龍造寺氏と、たまには鍋島氏を語るスレ2 at SENGOKU
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100:人間七七四年
14/08/25 06:37:06.73 SF5fZ5gs.net
毛利とは関係ない毛利だな

101:人間七七四年
14/08/25 08:41:13.96 s+4GmUcL.net
今まで龍造寺と毛利勝永の接点がどこにあったのか分からなかったのだけれど
直茂が長崎代官をやっていた時期に勝永と一緒に仕事していた話を昨日の講演で聞いて得心がいきました

102:人間七七四年
14/08/26 21:07:26.56 Txe2T72m.net
>>95
長政を尊敬してたと云うより頭が上がらなかったのと違うの
取り潰しの危機を救ってくれた大恩人だし

103:人間七七四年
14/08/26 23:04:19.71 axqCvXur.net
二十歳前後の当時の勝茂が頼れたのは長政ぐらいしかいなかったし
勝茂にとって恩人である事に間違いはないけど

徳川家との交渉は直茂主導で色々な人を伝ってやってるからそこに関わった人が皆恩人
本多正信だったり伊井直政だったり
本願寺の准如だったり足利学校の閑室元佶だったり

104:人間七七四年
14/08/26 23:15:21.67 q/d0bq/3.net
スレチだけど長政って野心ないよね
もう家康のポチじゃん
親父が野心家だと息子は毒気が抜けちゃうものかねえ

105:人間七七四年
14/08/27 21:34:19.08 msgj8svk.net
直茂は愚息勝茂のせいで気と金を使っただろな
鍋島が生き残ったのは次男忠茂のおかげだよ

106:人間七七四年
14/08/28 00:35:48.82 plbAN9yn.net
忠茂は勝茂の尻拭いをするために生まれてきたような人生だよな
将軍の諱を授けられるくらいだから相当優秀だったはず
勝茂は実弟に負い目があっただろうに甥っ子に酷いことしたよね

107:人間七七四年
14/08/29 07:05:14.11 FnXvtQ+X.net
忠茂江戸参府に先立ち、直茂が訓辞した言葉

鍋島家の安危はひとえに忠茂の奉行いかんにかかっている。
心を鎮め、謹んで事に臨むよう、たとえ両御所(家康・秀忠)の
御機嫌が悪い時でも、決して尊慮を労してはならない。
老中や近臣の言葉はよく敬い、家老に議して忠告に耳を傾ける。
しかし忠茂を侮る者があれば、討ち果たす覚悟が大切。
なれど身の恥辱に及ばない時は、堪忍する事が大切。

108:人間七七四年
14/08/29 11:11:16.99 WYbCPj1a.net
関ヶ原の時は高房も出て来ていて部隊の指揮系統の一本化という面で不安があったので
最終的な決定権と指揮権は一元的に勝茂が持つという念書を用意してから出陣した

これで龍造寺軍全員は勝茂の下に居なければならなくなったが
この念書が逆に勝茂がとれる選択肢を狭めたと思う

例えば準備が整っていない、勝茂が動けないで全員足止めされている状況なら
武具の準備が整っている者だけ人数集めて高房隊を編成し、分遣隊として先行させるといった意見が出てもよかった筈

109:人間七七四年
14/08/29 17:11:15.94 MboT9thZ.net
高房が家康の会津征伐に同道できて覚えもめでたくなってれば
お家騒動ももう少し軟らかくなったかな
それとも余計に拗れたか

110:人間七七四年
14/08/30 21:26:06.23 QG4OJH+i.net
忠茂の江戸行きには家老千布惣右衛門を始め、甲斐彌左衛門、納富千兵衛ほか
侍20名と中間8名が随行したが、江戸へ着くなり数名が脱走。
そのため、佐嘉より江戸へ追っ手を差し向け、逃亡した全員を刺殺している。

命によって仕方なく随行した者もいたんだね。

111:人間七七四年
14/08/30 22:16:09.46 fPABrqXJ.net
鍋島勝茂である義兄の鍋島茂里の実弟は鍋島茂忠で鍋島勝茂の実弟は鍋島忠茂


高房を従軍させたのは龍造寺宗家は健在で軍役も担えると宣伝する目的もあったんじゃないか
あと、もしもの時は勝茂と高房で二股膏薬の方が親子でやるよりリスク分散として有効かと

112:人間七七四年
14/08/30 22:20:25.02 fPABrqXJ.net
×である義兄
○義兄である

113:人間七七四年
14/08/31 12:04:33.00 vzo9c2c9.net
>>110
なぜに逃亡したの?

114:人間七七四年
14/09/01 01:04:01.48 B3vB5+Qy.net
祝 龍造寺大河初出演者

115:人間七七四年
14/09/01 07:54:56.71 RzzrJPdJ.net
>>113
この頃は忠茂(当時は直房)との主従関係は希薄で不安だったのかな

>>114
小倉城で政家が秀吉へ拝謁する場面だね。
政家
「黒田官兵衛殿の仲立ちにより、関白殿下に拝謁の栄を賜り、
 恐悦至極に存じます。
 この龍造寺政家、忠勤を励みますので何なりと申し付け下さい」
秀吉
「今後とも頼むぞ」

当時、政家は三十才だったのに随分老けた役者だったな。

116:人間七七四年
14/09/01 13:08:25.31 IgPZmWXq.net
龍造寺の記録だと黒田孝高が江上家種・後藤家信・龍造寺長信・同信周・同家就・同家晴からの質人を預かったとされるので
この時点(1586年10月中旬)で既に龍造寺一門は政家とはまた別個に朱印状を貰う腹づもりだった模様

117:人間七七四年
14/09/01 14:27:10.57 N1E0Jmmn.net
家就は何をして秀吉を怒らせ隠居したんだい?

118:人間七七四年
14/09/01 15:14:18.94 BUV7CQzX.net
>>117
肥後国人一揆で政家が出陣する際に病を理由に取り止めさせた

119:人間七七四年
14/09/01 16:34:39.79 nEqrZD0S.net
九州征伐が始まるときでも龍造寺は70万石ぐらいの勢力は保持してるよね

120:人間七七四年
14/09/01 16:58:14.41 1bpDvGbj.net
鍋島藩-諫早+柳川ぐらいだと思うから30万石ぐらいなんじゃない?

121:人間七七四年
14/09/01 23:51:48.92 IgPZmWXq.net
龍造寺が島津に宣戦布告した1586年9月上旬時点で龍造寺の指揮下に入っていた他国侍を挙げると
筑前だと原田(+肥前草野)筑後は本家草野と河崎、田尻、西牟田あたり

郡で言うなら筑前は那珂郡西端から早良、怡土、志摩でおおよそ10000町
筑後は御井、三潴、上妻西部、下妻、山本、山門23000町ほどが幕下
肥前国侍は総数が約53000町(内龍造寺一門知行が10500町)ここから宗、有馬、平戸等を抜くとざっくり43000町
勢力の定義を軍事的に指揮下へ置けた範囲だとすると総計73000町が龍造寺の勢力
全部が全部純粋な領地では無いし上田とか分からんので石高換算は無理

122:人間七七四年
14/09/06 09:52:11.02 e6GnJDpe.net
九州仕置はかなり意図的に小領主を浪人へ落とす方向でやっているのをみると
秀吉の朝鮮出兵は平和になった時、邪魔になる浪人を処分する目的があった、というよりも
槍働きをすれば大陸で土地が貰えると唐入りに対する動機付けの為に浪人を大量に創出したとする方が自分は納得いく

