
実際の戦果見るとそんなことはないし

344:人間七七四年
15/12/06 18:14:22.02 j/u/LyDv.net
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345:人間七七四年
15/12/08 20:14:57.54 /DOooD0T.net
長崎と佐賀でまるで別気風なのも肥前の評価が別れる原因
まあ、肥を肥前肥後に分けたまんまの区分なのがいけなかった

346:人間七七四年
15/12/09 07:56:32.50 NDkmA3dj.net
評価が分かれるってのも県で気風が分かれてるのもそれ近現代以降のもので当時のものではないでしょ

347:人間七七四年
15/12/09 09:17:31.35 qX8eD/K8.net
佐賀西部の人間からすれば佐賀県と長崎県でそこまで気風が違うとか、隔たりがあるとか感じないな俺は

348:人間七七四年
15/12/09 19:39:47.77 tg2jAfz8.net
>>336
> 龍造寺が直接船大将を任命して動かしていたのは有明海側の水軍だけでしょう

この水軍は激しく戦ったことあるの?
それとも兵站と伝令専門?

349:人間七七四年
15/12/10 20:17:21.22 wgOklktL.net
隆信の代でハッキリしているのは今山の戦いの時に筑後側の水軍を迎撃した時と
最初の肥後侵攻で肥後国衆と戦闘した時かな
軍記等では特に書かれていないけど沿岸の城を攻める時はだいたい随伴している筈

350:人間七七四年
15/12/18 21:44:44.17 50sIK0V3.net
筑後草野近辺に龍造寺や高木の地頭領があった筈なんだが実態がよく分からない
ただ其所との連絡や物資運搬用に船舶を持っていて
それを長信が統括していたのは確かになったが

351:人間七七四年
15/12/22 17:16:10.34 dS7BPhVR.net
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352:人間七七四年
16/01/22 22:11:13.69 SdvQF+3r.net
>>321須古といえば便槽死体

353:人間七七四年
16/01/23 02:00:33.46 faSDvhyX.net
政家(鎮賢)家督相続頃の主要人員
外様を継承した舎弟
1700 江上家種
1300 後藤家信
龍造寺領国中枢の家老
870 多久長信
570 龍造寺家晴
530 鍋島信昌
510 鍋島信房
500 納富賢景・小河信友・土肥家実
410 高木盛房
385 龍造寺家就
380 副島光家
300 倉町信俊・岩松信繁・水町信定・成松信勝・多久康房・勝屋勝一軒
280 百武賢兼
250 福地家盛
家老並みと思われる東肥前国衆
700 馬場鑑周
620 犬塚家広
570 犬塚盛家
540 神代信良
500 馬場信光
390 綾部鎮幸
300 姉川信安・吉田宗家・出雲信忠・横岳頼続・本居頼景
250 執行種兼
左の数字は所領の町歩面積

354:人間七七四年
16/01/23 09:39:26.81 uyTmdEpA.net
叔父の信周はどれくらいだろ
仇敵なのに馬場以外と多いな

355:人間七七四年
16/01/23 20:02:31.82 faSDvhyX.net
信周は500町で納富・小河・土肥と同格、権限的には家晴や信房信昌兄弟と差異はそう無いように思う
馬場一族に関しては馬場氏領の隣で頑強に抵抗を続けていた横岳鎮貞の存在故の大封かと

356:人間七七四年
16/01/24 21:06:11.73 dbc1N07A.net
少弐宗家が直轄の軍事力を持っていない代わりに
元から筑紫・馬場・横岳や平井の直率兵力は結構大きいから

357:人間七七四年
16/01/24 23:38:08.15 Ddnh+4Kw.net
小田の領地は誰に宛がわれたん?

