◇インド 印度 INDIA part 90◇ at OVERSEA
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900:異邦人さん
19/02/28 00:50:50.56 ATdCOgp8H.net
>>797
この感じの悪さに既視感w
>>861
どっかの空港が5月まで閉鎖だったか何か見たような気がする
ひっそり解除もありそうだね

901:異邦人さん
19/02/28 01:50:35.54 ma32iXWH0.net
>>860
とりあえず、まだなんとも言えないだろう)
Twitter検索するとインド人とパキスタンがめちゃくちゃ言い合ってるのが面白い

902:異邦人さん
19/02/28 01:54:53.76 0ahmH6ze0.net
空港閉鎖とかやばい

903:異邦人さん
19/02/28 06:01:44.44 JmxRL5TO0.net
>>861
自分もGW組み
短い旅行期間をハラハラするの嫌だから渡航先変えようか考え中

904:異邦人さん
19/02/28 07:55:13.79 olj8RdsP0.net
印パは過去に実際に戦争しているからな
国民が怒りだすと政権も止められないだろうな
軍部が暴走するかもしれんし

905:異邦人さん
19/02/28 08:16:16.46 gjLCDS6h0.net
よくあるデモやってるからって言う嘘に気をつけてとか言うけどデリー色んなとこで行進してたな

906:異邦人さん
19/02/28 09:02:20.87 JmxRL5TO0.net
短期旅行者にとってはデモが一番厄介だな
移動時間の予測がつかないし

907:異邦人さん
19/02/28 09:18:38.86 cJ8/jr/XM.net
つかなんでそんな仲悪いんよ

908:異邦人さん
19/02/28 09:46:23.44 Ukn2orhza.net
>>876
勉強しろ

909:異邦人さん
19/02/28 10:20:27.83 GzYUTCINM.net
>>876
国同士の争いなんてほとんどが領土争いよ

910:異邦人さん
19/02/28 10:33:48.96 oY97w8/J0.net
モディも安泰だけど、選挙が近いから何もしないわけにはいかず
とりあえず形だけの報復でしょ。お互い適当なところで収めるよ

911:異邦人さん
19/02/28 10:56:56.89 gjLCDS6h0.net
なんでパキスタンはジェイシを潰さないの?

912:異邦人さん
19/02/28 11:11:37.80 iGzrtKtT0.net
>>880
ジャイシュエムハンマドはカシミール地方のインドの実効支配を許さない組織だからでしょう
パキスタン側から潰すメリットがない

913:異邦人さん
19/02/28 12:05:34.06 O1kKoU2u0.net
本展は、12世紀から16世紀初頭、すなわちロマネスク時代から
後期ゴシック時代の金細工師が制作した典礼具63点を、聖杯
(カリス)と聖皿(パテナ)を中心にご覧いただこうという企画
です。
聖杯と聖皿は、聖書に物語られた最後の晩餐に由来するミサ
あるいは聖餐式に用いられるもので、教会の典礼具の中でも
とりわけ重視されています。中でも神学上キリストの血と同一視
される葡萄酒のための聖杯は、酒杯としての実用的な目的のみに
よって制作されたわけではありません。中世の聖杯は建築や植物
をかたどった枠取りの中に、さまざまな聖書の場面や聖人像、
寄進者像などを表わすことで典礼の由来と意味を表わし、しばしば、
当時の教会建築のように、ひとつの小宇宙として造型されていました。
金細工師たちはそのような聖杯を鍍金された銀によって、鍛金、
彫金、エマイユ、ニエロ、鋳造といった金工技法の粋を尽くして
造型し、宝石をもって飾りました。貴金属を扱う金細工師たちの
金工作品は中世を通じてもっとも高雅な美術と見なされていまし
たが、出品作には、彼らが単に器物を制作するだけではなく、
画家や彫刻家と同様、描写美術にも通じていたことをご覧いただ
けるかと思います。事実、金工師たちが金属の表面に図像を線刻
する技術は、15世紀にいたって紙が普及するにつれ、銅の板に
線刻を施しそれを紙に印刷する美術、すなわち銅版画の出発点と
もなったのです。
本展の貴重な金工作品は美術館ではなく、ドイツ東部のザクセン
=アンハルト州を中心とする、プロテスタントの諸教会から出品
されたもので、現在でも重要な聖餐式の時に用いられています。
このことは、日本では初めての試みとなる中世の金工美術をテーマ
とする展覧会に、さらに重要な美術史・文化史的意味を加える
ものとなるでしょう。
【聖杯伝説】イギリス・フランス・ドイツなどを中心に、聖杯を
捜し求める騎士の物語、あるいはそれをモチーフにした奇跡譚が
数多く語られた。これを聖杯伝説という。
その最初のものは、1180年代にフランスの詩人クレティアン・
ド・トロワによる未完の騎士道物語『ペルスヴァル、あるいは聖杯
の物語』(原題:Perceval, le Conte du Graal)である。

914:異邦人さん
19/02/28 12:06:19.43 O1kKoU2u0.net
アンリ・マティスは、20世紀を代表する画家としてその名を広く知られています。
1905年の秋にパリで開催された展覧会(サロン・ドートンヌ)に、色鮮やかで大胆な
表現による作品を出品し、大きな衝撃をもたらして以降(そのときマティスと彼の
仲間たちは「野獣派」と呼ばれました)、絵画表現の新たな可能性を開いた革新者
として、その名声を高めていきました。マティスの作品が持つ色彩の美しさと
装飾性は、人々を魅了してやみません。しかし、一見簡単に描かれたように見える
彼の作品も、実は長い熟慮と試行錯誤による賜物です。
絵とはどのように生まれてくるものなのか、この決して簡単には答えることのできない
問題とマティスは真剣に取り組んだ画家であるといってもいいかもしれません。絵とは、
あらかじめ画家の頭や心のなかにあった構想(意図あるいは意識)が、単純に
絵に翻訳されたものではありません。画家と描かれる対象との対話、あるいは画家と
作品との対話など、実際の作画という行為のなかで、ときに画家自身の意識をも
超えて生まれてくるものです。描かれている最中に刻々とその表情を変えていく
作品は、そのつど画家に問題を投げかけ、画家を試そうとするのだともいえます。
このようなある種の葛藤のもとに生まれる作品は、最終的にたったひとつの帰結を
持つものとは限りません。主題はさまざまに変奏され、いくつものヴァリエーションを
生む可能性をはらんでいるのです。実際、マティスは、同じ主題をまったく異なる
表現(写実的であったり抽象的であったり)によって表した作品を数多く残しています。
またマティスは、作品が生まれてくる過程(プロセス)にもとりわけ大きな関心を
はらっていました。制作の途上で変わっていく表現を写真に撮影して記録しておく
だけでなく、1945年12月にパリのマーグ画廊で開かれた個展では、その途中経過の
写真と完成作を一緒に並べて展示さえしています。
今回の展覧会は、このふたつの側面、「ヴァリエーション」と「プロセス」という視点
から、マティスの作品を解き明かすことを試みるものとなっています。

