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[前50を表示]
100:底名無し沼さん
18/01/20 19:10:45.11 obUQkEtn0.net
ヨーロッパでも多く流通しており、このことから富士山もヨー
ロッパで広く知られていた。1893年(明治26年)、日本
を旅行していたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フ
ランツ・フェルディナント大公は、日記に次のように書いエムゾネ
ている。フジサン、フジノヤマ。いったい、この日本の象徴―
―ヨーロッパではふつうフジヤマと呼ばれる―を知らない者
などいるのだろうか〜ヨーロッパでもっとも好まれる日本工芸
のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、金属などに描かれてい
るかエムゾネら、もう、わたしたちにはお馴染みだ。〜〜8月15
日付戦時下には国家により富士は国体の象徴として位置づけら
れ、富士は国家のシンボルとして様々に描かれた。戦後には国
体のシンボルとしてのイメージから解放された
101:u日本のシンボ ル」として、エムゾネ日本画家の横山大観や片岡球子らが富士を描 いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画題へのアン チテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士を描く傾 向も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中で富士山を「小 細工を弄しない大きなエムゾネ単純」と評し、「幼童でも富士の絵 は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている 」という。日本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨 大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見上げると いう構図で、水墨画や彫金でもエムゾネ描かれている。千円札、旧 五千円札のモデルとなった本栖湖からの富士山近代では紙幣や 切手のデザインにも用いられている。富士山が紙幣のデザイン に用いられる例は数多くある。古くは1913年発行の50銭 政府紙幣があり、愛鷹山からの富士山でエムゾネる。その後の19 51年と1969年発行の旧五百円札は大月市の雁ヶ腹摺山か らの富士山を元にしている。1984年発行の旧五千円札と2 004年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの富士山である
102:底名無し沼さん
18/01/20 19:31:29.08 obUQkEtn0.net
富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登山を目的とする観光客相
手の観光業も活発に行われている。しかし、富士山麓には温泉
地として成立する規模の湯量は湧出していない。エムゾネ富士山の
利用について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対
し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており、山頂所有権
問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺産登録問
題等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相違エムソ
103:底名無し沼さん
18/01/20 19:38:47.35 obUQkEtn0.net
が表面化している。富士山と観光富士登山富士登山には登山の
知識や経験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日
の山開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能であ
る。期間外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されて
いるエムゾネ。とくに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳
細は「富士登山」を参照その他の観光その優美な姿から、富士
山が見える場所は著名な観光地となっていることが多い。箱根
−箱根は富士山が望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・美
術館や各種のエムゾネ乗り物が楽しめることもあり、年間を通じて
内外の観光客が絶えない。また、夏は避暑地としても有名であ
る。富士五湖−富士五湖は富士山周辺の観光地として著名であ
り、本栖湖の逆さ富士が日本銀行券に採用されている。白糸の
滝−白糸の滝は上流にエムゾネ川は存在せず、富士山の雪解け水が
溶岩断層から湧き出す非常に珍しい形成をしている滝である。
また、音止めの滝と共に日本の滝百選に指定されている。朝霧
高原−朝霧高原は富士山を綺麗に臨むスポットとして著名であ
り、その自然と広大な土地もあエムゾネり過去に第13回世界ジャ
ンボリーも開催されている。ダイヤモンド富士−ダイヤモンド
富士などがはっきりと拝める田貫湖や山中湖といったスポット
も有名で、特に写真撮影を目的として訪れる観光客もいる。ド
ライブ−富士スバルラインや富士山スカエムゾネイラインなどを利
用して、5合目までマイカーで上がることができる。シーズン
中はマイカー規制の期間があり、冬期は閉鎖される。富士山の
日(2月23日)2月23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」
と語呂合わせで読み「富士山の日」として制定しエムゾネている自
治体がある。2001年(平成13年)山梨県富士河口湖町(
当時は河口湖町)にて条例を制定。2002年(平成14年)
山梨県富士吉田市を中心に、山梨県の富士山麓10市町村
104:底名無し沼さん
18/01/20 19:46:16.49 obUQkEtn0.net
恩賜林組合が了承。2009年(平成21年)12月21エムゾネ
日静岡県議会にて条例を全会一致で可決。同年12月25日条
例を制定。静岡県、山梨県どちらも、富士山は普段の生活に溶
け込み過ぎており、「あって当たり前」の空気のような存在で
ある。そのため「富士山の日」に、各自治体や県内企業などが
さまエムゾネざまなイベント等を催し、参加する事など通じて、身
近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルとしても名高い名峰
として再認識する機会としている。また併せて富士山の世界遺
産登録に向けた動きを地元から活発化したいとの期待も込めら
れている。静エムゾネ岡県教育委員会で、各市町村に対して201
1年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とするよ
う要望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓で
ある富士市教育委員会では「特定日を学校休業日とすることは
なじまない」という理エムゾネ由で、2011年以降休業日として
いない。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供
や、富士山こどもの国の無料開放、図書館や博物館などの社会
教育施設にも富士山の日にちなんだ事業実施を要請している。
なお、富士山の日を最初に宣言エムゾネしたのは、パソコン通信「
NIFTY−Serve」内の「山の展望と地図のフォーラム
(FYAMAP)」で、1996年1月1日にネット上で発表
した。富士山ナンバー静岡運輸支局管内の4市2町と山梨運輸
支局管内の1市2町4村を対象とした、エムゾネいわゆるご当地ナ
ンバーとして2008年11月4日から富士山ナンバーの交付
が開始された。管轄支局が二県にまたがるナンバープレートは
珍しい。富士山検定「富士山検定実行委員会」が主催する富士
山検定が、富士商工会議所、富士吉田商工会議所エムゾネ、静岡新
聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・山梨放送、NPO法人富士
山検定協会の5者により行われている。地域間交流富士山
105:底名無し沼さん
18/01/20 19:53:59.78 obUQkEtn0.net
湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ交流が昭和三十
二年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続けらエムゾネ
れている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が琵琶
湖になった」という伝説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖
へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注
ぐことを「お水取り」という。2014年には日本富士山協会
と中エムゾネ華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携
が締結されている。標高3,952メートルの玉山は台湾の日
本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他
他山の標高玉山(台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日
本最高峰であエムゾネった。標高3,952メートル。雪山(台湾
