龍造寺氏と、たまには鍋島氏を語るスレ2 at SENGOKU
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1:人間七七四年
14/06/16 03:38:12.41 1laWYHLJ.net
佐賀の大名、龍造寺氏について語りましょう。
落ちてたので立てた

前スレ
龍造寺氏と、たまには鍋島氏を語るスレ
スレリンク(sengoku板)

2:人間七七四年
14/06/16 15:28:50.49 1x2Nyc1+.net
>>1

3:人間七七四年
14/06/17 07:46:06.28 ifbluJLW.net
島津の工作員

     ↓

4:人間七七四年
14/06/17 21:41:37.39 J7EwxfPK.net
そういや金敷峠で伊集院某ってのがいたって言うのは
島津は神代を援護してたの?

5:人間七七四年
14/06/17 22:08:27.25 HV/RBISI.net
山伏の阿含坊のことかな

6:人間七七四年
14/06/19 09:25:17.44 uaX1yEK6.net
当時の脊振山は大規模な修験道場だったので方々から人が来てた
山岳信仰繋がりで脊振山は霧島とも関係が深いので阿含坊もその伝の人だと推察

7:人間七七四年
14/06/19 16:23:42.10 u8m4c7Ry.net
坊主って狙撃主多いね
職業柄精神統一に長けていたのかね

8:人間七七四年
14/06/19 23:59:31.17 ZotNrgba.net
>>6
そういうことかなるほどdクス

9:人間七七四年
14/06/24 08:35:25.90 XNJFF0hI.net
>>4

> 島津は神代を援護してたの?

どうなんだろうね?

10:人間七七四年
14/06/25 09:05:34.00 kWJKpu0k.net
年代を考えれば分かるだろ
陣借りしただけやん

11:人間七七四年
14/06/26 19:59:01.37 ReuIq+1j.net
少弐を小田と龍造寺で補佐しよう→少弐と小田が龍造寺を排除
少弐と龍造寺と千葉で有馬に備えよう→少弐が有馬と手を結んで龍造寺と千葉を攻撃

なぜ少弐は龍造寺を抱き込もうとしてことごとく失敗したのか

12:人間七七四年
14/06/26 20:48:16.42 IT0ncNgv.net
家兼が大内と通じた為に資元が自害したという風聞を冬尚が信じたから

13:人間七七四年
14/06/27 18:53:09.56 kMG23MfC.net
四天王なのに五人いるの家ですよね

14:人間七七四年
14/06/27 18:59:38.60 TNX0aypf.net
>>13

よくぞ気づいた

15:人間七七四年
14/06/28 00:30:14.43 eGS4yHof.net
だから龍造寺四天王は四人しかいないとあれほど

16:人間七七四年
14/06/28 05:59:56.24 20IMA5Zl.net
>>13

ひとりは控え(サブのメンバー)

17:人間七七四年
14/06/28 11:11:05.31 1NWYWMg9.net
>>11
龍造寺と千葉の勢力を乗っ取って自前の戦力が欲しかったんじゃないの
早い話が少弐冬尚も強権的な戦国大名化を志向していたと考えれば行動にも一貫性が見えてくる
少弐宗家ともあろう者が政資の時代から半世紀以上も根無し草で流れ公方な宿借りプー太郎状態じゃいかんと考えるのも自然

18:人間七七四年
14/06/28 20:43:43.48 tPM/p8ON.net
婚姻政策もせずに謀略でって直家もびっくりなバカだな

19:人間七七四年
14/06/29 07:29:05.57 FAChB5Tr.net
東千葉当主千葉胤頼は冬尚の実弟
西千葉当主千葉胤連は少弍家重臣横岳氏の親族

千葉に関しては数世代前から仕込みは済んでるけど
龍造寺は基本的に他所の血をあまり入れないから閨閥に取り込む事が出来なかった
だから状況証拠で難癖つけてから強行手段に出たのだと思う

ただ冬尚とその周辺の計画が色々杜撰だったのは間違いないよ
千葉と龍造寺の逆襲を想定していないとしか考えられないような行動とってるから

20:人間七七四年
14/06/29 08:21:32.83 wS/+YkBm.net
少弐家は戦闘では強いが、政略や外交は二流。

21:人間七七四年
14/06/29 08:22:48.39 wS/+YkBm.net
>>19

> 龍造寺は基本的に他所の血をあまり入れないから

婚姻政策を知らなかったわけではないだろうから、
何らかの理由があったんだろうなあ。

22:人間七七四年
14/06/29 09:58:51.58 dpuSR0Wa.net
近親相姦が大好きだったんだろう

23:人間七七四年
14/06/29 11:25:51.56 epJ5yEYw.net
領地財産分与を防ぐ為の近親婚なんてそう珍しい事でもないでしょ
これも婚姻政略の手法の一つ

24:人間七七四年
14/06/30 06:10:38.39 1dRIc3Jd.net
>>19
冬尚は舎弟の胤頼を反少弐派だった喜胤(東千葉)へ養子。一方家兼は孫の彦法師丸(直茂)を胤連(西千葉)の養子としてる。
いわゆる千葉氏の弱体化に付け込んだ少弐と龍造寺の政略戦争だね。

25:人間七七四年
14/07/05 10:37:26.40 aQcAgbCp.net
龍造寺家兼の妻は片田江家定の娘

嫡男家純の妻は蒲原家秀の娘
娘たちの婚姻先
本告増景 神崎本告牟田城主
於保胤宗 佐嘉於保城主
空閑光家 佐嘉淵川城主
徳島盛秀 小城蘆刈陣ノ森城主
龍造寺盛家 東高木城主高木満兼ノ子 龍造寺胤家ノ養子
鹿江兼明 川副鹿江城主

領地近郊から固めていく方法

26:人間七七四年
14/07/05 13:44:45.32 pBT3GGEc.net
鹿江って龍造寺再興に尽力してたのに神代と姻戚関係になって隆信と敵対
最後は討死か

27:人間七七四年
14/07/05 15:47:08.49 xngwrDdJ.net
鹿江は元々千葉家の重臣で動向を辿るとどうも東千葉よりの立場っぽいんだよね
同じく千葉重臣で川副郷司の石井や南里、後は

28:人間七七四年
14/07/05 15:58:38.79 xngwrDdJ.net
途中で誤送信

後は神埼郡南端の仁戸田氏辺りは同族的一体感がある身の振り方をしてる
そこで鹿江だけ別行動なのはよくあるどっちが勝っても生き残る為の処世術だったと思う

29:人間七七四年
14/07/05 22:45:35.97 aQcAgbCp.net
隆信に攻められた兼明は長男久明と二男元明と共に討死してるが、
三男重明だけは隆信へ加勢して後々まで活躍してるね。
可哀そうなのは長良へ嫁いだ娘だな。二人の子供は病死してるし。

30:sage
14/07/08 21:15:09.37 mtEJFUyD.net
仁戸田って千葉の庶流だね
直茂が千葉から鍋島へ復帰する時、千葉から同行した12名の家来の中に
仁戸田藤次兵衛って名がみえる

31:人間七七四年
14/07/15 20:46:03.17 XarmaHy3.net
龍造寺は日紋で千葉が月紋だから並べたら日月紋になる
龍造寺千葉で一蓮托生な状況になったのは運命的な物を感じる

32:人間七七四年
14/07/16 13:51:33.75 ZEmKNnDj.net
>>21
婚姻じゃないが養子縁組が結果的に失敗だった例が肥前戦国に多いね

33:人間七七四年
14/07/16 14:17:29.65 tVp+TfXg.net
後藤家のことかな?

