【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)17【ダメ工作員】 at OUT
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250:底名無し沼さん
18/01/19 01:01:12.72 04qHDvx10.net
より西宮本殿に比較してやや小規模であるが、構造形式や蟇股に挿
入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿中最も古い建
物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・西エムゾネ宮本殿西宮
本殿は、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重により東宮に替わ
る本殿として建立されたが、1615年、鳥居成次の本殿建立によ
り現在地に移され西宮となった。本殿の形式は東宮と同じ一間社流
造であるが、両側面と背面は二間で一間のエムゾネ向拝をつけ

251:底名無し沼さん
18/01/19 01:07:05.97 04qHDvx10.net
62p)銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2つの年
代が確認できる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。
(b)石碑A(高さ162×下幅76×上幅63p)表面に龍
が、裏面にはエムゾネ文字が刻まれている。(c)石碑B(未計測
)「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水の石碑群の写
真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆
岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の直径約800
mの火口を囲む峰々のエムゾネ総称で、それぞれの峰に仏が住むと
された。文永年中(1264〜1275)の作である『万葉集
註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあることから、鎌倉
時代中期には山頂の峰々を蓮の「八葉」に見立てていたと考え
られる。江戸時代後期の地誌でエムゾネある『駿河国新風土記』に
は「ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマカ
ニカゾヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成す
る峰も、またその名称も一定でないことがわかる。峰の名称は
、明治8年に廃仏毀釈により仏教色を払エムゾネ拭したものに変更
された。以下、平成20年度の静岡県埋蔵文化財調査研究所に
よる発掘調査報告書で示された9つの峰について、最高峰の剣
ヶ峰からお鉢巡りの回り方である時計回りの順に、記述する。
なお、浅間大社では、伊豆岳以外の8つをもってエムゾネ「八神峰
」としている。図八葉の配置図[剣ヶ峰(標高約3,776m
)]かつては剣ノ峰、阿弥陀岳とも呼ばれた。遠くから見ると
剣を立てたようにそびえ立っているためにこの名があるという
。道者たちはあまりに険しいこの峰を恐れて多くは登らなエムゾネ
かったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」とされ、採取を
禁じられたが、麓からの石と取り替えるということが行われて
いた。写真剣ヶ峰の写真図気象庁測候所跡周辺の平面図[白山
岳(標高約3,756m)]かつては釈迦ヶ岳とも呼

252:底名無し沼さん
18/01/19 01:07:46.63 04qHDvx10.net
物が出土した。富士山本宮浅間大社には、現在10巻分の経巻が
残っており、うち5巻は開かれていエムゾネて内容を確認できる。
経巻のスタイルや計測値から平安時代後期までさかのぼる可能性
が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を周回
し八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰を下り西安河
原の北側で道が二手に分かれるが、峰エムゾネの外を回り雷岩、割
石を経て白山岳に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院に沿って
回り金明水に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関わる工作
物や自然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在
は立入禁止となっている。A2大宮・村エムゾネ山口登山道図登山
道に要素が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約3
.5q、天照教社の西南西約1qの地点(標高約830m)に、
東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本の大きなケ
ヤキの巨木があり、ここが札打場であったエムゾネ。札打とは、自
分の院号を記した札を打ちつけることである。村山で修験道が盛
んであった頃、山伏が峰入修行に先立ち札打を行った。昭和30
年(1955)頃までは、木に打ちつけた札が見られたという写
真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡エムゾネ)村山口登山
道跡と富士山スカイラインが交差する地点から南西方向に約50
0mの地点に位置する。標高は約1,280mである。東側を走
る沢から一段上がった平坦面に所在している。平坦面は2段あり
、上−45−段には小さな祠が建てられているエムゾネ。また下段
には、南東から北西方向に石列が伸びている。江戸時代には馬返
しと呼ばれ、駒立小屋があったとされる。また、ここからは女人
は登山道を登ることを許されず、駒立小屋は女人堂として使われ
た時期もあったと考えられる。下段平坦面の南側エムゾネには溝が
東西方向に延び、西側の森林に突き当たって痕跡をたどれなくな
る。木馬道である可能性が指摘される。写真中宮八幡堂

253:底名無し沼さん
18/01/19 01:08:33.27 04qHDvx10.net
本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に取り入れていて、やがて豪
華な本社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞できる貴重
な建物である。−49−写真西宮本殿の写真図西宮本殿の図・大塚
山社誌では、日本武尊が富士山をエムゾネ遙拝した地であり、ここを浅
間明神の創建にかかわる場所と位置づけている。さらに、788年
には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、大塚社として日本武
尊を分祀したと伝えられる。現在この地は、流山状の小高い丘をな
しており、日本武尊を祀エムゾネる祠が建てられている。写真大塚山の
写真図大塚山の図・御鞍石吉田火祭(鎮火祭)の際の御輿行在所。
吉田火祭の本日にこの御鞍石上に御輿が安置され、神事が行われる
。ここで読まれる祝詞の一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とさ
れる。写真御鞍エムゾネ石の写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要
素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡
りが多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡
拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多くの
芸術作エムゾネ品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素
として、自然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8精進湖
図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修
行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、いつのエムソ
゙ネ時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の
地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を
構成する諸要素として、自然地形(湖水)などがある。写真精進湖
の写真A9本栖湖図以下に示す要素が点在している平面エムゾネ図富士
山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって
行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられてい
る。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕
著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然エムゾネ地形(湖水)や
中ノ倉峠からの展望などがある。写真本栖湖の写真A信仰

254:底名無し沼さん
18/01/19 01:13:26.67 04qHDvx10.net
現在エムゾネは一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち
、また二等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725
m)]かつては薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手
にあたる。他の峰々と比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥
居が火口の方エムゾネ向に向けて建てられている。頂上付近には石
造物が残存し、首から上と手首から先が欠損している。台座正
面に「食行」「身禄」の文字が確認できる。写真久須

