【栗城史多似の】栗木 ..
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259:底名無し沼さん
18/01/13 07:40:03.25 78FOTcTx0.net
おける富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師集落とし
ての機能は、19世紀以降衰退してしまった。ただし、河口浅間神社は、現在も富
士山と密接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信
仰を語る上で欠かすことができない資産である。写真河口浅間神社の写真表法的保
護、修理・整備の経緯2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士
山として指定(予定)2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)B7
冨士御室浅間神社冨士御室浅間神社は吉田口二合目に鎮座した本宮(もとみや)と
、河口湖畔に建立された里宮から構成されている。8世紀初めに吉田口登山道二合
目に祭場をしつらえたのが最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとす
る文献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合目、御室浅
間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂が整備されたようで
ある。また、社記によると958年、二合目は冬季における参詣が難儀であること
から河口湖畔の現在地に里宮が建立されたという。江戸時代以降富士講の隆盛にと
もない、吉田口登山道の信仰拠点の一つとしてこの二合目の役割はさらに増すこと
になる。しかし、昭和に入ると富士信仰のありかたの変化や、富士スバルラインの
開通等もあって吉田口登山道は衰退する。それに伴い二合目を通過する登拝者も激
減する。また、富士御室浅間神社本宮を支えてきた氏子にとっても、その維持管理
が困難となって、1973年から74年にかけて、−32−本殿を里宮地内に移転
することとなる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位置づけられる
二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となって機能してきた神社であ
る。写真冨士御室浅間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯1973年本宮本
殿・二合目から里宮境内地に移築、整備された(〜74年)1985年本宮本殿・
文化財保護法の下に重要文化財として指定1983年回廊修理工事を行う1995
年外部の漆塗の塗り直しほか一部補修を行う2010年「重要文化財冨士御室浅

260:底名無し沼さん
18/01/13 07:40:31.50 GFydl90A0.net
吉田地区は、富士の雪代の被害を避けるため、1572年に旧
地である古吉田地区から集落ごと移転し、北口本宮冨士浅間神
社の北西隅から北東方向の傾斜面に沿って短冊状に町割が行わ
れたと伝えられている。小佐野家住宅は、南北の間口が16m
、東西方向の奥行きが150mほどの長大な屋敷地に建てられ
ている。小佐野家は、元亀の集落移転に合わせて現在地に移転
してきたと伝えられる。代々御師を勤め、屋号を堀端屋と号し
、江戸時代には当主は小佐野壱岐あるいは小佐野大隈と名乗っ
ていた。当家に宿泊する参詣者は年間1,000人に達したと
される。現在、屋敷地の東側には所有者が住む住居が建築され
ており、小佐野家住宅には所有者の親族が居住している。写真
小佐野家住宅の写真表法的保護、修理・整備の経緯1976年
文化財保護法の下に重要文化財として指定1977年消防設備
設置を行う1979年屋根の葺替えを行う1996年雨樋いの
補修を行う1997年主屋、蔵の修理を行う1998年主屋、
蔵の修理を行い2010年「重要文化財小佐野家住宅保存活用
計画」を策定B9山中湖富士山の火山活動によって形成された
堰止湖で、富士山の北東に位置する。富士山周辺の湖を巡って
修行する内八海巡りが行われたが、この山中湖にも多くの富士
講徒が訪れた。古くから景勝地として有名で、20世紀前半に
は湖畔に洋式ホテルが建てられたほか、別荘地としても整備さ
れた。ゆかりのある芸術家も多く、山中湖を描いた文学や絵画
が散見する。富士山の頂上付近に日の入りが重なる様子はダイ
アモンド富士と呼ばれ、多くの写真家を集める。写真山中湖の
写真B10河口湖富士山の火山活動により形成された堰止湖で
、富士山の北に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内
八海巡りが行われたが、この河口湖にも多くの富士講徒が訪れ
た。古くから景勝地として有名で、20世紀前半には湖畔に洋
式ホテルが建てられた。ゆかりのある芸術家も多く、湖を題材
にした文学や絵画は、富士五湖中この河口湖が最も多い。葛飾
北斎や歌川広重といった浮世絵師も、河口湖越しに見える富士
山を描いている。写真河口湖の写真表法的保護、修理・整備

261:底名無し沼さん
18/01/13 07:45:38.91 78FOTcTx0.net
神誕生の地ともいわれ、無戸室(むつむろ)に火を放ち、無事に
御子を出産したという故事に倣い社号を無戸室浅間神社と名付け
た。富士道者は、富士登拝の際に、樹型を入って身を清める風習
があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付けが行われるとと
もに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫な
どが祀られている。写真船津胎内樹型の写真表法的保護、修理・
整備の経緯1929年史跡名勝天然記念物法の下に天然紀念物と
して指定2010年「山梨県南都留郡富士河口湖町町内国指定

262:底名無し沼さん
18/01/13 07:46:06.78 78FOTcTx0.net
神社本殿保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに
史跡富士山として指定(予定)2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予
定)B8御師住宅御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の世話をすると
ともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。富士山御師として代表的なのは
、吉田口登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に
沿って大規模な集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をなし
、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が
建っている。玄関から奥へ客室が続き、最奥部には神殿が設けられている。最古の
部類に入る旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最盛期の
典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。旧外川家住宅は、富士北麓の信仰登
山口集落である富士吉田市上吉田・下宿の東側南端に位置する。1572年の町割
によって成立した東西方向の奥行きが150mほどの長大な短冊形の屋敷地に建て
られている。外川家は、屋号を塩屋ないし大外川、塩廼屋(しおのや)と号し、富
士信仰における上吉田に居住し、下総地域を檀家とした富士山御師である。157
2年の「吉田宿屋敷割帳写」には、外川家の位置に「仁科六郎ゑもん」の屋敷が記
されており、外川家ではこの人物を中興の初代としている。また、1669年の「
検地帳」では、塩屋多兵衛の屋敷として確認される。御師としての活動は江戸末期
頃隆盛期を迎えるが、1962年に御師を廃業している。建物の老朽化に伴い、所
有者が取り壊す意向であったが、富士吉田市が寄贈を受け、2006年から200
7年にかけ大規模保存修理事業を行った上で、2008年4月から富士吉田市歴史
民俗博物館の附属施設として一般公開されている。写真旧外川家住宅の写真表法的
保護、修理・整備の経緯2006年大規模保全修理を行う2008年富士吉田市歴
史民俗博物館の附属施設として一般公開を行う2010年「山梨県指定有形文化財
旧外川家住宅保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に重要文化財と

