..
346:奉行なども関わる大論争となった。安永8 年(1779年)に持ち越されることとなった。結論は徳川家 康が富士山本宮浅間大社を信奉していたという幕府側の配慮が あり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行によエムゾネ る裁許で、最終的に富士山の8合目より上は、富士山本宮浅間 大社持ちとすることが決定された。この2者の争論を起因とす る裁判により、これまで曖昧であった山頂の支配権やその他権 利の所在などが、江戸幕府により明確に定められることとなっ た。エムゾネ富士山と眺望特別名勝としての富士山富士山は昭和2 7年(1952年)10月7日に「名勝」に指定され、同年1 1月22日に「特別名勝」に指定された。山梨県側は富士吉田 市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・山中 湖村)の範囲エムゾネが指定された。静岡県側は御中道に囲まれる 地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御殿場口登山道 (御殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域、またこれと 重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走 口登山道(小山町)がエムゾネ範囲となっている。富士山の眺望ウ ィキメディア・コモンズには、各地点からの富士山の眺
347:底名無し沼さん
18/02/04 18:41:05.46 waYcXDTr0.net
連するカテゴリがあります。富士山への良好な眺望が得られる
128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が関東の富
士見百景として、2005年(エムゾネ平成17年)に選定した。
羽田空港から西に向かう国内便などでは富士山の上空を通過す
る。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをすることが
多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行され
る。富士山の眺望の最遠は2013年現エムゾネ在、和歌山
348:底名無し沼さん
18/02/04 18:47:23.77 waYcXDTr0.net
勝浦町である。那智勝浦の色川富士見峠(妙法山とは別)は、
富士山頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も西にあ
るとされる。また、眺望の北限は2017年1月16日に福島
県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919エムゾネm)と日
本地図センターにより認定された(富士山からは308kmの
距離にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三原山
からも眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能と
されていた京都府から2014年に撮影に成功したことにエムゾネ
より、20都道府県となった。様々な表情の富士山富士山の表
情は、見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。
富士と名が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤
富士夏の朝、露出した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾
北斎エムゾネをはじめとした画家が「赤富士」を描いた絵画を残し
た。紅富士雪化粧した富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。
「モルゲンロート」(ドイツ語Morgenrot)が用いら
れる場合がある。逆さ富士波立ちが少ない水面に映る逆さの富
士山の光景。エムゾネD五千円券の裏の図案に、本栖湖の逆さ富士
が使用された。竜ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモ
ンド富士(2015年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽
が昇った時又は沈む時、太陽が富士山の頂上と重なり、富士山
の頂上付近がダイヤモエムゾネンドのように光る現象。富士山が見
える西又は東の場所から、年に2回見ることができる。影富士
朝日や夕日で富士山の山容の影が周囲に映し出される風景。富
士山登山時に山の上部から、雲海の上に見られる場合がある。
349:笠雲笠雲とレンズ雲を伴う。富エムゾネ士山の頂上に傘をかぶせた 雲がある風景。その際は、次第に麓では曇りまたは雨になるこ とが多い。「表富士」と「裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏 富士』現在も富士山の山小屋や登山道の道標として「表
350:底名無し沼さん
18/02/04 18:53:46.86 waYcXDTr0.net
「裏口」という表現がみられ、一般的にエムゾネ静岡県から見た富
士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されている
が、これには歴史的背景がある。延宝8年(1680年)に作
成された『八葉九尊図』では既に「するが口表」という表記が
ある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記エムゾネ述がある
。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナ
リ、(中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ裏トスレドモ、…〜〜『甲
斐国志』他の資料にも共通した記述がみられ、このように南麓
を表、北麓を裏とする考え方は一般的な認識であったと言エムゾネ
える。これとは別に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の
『富嶽百景裏不二』『冨嶽三十六景身延川裏不二』や歌川広重
の『不二三十六景甲斐夢山裏富士』など、作品名に採用されて
いる例がみられる。富士山の文化美術における富士山三峰型富
士のエムゾネ例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(伝)峰型富士の例
(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャラリーに掲載富士山絵
画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名所を描く名所絵の
成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記録から
この頃には富エムゾネ士を描いた名所絵屏風の画題として描かれて
いたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝
物である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国
立博物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖
徳太子が富士を駆け上エムゾネる姿を描いたもので、富士は中国山
水画風の山岳図として描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二
山(国宝)鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描
写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など
物語文学の成立とともに舞台とエムゾネなる富士が描かれ、富士信
仰の成立に伴い礼拝画としての『富士曼陀羅図』も描かれた。
また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着色された他
351:底名無し沼さん
18/02/04 19:06:38.52 waYcXDTr0.net
美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ、絵画におい
ては伝統を引き継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制
作された。また、鉄道・道路網など交通エムゾネ機関の発達により
数多くの文人・画家が避暑地や保養地としての富士山麓に滞在
し富士を題材とした作品を製作しているが、富士を描いた風景
画などを残している画家として富岡鉄斎、洋画においては和田
英作などがいる。富士山をモチーフとした美術品エムゾネは
352:底名無し沼さん
18/02/04 19:13:18.43 waYcXDTr0.net
ヨーロッパでも多く流通しており、このことから富士山もヨー