34:人間七七四年
14/07/16 14:37:35.50 NTn+mQo3.net
後藤さんちは三代続けて養子で大変でなかなかおもしろいよね

35:人間七七四年
14/07/16 19:34:51.09 B6O4rc10.net
渋江公勢の長男・後藤純明
大村純前の庶子・後藤貴明
松浦隆信の次男・後藤惟明
龍造寺隆信の三男・後藤家信

なので実は三代続けてではなく四代続けて

36:人間七七四年
14/07/16 19:54:03.55 HGE6awWG.net
家信は惟明の養子じゃないから四人続けてではあるが四代ではないだろ

37:人間七七四年
14/07/16 22:31:23.91 8OLI31/Q.net
>>35
貴明が19代で家信が20代な
少しは調べようや、低脳くん

38:人間七七四年
14/07/16 23:44:03.09 NTn+mQo3.net
惟明くんは養父倒すのに失敗して実家に戻ってるね

39:人間七七四年
14/07/17 04:01:51.18 FENEvRSS.net
後藤の養子と言えば龍造寺晴明はなんで龍造寺に養子に入れたんだろ
実子がいると支配がうまくいかないからかな

40:人間七七四年
14/07/17 07:06:15.56 LPN/57M2.net
元々人質やん、隆信が信長みたいに悪逆非道の人なら殺してるよね
北畠みたいにさ

41:人間七七四年
14/07/17 07:16:50.11 DKiDVp7A.net
後藤父子の喧嘩は、当初互いの家臣同士の喧嘩が原因だが平井との絶縁も関係してるな
惟明の妻は平井経治の娘だしね
敗れた惟明は実家へ戻れず流浪してたのを、隆信が拾い龍造寺姓と知行50町を与えている

晴明は家信との養子交換だが実質人質だろね
のち長信の娘と婚姻して久保田に130町の知行を貰ってる

42:人間七七四年
14/07/17 20:51:15.31 1ESZVmXZ.net
惟明は実父の松浦隆信に唆された説も
貴明がよりにもよって龍造寺と和睦してしまった結果を見ると無理筋というか
もし本当なら道化もいいところ

43:人間七七四年
14/07/17 23:57:59.40 /G9FIyzz.net
なんで平戸松浦は二字名にしたんだよ…隆信被ったやん…

隆って先にいたの?

44:人間七七四年
14/07/18 06:17:35.24 NkCfzhCS.net
大内政弘ー平戸弘定
大内義興ー平戸興信
大内義隆ー平戸隆信
大友義鎮ー平戸鎮信

偏諱も信の字も平戸の方が先
龍造寺隆信も胤信から改称して本家継承する時に通字を入れて隆家とでもしておけばよかった
だがそうなると名乗りが山城守藤原隆家になり今度は先祖という事にしてある大宰権師藤原隆家と被る

45:人間七七四年
14/07/18 19:38:08.34 Td+tbnjD.net
家信は後藤貴明の娘婿だから後藤家の血縁を保ったが
家種を養子に迎えた江上家は残念ながら途絶えてしまったね
確か家種の妻は大村純忠の娘だったと思う

46:人間七七四年
14/07/19 20:37:45.40 ZCVVvFsa.net
お福さんだったな確か
隆信によくしてもらってて戦死を聞いたとき悲しんだと聞く

47:人間七七四年
14/07/20 15:43:29.79 w8DtMny2.net
>>44
一字名っていう伝統をなんで捨てたんだろうな

>>45
当時の武士に血が絶えるってたいした問題じゃないのでは

48:人間七七四年
14/07/20 20:14:44.51 iSm8YSk6.net
武士家業の存続が血統の維持より優先される事が多かっただけで
血統が絶えるというのは世襲にとっての大前提が崩れる一大事でしょ

49:人間七七四年
14/07/20 21:42:14.56 pMwRLgA9.net
養子縁組なんかでも、とにかく家名を残すことも大事ではあったんじゃない?

50:人間七七四年
14/07/21 00:16:42.18 OMgSrL1p.net
大名なら血統、家臣なら家名

51:人間七七四年
14/07/21 07:05:15.46 /JACjcHG.net
家種の養父武種の妻は龍造寺胤久の娘なんだけど実子はいなかったんだろか
澄種、晴種は庶子なのかな

52:人間七七四年
14/07/22 20:03:00.24 /RfcpC6r.net
家種の家来と云えば執行種兼をはじめ豪者が揃ってたね

53:人間七七四年
14/07/23 20:54:52.89 F/TyFsz0.net
隆信の資質を一番受け継いでいたのが家種だったね
嫡男を廃嫡して継がせるべきだったんだよな

54:人間七七四年
14/07/25 07:49:36.12 7a3xYl6y.net
嫡男は特別な存在だっただろね。
弟、また妾の子は年長であっても嫡男の家臣的存在だろ

55:人間七七四年
14/07/26 08:02:36.06 JIJ9dVjw.net
>>53
政家が早く死んでたら可能性があったかも。

執行家は嫡男直明が小田政光(当時隆信方)と長者林にて合戦した時、討死した為
弟の種兼が本家を相続してる。

56:人間七七四年
14/07/26 11:22:43.86 tvvB0gs8.net
龍造寺政家>江上家種>後藤家信
北肥戦史読んだ限りだと指揮系統の優先順位は厳格にこの並び

三人が一緒にいる時は政家の幕僚が指揮権を握り、政家隊が離れると家種幕僚に権限が移って家信隊を指揮下におく
家信幕僚が指揮権を得るのは家信が単独で出動して他国衆が家信隊の隷下に入る場合

それで政家の幕僚トップは鍋島信生、家種の所は執行種兼、家信には成松信吉がついている

57:人間七七四年
14/07/26 20:10:27.56 JIJ9dVjw.net
>家信には成松信吉がついている

成松信吉と云えば、成松信勝の庶子で、祖父は馬場の罠にはまり杵島志久峠で
討死した龍造寺胤栄の弟胤明だよね。

58:人間七七四年
14/07/26 21:46:18.70 /g6s9J/d.net
なかなかにマニアックだな

59:人間七七四年
14/07/26 22:23:23.31 sBi4l9Be.net
そういや以前にも成松は龍造寺の一族って話題出てたな

60:人間七七四年
14/07/27 07:28:38.63 MztOgzl5.net
信勝には庶腹の弟がいたと云うことは、信勝自身は胤明の正妻の子だったんだろね。
姉は龍造寺の武将西村信勢の妻。
沖田畷合戦で信勝と嫡男信実が討死した為、跡目は二男の信宗。
娘は隆信の重臣勝屋勝一軒の息子に嫁いでいるね。

61:人間七七四年
14/07/27 09:00:52.06 ZpBqJkuG.net
剛の者揃い

62:人間七七四年
14/07/27 19:31:08.95 jncMLtCY.net
龍造寺の大元である高木党は分流の菊池氏族系も含めるなら
間違いなく鎮西最大の氏族集団だが当の高木氏が藤原氏を仮冒していたので
実態の把握がきわめて困難

63:人間七七四年
14/07/29 22:09:29.19 1M0uKV3y.net
>娘は隆信の重臣勝屋勝一軒の息子に嫁いでいるね。

この勝屋夫妻は、勝茂の長女市姫(伝高院)が上杉家三代藩主定勝へ輿入れ時に
付添人として江戸へ同行
12年後市姫が亡くなった時、夫妻は上杉藩邸で追腹してる

64:人間七七四年
14/07/30 20:53:32.90 cAZfrumd.net
勝屋勝一軒や広橋一遊軒は浪人からの取り立て?
隆信が個人的に気に入って雇ったっぽい