255:底名無し沼さん
18/01/19 01:14:09.36 04qHDvx10.net
八大龍王中宮八幡堂跡より北東に約100mの地点に「八大龍王
」と刻まれた石碑と水神の祠が並んで建てられていエムゾネる。水
神祠には「文化十三年寅年六月日」、八大龍王には「文化七年七
月十七日」との銘が刻まれている。駿河国大宮町神田の横関家の
主人が、天保14年(1843)から文久3年(1863)にか
けて記録した『袖日記』には、安政7年(1860)エムゾネ5月
11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘ったので山が荒れた」との
記述がある。この「中宮八幡堂の井戸」とは、八大龍王前にある
井戸跡を指すものと考えられている。井戸跡は幅80p、深さ5
0pほどである。・5号建物跡4号建物跡から登山道跡エムゾネを
登りしばらくすると一面の倒木帯となり、その中に5号建物跡が
ある。標高は約1,865mである。平成5年の富士宮市による
調査では、平場の北側の斜面の縁に3体の石像が発見されていた
が、平成20年の静岡県埋蔵文化財調査研究所による調査エムゾネ
では石像が4体見つかっている。木が倒れた際に地面が掘り起こ
され、地中にあった石像が地上に現われたと考えられる。うち1
体の不動明王像には、文化7年(1810)の銘がある。背面に
は「瀧本前」と刻まれており、ここが「富士山表口南面路次エムゾ
ネ社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であると推
測できる。4体の石像には破壊された痕跡が確認できる。廃仏毀
釈によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では5号建
物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡7エム
ゾネ号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の位
置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建物跡の
中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西
部の平場は東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残
エムゾネ存しており、石段の東西には石垣が組まれている。また平
場中央部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存して

256:底名無し沼さん
18/01/19 01:19:48.29 04qHDvx10.net
造物の写真[成就岳(標高約3,734m)]かつては大日岳
とも呼ばれ、大小2つエムゾネの鳥居が、噴火口の方角を向いて建
てられている。[伊豆岳(標高約3,748m)]かつては勢
至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅間神社の歴史』には、「中
腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の険を越え、成就岳にい
たるまで、至る所に蒸気を噴出エムゾネする」とある。頂上には鳥
居は見られない。[朝日岳(標高約3,733m)]伊豆岳と
同様、かつては地中から蒸気を発していたとされる。頂上に鳥
居は存在しない。石積みがあるが時期は不明である。他の峰々
と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳エムゾネ(標高約3,72
2m)]浅間大社奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現在
は一般の立入が制限されている。[駒ヶ岳(標高約3,718
m)]聖徳太子が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息をと
ったという伝説のある峰である。山頂に鳥居が存エムゾネ在する。
峰全体が岩石からできている。[三島岳(標高約3,734m
)]−43−かつては文殊岳とも呼ばれた。頂上に木製の鳥居
と、「三島岳」と刻まれた白い角材の木杭が立っている。三島
岳の石仏群として、三島岳のふもと、かつて経塚が発見さエムゾネ
れた付近に、10体の石像が安置されている。これらは原位置
を留めておらず、周辺にあったものが集められたと考えられる
。いずれも頭部を欠損している。・大内院山頂の火口中央に存
在する穴で、ここより雲が生じ、風が起きるとされた。大内院
(噴エムゾネ火口)は中央にある大きな火口、小内院(阿弥陀ヶ窪
)は雷岩の下の小さな火口を指す。神や仏の居る所であると信
じられ、登山者は各登山口に設けられた拝所あるいは初穂打場
から、噴火口に向けて賽銭を投げ入れた。現在、噴火口への立
入は禁止されエムゾネている。写真大内院の写真・小内院西安河原
から白山岳に向かう途中にある大きな窪地で、大内院

257:底名無し沼さん
18/01/19 01:20:30.95 04qHDvx10.net
う一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸
約15m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の
縁エムゾネに石組が確認できる。昭和時代の地図には「一ノ木戸」
として載っており、「富士山表口南面路次社堂室有来之次第絵図
」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられ
る。室大日堂は大日如来と役行者像が祀られていたとの記述が『
駿河エムゾネ国新風土記』にあり、また末代上人が建てた

258:底名無し沼さん
18/01/19 01:21:15.64 04qHDvx10.net
例を見ない。1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階上層は
桁行3間・梁間2間の三間社流造で共に桧エムゾネ皮葺である。明治4
0年(1907)5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に
指定され、以後、国指定重要文化財として保護されている。写真本
殿全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣殿・拝殿含む)
[幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分エムゾネで、桁行3間・梁間3間の両
下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図には幣殿は描かれていない
が、現在幣殿として使われている部分に「作合三間四間ひはだぶき
」と書き込まれており、本殿の全景がよく見えるように描かれたと
推測される。県指定文化エムゾネ財として保護されている。[拝殿]桁
行5間・梁間3間で、床は幣殿より2段高くなっている。正面が入
母屋造、背面が切妻造で、屋根は檜皮葺、正面に1間の向拝が付い
ている。三方に縁を巡らせ、背面は幣殿に接続している。県指定文
化財として保護エムゾネされている。[透塀]本殿周囲を囲む1棟と、
その外側、本殿横に並ぶ三之宮及び七之宮を含めたより広い範囲を
囲む1棟−51−の計2棟で、総延長は36間に及ぶ。県指定文化
財として保護されている。[楼門]三間一戸、重層入母屋造で、屋
根は檜エムゾネ皮葺、正面・左右脇に扉がついている。楼門の左右には
随身像が安置


259:オてある。静岡県指定文化財として保護されている。 写真楼門全体の写真図楼門平面図・廻廊楼門から東西に伸びる回廊 は、昭和9年(1934)に付加されたものである。・手水舎楼エムソ ゙ネ門の南西側に、参拝者が参拝前に身を清めるために手や口をすす ぐ、手水舎がある。・灯籠大小それぞれの灯籠が境内各所に設置さ れている。・石鳥居本殿へ続く参道に石造りの鳥居が建てられてい る。昭和33年3月に寄進されたものである。・東鳥居エムゾネ・西鳥 居桜の馬場の東端と西端にそれぞれ朱塗りの鳥居が建てられている 。・桜の馬場浅間大社流鏑馬式が執り行われる馬場が約200mに 渡って東西に伸びている。源頼朝が富士の裾野で巻狩を行



260:底名無し沼さん
18/01/19 01:25:40.85 04qHDvx10.net
で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考えられる。写
真小内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫と砂の
急斜面である。お鉢巡エムゾネりの道中で最大の難所である。現在
はブルドーザーが通れるよう整地されている。火口に向けて傾
斜しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰に登らな
かったといわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり、山頂部
では稀な広い平坦部である。かエムゾネつては現世と来世の境であ
る「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を積み上げ石
塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて賽銭
が投げ込まれた場所とされる。・西安河原東安河原と対をなす
、剣ヶ峰から北側に下りた付近の平坦部エムゾネである。火口の外
壁を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置する。・
虎岩(獅子岩)大内院の南岸に突き出た大岩で、形状が虎(獅
子)のうずくまる姿に似ていることから名付けられた。・割石
かつては「釈迦の割石」と呼ばれた溶岩で、溶岩エムゾネが急速に
冷えて固まったため割れていた。高さが15m程あったが、現
在は崩壊してしまっている。古くから行者の修行場として知ら
れ、食行身禄がここで入定しようとしたが、大宮浅間の社人か
らの許可が得られず、吉田口七合五勺の烏帽子岩で入定しエムゾネ
たとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側にある岩で、
この方角から強い雷雲がくる事からこう呼ばれたとされる。ま
た、文化年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出現し、
8合目の石室に走り入った。これを石室に居合わせた人々が生
け捕エムゾネりにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の雪
解け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に
姿を現し、雪解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻
−44−かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士
山頂の難所とエムゾネして知られた。道の火口側には、火