263:底名無し沼さん
18/01/13 07:46:32.18 GFydl90A0.net
経緯(B9・B10)1936年所在地が国立公園法の下に(
富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士五湖の静穏
の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に本栖
湖の湖面全域での動力船の使用が規制される−34−2011
年文化財保護法の下に名勝に指定(予定)2011年「名勝富
士五湖保存管理計画」を策定(予定)B11忍野八海富士山の
北東、忍野村忍草にある、富士山の伏流水による八つの湧水地
(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲
池)の愛称である。それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わ
る巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れ
を祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞられ「富士
御手洗(みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えら
れ、1843年に富士講道者によって再興されたとされる。写
真忍野八海の写真(どれか1つ)図忍野八海周辺図表法的保護
、修理・整備の経緯1934年史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に天然紀念物に指定2010年忍野村景観計画を策定、忍野八
海周辺を景観形成重点区域に指定2010年街なみ環境整備事
業により忍野八海周辺環境の整備を行う(〜14年)2011
年「天然記念物忍野八海保存管理計画」を策定(予定)B12
船津胎内樹型1617年、富士講の祖とされる長谷川角行が富
士登拝の際、現船津胎内樹型の南方に焼入(船津胎内樹型指定
範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を
発見し、浅間明神を祀った。1673年、富士講道者村上光清
により現船津胎内樹型が発見され、開祖が祀った焼入の地の浅
間明神が遷宮された。浅間明神誕生の地ともいわれ、無戸室(
むつむろ)に火を放ち、無事に御子を出産したという故事に倣
い社号を無戸室浅間神社と名付けた。富士道者は、富士登拝の
際に、樹型を入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空
間に宗教的な意義付けが行われるとともに、奥には富士講にと
っての富士山の祭神である木花開耶姫などが祀られている。写
真船津胎内樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929
年史跡名勝天然記念物法の下に天然紀念物として指定201

264:底名無し沼さん
18/01/13 07:52:34.90 78FOTcTx0.net
然記念物溶岩洞穴等保存管理・整備活用計画書」を策定B13吉
田胎内樹型吉田胎内本穴は、1892年に富士道者により整備さ
れた「御胎内」である。吉田胎内本穴の奥には、石祠があって富
士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫が祀られている。
樹型内に入ると横穴の正面には、食行身禄を祀る石祠があり、そ
の下段には、さらに横穴があり左右に分かれている。右の穴が天
津彦彦火瓊瓊杵命を祀る父の胎内で、左の穴が木花開耶姫を祀る
母の胎内である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕方
まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。−35−本穴につい
ては、古くから冨士山北口御師団が管理している。写真吉田胎内
樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天
然紀念物法の下に天然紀念物として指定2010年「天然記念物
吉田胎内樹型保存管理計画」を策定B14人穴富士講遺跡富士山
西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿いに位置する。木花開花
姫命・角行祖霊・徳川家康を主祭神とする浅間神社と富士講の人
々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟である人穴がある。長
さ約83mの人穴は約11,000〜8,000年前に流出した
犬涼山溶岩流中に生成したものである。1300年前後に成立し
た文書である吾妻鏡によれば人穴は霊的な場所であり、地元では
「浅間大菩薩の御在所」とみられていたことが記述されている。
この内容は遅くとも1603年までに説話化され、多くの人にそ
の存在が知られていた。富士講関連の文書では1558年、開祖
とされる長谷川角行が役行者のお告げにより人穴に至り、洞窟内
で立行等を達成し、浅間大菩薩よりお告げを得たとしている。角
行は人穴を浄土への入り口とし、「西の浄土」と呼んだため、主
に19世紀以降、人穴は富士講の人々より聖地として信仰を集め
、参詣だけでなく修行を行う者も見られた。その大部分は吉田口
登山道の利用者と推定される。また、塔頭の碑文から村山三坊と
の関係もあったと推定されている。人穴浅間神社の創建は明確で
はないが、1648年及び1665年、その前身である光?寺が
富士講二世日珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)により
再興された記述があり、19世紀前半に同寺の大日堂が僧空胎

265:底名無し沼さん
18/01/13 07:53:29.13 GFydl90A0.net
年「山梨県南都留郡富士河口湖町町内国指定天然記念物溶岩洞
穴等保存管理・整備活用計画書」を策定B13吉田胎内樹型吉
田胎内本穴は、1892年に富士道者により整備された「御胎
内」である。吉田胎内本穴の奥には、石祠があって富士講にと
っての富士山の祭神である木花開耶姫が祀られている。樹型内
に入ると横穴の正面には、食行身禄を祀る石祠があり、その下
段には、さらに横穴があり左右に分かれている。右の穴が天津
彦彦火瓊瓊杵命を祀る父の胎内で、左の穴が木花開耶姫を祀