65:人間七七四年
14/07/31 21:33:16.61 vZJCX8Zw.net
今話題の龍造寺隆信の子孫がお話したってやつ
家信の息子が福岡に逃亡して姓を変えて・・・ってのなんか信用できない

66:人間七七四年
14/08/01 19:50:23.92 LSe5tde9.net
佐賀新聞の記事読んで既視感あったけどあれだ
杉山茂丸の著作で似た話があった、龍造寺龍丸が云々というやつ

67:人間七七四年
14/08/02 06:44:20.85 yjUOelfF.net
>>64
勝屋勝一軒は元々大内義隆の家臣だったと云われているが、
大寧寺の変で肥前へ逃れて来たのかも

広橋一遊軒の本名は確か田中信了(のぶのり?)と云って譜代の武将だよね
領地名をとって広橋と改称したのかな 古橋とも云うらしいが

68:人間七七四年
14/08/04 07:38:22.43 oM/ixSKu.net
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf
これは別件の調査。鍋島直茂(息子かも、記憶曖昧)のもとに母親に仕える女房から嘆願書。
「お母上のワガママにはもう耐えきれません。お暇をいただきたく存じます」
返事「ご苦労をおかけします。ただ、母もかなりの年です。あともう少しのことですから、我慢してください」
本音ぶっちゃけ。

69:人間七七四年
14/08/04 20:59:05.38 0NUBrE8T.net
鍋島の女って、みんな性格が悪いんじゃない
美智子さんが結婚された時、当時皇居の女中をしてた鍋島の女が
嫌味ぽくしてた事は有名だよね。

70:人間七七四年
14/08/05 10:27:56.46 Feziam8h.net
>>67
広橋一遊軒は台所の下人でしょ、葉隠ではそういう紹介で出てくる
室町後期の下人だから累代の家臣といえなくもないけど
武家と言う程の身分の奉公人でもない

71:人間七七四年
14/08/05 17:30:23.37 4bLQUsWg.net
百武とかネーミングセンスには信長のそれに通じるものがあると思う

72:人間七七四年
14/08/05 23:22:22.59 2EICB6Qy.net
狂歌好きだったとか聞くな

73:人間七七四年
14/08/06 18:12:27.90 /W7Z5p5g.net
神代勝利の本姓名乗りは武辺勝利(もののべのかつとし)なんだけど
これもその場の勢いでやっちまった感がある
というか勝利は親父浪人で本人剣術家から城主に成り上がったクレイジーな人物なのに今一この部分認知されていない

74:人間七七四年
14/08/07 01:18:28.87 9YsVs6Du.net
百武姓は軒並み百式と呼ばれてたなあ

75:人間七七四年
14/08/07 03:05:36.84 vJ7junvE.net
百武とか十右衛門とか賞賛してるあたり
仁王門とか四天王とか両弾二島のネーミングも隆信だったりするんだろうか

76:人間七七四年
14/08/07 16:01:35.26 CR2Lvfxi.net
百武の氏姓を作ったり新九郎さんを十右衛門さんに昇格?させたりしたのは隆信の言語感覚だろうけど
両弾二島は藤津郡攻略後の城主の配置状況から隆信の側近辺りからそういう言い回しが出たんだと思う
仁王や四天王は後世視点からの俗称

77:人間七七四年
14/08/10 09:49:04.47 NEh3RBVR.net
沖田畷で「我こそは龍造寺山城守隆信なり!!」と、
名乗りを上げ討死した四天王の一人円城寺信胤。

円城寺氏は千葉氏の庶流で平姓と云われてるが、
信胤の子孫は藤原(鎌足)姓を名乗ってるね。

78:人間七七四年
14/08/11 18:02:06.24 mk17uPpF.net
小城あたりに多いね

79:人間七七四年
14/08/13 11:51:05.66 uKxBnxgh.net
確か江里口信常も小城の出

80:人間七七四年
14/08/13 23:57:42.60 l5UtoKE9.net
この前Googleマップ見てたらそのまんま江里口って地名があったな
山の方

81:人間七七四年
14/08/14 11:01:59.61 w70PLHoC.net
それなりに著名人出したところで言ったら江藤氏や原口氏も円城寺や江里口と同様にもとは小城の千葉一族よ

82:人間七七四年
14/08/14 18:32:45.13 H5jNFzoS.net
千葉氏は松尾にあるお寺だったっけな

83:人間七七四年
14/08/15 20:34:51.92 +ePlG9Vx.net
千葉氏の名だたる武将は殆ど隆信の直参になったようだね

84:人間七七四年
14/08/17 19:01:03.76 VPfF5sh4.net
千葉党が徐々に隆信の直卒へ組み込まれていく過程は龍造寺の戦国大名化を考える上で外せない点
手明槍も制度が整ったのは勝茂の頃だが、隆信と直接主従関係を持った無役の若者がその原型だろう

85:人間七七四年
14/08/18 10:57:52.57 AEc6Vxht.net
来週の軍師官兵衛で龍造寺政家が登場
大河で龍造寺家が取り扱われるのは初めてか?

86:人間七七四年
14/08/18 19:30:46.87 KLnFbg2Y.net
たぶん島津から龍造寺を離反させたのは官兵衛の手柄という話になるかな
黒田家の史料に龍造寺と一緒に原田を秀吉に取り次いだ事が載ってるから

エピソード拾うにしても碁打った後にすっ転んで同情されたダメ当主ぶり発揮するのしか浮かばない

87:人間七七四年
14/08/19 14:21:31.96 NeiLzLWu.net
その出典はどこだよw
政家が肥満だったというソースなんてどこにもねえぞ

88:人間七七四年
14/08/21 11:47:01.21 aqMLrz8E.net
政家の逸話って何かあるの?
出典が示せない捏造話以外で

89:人間七七四年
14/08/21 16:27:23.25 ZKvF8cPI.net
龍造寺鎮賢肥後国へ出馬の事

天正八年3月下旬、龍造寺鎮賢、柳川の城を囲まれながら肥後国の随わざる輩を征伐すべしと諸軍と談合さる。
然る間、鍋島信生衆議を加えて参陣の期限は4月9日たるべしと決定あり。
此時、信生へ田尻鑑種より音通しけるに、信生の状にいわく、

如仰近日無音心外候。幾日不通候共御同前所仰候。仍鎧一領被懸御意候。御丁寧之至畏入候。
然者参陣儀、従来月九[日]可為出張候。此節別而御馳走可目出度之由被申候。
随而下小河之儀度々預御口能候條、至鎮賢申聞候為處、分別被申候。聢可有御知行之由候。尤珍重猶重々可得御意候。恐惶謹言。
追而鯛二掛被懸御意候。種々御懇志候。將又北之関竹之江あたり勢道可被作之肝要に候。

二月廿七日 鍋飛守 信昌 判
鑑種 方 御返給へ

鍋島信昌實名、此の時迄は信昌なり、天正十年に、鎮賢、政家と号せられし故、昌の字を替えて信生と改む。

90:人間七七四年
14/08/21 21:47:25.77 fRZQCiPC.net
>>86
原田氏にとって反秀吉と云うより大友に対して積年の恨みがあったのだろう。
龍造寺氏が嘆願したのは、信種の嫁が隆信の養女(実鴨打胤泰娘)で
云わば龍造寺一門だからね。