261:底名無し沼さん
18/01/19 01:26:22.48 04qHDvx10.net
あったところだともいわれている。写真8号建物跡の写真・12
号建物跡村山口登山道跡に残る遺構のうちで、一番標高の高い位
置(約2,390m)にある。11号建物跡から北に50mの地
点に所エムゾネ在する。東西約8m、南北約5mの方形の区画が石
組によって作られている。東側には直径約90pの丸い穴が二つ
ある。(同様の穴は他の建物跡でも見られ、)便所跡と考えられ
る。−46−・鳥居登山道跡の8合目上に、自然木により構築さ
れた鳥居エムゾネが設置されている。「昭和五十二年七月吉日」と
刻まれており、個人が設置したものである。A3須山口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・須山御胎内(溶岩洞穴)旧
須山口登山道1合目(標高1,440m付近)にある全長10m
余の溶岩洞エムゾネ穴である。洞穴の直径は約1mで南東側と北西
側に入口があり、内部を通り抜けることができる。登山者は、こ
の洞穴を通って登山するのがならわしであった。かつて洞穴の延
長は数10mあったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現
在の長さになエムゾネった。崩落した部分は、長さ約30mのU字
型の溝状の溶岩地形として須山御胎内の南東側に残っている。こ
の付近の溶岩は須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では10
30〜1230年という結果が出ており、永保3年(1083)
の噴火時に噴出エムゾネした可能性がある。平成21年に実施した
測量調査では、須山胎内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485
m付近から認められており、須山口登山道がこの溶岩流に沿って
形成されていることが判明した。写真須山御胎内の写真・石像須
山御胎内の洞穴内エムゾネ部に、「木花咲耶姫」の石像が安置され
ている。地元在住の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道復興
後の平成12年に作られたものである。・石燈篭須山御胎内の南
東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居須山御胎内
の南東側入口前に高エムゾネさ3m前後の木製の鳥居が建

262:底名無し沼さん
18/01/19 01:27:06.19 04qHDvx10.net
流鏑馬を奉納したことに始まると言われ、室町エムゾネ時代の初期には
すでに神事が行われていたとの記録が残っている。馬場に沿って両
側に御神木の桜が植えられている。・禊所湧玉池の上池と下池の境
部分が禊所とされ、池に下りるための石段が組まれている。・神幸
橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川へのエムゾネ流出口に石造りの橋が架
けられている。春秋の大祭にはこの橋を通って山宮御神幸が出発し
たとされる。寛文10年(1671)の絵図では橋に屋根

263:底名無し沼さん
18/01/19 01:32:40.24 04qHDvx10.net
いる。・標柱鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎内)
」と記された標柱が、富士山須山口登山道保存会によって設置さ
れている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状の溶岩地形脇に
、石造りの祠が設置さエムゾネれている。写真祠の写真A4須走口
登山道図登山道に要素が点在している平面図・古御岳神社冨士浅
間神社の境外末社で、5合目の登山道登り口にある。現在の社殿
は、昭和54年(1979)に建立され、間口九尺、奥行九尺の
規模である。その際、御エムゾネ室浅間神社を合祀した。神社の前
には鳥居がある。かつては3000坪の境内地を持ち、本殿、拝
殿、庁舎を備えていたという。写真古御岳神社の写真・迎久須志
之神社冨士浅間神社の境外末社で、9合目(3,570m付近)
に建てられている。かつてエムゾネは向薬師、向ヒ薬師、手引薬師
と呼ばれ、石室の中に薬師如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管
理していた。元禄16年(1703)−47−の文書「大宮司富
士信安等返答下書」に「前薬師之小屋」の記述があることから、
江戸時代初期以降にはすでにエムゾネ祀られていたものと考えられ
る。道者はここで薬師に線香を手向けたという。廃仏毀釈によっ
て仏像は山を降ろされ迎久須志神社と改められた。祭神は大己貴
命と少彦名命である。以前は登山道が建物の西側を通るルートで
あったが、現在は建物の東側をエムゾネ通るようになっている。迎
久須志神社の直下には、「日ノ見御前」「日ノ御子」と呼ばれる
日の出を遥拝する場所があり、江戸時代には「日ノ御子石」とい
う富士山型の石が置かれていた。富士講の講中が大きな平石の上
で朝日を拝したという。現在「日エムゾネノ御子石」はないが、祠
と鳥居が建てられている。写真迎久須志之神社の写真・鳥居登山
道の浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(登山道終点)、9合目
、本8合目、本7合目、7合目、本5合目、古御嶽神社前に自然
木などにより構築された鳥居が設置エムゾネされている。

264:底名無し沼さん
18/01/19 01:38:18.53 04qHDvx10.net
至る道が内浜エムゾネ道である。沿道には信仰に関わる工作物や自
然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在は立
入禁止となっている。A2大宮・村山口登山道図登山道に要素
が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約3.5q
、天照教社の西南西約エムゾネ1qの地点(標高約830m)に、
東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本の大きな
ケヤキの巨木があり、ここが札打場であった。札打と

265:底名無し沼さん
18/01/19 01:38:59.22 04qHDvx10.net
山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置されている。この場所は「鳥
居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石碑7合目付近の
登山道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標高の高い場
所にあったが、雪崩によって流されてエムゾネ別の場所に転がって
いたものを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置したという。
日付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している。A5吉
田口登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山道吉田口
登山道は、北口本宮冨士浅間神社を起点エムゾネとし、富士山頂を
目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者が吉田口
登山道を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から
頂上まで登れる重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する要
素として、現存する吉田口登山道や沿道のエムゾネ宗教施設や山小
屋等信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬返ここから急坂とな
り馬が使えなくなることからこの名がついた。この一体は草山か
ら木山への境でもあり、ここからが御山の聖地ということにもな
る。富士山有料道路が開通する以前の馬返のエムゾネ周辺は、本格
的な登り勾配の坂道が始まる直前の平地であり、登拝者たちがい
ったん休憩を取る場所として賑わった。登山期間には4軒の茶屋
が営業され、登拝者の便に供された。写真馬返周辺の写真・五合
目ここは木山と焼山の境界でもあるこの地は天エムゾネ地境(てん
ちのさかい)とも言われる場所である。役場、中宮の社、小屋等
がおかれていた。ここの役場は、古くは中宮三社の神供料として
役銭を納めた場所である。後年は登山切手改め所となった。小屋
については、江戸後期には4軒があったが、すでエムゾネに武田信
玄の1566年の文書に「中宮之室」という名称があり、戦国時
代からこの地に小屋が設けられ−48−ていたことがわかる。最
盛期には18軒が所在したと伝えられている。写真五合目周辺の
写真・烏帽子岩七合五勺に烏帽子の形をした岩があエムゾ

