【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう at SENGOKU
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866:人間七七四年
14/11/11 19:26:35.56 JB8j+tHT.net
↑の話
傾国の美少年が当時珍しくなかったことは知っていたが
驚いたのは「尻ゆえにこそ命たすかれ」という文句
当時から男色のことを「尻」と表現していたのは知らなかった。
この板に武田信玄のことを「尻大名」としているタイトルのスレがあるが
まんざらふざけたスレタイでもないのか。

867:人間七七四年
14/11/11 20:11:13.31 JB8j+tHT.net
>かつて応永の乱の主役たる大内義弘が築いた山口の築山館。
>その庭園には「月見の松」なる名木があり、
>その月影に映える枝ぶりは代々の当主の心を大いに和ませるものであった。

>さて、天文十五年。大内義隆公の御世のことである。
>この築山館にて松の枝に掛かる秋月を肴に義隆公が月見の宴を開いていたところ、
>館の塀の上に怪しげな影の一つ、蠢くものがあった。
>義隆公は大いに怪しみ、急ぎ宿直の者を呼びつけてこれを撃つように命じる。
>命ぜられた武士、松原隆則は弓矢を取り出してひょうと射放つと、矢は狙いあまたず影を射抜き、
>射抜かれた影はどうと庭へと崩れ落ちた。
>この時射殺された影を改めて見ると、それはまごう事なき天花畑の山奥に潜む山姥の姿で、
>これを見事退治した松原隆則は大いにその面目を施したという。

>だが、常日頃になき妖怪の出没は、周防の人々によからぬ事が起きる予兆を強く感じさせた。
>そして果たして五年後の天文二十年、陶晴賢の謀叛により大内義隆公は太寧寺に自刃に追い込まれ、
>件の松原隆則も主君を守って遭えなく討ち死にを遂げてしまうのである。

>大内家の衰運が妖怪を呼び込んだか、
>はたまた妖怪の呪詛が大内家を衰亡に導いたか、
>どっちにしてもいい話じゃなさそうなお話

868:人間七七四年
14/11/11 20:13:24.17 JB8j+tHT.net
↑みたいな妖怪、時代は違うが源頼政の鵺退治とか
実話じゃないだろうけど、当時の人々にとっては「実話」だったんだろうな

869:人間七七四年
14/11/11 20:44:09.99 JB8j+tHT.net
>織田信長を語る上で、外せないのが桶狭間合戦。
>合戦前後を含めたエピソードは真偽不明のものまで混在して事かかないが、その中の一つ。

>敦盛舞って湯漬け食って飛び出した信長は、熱田神宮に参拝しつつ味方を待つ。
>が、相手は大軍で兵士達の意気は上がらない。
>そこで信長、十数枚の銭を取り出して、
>「天意をうかがおう。ばらまいて表の面が多く出れば勝ちだ」
>と、放り投げた。
>皆が注視する中、音を立てて落ちた銭は……なんと、一枚残らず表!
>これを見た織田兵は勇気百倍、勇んで戦いに望んだという―
>……実はこの銭、両面を打ち付けて全部表が出るように細工したもの。
>味方を奮い立たせる信長の、知恵であった。

>が。
>実はこの話、中国・宋代の名将・狄青の逸話とそっくり。
>信長公記のような信憑性ある史料には欠片も乗っていないことから、中国の故事を下敷きにした創作なのはまず確実。
>信長が故智に倣った可能性はまぁゼロではないだろうが……。
>銭絡みだけにマネーしたのか、というオチの悪い話w

870:人間七七四年
14/11/11 20:47:49.51 JB8j+tHT.net
↑の話みたいに、戦国の逸話には中国の古典からの流用が結構あるんだろうな
毛利元就の三本の矢の教えもそうだし
三方ヶ原で負けた後家康が城門を開けっ放しにしたため
何か策があると警戒した武田が引き返したというのは
三国志の空城の計の流用と思う

871:人間七七四年
14/11/11 21:59:56.15 nvNa7Brn.net
> 天正三年のことである。
> 阿波を実質的に支配する三好長治は父義賢に似ても似つかぬ暗愚の君主であり、若年にして政務を蔑ろにし、
>酒色に耽る生活を送っていた。
> 己に諫言するものに対しては極めて暴慢であり、この前年には重臣篠原長房父子をその一族篠原自遁の讒言を容れて
>上桜城に攻め滅ぼし、この三年にはやはり諫言を行った讃岐の香川、香西両氏を憎み、その上司である実弟十河存保を
>無視する形で兵を遣わして攻めさせている。