123:人間七七四年
14/10/01 18:19:09.23 4WTuppxc.net
昨日の佐賀新聞の朝鮮出兵と鍋島親子の記事を見て初めて気付いたんだけど
URLリンク(www.nabeshima.or.jp)
胴の部分は龍って書いてあるんだねコレ、所属もすぐ分かるし良いデザインだと思う

124:人間七七四年
14/10/28 15:51:54.29 3KVLRVYs.net
>>123
本当に龍?つくりの方が邑(おおざと)にしか見えないんだが。

125:人間七七四年
14/10/28 16:02:49.09 3KVLRVYs.net
>>122
金のために働く傭兵ならともかく、領地のために戦う武士を海外に連れ出せば
減るから国内安定、なんてありえないよな
死ねば加増と思って行ってるんだから

126:人間七七四年
14/10/29 08:11:50.83 G2vast2i.net
感状で十分

127:人間七七四年
14/10/29 16:39:09.74 CdsVsdxh.net
仕事で熊本県南関町や和水町(旧菊水&三加和町)を訪れて
かなりの数の地域住民と接する機会があるんだが
住民の鍋島姓率が他の地域と比べてあからさまに高い

これって佐賀の鍋島さんと関係あるんか?
確かに佐賀との県境に近い地域で、北に行くほど多くなる印象はあるんだが

128:人間七七四年
14/10/29 20:39:18.53 bin4LxLO.net
南関という地名はそもそも龍造寺家晴が筑肥に跨って当地の領主をやっていた時に筑後側と肥後側で境界周辺の呼び名がバラバラだったのを
筑後側を北関、肥後側を南関で統一させてそれが定着したのが始まりらしい

129:人間七七四年
14/10/31 07:11:36.52 7QuXCc0r.net
>>128
なるほどありがとう
鍋島姓が多いのは気のせいじゃなかったか

基本自分の勤務地は熊本市内なんだけど
鍋島・龍造寺と関係が深い姓として赤星姓は今でも市内では結構見かける
城はもっとよく見かける印象

130:人間七七四年
14/10/31 11:32:15.89 a7dP8Uxw.net
南関に鍋島の子孫が残ったものなのかなあ?
家晴は南関→柳川→諫早と映ってくわけじゃん?

131:人間七七四年
14/10/31 12:03:59.05 uOheyid0.net
敵対分家の子息って割りと優秀だよね

132:人間七七四年
14/10/31 18:44:54.10 v/YvIJWh.net
ナベシマという村名なり地名なりが昔あってそれが苗字化した、これが一番ありえそうだけど
元佐賀藩士の家系が鍋島名乗って移住している可能性も無い訳じゃないか
炭鉱業が盛況だった時期だと北側に多い理由も一応説明できる

それが和仁や辺春、大津山氏辺りの子孫だったらロマンはあるけど、鍋島家に彼等の縁者が仕官した話は聞かない
関向こうの田尻は小城藩の家老に落ち着いたけど

133:人間七七四年
14/11/02 23:10:28.24 CjC74nx0.net
>>129
いや、関係あると確定したわけじゃないと思うけど

ただ、実際に訪れた人の感想として、実際多いんだろ?
そういう情報いいと思うよ。

関係ないが、焼肉のなべしまは関係あるのだろうか?

>>123
「都」じゃないか?
なんでかはわからないが…
詳しい人いない?

134:人間七七四年
14/11/04 07:59:06.28 ftqiurHx.net
>>133
熊本県下を人吉地区・玉名〜荒尾市以外を
ほぼ全部同じ仕事の出張で回った印象では
鍋島姓が突出して多いと感じるのは和水町&南関町のみ

東と南に隣接する山鹿市・玉東町では他地域同様ほとんど見かけない
西側に隣接する荒尾市・長洲町・玉名市を訪れる機会があればまた注意して
見てみようと思う。

焼肉のなべしまは鹿児島に本社があるから関係があるかは不明…
あとサラダバーが質量ともに充実してる印象

135:人間七七四年
14/11/04 13:47:22.77 5UScJrHo.net
>>132

鍋島家発祥の地 御館(おたち)の森
URLリンク(www.saga-otakara.jp)

136:人間七七四年
14/11/09 02:31:12.17 k3+23qdW.net
>>134
@そのあたりにも鍋島という地名があり、それを名字とする家ができた
A戦国時代までに、肥前鍋島がなんらかの理由で移住
B戦国末期、龍造寺の拡大の結果、鍋島がそこに土着
C明治以降の移住
D何らかの理由で大名鍋島氏の名字を名乗った

>>132氏の言うとおり、@とDがありそうかな。
Aがあるような名家の範疇じゃないし、Bは龍造寺の縮小について帰るのが
妥当だし。
Cは>>134氏が言うように多数の分流が生まれそうにない。

137:人間七七四年
14/11/15 19:36:58.72 Na44b56Z.net
玉名郡は姉川氏の本家筋である菊池肥前家(肥前氏)の本拠地
肥前氏から転じて鍋島を名乗るというのもあるかも

138:人間七七四年
14/11/17 22:56:47.72 2wcFszzs.net
無い!、無い!!全然無関係!!!

139:人間七七四年
14/11/17 23:14:47.88 Y4e2GeSN.net
>>138
夢があるからいいじゃねぇか。
むしろあり得ないような説がたくさん出た方がおもしろいし、
案外そうやってぽっと正解が出てくるかもしれん。

140:人間七七四年
14/11/17 23:16:03.15 iUawR/cJ.net
掲示板での語りで正解を見つけるってのも無体だと思うけどね
本当に知りたければ現地に行ってお話聞くのが一番だろうよ

141:人間七七四年
14/11/18 09:59:25.08 OXYcjy0d.net
集団自決は強制だ!って言ってる現地の人もいるから話半分で聞くとよい。

142:人間七七四年
14/11/18 19:58:15.98 c3cxOapc.net
>>132
んー挙げられた中では和仁氏は確かに出自はっきりしないんだけど
南北朝から続いてるらしいし
今でも和水町に地名として残ってる
それが例え明治になってからでも
いきなり鍋島って姓を名乗りだす事は考えにくいかと思われ

143:人間七七四年
14/11/18 21:24:53.29 sN13M2ki.net
和仁大膳亮宗伝 
肥後國玉名田中城主(知行壱千町) 龍造寺勢との合戦にて降伏し幕下となる

144:人間七七四年
14/11/24 12:25:04.51 MYMJJZGJ.net
近世以降鍋島を名乗る利があるだろうか。
和仁を名乗ると迫害されるとか

145:人間七七四年
14/11/25 16:09:09.77 KRjtyH+0.net
佐賀の戦国研究会の12月27日の質疑応答会、質問募集中だってさ

146:人間七七四年
14/11/26 16:23:49.61 IPpKIn+Y.net
>>102
あと黒田家との関係で言えば
城って本来は軍事機密なはずなのに
福岡城作る際は鍋島家から応援出したり
佐賀城の縄張りを長政に頼んだって話も有ったな

隣国同士って警戒しあったり仲悪いのが普通なのに
江戸期に拗れるまではそうとう良好な関係だったんだな

147:人間七七四年
14/11/26 19:43:54.16 ih3Pcp0v.net
筑前堀 肥前堀

148:人間七七四年
14/11/26 20:45:12.92 bOheTF38.net
>>146
それは父ちゃんの孝高が築城名人だったからってのも
あるんじゃないのか?