266:底名無し沼さん
18/01/19 01:39:42.86 04qHDvx10.net
側が神路枚橋であるが、寛文10エムゾネ年(1670)の絵図では西
側にのみ架けられている。写真橋全体の写真絵図寛文10年の絵図
B2山宮浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図・溶岩流
地形山宮浅間神社の石鳥居から参道を経て参籠所に至るまでの区域
は北山溶岩流上に展開しエムゾネている。また、遥拝所が位置する小高
い丘陵は青沢溶岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の西岸には、
天母山(二子山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成される丘陵地が展
開する。よって、山宮浅間神社周辺には、籠屋付近の北山溶岩流を
含め、4つの異エムゾネなる溶岩流地形が広がっていることになる。遥
拝所の基盤となっている青沢溶岩流は、約2,000年前の噴火に
よって流出した比較的新しい溶岩流であるため、この部分は他の区
域と比べて植生の回復は遅れていたと考えられる。そのために、樹
木等にエムゾネ遮られることなく富士山の山頂まで見渡せていたため、
この場所で山を遥拝する行為が行われたと考えられる。写真溶岩流
地形の写真図溶岩流の拡散している模式図・社叢目通りの幹周が3
mを超える巨木4本を含むスギ林が、約9,780uの社叢を形エムソ
゙ネ成しており、富士宮市の保存樹林に指定されている。・籠屋(参
籠所)遥拝所へ登る手前の平坦な土地に籠屋が建てられている。籠
屋は、神の宿った御鉾が浅間大社と山宮浅間神社を往復する祭儀「
山宮御神幸」において、これに同行した大宮司以下の諸エムゾネ職が一
夜参籠した場所である。−53−・鉾立石籠屋をくぐり遥拝所へ続
く参道に、「山宮御神幸」で神の宿った鉾を休めるための「鉾立石
」が置かれている。石は火山弾であり、籠屋をくぐってすぐの位置
に1つ、石段の手前に1つの計2つが置かれてエムゾネいる。・石段(
参道)遥拝所が位置する丘陵へ登るための石段が組まれている。現
在あるものは戦中もしくは戦後に改築されたものと考えられる。・
石塁遥拝所の周辺約45m四方が石塁により方形に区切られている
。青沢溶岩流の溶岩塊上に溶岩礫を積エムゾネみ上げて構築さ

267:底名無し沼さん
18/01/19 01:45:23.03 04qHDvx10.net
れを烏帽子岩という。ここにて富士講中興の祖と称される食行身
禄が、1733年に31日間の断食修行を経て入定した。「甲斐
国志」にも「享保十八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小
屋アリ身禄ノ木像ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝スエムゾネ」と
あり、江戸後期にはすでに身禄の聖地として信者が登拝していた
ことがわかる。現在も富士講の聖地として重要な地である。写真
烏帽子岩の写真A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す

268:底名無し沼さん
18/01/19 01:46:09.39 04qHDvx10.net
的に遺物を含む土層上に構築されている。石塁下から祭祀に用いら
れたと思われる土師器が出土しているため、それらが用いられた1
2世紀から15世紀、もしくは後の時代に築造されたものと推定さ
れる。写真石塁の写真図石塁エムゾネの平面図・断面図・玉垣遥拝所の
周囲にはコンクリート製の玉垣が設置されている。戦中もしくは戦
後に設けられたものと考えられる。また、遥拝所入口には鉄製の門
扉が取り付けられている。・遥拝所富士山を直接拝礼し、祭儀を行
うことを目的としてエムゾネ築造されたと推定される施設である。南北
約15.2m、東西約7.6mの長方形で、30〜40p程度の溶
岩を用いて石列等によって組まれている。富士山を拝む方向に祭壇
が位置し、祭壇に向かって左側に祭儀を行う際の大宮司席、公文・
案主席、献エムゾネ饌所が、向かって右側に別当・供僧席が設けられて
いる。写真遥拝所の写真図遥拝所の平面図・石鳥居境内地の南端に
、石鳥居が建てられている。昭和6年(1931)に建立されたも
のである。・参道石鳥居から籠屋まで参道が続いている。B3村山
浅エムゾネ間神社図以下に示す要素が点在している平面図・元村山溶岩
流村山浅間神社は、新富士旧期溶岩の元村山溶岩流末端部付近にあ
たる。見付の間は平地で、両見付から先は急傾斜地となっている。
村山地区は標高が高く、他の集落と急傾斜地で隔絶された一エムゾネ段
高い場所に位置する。・水源地(竜頭ヶ池)社叢東側に「竜頭ヶ池
」と呼ばれる湧水池があり、水垢離や生活用水として利用されてき
た。またこの湧水を水源とする村山沢は南流して渓谷を刻み神社西
側から大沢川となる。これらの水源は、村山の集落エムゾネを成立させ
た要因の一つである。・御神木(イチョウ、大スギ)[イチョウ]
−54−昭和43年(1968)7月2日に県天然記念物に指定さ
れた。目通り8m、根回り9.15m、樹高26m、枝張り東西1
9m南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根エムゾネの発達も著しい。気
根が数多く垂下する。気根の先端に針を刺して祈願すると

269:底名無し沼さん
18/01/19 01:51:27.76 04qHDvx10.net
年の静岡県埋蔵文化財調査研究所による調査では石像が4体見
つかっている。木が倒れた際に地面が掘り起こされ、地中にあ
った石像が地上に現われたと考エムゾネえられる。うち1体の不動
明王像には、文化7年(1810)の銘がある。背面には「瀧
本前」と刻まれており、ここが「富士山表口南面路次社堂室有
来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であると推測できる
。4体の石像には破壊された痕跡が確認エムゾネできる。廃仏毀釈
によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では5号建
物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡7
号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の位置
にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在エムゾネする建物
跡の中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され
、南西部の平場は東西約25m、南北約10mである。入口に
石段が残存しており、石段の東西には石垣が組まれている。ま
た平場中央部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存しエムゾネ
ている。もう一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜
面上に、長軸約15m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の
縁と南側斜面の縁に石組が確認できる。昭和時代の地図には「
一ノ木戸」として載っており、「富士山表口南面路次社堂室有
来之エムゾネ次第絵図」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」
にあたると考えられる。室大日堂は大日如来と役行者像が祀ら
れていたとの記述が『駿河国新風土記』にあり、また末代上人
が建てた往生寺があったところだともいわれている。写真8号
建物跡の写真エムゾネ・12号建物跡村山口登山道跡に残る遺構の
うちで、一番標高の高い位置(約2,390m)にある。11
号建物跡から北に50mの地点に所在する。東西約8m、南北
約5mの方形の区画が石組によって作られている。東側には直
径約90pの丸い穴がエムゾネ二つある。(同様の穴は他