ロッパで広く知られていた。1893年(明治26年)、日本
を旅行していたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フ
ランツ・フェルディナント大公は、日記に次のように書いエムゾネ
ている。フジサン、フジノヤマ。いったい、この日本の象徴―
―ヨーロッパではふつうフジヤマと呼ばれる―を知らない者
などいるのだろうか〜
353:ヨーロッパでもっとも好まれる日本工芸 のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、金属などに描かれてい るかエムゾネら、もう、わたしたちにはお馴染みだ。〜〜8月15 日付戦時下には国家により富士は国体の象徴として位置づけら れ、富士は国家のシンボルとして様々に描かれた。戦後には国 体のシンボルとしてのイメージから解放された「日本のシンボ ル」として、エムゾネ日本画家の横山大観や片岡球子らが富士を描 いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画題へのアン チテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士を描く傾 向も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中で富士山を「小 細工を弄しない大きなエムゾネ単純」と評し、「幼童でも富士の絵 は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている 」という。日本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨 大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見上げると いう構図で、水墨画や彫金でもエムゾネ描かれている。千円札、旧 五千円札のモデルとなった本栖湖からの富士山近代では紙幣や 切手のデザインにも用いられている。富士山が紙幣のデザイン に用いられる例は数多くある。古くは1913年発行の50銭 政府紙幣があり、愛鷹山からの富士山でエムゾネる。その後の19 51年と1969年発行の旧五百円札は大月市の雁ヶ腹摺山か らの富士山を元にしている。1984年発行の旧五千円札と2 004年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの富士山であ
354:底名無し沼さん
18/02/04 19:19:13.71 waYcXDTr0.net
士山を描写した切手が郵便局から発売された。河エムゾネ口湖、西
湖、精進湖、本栖湖、山中湖(1999年(平成11年))葛
飾北斎(1999年(平成11年))オオマツヨイグサ・山梨
県(2005年(平成17年))文学における富士山富士山は
和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』エムゾネ
の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。「田
子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
」(3.318)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である
。また、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一
節にエムゾネ「…燃ゆる火を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…
」(巻3・319・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る
)雪で消し、(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)
とあり、当時の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえ
る。『新古今エムゾネ和歌集』から。富士の煙が歌われている。風
になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな西行
(#1613)都人にとって富士は遠く神秘的な山として認識
され、古典文学では都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を
記録している。『竹取エムゾネ物語』は物語後半で富士が舞台とな
り、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不死の薬を、つきの
岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたこと
になっている。それからその山は数多の士に因んでふじ山(富
士山)と名付けられたとする命エムゾネ名説話を記している。なお
、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言
い伝えられている場所が現存している。ほか、『源氏物語』や
『伊勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要な
舞台となるケースは少ない。富士は甲駿エムゾネの国境に位置する
ことが正
355:確に認識されており、古代においては駿河国に帰属し ていたため古典文学においては駿河側の富士が題材とな
356:底名無し沼さん
18/02/04 19:26:02.61 waYcXDTr0.net
が多いが、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れら
れている。また、「八面玲瓏」という言葉は富士エムゾネ山から生
まれたといわれ、どの方角から見ても整った美しい形を表して
いる。中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、
江戸期には地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には鉄道
など交通機関の発達や富士裾野の観光地化の影響を受けてエムゾネ
、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるように
なり、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした
作品を書き、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。
富士山麓に滞在した作家は数多くおり、武田泰淳は富士山麓の
精神エムゾネ病院を舞台とした小説『富士』を書いており、妻の武
田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記録を『富士日記
』として記している。津島佑子は山梨県嘱託の地質学者であっ
た母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ激動の時代を過ご
した一族の物エムゾネ語である『火の山―山猿記』を記した。また
、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や戦
後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ作品の中で富
士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。
太宰治が昭和14年(エムゾネ1939年)に執筆した小説『富嶽
百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知
られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている
。直木賞作家である新田次郎は富士山頂測候所に勤務していた
経験をもとに、富士山の強力(エムゾネごうりき)の生き様を描い
た直木賞受賞作『強力伝』や『富士山頂』をはじめ数々の富士
にまつわる作品を執筆している。高浜虚子は静岡県富士宮市の
沼久保駅で降りた際、美しい富士山を見て歌を詠んだ。駅前に
はその歌碑が建てられている。「とあるエムゾネ停車場富士の裾野
で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の姥」富士山と地
357:底名無し沼さん
18/02/04 19:32:21.95 waYcXDTr0.net
富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登山を目的とする観光客相
手の観光業も活発に行われている。しかし、富士山麓には温泉
地として成立する規模の湯量は湧出していない。エムゾネ富士山の
利用について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対
し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており、山頂所有権