266:底名無し沼さん
18/01/13 07:58:42.29 78FOTcTx0.net
より再興された。1868年の神仏分離令により20世紀までに
は大日堂が人穴村の氏神としての浅間神社となった。1942年
、付近が軍用地となったため一時移転したが、1954年に現在
地に復興された。境内の碑塔は、その4分の3(194基)が墓
碑ないし供養碑で人穴への分骨埋葬を望んだ富士講の信仰による
ものである。そのほかに富士山に何回も登ったという登拝記念や
大願成就の碑塔や角行二百年忌の宝篋印塔などがある。碑塔は富
士講の講毎に群を成した所があり、その目的は講の勢力を誇るた
めと推定されている。碑塔で建立年代のわかる89基の内、富士
講が隆盛した18世紀末から19世紀前半(1781から185
0年)に建立されたものが半数(44基)、19世紀末より20
世紀前半(1871から1940年)のものが3分の1(29基
)を占める。写真B14の写真B15白糸ノ滝人穴の北方約5k
mにある落差約20〜25m・幅約120〜210mの数百の流
れを持つ滝である。滝は約1万年前に噴出した白糸溶岩流の末端
から湧き出す一日平均13万?の水を源としている。滝の名前は
湧水の噴出が数百条の白糸が垂れているように見えるため名づけ
られた。湧水のメカニズムは、湧玉池と同様であり、透水性の白
糸溶岩流と不透水性の古富士泥流の境界に降水・雪解け水が滞水
し、三層の溶岩の隙間、及び溶岩流と泥流層の間より湧き出して
いるものである。このメカニズムが解明される前の19世紀半ば
の資料「不二山道知留邊」ではその起源を富士五湖の伏流水とし
ていた。白糸ノ滝は富士講関連の文書では、開祖とされる長谷川
角行が人穴での立行と合わせて水行を行った地と記されている。
−36−その後、白糸の滝は富士講を中心とした人々の巡礼の場
となった。その様子は1845年と1854年にこの地を訪れた
富士講先達の記録で確認でき、滝つぼの中で垢離をとる信者の周
囲に虹が出来る現象を「御来光」としている。また、周辺にある
食行身禄の碑や不動尊が同書の挿画に描かれている。そのほかの
19世紀の登山記でも人穴と共にその存在が長谷川角行との関わ
りを通して紹介されている。また、白糸ノ滝は景勝地としても有
名であり、多くの和歌・絵画の題材となっている。写真B15

267:底名無し沼さん
18/01/13 07:59:09.94 78FOTcTx0.net
術家も多く、湖を題材にした文学や絵画は、富士五湖中この河口湖が最も多い。葛
飾北斎や歌川広重といった浮世絵師も、河口湖越しに見える富士山を描いている。
写真河口湖の写真表法的保護、修理・整備の経緯(B9・B10)1936年所在
地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士五湖の
静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に本栖湖の湖面全域で
の動力船の使用が規制される−34−2011年文化財保護法の下に名勝に指定

268:底名無し沼さん
18/01/13 07:59:35.43 GFydl90A0.net
母の胎内である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕
方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。−35−本穴に
ついては、古くから冨士山北口御師団が管理している。写真吉
田胎内樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929年史
跡名勝天然紀念物法の下に天然紀念物として指定2010年「
天然記念物吉田胎内樹型保存管理計画」を策定B14人穴富士
講遺跡富士山西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿いに位置
する。木花開花姫命・角行祖霊・徳川家康を主祭神とする浅間
神社と富士講の人々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟で
ある人穴がある。長さ約83mの人穴は約11,000〜8,
000年前に流出した犬涼山溶岩流中に生成したものである。
1300年前後に成立した文書である吾妻鏡によれば人穴は霊
的な場所であり、地元では「浅間大菩薩の御在所」とみられて
いたことが記述されている。この内容は遅くとも1603年ま
でに説話化され、多くの人にその存在が知られていた。富士講
関連の文書では1558年、開祖とされる長谷川角行が役行者
のお告げにより人穴に至り、洞窟内で立行等を達成し、浅間大
菩薩よりお告げを得たとしている。角行は人穴を浄土への入り
口とし、「西の浄土」と呼んだため、主に19世紀以降、人穴
は富士講の人々より聖地として信仰を集め、参詣だけでなく修
行を行う者も見られた。その大部分は吉田口登山道の利用者と
推定される。また、塔頭の碑文から村山三坊との関係もあった
と推定されている。人穴浅間神社の創建は明確ではないが、1
648年及び1665年、その前身である光?寺が富士講二世
日珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)により再興され
た記述があり、19世紀前半に同寺の大日堂が僧空胎により再
興された。1868年の神仏分離令により20世紀までには大
日堂が人穴村の氏神としての浅間神社となった。1942年、
付近が軍用地となったため一時移転したが、1954年に現在
地に復興された。境内の碑塔は、その4分の3(194基)が
墓碑ないし供養碑で人穴への分骨埋葬を望んだ富士講の信仰に
よるものである。そのほかに富士山に何回も登ったという登

269:底名無し沼さん
18/01/13 08:05:12.92 78FOTcTx0.net
写真表法的保護、修理・整備の経緯1936年所在地が国立公園
法の下に(富士箱根)国立公園に指定1936年史蹟名勝天然紀
念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定1987年富士宮市
により「白糸ノ滝」保存管理計画が策定2010年富士宮市によ
り保存管理計画が改定され、これにともなった整備計画に基づき
、滝周辺の景観整備が行われた(3)眺望C三保松原富士山頂の
南西約45kmに位置する駿河湾に突き出した長さ約7kmの砂
嘴をなす三保半島上の松原である。現在、5万4千本の黒松が外
海側海岸線4kmを中心に繁茂し、その中でも樹齢約650年と
いわれる「羽衣の松」付近は、富士山と砂浜の松という日本で好
まれた景観を組み合わせて望むことができる景勝地として知られ
ている。三保松原のある


270:三保半島は約6000年前に現在の形と なったと考えられ、三保の名前は内海側の三つの岬を稲穂にたと えたという説が有力である。かつては半島一帯に松が繁茂し、8 世紀初頭には松原自体を景勝地として捉えた和歌が詠まれ、「万 葉集」に掲載された。その後遅くとも13世紀初頭までに三保松 原は後鳥羽上皇など中央の権力者に富士山と組み合わされた景勝 地として認識され、14〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と 足利義教が三保半島と対岸(現静岡市清水区興津)との間を船で 渡り富士山を眺める行事を行い、16世紀には徳川家康が三保半 島内海側に富士見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌 等の詩の題材となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞 台とした謡曲(能)「羽衣」が遅くとも16世紀までに成立した 。降臨した天女と漁師との出会いと別れを描いたこの話の最終場 面ではヒロインの天女が富士山方向へ飛び去っていく描写が見ら れる。これはすでに成立していた「竹取物語」で示された富士山 の噴煙が天上と地上とを結んでいるとする考えとの関係が指摘さ れている。この作品は、19世紀後半、海外へ伝えられ、イェー ツ、パウンドといったモダニズムの作家に影響を与えるとともに 、伝統芸能である「能」が世界に広まるきっかけを作った作品で ある。また、絵画でも15〜16世紀には三保松原を右に富士山 を左に配する構図が描かれ、この構図は狩野探幽により完成さ