)−日本統治時代は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い山で
あった。標高3,886メートル。北岳−日本で2番目に高い
山。標高3,193メートル。日和山(仙台市)−日本で最も
低い山。標高3メートエムゾネル。エベレスト−世界最高峰。標高
8,844メートル。文字この節には、一部のコンピュ
106:ータや 閲覧ソフトで表示できない文字(Unicode6.0の絵文 字)が含まれています。和文通話表で、「ふ」を送る際に「富 士山のフ」という。文字コードエムゾネのUnicode6.0で は、携帯電話などで使われていた絵文字も追加されたが、その 中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれている。続 けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が 琵琶湖になった」という伝説からであるエムゾネ。富士山頂の湧水 を琵琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士 山頂へ注ぐことを「お水取り」という[82][83]。20 14年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との間で、富士 山と玉山の友好山提携が締結されている[84]エムゾネ。標高3 ,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と
107:底名無し沼さん
18/01/20 20:01:01.44 obUQkEtn0.net
れ、日本の最高峰であった。その他[編集]他山の標高[編集
]玉山(台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰
であった。標高3,952メートル。雪山(台湾)−日本エムゾネ
統治時代は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。
標高3,886メートル。北岳−日本で2番目に高い山。標高
3,193メートル。日和山(仙台市)−日本で最も低い山。
標高3メートル。エベレスト−世界最高峰。標高8,84
108:底名無し沼さん
18/01/20 20:07:43.71 obUQkEtn0.net
ートエムゾネル。文字[編集]この節には、一部のコンピュータや
閲覧ソフトで表示できない文字(Unicode6.0の絵文
字)が含まれています(詳細)。和文通話表で、「ふ」を送る
際に「富士山のフ」という。文字コードのUnicode6.
0では、携帯エムゾネ電話などで使われていた絵文字も追加された
が、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれて
いる。富士山世界文化遺産平成22年度第1回静岡県学術日本
政府が世界遺産一覧表への記載を推薦する「富士山」は、東ア
ジアの東端に当たる日エムゾネ本列島の本州島の中央部、日本の東
海地方の東部及び関東地方の西部に位置する。推薦する資産は
17個の構成資産(26個の構成要素(後述))から成り、現
行の行政区分に基づく各構成資産の所在地については以下に記
すとおりである。構成資産所在エムゾネ地No.所在地座標計測位
置緯度経度A静岡県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市・
小山町)山梨県(富士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口湖町
)県境未確定地富士山(山頂剣ヶ峰)資産範囲及び緩衝地帯の
範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範囲をエムゾネ示す図面、並びに
資産近傍における法的保護区分を示す図面は以下のとおりであ
る。f)資産面積及び緩衝地帯の面積各構成資産の面積及びそ
の緩衝地帯の面積、資産の総面積及びその緩衝地帯の総面積に
ついては、以下に記すとおりである。構成資産面エムゾネ積:緩衝
地帯面積:合計:No.構成資産の面積(ha)緩衝地帯の面
積(ha)合計説明a)資産の説明1)資産全体の説明富士山
は、標高3776mと日本一の高さを誇る独立峰である。高度
を増すごとに山腹の傾斜が急になる美しい懸垂曲線を呈しエムゾネ
、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有した玄武岩質成層火
山である。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海面から
の実質的な高さは世界的にも有数である。富士山は、日本
109:底名無し沼さん
18/01/20 20:14:36.31 obUQkEtn0.net
のほぼ中央に位置し、フィリピン海プレート、ユーラシアプレ
ートエムゾネ、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さ
らにその下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる
特異な地点に存在する。富士山は、新生代第三紀中新世のおも
に海底火山噴出物からなる地層の上に第四紀更新世に造り上げ
られた先小御エムゾネ岳火山とそれに重なる小御岳火山を土台とし
て、古富士、さらにそれを覆う新富士山の4層構造で構成され
ている。山頂部の火口はおよそ2200年前を最後に噴火して
いないが、フィリピン海プレートが北進しユーラシアプレート
を南南東方向から押しエムゾネ続けているため割れ目が発生するこ
とによって、山頂を通って北北西に向かう方向にほぼ直線的に
側火山が並び、有史以降
110:煢ホ山活動を行ってきた。富士山が過 去に流出した溶岩などの火山噴出物は、適度な粘度を持つため に美しいコニーデ型の山容を形エムゾネ成しながら、山頂を中心と して約15〜20km(最大約30km)の範囲に広がった。 山麓には数多くの風穴・溶岩樹型等の地形が見られ、溶岩流の 末端部では富士山の中腹以上への降水を起源とする豊富な湧水 (日量約450〜680万t、現在最大エムゾネの湧水は日量約1 00万tの柿田川)が見られる。富士山北麓ではこれらの湧水 や降水を起源とする湖沼が点在している。上記のような自然的 環境を持つ富士山は、古来自然物、特に山岳に対する信仰の伝 統を持っていた日本人に畏敬の念を抱かせ、日本エムゾネにおける 様々な宗教の融合した信仰の対象とされた。遥拝や山中での修 行のみならず、神仏の在所と考えられた山頂への登山という宗 教行為が一般化するとともに、山体及び山麓周辺に神社などの 宗教施設や風穴・湧水といった自然物・自然現象を起源とエムゾネ する霊地・巡礼地が設けられ、登山のための道や施設及びそれ を支援する包括的なシステムが作られた。標高約2500
111:底名無し沼さん
18/01/20 20:22:14.96 obUQkEtn0.net
近の森林限界より上方は富士講(富士山信仰の集団の一つ)信
者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域ないし他界(死後世界)
と考エムゾネえられていた。北麓地域ではさらに、山体を上方から
順に「焼山」(森林限界以上)、「木山」(森林地帯)、「草
山」(草原地帯)と呼び習わし、俗界(「草山」)と死の世界
(「焼山」)を往復することでこの世の罪と穢れを消すという
富士登拝の区エムゾネ分と関連付けていた。森林地帯は神聖な地域
の入口の一つとされる一方で木材の伐採等生活のために利用さ
れる地域でもあった。また、富士山山麓に見られる湧水は登山
前に身を清めるために必須のものであり、現代においても柿田
川をはじめ各所で「霊エムゾネ水」として取り扱われている。また
、富士山の稜線、冬季に一般的に見られる雪を戴いた姿、周辺
の湖や海岸線などの展望地から眺めた景観などが時代を超えて
多くの人々に神秘的な美しさとして賞賛され、芸術的な創造意
欲を掻き立てた。富士山体のうエムゾネち、標高約1500m以上
の範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重な
り合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各
登山道における山体の神聖性に関する境界の一つである「馬返
」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観点エムゾネからも不可能にな
る地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、
とりわけこの「馬返」より上を指して「オヤマ」又は「オヤマ
サマ」と呼び、富士山の範囲とみなす地域もあった。景観的に
は山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」エムゾネと「山体
」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの
対象とされることが多い範囲である。2)資産の構成推薦資産
は、日本列島のほぼ中央に位置する富士山体と、周辺の浅間神
社や御師住宅、霊地・巡礼地である風穴・溶岩樹型・湖沼エムゾネ
、芸術作品の視点場(又は舞台)となった地点から構成さ
112:底名無し沼さん
18/01/20 20:29:17.53 obUQkEtn0.net
。富士山体の中には山頂信仰遺跡や登山道などの重要な要素が
含まれている。これらの構成資産が一体となった推薦資産「富
士山」は、山に対する固有の文化的伝統を表す物証であり、山
と人エムゾネ間との精神的な関係を生み出した景観の見本であると
ともに、芸術的作品との関連がある山岳である。表構成資産/
構成要素の分類No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰
遺跡遺跡A2大宮・村山口登山道遺跡A3須山口登山道遺
113:底名無し沼さん