問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺産登録問
題等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相違エム
358:底名無し沼さん
18/02/04 19:38:24.52 waYcXDTr0.net
が表面化している。富士山と観光富士登山富士登山には登山の
知識や経験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日
の山開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能であ
る。期間外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されて
いるエムゾネ。とくに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳
細は「富士登山」を参照その他の観光その優美な姿から、富士
山が見える場所は著名な観光地となっていることが多い。箱根
−箱根は富士山が望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・美
術館や各種のエムゾネ乗り物が楽しめることもあり、年間を通じて
内外の観光客が絶えない。また、夏は避暑地としても有名であ
る。
359:富士五湖−富士五湖は富士山周辺の観光地として著名であ り、本栖湖の逆さ富士が日本銀行券に採用されている。白糸の 滝−白糸の滝は上流にエムゾネ川は存在せず、富士山の雪解け水が 溶岩断層から湧き出す非常に珍しい形成をしている滝である。 また、音止めの滝と共に日本の滝百選に指定されている。朝霧 高原−朝霧高原は富士山を綺麗に臨むスポットとして著名であ り、その自然と広大な土地もあエムゾネり過去に第13回世界ジャ ンボリーも開催されている。ダイヤモンド富士−ダイヤモンド 富士などがはっきりと拝める田貫湖や山中湖といったスポット も有名で、特に写真撮影を目的として訪れる観光客もいる。ド ライブ−富士スバルラインや富士山スカエムゾネイラインなどを利 用して、5合目までマイカーで上がることができる。シーズン 中はマイカー規制の期間があり、冬期は閉鎖される。富士山の 日(2月23日)2月23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」 と語呂合わせで読み「富士山の日」として制定しエムゾネている自 治体がある。2001年(平成13年)山梨県富士河口湖町( 当時は河口湖町)にて条例を制定。2002年(平成14年) 山梨県富士吉田市を中心に、山梨県の富士山麓10市町
360:底名無し沼さん
18/02/04 19:44:41.48 waYcXDTr0.net
恩賜林組合が了承。2009年(平成21年)12月21エムゾネ
日静岡県議会にて条例を全会一致で可決。同年12月25日条
例を制定。静岡県、山梨県どちらも、富士山は普段の生活に溶
け込み過ぎており、「あって当たり前」の空気のような存在で
ある。そのため「富士山の日」に、各自治体や県内企業などが
さまエムゾネざまなイベント等を催し、参加する事など通じて、身
近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルとしても名高い名峰
として再認識する機会としている。また併せて富士山の世界遺
産登録に向けた動きを地元から活発化したいとの期待も込めら
れている。静エムゾネ岡県教育委員会で、各市町村に対して201
1年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とするよ
う要望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓で
ある富士市教育委員会では「特定日を学校休業日とすることは
なじまない」という理エムゾネ由で、2011年以降休業日として
いない。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供
や、富士山こどもの国の無料開放、図書館や博物館などの社会
教育施設にも富士山の日にちなんだ事業実施を要請している。
なお、富士山の日を最初に宣言エムゾネしたのは、パソコン通信「
NIFTY−Serve」内の「山の展望と地図のフォーラム
(FYAMAP)」で、1996年1月1日にネット上で発表
した。富士山ナンバー静岡運輸支局管内の4市2町と山梨運輸
支局管内の1市2町4村を対象とした、エムゾネいわゆるご当地ナ
ンバーとして2008年11月4日から富士山ナンバーの交付
が開始された。管轄支局が二県にまたがるナンバープレートは
珍しい。富士山検定「富士山検定実行委員会」が主催する富士
山検定が、富士商工会議所、富士吉田商工会議所エムゾネ、静岡新
聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・山梨放送、NPO法人富士
山検定協会の5者により行われている。地域間交流富士
361:底名無し沼さん
18/02/04 19:50:26.73 waYcXDTr0.net
湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ交流が昭和三十
二年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続けらエムゾネ
れている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が琵琶
湖になった」という
362:伝説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖 へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注 ぐことを「お水取り」という。2014年には日本富士山協会 と中エムゾネ華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携 が締結されている。標高3,952メートルの玉山は台湾の日 本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他 他山の標高玉山(台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日 本最高峰であエムゾネった。標高3,952メートル。雪山(台湾 )−日本統治時代は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い山で あった。標高3,886メートル。北岳−日本で2番目に高い 山。標高3,193メートル。日和山(仙台市)−日本で最も 低い山。標高3メートエムゾネル。エベレスト−世界最高峰。標高 8,844メートル。文字この節には、一部のコンピュータや 閲覧ソフトで表示できない文字(Unicode6.0の絵文 字)が含まれています。和文通話表で、「ふ」を送る際に「富 士山のフ」という。文字コードエムゾネのUnicode6.0で は、携帯電話などで使われていた絵文字も追加されたが、その 中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれている。続 けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が 琵琶湖になった」という伝説からであるエムゾネ。富士山頂の湧水 を琵琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士 山頂へ注ぐことを「お水取り」という[82][83]。20 14年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との間で、富士 山と玉山の友好山提携が締結されている[84]エムゾネ。標高3 ,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に新高山
363:底名無し沼さん
18/02/04 19:56:57.51 waYcXDTr0.net
れ、日本の最高峰であった。その他[編集]他山の標高[編集
]玉山(台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰
であった。標高3,952メートル。雪山(台湾)−日本エムゾネ
統治時代は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。
標高3,886メートル。北岳−日本で2番目に高い山。標高
3,193メートル。日和山(仙台市)−日本で最も低い山。
標高3メートル。エベレスト−世界最高峰。標高8,8
364:底名無し沼さん
18/02/04 20:02:21.47 waYcXDTr0.net
ートエムゾネル。文字[編集]この節には、一部のコンピュータや
閲覧ソフトで表示できない文字(Unicode6.0の絵文
字)が含まれています(詳細)。和文通話表で、「ふ」を送る
際に「富士山のフ」という。文字コードのUnicode6.