358:人間七七四年
16/01/25 01:19:47.01 aN7zln67.net
蓮池城代が龍造寺一門限定職だったのを見ると龍造寺一族で分割している
多久家を除く龍造寺一族の総町部数が4700弱でそれ+αがおそらく旧小田領
もしくは龍造寺家親名義の5000町がそれに当たるかも、ただこちらは村中家の本貫地分だと思う

359:人間七七四年
16/01/25 02:25:19.44 EEPZlZSn.net
小田を捨て殺しにして主人のいない城を攻め落とすなんて非道だね

360:人間七七四年
16/01/25 11:20:38.37 aN7zln67.net
少弐冬尚を見限って龍造寺隆信に降伏した以上、小田政光以下旧冬尚派は江上・神代軍を自力で打ち破らないと面目が立たない
隆信自ら援軍に来いというのは江上・神代との共謀をまず疑われるし
一族の仇という恰好の攻撃材料がある政光を捨て殺す名分を隆信に与えている

361:人間七七四年
16/01/25 22:56:54.38 vlGaMHQB.net
沖田畷の戦い後佐賀城が島津軍に包囲される状況に至ったそうですが、
そのあとすぐ筑後に救援のため大軍を出してます、
そんな余裕がそんな状況でもあったのかと不思議です
どこからそんな兵力を出したんでしょうか?

362:人間七七四年
16/01/25 23:15:06.96 9yE/7xrm.net
沖田畷後に龍造寺領抜いて佐賀包囲できるほど島原の島津に余力はないと思う

363:人間七七四年
16/01/26 00:58:52.40 8HokZ302.net
不幸の首はいらんという劇的な場面を演出する為に城が包囲された事にしてある創作ものがあるのだろうけど
この件に関しては基本的に手紙のやり取りだった蓋然性が最も高い訳で
島原での敗戦以降、龍造寺首脳の方針が中々決まらず領内で色々騒動があり(鍋島信生本国召喚命令無視とか)
対島津の報復戦だと決まった矢先に大友の筑後侵攻が始まり、大慌てで島津との和睦を模索したという流れ
首云々に関して駆け引きがあったわけでも無く、状況が二転三転したから後から見れば支離滅裂な事になってしまっている
そうして侵入した大友軍に対して、倍する戦力がありながら野戦で敗退して持久戦へ持ち込まざるをえなくなり
大友へ集中する為の緊急避難的な対応であったとしても、それで島津に対し実質的な降伏をせざるを得なかった
この辺りの対応の拙さが今日まで続く政家の低評価の源泉になっているのでは
ただ相当舵取りが相当難しい局面でいきなり親父の様な果断な指導力を発揮しろというのも無茶な話だとは思う

364:人間七七四年
16/01/26 02:24:15.03 f+qlmgX9.net
そもそも対有馬戦略がうまくいってなかったから親父が出てきて沖田畷の露と消えたわけだし家督を相続させる人間を誤ったよね
俺は家種を推す

365:人間七七四年
16/01/30 23:03:09.07 rUObYXBK.net
有馬の造反については天正六年島原攻略時点での仕置きが手緩かったのが原因だと思う
これには有馬鎮貴に対して龍造寺より強かった頃の有馬の威勢を教え込んでいたであろう家老衆から分断して
鎮貴を佐賀へ移すぐらいの事を出来ればその後の処置も容易だったろうけど、これ程の事をやろうとすると島原での拘束時間がずっと長くなる
そうすると同時期南征にかまけた大友への対処機会を失する、島原の各勢力から質を取って有馬の勢力を削れる分は削った以上
脅威度がよりずっと高い大友を正面に見据えるべきであり、対大友への時間的猶予を優先して有馬に対しては妥協した
結果有馬に反抗の準備時間を与えてしまった
有馬からとった質人がそこまでの要人とは思えない人選(島原大学・土黒備中守)である事からして
有馬の造反は龍造寺にとって半ば折込済みだったのではという感じもする

366:人間七七四年
16/01/31 00:15:21.42 dYdpsyyl.net
大村有馬から女を質にとって息子に娶らせるなんてな
一体何に配慮したのだろうか

367:人間七七四年
16/01/31 01:54:19.69 F4/W81t8.net
龍造寺としては家中介入の口実を得るのと、序列を明確化させるパフォーマンス的な行動かな有馬大村からの嫁取りは
本来なら和議の証というのがまず来るのだろうけど、隆信の場合嫁のやり取りする時は計略を仕込まずにはおれないイメージが
有馬と大村は個別に思惑があっただろうけど、大村の方は嫡男と長女を質入れして臣従色がずっと強いね