18/01/20 20:35:40.32 obUQkEtn0.net
4須走口登山エムゾネ道遺跡A5吉田口登山道遺跡A6北口本宮冨
士浅間神社遺跡、記念工作物、建造物A7西湖遺跡A8精進湖
遺跡A9本栖湖遺跡B1遺跡、記念工作物、建造物B2遺跡B
3遺跡B4遺跡B5遺跡B6遺跡B7遺跡、記念工作物、建造
物B8建造物B9遺跡エムゾネB10遺跡B11遺跡B12遺跡B
13遺跡B14遺跡B15遺跡C遺跡A富士山(富士山体)富
士山本宮浅間大社山宮浅間神社河口湖村山浅間神社須山浅間神
社富士浅間神社(須走浅間神社)河口浅間神社白糸ノ滝三保松
原構成資産/構成要素忍野八海エムゾネ船津胎内樹型吉田胎内樹型
人穴富士講遺跡冨士御室浅間神社御師住宅山中湖673)構成
資産の説明富士山(富士山体)・展望地点富士山には、山頂部
に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施設として機
能してきた登山道や山小屋といった宿泊エムゾネ施設、信仰の証と
して建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅間
神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・
鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保松原は
、何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地やエムゾネ富士山を
描く典型的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供す
る展望地点である。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一
つである「馬返」以上に該当する標高1500m以上の区域で
もあり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林エムゾネ
限界より上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(
登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり
標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近づくほどより
強い神聖性を持つと認識されてきた。A富士山(富士山体)A
1山エムゾネ頂信仰遺跡A9本栖湖C三保松原(写真複数、地図挿
入)(改頁)登山道富士山には、麓の浅間神社を起点として山
頂に至る登山道が、複数存在する。12世紀前半から中ご
114:底名無し沼さん
18/01/20 20:43:24.47 obUQkEtn0.net
かけての修行僧末代の活動がきっかけになったと考えられる大
宮・村山口登エムゾネ山道や、六合目から1384年の銘のある掛
仏が出土した須走口登山道などがある。吉田口登山道は、富士
講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多くの道者
(他の登山口の合計と同程度)によって利用された。また、1
200年の資料では、エムゾネ大宮・村山口及び吉田口の外、須山
口登山道を挙げて、それ以外には登山道がないと述べられてい
る。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、随所に小
屋や石室が設けられており、富士独特の登拝システムを語る上
で、登山道は欠かすことのできエムゾネない構成要素である。A2
大宮・村山口登山道A3須山口登山道A4須走口登山道A5吉
田口登山道(写真複数、地図挿入)(改頁)浅間神社・御師住
宅登山道の起点や周辺地域には浅間神社が建造された。古くか
ら富士山は遥拝の対象であり、山宮浅間エムゾネ神社などは古代か
らの祭祀の形をとどめている。噴火活動の活発化を受け、律令
国家によって9世紀前半に富士山を神体とする浅間神社(後の
富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火を鎮め
るための神社が祭祀された。11世紀後半の噴火エムゾネを最後に
火山活動が休止期に入ると、富士山を舞台とする修験の活動が
活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅
間神社へと発展していった。登拝の大衆化に伴って、須山浅間
神社や富士浅間神社(須走浅間神社)8など、登山口の起エムゾネ
点にも浅間神社が建立されるようになる。なかでも、北口本宮
冨士浅間神社は、江戸を中心に流行した富士講によって大いに
利用された吉田口登山道の起点であったが、その北には、富士
講徒の案内し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅が今も残
されエムゾネている。B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B
3村山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走
115:底名無し沼さん
18/01/20 20:50:08.65 obUQkEtn0.net
神社)A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河口浅間神
社B7冨士御室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地
・巡礼地となエムゾネった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀
後半から爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富
士山に登るだけでなく、いわばオプショナル・ツアーのごとく
周辺の風穴や湧水地などを巡り、巡礼や修行を行っていた。富
士講の開祖とされる長エムゾネ谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で
修行をし、富士五湖を始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行
を行った。後の富士講徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って
修行を行う者もいた。また、長谷川角行の八海修行になぞらえ
「富士御手洗(みてらし)元八エムゾネ湖」と唱えられた忍野八海
や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀ったことにちなんで整備さ
れた船津胎内樹型や吉田胎内樹型など、特定の富士講にとって
の霊場・巡礼地となっている資産もある。B9山中湖B10河
口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B1エムゾネ1忍野八海B12
船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺跡B15
白糸ノ滝(写真複数、地図挿入)(改頁)A.富士山(富士山
体)説明富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、
信仰登山の支援施設として機能してきた登山道やエムゾネ山小屋と
いった宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在す
る。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域
が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が9最も
高い。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つであるエムゾネ
「馬返」以上に該当する標高1500m以上の区域でもあり、
その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方
、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10
区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約320
0〜エムゾネ3375m)以上と、山頂に近づくほどより強い
116:底名無し沼さん
18/01/20 20:57:42.26 obUQkEtn0.net
性を持つと認識されてきた。八合目以上は、1779年以降、
富士山本宮浅間大社の境内地とされたが、この理由は八合目の
標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び宗教的に意義付け
られている)エムゾネの底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に基づ
く。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信者(
富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域
ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの境域
117:底名無し沼さん
18/01/20 21:04:58.42 obUQkEtn0.net
い、富士山体を一周すエムゾネる「御中道」が15〜16世紀ごろ
に富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1
561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩れ」とい
う危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用さ