後は肥前名護屋城普請の時に
蓮池城の天守を移築するよう鍋島氏にお願いした事情も
ちょっとは関係あるかも知らん
お互い技術の程は熟知してある程度の信頼関係はあるって意味で

149:人間七七四年
14/11/27 20:41:43.85 NrVtB8WW.net
福岡藩が長崎警護役やる様になったのもそれまで単独でやっていた佐賀藩(勝茂)が長政に助力を乞うたのが発端

150:人間七七四年
14/11/28 00:03:05.34 HoWVHHJX.net
福岡藩が長崎警備に就いたのは寛永18年(1641)で佐賀藩が翌年から
長政は元和9年(1623)で没したから時期的には息子の忠之だと思うが

151:人間七七四年
14/11/28 00:26:59.01 NuT02+t5.net
忠之が「うちからは言い出しにくいから幕府から鍋島に長崎へ来る様言って下さい」と言った話だよね

152:人間七七四年
14/11/28 17:58:28.68 qZVL2r0n.net
なんだ、福岡の方が先なのか、いい加減な事書くなよな。

153:人間七七四年
14/12/02 18:24:20.93 kycFUBeU.net
島原の乱の前後でも清の成立とか明の崩壊とか色々あって東シナ海が非常にキナ臭くなっている時期
九州の国持ち格の中で黒田だけ東シナ海に接続した海域を領しておらず手持ち無沙汰の状態
そこで皆等しく海防に従事しましょうねという事で黒田に長崎警護命令が出た

154:人間七七四年
14/12/03 02:34:21.70 UX6YScQv.net
>>152
調べもせずに何でも鵜呑みにするカスってのはどうしてこうも態度が大きいのかねえ
出自のせいかしらw

155:人間七七四年
14/12/03 16:17:53.32 3UN0XpLt.net
>>154
と、顔真っ赤ホラ吹きが吠えております。

156:人間七七四年
14/12/03 21:45:09.55 +dd/djlL.net
>>154
なんです、福岡さんの方が先なのですか、いい加減な事書かないでいただきたい。

これで満足?

157:人間七七四年
14/12/04 19:40:43.44 gDn526bq.net
調べる能力もないバカは黙ってROMってろよw

158:人間七七四年
14/12/04 22:26:40.62 njGve5MJ.net
調べて裏付けをとって間違いを指摘しただけで人格攻撃とか幼稚だと思わん?

159:人間七七四年
14/12/05 08:55:43.48 1mBFYUd9.net
>>158
152のほうが幼稚だろ
まあ読解力がない時点でお前も小学生なみの幼稚さだよ

160:人間七七四年
14/12/11 21:41:26.50 9dUgSNJE.net
のほうが幼稚www

幼稚を競ってどうするwww

ところで、>>152>>149なの?

161:人間七七四年
14/12/12 00:14:39.54 Z6Qdr9FY.net


162:人間七七四年
14/12/12 02:31:01.36 uq49A7F7.net
また読解力のないバカがひとり
幼稚だなあ

163:人間七七四年
14/12/12 17:14:21.49 dms1UsKU.net
島原の乱の頃まではまだ龍造寺家だとオランダ領事館には認識されていたらしい

164:人間七七四年
14/12/12 18:01:48.90 n5qj6k6r.net
>>162
オウム返しでしか煽れない大人の人って・・・。

165:人間七七四年
14/12/12 20:33:05.77 t0FcQqHr.net
>>162
このやりとりに読解力必要?
もっと楽に生きなよ

166:人間七七四年
14/12/12 23:42:19.12 jHnqjzBA.net
素読で理解できないなんてパパの精子からやり直せよ小僧

167:人間七七四年
14/12/13 01:54:04.22 +UanZqPt.net
素読www
自分が知らない言葉使って賢いつもりって、何歳だよwww

168:人間七七四年
14/12/13 02:22:45.44 OD6OKQ2m.net
何べんも音読しても理解できない頭なんですね
学校で何を習ってたんでしょうか
ハングル文字かな?

169:人間七七四年
14/12/13 04:56:04.92 wycj7IQV.net
出自とかハングルとか、コイツはどんだけ実生活でコンプレックス抱えてるんだろうな。

170:人間七七四年
14/12/13 07:48:59.30 vqC+ZkDm.net
悔しいのう、反論できずに遁走かよ
キムチ臭いから朝鮮人はレスして来なくていいぞ

171:人間七七四年
14/12/13 08:32:06.34 eio/5msj.net
渇!!!(๑`ȏ´๑)

172:名無しさん@そうだ選挙に行こう
14/12/13 16:54:27.11 wycj7IQV.net
>>170
www

173:名無しさん@そうだ選挙に行こう
14/12/13 21:06:33.21 jkY+7aPB.net
うわぁキムチ臭(草)い

174:名無しさん@そうだ選挙に行こう
14/12/14 02:50:37.93 0GEKH6GN.net
ところで葉隠物語って漫画がやってたんだな、最近知った

175:人間七七四年
14/12/15 21:34:35.92 iRmb+QNH.net
龍家軍は永久に不滅です、として歴史の表舞台から退場していくのが葉隠視点龍造寺家

176:人間七七四年
14/12/19 13:34:07.30 o6/+mVN7.net
江上家種の娘が鹿島藩忠茂に嫁いで生まれた次男坊が江上(佐野)家を継いで
いるんだね。一代限りだけど‥。
何れにしろ、勝茂にとって江上家はしゃくにさわったんだろな。

177:人間七七四年
14/12/19 14:16:43.51 ZmGin5yx.net
どうして、何か因縁でもあるのかい?

178:人間七七四年
14/12/22 19:43:56.65 xZivor7l.net
勝茂は江上を継いで龍造寺一門になる予定があった

179:人間七七四年
14/12/28 20:52:23.32 kjsTWD7j.net
鍋島家が秀吉から四万石認められたと言ってもその禄は龍造寺から出さないと龍造寺のメンツが立たない
それのしわ寄せを大部分引き受けたのが江上家だったわけで
龍造寺から出さなかったら御井郡辺りで鍋島分離独立という話になっていたと思う

180:人間七七四年
14/12/29 08:49:23.19 fUI/LRlU.net
秀吉としてはそっちのほうが良かったのかなあ

181:人間七七四年
14/12/31 02:53:28.28 dEO3Ib3c.net
>鍋島分離独立という話
実態として家臣だったものが、
秀吉によって実態として分離独立した家ってあったっけ?

182:人間七七四年
14/12/31 10:02:15.75 wmJsPRh1.net
立花氏(大友)や津軽氏(南部)は思いつく
まだ他にあるかな

183:人間七七四年
14/12/31 18:03:51.60 ZyeVtomw.net
隆信も年越しソバを食べていたんだろか

184:人間七七四年
15/01/01 09:59:06.05 /VP04wo0.net
>>181
お隣の小早川とか立花

185:人間七七四年
15/01/03 18:58:53.79 ZVvVsdMa.net
>>183
インドにいたみたい

【国際】インド警察、日本人女性を2週間近くにわたって監禁して集団性的暴行を加えた容疑で3人を逮捕(c)2ch.net
スレリンク(newsplus板)

186:人間七七四年
15/01/03 22:19:27.70 ie4F8KwY.net
>>183
切り蕎麦はまだ一般的じゃなかった筈だけど
蕎麦がきなら食べてるかも
温かい料理だからこの季節にぴったり

187:人間七七四年
15/01/23 15:09:40.30 03O3Q2jf.net
鍋島氏が大名成りしたのは豊家の恩によるもので龍家の意向ではなく
横岳家と姉川家という家宰機関の創設(鍋島氏による相続)が大名鍋島家誕生の象徴的な出来事でしょう