368:人間七七四年
16/01/31 10:02:50.04 efilcM4o.net
大村から来たお福ちゃんは隆信にかわいがられて、討ち死にしたときも大層悲しんだと聞いた

369:人間七七四年
16/02/01 21:33:00.27 oBr28FF8.net
龍造寺が侵入した後の博多近辺、大友・龍造寺の勢力境界はどの辺だったんだろうか

370:人間七七四年
16/02/01 23:55:00.25 6Ur+OPyC.net
那珂川と御笠川使って大雑把に区切っていたと思う
当時の川筋がどのぐらい複雑だったのかは知らない

371:人間七七四年
16/02/02 00:07:01.01 eDeFHhTu.net
立花・高橋勢力域は宝満山系が目安でしょう

372:人間七七四年
16/02/04 08:29:03.27 oJGIR3kW.net
筑前国15郡を二つに分け、東北6郡は大友領、西南9郡は龍造寺領。
立花・岩屋・宝満などの大友の城周辺を除いた一円が龍造寺領とも。
隆信は多布施の石田信實を博多代官へ任じた。

373:人間七七四年
16/02/04 18:35:38.16 9ZhKtkBk.net
博多三商が信長に謁見した時期が隆信が博多に滞在してから筑後へ拠点を移す時期と重なるけど
龍造寺の意向が謁見の目的に介在していたかどうかで大分話が変わるよね、龍造寺にとっては
信長秀吉にお揃いの帽子を進呈というのも多分この前後にあった事だろうし
島津家久の上洛というのもまた同じ時期でしょ

374:人間七七四年
16/02/05 16:20:33.19 fhv5E0ES.net
>>353
寺院の領地って家臣の領地と比べて凄いな。
33ヶ寺併せて126,767町だから、1ヶ寺平均で3,800町余りあった事になる。

375:人間七七四年
16/02/05 20:53:12.22 UYp2sqri.net
寺といえば龍造寺四天王のひとりである円城寺信胤の父親、連乗院の増ァ和尚が立花ァ千代の名付け親だという事

376:人間七七四年
16/02/07 11:57:16.62 IZ84iXUM.net
龍造寺領に隣接している開墾地の広い所領を取り込む度に
一門の知行をそこへ移し替えて行き、徐々にその知行規模も拡大させながら家中における一門の優位性を確保する
あくまで仮説だけど、自分の理解はこれ

377:人間七七四年
16/02/07 21:54:26.28 /9sN87XY.net
増ァの妻は神代勝利に呼応して反隆信派となった鹿江兼明の娘だな

378:人間七七四年
16/02/09 23:37:48.03 FuRuPTVt.net
増?・幸徳・増純の兄弟は世俗へ介入するのを嫌っていたのが却って信用されていただろうけど
佐嘉郡内では規模が大きく拠点性が高い寺社を兄弟で受け持っている事の影響力は大きいか

379:人間七七四年
16/02/11 15:28:30.35 3i5NUKD6.net
増ァの徳善院は弟幸遵の子盛純が継いだみたいだね
男子は信胤だけだったのかな

380:人間七七四年
16/02/13 19:18:50.98 fzCEU4Wj.net
龍造寺に四天王、両彈ニ島は知られているが、三法師は知らなかったな。
三法師とも揃って沖田畷で戦死か。

381:人間七七四年
16/02/13 21:38:52.71 D9s2QTLQ.net
従軍記録はないけど龍造寺の使僧ではある
あと徳善院は結構な人数の山伏を抱えていて、蓮乗院や実相院も同様のコミュニティがあった
この辺りを葉隠忍者として整理していけば捏造とか言われなくなると思う
神代勝利も忍者衆の頭領として再定義したら面白いかも

382:人間七七四年
16/02/17 19:44:50.59 jTMncDOi.net
神代が東千葉の家督を継承できたのは東千葉系人士との人脈を途切れさせない根回しをしていたからか
神代家が龍造寺家と戦うにあたって、山内へ逃げ込んだ東千葉残党勢力が果たした役割は大きかった筈

383:人間七七四年
16/02/20 00:06:35.55 Igbm1LqT.net
「こうじろ」なのか「くましろ」なのか、いまいちよくわからない
鍋島に乗っ取られてから読みが変わったんだっけ

384:人間七七四年
16/02/20 02:10:53.19 dk3GnACv.net
信生
これ何て読むの?