271:底名無し沼さん
18/01/13 08:05:40.61 78FOTcTx0.net
予定)2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)B11忍野八海富
士山の北東、忍野村忍草にある、富士山の伏流水による八つの湧水地(出口池、御
釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)の愛称である。それぞれに八
大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの
水で穢れを祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞられ「富士御手洗(み
てらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士講道者に
よって再興されたとされる。写真忍野八海の写真(どれか1つ)図忍野八海周辺図
表法的保護、修理・整備の経緯1934年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀
念物に指定2010年忍野村景観計画を策定、忍野八海周辺を景観形成重点区域に
指定2010年街なみ環境整備事業により忍野八海周辺環境の整備を行う(〜14
年)2011年「天然記念物忍野八海保存管理計画」を策定(予定)B12船津胎
内樹型1617年、富士講の祖とされる長谷川角行が富士登拝の際、現船津胎内樹
型の南方に焼入(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと
考えられる)を発見し、浅間明神を祀った。1673年、富士講道者村上光清によ
り現船津胎内樹型が発見され、開祖が祀った焼入の地の浅間明神が遷宮された。浅
間明神誕生の地ともいわれ、無戸室(むつむろ)に火を放ち、無事に御子を出産し
たという故事に倣い社号を無戸室浅間神社と名付けた。富士道者は、富士登拝の際
に、樹型を入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付け
が行われるとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫など
が祀られている。写真船津胎内樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929
年史跡名勝天然記念物法の下に天然紀念物として指定2010年「山梨県南都留郡
富士河口湖町町内国指定天然記念物溶岩洞穴等保存管理・整備活用計画書」を策定
B13吉田胎内樹型吉田胎内本穴は、1892年に富士道者により整備された「御
胎内」である。吉田胎内本穴の奥には、石祠があって富士講にとっての富士山の

272:底名無し沼さん
18/01/13 08:06:07.97 GFydl90A0.net
記念や大願成就の碑塔や角行二百年忌の宝篋印塔などがある。
碑塔は富士講の講毎に群を成した所があり、その目的は講の勢
力を誇るためと推定されている。碑塔で建立年代のわかる89
基の内、富士講が隆盛した18世紀末から19世紀前半(17
81から1850年)に建立されたものが半数(44基)、1
9世紀末より20世紀前半(1871から1940年)のもの
が3分の1(29基)を占める。写真B14の写真B15白糸
ノ滝人穴の北方約5kmにある落差約20〜25m・幅約12
0〜210mの数百の流れを持つ滝である。滝は約1万年前に
噴出した白糸溶岩流の末端から湧き出す一日平均13万?の水
を源としている。滝の名前は湧水の噴出が数百条の白糸が垂れ
ているように見えるため名づけられた。湧水のメカニズムは、
湧玉池と同様であり、透水性の白糸溶岩流と不透水性の古富士
泥流の境界に降水・雪解け水が滞水し、三層の溶岩の隙間、及
び溶岩流と泥流層の間より湧き出しているものである。このメ
カニズムが解明される前の19世紀半ばの資料「不二山道知留
邊」ではその起源を富士五湖の伏流水としていた。白糸ノ滝は
富士講関連の文書では、開祖とされる長谷川角行が人穴での立
行と合わせて水行を行った地と記されている。−36−その後
、白糸の滝は富士講を中心とした人々の巡礼の場となった。そ
の様子は1845年と1854年にこの地を訪れた富士講先達
の記録で確認でき、滝つぼの中で垢離をとる信者の周囲に虹が
出来る現象を「御来光」としている。また、周辺にある食行身
禄の碑や不動尊が同書の挿画に描かれている。そのほかの19
世紀の登山記でも人穴と共にその存在が長谷川角行との関わり
を通して紹介されている。また、白糸ノ滝は景勝地としても有
名であり、多くの和歌・絵画の題材となっている。写真B15
の写真表法的保護、修理・整備の経緯1936年所在地が国立
公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1936年史蹟名勝
天然紀念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定1987年
富士宮市により「白糸ノ滝」保存管理計画が策定2010年富
士宮市により保存管理計画が改定され、これにともなった整

273:底名無し沼さん
18/01/13 08:10:48.20 78FOTcTx0.net
、19世紀に至るまで日本画・浮世絵において富士山を描く際の
典型的構図とされた。また、20世紀には和田英作が「羽衣の松
」付近から見た富士山を数多く描いた。三保松原は16世紀以降
、江戸幕府の直轄地となり松が守られてきた。江戸幕府滅亡後は
内海側の開発が進んだが、外海側の景観は保たれ、1922年、
国内初の名勝として国文化財に指定された。現在、砂礫の供給

274:底名無し沼さん
18/01/13 08:11:21.26 78FOTcTx0.net
神である木花開耶姫が祀られている。樹型内に入ると横穴の正面には、食行身禄を
祀る石祠があり、その下段には、さらに横穴があり左右に分かれている。右の穴が
天津彦彦火瓊瓊杵命を祀る父の胎内で、左の穴が木花開耶姫を祀る母の胎内である
。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に
登山した。−35−本穴については、古くから冨士山北口御師団が管理している。
写真吉田胎内樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天然紀
念物法の下に天然紀念物として指定2010年「天然記念物吉田胎内樹型保存管理
計画」を策定B14人穴富士講遺跡富士山西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿
いに位置する。木花開花姫命・角行祖霊・徳川家康を主祭神とする浅間神社と富士
講の人々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟である人穴がある。長さ約83m
の人穴は約11,000〜8,000年前に流出した犬涼山溶岩流中に生成したも
のである。1300年前後に成立した文書である吾妻鏡によれば人穴は霊的な場所
であり、地元では「浅間大菩薩の御在所」とみられていたことが記述されている。
この内容は遅くとも1603年までに説話化され、多くの人にその存在が知られて
いた。富士講関連の文書では1558年、開祖とされる長谷川角行が役行者のお告
げにより人穴に至り、洞窟内で立行等を達成し、浅間大菩薩よりお告げを得たとし
ている。角行は人穴を浄土への入り口とし、「西の浄土」と呼んだため、主に19
世紀以降、人穴は富士講の人々より聖地として信仰を集め、参詣だけでなく修行を
行う者も見られた。その大部分は吉田口登山道の利用者と推定される。また、塔頭
の碑文から村山三坊との関係もあったと推定されている。人穴浅間神社の創建は明
確ではないが、1648年及び1665年、その前身である光?寺が富士講二世日
珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)により再興された記述があり、19世
紀前半に同寺の大日堂が僧空胎により再興された。1868年の神仏分離令により
20世紀までには大日堂が人穴村の氏神としての浅間神社となった。1942年