188:人間七七四年
15/02/01 14:49:02.40 AxyOlZET.net
んにゃ

189:人間七七四年
15/02/01 15:04:47.62 sdgAxOpT.net
朝鮮出兵で失敗した本家を救ったと見せかけて
豊臣と組んで竜造寺乗っ取りを画策した鍋島家
へタレの世継ぎがボンクラだったお陰で見事成功
あまりにスムーズに佐賀藩乗っ取りが進んだので
化け猫騒動でケチを付けられるというオマケ付き

190:人間七七四年
15/02/01 21:56:46.11 4VcAUKZr.net
高房はあんな事しなければ四位まで昇官決まっていたのにと直茂がお恨み状で書いてあるが
龍造寺が名目上の藩主を続けられていた場合だと肥前守独占もあったんじゃないか

191:人間七七四年
15/02/01 23:48:19.10 istPQcm7.net
仮に関ヶ原の戦いで、会津征伐に龍造寺軍が従軍できていたら
関ヶ原で高房が軍功を上げることができていれば
そういうIFを妄想するのも楽しいな

192:人間七七四年
15/02/07 03:52:26.79 do9EE4o1.net
鍋島家視点で言えば竜造寺なんて俺らが守り立ててやらなけりゃ
大名ですらいられなかったという自負があるから
佐賀藩乗っ取りなんて何の罪悪感も抱かん

193:人間七七四年
15/02/13 20:38:14.82 fzyHDo/H.net
乗っ取り犯の鍋島だな

194:人間七七四年
15/02/14 21:28:56.28 XNUHotdE.net
隆信の家臣の中では執行一族に勝る者なし

195:人間七七四年
15/02/14 22:17:53.11 4E60bk+t.net
執行さんちは江上家家臣だからにんともきゃんとも

196:人間七七四年
15/02/14 22:59:16.31 XNUHotdE.net
隆信幕下帳をみなよ

197:人間七七四年
15/02/15 14:18:33.10 PEpmpaev.net
城原衆は執行種兼指揮下だけど中身は少弐の残党だよ
よくいえば少弐家に最後まで付き従い忠を尽くした親衛隊の集団

198:人間七七四年
15/02/16 23:19:16.69 HIo4jUoP.net
朝日山城単独攻略の功により200町加増で250町かな、執行種兼は
隆信期は3000千石級の侍大将で成富信種とほぼ同格
執行も成富も着座家だけど藩政初期の功の差で執行1000石、成富2040石で倍の差がつくと

199:人間七七四年
15/03/08 01:22:47.50 kN8VazEK.net
自民党、グッジョブですわ。
URLリンク(www.soumu.go.jp)
☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、改憲の参議院議員が
3分の2以上を超えると日本国憲法の改正です。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。
私たちの日本国憲法を絶対に改正しましょう。☆

200:人間七七四年
15/03/09 12:32:43.71 fGxUkriw.net
鍋島勝茂の勝は義父の戸田勝隆から貰ったものかな
高房の高は隆信の隆と書くことも出来ただろうに、あえて高としてあるのは
『勝隆』が隆より勝が上に来ていることに由来するのでは

201:人間七七四年
15/05/05 18:50:26.39 vqi7KSmV.net
鎮賢から久家の改名は時期から考えて
耳川合戦の頃は親島津派として大友に対して敵対表明をしたようなもの

202:人間七七四年
15/05/05 20:00:48.22 gLQDDEbE.net
沖田畷のときは鍋島なんでいなかったのか?謎すぎ

203:人間七七四年
15/05/05 20:54:30.74 v4uIWvsr.net
沖田畷のときは鍋島なんでいたのか?だろう

204:人間七七四年
15/05/05 22:33:09.06 ryASBLbl.net
政家の指南役みたいなもんなんだから
政家が先陣に立つならそりゃいて当然なんじゃないの

205:人間七七四年
15/05/06 01:34:33.13 ++yXWfnS.net
沖田畷前後の鍋島信生は柳川城代で政家の副将
隆信付き家老は小河信俊(信生弟)・納富家理と土肥信安(沖田畷不参加)
直前の軍議で隆信隊と政家・信生隊の配置変更
あと鍋島信生が兵5000の水軍で先発し濱城に入ろうとしたものの
有馬島津に阻まれて撤退したというイエズス会資料の説
山手と中央の配置変更は鍋島が行ったとされる島原城の後背を突く強襲上陸が失敗した事と関連するのではないかと

206:人間七七四年
15/05/06 17:03:50.90 Vb2CL6L5.net
>>201
先年一翰啓入之刻、御懇体畏悦至極候。為其辻今度賀雲斎被差上之処
通用依難成、従中途帰宅候様、日州之事義久雖分置候、累歳逆心故
舊冬被属案利候。然者自豊後到当郡防戦之企候哉、万一実に候はじ
彌向後甚深可申談段所存候。仍而乍微色絹布四端令進之候。
聊補空書計候。期来信候、恐々謹言。
六月十九日 経定 光宗 意釣
納富殿

土持表悉属案中、義統令帰陣候処、為祝儀太刀一腰織筋一端送給候。祝著候。
猶田原近江入道可申候。恐々謹言。                   
七月六日 三非斎
横岳中務大輔殿

207:人間七七四年
15/05/06 21:14:11.48 vdKmMeqa.net
ふむ、ふむ、ふむ、恐々謹言。なるほど。

208:人間七七四年
15/05/08 20:28:47.51 bq0Upd29.net
上は納富から島津の家老衆にご機嫌伺い出しての返信の様で、つまり龍造寺には島津と連携する意思があった
横岳は大友龍造寺の二重被官で横岳経由で大友方の情報は仕入れていた
というのが北肥戦史における龍造寺からみた耳川合戦

209:人間七七四年
15/05/09 15:58:26.17 xlJzVLXS.net
>>205
> 島原城の後背を突く強襲上陸

優勢な側がなぜそういう無理な策を実行したのだろうか?
(もっとも小牧長久手の秀吉もそうだったが)

210:人間七七四年
15/05/09 16:24:16.00 1IFJvNbu.net
深江城の後詰めだから迅速な対応が求められてるし
防柵張られてるから背後とれたらとったがいいでしょと思うよ

211:人間七七四年
15/05/10 09:19:46.26 X2SWz7yZ.net
持ち込んだ大砲の射程が足りてれば落せるつもりだったんでしょ

212:人間七七四年
15/05/10 21:04:07.17 X2SWz7yZ.net
今思いついたんだけど、フロイスの「肥前の国主はカエサルに似たり」というのは
もしかしてチェーザレ・ボルシアの事だったりしないかな
ポルトガル語で書くとどっちもCesarだし、ユリウス・カエサルより余程性格も出自も近いものがあるかと

213:人間七七四年
15/05/10 21:05:28.95 3rdvNw+m.net
なるほどやな?