>>89
天正九年に、鎮賢から久家と号した説もあるが、久の諱字は島津義久だろか。
それより政家の政の諱字は誰だろか。

91:人間七七四年
14/08/22 10:00:01.81 IsGgZAGn.net
のぶまさがまさいえとの兼ね合いで名を変えるというのは分かる

政家の改名は偏諱ではない事に意味があるんじゃないの
君主権の確立というか独立勢力である事を内外に示す意味での改名

92:人間七七四年
14/08/22 14:23:32.43 s4hpaZRh.net
黒田長政に決まってるじゃん

93:人間七七四年
14/08/22 15:45:42.72 uPjQOotZ.net
なんで

94:人間七七四年
14/08/22 20:24:32.39 EfZybF9G.net
大河で長政が兄貴分になるっていうエピが入るだろうな

95:人間七七四年
14/08/23 18:03:50.23 Eso5oghx.net
勝茂は長政のこと尊敬していたっぽいし長政もよく勝茂のことを世話していた
忠之が出現するまでは両藩良い関係だったのにね

96:人間七七四年
14/08/24 00:11:44.94 buRqrBo6.net
黒田忠之はエピソードだけでなく肖像画からして基地外っぽいもんな

97:人間七七四年
14/08/24 02:22:05.44 pTZWEofO.net
唐津藩の古川康はほんと佐賀藩に恨みがあるんだろうな

98:人間七七四年
14/08/24 20:52:25.12 WDOh7MMZ.net
おいおいネット監視されるぞ

99:人間七七四年
14/08/24 22:19:51.75 m2zMMADf.net
政家君の娘婿で小倉城主の彼に大河での出番はあるのか

100:人間七七四年
14/08/25 06:37:06.73 SF5fZ5gs.net
毛利とは関係ない毛利だな

101:人間七七四年
14/08/25 08:41:13.96 s+4GmUcL.net
今まで龍造寺と毛利勝永の接点がどこにあったのか分からなかったのだけれど
直茂が長崎代官をやっていた時期に勝永と一緒に仕事していた話を昨日の講演で聞いて得心がいきました

102:人間七七四年
14/08/26 21:07:26.56 Txe2T72m.net
>>95
長政を尊敬してたと云うより頭が上がらなかったのと違うの
取り潰しの危機を救ってくれた大恩人だし

103:人間七七四年
14/08/26 23:04:19.71 axqCvXur.net
二十歳前後の当時の勝茂が頼れたのは長政ぐらいしかいなかったし
勝茂にとって恩人である事に間違いはないけど

徳川家との交渉は直茂主導で色々な人を伝ってやってるからそこに関わった人が皆恩人
本多正信だったり伊井直政だったり
本願寺の准如だったり足利学校の閑室元佶だったり

104:人間七七四年
14/08/26 23:15:21.67 q/d0bq/3.net
スレチだけど長政って野心ないよね
もう家康のポチじゃん
親父が野心家だと息子は毒気が抜けちゃうものかねえ

105:人間七七四年
14/08/27 21:34:19.08 msgj8svk.net
直茂は愚息勝茂のせいで気と金を使っただろな
鍋島が生き残ったのは次男忠茂のおかげだよ

106:人間七七四年
14/08/28 00:35:48.82 plbAN9yn.net
忠茂は勝茂の尻拭いをするために生まれてきたような人生だよな
将軍の諱を授けられるくらいだから相当優秀だったはず
勝茂は実弟に負い目があっただろうに甥っ子に酷いことしたよね

107:人間七七四年
14/08/29 07:05:14.11 FnXvtQ+X.net
忠茂江戸参府に先立ち、直茂が訓辞した言葉

鍋島家の安危はひとえに忠茂の奉行いかんにかかっている。
心を鎮め、謹んで事に臨むよう、たとえ両御所(家康・秀忠)の
御機嫌が悪い時でも、決して尊慮を労してはならない。
老中や近臣の言葉はよく敬い、家老に議して忠告に耳を傾ける。
しかし忠茂を侮る者があれば、討ち果たす覚悟が大切。
なれど身の恥辱に及ばない時は、堪忍する事が大切。

108:人間七七四年
14/08/29 11:11:16.99 WYbCPj1a.net
関ヶ原の時は高房も出て来ていて部隊の指揮系統の一本化という面で不安があったので
最終的な決定権と指揮権は一元的に勝茂が持つという念書を用意してから出陣した

これで龍造寺軍全員は勝茂の下に居なければならなくなったが
この念書が逆に勝茂がとれる選択肢を狭めたと思う

例えば準備が整っていない、勝茂が動けないで全員足止めされている状況なら
武具の準備が整っている者だけ人数集めて高房隊を編成し、分遣隊として先行させるといった意見が出てもよかった筈

109:人間七七四年
14/08/29 17:11:15.94 MboT9thZ.net
高房が家康の会津征伐に同道できて覚えもめでたくなってれば
お家騒動ももう少し軟らかくなったかな
それとも余計に拗れたか

110:人間七七四年
14/08/30 21:26:06.23 QG4OJH+i.net
忠茂の江戸行きには家老千布惣右衛門を始め、甲斐彌左衛門、納富千兵衛ほか
侍20名と中間8名が随行したが、江戸へ着くなり数名が脱走。
そのため、佐嘉より江戸へ追っ手を差し向け、逃亡した全員を刺殺している。

命によって仕方なく随行した者もいたんだね。

111:人間七七四年
14/08/30 22:16:09.46 fPABrqXJ.net
鍋島勝茂である義兄の鍋島茂里の実弟は鍋島茂忠で鍋島勝茂の実弟は鍋島忠茂


高房を従軍させたのは龍造寺宗家は健在で軍役も担えると宣伝する目的もあったんじゃないか
あと、もしもの時は勝茂と高房で二股膏薬の方が親子でやるよりリスク分散として有効かと

112:人間七七四年
14/08/30 22:20:25.02 fPABrqXJ.net
×である義兄
○義兄である

113:人間七七四年
14/08/31 12:04:33.00 vzo9c2c9.net
>>110
なぜに逃亡したの?

114:人間七七四年
14/09/01 01:04:01.48 B3vB5+Qy.net
祝 龍造寺大河初出演者

115:人間七七四年
14/09/01 07:54:56.71 RzzrJPdJ.net
>>113
この頃は忠茂(当時は直房)との主従関係は希薄で不安だったのかな

>>114
小倉城で政家が秀吉へ拝謁する場面だね。
政家
「黒田官兵衛殿の仲立ちにより、関白殿下に拝謁の栄を賜り、
 恐悦至極に存じます。
 この龍造寺政家、忠勤を励みますので何なりと申し付け下さい」
秀吉
「今後とも頼むぞ」

当時、政家は三十才だったのに随分老けた役者だったな。

116:人間七七四年
14/09/01 13:08:25.31 IgPZmWXq.net
龍造寺の記録だと黒田孝高が江上家種・後藤家信・龍造寺長信・同信周・同家就・同家晴からの質人を預かったとされるので
この時点(1586年10月中旬)で既に龍造寺一門は政家とはまた別個に朱印状を貰う腹づもりだった模様

117:人間七七四年
14/09/01 14:27:10.57 N1E0Jmmn.net
家就は何をして秀吉を怒らせ隠居したんだい?

118:人間七七四年
14/09/01 15:14:18.94 BUV7CQzX.net
>>117
肥後国人一揆で政家が出陣する際に病を理由に取り止めさせた

119:人間七七四年
14/09/01 16:34:39.79 nEqrZD0S.net
九州征伐が始まるときでも龍造寺は70万石ぐらいの勢力は保持してるよね

120:人間七七四年
14/09/01 16:58:14.41 1bpDvGbj.net
鍋島藩-諫早+柳川ぐらいだと思うから30万石ぐらいなんじゃない?