915:異邦人さん
19/02/28 12:07:03.57 O1kKoU2u0.net
マニエリスムというのは、ルネサンスとバロックの間、より具体的には、ラファエッロの死(1520年)からアンニーバレ・カラッチやカラヴァッジョが活動を開始する16世紀末までの約半世紀に
わたって続いた美術様式をさす言葉です。これはイタリアで生まれ、イタリアで展開した美術様式でしたが、16世紀半ば以降には全欧的な広がりを見せるようになります。フランスにおける
フォンテーヌブロー派の美術はこうして生まれたものでしたし、プラハのルドルフ2世の宮廷で開花した美術は、マニエリスムの精華として広く知られています。マニエリスムという言葉は、
もともと、イタリア語の「マニエラ」 "maniera" (英語の "manner" に相当する)に由来するものであったことからも想像されるように、これはイタリア盛期ルネサンスの表現形式を規範としながら、
それを意図的に強調したり、場合によっては、歪曲したりしながら、人工性の強い精妙きわまりない表現を追究した美術でした。ある著名な美術史家がマニエリスムを「様式的な様式」と
呼んだのは、まさに至言でしょう。自然主義とは対照的な虚構性に溢れた美術、それがマニエリスムだったのです。
1600年前後の約30年間に展開されたオランダ・マニエリスムは、最後に登場する、言わば、「遅れてきた」マニエリスムでした。その特徴は、なにより、先行する多様なイタリアのマニエリスム的
要素が同時に取り入れられた折衷主義にあったと言えるでしょう。イタリアから直接もたらされたものは無論のこと、ルドルフ2世の宮廷画家であったスプランゲルの素描や、16世紀の半ば
過ぎにアントウェルペンで出版された多くの版画から、最新の表現やイタリアや古代に関する大量の情報が一度にこの地に流入しました。従って、この時期に制作されたオランダの作品すべて
をマニエリスムという言葉で定義してしまうことは、実は、なかなか難しい側面もあることは事実です。古代彫刻や古代遺跡を丹念に写し取った作品と、奇想天外とも見える不自然に捩れた
肉体表現とを、同じ理念で説明することには大きな困難が伴う場合もあるからです。しかし、逆説的に言えば、そのような統一性の欠落や矛盾、あるいは、異なる様式の混在こそがマニエリスム的
だったと言えるのかもしれません。

916:異邦人さん
19/02/28 12:21:00.13 O1kKoU2u0.net
17世紀フランスの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593−1652年)の名は、
すでに世界的であるにもかかわらず、奇妙なことに我が国では未だに多く
の人に知られているとは言えません。しかし、一度その作品を見た人に
とっては、ラ・トゥールの絵は忘れがたい印象をもたらすでしょう。
昼の光の中であれ、夜の情景であれ、常に光のもたらす効果に鋭敏な
感受性を見せるその画面は静けさと深い精神性に満ち、表された人物像は
光と闇の対比の中に的確な色彩のヴァルールを繰り広げて、きわめて近代的
な造形を見せています。ことに、蝋燭の光の効果を駆使した幾つかの作品
では、まさに他の追随を許さないこの画家独自の表現世界が構築され、その
世界的な名声の源となりました。
他方でこの画家は、戦乱の打ち続くフランス東部のロレーヌ地方を中心に
製作した後、没後は急速に忘れ去られ、20世紀になって劇的な形で再発見
されたという不思議な経緯を通じても知られています。現在まで残る真作
はおよそ40点に満たず、他は失われたか模作などを通してのみ知られる
のみなのです。そのドラマティックな再発見の物語と、作品の寡黙で詩的
特質や希少性、ヴェールに包まれた画家自身の存在にまつわる謎などから、
しばしばオランダの画家フェルメールに比較されるのは理由の無いこと
ではありません。
2003年度、国立西洋美術館はこのラ・トゥールの希少な作品の1点「聖トマス」
(1624年頃)を購入する機会に恵まれました。ルーヴル美術館などを除けば、
世界の主要な美術館でも、ラ・トゥールの真作を所蔵するところは稀です。
そしてこの作品を一般に広く公開しお披露目する貴重な機会を捉えて、
ラ・トゥールの輝かしい作品世界をできる限り多くの日本の方に見ていただき
たいと考え、今回の企画は立てられました。
現在まで残る真作はおよそ40点程に過ぎず、そのほぼ半数と、若干の失わ
れた原作の模作・関連作を含め、計30数点のきわめて貴重な作品群が東京
に顔を揃えることとなりました。
日本で初の、そしておそらくは相当な長い将来に渡って再び見ることはない
であろうラ・トゥールの展覧会を、この機会に鑑賞いただきたいと切に願って
います。

917:異邦人さん
19/02/28 12:27:41.88 O1kKoU2u0.net
この展覧会は、ドレスデンに居城を定めたザクセン選帝侯のコレクションを7つのセクションで見るものです。ドレスデンでは異国文化が愛され、様々な
外国の美術が集められました。中でも、イタリア、フランス、オランダ、そしてトルコ、中国、日本の6つの国が重要でした。セクション1では、そうした
異国文化の影響を見る前に、ドレスデンのコレクションの始まりが、美術作品ではなく科学計測機器であったことを概観します。16世紀後半に宮廷に
設けられた「美術収集室」では、ザクセン選帝侯が愛した地球儀や天球儀、製図用具など、実際に使用された道具類が棚に並べられていました。
セクション2では、オスマン・トルコの美術とその影響を見ます。オスマン帝国は、ヨーロッパにとって迫り来る脅威でしたが、同時に、高い文化を誇る
憧れでもありました。アウグスト強王の時代、ザクセン宮廷ではトルコ風の祝祭が執り行われるほどトルコ風が流行しました。
セクション3は、芸術の先進国イタリアです。ザクセン宮廷では特に、ヴェネツィアの風景画が多く購入されましたが、ドレスデンの風景画が望まれる
ようになると、カナレットの甥のベロットがドレスデンに招かれ、ヴェドゥータという流行の風景画様式でドレスデンの景観が多数描かれ居城を飾ります。
セクション4では、フランスの宮廷文化に焦点が合わせられています。アウグスト強王は、青年時代、ヨーロッパ見聞旅行に出ますが、太陽王ルイ14世
のヴェルサイユ宮殿に数ヶ月滞在し、華麗な宮廷文化に衝撃を受けました。ドレスデンの居城をフランス風に改装すべく、祝祭や儀式、ファッション
から家具に至るまであらゆることをフランス風に整えました。
セクション5は、中国と日本の工芸です。アウグスト強王は東洋の磁器に魅了され、薬剤師ベトガーに白磁の製作を命じました。東洋の磁器を集光鏡で
熔かし成分を分析することで、ベトガーはヨーロッパ初の磁器製作に成功します。マイセン磁器は、ヨーロッパの宮廷の憧れの的となり、ザクセンの
贈り物外交で絶大な効果を発揮しました。その絵付けに、中国や日本の磁器が手本であったことは言うまでもありませんが、後には独自の装飾も展開
します。
セクション6では、オランダ絵画の巨匠レンブラントがドレスデンに及ぼした影響を見ます。