385:人間七七四年
16/02/20 03:57:08.90 naQ0HG4b.net
龍造寺氏の遺構でどこか観光できるとこないですか?

386:人間七七四年
16/02/20 07:39:56.82 Xdan2UBM.net
>>383
こうじろもくましろもいる、それだけのこと

387:人間七七四年
16/02/21 19:15:18.41 Igk8uyHe.net
>>381
> 神代勝利も忍者衆の頭領として再定義したら面白いかも

そういえば、龍造寺の忍者はあまり注目されたことがないな。
戦国時代だから当然、忍者は雇っていたわけなのだが。

388:人間七七四年
16/02/21 19:53:29.13 OF70w4Mf.net
>>384
ノブなり

389:人間七七四年
16/02/21 20:39:53.23 vgfv6hT7.net
佐賀の忍者と言えば最近嬉野のあたりにも忍びがいたかもと言うことがわかって
肥前夢街道が市からの公式なバックアップを受けられるようになってたな

390:人間七七四年
16/02/21 20:59:54.80 zjvx+JAb.net
>>385
佐賀城址、(十間堀・大財端城)、龍泰寺、高伝寺、龍造寺八幡、蓮池公園
(後多久氏;多久市)梶峰城址、東原庠舎、多久聖廟
(須古氏;白石市)須古城址、肥前犬山城
(武雄鍋島氏;武雄)武雄神社、武雄高校、御船山楽園
(諫早氏;諌早市)諫早公園、諫早高校、眼鏡橋
佐賀平野部の戦国当時っぽい遺構なら、姉川城址・直鳥クリーク公園・横岳クリーク公園
観光に耐えうるかどうかは入念に下調べしてもらわないと保証できない

391:人間七七四年
16/02/21 21:12:44.97 zjvx+JAb.net
あと徴古館と本丸歴史館に行ったら資料は貰えると思う

392:人間七七四年
16/02/25 23:40:07.42 1k21sikD.net
あのしょぼい本丸歴史館をどうにかしろ
地元の小学生の社会科見学にすら使われとらん

393:人間七七四年
16/02/26 10:46:33.06 hXUDPe1I.net
ボランティアの人に戦国期の歴史が少なすぎる(今山の戦いなど)と言ったら、
あくまでもここでは鍋島推しであって、隆信の扱いはそうならざるを得ない、と言ってた。
悲しいことだね。でもあそこは鍋島以来の佐嘉の通史から日本史(幕末・明治押し)
を学べるから、学生には丁度いいんじゃね?
戦国が好きな人にはあんまり面白くないよね。。

394:人間七七四年
16/02/26 10:54:50.91 QxzCz/kk.net
龍造寺あっての鍋島なのにね
歴史を切り離すことは出来ないのに

395:人間七七四年
16/02/26 13:50:45.78 ETrRapEI.net
佐賀にも戦国関連でなんかあればいいよなあ
こういうとこのアピールの弱さは戦国関連でメジャーになりきれないことに関係してそう

396:人間七七四年
16/02/26 14:36:01.07 wJbS32Th.net
くまもんって佐賀のゆるキャラだっけ?

397:人間七七四年
16/02/26 15:16:21.11 lph+Mutx.net
肥前と肥後の違いで惜しかった。

398:人間七七四年
16/02/26 15:26:05.59 wJbS32Th.net
肥後のは隅もんだからな
肥前のが熊もん

399:人間七七四年
16/02/26 15:45:26.38 CtvSgNHe.net
なぜ佐賀県なんて小さい県が存在してるの? 福岡長崎に分割されてしまえよ
などとよく2chなどで言われるが、佐賀県が存在している歴史的理由を辿っていくと
龍造寺がいて鍋島がいたから、という事実にたどり着かざるを得ないのである
佐賀になんかあるのかという問いも、山本常民先生が300年以上前、既に葉隠の一番最初
一番重要な事として既に答えを出しておられるのである