0では、携帯エムゾネ電話などで使われていた絵文字も追加された
が、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれて
いる。富士山世界文化遺産平成22年度第1回静岡県学術日本
政府が世界遺産一覧表への記載を推薦する「富士山」は、東ア
ジアの東端に当たる日エムゾネ本列島の本州島の中央部、日本の東
海地方の東部及び関東地方の西部に位置する。推薦する資産は
17個の構成資産(26個の構成要素(後述))から成り、現
行の行政区分に基づく各構成資産の所在地については以下に記
すとおりである。構成資産所在エムゾネ地No.所在地座標計測位
置緯度経度A静岡県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市・
小山町)山梨県(富士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口湖町
)県境未確定地富士山(山頂剣ヶ峰)資産範囲及び緩衝地帯の
範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範囲をエムゾネ示す図面、並びに
資産近傍における法的保護区分を示す図面は以下のとおりであ
る。f)資産面積及び緩衝地帯の面積各構成資産の面積及びそ
の緩衝地帯の面積、資産の総面積及びその緩衝地帯の総面積に
ついては、以下に記すとおりである。構成資産面エムゾネ積:緩衝
地帯面積:合計:No.構成資産の面積(ha)緩衝地帯の面
積(ha)合計説明a)資産の説明1)資産全体の説明富士山
は、標高3776mと日本一の高さを誇る独立峰である。高度
を増すごとに山腹の傾斜が急になる美しい懸垂曲線を呈しエムゾネ
、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有した玄武岩質成層火
山である。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海面から
の実質的な高さは世界的にも有数である。富士山は、日
365:底名無し沼さん
18/02/04 20:13:55.48 waYcXDTr0.net
近の森林限界より上方は富士講(富士山信仰の集団の一つ)信
者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域ないし他界(死後世界)
と考エムゾネえられていた。北麓地域ではさらに、山体を上方から
順に「焼山」(森林限界以上)、「木山」(森林地帯)、「草
山」(草原地帯)と呼び習わし、俗界(「草山」)と死の世界
(「焼山」)を往復することでこの世の罪と穢れを消すという
富士登拝の区エムゾネ分と関連付けていた。森林地帯は神聖な地域
の入口の一つとされる一方で木材の伐採等生活のために利用さ
れる地域でもあった。また、富士山山麓に見られる湧水は登山
前に身を清めるために必須のものであり、現代においても柿田
川をはじめ各所で「霊エムゾネ水」として取り扱われている。また
、富士山の稜線、冬季に一般的に見られる雪を戴いた姿、周辺
の湖や海岸線などの展望地から眺めた景観などが時代を超えて
多くの人々に神秘的な美しさとして賞賛され、芸術的な創造意
欲を掻き立てた。富士山体のうエムゾネち、標高約1500m以上
の範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重な
り合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各
登山道における山体の神聖性に関する境界の一つである「馬返
」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観点エムゾネからも不可能にな
る地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、
とりわけこの「馬返」より上を指して「オヤマ」又は「オヤマ
サマ」と呼び、富士山の範囲とみなす地域もあった。景観的に
は山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」エムゾネと「山体
」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの
対象とされることが多い範囲である。2)資産の構成推薦資産
は、日本列島のほぼ中央に位置する富士山体と、周辺の浅間神
社や御師住宅、霊地・巡礼地である風穴・溶岩樹型・湖沼エムゾネ
、芸術作品の視点場(又は舞台)となった地点から構成
366:底名無し沼さん
18/02/04 20:20:12.36 waYcXDTr0.net
。富士山体の中には山頂信仰遺跡や登山道などの重要な要素が
含まれている。これらの構成資産が一体となった推薦資産「富
士山」は、山に対する固有の文化的伝統を表す物証であり、山
と人エムゾネ間との精神的な関係を生み出した景観の見本であると
ともに、芸術的作品との関連がある山岳である。表構成資産/
構成要素の分類No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰
遺跡遺跡A2大宮・村山口登山道遺跡A3須山口登山道
367:底名無し沼さん
18/02/04 20:27:19.85 waYcXDTr0.net
かけての修行僧末代の活動がきっかけになったと考えられる大
宮・村山口登エムゾネ山道や、六合目から1384年の銘のある掛
仏が出土した須走口登山道などがある。吉田口登山道は、富士
講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多くの道者
(他の登山口の合計と同程度)によって利用された。また、1
200年の資料では、エムゾネ大宮・村山口及び吉田口の外、須山
口登山道を挙げて、それ以外には登山道がないと述べられてい
る。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、随所に小
屋や石室が設けられており、富士独特の登拝システムを語る上
で、登山道は欠かすことのできエムゾネない構成要素である。A2
大宮・村山口登山道A3須山口登山道A4須走口登山道A5吉
田口登山道(写真複数、地図挿入)(改頁)浅間神社・御師住
宅登山道の起点や周辺地域には浅間神社が建造された。古くか
ら富士山は遥拝の対象であり、山宮浅間エムゾネ神社などは古代か
らの祭祀の形をとどめている。噴火活動の活発化を受け、律令
国家によって9世紀前半に富士山を神体とする浅間神社(後の
富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火を鎮め
るための神社が祭祀された。11世紀後半の噴火エムゾネを最後に
368:ホ山活動が休止期に入ると、富士山を舞台とする修験の活動が 活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅 間神社へと発展していった。登拝の大衆化に伴って、須山浅間 神社や富士浅間神社(須走浅間神社)8など、登山口の起エムゾネ 点にも浅間神社が建立されるようになる。なかでも、北口本宮 冨士浅間神社は、江戸を中心に流行した富士講によって大いに 利用された吉田口登山道の起点であったが、その北には、富士 講徒の案内し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅が今も残 されエムゾネている。B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B 3村山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須
369:底名無し沼さん
18/02/04 20:33:34.81 waYcXDTr0.net
神社)A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河口浅間神
社B7冨士御室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地
・巡礼地となエムゾネった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀
後半から爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富
士山に登るだけでなく、いわばオプショナル・ツアーのごとく
周辺の風穴や湧水地などを巡り、巡礼や修行を行っていた。富
士講の開祖とされる長エムゾネ谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で
修行をし、富士五湖を始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行
を行った。後の富士講徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って
修行を行う者もいた。また、長谷川角行の八海修行になぞらえ
「富士御手洗(みてらし)元八エムゾネ湖」と唱えられた忍野八海
や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀ったことにちなんで整備さ
れた船津胎内樹型や吉田胎内樹型など、特定の富士講にとって
の霊場・巡礼地となっている資産もある。B9山中湖B10河
口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B1エムゾネ1忍野八海B12
船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺跡B15
白糸ノ滝(写真複数、地図挿入)(改頁)A.富士山(富士山
体)説明富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、
信仰登山の支援施設として機能してきた登山道やエムゾネ山小屋と
いった宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在す
る。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域
が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が9最も
高い。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つであるエムゾネ
「馬返」以上に該当する標高1500m以上の区域でもあり、