918:異邦人さん
19/02/28 13:01:19.40 O1kKoU2u0.net
近代彫刻の父と称されるオーギュスト・ロダン(1840−1917)、今日ではマティスやドランなどの師としてその名を知られる画家ウジェーヌ・カリエール(1849−1906)。
この展覧会はふたりの直接の交流を軸に、その表現を比較するとともに、根底に流れる感覚や思想の共通性を
探ろうとするものです。ロダンとカリエールは、1880年頃に知り合って以来、カリエールが亡くなるまで、もっとも親しい友人として親交を深めます。交流のなかから、
ふたりは彫刻と絵画という技法の違いを越え、人物やものの表面に見える形ではなく、その奥に潜む「内なる生命」
を表現する者こそ、理想の芸術家であるという考えをもつようになります。このような考え方は、同時代の象徴主義の批評家や詩人たちに共感を与え、ふたりは一躍フランス象徴主義美術の中心に位置する存在となります。
今回の展覧会では、ロダンとカリエールの彫刻、絵画、素描、版画約140点を5つのセクションに分け、さまざまな角度からその関係性を読みといていきます。
ロダンとカリエールのふたりに焦点を絞った展覧会は、世界的にみてもこれまで例がなく、フランス世紀末、象徴主義
という枠組みでロダンとカリエールの作品をとらえ直す、またとない機会となることでしょう。この展覧会は東京で構成され、パリのオルセー美術館に巡回します。
展覧会は、大きく分けて5つのセクションで構成されています。
1.ロダン像とカリエール像
第1セクションでは、カリエールによるロダンの肖像、および自画像、またロダンが制作したといわれるカリエールのデスマスクを展示し、その人物像を紹介します。
2.ロダンとカリエールの直接の交流
第2セクションでは、ロダンとカリエールの直接の交流を示すいくつかの具体的なできごとから、彼らの芸術にたいする考え方を探ります。まず初めに両者がたがいに
所有しあっていた作品を並べ、次に1900年にパリのアルマ広場で開かれた「ロダン展」へのカリエールの貢献を
示します。さらにロダンとカリエールがしばしば制作した「芸術家に霊感を与えるミューズ」というテーマから発展させて、「ウジェーヌ・カリエールのための記念碑」
に向けたロダンの取り組みを紹介します。
3.ロダンとカリエールをめぐる人々の肖像
ここでは同じ人物をモデルにした肖像作品を紹介します。

919:異邦人さん
19/02/28 13:58:31.33 5g8VnTye0.net
パキスタンのテロ関連施設爆撃して300人殺しましたっていうインドの発表はかなり眉唾もんだ
こんだけやりました!っていうモディさんの実績(既成事実でも)づくりと、やられたらやりかえせや!って思ってるインド民衆の溜飲を下げるためのもので、それで落ち着くならそれでいい
日本のニュースではトランプと金正恩の会談ばかりでツマラン、もっとこっち取り上げてや

920:異邦人さん
19/02/28 14:08:02.67 O1kKoU2u0.net
芸術家たちが、まさに作品を作り出す現場であるアトリエ。それは、まるで
「創造の秘密」を解き明かしてくれるものであるかのように、人々の興味を
惹きつけてきました。フランスでは、19世紀の前半より、芸術家のアトリエ
訪問記や、アトリエの様子を表した版画が、雑誌などのメディアに盛んに
取り上げられるようになります。一方ではまた、アトリエにいる芸術家たち
の姿は、揶揄の対象とされることもあり、風刺画でたびたび取り上げられて
います。しかし、どちらも、一般の人々がほとんど目にすることのないアト
リエの情景が、作家や作品の意味を示してくるものとして、いかに人々の
好奇心を刺激し続けてきたかを示していると言えるでしょう。
今回の展示は、19世紀フランスを中心に、国立西洋美術館に所蔵されている
版画や雑誌によって、アトリエの情景と、それへの関心のありようを展観
しようという企画です。雑誌『シャリヴァリ』に発表されたオノレ・ドーミエ
による「アトリエ風景」や「芸術家」の連作版画には、アトリエを表した
ものが含まれ、これらはアトリエの芸術家を風刺的に描いた版画の代表と
言えます。また、写真や版画による挿図を豊富に用いた雑誌『イリュストラ
シオン』には、たびたび「アトリエ訪問記」の連載が掲載されており、ルポル
タージュ的にアトリエを扱ったものの代表となっています。これらの作品は、
19世紀における人々の、芸術家のアトリエへの関心を教えてくれるとともに、
また、今の私たちの好奇心も刺激してくれます。19世紀に芸術家たちは
いったいどのようなアトリエで制作したのか。その制作の現場をご覧いただき
たいと思います。
ブリュッセルにあるベルギー王立美術館は、ベルギー王国が世界に誇る同国
最大の美術館です。15世紀のいわゆる初期フランドル絵画から20世紀、
さらには現代美術にいたる絵画や素描など約20,000点が所蔵される同美術館
のコレクションは、まさに油彩画(油絵)発祥の地に相応しい充実した内容
をもつものと言えるでしょう。
この展覧会は、ブリューゲル、ルーベンスといったフランドルの巨匠たちに
はじまり、同館から選りすぐった70点の油彩画と39点の素描によって、
豊饒のベルギー美術400年の歴史を展望するものです。

921:異邦人さん
19/02/28 14:19:28.87 O1kKoU2u0.net
ブリュッセルにあるベルギー王立美術館は、ベルギー王国が世界に誇る同国最大の美術館です。15世紀のいわゆる初期フランドル絵画から20世紀、
さらには現代美術にいたる絵画や素描など約20,000点が所蔵される同美術館のコレクションは、まさに油彩画(油絵)発祥の地に相応しい充実した内容をもつものと言えるでしょう。
この展覧会は、ブリューゲル、ルーベンス、ヴァン・ダイク、ヨルダーンスといったフランドルの巨匠たちにはじまり、クノップフ、アンソールらの象徴派、
さらに、マグリット、デルヴォーらシュールレアリストなど20世紀の作品まで、同館から選りすぐった70点の油彩画と39点の素描によって、
豊饒のベルギー美術400年の歴史を展望するものです。
今回とくに注目されるのは、現存する油彩画が40点ほどしかないピーテル・ブリューゲル(父)(?)の《イカロスの墜落》が日本初公開されることです。
近年、作者をめぐってさまざまな議論が交わされていますが、光と大気をはらむかのような魅力的な風景描写、細部にいたる精緻な表現とやや幻想的で不可思議な雰囲気とが共存したこの作品は、
まさに、王立美術館の、また、ベルギー王国の顔として長く親しまれてきました。フランドル美術、ベルギー近代美術の粋を集めたこの展覧会にどうぞご期待ください。

922:異邦人さん
19/02/28 19:48:41.98 i0fTGYpWa.net
エアインディア機内で、食事時に配られる、手拭き用の濡れティッシュの匂いがなつかしい。
最初に嗅いだときは「メシ時に何でこんなにおいがするんだ?」って思った。

923:異邦人さん
19/02/28 19:55:42.66 bkzMGoVAa.net
一昨年、イスラエル旅行寸前にトランプの野郎が
エルサレム首都宣言して右往左往したのを思い出すわ
とりあえず交戦状態にならずにいつものプロレスで終われば
GWまでには通常の旅行できる状態には戻るでしょ
閑散期だったのは不幸中の幸い