?御家来としては、国学心懸くべきことなり。今時、国学目落しに相成り候。
大意は、御家の根元を落ち着け、御先祖様方の御苦労、御慈悲を以て、御長久の事を本づけ申すために候。
剛忠様御仁心御武勇、利叟様の御善根御慈悲を以て御長久の事を本づけ申すために候。
隆信様日峯様御出現、其の御威力にて御家長久、今が世迄、無双の御家にて候。
今時の衆、斯様の義は唱え失い、余所の仏を尊び候。我等は一円落着き申さず候。
釈迦も孔子も楠木も信玄も、終に龍造寺鍋島に被官懸けられ候儀これなく候へば、当家の家風に叶い申さざる事に候。
如睦甲冑ともに御先祖様を崇め奉り、御指南を学び候て、上下共に、相済み申す事に候。
其の道々にては、其の家々の本尊をこそ尊び申し候へ。御被官ならば、余所の学問無用に候。
国学得心の上にては、余の道も慰みに承るべき事に候。
よくよく了簡仕り候へば、国学にて不足の事、一事もこれなく候。
今他方の衆より龍造寺鍋島の根元、又龍造寺の領事が鍋島領地になり候謂われ、
また「龍造寺鍋島は九州にて槍突きと承り候が、如何程の武功に候や」などと尋ねられ候時、
国学知らざる衆、一言の応えも成るまじく候。
以上、葉隠・夜陰の閑談:序文の冒頭部分

400:人間七七四年
16/02/26 17:10:02.81 85o+RkFS.net
>>399
子供の頃「なぜ安房国などという小さい国があるのか?」と思っていた。

401:人間七七四年
16/02/26 17:30:24.32 KiUnn0lb.net
クニがあるのはそこに歴史があるからという事を正しく認識出来ない人がいるという問題が
300年経った今でも全然解決出来ていない、というより悪化している問題

402:人間七七四年
16/02/26 17:33:04.82 wJbS32Th.net
>>400
志摩のほうが小さくないか?

403:人間七七四年
16/02/26 19:07:56.85 /N+GS6ND.net
>>402
志摩は伊勢神宮があるからなんとなく納得できた。
安房は理由がわからなかった。

404:人間七七四年
16/02/26 19:08:39.83 ePrVPfcp.net
房総半島と言っても房と総が違い過ぎるな

405:人間七七四年
16/02/26 22:17:01.04 CEjoXTu8.net
赤司志摩守家貞 蒲池志摩守鑑広 上瀧志摩守盛貞 武富志摩守 萩原志摩守 百武志摩守賢兼 前田志摩守尚忠

406:人間七七四年
16/02/27 12:41:28.80 DT5UJVr0.net
>>393
戦国好きだと龍造寺の方がメジャーな気もするけどね

407:人間七七四年
16/02/27 13:17:39.79 Qr2b1qrj.net
四天王が今山合戦で夜襲かけて総大将を撃破して死体の山を築いたんだよね

408:人間七七四年
16/02/28 14:40:13.32 Q+pjCBHX.net
歴史の意味としての今山合戦は独立戦争と定義するべきで
この独立戦争を経て龍造寺領国は独立的な外交関係を樹立し、独立した公として認知を受けた

409:人間七七四年
16/02/28 16:48:28.52 NtOAxB77.net
では、歴史館で今山の戦いを扱わないのは、ない罠

410:人間七七四年
16/02/28 17:37:34.19 i5cEpYhr.net
名護屋は朝鮮資料館だし佐賀って性がないわな

411:人間七七四年
16/02/28 18:15:41.37 Q+pjCBHX.net
佐賀の方はアイデンティティを幕末に自力で近代化した事と、政府高官を大量に出した所に置いていて
唐津の方は日本の文明の魁は唐津であって、大陸や朝鮮とのを交流をする上で果たした唐津の役割に重きをおいてる
なので名護屋は朝鮮資料館という批判は誤りだ
名護屋城博物館は朝鮮とこれだけ交流があった唐津凄いぞ博物館なんだよ、意図としては