その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方
、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10
区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約320
0〜エムゾネ3375m)以上と、山頂に近づくほどより強
370:底名無し沼さん
18/02/04 20:39:48.45 waYcXDTr0.net
性を持つと認識されてきた。八合目以上は、1779年以降、
富士山本宮浅間大社の境内地とされたが、この理由は八合目の
標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び宗教的に意義付け
られている)エムゾネの底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に基づ
く。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信者(
富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域
ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの境
371:底名無し沼さん
18/02/04 20:45:18.51 waYcXDTr0.net
い、富士山体を一周すエムゾネる「御中道」が15〜16世紀ごろ
に富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1
561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩れ」とい
う危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用さ
れた。構成資産範囲内には、山エムゾネ頂信仰遺跡や登山道といっ
た、富士山の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、
次のような構成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡富士山山
頂部には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設
が所在する。富士山への信仰登山が開始エムゾネされると、修験道
の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこ
なわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化されていった
。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見な
372:されたブ ロッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)エムゾネを拝み、 内院(噴火口)に鎮座するとされる神仏(大日如来が本地仏と された浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつか あるピークを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する 「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうこエムゾネ とが一般的であった。山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ修 行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初とされ、 その後、経典(12世紀末〜13世紀前半と推定されるものが 最古)・懸仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像等( 13エムゾネ02年の銘があるものが最古)の山頂部への奉納・埋 納や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には、 大宮・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在) が、吉田・須走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営 された。18エムゾネ74年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀 釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は 神社に改変された。しかし、山頂部に対する信仰自体は
373:底名無し沼さん
18/02/04 20:51:23.46 waYcXDTr0.net
ることなく、上記の行為は現代の登山者の多くが行っており、
これらを通じて富士信エムゾネ仰の核心が現代に受け継がれている
。A2.大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間大社を起点と
し、村山浅間神社を経て山頂南側に至る登山道である。12世
紀前半から中ごろの、修行僧末代の活動により、富士山南麓に
おける登山が本格的に開始されエムゾネたとされ、14世紀初めに
は修験者による組織的登山が始まったとされる。15世紀以降
19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた3軒の有力宿坊が
村山浅間神社(興法寺)と登山道の管理を行うとともに所属の
修験者が登山道等を利用して修行を行っエムゾネた。また、一般人
の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も開始さ
れ、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼羅図
」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19世紀初頭
の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,エムゾネ000人
前後、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の
外国人登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用
した。101889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場
口利用者の増加により衰退し、これへの対策として190エムゾネ
6年、村山を経由しない新道が建設されたため、大宮から現在
の六合目(標高2600m)までは登山道としての機能を失っ
た。この区間は一部除き登山道跡の推定は困難な状態である。
現在は1970年に標高2400m地点まで開通した自動車道
を利エムゾネ用しての登山が行われている。(推薦範囲は六合目以
上である。)A3.須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社
を起点とし、山頂南東部に至る登山道である。その起源は明確
ではないが、文字資料の中で1486年にその存在が確認でき
る。登山道おエムゾネよび山頂部銀明水は須山浅間神社及びその所
在地の須山村(現裾野市須山)により管理されていた。
374:底名無し沼さん
18/02/04 20:56:52.60 waYcXDTr0.net
登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行場(参拝所)
としても使用された。道者については詳しい研究が進んでいな
いが、1800年(御エムゾネ縁年:富士山出現伝説に由来する6
0年に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前半
は年平均約1,700人、1860年(御縁年)は約3,60
0人であった。1883年、須山口二合八勺(標高2050m
)に接続する御殿場口登山道がエムゾネ開削され、1889年、東
海道本線開通による御殿場口利便性の向
375:上は須山口よりの道者 を奪い、さらに1912年、一部が陸軍演習場となり使用不可 能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至 っている。二合八勺以下の登山道で当時エムゾネの道が確認できる 部分は一部のみである。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称 で使用されている二合八勺以上の部分及び遊歩道として整備さ れた旧須山口の一部である)A4.須走口登山道富士山東麓の 冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道エムゾネと合流し 山頂東部に至る登山道である。その起源は明確ではないが、六 合目からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、文字資 料では1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くとも 17世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村がエムゾネ 登山道の山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得てい た。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と争いになり 、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕府に裁定 を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の宝永噴 火のエムゾネ際、これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に 覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了 し、多くの道者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットに された参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御 縁年に23,エムゾネ700人とピークを迎えた。1959