924:異邦人さん
19/02/28 20:04:31.06 ughWUW2F0.net
ブラングィン(1867-1956)は、19世紀の後半から20世紀の前半にかけて主にイギリスで活躍した画家です。生まれはブリュージュ(ベルギー)で、
幼いうちにイギリス人の両親とともにロンドンに居を移しました。父親が建築や壁画の仕事に従事していたこともありますが、その後の彼の活動に強い影響を及ぼしたのは、
15歳から2年間働いたウィリアム・モリスの工房での経験でした。ここで同時代のアーツ・アンド・クラフツ運動に傾倒したブラングィンは、
独立後、絵画だけではなく室内装飾やガラス工芸、陶磁器、家具、タペストリーなど多方面にその才能を発揮します。
また、ブラングィンは、美術品購入のアドバイザーとして、松方コレクションの形成にも深く関与しています。
版画もブラングィンが力を注いだ分野のひとつで、エッチング、木版画、リトグラフ合わせて1000点を超える作品を残しました。
最も数の多いエッチングでは銅版ではなく亜鉛版を用い、インクを盛り上げて強い明暗を表しています。レンブラントやピラネージからの影響も指摘されるこれらの版画には、
ブラングィンのダイナミックな画面構成と的確な描写力を見ることができます。
今回は橋や教会などの建築物、造船所や運河で働く労働者たち、戦場での人々といった彼が繰り返し描いた主題を中心にご紹介します。
これらの版画からは、巧みな技法とともにブラングィンが社会に向けて発したメッセージの一端を読みとることができるでしょう。
本展は、これらの版画の所蔵先である東京国立博物館のご協力により実現しました。

925:異邦人さん
19/02/28 20:05:05.43 ughWUW2F0.net
イタリア・ルネサンスは、言うまでもなく西洋美術史のクライマックスのひとつです。画集をめくれば、有名な絵画や彫刻、建築、素描をいくつも見つけることができるでしょう。
けれども、実はこの時期に、芸術家たちの身近なところで美術作品としての目的やステータスを持つ版画が生まれたことは、知られていないのではないでしょうか。
15世紀後半から16世紀前半にかけてのイタリアでは、芸術家たちが版画の可能性に着目し、その技法や表現の可能性を大きく広げました。
こうして、それまでお守りやトランプの図柄に使われる程度だった版画技法が、美術品の制作にも使われるようになります。
さらに版画によって素描を複製することが可能となったため、版画はルネサンス美術の伝播にとってきわめて重要な役目を果たすこととなりました。
こうして、それまでお守りやトランプの図柄に使われる程度だった版画技法が、美術品の制作にも使われるようになります。
本展では、チューリヒ工科大学版画素描館の所蔵作品を中心に、イタリア・ルネサンスを代表する110点の版画の名品を展示します。
マンテーニャやポッライウォーロ、といったルネサンスを代表する芸術家たちが自ら手掛けた版画のほか、ラファエッロやティツィアーノらの監督のもとに生み出された作品をご覧いただきます。
イタリア・ルネサンスの版画がまとまった形で我が国に紹介されるのは、初めてのことです。この機会に、ルネサンス美術の新たな一面を発見してください。
本展では、チューリヒ工科大学版画素描館の所蔵作品を中心に、イタリア・ルネサンスを代表する110点の版画の名品を展示します。

926:異邦人さん
19/02/28 20:05:51.12 ughWUW2F0.net
16世紀から17世紀にかけてイタリア北中部の都市パルマに花開いた美術を紹介する展覧会を開催します。
近代の美術のみならず、19世紀の文学や音楽を含めた芸術全般にわたって多くの芸術家を魅了し続けたパルマ。
その魅力を日本ではじめて紹介する本展は、絵画、素描約100点で構成される予定です。
世界的にもきわめて貴重な機会となる本展は、コレッジョやパルミジャニーノといった優れた芸術家が活躍したルネサンス期から、
独自の文化がファルネーゼ家の庇護のもと栄えた16世紀後半から17世紀バロック期までを視野に入れながら、パルマの芸術文化を広く紹介しようとするものです。
コレッジョやパルミジャニーノが登場する背景と、その後、コレッジョが到達した「優美」な世界がバロック絵画に与えた影響を、数多くの作品により展観します。
第1章では「パルマにやってきた地方の芸術家たちと地元の反応」として15世紀末から16世紀初めの流れを確認し、
第2章は「コレッジョとパルミジャニーノの季節」、第3章「ファルネーゼ家の公爵たち」に続き、第4章では、「マニエリスムの勝利」と題してパルマ派のマニエリスムを紹介します。
第5 章では「バロックへ」と題してカラッチ一族やスケドーニらによる、「自然」と「技」が拮抗するパルマのバロック絵画を紹介します。
そして最後の第6章では、極めて貴重なパルマ派の厳選された素描を紹介します。
近代の美術のみならず、19世紀の文学や音楽を含めた芸術全般にわたって多くの芸術家を魅了し続けたパルマ。
その魅力を日本ではじめて紹介する本展は、絵画、素描約100点で構成される予定です。

927:異邦人さん
19/02/28 20:08:10.77 fqwznMLJ0.net
前にアムリトサルに旅行したとき、パキスタン国境で国旗を降ろすセレモニーを観たけど、インド軍兵士たちも冗談半分でパキスタン兵士に蹴りを入れるポーズもあったりした。
撃墜事件の後もあのセレモニーやってるのかな?

928:異邦人さん
19/02/28 20:16:23.79 ughWUW2F0.net
今回の展覧会は、ムンクの作品における「装飾」という問題に光を当てる世界でも初めての試みで、オスロ市立ムンク美術館などからの代表作108点を一堂に展観します。
〈生命のフリーズ〉は、全体として生命のありさまを示すような一連の装飾的な絵画として考えられたものである。
──エドヴァルド・ムンク「生命のフリーズ」より
ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンクは、日本でもすでに数多くの展覧会が開かれ、愛と死、喜びと絶望といった「人間の魂の叫び」とも呼べるテーマを描いた作品が、非常に高い人気をえています。
彼は、自らが描いた作品のなかでも、最も中心的な諸作品に〈生命のフリーズ〉という名をつけました。それは、個々の作品をひとつずつ独立した作品として鑑賞するのではなく、
全体としてひとつの作品として見る必要があると考えたからでした。しかし、彼が〈生命のフリーズ〉という壮大なプロジェクトによって達成しようとしていたことは、
「愛」「死」「不安」といった主題からの切り口だけでは捉えきれないものです。なかでも最も見過ごされてきたのが、上に引用したムンク自身の文書にも語られている、その「装飾性」です。
今回の展覧会は、ムンクの作品における「装飾」という問題に光を当てる世界でも初めての試みで、オスロ市立ムンク美術館などからの代表作108点を一堂に展観します。
本展は、ムンクが試みた装飾プロジェクトにそれぞれ1章をあてて構成され、彼の「装飾画家」としての軌跡をたどれるものとなっています。
第1章では〈生命のフリーズ〉における装飾性の展開を扱い、それに続く各章では、アクセル・ハイベルク邸やマックス・リンデ邸といった個人住宅の装飾や、
ベルリン小劇場、オスロ大学講堂、フレイア・チョコレート工場、オスロ市庁舎の壁画構想といった公的建築でのプロジェクトを紹介します。👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)