214:人間七七四年
15/05/10 21:05:53.06 X2SWz7yZ.net
訂正
×ボルシア
○ボルジア

215:人間七七四年
15/05/10 22:48:50.55 m16k3RuR.net
別に肥前の国主はカエサルに似たりってのも人柄がどうこうの話でもないんでしょ
果断即決の用兵でしょ

216:人間七七四年
15/05/10 23:34:14.28 X2SWz7yZ.net
幼い頃シントラの宮殿に居たフロイスならチェーザレと親交のあった人物と接触する機会もあっただろうし
想起のしやすさという点でカエサルよりチェーザレの方が上回るのではないかと思って
チェーザレ自身がカエサルを意識し努めて果断であろうとした人だったし
あるいはその後の横死も含めて上の二人に掛けたダブル・ミーニングだったり

217:人間七七四年
15/05/11 06:05:59.58 9yEUVtvr.net
チェーザレの名の由来はカエサルだし
彼を指すならフルネームもしくはヴァレンティーノ公って表記にするだろうとは思うけど
言われてみたら経歴似てるし時代も近いね
なんか面白い

218:人間七七四年
15/05/13 06:42:45.70 CAYdeNQG.net
沖田畷の龍造寺は鍋島の術中にはまってしまったな

219:人間七七四年
15/05/13 07:00:43.31 NnbYFanW.net
また馬鹿の一つ覚えの鍋島陰謀論か

220:人間七七四年
15/05/13 09:15:49.15 uPCWuMYR.net
龍造寺は強そうだけど鍋島って名字は弱そう

221:人間七七四年
15/05/13 09:51:48.04 XKlLaJtC.net
>>220
中央政権から警戒されにくいので好都合。

222:人間七七四年
15/05/13 21:00:58.11 1JJ17iXW.net
勝ち残ったのが神代大和守武辺勝利だったら滅茶苦茶警戒されたな

223:人間七七四年
15/05/20 23:05:10.01 YSF2n977.net
神代家って鍋島に乗っ取られた上に上陸拠点みたいな扱いになったんだっけか

224:人間七七四年
15/05/21 00:14:35.48 0I8cqVSA.net
神代違いだ!

225:人間七七四年
15/05/21 21:39:38.90 sFHLsnZc.net
Kamiyo許したまえ

226:人間七七四年
15/05/22 08:32:04.71 73OrAyse.net
対馬宗家の家老になった佐野右京(直茂の孫で忠茂の子)
家種の長男茂美が名乗った佐野右京
これは家種の霊を弔う為に佐野茂美の跡を忠茂の子が引き継いで宗氏に家老待遇で迎えられたという事でいいのだろうか

227:人間七七四年
15/05/22 09:15:51.73 mviOnZRo.net
対馬宗家は肥前に飛び地を持っていなかったっけ?
飛び地領を統治するのに好都合だったとか?

228:人間七七四年
15/05/22 18:15:19.16 73OrAyse.net
佐野家が対馬と本土側の連絡員的な役割をしていてもおかしくはないし
宗氏からそういう事を期待されていたとは思うんだけど、気になったのは対馬にある龍造寺姓の由来の事
この佐野右京系の縁者が明治になって龍造寺に復姓したのかなと

229:人間七七四年
15/05/24 21:03:01.59 Ro4RDsAQ.net
>>226
文章が理解できない

230:人間七七四年
15/05/27 12:07:57.74 LUTunOPl.net
まことが、工業高校中退で、学歴コンプレックスだからに
ちがいない。
もっとも、この男は、立教大と自称している。

231:人間七七四年
15/05/28 08:43:31.56 vdjpabol.net
>>230
誤爆なの?

232:人間七七四年
15/06/05 22:02:16.19 EeqmXST3.net
龍造寺胤信公の戒名ってわかりませんかネ?
それと、龍造寺胤和公の戒名、命日とか?

233:人間七七四年
15/06/06 06:49:29.70 5GSm/bsz.net
上は法雲院泰厳宗龍

234:人間七七四年
15/06/18 20:57:55.81 V4NFm6Lp.net
後藤貴明の最大版図てどのくらい?
武雄・嬉野・塩田・有田・北方・大町・東彼杵・川棚辺り?

235:人間七七四年
15/06/18 22:02:14.55 OHUy9i9E.net
有田はどうなんだろうな
山内は間違いなく後藤氏の領地だけど

236:人間七七四年
15/06/19 20:14:37.04 BZXLDD0x.net
>>232
>龍造寺胤和公の戒名、命日とか?
随分マイナーな武将を知りたいのですね
戒名:法雲道供 命日:永正17(1520)年8月
父家和(戒名:麟応)は享禄元(1528)年3月の卒去だから息子胤和が早世した事になる

237:人間七七四年
15/06/26 19:27:25.40 SPdQrzub.net
後藤の勢力は山間領主の横の連携あってのものだから
領域支配とはちょっと違うんじゃないかと思う

238:人間七七四年
15/07/08 17:09:04.58 Ai9kclLb.net
後藤貴明は大村純忠へ執拗に攻撃を繰り返した、というのも怨みからの物というより
有馬の勢力減衰を見た大村の一族衆が
貴明を旗頭に前大村氏復古運動みたいな事をやろうとしたのが原因じゃないか

239:人間七七四年
15/07/11 19:08:03.97 kRTnaGFo.net
後藤貴明の勢力拡大は有馬義貞―大村純忠―相神浦親―波多親のラインが丹坂峠の敗戦で窮地に立たされたのと表裏一体
針尾なんかも大村から離反してるが、川棚東彼杵が大村家から離れたとなると大村家に残った生産力のある土地が大村平野に限定される
波佐見がどうなっていたのかは判然としないがこちらも大村の勢力が排除されて後藤と平戸が折衷したような状態か
西彼杵と大村との連絡は西郷・深堀兄弟が分断
東彼杵と武雄との間に居る嬉野直通の去就も微妙だが概ね後藤支持派
北方・大町方面は龍造寺・後藤・平井の勢力が混在、塩田方面は杵島山の分水嶺が境界
有田も東部は後藤に降ったが相神浦親が平戸隆信に負けるまで有田領は概ね相神浦の影響下
伊万里氏なども後藤と連携している

240:人間七七四年
15/07/11 22:24:23.48 JDbgJ46N.net
たしか鶴田なんかは後藤に起請文出してたよね
伊万里や渋江なんかと結んだ同盟の影響が残ってた感じ?

241:人間七七四年
15/07/31 22:56:26.45 40ziSjqH.net
まず少弐資元の自刃と有馬晴信の屋形号獲得で有馬の北上圧力が強まった1539年以降に
形としては有馬方に収まりつつも、その圧力に対抗する為後藤純明が鶴田前と親密になりだしのではないかと
それでその関係を貴明も継承したところ、今度は龍造寺隆信の台頭で今度は後藤と鶴田の関係は軍事同盟的な側面が強くなりだした
渋江―後藤―伊万里―大村の同盟も拡張志向である東の千葉や南の有馬の勢力への対抗と共に
同盟が結成されたとされる時期(1483年)も考えると、少弐派と九州探題派の争いに対し共同で旗色を明らかにし
不用な混乱と両派閥の介入を防ぐ意味もあったのだろう
こちらの方の同盟は少弐政資の自刃(1497年)で一旦は少弐と渋川(大内)の抗争が終息したのを機に代替わりで自然消滅したものと自分は考えている

242:人間七七四年
15/08/30 20:54:35.31 Br4hjOk0.net
隆信も強い勢力に対しては基本的に土下座外交だよね

243:人間七七四年
15/08/31 05:56:02.48 BtN58ClR.net
>>242
意外だな。

244:人間七七四年
15/08/31 21:08:14.91 1bh+17+b.net
対大友に関しては面従腹背な気がする

245:人間七七四年
15/09/01 20:57:11.88 pgzDR0Rs.net
1570までは大友には頭が上がらなかったのにな
鍋島直茂様様だよ

246:人間七七四年
15/09/03 13:22:34.41 4Rh1/pYs.net
公儀権力も朝廷権威もバックにいない龍造寺は当時の社会秩序上どこから見ても不当な謀叛人だから
逆にどうやって大名権力を獲得していったのかが問題になる

247:人間七七四年
15/09/03 23:50:13.49 yAzkr6MV.net
まあ肥前の最強決定戦がVS有馬晴信で成り上がり同士だしってとこはあるのかなあ

248:人間七七四年
15/09/08 15:06:56.60 59wP1eTA.net
>>246
> 公儀権力も朝廷権威もバックにいない龍造寺

献金すれば官位は獲得できたと思うが。

249:人間七七四年
15/09/08 15:08:47.13 59wP1eTA.net
ちなみに龍造寺隆信が山城守を名乗ったのは
自称ではなく、朝廷による正式な任官ではなかったかな?