121:人間七七四年
14/09/01 23:51:48.92 IgPZmWXq.net
龍造寺が島津に宣戦布告した1586年9月上旬時点で龍造寺の指揮下に入っていた他国侍を挙げると
筑前だと原田(+肥前草野)筑後は本家草野と河崎、田尻、西牟田あたり

郡で言うなら筑前は那珂郡西端から早良、怡土、志摩でおおよそ10000町
筑後は御井、三潴、上妻西部、下妻、山本、山門23000町ほどが幕下
肥前国侍は総数が約53000町(内龍造寺一門知行が10500町)ここから宗、有馬、平戸等を抜くとざっくり43000町
勢力の定義を軍事的に指揮下へ置けた範囲だとすると総計73000町が龍造寺の勢力
全部が全部純粋な領地では無いし上田とか分からんので石高換算は無理

122:人間七七四年
14/09/06 09:52:11.02 e6GnJDpe.net
九州仕置はかなり意図的に小領主を浪人へ落とす方向でやっているのをみると
秀吉の朝鮮出兵は平和になった時、邪魔になる浪人を処分する目的があった、というよりも
槍働きをすれば大陸で土地が貰えると唐入りに対する動機付けの為に浪人を大量に創出したとする方が自分は納得いく

123:人間七七四年
14/10/01 18:19:09.23 4WTuppxc.net
昨日の佐賀新聞の朝鮮出兵と鍋島親子の記事を見て初めて気付いたんだけど
URLリンク(www.nabeshima.or.jp)
胴の部分は龍って書いてあるんだねコレ、所属もすぐ分かるし良いデザインだと思う

124:人間七七四年
14/10/28 15:51:54.29 3KVLRVYs.net
>>123
本当に龍?つくりの方が邑(おおざと)にしか見えないんだが。

125:人間七七四年
14/10/28 16:02:49.09 3KVLRVYs.net
>>122
金のために働く傭兵ならともかく、領地のために戦う武士を海外に連れ出せば
減るから国内安定、なんてありえないよな
死ねば加増と思って行ってるんだから

126:人間七七四年
14/10/29 08:11:50.83 G2vast2i.net
感状で十分

127:人間七七四年
14/10/29 16:39:09.74 CdsVsdxh.net
仕事で熊本県南関町や和水町(旧菊水&三加和町)を訪れて
かなりの数の地域住民と接する機会があるんだが
住民の鍋島姓率が他の地域と比べてあからさまに高い

これって佐賀の鍋島さんと関係あるんか?
確かに佐賀との県境に近い地域で、北に行くほど多くなる印象はあるんだが

128:人間七七四年
14/10/29 20:39:18.53 bin4LxLO.net
南関という地名はそもそも龍造寺家晴が筑肥に跨って当地の領主をやっていた時に筑後側と肥後側で境界周辺の呼び名がバラバラだったのを
筑後側を北関、肥後側を南関で統一させてそれが定着したのが始まりらしい

129:人間七七四年
14/10/31 07:11:36.52 7QuXCc0r.net
>>128
なるほどありがとう
鍋島姓が多いのは気のせいじゃなかったか

基本自分の勤務地は熊本市内なんだけど
鍋島・龍造寺と関係が深い姓として赤星姓は今でも市内では結構見かける
城はもっとよく見かける印象

130:人間七七四年
14/10/31 11:32:15.89 a7dP8Uxw.net
南関に鍋島の子孫が残ったものなのかなあ?
家晴は南関→柳川→諫早と映ってくわけじゃん?

131:人間七七四年
14/10/31 12:03:59.05 uOheyid0.net
敵対分家の子息って割りと優秀だよね

132:人間七七四年
14/10/31 18:44:54.10 v/YvIJWh.net
ナベシマという村名なり地名なりが昔あってそれが苗字化した、これが一番ありえそうだけど
元佐賀藩士の家系が鍋島名乗って移住している可能性も無い訳じゃないか
炭鉱業が盛況だった時期だと北側に多い理由も一応説明できる

それが和仁や辺春、大津山氏辺りの子孫だったらロマンはあるけど、鍋島家に彼等の縁者が仕官した話は聞かない
関向こうの田尻は小城藩の家老に落ち着いたけど

133:人間七七四年
14/11/02 23:10:28.24 CjC74nx0.net
>>129
いや、関係あると確定したわけじゃないと思うけど

ただ、実際に訪れた人の感想として、実際多いんだろ?
そういう情報いいと思うよ。

関係ないが、焼肉のなべしまは関係あるのだろうか?

>>123
「都」じゃないか?
なんでかはわからないが…
詳しい人いない?

134:人間七七四年
14/11/04 07:59:06.28 ftqiurHx.net
>>133
熊本県下を人吉地区・玉名〜荒尾市以外を
ほぼ全部同じ仕事の出張で回った印象では
鍋島姓が突出して多いと感じるのは和水町&南関町のみ

東と南に隣接する山鹿市・玉東町では他地域同様ほとんど見かけない
西側に隣接する荒尾市・長洲町・玉名市を訪れる機会があればまた注意して
見てみようと思う。

焼肉のなべしまは鹿児島に本社があるから関係があるかは不明…
あとサラダバーが質量ともに充実してる印象

135:人間七七四年
14/11/04 13:47:22.77 5UScJrHo.net
>>132

鍋島家発祥の地 御館(おたち)の森
URLリンク(www.saga-otakara.jp)

136:人間七七四年
14/11/09 02:31:12.17 k3+23qdW.net
>>134
@そのあたりにも鍋島という地名があり、それを名字とする家ができた
A戦国時代までに、肥前鍋島がなんらかの理由で移住
B戦国末期、龍造寺の拡大の結果、鍋島がそこに土着
C明治以降の移住
D何らかの理由で大名鍋島氏の名字を名乗った

>>132氏の言うとおり、@とDがありそうかな。
Aがあるような名家の範疇じゃないし、Bは龍造寺の縮小について帰るのが
妥当だし。
Cは>>134氏が言うように多数の分流が生まれそうにない。

137:人間七七四年
14/11/15 19:36:58.72 Na44b56Z.net
玉名郡は姉川氏の本家筋である菊池肥前家(肥前氏)の本拠地
肥前氏から転じて鍋島を名乗るというのもあるかも

138:人間七七四年
14/11/17 22:56:47.72 2wcFszzs.net
無い!、無い!!全然無関係!!!

139:人間七七四年
14/11/17 23:14:47.88 Y4e2GeSN.net
>>138
夢があるからいいじゃねぇか。
むしろあり得ないような説がたくさん出た方がおもしろいし、
案外そうやってぽっと正解が出てくるかもしれん。

140:人間七七四年
14/11/17 23:16:03.15 iUawR/cJ.net
掲示板での語りで正解を見つけるってのも無体だと思うけどね
本当に知りたければ現地に行ってお話聞くのが一番だろうよ

141:人間七七四年
14/11/18 09:59:25.08 OXYcjy0d.net
集団自決は強制だ!って言ってる現地の人もいるから話半分で聞くとよい。

142:人間七七四年
14/11/18 19:58:15.98 c3cxOapc.net
>>132
んー挙げられた中では和仁氏は確かに出自はっきりしないんだけど
南北朝から続いてるらしいし
今でも和水町に地名として残ってる
それが例え明治になってからでも
いきなり鍋島って姓を名乗りだす事は考えにくいかと思われ

143:人間七七四年
14/11/18 21:24:53.29 sN13M2ki.net
和仁大膳亮宗伝 
肥後國玉名田中城主(知行壱千町) 龍造寺勢との合戦にて降伏し幕下となる

144:人間七七四年
14/11/24 12:25:04.51 MYMJJZGJ.net
近世以降鍋島を名乗る利があるだろうか。
和仁を名乗ると迫害されるとか

145:人間七七四年
14/11/25 16:09:09.77 KRjtyH+0.net
佐賀の戦国研究会の12月27日の質疑応答会、質問募集中だってさ

146:人間七七四年
14/11/26 16:23:49.61 IPpKIn+Y.net
>>102
あと黒田家との関係で言えば
城って本来は軍事機密なはずなのに
福岡城作る際は鍋島家から応援出したり
佐賀城の縄張りを長政に頼んだって話も有ったな

隣国同士って警戒しあったり仲悪いのが普通なのに
江戸期に拗れるまではそうとう良好な関係だったんだな

147:人間七七四年
14/11/26 19:43:54.16 ih3Pcp0v.net
筑前堀 肥前堀

148:人間七七四年
14/11/26 20:45:12.92 bOheTF38.net
>>146
それは父ちゃんの孝高が築城名人だったからってのも
あるんじゃないのか?