412:人間七七四年
16/02/28 20:07:06.14 JwumCHnv.net
神代勝利の小説が出たんだな
佐賀駅の本屋の週間ランキング8位に食い込んでいた

413:人間七七四年
16/02/29 10:50:20.31 w2bYUFyp.net
神代勝利は山幸彦で龍造寺隆信は海幸彦なんだな、ヤマの代表とサトの代表

414:人間七七四年
16/02/29 16:24:19.05 W7lVpSa/.net
神代勝利は名前がかっこいい

415:人間七七四年
16/02/29 17:56:55.79 AjG61BJC.net
かみだいしょうり

416:人間七七四年
16/03/01 10:00:02.21 B5vRBfyL.net
じんだいしょうりって読んだほうがかっこいい

417:人間七七四年
16/03/04 18:00:01.06 chv6JHQH.net
龍造寺家臣の中では小川、納富氏あたりが勇猛果敢だったのかな

418:人間七七四年
16/03/04 21:17:54.23 752mqM54.net
鉄布峠の戦い

419:人間七七四年
16/03/04 21:34:03.54 avQY6TDv.net
小河家も本来なら佐賀藩政期で着座家老位の勲功はあった筈なんだけど
名跡継いだ忠茂の系統が勝茂とイザコザやったせいで割喰らった感じ

420:人間七七四年
16/03/05 19:41:17.69 Wb1IWVI0.net
>>411
うぜー
幕末なんて戦国好きの連中から一部流れてきた層だろ

421:人間七七四年
16/03/05 19:44:17.87 ZeMm1oSb.net
維新の嵐の影響は否めないな

422:人間七七四年
16/03/05 21:46:25.79 RNhFACH0.net
よく鍋島閑叟を口説いたっけ

423:人間七七四年
16/03/06 22:51:17.21 BdfZyVxK.net
>>419
小河家家督相続
信安―信俊―家俊―直房―利清―俊方―俊武
信安 神代勝利との鉄布峠合戦にて戦死
信俊 養子 直茂弟 島原沖田畷合戦にて戦死
家俊 文禄(二年)の役弟家久と共に朝鮮にて病死
直房 養子 鍋島直茂次男 のち鍋島へ復姓 鹿島藩主
利清 養子 千布政利の子 祖母(千布賢利の妻)が信俊の娘
俊方 兄清氏早世により相続 小河舎人祖
これでいいのかな

424:人間七七四年
16/03/07 21:57:50.99 mL5Q18+A.net
神代勝利は筑後国人領主の子
小河信安は筑後守護代菊池為安の孫
どちらも大友勢との抗争で肥前へ亡命してきた家
落ち延びた先でも武家であるから世の常として肥前で相争う
千布家は神代家の重臣で神代一族を保護した家
ならば小河の家をまた保護するのに不都合があろうか
その様な所縁あって千布氏が小河の名跡を継ぐ

425:人間七七四年
16/03/08 12:07:42.07 CtCv5O1/.net
竜造寺隆信が当主に就いた時天下を狙うからそのつもりで精進せよと家臣に言ったら
反発した家臣たちに追放されたという話が歴史群像の九州三国志にのってたんだが
これって事実なんかね