250:人間七七四年
15/09/08 20:44:07.22 rE81YU17.net
正式な官位じゃないかな確か
義隆に斡旋してもらったんじゃないっけ?

251:人間七七四年
15/09/09 02:17:17.29 aOM8GGdW.net
近くに百武病院ってあるけど繋がりあんのかな

252:人間七七四年
15/09/10 01:43:51.90 Cnk8NCXc.net
筑紫広門の最盛期って何万石くらいあったの?
筑後国:上妻郡 肥前国:基肄郡 養父郡の一部を領有とあるが筑前国内
にも数城持ってるし、宝満城も一時支配したみたいだが

253:人間七七四年
15/09/10 09:08:56.82 PzuNz1ce.net
筑前:早良郡数郷・那珂郡南部・御笠郡半数・夜須郡半数・下座郡数郷
筑後:御井郡北西部・上妻郡数郷
肥前:基肄郡大半・養父郡半数・三根郡数郷・神埼郡数郷
広門の代の瞬間的な最大勢力でこのぐらいか、一郡一円支配という所は無い
石高だと五万石前後だろう、安定支配域となるとその半分程度

254:人間七七四年
15/09/10 18:59:41.05 Cnk8NCXc.net
>>253
ありがとう、 詳しいな。
博多を攻めた時、2千人は動員してたみたいなんでその位か
筑後:上妻郡 安堵って秀吉の差配は、そこまでひどいもんでもないのか

255:人間七七四年
15/09/11 20:47:42.40 n+Ll7c3P.net
今山合戦後、隆信の追撃から逃れる為に高木胤秀兄弟が臼杵氏の仲介で筑紫広門の所に身を寄せたものの
広門が高木胤秀兄弟を騙し討ちして龍造寺が兵を進める前に首級を隆信へ送った
という話があるわけだけど、当時(元亀元年)の広門は14、5歳
その後も続く節操のない行動から納得出来る気もするがこれは本当に広門本人が介在していたのか
それに臼杵が間に入って匿っていた亡命者を殺して龍造寺と和を請う事に大友は怒らなかったのか
元とはいえ義理の父と叔父のあまりな最後に鍋島信昌は思う所がなかったのか

256:人間七七四年
15/09/22 20:03:36.10 YHXuG2AE.net
>元とはいえ義理の父と叔父のあまりな最後に鍋島信昌は思う所がなかったのか
鍋島なんか何とも思っていないんだろ
嫁が再婚した相手の家も攻め滅ぼしているしな

257:人間七七四年
15/09/24 01:07:05.90 Ibflsg4Q.net
>>255>>256
これマジ?
娘の伊勢龍はよくグレなかったな…

258:人間七七四年
15/09/24 20:15:40.12 5cUAk8wF.net
高木胤秀兄弟が朝日山で殺されたのも慶円の再婚先の筑後鐘ヶ江氏が龍造寺に攻められたのも
おそらく筑後川の水運利権を隆信が掌握しようとしたのが原因
龍造寺一門衆の名簿に高木氏の縁者として筑紫信門の名があるのは、筑紫と高木の騒動の時に
隆信が高木の方に肩入れする形で信門を一門並みとして遇したのだと思う
それで朝日山の南、千栗周辺の少弐家老(馬場、横岳、あとは筑紫も)が管理していた土地に大して
信門へ所領を与える形で自分の影響力を捻じ込んだ
鐘ヶ江氏は当時の筑後川内にあった島の領主で、天正三年に龍造寺が放逐した安武氏の同族
同氏が龍造寺に攻められた時期がハッキリしないが安武氏放逐よりは後の話か
上流から徐々に降って筑後川対岸、中継地を制圧し船渡しの機能を奪ったと

259:人間七七四年
15/09/25 00:06:49.23 yh/J+Xhw.net
>>信門? 狭門の事?

260:人間七七四年
15/09/29 20:32:40.07 2qPJKl4Q.net
両筑方面に何か経済的な欲があったとしても
天正初頭期の龍造寺の軍事的な戦略目標が肥前統一にある事は自明なので
両筑への限定的な攻撃は正面である西肥前方面への戦力集中を支える為のものでしょう

261:人間七七四年
15/10/06 11:43:38.12 V4JzvhS8.net
しかしよく龍造寺→鍋島の簒奪なんて可能だったよな
隆信実母で直茂継母の慶ァ尼や他の龍造寺一族も大勢いたのに何をやってたんだ

262:人間七七四年
15/10/06 23:19:20.98 DCEhcOYG.net
昔は人治の時代だし
柱がいないとまとまれないご時世だからな

263:人間七七四年
15/10/07 19:45:45.53 42ZqbRkQ.net
>>261
> しかしよく龍造寺→鍋島の簒奪なんて可能だったよな

乱世だったからな。
最初は鍋島を龍造寺勢力圏の長にしようとしたのではなく、
軍事内政を指揮指導してほしいということだったのだろうな。

264:人間七七四年
15/10/07 19:48:18.81 42ZqbRkQ.net
隆信の死後、豊臣秀吉により、龍造寺氏領の支配を委任され実権を握り、
(ウィキペディア)

最初は「雇われ社長」みたいな形だったが、
のちに「オーナー社長」になったということだろうな。

265:人間七七四年
15/10/07 20:57:20.72 Yn59PytI.net
・村中家が以前に当主を追放して本家嫡家を変えた前例があった事
・家兼が上記の騒動の後に執政として龍造寺全体の指揮を任されていた時期があった事
・家兼の興した水ヶ江家の家督継承が変則的であった事
・その水ヶ江直系の隆信が村中家の家督と水ヶ江の家督を統合し継承した事
・水ヶ江家の家督の変遷からみて長信と家晴には水ヶ江家相続の芽がある事
・隆信の戦死で村中家の継承を前例に倣い政家系以外へ移す動きがあった事
こう色々考えられる要因はあるけど、形の上では村中家を鍋島勝茂が相続
水ヶ江家は龍造寺家久(多久安順)が相続という事に
伯庵騒動の時に安順が龍造寺の正統というなら自分だと幕府に証言したのにも経緯がある

266:人間七七四年
15/10/07 21:00:32.41 42ZqbRkQ.net
中央政権が出来上がってしまうと、
田舎の武家としてはどうしようもないもんね。

267:人間七七四年
15/10/08 09:51:16.21 vrntJx0+.net
龍造寺高房が自決せずにあのまま生きながらえていたらどうなった
名目上は高房の子孫が藩主のままだったか

268:人間七七四年
15/10/08 17:27:46.67 DN39ge3A.net
>>267
決定権は徳川幕府にある。
幕府が「こーしろ」と言えば、大名は逆らえない。

269:人間七七四年
15/10/08 20:15:12.09 eVkjQFgy.net
政家高房が存命中は佐賀藩龍造寺家ではあったのよ
幕府は大坂時代からの慣例を追認しているだけであって
直茂勝茂親子はあくまで政権を一時預かっている執政
龍造寺宗家を宮さま、鍋島が幕府将軍、龍造寺分家が大名のミニ国家と思って貰えれば早い