後は肥前名護屋城普請の時に
蓮池城の天守を移築するよう鍋島氏にお願いした事情も
ちょっとは関係あるかも知らん
お互い技術の程は熟知してある程度の信頼関係はあるって意味で

149:人間七七四年
14/11/27 20:41:43.85 NrVtB8WW.net
福岡藩が長崎警護役やる様になったのもそれまで単独でやっていた佐賀藩(勝茂)が長政に助力を乞うたのが発端

150:人間七七四年
14/11/28 00:03:05.34 HoWVHHJX.net
福岡藩が長崎警備に就いたのは寛永18年(1641)で佐賀藩が翌年から
長政は元和9年(1623)で没したから時期的には息子の忠之だと思うが

151:人間七七四年
14/11/28 00:26:59.01 NuT02+t5.net
忠之が「うちからは言い出しにくいから幕府から鍋島に長崎へ来る様言って下さい」と言った話だよね

152:人間七七四年
14/11/28 17:58:28.68 qZVL2r0n.net
なんだ、福岡の方が先なのか、いい加減な事書くなよな。

153:人間七七四年
14/12/02 18:24:20.93 kycFUBeU.net
島原の乱の前後でも清の成立とか明の崩壊とか色々あって東シナ海が非常にキナ臭くなっている時期
九州の国持ち格の中で黒田だけ東シナ海に接続した海域を領しておらず手持ち無沙汰の状態
そこで皆等しく海防に従事しましょうねという事で黒田に長崎警護命令が出た

154:人間七七四年
14/12/03 02:34:21.70 UX6YScQv.net
>>152
調べもせずに何でも鵜呑みにするカスってのはどうしてこうも態度が大きいのかねえ
出自のせいかしらw

155:人間七七四年
14/12/03 16:17:53.32 3UN0XpLt.net
>>154
と、顔真っ赤ホラ吹きが吠えております。

156:人間七七四年
14/12/03 21:45:09.55 +dd/djlL.net
>>154
なんです、福岡さんの方が先なのですか、いい加減な事書かないでいただきたい。

これで満足?

157:人間七七四年
14/12/04 19:40:43.44 gDn526bq.net
調べる能力もないバカは黙ってROMってろよw

158:人間七七四年
14/12/04 22:26:40.62 njGve5MJ.net
調べて裏付けをとって間違いを指摘しただけで人格攻撃とか幼稚だと思わん?

159:人間七七四年
14/12/05 08:55:43.48 1mBFYUd9.net
>>158
152のほうが幼稚だろ
まあ読解力がない時点でお前も小学生なみの幼稚さだよ

160:人間七七四年
14/12/11 21:41:26.50 9dUgSNJE.net
のほうが幼稚www

幼稚を競ってどうするwww

ところで、>>152>>149なの?

161:人間七七四年
14/12/12 00:14:39.54 Z6Qdr9FY.net


162:人間七七四年
14/12/12 02:31:01.36 uq49A7F7.net
また読解力のないバカがひとり
幼稚だなあ

163:人間七七四年
14/12/12 17:14:21.49 dms1UsKU.net
島原の乱の頃まではまだ龍造寺家だとオランダ領事館には認識されていたらしい

164:人間七七四年
14/12/12 18:01:48.90 n5qj6k6r.net
>>162
オウム返しでしか煽れない大人の人って・・・。

165:人間七七四年
14/12/12 20:33:05.77 t0FcQqHr.net
>>162
このやりとりに読解力必要?
もっと楽に生きなよ

166:人間七七四年
14/12/12 23:42:19.12 jHnqjzBA.net
素読で理解できないなんてパパの精子からやり直せよ小僧

167:人間七七四年
14/12/13 01:54:04.22 +UanZqPt.net
素読www
自分が知らない言葉使って賢いつもりって、何歳だよwww

168:人間七七四年
14/12/13 02:22:45.44 OD6OKQ2m.net
何べんも音読しても理解できない頭なんですね
学校で何を習ってたんでしょうか
ハングル文字かな?

169:人間七七四年
14/12/13 04:56:04.92 wycj7IQV.net
出自とかハングルとか、コイツはどんだけ実生活でコンプレックス抱えてるんだろうな。

170:人間七七四年
14/12/13 07:48:59.30 vqC+ZkDm.net
悔しいのう、反論できずに遁走かよ
キムチ臭いから朝鮮人はレスして来なくていいぞ

171:人間七七四年
14/12/13 08:32:06.34 eio/5msj.net
渇!!!(๑`ȏ´๑)

172:名無しさん@そうだ選挙に行こう
14/12/13 16:54:27.11 wycj7IQV.net
>>170
www

173:名無しさん@そうだ選挙に行こう
14/12/13 21:06:33.21 jkY+7aPB.net
うわぁキムチ臭(草)い

174:名無しさん@そうだ選挙に行こう
14/12/14 02:50:37.93 0GEKH6GN.net
ところで葉隠物語って漫画がやってたんだな、最近知った

175:人間七七四年
14/12/15 21:34:35.92 iRmb+QNH.net
龍家軍は永久に不滅です、として歴史の表舞台から退場していくのが葉隠視点龍造寺家

176:人間七七四年
14/12/19 13:34:07.30 o6/+mVN7.net
江上家種の娘が鹿島藩忠茂に嫁いで生まれた次男坊が江上(佐野)家を継いで
いるんだね。一代限りだけど‥。
何れにしろ、勝茂にとって江上家はしゃくにさわったんだろな。

177:人間七七四年
14/12/19 14:16:43.51 ZmGin5yx.net
どうして、何か因縁でもあるのかい?

178:人間七七四年
14/12/22 19:43:56.65 xZivor7l.net
勝茂は江上を継いで龍造寺一門になる予定があった

179:人間七七四年
14/12/28 20:52:23.32 kjsTWD7j.net
鍋島家が秀吉から四万石認められたと言ってもその禄は龍造寺から出さないと龍造寺のメンツが立たない
それのしわ寄せを大部分引き受けたのが江上家だったわけで
龍造寺から出さなかったら御井郡辺りで鍋島分離独立という話になっていたと思う

180:人間七七四年
14/12/29 08:49:23.19 fUI/LRlU.net
秀吉としてはそっちのほうが良かったのかなあ

181:人間七七四年
14/12/31 02:53:28.28 dEO3Ib3c.net
>鍋島分離独立という話
実態として家臣だったものが、
秀吉によって実態として分離独立した家ってあったっけ?