270:底名無し沼さん
18/01/19 01:52:08.39 04qHDvx10.net
在している平面図北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのエムゾネつ
ながりが強く1730年代に富士講の指導者である村上光清の寄
進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内
の景観の礎が形成された。社殿の背後には登山門があり、この神
社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が延びている。エムゾネ
富士講や吉田御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である
。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、富士信仰の拠点で
もある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道の起点などが
ある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥居土佐守エムゾ
ネ成次によって建立された。桁行一間・梁間二間の規模で、入母
屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の向拝一間をつけた
形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各部に漆塗り、
極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装飾を展開エム
ゾネし、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、すぐ
れた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写真図本殿の図
・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創建とも伝えられ
るが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社として造営したも
エムゾネのである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間の
向拝をつける一間社流造の形式である。東宮本殿は、本社本殿は
もとより西宮本殿に比較してやや小規模であるが、構造形式や蟇
股に挿入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿中最
もエムゾネ古い建物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・
西宮本殿西宮本殿は、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重に
より東宮に替わる本殿として建立されたが、1615年、鳥居成
次の本殿建立により現在地に移され西宮となった。本殿の形式は
東宮エムゾネと同じ一間社流造であるが、両側面と背面は二間で一
間の向拝をつける。西宮本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に
取り入れていて、やがて豪華な本社本殿建築へと発展す

271:底名無し沼さん
18/01/19 01:52:53.25 04qHDvx10.net
乳の出がよくなると伝えられ、女性の信仰を集めていた。また以前
はウロの中に大日如来が祀られていたといわれ、現在


272:ナも祭祀でし め縄を張る。[大スギ]昭和31エムゾネ年5月24日に県天然記念物 に指定された。村山浅間神社の御神木と称される巨木である。境内 の多くのスギの中で最大のもので目通り9.9m、枝張り東西17 .5m、南北31m、樹高47mもある。中心部には高さ8mに及 ぶ空洞がある。案内板でエムゾネは約1,000年の樹齢とさ



273:底名無し沼さん
18/01/19 01:57:58.88 04qHDvx10.net
でも見られ、)便所跡と考えられる。−46−・鳥居登山道跡
の8合目上に、自然木により構築された鳥居が設置されている
。「昭和五十二年七月吉日」と刻まれており、個人が設置した
ものである。A3須山口登山道エムゾネ図登山道に要素が点在して
いる平面図・須山御胎内(溶岩洞穴)旧須山口登山道1合目(
標高1,440m付近)にある全長10m余の溶岩洞穴である
。洞穴の直径は約1mで南東側と北西側に入口があり、内部を
通り抜けることができる。登山者は、こエムゾネの洞穴を通って登
山するのがならわしであった。かつて洞穴の延長は数10mあ
ったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現在の長さにな
った。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶岩地
形として須山御胎内の南東側に残っている。このエムゾネ付近の溶
岩は須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では1030〜1
230年という結果が出ており、永保3年(1083)の噴火
時に噴出した可能性がある。平成21年に実施した測量調査で
は、須山胎内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付エムゾネ
近から認められており、須山口登山道がこの溶岩流に沿って形
成されていることが判明した。写真須山御胎内の写真・石像須
山御胎内の洞穴内部に、「木花咲耶姫」の石像が安置されてい
る。地元在住の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道復興後
の平エムゾネ成12年に作られたものである。・石燈篭須山御胎内
の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居須山
御胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の鳥居が建てられ
ている。・標柱鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎
内)」と記さエムゾネれた標柱が、富士山須山口登山道保存会によ
って設置されている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状の
溶岩地形脇に、石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A
4須走口登山道図登山道に要素が点在している平面図

274:底名無し沼さん
18/01/19 01:58:41.49 04qHDvx10.net
、両者並べて鑑賞できる貴重な建物である。−49−写真西宮本
殿の写エムゾネ真図西宮本殿の図・大塚山社誌では、日本武尊が富
士山を遙拝した地であり、ここを浅間明神の創建にかかわる場所
と位置づけている。さらに、788年には新たに浅間明神を建て
、この大塚山には、大塚社として日本武尊を分祀したと伝えられ
る。現在エムゾネこの地は、流山状の小高い丘をなしており、日本
武尊を祀る祠が建てられている。写真大塚山の写真図大塚山の図
・御鞍石吉田火祭(鎮火祭)の際の御輿行在所。吉田火祭の本日
にこの御鞍石上に御輿が安置され、神事が行われる。ここで読ま
れる祝詞のエムゾネ一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とされる
。写真御鞍石の写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要素が点
在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが
多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝
の対象としてエムゾネ数えられている。また、景勝の地でもあり、
多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸
要素として、自然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8
精進湖図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を
巡って修行するエムゾネ内八海巡りが多くの富士講徒によって行わ
れたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている
。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕
著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湖水)など
がある。写真精進エムゾネ湖の写真A9本栖湖図以下に示す要素が
点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡り
が多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡
拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多く
の芸術作品とゆかりエムゾネが深い。顕著な普遍的価値を構成する
諸要素として、自然地形(湖水)や中ノ倉峠からの展望などがあ
る。写真本栖湖の写真A信仰に関わる周辺のものB1富