270:人間七七四年
15/10/08 21:47:21.27 vrntJx0+.net
こんなことになるんだったら立花宗茂みたいに鍋島直茂を豊臣直臣にして龍造寺家から分離させた方がよかったな

271:人間七七四年
15/10/08 22:23:54.46 /FPZTiW8.net
直茂もその気満々だったけど、時節とタイミングが許さなかった感じよね

272:人間七七四年
15/10/09 10:23:07.28 BdqAvleI.net
高房が無理心中はかった時ちょうど大坂と江戸の関係が急速に悪化してて
大坂から江戸ヘと在府を転々としてきた高房が時勢をみて自身の境遇を悲観化したのも無理がない
帰国したがっていた高房を頑なに江戸へ押し留めていた国許も政治的には仕方ないだろうけど情が薄いと思う
ただ孫娘を殺されて直茂の方がキレたのも分かる

273:人間七七四年
15/10/09 10:48:32.07 BdqAvleI.net
一 隆信戦死後の各情勢(九州征伐、国一揆、関東征伐、朝鮮出兵、関ヶ原)の時に政家が軍事的リーダーシップを発揮して挙国一致体制を確立する
二 秀吉からの信任を政家が得る
三 一の重要な場面において隆信の遺言通りに直茂ともよく相談して最終的な決定は政家が下す
四 高房と毛利輝元娘との縁談を成功させる、高房の官位を早い段階で四位まで上げる
五 高房の佐賀への帰国を公儀に認めさせる
六 直茂の介在しない独自の財源を高房が確保しておく
七 天下普請などの公役は鍋島などに押し付けず龍造寺が正しくこなす
八 家中仲良く面当てなどしない
高房が正しく実権を握る為に直茂お恨み状の内容から逆にいえる事

274:人間七七四年
15/10/09 12:45:14.06 iJogn7Q0.net
政家の弟たちや叔父たちによる集団指導体制で鍋島を押さえ込めなかったのか

275:人間七七四年
15/10/09 22:02:47.52 RjSAt/L9.net
その人たちで直茂を担いだ形でもあるしな

276:人間七七四年
15/10/10 16:19:09.85 epKtnLa7.net
内紛していては元も子もないし、分知で家勢が減衰してしまうような事も避けたいという思惑の結果が鍋島体制でしょう
抑え込むというなら大村や松浦の独立を抑え込むべき

277:人間七七四年
15/10/10 19:28:12.38 h+mGLGzC.net
しかし龍造寺は少弐の家臣
少弐庶流の鍋島は龍造寺の家臣って何か違和感ある
なんで鍋島は少弐じゃなくて龍造寺に仕えたんだ

278:人間七七四年
15/10/10 22:46:49.84 N9TcoG29.net
一概に少弐家家臣というわけでもないかなたぶん

279:人間七七四年
15/10/11 01:50:09.94 Y+3KkuZD.net
少弐家家老:横岳 馬場 宗 筑紫 竜造寺
少弐さん状況によっては勢力拡大できたのでは?

280:人間七七四年
15/10/11 07:21:36.14 9Du/OlJ5.net
逆に勢力衰亡してったから、宗や龍造寺に助けられてるんだと思うよ

281:人間七七四年
15/10/11 16:17:12.43 +XOSfdUA.net
龍造寺史観による龍造寺の所属変遷 隆信の肥前追放まで
15世紀初頭の龍造寺の上司は今川、その同盟者に千葉、その上に探題渋川がいて少弐・菊池同盟と敵対
この頃はおおむね探題派が劣勢
15世紀中頃になると千葉の勢力浸食で今川が応仁元年に滅亡し龍造寺は千葉の被官化、千葉が探題派(東千葉)と少弐派(西千葉)に分裂すると龍造寺は少弐派に回る
龍造寺が少弐派になった切っ掛けは少弐が嘉吉の乱後の騒動で肥前へ拠点を移すことになった時、与賀館を提供したこと
15世紀末頃の龍造寺は少弐と千葉に対して二重被官、千葉が長い分裂で衰退すると龍造寺と西千葉の関係が対等同盟に変化
明応六年に少弐が渋川方(中身ほぼ大内)により一旦滅亡するも渋川家自体は死に体、肥前西部の有馬が活性化
16世紀初頭に横岳の庇護化で復活するも存続が危うい少弐は大友と同盟しつつ大内に対抗、田手畷の戦い等で龍造寺の発言力が強まる
渋川が実態を無くして大内の直接介入が始まると、龍造寺が大内と直接交渉するようになる
天文年間に入り大内龍造寺の交渉で、大内少弐間の和議が成立するが、少弐はその所領を全て失いまた一旦滅亡
また少弐の崩壊と同時期に、渋川も大内に攻め滅ぼされる
天文九年に小田の庇護下で少弐が再興を果たすと龍造寺、千葉との三家同盟で大内や有馬に対抗しようとする……
と思われたが少弐が龍造寺の主だった者を誅殺、東西両千葉の実権も一時は手に入れたが龍造寺・西千葉の反抗を受けて敗走
龍造寺は大内の被官となり少弐と対立
16世紀中頃になると今度は大内が大寧寺の変で滅亡、大友が旧探題派を糾合して大友派を形成
龍造寺内は大内派と大友派で分裂し大内派が一掃され、大友の友邦少弐もまた復権

282:人間七七四年
15/10/14 14:50:53.19 /c/+QD0Y.net
少弐にとっては龍造寺粛清が集権大名として軍権を束ねる最後の機会であった
馬場頼周も結果が伴わずとも少弐の忠臣

283:人間七七四年
15/10/15 21:48:19.28 ds9cK0v0.net
少弐家は室町時代を通して肥前国守護に任命された事が無い
室町幕府が肥前守護職を設置した痕跡が今の所見つかっていない
この事実は重要

284:人間七七四年
15/10/16 13:45:22.38 ojB0sHZu.net
肥前守護職はだいたい九州探題とセットだったからね

285:人間七七四年
15/10/17 08:24:20.28 bABHVsXy.net
>>273
> 高房の官位を早い段階で四位まで上げる
> 高房の佐賀への帰国を公儀に認めさせる

この2つは朝廷と幕府の承認がいることだから、空証文になるおそれもあったのではないか?

286:人間七七四年
15/10/17 08:25:29.46 bABHVsXy.net
少弐家は当主の戦死率が高すぎ。
戦法に問題があったのではないか?