れた。構成資産範囲内には、山エムゾネ頂信仰遺跡や登山道といっ
た、富士山の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、
次のような構成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡富士山山
頂部には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設
が所在する。富士山への信仰登山が開始エムゾネされると、修験道
の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこ
なわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化されていった
。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブ
ロッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)エムゾネを拝み、
内院(噴火口)に鎮座するとされる神仏(大日如来が本地仏と
された浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつか
あるピークを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する
「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうこエムゾネ
とが一般的であった。山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ修
行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初とされ、
その後、経典(12世紀末〜13世紀前半と推定されるものが
最古)・懸仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像等(
13エムゾネ02年の銘があるものが最古)の山頂部への奉納・埋
納や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀に
118:は、 大宮・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在) が、吉田・須走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営 された。18エムゾネ74年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀 釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は 神社に改変された。しかし、山頂部に対する信仰自体は変
119:底名無し沼さん
18/01/20 21:06:39.53 obUQkEtn0.net
起点とし、富士山頂東部を目指す道である。15世紀には、富士山
への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まって
いた。吉田口は14世紀後半エムゾネには参詣の道者のための宿坊もで
き始め、大勢の人々が登るための設備が整うようになった。16世
紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修行を行い、18
世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自
殺)にあたって信者エムゾネの登山本道をこの吉田口と定めた。このた
め、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も多く
の道者(他の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂
を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで
登れる重要エムゾネな道である。(推薦範囲は登山道全体である。)1
1法的保護、修理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保
存法の下に名勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(
富士箱根)国立公園に指定された。1952年に文化財保護法の下
にエムゾネ名勝、ついで特別名勝に指定された。1969年に国が大沢
崩れに対する砂防事業に着手(継続中)。1996年に国・県が台
風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中)。文化財保
護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定されるエムゾネ予
定。A6.北口本宮冨士浅間神社説明富士山の遥拝所に祀られてい
た浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富
士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っ
ていたとされる。その後、1561年に現在の東宮エムゾネ本殿、15
94年に西宮本殿、1615年には本殿が建立された。富士講との
つながりが強く、1730年代に富士講の指導者である村上光清の
寄進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内
の景観の礎が形成された。本殿は、一間社エムゾネ入母屋造・檜皮葺の
本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰組を
もって支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本
120:底名無し沼さん
18/01/20 21:07:16.61 obUQkEtn0.net
い、富士山体を一周すエムゾネる「御中道」が15〜16世紀ごろ
に富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1
561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩れ」とい
う危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用さ
れた。構成資産範囲内には、山エムゾネ頂信仰遺跡や登山道といっ
た、富士山の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、
次のような構成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡富士山山
頂部には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設
が所在する。富士山への信仰登山が開始エムゾネされると、修験道
の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこ
なわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化されていった
。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブ
ロッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)エムゾネを拝み、
内院(噴火口)に鎮座するとされる神仏(大日如来が本地仏と
された浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつか
あるピークを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する
「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうこエムゾネ
とが一般的であった。山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ修
行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初とされ、
その後、経典(12世紀末〜13世紀前半と推定されるものが
最古)・懸仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像等(
13エムゾネ02年の銘があるものが最古)の山頂部への奉納・埋
納や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には、
大宮・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)
が、吉田・須走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営
された。18エムゾネ74年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀
釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は
神社に改変された。しかし、山頂部に対する信
121:底名無し沼さん
18/01/20 21:08:02.97 obUQkEtn0.net
を経由しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合目(標
高2600m)までは登山道としての機能を失った。この区間は
一エムゾネ部除き登山道跡の推定は困難な状態である。現在は19
70年に標高2400m地点まで開通した自動車道を利用しての
登山が行われている。(推薦範囲は六合目以上である。)A3.