275:底名無し沼さん
18/01/19 01:59:29.07 04qHDvx10.net
実際にはおよそ400〜600年と推定される。・社叢境内には胸
高直径0.7m以上のスギが39本ある。アカガシ3本、スダジイ
1本などの大樹も見られるが、裏山の大半は戦後植樹されたヒノキ
やスギである。エムゾネ富士宮市の保存樹林に指定されている。・浅間
神社社殿村山浅間神社社殿は、神仏分離令によって境内社富士浅間
七社を相殿として造られ、中座に木花開耶姫命、左座に大山祗命、
彦火々出見命、瓊々杵命、右座に大日霊貴(天照大神)・伊弉諾尊
・伊弉エムゾネ冉尊を祀っている。現在の社殿は大正2年(1913)
に改築されたものだが、幣殿と拝殿は老朽化したため、その後さら
に鉄筋コンクリート一部木造に建替えられている。写真社殿の写真
図社殿の図面・大日堂(興法寺)鎌倉時代の文保年間(1317エムソ
゙ネ〜1318)に、末代上人の流れをくむ頼尊が村山に興法寺を開
いたと伝えられている。その興法寺の建物として現存する唯一の堂
で、富士山の本尊である大日如来を主尊とする。現在の建物は、部
材の状況や絵様彫刻の特徴などから江戸時代末期の建造エムゾネと考え
られるが、外壁は波鉄板板張りに変えられている。桁行5間・梁間
7間、入母屋造、鉄板葺きで、南面に出入り口を開き、前面と両側
面に幅一間の回り縁を巡らしている。写真社殿の写真図社殿の図面
・水垢離場山伏修行者及び修験者が、富士登拝エムゾネの道者が垢離を
とって身を浄めた場所で、間口約6.5m、奥行き約4mの長方形
で、深さ約0.6mに掘り込み、底に石を敷きつめ周囲は石積みと
なっている。造成年代は不明。水垢離場へは社叢裏手の沢に湧く龍
頭池湧水を引き、上の段から樋で落とエムゾネし垢離を取るようにして
ある。水の落ち口には山伏修行のときの主尊とされる不動明王の石
像が安置されている。写真水垢離場の写真・護摩壇大日堂東側にあ
り、正面には不動明王の石像が祀られている。護摩壇は、四囲を石
で囲んだ一辺5.3mの丸いエムゾネ石組となっている。丸い石組の前
に置かれた葛石には、「干時安政四年九月」と刻まれ、安

276:底名無し沼さん
18/01/19 02:04:42.88 04qHDvx10.net
神社冨士浅間神社の境エムゾネ外末社で、5合目の登山道登り口に
ある。現在の社殿は、昭和54年(1979)に建立され、間
口九尺、奥行九尺の規模である。その際、御室浅間神社を合祀
した。神社の前には鳥居がある。かつては3000坪の境内地
を持ち、本殿、拝殿、庁舎を備エムゾネえていたという。写真古御
岳神社の写真・迎久須志之神社冨士浅間神社の境外末社で、9
合目(3,570m付近)に建てられている。かつて

277:底名無し沼さん
18/01/19 02:05:21.56 04qHDvx10.net
浅間大社図以下に示す要素が点在している平面図・神立山本殿の
北側にある丘陵地一帯エムゾネは神立山と称される。神立山及び富
士山本宮浅間大社の基盤を構成する地形は、新富士火山旧期溶岩
流に分類される富士宮溶岩流と、溶岩流直上に広がる扇状地堆積
物の層で−50−構成され、溶岩流の末端部にあたる。そのため
指定地内の一部では溶岩エムゾネ礫が露出し、縄状溶岩も散見され
る。また、当該地区は風致地区・保安林にも指定され、渋沢堀沿
いの散策路以外は立ち入りが禁止されている。寛文10年(16
70)の浅間大社境内絵図では神立山に信仰関連の様々な建築物
が描かれ、発掘調査で石畳エムゾネや護摩堂跡が確認されている。
写真神立山の写真・湧玉池(上池、下池)本殿東側の「湧玉池」
は、国指定特別天然記念物となっている。湧玉池は、富士山に降
った雨や雪が地下水となり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層
間を流れ、溶岩流末端で湧出エムゾネして池になったものである。
禊所付近を境に上池と下池に分かれ、以前は上池のみを湧玉池、
下池から下流を御手洗川と呼んだ。登山者や道者が湧玉池の水で
心身を清めた後山中へ向かうという、富士山信仰と関連の深い池
であった。現在も富士山山開きエムゾネの7月1日には、湧玉池で
禊神事が行われる。写真湧玉池の写真図詳細平面図・社叢神立山
表層部は約3万8千uにわたってスダジイ、ケヤキ等の樹木が生
育しており、富士宮市保存樹林に指定されている。また、野鳥の
生息に適した環境でもあり、「野エムゾネ鳥の森」碑が建てられて
いる。・社殿(本殿・拝殿・幣殿・透塀・楼門)浅間大社は、社
伝によれば大同元年(806)に造営されたという。かつての駿
河国の一宮で、現在は全国1300余の浅間神社の総本社として
崇められている。現在の社殿は、慶エムゾネ長9〜11年(160
4〜06)に徳川家康が造営したものである。写真社殿全体の写
真図社殿平面図[本殿]本殿は国指定重要文化財である

278:底名無し沼さん
18/01/19 02:11:24.12 04qHDvx10.net
、向ヒ薬師、手引薬師と呼ばれ、石室の中に薬師如来が祀られ
冨士浅間神社の神主が管理していた。元エムゾネ禄16年(170
3)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下書」に「前薬師
之小屋」の記述があることから、江戸時代初期以降にはすでに
祀られていたものと考えられる。道者はここで薬師に線香を手
向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を降ろエムゾネされ迎久
須志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以
前は登山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物
の東側を通るようになっている。迎久須志神社の直下には、「
日ノ見御前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を遥拝する場エムゾネ
所があり、江戸時代には「日ノ御子石」という富士山型の石が
置かれていた。富士講の講中が大きな平石の上で朝日を拝した
という。現在「日ノ御子石」はないが、祠と鳥居が建てられて
いる。写真迎久須志之神社の写真・鳥居登山道の浅間大社東北
奥宮エムゾネ(久須志神社)前(登山道終点)、9合目、本8合目
、本7合目、7合目、本5合目、古御嶽神社前に自然木などに
より構築された鳥居が設置されている。・狛犬登山道終点の鳥
居前に狛犬2体が設置されている。この場所は「鳥居御橋」(
とりいおはしエムゾネ)と呼ばれていた。・石碑7合目付近の登山
道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標高の高い場所
にあったが、雪崩によって流されて別の場所に転がっていたも
のを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置したという。日付
は「七月吉日」とあるエムゾネのみで、上部が欠損している。A5
吉田口登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山道吉
田口登山道は、北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を
目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者が吉田
口登山道を目指している。しかエムゾネも、古道としては唯一徒歩
で麓から頂上まで登れる重要な道である。顕著な普遍

279:底名無し沼さん
18/01/19 02:12:04.75 04qHDvx10.net
造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他に例を見ない。
1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟エムゾネ造、2階上層は桁行
3間・梁間2間の三間社流造で共に桧皮葺である。明治40年(
1907)5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に指定
され、以後、国指定重要文化財として保護されている。写真本殿
全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平エムゾネ面図(幣殿・拝殿
含む)[幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分で、桁行3間・