426:人間七七四年
16/03/08 14:25:56.46 LUpIL1Zv.net
隆信公御年譜天文十九年、胤栄が死去し隆信が惣領七千二百二十町を得る時の所信表明的な場面
御一族鍋島駿河守、龍造寺右衛門太夫,同左馬太夫,同新五郎,同越前守,同伊豆守,同隠岐守,同河内守,同石見守,同右京亮,同伯耆守,同右馬太夫
並時の老臣小河筑後守、納富但馬守、福地長門守、石井尾張守の前で隆信がこう言った
「今我が代に成りける処に、国中蜂の如くに鉾を砥ぐ折なり。剛忠公の御遺言にも冬尚を討ち御響応すべしとある。
彼を討て御本意を達し、速やかに根を断つべし。この外諸将が我を侮るだろうが何事のものか。
敵に先取られるより早く旗を出して我が鉾を見せん。冬尚、小田、江上を討ち東を得ん。有馬、波多を討ち西を治めん。
是を凡そ五年の手間で取る。彼を討ち、隣国に出馬し、菊池、大友、原田、秋月、島津を従え、四国、中国へ乗出てこれをとる。
ただ決して油断をしてはいけない」
それを受けて曰く
「五年を限って陳用すべしと仰るが未だに肥前国中さえ治める事ができていません。
諸将をたやすく従わせられるという思召しが却ってそれを難しくさせる元になります」
隆信の此儀に応じて家老の皆が感じるところは『この眼は本気のものだ』というところで皆は密々と軍議を談じた
ただこの時家中の内にはこれを余りに剛強大思過ぎると危ぶんで
『隆信では当家を治めるのが却って難しいだろうから左衛門太夫鑑兼を代わりに立てよう』という風説が出た
しかして胤栄の老臣土橋伊賀守は初めから隆信を否定していた

逸話は物語だという前提をおいて物語調に出典だろう物の意訳をする

427:人間七七四年
16/03/08 14:35:13.73 r7xJ2uUt.net
天下云々は置いといて、主筋の小2を蔑ろにするような方針だったからじゃないの?
信長が健在時に秀吉が天下を目指すとか言ってるドラマがあるけど、普通なら粛清されるよなw

428:人間七七四年
16/03/08 17:35:45.08 LUpIL1Zv.net
水ヶ江家の一族重臣が多数粛清され、それを主導した頼周が家兼の逆襲によって討たれた時点で
少弐と水ヶ江龍造寺の共存は完全に否定されている。どちらかが滅ぶまでやり合うしかない
しかし村中龍造寺ならそうでも無い、遺恨が残っている水ヶ江家は既に多くを失っていて弱体化しており、怨敵の馬場家にしても家勢は弱まっている
水ヶ江家の始祖でありそのものだった家兼爺はようやく死んだ。胤栄の死去を契機として代替わりで少弐と再び和を請うのも可能じゃないか
残った水ヶ江の当主はデカい事言ってるがつい最近まで寺に入れられていた武家の作法もよく知らない坊主
そんなのに村中の惣領まで継がせる事なんてないだろう。というものだと思う

429:人間七七四年
16/03/08 18:54:42.37 Oq/q/4+o.net
そいで都合良く大寧寺で後ろ盾の義隆が死ぬんだからな、まあしょうがないな

430:人間七七四年
16/03/08 21:19:38.22 W/5+xgzA.net
龍造寺家中にも隆信の後ろ楯というか、権力を支えるものが何もないからね
表面上はいきなり現れて当主になったクチだから
家兼直系長男家の嫡子なのに僧籍に入ったまま放置されていて
円月坊だった隆信の処遇が本来どうあるべきだったかを知る歴代当主は全員死んで真相は墓の中
円月が還俗した時にあったのは家兼の遺言とそれを守れと主張する小川信安等の一部家老のみ

431:人間七七四年
16/03/08 23:56:51.57 3aUMl9Ql.net
>>429
義隆の横死後も
隆信が偏諱捨てなかったのは大内に対する恩義があったからかな

432:人間七七四年
16/03/09 07:15:30.35 1bNIM6x/.net
面倒臭いだけなんじゃ…

433:人間七七四年
16/03/09 19:26:42.44 DAqoICVu.net
隆はリュウとも読めて龍に通じる、始祖としている藤原隆家を意識など隆の字が気に入っていた説を推す

434:sage
16/03/10 09:16:39.61 RdptX6nt.net
いえかねの遺言が真実だとして
何故隆信を強く後継に推したんだろうね

435:人間七七四年
16/03/10 15:56:02.36 j4/B8arX.net
フィーリング

436:人間七七四年
16/03/10 17:16:38.50 IOefV46f.net
8歳で平家物語を暗唱し、その時点の龍造寺家がどうだったと注釈を入れて女中に語っていたとか
12歳時点で成人した修行僧より故事に通じており学識が高かったとか、記憶力が尋常じゃないとする逸話が隆信には多い
直茂も西千葉での養子時代関連で賢かった逸話があるけど、こっちはおませな子で済む程度
隆信は幼少の頃から可愛げがない賢しい子供だったのは想像に難くない
隆信の持っていた賢しさ、頭が良いのは認めるがそれに家臣が果たしてついてこれるのか
指導者としてその鋭敏さが本当に適切なのかどうか判断しかねたから
直接指名ではなく遺言という形にして、家臣にも隆信の人品を見定めさせる為に詮議の機会を設けたんだろう
結局最後は託宣で隆信の後継が決まったけど