> そんな不安定化の進む情勢を理解していたのかいなかったのか、長治には長らく抱く一つの夢があった。
> それは三好氏の支配する領国全ての家臣、民草に、三好氏代々が信仰する法華宗への改宗させると言うものだ。
> 当時の阿波は真言宗の強い土地で、主に畿内に勢力を持つ法華宗はほとんど信仰されていなかった。長治の父義賢はその晩年、
>法華宗への帰依を深めて堺に妙国寺を建立したりもしている。法華宗の勢力を強めることは、親孝行になると思ったのかもしれない。
> ……父やその兄弟が健在の時代の宗教政策は全宗教保護路線だったのだが気にしちゃいねえあたりが暗愚の暗愚たる所以だろう。

>「阿波一国の衆、生まれ子まで日蓮宗になし、法華経をいただかせ、他宗の寺にでいりのことゆるされず」(三好別記)
(続く)

872:人間七七四年
14/11/11 22:01:59.76 nvNa7Brn.net
>かくしてこの年、阿波国中の寺院、領民に対して法華宗への改宗が三好長治の命によって発布された。
> ……えっ、淡路と讃岐? 諫言を蔑ろにされてる存保とか安宅信康がそれを呑むと思う?
> ともあれこの命令は軍事力に裏打ちされた強制力を持つもので、特に勢力の強い真言宗が狙い撃ちにされた。
> 多くの檀家が強制改宗に追い込まれ、人の出入りを禁じられた真言宗諸寺はたちまち消滅の危機に晒されたのだと言う。
> 無論、真言宗ほか他宗派は猛反発。大滝山の持明院、大滝寺などは即座に長治に法華宗との宗論を要求、山伏三千人を繰り出し
>強訴に及んだ。容れられなければ一戦も辞さない構えである。
> 流石の長治もこれを無視することは出来ず、宗論の要求を受け入れた上で妙国寺の開基、日bや経王寺の僧侶らを数多阿波へと招く。
> 一方で要求が認められた真言宗側も高野山から円正を招き、いざ両勢力は勝瑞で宗論に挑む!

> ……さて、その肝心の勝敗たるや、これがわからないのが実情である。
> 軍記物である『三好別記』等ではこれを真言宗の勝利とする。
> 一方で当時の文献で唯一勝瑞宗論に触れた文献である『己行記』によれば、法華宗の勝利とする。
> ただし『己行記』は宗論の当事者である日bの著作によるものであるため、客観的な記述とは言いがたい。
> ちなみにこの日b、後に安土宗論で浄土宗に負けちゃう人だったりもする。

> この後、長治の支配が民心の離反から急速に崩壊し、天正五年には細川真之に滅ぼされる事を思えば法華宗が勝ったのかも知れない。
> この後、法華宗の阿波進出がさして進まずなお真言宗が強勢であったことを思えば、真言宗が勝ったのかも知れない。

> いずれにしてもこの勝瑞宗論、法華騒動の発生を見れば長治が改宗への他宗の強い抵抗を予想できていなかったのだろう。

> 備前松田氏といい土気酒井氏といい法華宗はこの手の話が多い気がする。

873:人間七七四年
14/11/11 22:04:59.21 nvNa7Brn.net
>>871-872の話を読んで思ったこと
暗君の宗教狂いは始末に悪い

874:人間七七四年
14/11/11 22:43:27.26 nvNa7Brn.net
>天正13年7月2日、大阪の羽柴秀吉より伊達政宗の家臣遠藤山城守(基信)にあてた書状より、
>本能寺前後の記述を見てみよう。

>『(前略)

>一・先年明智が謀反を企て、夜討ちによって、今日の信長御親子は御腹を召された。
  >不慮のことであり是非もない次第であった。

  >その頃私は西国で戦働きをしており、備中において次々と城を攻め崩し、高松の城を取り巻いていたが、
  >三方に沼を抱えたこの城は、力攻めでは落とせないとこの秀吉は見てとり、水攻めにすべきと考え
  >堤を築き、備中の川は申すに及ばず、備前の川まで流れを変えさせ水を流し、このため高松城は
  >大変困難な状況になった。