280:底名無し沼さん
18/01/19 02:12:50.27 04qHDvx10.net
神輿を納めた神輿殿が、境内地西側に建てられている。・狛犬境内
には、社殿前と石段手前エムゾネの参道脇に計二対の狛犬が設置されて
いる。社殿前の一対は平成12年に、参道脇の一対は平成13年に
奉納されたものである。・灯籠参道の両脇に灯籠が建てられている
。登り口のものは平成13年に、階段を登ったところにあるものは
、それぞれ寛保エムゾネ2年(1742)、文政6年に奉納されたもの
である。・手水舎石段に至る参道の脇と、社務所西側の2箇所に、
手水舎が建てられている。社務所そばには、文政7−56−年と刻
まれた水盤も置かれている。・参道鳥居から10mほどは石畳が敷
かれ、エムゾネその後社殿の位置する高台へ登るためにコンクリート製
の階段が続いている。・鳥居参道入口には、朱塗りのコンクリート
製の鳥居が建てられている。昭和41年(1966)に奉納された
ものである。・石碑鳥居の東側に、郷社として奉幣を受けていたエムソ
゙ネことを示す碑が建てられている。・古宮神社八坂大神、八幡大神
、愛鷹大神、子安大神、疱瘡守護神を祀る境内社である。覆屋の中
にあり、旧本殿と推測される建物である。B5冨士浅間神社図以下
に示す要素が点在している平面図・社叢(浅間の杜)社エムゾネ殿周囲
と、参道の南側に社叢が広がっている。特に参道南側の部分を浅間
の杜と呼び、静岡県や小山町の天然記念物である大樹が生育してい
る。・ハルニレ昭和38年(1963)2月19日に静岡県の天然
記念物に指定された。根回り約6m、目通り4エムゾネm、樹高24.
50m、枝張東西28.10m、南北23.50m、樹齢約500
年。北日本の山地に多い落葉高木で、静岡県では極めて少なく当社
以外の小山町内では数本しか見当たらないが、境内には10本が生
育している。・エゾヤマザクラ昭和5エムゾネ8年5月1日に小山町の
天然記念物に指定された。樹齢約130年で、根回り2.08m、
目通り1.75m、樹高約10m、枝張東西13.8m、南北9.
5m。別名をオオヤマザクラと称するヤマザクラの北方型

281:底名無し沼さん
18/01/19 02:17:52.13 04qHDvx10.net
構成する要素として、現存する吉田口登山道や沿道の宗教施設
や山小屋等信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬返ここから
急坂となり馬が使えなくなることからこエムゾネの名がついた。こ
の一体は草山から木山への境でもあり、ここからが御山の聖地
ということにもなる。富士山有料道路が開通する以前の馬返の
周辺は、本格的な登り勾配の坂道が始まる直前の平地であり、
登拝者たちがいったん休憩を取る場所として賑わエムゾネった。登
山期間には4軒の茶屋が営業され、登拝者の便に供された。写
真馬返周辺の写真・五合目ここは木山と焼山の境界でもあるこ
の地は天地境(てんちのさかい)とも言われる場所である。役
場、中宮の社、小屋等がおかれていた。ここの役場は、古エムゾネ
くは中宮三社の神供料として役銭を納めた場所である。後年は
登山切手改め所となった。小屋については、江戸後期には4軒
があったが、すでに武田信玄の1566年の文書に「中宮之室
」という名称があり、戦国時代からこの地に小屋が設けられ−
48エムゾネ−ていたことがわかる。最盛期には18軒が所在した
と伝えられている。写真五合目周辺の写真・烏帽子岩七合五勺
に烏帽子の形をした岩があり、これを烏帽子岩という。ここに
て富士講中興の祖と称される食行身禄が、1733年に31日
間の断食修行エムゾネを経て入定した。「甲斐国志」にも「享保十
八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋アリ身禄ノ木像
ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期にはす
でに身禄の聖地として信者が登拝していたことがわかる。現在
も富士講の聖地としてエムゾネ重要な地である。写真烏帽子岩の写
真A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要素が点在している
平面図北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのつながりが強く1
730年代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境
内の建造物群の修復工事が行わエムゾネれ、現在にみる境

282:底名無し沼さん
18/01/19 02:18:30.75 04qHDvx10.net
の両下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図には幣殿は描かれて
いないが、現在幣殿として使われている部分に「作合三間四間ひ
はだぶき」と書き込まれており、本殿の全エムゾネ景がよく見える
ように描かれたと推測される。県指定文化財として保護されてい
る。[拝殿]桁行5間・梁間3間で、床は幣殿より2段高くなっ
ている。正面が入母屋造、背面が切妻造で、屋根は檜皮葺、正面
に1間の向拝が付いている。三方に縁を巡らエムゾネせ、背面は幣
殿に接続している。県指定文化財として保護されている。[透塀
]本殿周囲を囲む1棟と、その外側、本殿横に並ぶ三之宮及び七
之宮を含めたより広い範囲を囲む1棟−51−の計2棟で、総延
長は36間に及ぶ。県指定文化財として保護さエムゾネれている。
[楼門]三間一戸、重層入母屋造で、屋根は檜皮葺、正面・左右
脇に扉がついている。楼門の左右には随身像が安置してある。静
岡県指定文化財として保護されている。写真楼門全体の写真図楼
門平面図・廻廊楼門から東西に伸びる回廊は、昭エムゾネ和9年(
1934)に付加されたものである。・手水舎楼門の南西側に、
参拝者が参拝前に身を清めるために手や口をすすぐ、手水舎があ
る。・灯籠大小それぞれの灯籠が境内各所に設置されている。・
石鳥居本殿へ続く参道に石造りの鳥居が建てられてエムゾネいる。
昭和33年3月に寄進されたものである。・東鳥居・西鳥居桜の
馬場の東端と西端にそれぞれ朱塗りの鳥居が建てられている。・
桜の馬場浅間大社流鏑馬式が執り行われる馬場が約200mに渡
って東西に伸びている。源頼朝が富士の裾野で巻狩をエムゾネ行っ
た際、流鏑馬を奉納したことに始まると言われ、室町時代の初期
にはすでに神事が行われていたとの記録が残っている。馬場に沿
って両側に御神木の桜が植えられている。・禊所湧玉池の上池と
下池の境部分が禊所とされ、池に下りるための石段が組エムゾネま
れている。・神幸橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川への