須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東
部にエムゾネ至る登山道である。その起源は明確で
122:底名無し沼さん
18/01/20 21:12:06.33 obUQkEtn0.net
ることなく、上記の行為は現代の登山者の多くが行っており、
これらを通じて富士信エムゾネ仰の核心が現代に受け継がれている
。A2.大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間大社を起点と
し、村山浅間神社を経て山頂南側に至る登山道である。12世
紀前半から中ごろの、修行僧末代の活動により、富士山南麓に
おける登山が本格的に開始されエムゾネたとされ、14世紀初めに
は修験者による組織的登山が始まったとされる。15世紀以降
19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた3軒の有力宿坊が
村山浅間神社(興法寺)と登山道の管理を行うとともに所属の
修験者が登山道等を利用して修行を行っエムゾネた。また、一般人
の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も開始さ
れ、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼羅図
」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19世紀初頭
の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,エムゾネ000人
前後、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の
外国人登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用
した。101889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場
口利用者の増加により衰退し、これへの対策として190エムゾネ
6年、村山を経由しない新道が建設されたため、大宮から現在
の六合目(標高2600m)までは登山道としての機能を失っ
た。この区間は一部除き登山道跡の推定は困難な状態である。
現在は1970年に標高2400m地点まで開通した自動車道
を利エムゾネ用しての登山が行われている。(推薦範囲は六合目以
上である。)A3.須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社
を起点とし、山頂南東部に至る登山道である。その起源は明確
ではないが、文字資料の中で1486年にその存在が確認でき
る。登山道おエムゾネよび山頂部銀明水は須山浅間神社及びその所
在地の須山村(現裾野市須山)により管理されていた。ま
123:底名無し沼さん
18/01/20 21:13:40.63 obUQkEtn0.net
西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿とも、各部に
漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻エムゾネ・金具を配して、それぞれの
時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮冨士浅間神社の支
配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神社の
管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の背後に
は登山門があり、この神エムゾネ社を起点として富士山頂まで吉田口登
山道が伸びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ちなが
124:底名無し沼さん
18/01/20 21:14:22.30 obUQkEtn0.net
ることなく、上記の行為は現代の登山者の多くが行っており、
これらを通じて富士信エムゾネ仰の核心が現代に受け継がれている
。A2.大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間大社を起点と
し、村山浅間神社を経て山頂南側に至る登山道である。12世
紀前半から中ごろの、修行僧末代の活動により、富士山南麓に
おける登山が本格的に開始されエムゾネたとされ、14世紀初めに
は修験者による組織的登山が始まったとされる。15世紀以降
19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた3軒の有力宿坊が
村山浅間神社(興法寺)と登山道の管理を行うとともに所属の
修験者が登山道等を利用して修行を行っエムゾネた。また、一般人
の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も開始さ
れ、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼羅図
」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19世紀初頭
の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,エムゾネ000人
前後、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の
外国人登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用
した。101889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場
口利用者の増加により衰退し、これへの対策として190エムゾネ
6年、村山を経由しない新道が建設されたため、大宮から現在
の六合目(標高2600m)までは登山道としての機能を失っ
た。この区間は一部除き登山道跡の推定は困難な状態である。
現在は1970年に標高2400m地点まで開通した自動車道
を利エムゾネ用しての登山が行われている。(推薦範囲は六合目以
上である。)A3.須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社
を起点とし、山頂南東部に至る登山道である。その起源は明確
ではないが、文字資料の中で1486年にその存在が確認でき
る。登山道おエムゾネよび山頂部銀明水は須山浅間神社及びその所
在地の須山村(現裾野市須山)により管理され
125:底名無し沼さん
18/01/20 21:15:07.00 obUQkEtn0.net
資料の中で1486年にその存在が確認できる。登山道および山
頂部銀明水は須山浅間神社及びその所在地の須山村(現裾野市須
山)により管理されていた。また、登山道のいくつかの宗教施設
は村山エムゾネの修験者の行場(参拝所)としても使用された。道
者については詳しい研究が進んでいないが、1800年(御縁年
:富士山出現伝説に由来する60年に1回の記念の年)に約5,
400人、1840年代前半は年平均約1,700人、1860
年(御縁エムゾネ年)は約3,600人であった。1883年、須
山口二合八勺(標高2050m)に接続する御殿場口登山道が開
削され、1889年、東海道本線開通による御殿場口利便性の向
上は須山口よりの道者を奪い、さらに1912年、一部が陸軍演
習場となりエムゾネ使用不可能となったため、須山口からの登拝(
登山)は衰退し現在に至っている。二合八勺以下の登山道で当時
の道が確認できる部分は一部のみである。(資産範囲は現在「御
殿場口」の名称で使用されている二合八勺以上の部分及び遊歩道
として整備さエムゾネれた旧須山口の一部である)A4.須走口登
山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山
道と合流し山頂東部に至る登山道である。その起源は明確ではな
いが、六合目からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、
文字資料では1エムゾネ500年にその存在を確認できる。登山道
は遅くとも17世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走
村が登山道の山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得て
いた。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と争いになり
、須走村は18世エムゾネ紀(1703年と1772年)、幕府に
裁定を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の宝永
噴火の際、これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆わ
れ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了し、多
くの道者を集めた。エムゾネ18世紀後半、他の霊
126:底名無し沼さん
18/01/20 21:19:54.91 obUQkEtn0.net
登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行場(参拝所)
としても使用された。道者については詳しい研究が進んでいな
いが、1800年(御エムゾネ縁年:富士山出現伝説に由来する6
0年に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前半
は年平均約1,700人、1860