  >ここで後ろ巻き(高松城の救援軍)として毛利輝元、小早川隆景、吉川元春が5万ほどの軍勢で
  >罷りでて来たが、我々と四・五町(約500メートル)ほどの間隔を開けて対陣したものの、城の救援は
  >極めて難しく、城に近づくことも出来ず、城内の困難さはさらに増して行った。

  >この時(6月)4日の巳の刻(午前10時頃)、京都において信長が御腹を召したという注進があった。

  >私は6日には高松の城を攻めこれを落城させ、城主は勿論、城内の者たちの首をことごとく刎ねた。
  >そして翌7日には毛利・小早川の陣に総攻撃を仕掛けここで討ち果てる覚悟をしていたところ、
  >毛利の方から色々と和平を求めてきて、毛利の分国のうち五ヶ国、その上人質も出すと言ってきたので
  >仕方なくこれを許してやり、これによって9日には播州姫路まで帰ったのだ。

>一・10日に人馬を途切れること無く上方に上らせ、13日に山城国山崎表において一戦し敵を切り崩し、
  >明智日向守(光秀)は「言うに及ばず、その他五千ばかりを討ち取った。
  >その上で織田家領国の不届き者はことごとく成敗するよう申し付け、御分国の混乱を納めた。

>一・そして知行割をし、信長の御子達には勿論、宿老たちに至るまでこれを分け与えた。
  >ところが播州姫路にあるこの秀吉が、五畿内の事について意見を申し上げた所、三七殿(織田信孝)、
  >柴田修理(勝家)が謀反を企てた。
  >私はなんとか平和裏に収めようとしたが、ついにこの秀吉も我慢の限界に達し、近江と越前の境である
  >柳瀬に置いて合戦することになったのである。

>(後略)』
(斎藤報恩博物館所蔵文書)

875:人間七七四年
14/11/11 22:47:57.32 nvNa7Brn.net
↑の書状、自分に都合のいいようにばかり解釈しているのはまだしも、
明らかな嘘も書いているな。
高松城内の者たちの首をことごとく刎ねたなんてw

なんのためにこんな嘘を書いたんだ?

876:人間七七四年
14/11/11 22:50:39.60 nvNa7Brn.net
>四国八十八カ所、第七十番本山寺。
>弘法大師が平城天皇の勅願により大同2年(807年)、一夜にして建立したと伝わる。
>本尊は馬頭観音、脇仏は薬師如来と阿弥陀如来。
>この寺に、讃岐が長宗我部に蹂躙されていた頃の言い伝えがある。

>長宗我部元親が土佐を掌握し、四国平定へ本格的に乗り出した頃のことである。
>讃岐本山の本山寺は、二十余りの妨を持つほどの隆盛を極めていた。
>そのため讃岐に攻め入った元親は、この寺を本陣にしようと軍を率いて境内に押し入ろうとした。
>当時の住職はこれに怒り、「境内には一歩も入れさせぬ」と門前に立ちはだかり、
>軍勢を押しとどめようとしたが、哀れ斬り捨てられてしまった。
>そのとき内陣厨子の扉が開き、阿弥陀如来の右肘から血が溢れ流れたので、
>長宗我部の兵たちは驚き恐れ、一目散に退散したのだという。
>この如来像は以来「太刀受けの弥陀」と呼ばれ、現在も右手にその傷が残っているという。
>一説には、本堂で斬られかけた住職の身代わりとなってこの如来像が斬られたので、
>恐れた長宗我部軍が驚き逃げたのだとも伝わる。

>またこの時、腹いせに長宗我部の軍勢が寺に火をかけようとしたのだが、
>にわかに蜂の大群が押し寄せてきて、軍勢は一目散に逃げ去ったので
>他の寺が多く長宗我部の軍勢によって焼かれたにもかかわらず、本山寺は無事であったのだという。

>この後秀吉によって土佐一国に押し込められ、九州攻めで嫡子を失い、
>また関ヶ原にて西軍に与したために改易をくらうなど凋落の一途を辿った長宗我部を、
>阿波・讃岐・伊予の者達や焼かれた数多の寺社関係者などは
>「神仏を蔑ろにした当然の報いである」と噂したそうな。