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18/01/13 08:11:42.50 GFydl90A0.net
計画に基づき、滝周辺の景観整備が行われた(3)眺望C三保
松原富士山頂の南西約45kmに位置する駿河湾に突き出した
長さ約7kmの砂嘴をなす三保半島上の松原である。現在、5
万4千本の黒松が外海側海岸線4kmを中心に繁茂し、その中
でも樹齢約650年といわれる「羽衣の松」付近は、富士山と
砂浜の松という日本で好まれた景観を組み合わせて望むことが
できる景勝地として知られている。三保松原のある三保半島は
約6000年前に現在の形となったと考えられ、三保の名前は
内海側の三つの岬を稲穂にたとえたという説が有力である。か
つては半島一帯に松が繁茂し、8世紀初頭には松原自体を景勝
地として捉えた和歌が詠まれ、「万葉集」に掲載された。その
後遅くとも13世紀初頭までに三保松原は後鳥羽上皇など中央
の権力者に富士山と組み合わされた景勝地として認識され、1
4〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と足利義教が三保半島
と対岸(現静岡市清水区興津)との間を船で渡り富士山を眺め
る行事を行い、16世紀には徳川家康が三保半島内海側に富士
見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌等の詩の題材
となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞台とした謡
曲(能)「羽衣」が遅くとも16世紀までに成立した。降臨し
た天女と漁師との出会いと別れを描いたこの話の最終場面では
ヒロインの天女が富士山方向へ飛び去っていく描写が見られる
。これはすでに成立していた「竹取物語」で示された富士山の
噴煙が天上と地上とを結んでいるとする考えとの関係が指摘さ
れている。この作品は、19世紀後半、海外へ伝えられ、イェ
ーツ、パウンドといったモダニズムの作家に影響を与えるとと
もに、伝統芸能である「能」が世界に広まるきっかけを作った
作品である。また、絵画でも15〜16世紀には三保松原を右
に富士山を左に配する構図が描かれ、この構図は狩野探幽によ
り完成され、19世紀に至るまで日本画・浮世絵において富士
山を描く際の典型的構図とされた。また、20世紀には和田英
作が「羽衣の松」付近から見た富士山を数多く描いた。三保松
原は16世紀以降、江戸幕府の直轄地となり松が守られてき

276:底名無し沼さん
18/01/13 08:17:32.01 78FOTcTx0.net
による海岸侵食とマツクイムシによる松の枯死が進んでいるため
、静岡市及び地元民間団体による保護活動が行われている。写真
三保松原(現在の写真・静岡市)写真歌川広重の浮世絵−37−
写真三保松原の写真表法的保護、修理・整備の経緯1922年史
蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指定1976年名勝「三保
松原」管理計画書を策定1977年名勝地内の一部が指定解除1
989年名勝「三保松原」保存管理計画書を改定1990年名勝
地内の一部が追加指定及び指定解除2011年名勝「三保松原」
保存管理計画書を改定第3章保存管理の基本方針1顕著な普遍的
価値及び周辺環境を構成する諸要素世界文化遺産「富士山」の顕
著な普遍的価値は以下に示すとおりである。「富士山」の顕著な
普遍的価値富士山は、日本を代表し象徴する日本最高峰(標高3
776m)の秀麗な独立した火山として世界的に著名であり、そ
の自然的美しさと崇高さを基盤として日本人の自然に対する信仰
の在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広重などによる
顕著な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独自の芸術文化を
育んだ「名山」である。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸
術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深い
関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみならず、人間
と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した類型として
、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山である。本
計画では、顕著な普遍的価値に対し、資産に含まれる要素を「顕
著な普遍的価値を構成する諸要素」と「顕著な普遍的価値を構成
する諸要素と密接に関わる諸要素」に分類し、さらに緩衝地帯に
おける「周辺環境を構成する諸要素」を加え、表に示すとおり整
理を行った。A富士山山体及び登山道B信仰に関わる周辺のもの
C富士山から離れた眺望に関わるもの表富士山の構成要素A富士
山(富士山体)A1山頂信仰遺跡・富士山本宮奥宮・東北奥宮(
久須志神社)・金明水・銀明水・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志
岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)・大内
院・小内院・馬の背・東安河原・西安河原・虎岩(獅子岩)・割
石・雷岩・このしろが池・荒巻・吉田須走拝所跡・須山拝所跡

277:底名無し沼さん
18/01/13 08:17:56.71 78FOTcTx0.net
付近が軍用地となったため一時移転したが、1954年に現在地に復興された。境
内の碑塔は、その4分の3(194基)が墓碑ないし供養碑で人穴への分骨埋葬を
望んだ富士講の信仰によるものである。そのほかに富士山に何回も登ったという登
拝記念や大願成就の碑塔や角行二百年忌の宝篋印塔などがある。碑塔は富士講の講
毎に群を成した所があり、その目的は講の勢力を誇るためと推定されている。碑塔
で建立年代のわかる89基の内、富士講が隆盛した18世紀末から19世紀前半(
1781から1850年)に建立されたものが半数(44基)、19世紀末より2
0世紀前半(1871から1940年)のものが3分の1(29基)を占める。写
真B14の写真B15白糸ノ滝人穴の北方約5kmにある落差約20〜25m・幅
約120〜210mの数百の流れを持つ滝である。滝は約1万年前に噴出した白糸
溶岩流の末端から湧き出す一日平均13万?の水を源としている。滝の名前は湧水
の噴出が数百条の白糸が垂れているように見えるため名づけられた。湧水のメカニ
ズムは、湧玉池と同様であり、透水性の白糸溶岩流と不透水性の古富士泥流の境界
に降水・雪解け水が滞水し、三層の溶岩の隙間、及び溶岩流と泥流層の間より湧き
出しているものである。このメカニズムが解明される前の19世紀半ばの資料「不
二山道知留邊」ではその起源を富士五湖の伏流水としていた。白糸ノ滝は富士講関
連の文書では、開祖とされる長谷川角行が人穴での立行と合わせて水行を行った地
と記されている。−36−その後、白糸の滝は富士講を中心とした人々の巡礼の場
となった。その様子は1845年と1854年にこの地を訪れた富士講先達の記録
で確認でき、滝つぼの中で垢離をとる信者の周囲に虹が出来る現象を「御来光」と
している。また、周辺にある食行身禄の碑や不動尊が同書の挿画に描かれている。
そのほかの19世紀の登山記でも人穴と共にその存在が長谷川角行との関わりを通
して紹介されている。また、白糸ノ滝は景勝地としても有名であり、多くの和歌・
絵画の題材となっている。写真B15の写真表法的保護、修理・整備の経緯19