127:年(御縁年)は約3,60 0人であった。1883年、須山口二合八勺(標高2050m )に接続する御殿場口登山道がエムゾネ開削され、1889年、東 海道本線開通による御殿場口利便性の向上は須山口よりの道者 を奪い、さらに1912年、一部が陸軍演習場となり使用不可 能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至 っている。二合八勺以下の登山道で当時エムゾネの道が確認できる 部分は一部のみである。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称 で使用されている二合八勺以上の部分及び遊歩道として整備さ れた旧須山口の一部である)A4.須走口登山道富士山東麓の 冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道エムゾネと合流し 山頂東部に至る登山道である。その起源は明確ではないが、六 合目からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、文字資 料では1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くとも 17世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村がエムゾネ 登山道の山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得てい た。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と争いになり 、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕府に裁定 を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の宝永噴 火のエムゾネ際、これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に 覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了 し、多くの道者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットに された参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御 縁年に23,エムゾネ700人とピークを迎えた。1959年
128:底名無し沼さん
18/01/20 21:21:33.49 obUQkEtn0.net
展した神社である。法的保護、修理・整備の経緯1907年に東宮
本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定された。1929
年の国宝保存法エムゾネ制定に伴い、本殿は国宝とされた。1950年
の文化財保護法制定に伴い、東宮本殿は重要文化財とされた。19
53年に本殿及び西宮本殿が文化財保護法の下に重要文化財に指定
された。1952年に東宮本殿の解体修理工事が行われた。196
2〜6エムゾネ3年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973〜
74年に本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。19
81〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行われた。1997年に
本殿の部分修理工事が行われた。文化財保護法の下に他の文化財エムソ
゙ネとともに史跡富士山として指定される予定。A7.西湖A8.精
進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動によって形成された堰止湖
である。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士
講徒によって行われたが、長谷川角行の水行からいつのエムゾネ時代も
変わらず巡拝の対象として数えられたのが、後述の山中湖及び河口
湖とこの3湖である。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品と
ゆかりが深い。12特に本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も
使用された写真の撮影地点であり、重要な展望エムゾネ地点(view
point)である。富士山は、プロ・アマ問わず多くの写真家に
愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわたり富士山を追い続
けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道から撮影
された「湖畔の春」という写真は有名エムゾネである。この写真は、1
984年に採用された五千円札及び2004年に採用された千円札
の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を
構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影された富士
山とほぼ同じ姿のまま現在もエムゾネ残している。法的保護、修理・整
備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B1.富
士山本宮浅間大社説明社記によれば806年に、富士山により
129:底名無し沼さん
18/01/20 21:22:12.38 obUQkEtn0.net
登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行場(参拝所)
としても使用された。道者については詳しい研究が進んでいな
いが、1800年(御エムゾネ縁年:富士山出現伝説に由来する6
0年に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前半
は年平均約1,700人、1860年(御縁年)は約3,60
0人であった。1883年、須山口二合八勺(標高2050m
)に接続する御殿場口登山道がエムゾネ開削され、1889年、東
海道本線開通による御殿場口利便性の向上は須山口よりの道者
を奪い、さらに1912年、一部が陸軍演習場となり使用不可
能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至
っている。二合八勺以下の登山道で当時エムゾネの道が確認できる
部分は一部のみである。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称
で使用されている二合八勺以上の部分及び遊歩道として整備さ
れた旧須山口の一部である)A4.須走口登山道富士山東麓の
冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道エムゾネと合流し
山頂東部に至る登山道である。その起源は明確ではないが、六
合目からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、文字資
料では1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くとも
17世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村がエムゾネ
登山道の山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得てい
た。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と争いになり
、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕府に裁定
を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の宝永噴
火のエムゾネ際、これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に
覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了
し、多くの道者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットに
された参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御
縁年に23,エムゾネ700人とピークを迎えた。
130:底名無し沼さん
18/01/20 21:22:58.83 obUQkEtn0.net
れた参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年
に23,700人とピークを迎えた。1959年、バス道路の完
成により、新五合目(標高約2000m)以下の登山道の利用は
ほとんどなくなり、一エムゾネ部道としての確認ができない区間が
ある。(推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。
)A5.吉田口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山
頂東部を目指す道である。15世紀には、富士山への登拝が、修
験者だけでなく、ごく一エムゾネ般の人々の間にも広まっていた。
吉田口は14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、
大勢の人々が登るための設備が整うようになった。16世紀から
17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修行を行い、18世紀
前半には富士講隆盛の礎をエムゾネ築いた食行身禄は、入定(宗教
的自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。この
ため、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も
多くの道者(他の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を登っ
て山頂を目指している。しかエムゾネも、古道としては唯一徒歩で
麓から頂上まで登れる重要な道である。(推薦範囲は登山道全体
である。)11法的保護、修理・整備の経緯1924年に史蹟名
勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定された。1936年に国
立公園法の下に(富士箱根)国エムゾネ立公園に指定された。19
52年に文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定された
。1969年に国が大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続中)
。1996年に国・県が台風による森林の風倒被害に対する対策
に着手(継続中)。文化財保護法エムゾネの下に他の文化財ととも
に史跡富士山として指定される予定。A6.北口本宮冨士浅間神
社説明富士山の遥拝所に祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる
神)を起源とし、1480年には「富士山」の鳥居が建立され、