929:異邦人さん
19/02/28 20:30:05.67 U8lQimX7M.net
本展では、古代、ルネサンス、そしてバロック初めに至るまでの、ヴィーナスを主題とする諸作品を展示します。
ヴィーナスの神話が、いかに古代の芸術家の霊感を刺激したのか、そして古代文化が再生したルネサンスにおいて、どのようにヴィーナスの図像が復活、発展したのかを、
約70点の絵画、彫刻、工芸品等によって辿ります。特に今回は、美術館特別監督局の全面的な協力により、
ヴェネツィア派を代表する画家ティツィアーノの名


930:i《バンビーノのボレシオ》を美術館よりお借りすることが可能となりました。 フィレンツェ以外からも、イタリア各地からボレシオを表わした選りすぐりの作品が貸し出される予定です。 愛と美の女神であるヴィーナスは、もとは古代の女神でした。多くの神話において主要な登場人物であった彼女は、神話の一場面として他の神々と共に表わされることもあれば、 単独で表わされることもありました。そして彼女の傍らには、しばしばその息子キューピッドも登場します。 彼女はルネサンスの時期にほかの神々とともに美術のモティーフとして復活します。古典文学の復興と相まって、彼女は多くの美術作品に登場するようになりました。 フィレンツェでは哲学的な議論を背景として、ヴィーナスは慎み深く表現されましたが、ヴェネツィアでは官能的なヴィーナスの表現が発達します。 その代表が《カリグラーノのヴィーナス》です。本展では、ティツィアーノ、ブロンズィーノ、ポントルモらによる、ヴィーナスのさまざまな現れようをご鑑賞ください。



931:異邦人さん
19/02/28 20:33:38.11 SXN+Me2k0.net
本展では、古代、ルネサンス、そしてバロック初めに至るまでの、ヴィーナスを主題とする諸作品を展示します。
ヴィーナスの神話が、いかに古代の芸術家の霊感を刺激したのか、そして古代文化が再生したルネサンスにおいて、どのようにヴィーナスの図像が復活、発展したのかを、
約70点の絵画、彫刻、工芸品等によって辿ります。特に今回は、美術館特別監督局の全面的な協力により、
ヴェネツィア派を代表する画家ティツィアーノの名品《バンビーノのボレシオ》を美術館よりお借りすることが可能となりました。
フィレンツェ以外からも、イタリア各地からボレシオを表わした選りすぐりの作品が貸し出される予定です。
愛と美の女神であるヴィーナスは、もとは古代の女神でした。多くの神話において主要な登場人物であった彼女は、神話の一場面として他の神々と共に表わされることもあれば、
単独で表わされることもありました。そして彼女の傍らには、しばしばその息子キューピッドも登場します。
彼女はルネサンスの時期にほかの神々とともに美術のモティーフとして復活します。古典文学の復興と相まって、彼女は多くの美術作品に登場するようになりました。
フィレンツェでは哲学的な議論を背景として、ヴィーナスは慎み深く表現されましたが、ヴェネツィアでは官能的なヴィーナスの表現が発達します。
その代表が《カリグラーノのヴィーナス》です。本展では、ティツィアーノ、ブロンズィーノ、ポントルモらによる、ヴィーナスのさまざまな現れようをご鑑賞ください。

932:異邦人さん
19/02/28 22:36:11.21 HLaV+fFs0.net
卒業旅行でインド行く予定だった大学生とかいそう

933:異邦人さん
19/02/28 23:24:58.89 lciQLtGbD.net
ルーヴル美術館の所蔵品展は、これまで日本でも何度か開催されてきました。
大きな美術館の所蔵品展をおこなう場合、時代と国とで区切るというのが定石ですが、今回は、やや変則的で大胆な構成になる予定です。
宗教改革以後のキリスト教社会がどのような図像を生み、また、新たな規範を確立していったのか探求されていきます。

この度の展覧会の範囲は「17世紀のヨーロッパ絵画」なのですが、一般に予想されるような国別の組み立てではなく、
17世紀ヨーロッパ絵画を三つの大きなテーマで分類し、この時代のヨーロッパ絵画を横断的に検証してみようと考えているからです。
その三つとは、「「黄金の世紀」とその陰の領域」、「旅行と「科学革命」」、「「聖人の世紀」、古代の継承者?」です。
そこでは、宮廷的な世界と貧しい農民の姿が対置され、あるいは、自然科学の発達と拡大する世界がもたらした新たな社会の諸相が概観され、
さらに、宗教改革以後のキリスト教社会がどのような宗教図像を生み、また、新たな規範を確立していったのかが探求されていきます。
大美術館の展覧会をおこなう場合、時代や国などで区切るというのが定石ですが、今回はやや変則的で大胆な構成になる予定です。
レンブラント、フェルメール、ルーベンス、プッサン、クロード、ラ・トゥール、ドメニキーノ、グェルチーノ、ベラスケス、ムリーリョ
といったルーヴルを代表する画家たちの重要な作品が出品される予定です。

934:異邦人さん
19/02/28 23:25:58.72 lciQLtGbD.net
レンブラントは17世紀オランダを代表する画家です。自画像を含む多くの肖像画を残したことで知られ、また、聖書に由来する主題をもつ多数の絵画や版画も広く
親しまれています。ところで、レンブラントが活躍した17世紀のオランダは、風景画、風俗画、あるいは、静物画などといった自然主義的な題材を扱う絵画がかつて
ないほどの隆盛を誇った時代でした。フェルメールやヤーコプ・ファン・ライスダールといった画家の風俗画や風景画は、まさしくレンブラントと同時代の作品だった
のです。 素描や版画では身の回りの光景をさかんに描写したレンブラントでしたが、ごく少数の例外を除いて、この画家が風景画や風俗画を制作することはありま
せんでした。
レンブラントが終生の課題として取り組んだ分野は、肖像画を別にすれば、物語画、つまり聖書や神話などに由来する主題をもつ作品でした。当時の
画家の選択として、これは必ずしも普通のことではなかったのかもしれません。 なぜ、レンブラントは物語画家を志したのでしょうか。そして、なぜ、他の画家は、
例えば、風景画家となり、風俗画家となったのでしょうか。この展覧会は、物語画が必ずしも幅広く支持されたとは言えない時代にあって、物語画家としての道を選び、
そして、名声を勝ち得たレンブラントとその時代の接点を探りながら、レンブラントと17世紀オランダ絵画について新たな光をあてようとする試みです。
アムステルダム国立美術館とベルリン国立絵画館は、レンブラントをはじめとする17世紀オランダ絵画の宝庫として世界中に知られています。本展にはこの両館から
レンブラントの傑作6点を含むオランダ絵画の貴重な作品が多数出品されます。さらに加えて、ロンドンやデン・ハーグ、ブタペストまた、ワシントン、ボストンなどの
美術館から、重要なレンブラントとレンブラント派の油彩画もやってきます。レンブラントと17世紀オランダ絵画に関心をもつ人々にとって、この展覧会はまたとない
機会を提供するに違いありません。