376:底名無し沼さん
18/02/04 21:03:35.85 waYcXDTr0.net
ス道路の完成により、新五合目(標高約2000m)以下の登
山道の利用はほとんどなくなり、一部道としての確認ができな
い区間がある。(推薦範囲は現在も利用されている新五合目以
上である。)A5.吉エムゾネ田口登山道北口本宮冨士浅間神社を
起点とし、富士山頂東部を目指す道である。15世紀には、富
士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも
広まっていた。吉田口は14世紀後半には参詣の道者の
377:底名無し沼さん
18/02/04 21:08:59.83 waYcXDTr0.net
宿坊もでき始め、大勢の人々がエムゾネ登るための設備が整うよう
になった。16世紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用
して修行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食
行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって信者の登山本道をこ
の吉田口と定めた。このため、富士講のエムゾネ信者が次第に増加
した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山口の合計
と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している。しか
も、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道で
ある。(推薦範囲は登山道全体である。)11法エムゾネ的保護、
修理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に名勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(富士
箱根)国立公園に指定された。1952年に文化財保護法の下
に名勝、ついで特別名勝に指定された。1969年に国がエムゾネ
大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続中)。1996年に国
・県が台風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中
)。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として
指定される予定。A6.北口本宮冨士浅間神社説明富士山の遥
拝所エムゾネに祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源
とし、1480年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀
半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされる。その後、15
61年に現在の東宮本殿、1594年に西宮本殿、1615年
には本殿が建エムゾネ立された。富士講とのつながりが強く、17
30年代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境内
の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が
形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の本殿に唐破風
付向背をつけた形式でエムゾネ、正面と側面に挿肘木の腰組をもっ
て支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本殿・
西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿と
378:底名無し沼さん
18/02/04 21:14:0
379:7.50 ID:waYcXDTr0.net
380:底名無し沼さん
18/02/04 21:20:53.57 waYcXDTr0.net
岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道から撮影
された「湖畔の春」という写真は有名である。この写真は、1
984年に採用された五千円札エムゾネ及び2004年に採用され
た千円札の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり
一体の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春」
に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残している。法
的保護、修理・整備の経緯文化財保護法エムゾネの下に名勝として
指定される予定。B1.富士山本宮浅間大社説明社記によれば
806年に、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社か
ら現在の地に移転されたことを起源とする神社で、古くから富
士山南麓地域の中心的神社であった。現在全国にエムゾネ約130
0社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰されている。創建
当初は遥拝のための施設であったが、15世紀ごろ登拝が盛ん
になるにつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社(興法寺
)とともに大宮・村山口登山道の基点となり、宿坊が周辺エムゾネ
に建設された。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築
されていく中で、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期
をおさめ統一政権である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、
1604年現在の「浅間造り」と呼ばれる独特な構造を持った
社殿エムゾネが造営されるとともに、1609年山頂部の散銭取得
における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・
支配を行うようになり、1779年、幕府による裁判によりこ
の八合目以上の支配権が認められた。明治政府によりここは国
有地とされたエムゾネが、1974年の最高裁判決に基づき、20
04年浅間大社に譲渡(返還)された。浅間大社境内には富士
山の湧水を起源とする湧玉池がある。浅間大社は、富士山の噴
火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖なる水源の山とし
て崇める考え方から、エムゾネ豊富な湧水量(日平均14万
381:底名無し沼さん
18/02/04 21:27:55.91 waYcXDTr0.net
持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である。なお湧
玉池は、浅間大社内に所在する富士山の湧水を起源とする池
382:ナ ある。16世紀前後、湧玉池は浅間大社により道者が身を清め る場と位置づけられたとされ、エムゾネ同時期の絵図や旅行記でそ の様子が確認できる。この水垢離は1920〜30年代まで行 われた。現在でも湧水を聖なる水として利用する人が多くいる 。法的保護、修理・整備の経緯1907年に本殿が古社
383:底名無し沼さん
18/02/04 21:33:26.99 waYcXDTr0.net
法の下に特別保護建造物に指定された。エムゾネ1923〜26年
に本殿・拝殿・楼門等の補修が行われた。1929年の国宝保
存法制定に伴い、本殿は国宝とされた。1933〜34年に楼
門の修理を行った。1936年に袖廊・廻廊を附した。195
0年の文化財保護法制定に伴い、本殿は重要文化エムゾネ財とされ
た。1951〜52年、1970年、1988年に本殿の屋根
の修理等が行われた。1969〜70年に本殿の屋根の修理等
が行われた。1987〜88年に本殿の屋根の修理等が行われ
た(部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理等が行わエムゾネ
れた。13文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山
として指定される予定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅
間大社の社伝によれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿等
が位置すべき場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置
されエムゾネるのみという特異な形態は古代からの富士山祭祀の形
を止めていると推定されている。この遥拝所の主軸は富士山方
向を向いている。具体的な創建年代は不詳だが、発掘調査では
神事に使用されたと推定される12〜15世紀の土器が出土し
、文献上ではエムゾネ1551年にその存在が確認できる。また、
遅くとも1577年までには浅間大社との間で「山宮御神幸」
といわれる儀式が開始された。これは4月と11月に神の宿っ
た鉾を持ち、浅間大社と山宮浅間神社を往復する行事である。
現時点では神が4月にエムゾネ旧跡に戻るという解釈と、山にいる
神が4月に田の神として里へ降りるという解釈がある。この行
事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神幸」に使
用される経路を御神幸道という。道には1691年に置かれた
距離を示す石碑が少なくとも四エムゾネ箇所残っているが、正確な
道筋は現在確認されていない。法的保護、修理・整備の経緯1
985年に富士宮市の史跡に指定される。文化財保護法
384:底名無し沼さん
18/02/04 21:39:39.80 waYcXDTr0.net
他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B3.