>ヒャッハーしようと思ったら仏罰をくらってしまった、長宗我部元親の悪い話。

877:人間七七四年
14/11/11 23:42:30.21 nvNa7Brn.net
↑の話、まるで東大寺大仏殿を焼き討ちにしたため仏罰で平清盛が
酷い熱病にかかって死んだというエピソードみたい。
因果関係づけたくなるんだろうね。
でも、「信長の悲惨な死は延暦寺を焼き討ちにした仏罰だ」とかは
ほとんど言われないのは何故だろう。

878:人間七七四年
14/11/11 23:46:04.28 nvNa7Brn.net
>細川忠興が豊前四十万石を治めていた時のこと。早朝、豊前小倉城を訪れる老人があった。

>「はい、ごめんなさいよ。忠興殿は居るかな?」
>「なんだ爺さん、ウチの殿様になれなれしい・・・・・・げぇっ!黒田のご隠居!!」

>「いかにも。忠興殿に、『如水が来た』と取り次いでもらえんかね。」

>天下にその知謀を知られた大物の、突然の来訪に細川家中は肝を潰し、城中は大騒ぎになった。
>直接もてなす立場であり、数寄者として自他ともに認める忠興は、なおさらである。

>「こんな朝早くのお越しだ、朝飯も食っておるまい。そのつもりで、手を尽くして料理いたせ。ぬかるなよ!」
>「ははっ!!」


>「お待たせしました、如水殿。して、本日の御用向きは?」
>「なぁに、用とは他でもない。お前さん、ウチの息子と絶交しておいでじゃな?」
>「・・・ええ、まぁ。」
>「何とか仲直りして、前のように付き合ってもらえんかの〜?」

>「いかに如水殿の仰せでも、そればかりは聞けませぬな。」
>「むぅ。では、お前さん方の子の代には仲良くやってもらう、というのはどうかな?」
>「うーん・・・いや、我らが死んだ後の子孫の事まで、約束は成りませぬ。」

>「ならぬか、ならぬか!じゃあ帰るわ、邪魔したね。」
>そう言い捨てた如水は、せっかくの料理にも手を付けず、さっさと帰ってしまったそうな。
(旦夕覚書)

879:人間七七四年
14/11/11 23:47:54.23 nvNa7Brn.net
↑の話。
これだけを読むと忠興も如水も凡人にしか見えない。特にあの後者が。
これぞちょっと悪い話。

880:人間七七四年
14/11/12 00:21:06.05 qcTntTUe.net
>年貢を関ヶ原合戦用に使い果たした後で安芸を福島にもってかれた毛利家。
>福島は「ルール通り、年貢戻せよ、敗軍」と威圧的な交渉。
>とはいえ、毛利家はTERUが「経営無理ポ」とすでに泣きが入っている状態。
>この時、意外な展開が。

>毛利家の交渉担当者は酒を飲んでる市松のところで返済猶予を要請。
>市松「おし、この大杯を飲み干したら返済を待ってやる」
>死ぬ気で飲みまくって毛利家の財政破綻を阻止したこの担当は

>酒の飲みすぎで体を壊して死んだそうな。

881:人間七七四年
14/11/12 00:26:24.32 qcTntTUe.net
↑の話、最初は福島正則に命じられた大杯を飲み干して死んだのだと思って感動した。
文字通り命を捨てて毛利家を救ったのだと。

しかしよく読んでみると、その担当は別にその時に死んだのではなく
普段から酒飲みでそれが原因で死んだということなんだな。

882:人間七七四年
14/11/12 00:28:32.53 qcTntTUe.net
>天正11年(1483)、秀吉の弟、羽柴美濃守秀長と羽柴孫七郎秀次は、伊勢の峰の城攻めをしたが、
>城主・滝川義太夫がこれを良く防いで戦った。
>織田信雄の家臣・津川玄蕃も同じくこの城を攻め、軍勢を集結させ城の堀際へと寄せてきた。
>この時城中から長い柄杓を使って糞尿を汲み、これを寄せ手に向かってかけ散らした。