16世紀半ばには浅間神社の社殿がエムゾネ整って
131:底名無し沼さん
18/01/20 21:26:50.55 obUQkEtn0.net
ス道路の完成により、新五合目(標高約2000m)以下の登
山道の利用はほとんどなくなり、一部道としての確認ができな
い区間がある。(推薦範囲は現在も利用されている新五合目以
上である。)A5.吉エムゾネ田口登山道北口本宮冨士浅間神社を
起点とし、富士山頂東部を目指す道である。15世紀には、富
士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも
広まっていた。吉田口は14世紀後半には参詣の道者のた
132:底名無し沼さん
18/01/20 21:29:12.01 obUQkEtn0.net
ス道路の完成により、新五合目(標高約2000m)以下の登
山道の利用はほとんどなくなり、一部道としての確認ができな
い区間がある。(推薦範囲は現在も利用されている新五合目以
上である。)A5.吉エムゾネ田口登山道北口本宮冨士浅間神社を
起点とし、富士山頂東部を目指す道である。15世紀には、富
士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも
広まっていた。吉田口は14世紀後半には参詣
133:底名無し沼さん
18/01/20 21:29:58.95 obUQkEtn0.net
その後、1561年に現在の東宮本殿、1594年に西宮本殿、
1615年には本殿が建立された。富士講とのつながりが強く、
1730年代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境
内の建造物群の修復工事が行われ、現エムゾネ在にみる境内の景観
の礎が形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の本殿に唐
破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰組をもって
支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本殿・西宮
本殿はともに桧皮葺・一間社流造であるエムゾネ。3本殿とも、各
部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して、それぞれ
の時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮冨士浅間神社
の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、
神社の管理も御師団の中から選ばれた者にエムゾネ委ねられていた
。社殿の背後には登山門があり、この神社を起点として富士山頂
まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御師と密接な関係
を持ちながら発展した神社である。法的保護、修理・整備の経緯
1907年に東宮本殿が古社寺保存法の下にエムゾネ特別保護建造
物に指定された。1929年の国宝保存法制定に伴い、本殿は国
宝とされた。1950年の文化財保護法制定に伴い、東宮本殿は
重要文化財とされた。1953年に本殿及び西宮本殿が文化財保
護法の下に重要文化財に指定された。1952エムゾネ年に東宮本
殿の解体修理工事が行われた。1962〜63年に西宮本殿の解
体修理工事が行われた。1973〜74年に本殿、西宮本殿及び
幣殿の部分修理工事が行われた。1981〜82年に東宮本殿の
部分修理工事が行われた。1997年に本殿の部エムゾネ分修理工
事が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士
山として指定される予定。A7.西湖A8.精進湖A9.本栖湖
説明富士山の火山活動によって形成された堰止湖である。富士山
周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士エ
134:底名無し沼さん
18/01/20 21:34:59.87 obUQkEtn0.net
宿坊もでき始め、大勢の人々がエムゾネ登るための設備が整うよう
になった。16世紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用
して修行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食
行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって信者の登山本道をこ
の吉田口と定めた。このため、富士講のエムゾネ信者が次第に増加
した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山口の合計
と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している。しか
も、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道で
ある。(推薦範囲は登山道全体である。)11法エムゾネ的保護、
修理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に名勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(富士
箱根)国立公園に指定された。1952年に文化財保護法の下
に名勝、ついで特別名勝に指定された。1969年に国がエムゾネ
大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続中)。1996年に国
・県が台風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中
)。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として
指定される予定。A6.北口本宮冨士浅間神社説明富士山の遥
拝所エムゾネに祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源
とし、1480年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀
半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされる。その後、15
61年に現在の東宮本殿、1594年に西宮本殿、1615年
には本殿が建エムゾネ立された。富士講とのつながりが強く、17
30年代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境内
の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が
形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の本殿に唐破風
付向背をつけた形式でエムゾネ、正面と側面に挿肘木の腰組をもっ
て支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本殿・
西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿とも
135:底名無し沼さん
18/01/20 21:36:34.47 obUQkEtn0.net
に袖廊・廻廊を附した。エムゾネ1950年の文化財保護法制定に伴い
、本殿は重要文化財とされた。1951〜52年、1970年、1
988年に本殿の屋根の修理等が行われた。1969〜70年に本
殿の屋根の修理等が行われた。1987〜88年に本殿の屋根の修
理等が行われたエムゾネ(部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理
等が行われた。13文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富
士山として指定される予定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅
間大社の社伝によれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿等が位
置すべエムゾネき場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置され
るのみという特異な形態は古代からの富士山祭祀の形を止めている
と推定されている。この遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。
具体的な創建年代は不詳だが、発掘調査では神事に使用されたとエムソ
゙ネ推定される12〜15世紀の土器が出土し、文献上では1551
年にその存在が確認できる。また、遅くとも1577年までには浅
間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これ
は4月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社と山宮エムゾネ浅間神
社を往復する行事である。現時点では神が4月に旧跡に戻るという
解釈と、山にいる神が4月に田の神として里へ降りるという解釈が
ある。この行事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神
幸」に使用される経路を御神幸道という。道にエムゾネは1691年に
置かれた距離を示す石碑が少なくとも四箇所残っているが、正確な
道筋は現在確認されていない。法的保護、修理・整備の経緯198
5年に富士宮市の史跡に指定される。文化財保護法の下に他の文化
財とともに史跡富士山として指定されエムゾネる予定。B3.村山浅間
神社説明12世紀前半から中ごろの修行僧末代の活動が創建の起源
とされており、1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設
として興法寺(富士山興法寺または村山興法寺)と呼ばれていた(
資産範囲には浅間神社と寺院エムゾネである大日堂が含まれる)。
136:底名無し沼さん
18/01/20 21:37:16.02 obUQkEtn0.net
宿坊もでき始め、大勢の人々がエムゾネ登るための設備が整うよう
になった。16世紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用
して修行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食