437:人間七七四年
16/03/10 22:26:08.16 8+iMcMPF.net
天文十六年に龍造寺西千葉勢と筑前の大内勢で少弐勢力の追い落としをやっているけど
この直後に東肥前で検地をやったらしく、これで隆信は国衆からかなり恨みを買ったんじゃないかと

438:人間七七四年
16/03/11 21:09:13.65 K4ccai4W.net
『隆信』になった最初の一年だけは大内家の肥前守護代的な立場だったのだろう
山城守への任官も大内の本気度が垣間見えるといいますか
大宰少弐・筑前守を打ち消すのに大宰大弐・山城守と並ばせると説得力は相当ある

439:人間七七四年
16/03/13 09:38:09.52 cY3IBFl5.net
鍋島って隆信擁立反対派だったんだよな
あの時鍋島全員打ち首獄門にしてればよかった

440:人間七七四年
16/03/13 09:59:19.70 5o1xlSQq.net
今山合戦って本当にあったの?大友親貞って正史には出てこないじゃん。
全部鍋島の捏造なんでしょ。隆信がヘタレなわけないじゃんか。

441:人間七七四年
16/03/13 10:55:50.74 cI6KyMii.net
少なくとも翌日に多久まで電撃戦やれるだけの打撃を与えたのは事実だろう

442:人間七七四年
16/03/13 11:11:58.96 G91djuCo.net
>>439
円月を還俗させる前に水ヶ江家の遺産相続配分が家門の遺産は鑑兼(或いは家就)へ、家純と家兼の遺産は慶法師長信へと
これも家兼の遺言通りに決定していたので、ならば円月の相続分はどうするんだという話になるはず
家兼の遺言通りにすると円月は家督だけ継いで台所分は無しという無茶なことになってしまい
この問題をどう解決したのかがよく分からない、けど多分遺産問題は棚上げされて、清房が懸念した部分はここだったのだと思う
だから還俗直後の領主としての胤信はおそらく自分の都合で動かせる資産や人員を何一つ持っていない
多少は周家の遺産から分知を受けてはいただろうが

443:人間七七四年
16/03/13 17:21:08.37 aLWUgVx3.net
龍造寺胤栄死去直後を狙って肥前復帰した少弐冬尚の場合や
粛清騒動が冷め止まない内にとって返して馬場頼周を討ち肥前復帰した家兼の場合と違い
隆信の肥前復帰戦は前触れもなく突然起こった
様に見せる為の計画が前々から練られていたという点で異なる

444:人間七七四年
16/03/13 20:57:32.32 cY3IBFl5.net
>>431
隆信は大内氏には格別の好があったんだろな
隆信自身が義隆から貰った偏諱のほかに、隆信は義隆亡き跡を継いだ
義長へ偏諱を願い出て弟家信を長信と変えた

445:人間七七四年
16/03/13 22:19:20.66 aLWUgVx3.net
大内遺臣らしい勝屋勝一軒が隆信に仕え始めた時期はよく分からないけど
大寧寺の変後に筑後で互いに浪人中だった時知り合った、というのが蓋然性高いと思う
それで勝屋勝一軒と鍋島信昌を競わせていたのは
相良武任と陶隆房の関係を模して改良したもので
隆信は自分なら統制出来る確信を持っていたのだろう

446:人間七七四年
16/03/13 22:38:51.76 jUQxFgV1.net
子孫に代ゼミの講師がおったんか

447:人間七七四年
16/03/14 02:31:25.82 Ung8RkjJ.net
その結果先陣の負けは次陣の負けを破ってすら勝屋を見捨てそうになる信昌


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