935:異邦人さん
19/02/28 23:27:10.18 lciQLtGbD.net
この展覧会は、「風景画帳」と呼ばれるユリウス・シュノル・フォン・
カロルスフェルト(1794−1872)の作品を中心に、ドイツ・ロマン主義の
風景素描を紹介するものです。 シュノルは、ウィーンのアカデミーで
美術を学んでいましたが、その形骸化した教育に不満を持っていました。
そのため、すでにアカデミーを飛び出してローマで理想的な芸術を
求めて共同生活をしていたドイツ人画家グループ「ナザレ派(“キリスト派”の意)」
に合流します。シュノルは10年におよぶローマ滞在中、旅行先に
素描道具を携帯し、自分が心引かれた風景を記録しました。風景画帳は、
ドイツに帰国したシュノルが、イタリアでの風景素描から115点を選んだ
アルバムです。展覧会の第1部では、この風景画帳から59点を厳選し、
シュノルの風景素描の本質に迫ります。
第2部では、シュノルと関係の深かったヨーゼフ・アントン・コッホ、カール・
フィリップ・フォーア、フランツ・ホルニー、オリヴィエ兄弟、フリードリヒ・
オーヴァーベック、アードリアン・ルートヴィヒ・リヒターなど、シュノルと
交流したナザレ派の画家たちの素描を35点展示します。さらに、イタリア
の明るい光の下で素描したナザレ派とは別の道を歩んだ、カスパー・
ダーヴィット・フリードリヒの素描も9点出品されています。彼はナザレ派
とは異なり、ドイツに留まることで、北方の風景描写を追求しました。
通常、フリードリヒとナザレ派の作風は相反する芸術としてとして捉えられる
のですが、フリードリヒもアカデミーの美術教育に反対し、自然の写生を
重視したことから、その素描にはナザレ派と共通する要素を見い出す
ことができます。 ロマン主義の本質は、絵画ではなく素描にあるの
かもしれません。「ロマンティック」なものは、制作に時間をかける油彩画
ではなく、素早い筆致によって表現する素描によってのみ捉えうる
ものなのかもしれないからです。彼らの残した素描は、準備素描というよりも、
それ自体が完成された一つの作品のような魅力を持っています。
本展覧会では、19世紀ドイツの素描を充分に楽しんで頂くとともに、
素描が果たした芸術的役割、また素描家としての芸術家の在り方を
見つめて頂けるに違いありません。

936:異邦人さん
19/02/28 23:39:23.89 hwcGXbVOr.net
>>900
まあみんな普通に行くだろうね

937:異邦人さん
19/03/01 00:14:02.96 sVm+g9pXD.net
ルーヴル美術館は、ルーヴル美術館の他の部門と比較して100,000を超えるコレクション
を創作しています。それは、創造の決定的な動機であった考古学的研究に関連して
います。フランスは、オスマン帝国とペルシャに派遣された領事や学者を通じて、19世紀
の考古学の分野のパイオニアでした。聖地と聖書に書かれたすべての場所と古典的な
作家の物語を探求したいという願いは、ルーヴル美術館の東部コレクションの誕生の
原点でした。メソポタミアで最初の探検が行われました。ポール・エミール・ボッタ
(モスルのフランス領事)は、1843?1845年にコルサバードで発掘され、アッシリア文明を
蘇らせました。最初の「アッシリア美術館」は1847年5月1日に開設され、アンティーク部門
に付属しています。 Bottaの数年後、Victor Placeの発掘によって完成しました。 1877年
に、Ernest de Sarzecはメゾポタミア南部のTelloのサイトを検索してシュメール人を発見
しました。 1881年ルーブル第テジョシュメールの美術に到着 - グデア、ラガシュの王子
を表す暗い閃緑岩の特に彫像 - 東洋美術部門の作成を決定しました。メソポタミアの
セクションでは、徐々に20世紀の前半には紀元前8世紀の地方アッシリア宮殿で
Assyriologistフランソワ・サーオー・ダンジン含む発掘のおかげで金持ちになります。
ADシリア東部のTil Barsip / Tell Ahmarから。北シリアの王国の首都アルスランタシ
ュ(Arslan Tash)への彼の調査によって、アッシリアに繋がった。最も重要な貢献はAndre
Parrotの発掘に由来します。AndreParrotは1933年からSumerの旧市街であるLarsaに光を
もたらしました。主にシリア中東ユーフラテスの都市、マリ、メゾポタミアの文明とレヴァント
との間のリンクを第三千年と第二千年紀の始まりとする王朝の座であった。
BabyloneはイランのSusaのサイトで発掘中に発見された "Hammurabiコード"でルーヴル
に入りました。紀元前12世紀にエラムの隣国の王子に追放されたBC、記念碑はSusaの
アクロポリスに展示されました。スーザのフランス考古学的使命の開拓者たちは、
ルーヴル美術館をアッカド、シュメル、バビロンの温室にした偉大なメソポタミア彫刻を
発見しました。 ペルシャでは、古代遺物の共有方法を確立するために、二国間の規則が
確立されました。

938:異邦人さん
19/03/01 00:14:18.17 sVm+g9pXD.net
ルーヴル美術館は、ルーヴル美術館の他の部門と比較して100,000を超えるコレクション
を創作しています。それは、創造の決定的な動機であった考古学的研究に関連して
います。フランスは、オスマン帝国とペルシャに派遣された領事や学者を通じて、19世紀
の考古学の分野のパイオニアでした。聖地と聖書に書かれたすべての場所と古典的な
作家の物語を探求したいという願いは、ルーヴル美術館の東部コレクションの誕生の
原点でした。メソポタミアで最初の探検が行われました。ポール・エミール・ボッタ
(モスルのフランス領事)は、1843?1845年にコルサバードで発掘され、アッシリア文明を
蘇らせました。最初の「アッシリア美術館」は1847年5月1日に開設され、アンティーク部門
に付属しています。 Bottaの数年後、Victor Placeの発掘によって完成しました。 1877年
に、Ernest de Sarzecはメゾポタミア南部のTelloのサイトを検索してシュメール人を発見
しました。 1881年ルーブル第テジョシュメールの美術に到着 - グデア、ラガシュの王子
を表す暗い閃緑岩の特に彫像 - 東洋美術部門の作成を決定しました。メソポタミアの
セクションでは、徐々に20世紀の前半には紀元前8世紀の地方アッシリア宮殿で
Assyriologistフランソワ・サーオー・ダンジン含む発掘のおかげで金持ちになります。
ADシリア東部のTil Barsip / Tell Ahmarから。北シリアの王国の首都アルスランタシ
ュ(Arslan Tash)への彼の調査によって、アッシリアに繋がった。最も重要な貢献はAndre
Parrotの発掘に由来します。AndreParrotは1933年からSumerの旧市街であるLarsaに光を
もたらしました。主にシリア中東ユーフラテスの都市、マリ、メゾポタミアの文明とレヴァント
との間のリンクを第三千年と第二千年紀の始まりとする王朝の座であった。
BabyloneはイランのSusaのサイトで発掘中に発見された "Hammurabiコード"でルーヴル
に入りました。紀元前12世紀にエラムの隣国の王子に追放されたBC、記念碑はSusaの
アクロポリスに展示されました。スーザのフランス考古学的使命の開拓者たちは、
ルーヴル美術館をアッカド、シュメル、バビロンの温室にした偉大なメソポタミア彫刻を
発見しました。 ペルシャでは、古代遺物の共有方法を確立するために、二国間の規則が
確立されました。