>それから織田上野介信包(信長弟)もこの城に攻めに来たが、この時信包の部隊が城のすぐ近くまで近づき、
>こう大声を挙げた

>「我らに俳諧の発句あり!城内の人々、歌の心あらばこの脇をつけよ!」

>これに城内の誰とも知らぬものが大音で返答した

>「お前たちはどうせ、前々から発句を作っておいて、今我々に脇を乞うているのだろう!
>それがし、只今とっさに作った狂歌がある!お前たち、これに返歌せよ!」

>そして一句

>『上野の やき砥は鑓に合わねども 羽柴をしなす峰の城かな』
>(上野介程度の敵では我々の手に合わないが仕方がない戦ってやろう。ここは羽柴軍の連中の命を奪う峰の城だ!)

>これに信包の家臣たちは返答につまり、ただ城に向かって鉄砲を撃ちかけることしか出来なかった。
(北畠物語)

883:人間七七四年
14/11/12 01:04:29.60 qcTntTUe.net
>>882の話。前哨戦は発句対決になったわけね。
戦いの前になんとも風情な。
まさに文武両道

884:人間七七四年
14/11/12 01:15:19.45 qcTntTUe.net
>慶長九年、街道整備の為に徳川幕府は一里塚を築いた
>この街道整備だが、家康主体ではなく、秀忠が中心となって企画・推進したと言われる

>『台徳院殿御実記』の巻一にも
>「九年二月四日、公(秀忠)の仰として、東海・東山・北陸の三道に一里塚を築かしめらる」
>と記されてある

>家康が江戸〜京都間の東海道の宿を設定し、伝馬朱印状と伝馬定書を下したのは慶長六年(1601年)正月
>秀忠は江戸〜京都を結ぶ、東海道・中山道・北陸街道の三つを一元的に統括し
>東西の交通を掌握する必要があると考え、一里塚を築かせることにした

>さてこの一里塚、榎がかなり多く植えられている その謎についての逸話

>秀忠は一里塚築造の惣奉行、大久保長安に「よい木を植えろ」と命じた所
>長安が「えの木を植えろ」と聞き間違えたからだという

>でも榎もよい木だから間違っちゃいない

885:人間七七四年
14/11/12 01:18:07.07 qcTntTUe.net
↑の話、まるで落語だね
にしても大久保長安、金山開発だけじゃなく土木工事全般を担当していたんだな

886:人間七七四年
14/11/12 01:50:34.69 qcTntTUe.net
>姉川の戦い


>信長は浅井親子が朝倉氏に味方していることに憤慨し、「ならば先に浅井を滅ぼしてその後で朝倉を攻める」と言って
>家康公に協力を求められたので、家康公は3000余の兵を率いてご出陣なさった。
>浅井方は朝倉に加勢を求めたので、朝倉景紀が兵15000を率いて出陣してきた。

>6月28日に姉川で合戦が行われた。

>はじめ信長は「私は朝倉勢に向かうので君は浅井と戦ってくれ」と言っていたのだが、朝倉が大軍であるのを確認すると、
>急に「私は浅井勢を攻撃する。君は朝倉に向かってくれ」と言ってきた。
>徳川の御家人たちにはこれを拒否する者が多かったが、家康公は「大軍に向かう事こそ勇士の本意である」と仰せになり、
>朝倉勢に向かわれた。

>こうして朝倉勢15000が家康公の軍勢に、浅井勢8000が織田勢に向かっていった。
>徳川勢の酒井忠次らがかけ声を上げながら向かっていくと、朝倉勢もついには敗北し、真柄直隆など優れた勇士たちを多数討ち取った。
>浅井方は先鋒の磯野員昌が織田勢を11段まで切り崩し、織田勢は大混乱となった。

>家康公はこの様子をご覧になり、「織田殿の旗色が悪いようだ。崩してかかれ」とご命令になり、
>本多忠勝ら数名が浅井勢の中に向かっていった。
>浅井勢も横から攻撃を受けては防ぎきれず、混乱した。
>織田勢はこれに勇気付けられて反撃し、浅井勢は敗走して小谷城へ逃げ込んだ。

>信長は「今回の勝ち戦はすべて徳川殿のおかげである」と言い、感状のほか、長光の刀などさまざまな品を送ってきた。







                                                            >by 徳川実記


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