287:人間七七四年
15/10/17 08:32:10.58 bABHVsXy.net
>>277
> なんで鍋島は少弐じゃなくて龍造寺に仕えたんだ
そう言われればそうだな。

288:人間七七四年
15/10/17 12:37:34.21 s1CJ1wtO.net
腐っても少弐だよ
どこの馬の骨かわからんのを直臣にする訳がないわな

289:人間七七四年
15/10/17 12:45:48.80 ce5mErMu.net
どこの馬の骨って自分のところの分家筋だろ

290:人間七七四年
15/10/17 14:24:40.38 sv2Vu9yz.net
近世大名の鍋島家は横岳の流れから少弐の血も引いてはいるが
戦国期の地侍鍋島氏が少弐の分家だという記録は同時代には存在しない
ただ少弐家領としての佐嘉郡与賀荘(現在の与賀の他、本庄・新庄含む)に鍋島氏エリアが重複しているので
少弐宗家が与賀荘に本拠を据えていた時期には関係があったと思われる

291:人間七七四年
15/10/17 17:37:10.92 dPFUOVYS.net
> なんで鍋島は少弐じゃなくて龍造寺に仕えたんだ

尾張織田氏の一族で、なぜか甲斐武田の家来になっていて
のちに尾張に戻ってきて信長の家来になった人がいたと記憶している。

292:人間七七四年
15/10/17 17:38:10.97 dPFUOVYS.net
>>287
大名としての将来性が
龍造寺 >> 少弐
だったようにも思われる。

293:人間七七四年
15/10/17 21:19:52.61 s1CJ1wtO.net
勝茂が少弐の流れと口走ったものだから系図の模造に苦労したんだよな

294:人間七七四年
15/10/17 21:25:45.51 iI3DGz/l.net
鍋島経房が少弐教頼の落胤て話だろ

295:人間七七四年
15/10/17 21:48:15.68 jQXjKTb3.net
小さな武家だと実際にその土地で影響力を持つ在地領主の下について
その舵取りに従った方がいいもんなんじゃないの

296:人間七七四年
15/10/18 00:04:03.92 s3nC6T8D.net
少弐の庶流っていうのは嘘なのかよ
15世紀の話だぞ、この時代に捏造なんてできるのか

297:人間七七四年
15/10/18 06:08:53.50 iaT6PfEP.net
15世紀の話を捏造したのは17世紀になってからだよ〜ん
なんでかな〜 なんでだろ〜

298:人間七七四年
15/10/18 08:59:52.40 CydtFwbY.net
>>296
佐竹だって源氏じゃん
力さえあれば系図はどうにかなる

299:人間七七四年
15/10/18 09:57:36.26 uqyyHPKN.net
鍋島氏が少弐の末枝、少なくとも本姓藤原を名乗っていたのは
本庄神社に鍋島清房が納めた天文二年の戦勝祈願、鍋島信房・信安兄弟の永禄八年戦勝祈願で確認できる

300:人間七七四年
15/10/18 12:48:16.88 s3nC6T8D.net
>>298
佐竹は新羅三郎義光の子孫だろ
仮冒なんて話あるのか

301:人間七七四年
15/10/18 13:05:56.34 CydtFwbY.net
>>300
誰の子かはっきりしていない
血統書で親の名前がはっきりしないなんて有り得ないだろ
新田も足利も義国の子だとわかってるのに同時代の佐竹が分からないって有り得ない
佐竹氏が現代も権力を持ってるから誰も触れられないだけ

302:人間七七四年
15/10/18 14:31:03.58 s3nC6T8D.net
佐竹昌義が父義業と4歳差しかないのはおかしいって話か

303:人間七七四年
15/10/18 20:38:02.78 xvxgNSdg.net
鍋島清久は龍造寺家に仕える前は千葉興常の所にいた
千葉興常の食客から身を興した神代勝利と似た経歴だったのかも

304:人間七七四年
15/10/18 23:18:28.89 oepnksTo.net
絶滅のはずが…九州で“クマ”の目撃相次ぐ
URLリンク(www.news24.jp)

305:人間七七四年
15/10/19 22:02:30.62 MkJWPvk6.net
はいはい、また伯庵のせい

306:人間七七四年
15/10/21 16:14:02.01 o6Zqu8Fb.net
>>303
胤家が筑前へ逃亡したのは確か千葉興常のせいだったような

307:人間七七四年
15/10/22 17:28:57.29 FSR+69b+.net
>>303
>神代勝利

名前がかっこいい!
(が、房総半島武田家の武田信長さんには負ける)

308:人間七七四年
15/10/22 20:33:37.08 FRc0Tf33.net
え、佐竹が正当な源氏だからって徳川虚仮にしてた
とか小説家の作り出した嘘だったのか

309:人間七七四年
15/10/27 18:22:33.64 3t6mfoBR.net
武雄市図書館で武雄温泉の企画展やってたんだけど、勝茂の書状とかもあったよ
あと秀吉が出した塚崎温湯掟書とかも

310:人間七七四年
15/11/09 21:38:49.15 NpXv5gaz.net
センゴク最終章でついに沖田畷があったな
今後の展開のために一話で終了だったけど、龍造寺家の描き方がパーフェクトに近かったように思う

311:人間七七四年
15/11/15 05:49:13.38 CTgSbdJf.net
>>310
筑紫広門は出ないよな

312:人間七七四年
15/11/15 20:27:24.24 Gyj8hf42.net
漫画で見ちゃうとifを語りたくなっちゃうな
沖田畷に勝ち肥前を盤石にしたうえで肥後での優位を確立し160万石程の勢力圏で何ができるか

313:人間七七四年
15/11/17 22:11:27.47 9gomI6zn.net
筑後川水系と有明海沿岸地域を統合し分水界で完結した勢力を維持する

314:人間七七四年
15/11/21 21:01:03.71 nzqk5f5M.net
島津の本体は丸まるのこっておる上に
すぐに秀吉チャンが介入してくるで
まぁ史実より島津の影が薄くなる程度かね
秀吉家康が広大な筑紫平野を盤石にした勢力がそのままほっとくわけないし

315:人間七七四年
15/11/21 23:20:13.28 anBYKsJL.net
筑紫国は豊臣に
豊国は大友に
肥国は龍造寺に
日向国は島津に
これが一番穏当だったのではないか

316:人間七七四年
15/11/22 09:37:08.81 JgnQLVXo.net
下手に龍造寺が負けて均衡崩したせいで島津が止まれなくなって
結局は九州の大名全体的に損した感あるな、秀吉に美味しい所もっていかれて
大友が一次的に得した風でも難癖で潰されたし
義久も政家も隠居に追い込まれてるし、それでも隠然とした影響力持ってる辺り義久は流石なんだけど

317:人間七七四年
15/11/24 06:14:19.50 7GeK2OIv.net
五州ニ島之大守龍造寺山城守藤原隆信

318:人間七七四年
15/11/24 10:55:16.95 /Ln/OVA8.net
肥後の対島津に関しては龍造寺が御船の甲斐氏をどこまで守る気があったのかが争点かな
甲斐独力では戦力として厳しいなら宇城辺りに境界を定めて金峰山に龍造寺の城代入れる事になるか
交渉が決裂したら白川とか緑川挟んで決戦

319:人間七七四年
15/11/24 16:49:53.33 9SHRczGH.net
その情勢での決戦だと島津と龍造寺果たしてどっちが優勢になるんだろうね

320:人間七七四年
15/11/24 18:22:41.03 /Ln/OVA8.net
単純な兵数は龍造寺が優勢だろうが適地は島津が先に抑えてしまえるので防勢なら島津が有利
ただ隈本城の城氏がどう動くかで状況が変わると思う
城氏が龍造寺にさっさと降伏するなら島津も八代を動かず待ち構えたままでいいが
もし城氏が龍造寺に対して徹底抗戦だという情勢になった場合に島津が後詰を出すかどうか
隈本城での防衛戦という事になると北西から龍造寺、北東から隈部、東から阿蘇、南東から甲斐と包囲される事になり
肥後国人一揆で佐々成政のおかれた状況にかなり近く、そしてより酷い状況に城氏はおかれる
ここで島津が後詰を出す場合は隈本城との連絡を絶たれない為に甲斐へ抑えを出しつつ
隈本城にも戦力を入れなければいけない、しかしこれはまた各個撃破の的にされる危険性がある
島津はどこで迎え撃つかをすぐに決めて、どれだけ早く陣地を固められるか
龍造寺は玉名に駐屯している別動隊が先行して御船への援軍や他友軍との連携確認を迅速に整えられるか
それに先立って天草や宇土の辺りで水上戦もあるだろうけど


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