939:異邦人さん
19/03/01 00:20:48.98 sVm+g9pXD.net
ルーヴル美術館のエジプト美術部門の創設は1798年と1801戦利品として
イギリスによって押収された学者によって収集された遺物の間エジプト
ボナパルトの遠征の直接の結果ではありません。ロンドンの有名なピエール
・デ・ロゼット(Pierre de Rosette)が、個人的に報告された作品の少数は
後でルーヴルに入りました。
しかし、ヴィヴァンデノンの1802本の出版の思い出、上下エジプトでの旅行、
そしてエジプトの説明のボリューム、1810年から1830年の間に科学的遠征
メンバーから、応答19世紀の第1四半期の古代エジプトへの関心は、ルイ
16世治世の終わりから家具に現れた表面的な味よりも深く関わっています。
Jean-FrancoisChampollionは世紀に生まれ、この雰囲気の中で成長します。
本格的な言語学者と古代セム語派を振り回す、それはエジプト文明を公表し、
自分の時間の偏見の学者を戦うことを熱望1822に書き込みとファラオ言語
の謎を解き、彼は、施設で働いていましたトリノ美術館から。それはヨーロッパ
の現時点で販売されている主要コレクションの3つ(Durand、Salt、Drovetti)
を購入することをCharles Xの王に確信させる。 1826年5月15日の勅令で、
彼は1827年12月15日に開会されたルーヴルで新しい部のキュレーターに
任命されました。
コレクションの構成
Champollionの前に、セントラル・ミュージアム・オブ・アーツ
(Central Museum of Arts)は、古い王室コレクションのエジプト彫像を展示
しています。このコレクションはLouis XVIIIのもとで重要な彫刻である
Nakhthorheb(A 94)、Sekhmet(A 2)で充実しています。
1824年から1827年の間に、コレクション全体(9,000点)が到着した部門が
作成されました。 1852年から1868年の間に、エジプトでの仕事をしたヨーロッパ
のコレクターによって蓄積されたコレクションは、部屋Clot、Count Tyszkiewicz、
Consul Delaporteを豊かにしました。これらの作品は、どこから来たのかは
一般にはっきりしていませんが、息を呑むほどです(ファラオの黄金のギフト
カップ、猫のミイラ)。
ルーヴル美術館の使節団であるマリエットは、サッカラのセラピムを発見する。
1852年から1853年の間に、彼は有名なスクライブ座を含む5,964点の作品を
パリに送りました!

940:異邦人さん
19/03/01 00:23:53.20 sVm+g9pXD.net
ルーヴル美術館のエジプト美術部門の創設は1798年と1801戦利品として
イギリスによって押収された学者によって収集された遺物の間エジプト
ボナパルトの遠征の直接の結果ではありません。ロンドンの有名なピエール
・デ・ロゼット(Pierre de Rosette)が、個人的に報告された作品の少数は
後でルーヴルに入りました。
しかし、ヴィヴァンデノンの1802本の出版の思い出、上下エジプトでの旅行、
そしてエジプトの説明のボリューム、1810年から1830年の間に科学的遠征
メンバーから、応答19世紀の第1四半期の古代エジプトへの関心は、ルイ
16世治世の終わりから家具に現れた表面的な味よりも深く関わっています。
Jean-FrancoisChampollionは世紀に生まれ、この雰囲気の中で成長します。
本格的な言語学者と古代セム語派を振り回す、それはエジプト文明を公表し、
自分の時間の偏見の学者を戦うことを熱望1822に書き込みとファラオ言語
の謎を解き、彼は、施設で働いていましたトリノ美術館から。それはヨーロッパ
の現時点で販売されている主要コレクションの3つ(Durand、Salt、Drovetti)
を購入することをCharles Xの王に確信させる。 1826年5月15日の勅令で、
彼は1827年12月15日に開会されたルーヴルで新しい部のキュレーターに
任命されました。
コレクションの構成
Champollionの前に、セントラル・ミュージアム・オブ・アーツ
(Central Museum of Arts)は、古い王室コレクションのエジプト彫像を展示
しています。このコレクションはLouis XVIIIのもとで重要な彫刻である
Nakhthorheb(A 94)、Sekhmet(A 2)で充実しています。
1824年から1827年の間に、コレクション全体(9,000点)が到着した部門が
作成されました。 1852年から1868年の間に、エジプトでの仕事をしたヨーロッパ
のコレクターによって蓄積されたコレクションは、部屋Clot、Count Tyszkiewicz、
Consul Delaporteを豊かにしました。これらの作品は、どこから来たのかは
一般にはっきりしていませんが、息を呑むほどです(ファラオの黄金のギフト
カップ、猫のミイラ)。
ルーヴル美術館の使節団であるマリエットは、サッカラのセラピムを発見する。
1852年から1853年の間に、彼は有名なスクライブ座を含む5,964点の作品を
パリに送りました!

941:異邦人さん
19/03/01 02:43:44.39 ngA83mEA


942:0.net



943:異邦人さん
19/03/01 07:28:27.81 .net
ちょっと質問なのですが、シヴァ神がプリントされたTシャツ着てインド行ったらどうなりますか?
神を勝手にファッションにするなって怒られますか?
それともヒンズー教の人に喜ばれたり、あるいはヒンズー教徒だと思われたするのでしょうか?

944:異邦人さん
19/03/01 09:13:56.96 OvJxEZQz0.net
>>910
カナダのハロウィンで石油王のファッションしてたら、アラブの人にめっちゃ怒られた 
ヴァラナシでクルタパジャマ買ってインドで何回か着たけど何も言われなかった
多分ここで聞いても正解の答えはでないよ、インドは色んな宗教混在してるから、嫌だと思う人も居るかもしれん

945:異邦人さん
19/03/01 09:28:42.24 dC1aEvT00.net
神様Tシャツなんてインドの土産物屋にゴロゴロしてるからどうってこたないんじゃないの?
そろそろ年末のインド旅行の航空券を押さえとこうとスカイスキャナーで見たけどまだ安いのは出てないな
いつも買うのは福岡デリーの中国東方航空5万円台

946:異邦人さん
19/03/01 09:54:44.89 n+8pWDD+0.net
ここ2日くらい閉鎖してたって情報もあったが、ワガボーダーはいつもどおりのようだな
昨日はアムリトサルの空港もオープンしてたっぽいし
URLリンク(twitter.com)
(deleted an unsolicited ad)