278:底名無し沼さん
18/01/13 08:18:23.93 GFydl90A0.net
。江戸幕府滅亡後は内海側の開発が進んだが、外海側の景観は
保たれ、1922年、国内初の名勝として国文化財に指定され
た。現在、砂礫の供給減による海岸侵食とマツクイムシによる
松の枯死が進んでいるため、静岡市及び地元民間団体による保
護活動が行われている。写真三保松原(現在の写真・静岡市)
写真歌川広重の浮世絵−37−写真三保松原の写真表法的保護
、修理・整備の経緯1922年史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に名勝に指定1976年名勝「三保松原」管理計画書を策定

279:底名無し沼さん
18/01/13 08:24:30.49 78FOTcTx0.net
村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経塚・外浜道・内浜道A2大宮・村山
口登山道・札打場・中宮八幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5
号建物跡・8号建物跡・12号建物跡・鳥居A3須山口登山道・
須山御胎内(溶岩洞穴)・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須
走口登山道・古御岳神社・迎久須志之神社・鳥居・狛犬・石碑A
5吉田口登山道・現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽子岩
A6北口本宮冨士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・
西宮本殿・大塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9
本栖湖・湖水・中ノ倉峠からの展望B1富士山本宮浅間大社・神
立山・湧玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿・拝殿・幣殿)
・透塀・楼門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・
桜の馬場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡
(推定)・随身像・狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・
鉾立石・欄干橋(神路橋、神路枚橋)B2山宮浅間神社・溶岩流
地形・社叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・石塁・玉
垣・遥拝所・石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩流・水
源地「竜頭ヶ池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢・浅間神
社社殿・大日堂(興法寺)・水垢離場・護摩壇・氏神社(高嶺総
鎮守社)・石鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手水鉢)・石段(参道
)・狛犬B4須山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠・
手水舎・参道・鳥居・石碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅
間神社)・社叢(浅間の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根上
がりモミ・社殿・楼門・参道大鳥居・裏参道鳥居・富士塚狛犬・
富士講講碑群B6河口浅間神社・社殿、鳥居B7冨士御室浅間神
社・吉田口二合目(拝殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石
)・移築された二合目本殿B8御師住宅(旧外川家住宅、小佐野
家住宅)・主屋・離座敷・中門・屋敷地(タツミチ)B9山中湖
・湖水B10河口湖・湖水B11忍野八海・八つの池(出口池、
御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・湧水B
12船津胎内樹型・溶岩樹型・無戸室浅間神社、石造物群B13
吉田胎内樹型・溶岩樹型・洞内の石祠、石造物群−40−B14
人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)・犬涼み溶岩流・溶岩洞穴・

280:底名無し沼さん
18/01/13 08:24:57.18 78FOTcTx0.net
6年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1936年史蹟名勝天
然紀念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定1987年富士宮市により「白糸
ノ滝」保存管理計画が策定2010年富士宮市により保存管理計画が改定され、こ
れにともなった整備計画に基づき、滝周辺の景観整備が行われた(3)眺望C三保
松原富士山頂の南西約45kmに位置する駿河湾に突き出した長さ約7kmの砂嘴
をなす三保半島上の松原である。現在、5万4千本の黒松が外海側海岸線4km

281:底名無し沼さん
18/01/13 08:25:24.83 GFydl90A0.net
977年名勝地内の一部が指定解除1989年名勝「三保松原
」保存管理計画書を改定1990年名勝地内の一部が追加指定
及び指定解除2011年名勝「三保松原」保存管理計画書を改
定第3章保存管理の基本方針1顕著な普遍的価値及び周辺環境
を構成する諸要素世界文化遺産「富士山」の顕著な普遍的価値
は以下に示すとおりである。「富士山」の顕著な普遍的価値富
士山は、日本を代表し象徴する日本最高峰(標高3776m)
の秀麗な独立した火山として世界的に著名であり、その自然的
美しさと崇高さを基盤として日本人の自然に対する信仰の在り
方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広重などによる顕著
な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独自の芸術文化を育
んだ「名山」である。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸
術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深
い関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみならず、
人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した類型
として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山で
ある。本計画では、顕著な普遍的価値に対し、資産に含まれる
要素を「顕著な普遍的価値を構成する諸要素」と「顕著な普遍
的価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素」に分類し、さ
らに緩衝地帯における「周辺環境を構成する諸要素」を加え、
表に示すとおり整理を行った。A富士山山体及び登山道B信仰
に関わる周辺のものC富士山から離れた眺望に関わるもの表富
士山の構成要素A富士


282:山(富士山体)A1山頂信仰遺跡・富士 山本宮奥宮・東北奥宮(久須志神社)・金明水・銀明水・八葉 (剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間 岳、駒ヶ岳、三島岳)・大内院・小内院・馬の背・東安河原・ 西安河原・虎岩(獅子岩)・割石・雷岩・このしろが池・荒巻 ・吉田須走拝所跡・須山拝所跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経 塚・外浜道・内浜道A2大宮・村山口登山道・札打場・中宮八 幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5号建物跡・8号建物跡・ 12号建物跡・鳥居A3須山口登山道・須山御胎内(溶岩洞穴 )・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須走口登山道・古御