村山浅間神社説明12世紀前半から中ごエムゾネろの修行僧末代の
活動が創建の起源とされており、1868年の神仏分離令まで
は神仏習合の宗教施設として興法寺(富士山興法寺または村山
興法寺)と呼ばれていた(資産範囲には浅間神社と寺院である
大日堂が含まれる)。富士山における修験道の中エムゾネ心地であ
り、14世紀初めには、その活動が組織化された。15〜16
世紀には一般の道者の登拝も増加し、その様子が16世紀の制
作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。186
8年、神仏分離令により浅間神社と大日堂は分離され、1エムゾネ
906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし、
修験者の活動は1940年代まで継続された。また、村山の修
験者の影響を受けた地域では現在でもその宗教行事が継続され
ている。法的保護、修理・整備の経緯2001年から2003
年にエムゾネかけて富士宮市教育委員会により発掘を含む調査が行
われた。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山と
して指定される予定。B4.須山浅間神社説明須山口登山道の
起点として遅くとも1524年には存在していた神社である。
1707年、エムゾネ宝永噴火により社殿は登山道も含め大きな被
害を受け、現在の社殿は1823年に再建されたものである。
神社は村山浅間神社(興法寺)の修験者とも関わりを持ち、1
940年頃まで境内で修行の一環としての祈祷が行われていた
。法的保護、修理・整エムゾネ備の経緯文化財保護法の下に他の文
化財とともに史跡富士山として指定される予定。14B5.富
士浅間神社(須走浅間神社)説明社伝では807年に社殿を造
営したとされ、須走口登山道の起点となった神社である。16
世紀には地元支配者(武田氏)エムゾネの保護を受け、山頂部の散
銭取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴
385:底名無し沼さん
18/02/04 21:45:56.68 waYcXDTr0.net
壊し1718年に再建された。この後もこの際の部材を使用し
、2009年の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。
神社には富士講道者が多く立ち寄り、2エムゾネ0世紀前半を中心
に登拝回数の達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約
80基造営した。法的保護、修理・整備の経緯2006年に社
殿が小山町の有形文化財となる。2009年に本殿・参道の修
理が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とエムゾネともに史
跡富士山として指定される予定。B6.河口浅間神社説明古く
から富士山に関わる祭祀は南麓の浅間神社が執り行っていたが
、864〜866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも
浅間神社が建てられることとなった。それが、富士山を望エムゾネ
む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口浅間神社であ
る可能性が高い。浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地
から続く官道の宿駅という役割に加え、富士登拝が大衆化した
中世後半から御師集落として発展を遂げた。しかし、江戸にお
けるエムゾネ富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により
、河口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰退してしま
った。ただし、河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結びつ
いた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信
仰を語る上でエムゾネ欠かすことのできない資産である。法的保護
、修理・整備の経緯文化財保護法の下に他の文化財とともに史
跡富士山として指定される予定。B7.冨士御室浅間神社説明
冨士御室浅間神社は、8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場
をしつらえたのが最初エムゾネとされ、富士山中に祀られた最初の
神社であるとする文献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村
山であるが、北面の二合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地
にも山内の信仰拠点として役行者堂が整備されたようである。
山中という厳しい条件の下に所エムゾネ在するためたびたび
386:底名無し沼さん
18/02/04 21:52:01.45 waYcXDTr0.net
、1189、1275、1475、1525年と加修され、1
564には地元領主による大修理が行われている。現在の本殿
は1612年建立と認められ、その後も1698年、1867
年に修復が行われていた。1973−7エムゾネ4年には里宮の地
にそのままの形で移設された。里宮は、二合目の本宮(もとみ
や)が冬季の参拝に苦渋するために河口湖畔に建てられたとさ
れる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として
387:底名無し沼さん
18/02/04 21:57:58.20 waYcXDTr0.net
けられる二合目の本宮と、土地の産土神としてのエムゾネ里宮が一
体となって機能してきた神社である。法的保護、修理・整備の
経緯1973〜74年に吉田口登山道二合目にあった本殿が里
宮の地に移築された。151985年に移築された二合目本殿
が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。文化財保エムゾネ
護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予
定。B8.御師住宅説明御師は、道者に宿や食事を始め登拝の
ための一切の世話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うこ
とを業とした。富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道
の起エムゾネ点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の
傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田の御師である。御
師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面して引き込み路を設
け、敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。
玄関から奥へエムゾネ客室が続き、最奥部には神殿が設けられてい
る。1768年に建てられ最古の部類に数えられる旧外川家住
宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最盛期の御
師住宅の典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。186
1年に新築された小佐エムゾネ野家住宅同様、富士講の流行に伴い
増加する宿泊者に対応するため、旧外川家住宅では1860年
代に離座敷が増築された。法的保護、修理・整備の経緯197
6年に小佐野家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定さ
れた。1979年に小佐野家住エムゾネ宅の屋根の修理等が行われ
た。1996〜98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が行われた
。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定される
予定。B9.山中湖B10.河口湖説明富士山の火山活動によ
って形成された堰止湖である。富士山周エムゾネ辺の湖を巡って修
行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷
川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象とし
388:底名無し沼さん
18/02/04 22:03:31.38 waYcXDTr0.net
られたのが前述の3つの湖とこの山中湖及び河口湖である。こ
の巡礼行為について、具体的に湖沼のどこで修行エムゾネや巡礼が
執り行われたか、またどのルートを辿って各湖を巡ったかは、
定まっていなかった(少なくとも、