182:人間七七四年
14/12/31 10:02:15.75 wmJsPRh1.net
立花氏(大友)や津軽氏(南部)は思いつく
まだ他にあるかな

183:人間七七四年
14/12/31 18:03:51.60 ZyeVtomw.net
隆信も年越しソバを食べていたんだろか

184:人間七七四年
15/01/01 09:59:06.05 /VP04wo0.net
>>181
お隣の小早川とか立花

185:人間七七四年
15/01/03 18:58:53.79 ZVvVsdMa.net
>>183
インドにいたみたい

【国際】インド警察、日本人女性を2週間近くにわたって監禁して集団性的暴行を加えた容疑で3人を逮捕(c)2ch.net
スレリンク(newsplus板)

186:人間七七四年
15/01/03 22:19:27.70 ie4F8KwY.net
>>183
切り蕎麦はまだ一般的じゃなかった筈だけど
蕎麦がきなら食べてるかも
温かい料理だからこの季節にぴったり

187:人間七七四年
15/01/23 15:09:40.30 03O3Q2jf.net
鍋島氏が大名成りしたのは豊家の恩によるもので龍家の意向ではなく
横岳家と姉川家という家宰機関の創設(鍋島氏による相続)が大名鍋島家誕生の象徴的な出来事でしょう

188:人間七七四年
15/02/01 14:49:02.40 AxyOlZET.net
んにゃ

189:人間七七四年
15/02/01 15:04:47.62 sdgAxOpT.net
朝鮮出兵で失敗した本家を救ったと見せかけて
豊臣と組んで竜造寺乗っ取りを画策した鍋島家
へタレの世継ぎがボンクラだったお陰で見事成功
あまりにスムーズに佐賀藩乗っ取りが進んだので
化け猫騒動でケチを付けられるというオマケ付き

190:人間七七四年
15/02/01 21:56:46.11 4VcAUKZr.net
高房はあんな事しなければ四位まで昇官決まっていたのにと直茂がお恨み状で書いてあるが
龍造寺が名目上の藩主を続けられていた場合だと肥前守独占もあったんじゃないか

191:人間七七四年
15/02/01 23:48:19.10 istPQcm7.net
仮に関ヶ原の戦いで、会津征伐に龍造寺軍が従軍できていたら
関ヶ原で高房が軍功を上げることができていれば
そういうIFを妄想するのも楽しいな

192:人間七七四年
15/02/07 03:52:26.79 do9EE4o1.net
鍋島家視点で言えば竜造寺なんて俺らが守り立ててやらなけりゃ
大名ですらいられなかったという自負があるから
佐賀藩乗っ取りなんて何の罪悪感も抱かん

193:人間七七四年
15/02/13 20:38:14.82 fzyHDo/H.net
乗っ取り犯の鍋島だな

194:人間七七四年
15/02/14 21:28:56.28 XNUHotdE.net
隆信の家臣の中では執行一族に勝る者なし

195:人間七七四年
15/02/14 22:17:53.11 4E60bk+t.net
執行さんちは江上家家臣だからにんともきゃんとも

196:人間七七四年
15/02/14 22:59:16.31 XNUHotdE.net
隆信幕下帳をみなよ

197:人間七七四年
15/02/15 14:18:33.10 PEpmpaev.net
城原衆は執行種兼指揮下だけど中身は少弐の残党だよ
よくいえば少弐家に最後まで付き従い忠を尽くした親衛隊の集団

198:人間七七四年
15/02/16 23:19:16.69 HIo4jUoP.net
朝日山城単独攻略の功により200町加増で250町かな、執行種兼は
隆信期は3000千石級の侍大将で成富信種とほぼ同格
執行も成富も着座家だけど藩政初期の功の差で執行1000石、成富2040石で倍の差がつくと

199:人間七七四年
15/03/08 01:22:47.50 kN8VazEK.net
自民党、グッジョブですわ。
URLリンク(www.soumu.go.jp)
☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、改憲の参議院議員が
3分の2以上を超えると日本国憲法の改正です。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。
私たちの日本国憲法を絶対に改正しましょう。☆

200:人間七七四年
15/03/09 12:32:43.71 fGxUkriw.net
鍋島勝茂の勝は義父の戸田勝隆から貰ったものかな
高房の高は隆信の隆と書くことも出来ただろうに、あえて高としてあるのは
『勝隆』が隆より勝が上に来ていることに由来するのでは

201:人間七七四年
15/05/05 18:50:26.39 vqi7KSmV.net
鎮賢から久家の改名は時期から考えて
耳川合戦の頃は親島津派として大友に対して敵対表明をしたようなもの

202:人間七七四年
15/05/05 20:00:48.22 gLQDDEbE.net
沖田畷のときは鍋島なんでいなかったのか?謎すぎ

203:人間七七四年
15/05/05 20:54:30.74 v4uIWvsr.net
沖田畷のときは鍋島なんでいたのか?だろう

204:人間七七四年
15/05/05 22:33:09.06 ryASBLbl.net
政家の指南役みたいなもんなんだから
政家が先陣に立つならそりゃいて当然なんじゃないの

205:人間七七四年
15/05/06 01:34:33.13 ++yXWfnS.net
沖田畷前後の鍋島信生は柳川城代で政家の副将
隆信付き家老は小河信俊(信生弟)・納富家理と土肥信安(沖田畷不参加)
直前の軍議で隆信隊と政家・信生隊の配置変更
あと鍋島信生が兵5000の水軍で先発し濱城に入ろうとしたものの
有馬島津に阻まれて撤退したというイエズス会資料の説
山手と中央の配置変更は鍋島が行ったとされる島原城の後背を突く強襲上陸が失敗した事と関連するのではないかと

206:人間七七四年
15/05/06 17:03:50.90 Vb2CL6L5.net
>>201
先年一翰啓入之刻、御懇体畏悦至極候。為其辻今度賀雲斎被差上之処
通用依難成、従中途帰宅候様、日州之事義久雖分置候、累歳逆心故
舊冬被属案利候。然者自豊後到当郡防戦之企候哉、万一実に候はじ
彌向後甚深可申談段所存候。仍而乍微色絹布四端令進之候。
聊補空書計候。期来信候、恐々謹言。
六月十九日 経定 光宗 意釣
納富殿

土持表悉属案中、義統令帰陣候処、為祝儀太刀一腰織筋一端送給候。祝著候。
猶田原近江入道可申候。恐々謹言。                   
七月六日 三非斎
横岳中務大輔殿

207:人間七七四年
15/05/06 21:14:11.48 vdKmMeqa.net
ふむ、ふむ、ふむ、恐々謹言。なるほど。

208:人間七七四年
15/05/08 20:28:47.51 bq0Upd29.net
上は納富から島津の家老衆にご機嫌伺い出しての返信の様で、つまり龍造寺には島津と連携する意思があった
横岳は大友龍造寺の二重被官で横岳経由で大友方の情報は仕入れていた
というのが北肥戦史における龍造寺からみた耳川合戦

209:人間七七四年
15/05/09 15:58:26.17 xlJzVLXS.net
>>205
> 島原城の後背を突く強襲上陸

優勢な側がなぜそういう無理な策を実行したのだろうか?
(もっとも小牧長久手の秀吉もそうだったが)

210:人間七七四年
15/05/09 16:24:16.00 1IFJvNbu.net
深江城の後詰めだから迅速な対応が求められてるし
防柵張られてるから背後とれたらとったがいいでしょと思うよ

211:人間七七四年
15/05/10 09:19:46.26 X2SWz7yZ.net
持ち込んだ大砲の射程が足りてれば落せるつもりだったんでしょ

212:人間七七四年
15/05/10 21:04:07.17 X2SWz7yZ.net
今思いついたんだけど、フロイスの「肥前の国主はカエサルに似たり」というのは
もしかしてチェーザレ・ボルシアの事だったりしないかな
ポルトガル語で書くとどっちもCesarだし、ユリウス・カエサルより余程性格も出自も近いものがあるかと

213:人間七七四年
15/05/10 21:05:28.95 3rdvNw+m.net
なるほどやな?