283:底名無し沼さん
18/01/13 08:30:30.24 78FOTcTx0.net
叢(周辺の植生)・碑塔群・参道・建物跡・参道跡・道跡・炭焼
窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古富士泥流堆積物・白糸溶岩流・
白糸の滝・音止の滝・鬢撫水・植物・富士講・白糸の滝の勝景・
音止の勝景・富士山の展望・富士の巻狩の伝承・歌碑・標識C三
保松原・特別規制A地区・特別規制B地区・第1種規制地区・第
2種規制地区・第3種規制地区@自然地形(山林、河川など)・
宝永山(宝永火口)・溶岩洞穴、樹型等富士山体・側火山からの
噴出物による地形・富士山原始林及び青木ヶ原樹海・国指定天然
記念物(鳴沢溶岩樹型、鳴沢氷穴、本栖風穴等)A森林、植栽樹
木(山林を構成する森林、寺社・遺跡等の植栽樹木など)・自然
林、森林施業地、人工林・社叢林、境内林・富士山特定地理等保
護林・富士箱根伊豆国立公園富士山管理計画区B保存管理又は公
開活用を目的とした建造物(展示館、管理棟、解説板など)・総
合案内標識、解説板C道路とその他の人工物(生活用道路、電柱
、看板など)顕著な普遍的価値を構成する諸要素と密接に関わる
諸要素・富士山測候所・NTT富士山頂分室・便益施設@自然的
要素(山並み、河川など)A歴史的要素(埋蔵文化財、社寺境内
、伝承地など)成する諸要素周辺環境を構B人文的要素(農耕地
、市街地、道路、その他人工物)上表において分類した諸要素に
ついて、以下に提示する。(1)顕著な普遍的価値を構成する諸
要素@富士山山体及び登山道A富士山富士山体のうち、標高約1
500m以上の範囲である。この範囲は、周辺の浅間神社や展望
地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面に
おける比重が最も高い。各登山道における山体の神聖性に関する
境界の一つである「馬返」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観点
からも不可能になる地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している
。地元住民が、とりわけこの「馬返」より上を目指して「オヤマ
」又は「オヤマサマ」と呼び、富士山の範囲と見なす地域もあっ
た。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と
「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画な
どの対象となることが多い範囲である。御中道巡りのルートには
、現在も石碑が一部残存している。ルートはほぼ森林限界に沿

284:底名無し沼さん
18/01/13 08:30:57.90 78FOTcTx0.net
中心に繁茂し、その中でも樹齢約650年といわれる「羽衣の松」付近は、富士山
と砂浜の松という日本で好まれた景観を組み合わせて望むことができる景勝地とし
て知られている。三保松原のある三保半島は約6000年前に現在の形となったと
考えられ、三保の名前は内海側の三つの岬を稲穂にたとえたという説が有力である
。かつては半島一帯に松が繁茂し、8世紀初頭には松原自体を景勝地として捉えた
和歌が詠まれ、「万葉集」に掲載された。その後遅くとも13世紀初頭までに三保
松原は後鳥羽上皇など中央の権力者に富士山と組み合わされた景勝地として認識さ
れ、14〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と足利義教が三保半島と対岸(現静
岡市清水区興津)との間を船で渡り富士山を眺める行事を行い、16世紀には徳川
家康が三保半島内海側に富士見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌等の
詩の題材となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞台とした謡曲(能)「
羽衣」が遅くとも16世紀までに成立した。降臨した天女と漁師との出会いと別れ
を描いたこの話の最終場面ではヒロインの天女が富士山方向へ飛び去っていく描写
が見られる。これはすでに成立していた「竹取物語」で示された富士山の噴煙が天
上と地上とを結んでいるとする考えとの関係が指摘されている。この作品は、19
世紀後半、海外へ伝えられ、イェーツ、パウンドといったモダニズムの作家に影響
を与えるとともに、伝統芸能である「能」が世界に広まるきっかけを作った作品で
ある。また、絵画でも15〜16世紀には三保松原を右に富士山を左に配する構図
が描かれ、この構図は狩野探幽により完成され、19世紀に至るまで日本画・浮世
絵において富士山を描く際の典型的構図とされた。また、20世紀には和田英作が
「羽衣の松」付近から見た富士山を数多く描いた。三保松原は16世紀以降、江戸
幕府の直轄地となり松が守られてきた。江戸幕府滅亡後は内海側の開発が進んだが
、外海側の景観は保たれ、1922年、国内初の名勝として国文化財に指定された
。現在、砂礫の供給減による海岸侵食とマツクイムシによる松の枯死が進んでい

285:底名無し沼さん
18/01/13 08:31:22.17 GFydl90A0.net
神社・迎久須志之神社・鳥居・狛犬・石碑A5吉田口登山道・
現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽子岩A6北口本宮冨
士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・西宮本殿・大
塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9本栖湖・湖
水・中ノ倉峠からの展望B1富士山本宮浅間大社・神立山・湧
玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿・拝殿・幣殿)・透塀
・楼門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・桜の
馬場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡(
推定)・随身像・狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・
鉾立石・欄干橋(神路橋、神路枚橋)B2山宮浅間神社・溶岩
流地形・社叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・石塁
・玉垣・遥拝所・石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩
流・水源地「竜頭ヶ池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢
・浅間神社社殿・大日堂(興法寺)・水垢離場・護摩壇・氏神
社(高嶺総鎮守社)・石鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手水鉢)
・石段(参道)・狛犬B4須山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿
・狛犬・灯籠・手水舎・参道・鳥居・石碑・古宮神社B5冨士
浅間神社(須走浅間神社)・社叢(浅間の杜)・ハルニレ・エ
ゾヤマザクラ・根上がりモミ・社殿・楼門・参道大鳥居・裏参


286: 道鳥居・富士塚狛犬・富士講講碑群B6河口浅間神社・社殿、 鳥居B7冨士御室浅間神社・吉田口二合目(拝殿の一部、行者 堂跡、定善院跡、建物礎石)・移築された二合目本殿B8御師 住宅(旧外川家住宅、小佐野家住宅)・主屋・離座敷・中門・ 屋敷地(タツミチ)B9山中湖・湖水B10河口湖・湖水B1 1忍野八海・八つの池(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧 池、濁池、鏡池、菖蒲池)・湧水B12船津胎内樹型・溶岩樹 型・無戸室浅間神社、石造物群B13吉田胎内樹型・溶岩樹型 ・洞内の石祠、石造物群−40−B14人穴富士講遺跡(人穴 浅間神社)・犬涼み溶岩流・溶岩洞穴・社叢(周辺の植生)・ 碑塔群・参道・建物跡・参道跡・道跡・炭焼窯跡・井戸跡B1 5白糸ノ滝・古富士泥流堆積物・白糸溶岩流・白糸の滝・音止 の滝・鬢撫水・植物・富士講・白糸の滝の勝景・音止の勝景