行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって信者の登山本道をこ
の吉田口と定めた。このため、富士講のエムゾネ信者が次第に増加
した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山口の合計
と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している。しか
も、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道で
ある。(推薦範囲は登山道全体である。)11法エムゾネ的保護、
修理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に名勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(富士
箱根)国立公園に指定された。1952年に文化財保護法の下
に名勝、ついで特別名勝に指定された。1969年に国がエムゾネ
大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続中)。1996年に国
・県が台風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中
)。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として
指定される予定。A6.北口本宮冨士浅間神社説明富士山の遥
拝所エムゾネに祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源
とし、1480年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀
半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされる。その後、15
61年に現在の東宮本殿、1594年に西宮本殿、1615年
には本殿が建エムゾネ立された。富士講とのつながりが強く、17
30年代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境内
の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が
形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の本殿に唐破風
付向背をつけた形式でエムゾネ、正面と側面に挿肘木の腰組をもっ
て支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本殿・
西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。
137:底名無し沼さん
18/01/20 21:38:02.82 obUQkEtn0.net
よって行われたが、長谷川角行の水行からいつの時代も変わらず
巡拝の対象として数えられたのが、後述の山中湖及び河口湖とこ
の3湖である。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆか
りが深い。12特に本栖湖は、日本の紙幣の図柄としエムゾネて何
度も使用された写真の撮影地点であり、重要な展望地点(vie
wpoint)である。富士山は、プロ・アマ問わず多くの写真
家に愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯に
138:底名無し沼さん
18/01/20 21:41:45.51 obUQkEtn0.net
部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して、それぞ
れの時代の装飾的特色がよく表エムゾネされている。北口本宮冨士
浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属
しており、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられ
ていた。社殿の背後には登山門があり、この神社を起点として
富士山頂まで吉田口登山道が伸びているエムゾネ。富士講や吉田御
師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。法的保護、
修理・整備の経緯1907年に東宮本殿が古社寺保存法の下に
特別保護建造物に指定された。1929年の国宝保存法制定に
伴い、本殿は国宝とされた。1950年の文化財エムゾネ保護法制
定に伴い、東宮本殿は重要文化財とされた。1953年に本殿
及び西宮本殿が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。
1952年に東宮本殿の解体修理工事が行われた。1962〜
63年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973〜エムゾネ
74年に本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。
1981〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行われた。19
97年に本殿の部分修理工事が行われた。文化財保護法の下に
他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。A7.
西湖エムゾネA8.精進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動によ
って形成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行す
る内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角
行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられ
たのが、後述エムゾネの山中湖及び河口湖とこの3湖である。また
、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。12特
に本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も使用された写真の
撮影地点であり、重要な展望地点(viewpoint)であ
る。富士山は、プロ・エムゾネアマ問わず多くの写真家に愛され、
撮影されてきた。なかでも、生涯にわたり富士山を追い続
139:底名無し沼さん
18/01/20 21:43:21.00 obUQkEtn0.net
山における修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動が
組織化された。15〜16世紀には一般の道者の登拝も増加し、そ
の様子が16世紀の制作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描か
れている。1868エムゾネ年、神仏分離令により浅間神社と大日堂は
分離され、1906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。
ただし、修験者の活動は1940年代まで継続された。また、村山
の修験者の影響を受けた地域では現在でもその宗教行事が継続
140:底名無し沼さん
18/01/20 21:44:01.53 obUQkEtn0.net
部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して、それぞ
れの時代の装飾的特色がよく表エムゾネされている。北口本宮冨士
浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属
しており、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられ
ていた。社殿の背後には登山門があり、この神社を起点として
富士山頂まで吉田口登山道が伸びているエムゾネ。富士講や吉田御
師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。法的保護、
修理・整備の経緯1907年に東宮本殿が古社寺保存法の下に
特別保護建造物に指定された。1929年の国宝保存法制定に
伴い、本殿は国宝とされた。1950年の文化財エムゾネ保護法制
定に伴い、東宮本殿は重要文化財とされた。1953年に本殿
及び西宮本殿が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。
1952年に東宮本殿の解体修理工事が行われた。1962〜
63年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973〜エムゾネ
74年に本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。
1981〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行われた。19
97年に本殿の部分修理工事が行われた。文化財保護法の下に
他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。A7.
西湖エムゾネA8.精進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動によ
って形成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行す
る内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角
行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられ
たのが、後述エムゾネの山中湖及び河口湖とこの3湖である。また
、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。12特
に本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も使用された写真の
撮影地点であり、重要な展望地点(viewpoint)であ
る。富士山は、プロ・エムゾネアマ問わず多くの写真家に愛され、
撮影されてきた。なかでも、生涯にわたり富士
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