283:底名無し沼さん
18/01/19 02:19:14.46 04qHDvx10.net
県が南限である。県内ではまエムゾネれな樹種である。・根上がりモミ
平成3年5月1日に小山町の天然記念物に指定された。樹齢約30
0年で、根回り4.61m、目通り3.07m、樹高27m。この
根上り群は約150年生のモミの根本にブナ、イヌシデの種子が生
え、宝永噴火の火山エムゾネ灰土が、降雨により流亡しながらモミが成
長したため、根が爪を立てた状態で生育し、根上がりになったと考
えられる。縁結びの木とも呼ばれている。・社殿平成18

284:底名無し沼さん
18/01/19 02:23:44.49 04qHDvx10.net
の礎が形成された。社殿の背後には登山門があり、この神社を
起点として富士山頂まで吉田口登山道が延びている。富士講や
吉田御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。顕著
な普遍的価値を構成する諸要素として、エムゾネ富士信仰の拠点で
もある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道の起点など
がある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥居土佐守
成次によって建立された。桁行一間・梁間二間の規模で、入母
屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の向エムゾネ拝一間を
つけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各部に
漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装
飾を展開し、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに
、すぐれた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写エムゾネ
真図本殿の図・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創
建とも伝えられるが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社
として造営したものである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で
正面に一間の向拝をつける一間社流造の形式である。東宮本殿
は、エムゾネ本社本殿はもとより西宮本殿に比較してやや小規模で
あるが、構造形式や蟇股に挿入した彫刻などに室町時代の手法
を示しており、三殿中最も古い建物である。写真東宮本殿の写
真図東宮本殿の図・西宮本殿西宮本殿は、1594年谷村城主
浅野左右衛門エムゾネ佐氏重により東宮に替わる本殿として建立さ
れたが、1615年、鳥居成次の本殿建立により現在地に移さ
れ西宮となった。本殿の形式は東宮と同じ一間社流造であるが
、両側面と背面は二間で一間の向拝をつける。西宮本殿は、桃
山時代の装飾的要素をエムゾネ多分に取り入れていて、やがて豪華
な本社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞できる貴
重な建物である。−49−写真西宮本殿の写真図西宮本殿の図
・大塚山社誌では、日本武尊が富士山を遙拝した地で

285:底名無し沼さん
18/01/19 02:24:24.17 04qHDvx10.net
石造りの橋が架けられている。春秋の大祭にはこの橋を通って山
宮御神幸が出発したとされる。寛文10年(1671)の絵図で
は橋に屋根が葺かれている。・輪橋(太鼓橋)本殿へと向エムゾネ
かう参道に、鏡池を渡る輪橋が架けられている。寛文10年の絵
図には既に描かれているが、大正4年(1915)に石造りに改
められた。写真輪橋の写真図輪橋の平面図絵図寛文10年の絵図
・護摩堂跡(推定)平成20年の発掘調査により、護摩堂跡エムゾ
ネと考えられる溶岩礫で構成された石垣と建物跡が検出された。
石垣は樵石積みで組まれ、平面形は正方形となっている。また、
石垣で正方形に囲繞された敷地内で建物跡の礎石が確認された。
桁行3間・梁間4間で、南側に入口を有していたと考えられるエム
ゾネ。発掘調査後に、江戸時代終わり頃の地誌でこの建物跡を「
本地堂」とする記載が確認されており、最終的に護摩堂から本地
堂へ造作し直された可能性がある。写真護摩堂の発掘調査時の完
掘写真(平面写真)図平面図・随身像慶長19年(1614)2
エムゾネ月に建立された。背銘には、左側の像は「甲州河内下山住
番匠石川清助作」、右−52−側の像は「大工山城國上原住櫻井
三蔵作」と記され、市指定有形文化財として保護されている。写
真随身像全体の写真・狛犬参道の石鳥居両側に、狛犬が建てられ
てエムゾネいる。大正7年5月に奉献されたものである。・御神幸
道首標の碑明治以前に行われていた「山宮御神幸」における、御
神幸道の首標が、池畔に立てられている。造立年は元禄年(16
91)未年十一月とされ、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也
」とエムゾネ刻まれている。昭和59年(1984)に浅間大社境
内の土中から発見され、現在地に再建された。・三之宮本殿横西
側に、淺間第三御子神を祀る境内社「三之宮浅間神社」が建てら
れている。・七之宮本殿横東側に、淺間第七御子神を祀る境内社
「七之エムゾネ宮浅間神社」が建てられている。・鉾立石

286:底名無し沼さん
18/01/19 02:25:09.79 04qHDvx10.net
4日に小山町の文化財(建造物)に指定された。宝永噴火により大
きな損害をエムゾネ受けたが、享保3年(1718)に再建された。そ
の後蟻害や老朽化により改修したものの、部材は享保年間(171
6〜36)のものが今なお使用されている。社殿は本殿・幣殿・拝
殿が連結した権現造である。拝殿は入母屋造で千鳥破風を据え、本
殿エムゾネは享保年間の遺構を残した流造りとなっている。−57−構
造は、拝殿が桁行5間・梁間2間の入母屋造で、向拝1間、正面千
鳥破風付。幣殿が桁行3間・梁間2間の両下造。本殿が三間社流造
、向拝1間、屋根は全て銅板葺きとなっている。写真社殿のエムゾネ写
真図社殿の図面・楼門二階建ての随神門で、上層の周囲に高欄付き
の縁を巡らしている。北の櫛岩窓神、南の豊岩窓神が随神として配
神されている。宝永噴火により社殿とともに大破しており、現在の
ものは明和4年(1767)随神が寄贈された当時エムゾネに再建され
たものと考えられる。楼門の構造は、三間一戸楼門、茅葺型入母屋
造、銅板葺き。軒廻りは二軒繁垂木に組物は出組で、腰組も二手先
としている。・参道大鳥居参道入口には、花崗岩の石鳥居が建てら
れている。春日造で、額束には「不二山」エムゾネと刻まれている。明
治33年(1900)に奉納された。・裏参道鳥居西側駐車場から
本殿へ至る裏参道の入口に石鳥居が建てられている。・富士塚狛犬
楼門前参道の両側に、富士塚が築かれ、その上に狛犬が置かれてい
る。・富士講講碑群明治より昭和エムゾネにかけて、各地の富士講より
寄進された記念碑が多く残されている。多くは、数多く富士登山が
成就されたことを感謝し、先達や講名を高く掲げ信仰の証としたも
ので、境内地の西側部分裏参道周辺に、多くの碑塔が建てられてい
る。写真富士講講碑群のエムゾネ写真図富士講講碑群の配置図B6河口
浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図河口浅間神社は、
864〜866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓でも浅間神
社が建てられることになったが、その神社である可能性が


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