214:人間七七四年
15/05/10 21:05:53.06 X2SWz7yZ.net
訂正
×ボルシア
○ボルジア

215:人間七七四年
15/05/10 22:48:50.55 m16k3RuR.net
別に肥前の国主はカエサルに似たりってのも人柄がどうこうの話でもないんでしょ
果断即決の用兵でしょ

216:人間七七四年
15/05/10 23:34:14.28 X2SWz7yZ.net
幼い頃シントラの宮殿に居たフロイスならチェーザレと親交のあった人物と接触する機会もあっただろうし
想起のしやすさという点でカエサルよりチェーザレの方が上回るのではないかと思って
チェーザレ自身がカエサルを意識し努めて果断であろうとした人だったし
あるいはその後の横死も含めて上の二人に掛けたダブル・ミーニングだったり

217:人間七七四年
15/05/11 06:05:59.58 9yEUVtvr.net
チェーザレの名の由来はカエサルだし
彼を指すならフルネームもしくはヴァレンティーノ公って表記にするだろうとは思うけど
言われてみたら経歴似てるし時代も近いね
なんか面白い

218:人間七七四年
15/05/13 06:42:45.70 CAYdeNQG.net
沖田畷の龍造寺は鍋島の術中にはまってしまったな

219:人間七七四年
15/05/13 07:00:43.31 NnbYFanW.net
また馬鹿の一つ覚えの鍋島陰謀論か

220:人間七七四年
15/05/13 09:15:49.15 uPCWuMYR.net
龍造寺は強そうだけど鍋島って名字は弱そう

221:人間七七四年
15/05/13 09:51:48.04 XKlLaJtC.net
>>220
中央政権から警戒されにくいので好都合。

222:人間七七四年
15/05/13 21:00:58.11 1JJ17iXW.net
勝ち残ったのが神代大和守武辺勝利だったら滅茶苦茶警戒されたな

223:人間七七四年
15/05/20 23:05:10.01 YSF2n977.net
神代家って鍋島に乗っ取られた上に上陸拠点みたいな扱いになったんだっけか

224:人間七七四年
15/05/21 00:14:35.48 0I8cqVSA.net
神代違いだ!

225:人間七七四年
15/05/21 21:39:38.90 sFHLsnZc.net
Kamiyo許したまえ

226:人間七七四年
15/05/22 08:32:04.71 73OrAyse.net
対馬宗家の家老になった佐野右京(直茂の孫で忠茂の子)
家種の長男茂美が名乗った佐野右京
これは家種の霊を弔う為に佐野茂美の跡を忠茂の子が引き継いで宗氏に家老待遇で迎えられたという事でいいのだろうか

227:人間七七四年
15/05/22 09:15:51.73 mviOnZRo.net
対馬宗家は肥前に飛び地を持っていなかったっけ?
飛び地領を統治するのに好都合だったとか?

228:人間七七四年
15/05/22 18:15:19.16 73OrAyse.net
佐野家が対馬と本土側の連絡員的な役割をしていてもおかしくはないし
宗氏からそういう事を期待されていたとは思うんだけど、気になったのは対馬にある龍造寺姓の由来の事
この佐野右京系の縁者が明治になって龍造寺に復姓したのかなと

229:人間七七四年
15/05/24 21:03:01.59 Ro4RDsAQ.net
>>226
文章が理解できない

230:人間七七四年
15/05/27 12:07:57.74 LUTunOPl.net
まことが、工業高校中退で、学歴コンプレックスだからに
ちがいない。
もっとも、この男は、立教大と自称している。

231:人間七七四年
15/05/28 08:43:31.56 vdjpabol.net
>>230
誤爆なの?

232:人間七七四年
15/06/05 22:02:16.19 EeqmXST3.net
龍造寺胤信公の戒名ってわかりませんかネ?
それと、龍造寺胤和公の戒名、命日とか?

233:人間七七四年
15/06/06 06:49:29.70 5GSm/bsz.net
上は法雲院泰厳宗龍

234:人間七七四年
15/06/18 20:57:55.81 V4NFm6Lp.net
後藤貴明の最大版図てどのくらい?
武雄・嬉野・塩田・有田・北方・大町・東彼杵・川棚辺り?

235:人間七七四年
15/06/18 22:02:14.55 OHUy9i9E.net
有田はどうなんだろうな
山内は間違いなく後藤氏の領地だけど

236:人間七七四年
15/06/19 20:14:37.04 BZXLDD0x.net
>>232
>龍造寺胤和公の戒名、命日とか?
随分マイナーな武将を知りたいのですね
戒名:法雲道供 命日:永正17(1520)年8月
父家和(戒名:麟応)は享禄元(1528)年3月の卒去だから息子胤和が早世した事になる

237:人間七七四年
15/06/26 19:27:25.40 SPdQrzub.net
後藤の勢力は山間領主の横の連携あってのものだから
領域支配とはちょっと違うんじゃないかと思う

238:人間七七四年
15/07/08 17:09:04.58 Ai9kclLb.net
後藤貴明は大村純忠へ執拗に攻撃を繰り返した、というのも怨みからの物というより
有馬の勢力減衰を見た大村の一族衆が
貴明を旗頭に前大村氏復古運動みたいな事をやろうとしたのが原因じゃないか

239:人間七七四年
15/07/11 19:08:03.97 kRTnaGFo.net
後藤貴明の勢力拡大は有馬義貞―大村純忠―相神浦親―波多親のラインが丹坂峠の敗戦で窮地に立たされたのと表裏一体
針尾なんかも大村から離反してるが、川棚東彼杵が大村家から離れたとなると大村家に残った生産力のある土地が大村平野に限定される
波佐見がどうなっていたのかは判然としないがこちらも大村の勢力が排除されて後藤と平戸が折衷したような状態か
西彼杵と大村との連絡は西郷・深堀兄弟が分断
東彼杵と武雄との間に居る嬉野直通の去就も微妙だが概ね後藤支持派
北方・大町方面は龍造寺・後藤・平井の勢力が混在、塩田方面は杵島山の分水嶺が境界
有田も東部は後藤に降ったが相神浦親が平戸隆信に負けるまで有田領は概ね相神浦の影響下
伊万里氏なども後藤と連携している

240:人間七七四年
15/07/11 22:24:23.48 JDbgJ46N.net
たしか鶴田なんかは後藤に起請文出してたよね
伊万里や渋江なんかと結んだ同盟の影響が残ってた感じ?

241:人間七七四年
15/07/31 22:56:26.45 40ziSjqH.net
まず少弐資元の自刃と有馬晴信の屋形号獲得で有馬の北上圧力が強まった1539年以降に
形としては有馬方に収まりつつも、その圧力に対抗する為後藤純明が鶴田前と親密になりだしのではないかと
それでその関係を貴明も継承したところ、今度は龍造寺隆信の台頭で今度は後藤と鶴田の関係は軍事同盟的な側面が強くなりだした
渋江―後藤―伊万里―大村の同盟も拡張志向である東の千葉や南の有馬の勢力への対抗と共に
同盟が結成されたとされる時期(1483年)も考えると、少弐派と九州探題派の争いに対し共同で旗色を明らかにし
不用な混乱と両派閥の介入を防ぐ意味もあったのだろう
こちらの方の同盟は少弐政資の自刃(1497年)で一旦は少弐と渋川(大内)の抗争が終息したのを機に代替わりで自然消滅したものと自分は考えている


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