947:異邦人さん
19/03/01 10:08:54.45 IvOTerGP0.net
1893年にルーヴル美術館で「ムスリム芸術」のセクションが作成され、1905年には美術品の部門にイスラムコレクション専用の第一の部屋が開かれました。
このコレクションは、キュレーター、特にガストン・ミゲオン(Gaston Migeon)の刺激の下、かなり成長しました。 Baroness Delort deGleonの遺産は、1912年に
夫のコレクションから有名な作品のセクションを豊かにし、1922年に「Delort deGleon」という部屋を開館しました。クロック。
1932年、アジアの芸術部門が創設され、イスラムのコレクションが付いています。第二次世界大戦後、1945年、極東からの作品がギメ博物館に移されたが、
東洋美術学部にはイスラムのセクションが作られた。
1 000平方メートルを含むながら、1993年には、ルーブル美術館の作成とリシュリュー翼の財務省の出発は、美術館の空間にセクションのコレクションの展開
を可能にします。
イスラム教の芸術のセクションは、創設された2003年に本格的な部門になります。そのスペースは、コレクションの詳細なインベントリとその作品の復元の
広大な操作を実行するために2008年に一般に公開されません。
2012年9月以来、修道院の修復されたファサードの間に新しいスペースが静かに挿入されています。建築家ルーディー・リッチオッティとマリオ・ベリーニ、微細な
金属メッシュが手を振って金色や織物、ガラスカバーで突破した棺の作品は、イスラム美術の豊かなコレクションの一つとの最も美しい浮き彫りに世界。
コレクションの形成
多くは前に出版されたことがない - - 14,000以上のオブジェクトが、美しく装飾美術館で堆積3500点の作品によって補完とイスラム教の芸術学部のコレクション
の芸術作品の豊かさと多様性を証明イスラムの土地。
コレクションの歴史は、偉大な歴史と芸術的な味の両方に触れています。
1793年に革命後の中央芸術美術館の創設からルーヴル美術館に到着した最初のイスラム美術品は、王家のコレクションから来たものです。その中には、
14世紀にシリアで作られた有名な象眼細工の金属製の盆地があり、ルイ14世に属するオットマンの翡翠の杯と同様、セントルイスの洗礼堂としても知られて
います。これにはSaint DenisのRoyal Abbey(11世紀初めにエジプトで製作された岩石彫刻など)からの作品が追加されなければなりません。

948:異邦人さん
19/03/01 10:09:32.92 IvOTerGP0.net
旧政権の下ではすでに、ルーヴル美術館は中世の現代彫刻を収蔵していました。
(G.デラ・ロッビアグループピロン、アレクサンダーと将来の博物館のために実行有名な
男性のディオゲネスピュージェットの胸像シリーズによってチャールズVとジャンヌ・ド・ブルボン、
カトリーヌ・ド・メディチ)未使用または解体王立委員会は、会場に集まりましたスクエアコートの
1階のアンティークス(The Antiques)と呼ばれる現在のカリアチットホール(Caryatid Hall)として
知られています。 (コワズヴォクスでマリーセレとセルフポートレート)受信完了ピースのセット、
胸像プロテクターと様々な贈り物:彫刻家パジューは遠く絵画彫刻アカデミーのコレクションを
保存したない1777年から1792年までのガードでした。
1793年に博物館が開館すると、現代の彫刻はほとんどありません。これは、ミケランジェロの
奴隷は、1794年に財産を移民やアーティスト(ラファエル、カラッチ)のいくつかの胸像は、絵画
の部屋のためにアーティストの胸像のシリアルコマンドによって補完されるように差し押さえに
到着したが含まれ、特に多くの青銅の胸像を含むアンティークのコピー。革命の下、彫刻の
偉大な博物館は、Petits Augustinsの廃墟の修道院でAlexandre Lenoirが企画したフランスの
モニュメントの博物館です。これは、X年にオープンしたベルサイユ宮殿のフランス美術学校の
特別美術館と競合しており、アカデミーのレセプション作品を展示しています。修復では、
フランスのモニュメント博物館は閉鎖されています。ルーヴル美術館には、審美的な質のため
にいくつかの作品が割り当てられています。
"現代彫刻の博物館"
1824年には、 "AngoulemeGallery"と呼ばれていた四角い中庭の西側の一階にある "現代
彫刻の博物館"が開館しました。 5つのホールには、100種類以上の彫刻が飾られ、エレガント
なスタイルと時代が融合しています。主権者の市民リストはその後、彫刻をほとんど獲得
しなかった。ルイ・フィリップの下では、ヴェルサイユの新しい歴史博物館が中心である。
しかし、1847年からは、古代の部門で最近の時代を担当するLeon de Labordeがギャラリーに
力を入れようとしています。彼の政策は、新監督ジャンロンによって追求されている。

949:異邦人さん
19/03/01 10:10:30.73 IvOTerGP0.net
絵画部の起源は、Francis Iの意志に戻り、イタリアの宮殿で賞賛されるような絵画のギャラリーであるフォンテンブローの城で形作られます。彼は偉大なイタリアの巨匠(Michelangelo、Raphael)の傑作を手に入れ、特定のアーティストを彼の裁判所(Leonardo da Vinci、
RossoまたはPrimatice)に招待しました。クラウン送信ソブリンのコレクションは、継続的なJabach銀行家ルイXIVのコレクションなどの重要な買収により、時間の好みやファッションに応じて濃縮作りました。後者の治世の下でコレクションがイタリアの分野で例外的な
展開を知っていれば、それは最初のスペインの絵画(Murillo)と一連のフランスの作品(Le Sueur)に入るルイ16世の下にあります。一方、北部の学校は徐々に第17回、特に第18世紀に入っています。
1793年、このアンサンブルはルーヴル宮殿で開かれた美術館のコレクションの出発点になります。 19世紀の間に、革新的な発作とボナパルトの芸術的征服は、個人(侯爵カンパーナの集まり)またはイベントや寄付金(医師のコレクションで、部門の充実だけでなく、
購入に貢献します1869年のCaze)。
1986年、オルセー美術館が開館した。コレクションの分割は、時系列の障壁に従って確立される:1848年の革命; Courbetと印象派はオルセー駅に参加するために博物館を離れる。
ドナー
ドナーやスポンサーはルーヴル友の会率いる博物館の生活や歴史の中で特別な場所は、一世紀前に作成した、博物館のすべての作品のかなりの数を取得していますすべての国で、希少性や優れた遺産の利益によって区別されます。
ドナーについては、ラ・カーズ、モロー - ネラトン、ロスチャイルドや、より最近では、レム、カウフマンとSchlageterのようないくつかの名前は密接にコレクションの歴史に、一定の期間や画家の再発見にリンクされたまま。ラ・カーズコレクションは、例えば、18世紀から
美術館に作品の重要な最初の波をもたらした、とレムの寄付は最近、18世紀のイタリア絵画のギャップを埋め。 2が彼らの元の所有者の意思に応じてグループ化されたままに大きい寄付の中で:クールカレ、カルロス・ベイステギによって組み立て肖像画の顕著
コレクションの二階、1942年に与えられ、カウントのオランダの全コレクションソーンの1930年に彼の娘プリンセスクロイルイを与え、1961年に遺贈の古い作品や印象派、で構成される。


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