389:セらかになっていない)も のの、人々の信仰心を駆り立てた湖沼の水そのものを核心とし て、周辺地域も含めた範囲が文化財とされている。また、エムゾネ 景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。法的保護 、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される 予定。B11.忍野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水 地で、それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であ ったエムゾネ。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った 。長谷川角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗( みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、18 43年に富士講道者によって再興されたとされる。法的保護、 修理・整備のエムゾネ経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法 の下に天然紀念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説 明1617年長谷川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎 内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考え られる)を発見し、浅エムゾネ間明神を祀った。1673年には富 士講道者によって現船津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮 された。富士登拝の際に、樹型に入って身を清める風習があり 、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付けが行われるとともに 、奥には富士講にとっての富士エムゾネ山の祭神である木花開耶姫 などが祀られている。法的保護、修理・整備の経緯1929年 に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された。 B13.吉田胎内樹型説明1892年に富士道者によって整備 された「お胎内」である。富士講講徒はエムゾネ、昼までに御師の 家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山し
390:底名無し沼さん
18/02/04 22:10:05.19 waYcXDTr0.net
穴については、古くから冨士山北口御師団が管理している。法
的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保
存法の下に天然紀念物に指定された。B14.人エムゾネ穴富士講
遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原)角行が修行したとされる
溶岩洞窟の人穴と富士講信者による約230基の碑塔群が残る
遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探検の様子が描かれ、「浅間
大菩薩の御在所」とみられていたとされている。この内容エムゾネ
は遅くとも1603年までに、浅間大菩薩の霊験譚として説話
化され、その存在が広く知られていた。富士講関連の文書によ
れば人穴は16世紀から17世紀にかけ、長谷川角行が修行に
より浅間大菩薩(富士講では仙元大日神とする)の啓示を得た
場でエムゾネあり、入滅した場だとしている。また、角行は人穴を
「浄土(浄土門)」と述べ、これらの結果人穴には熱心な富士
講信者が参詣し、修行を行う者も見られた。また、信者は人穴
への分骨埋葬などを望み、墓碑、供養碑、記念碑などを建立し
た。1942エムゾネ年付近が軍用地となり、人穴の浅間神社や周
辺の住民は一時移転した。1954年神社は現在地に復興され
たが、冨士講自体が衰退したことで参詣者はみられるものの1
964年以降碑塔の建設は行われていない。法的保護、修理・
整備の経緯1999年エムゾネに富士宮市の史跡となる。文化財保
護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予
定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とする数百の流
れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15〜16万〜)
の噴出が数百条の白糸が垂れてエムゾネいるように見えることをそ
の起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の文書によれば長谷
川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、富士
講を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景勝地
としても有名であり、和歌・絵画の題材エムゾネにもなって
391:底名無し沼さん
18/02/04 22:16:03.57 waYcXDTr0.net
法的保護、修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物
保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原
説明三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」
の舞台となった。15〜16世紀以降富士山を描エムゾネく際の典
型的な構図に含まれる景勝地として数多く描かれ、歌川広重等
の作品をはじめ海外にも広く知られている(又は海外に影響を
与えた)芸術作品の視点場、又は舞台となった場所のひ
392:底名無し沼さん
18/02/04 22:22:36.62 waYcXDTr0.net
ある。法的保護、修理・整備の経緯1922年に史蹟名勝エムゾネ
天然紀念物保存法の下に名勝に指定された。18b)歴史と発
展山容の形成富士山の原型は、40〜10万年前、周辺の火山
とともに
393:活動をはじめ、先小御岳火山が形成された。その後こ れを覆うように標高約2500mの小御岳火山が形成された。 さらエムゾネに約10万年前、そのふもとに古富士火山が誕生し、 爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り返し、小 御岳火山をほぼ山体に納める形で3000mを超える火山に成 長した。約1万年前には大量の溶岩を噴出する形で現在の富士 山(新富士火エムゾネ山)が成長を始め、古富士山を覆いつくし、 約5600〜3500年前に現在の規模となった。繰り返され た溶岩の流出によって何層にもわたる溶岩層が形成され、その 先端部には山体への降水を起源とする湧水が各溶岩層の隙間よ り湧出する形で各所にエムゾネ形成された。富士山北麓においては これらの湧水や降水が北側の山地との間の低地にたまり、湖や 湿地が形成された。また、溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩 樹型が形成された。山頂からの噴火は2200年前の噴火を最 後に起こっていないが、歴史時エムゾネ代になっても北西〜南東方 向に連なる側火山からの噴火を続け、1200年前から後には 少なくとも800〜802年、864〜866年、937年、 999年、1033年、1083年、1435〜1436年、 1511年、1707年の九つの時期のエムゾネ噴火が確認されて いる。神々しい山容と「鎮爆」このような噴火や溶岩の流出を 繰り返す富士山は恐ろしくかつ神秘的な山と考えられたために 、古くから遥拝の対象であったが、日本における古代国家の統 治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰りエムゾネ返す噴火 を鎮めるため、富士山そのものあるいは富士山に鎮座する神を 浅間神として祀るようにもなり、各地に遥拝所としての
394:底名無し沼さん
18/02/04 22:29:19.76 waYcXDTr0.net
社が建立され、国家の宗教政策の一端に位置づけられるように
なった。また、富士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環エムゾネ
境が芸術の対象とされるようになり、日本最古の歌集である『
万葉集』(8世紀半ば)や日本最古の物語とされる『竹取物語
』(9世紀後半)をはじめとして、数多くの和歌・物語など文
学の題材となったほか、現存最古となる『聖徳太子絵伝』(1
1世エムゾネ紀制作)をはじめ、数多くの絵画作品の題材として取
り上げられるようになった(表参照)。特に12世紀後半以降
、日本の政治的中心が京都から鎌倉に移動し、この二つの都市
を結び富士山南麓を通る街道の交通量が増加したことで、富士
山の情報は多エムゾネくの人に記録され、広く知られるようになっ
た。修験道―日本古来の山岳信仰と外来宗教の習合―また、1
2世紀頃より噴火活動が沈静化したことで富士山は日本古来の
山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が習合した「修験道」の道
場ともなり、修験者がエムゾネ山中に分け入り、霊力を獲得するた
めに修行する山へと変化していった。当時一般的であった神仏
習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世界(又は仏が
神の形となって現れる場所)として認識され、山頂部に至るこ
とが重要な意味を持つようになエムゾネった。この結果15〜16
世紀には登拝する山として一般に広く知られ、修験者に引率さ
れた武家・庶民等による信仰登山が盛んになった。登山口の設
置はいずれも室町時代のことで、14世紀から15世紀後半に
開かれたとされている。このころには参エムゾネ詣の道者のための
宿坊もでき始め、大勢の登山者が登るための設備が整い始めた
。登拝の大衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわたる
日本国内での戦乱状態が終了し、江戸幕府の
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