287:底名無し沼さん
18/01/13 08:36:53.78 78FOTcTx0.net
て、富士山体を一周する。15〜16世紀ごろ富士講の祖とされ
る長谷川角行によって開かれたとされその後大沢崩れ−41−を
通るため富士講信者により修行の道として利用された。写真標高
約1500m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信仰遺跡の分布
図・富士山本宮奥宮富士宮口登山道頂上に位置し、7、8月の開
山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命である。『本朝
世紀』には、久安5年(1149)「富士上人末代は、富士山に
数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺と称し、写経を埋納下

288:底名無し沼さん
18/01/13 08:37:19.40 78FOTcTx0.net
ため、静岡市及び地元民間団体による保護活動が行われている。写真三保松原(現
在の写真・静岡市)写真歌川広重の浮世絵−37−写真三保松原の写真表法的保護
、修理・整備の経緯1922年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指定197
6年名勝「三保松原」管理計画書を策定1977年名勝地内の一部が指定解除19
89年名勝「三保松原」保存管理計画書を改定1990年名勝地内の一部が追加指
定及び指定解除2011年名勝「三保松原」保存管理計画書を改定第3章保存管理
の基本方針1顕著な普遍的価値及び周辺環境を構成する諸要素世界文化遺産「富士
山」の顕著な普遍的価値は以下に示すとおりである。「富士山」の顕著な普遍的価
値富士山は、日本を代表し象徴する日本最高峰(標高3776m)の秀麗な独立し
た火山として世界的に著名であり、その自然的美しさと崇高さを基盤として日本人
の自然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広重などによ
る顕著な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独自の芸術文化を育んだ「名山」
である。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸術活動などを通じ、時代を超えて
一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみ
ならず、人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した類型として、世
界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山である。本計画では、顕著な普遍
的価値に対し、資産に含まれる要素を「顕著な普遍的価値を構成する諸要素」と「
顕著な普遍的価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素」に分類し、さらに緩衝
地帯における「周辺環境を構成する諸要素」を加え、表に示すとおり整理を行った
。A富士山山体及び登山道B信仰に関わる周辺のものC富士山から離れた眺望に関
わるもの表富士山の構成要素A富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡・富士山本宮
奥宮・東北奥宮(久須志神社)・金明水・銀明水・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志
岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)・大内院・小内院・馬の
背・東安河原・西安河原・虎岩(獅子岩)・割石・雷岩・このしろが池・荒巻・

289:底名無し沼さん
18/01/13 08:37:46.00 GFydl90A0.net
富士山の展望・富士の巻狩の伝承・歌碑・標識C三保松原・特
別規制A地区・特別規制B地区・第1種規制地区・第2種規制
地区・第3種規制地区@自然地形(山林、河川など)・宝永山
(宝永火口)・溶岩洞穴、樹型等富士山体・側火山からの噴出
物による地形・富士山原始林及び青木ヶ原樹海・国指定天然記
念物(鳴沢溶岩樹型、鳴沢氷穴、本栖風穴等)A森林、植栽樹
木(山林を構成する森林、寺社・遺跡等の植栽樹木など)・自
然林、森林施業地、人工林・社叢林、境内林・富士山特定地理
等保護林・富士箱根伊豆国立公園富士山管理計画区B保存管理
又は公開活用を目的とした建造物(展示館、管理棟、解説板な
ど)・総合案内標識、解説板C道路とその他の人工物(生活用
道路、電柱、看板など)顕著な普遍的価値を構成する諸要素と
密接に関わる諸要素・富士山測候所・NTT富士山頂分室・便
益施設@自然的要素(山並み、河川など)A歴史的要素(埋蔵
文化財、社寺境内、伝承地など)成する諸要素周辺環境を構B
人文的要素(農耕地、市街地、道路、その他人工物)上表にお
いて分類した諸要素について、以下に提示する。(1)顕著な
普遍的価値を構成する諸要素@富士山山体及び登山道A富士山
富士山体のうち、標高約1500m以上の範囲である。この範
囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合
う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各登山
道における山体の神聖性に関する境界の一つである「馬返」(
乗馬登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能になる地点)
の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、とりわけ
この「馬返」より上を目指して「オヤマ」又は「オヤマサマ」
と呼び、富士山の範囲と見なす地域もあった。景観的には山体
の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の境界と
して認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの対象となる
ことが多い範囲である。御中道巡りのルートには、現在も石碑
が一部残存している。ルートはほぼ森林限界に沿って、富士山
体を一周する。15〜16世紀ごろ富士講の祖とされる長谷川
角行によって開かれたとされその後大沢崩れ−41−を通る

290:底名無し沼さん
18/01/13 08:43:27.42 78FOTcTx0.net
た」とある。江戸時代には、村山三坊所有の大日堂があったが、
明治7年(1874)、廃仏毀釈により山中の仏像を取り除き、
大日堂跡へ奥宮を建立し、浅間大神を祭った。写真奥宮の写真[
奥宮周辺の石碑群](a)蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ
18p)奥宮の裏手、浅間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が
、もう一方には虎の絵が彫られている。天保年間(1830−3
4)に、岸岱が作ったとされる。(b)鎮國之山(高さ146×
幅61×厚さ31p)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之山」
と彫られている。明治31年(1898)に書家の中林梧竹によ
り建碑された。後年、落雷により破壊されたが、昭和42年(1
967)に再建された。・東北奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮
の末社で、大名牟遅命、少彦名命を祀る。須走口登山道、吉田口
登山道の終点にある。室町時代以降、頂上の一つである久須志岳
(旧薬師ヶ嶽)に薬師堂があり、道者の登山切手を改めた。古く
は山役銭の徴収場であった。薬師堂は奥宮の場合と同様に廃仏毀
釈により破却され、久須志神社と改称した。写真東北奥宮の写真
・金明水雪解け水が湧く泉で、その湧き水は霊験あらたかな「御
霊水」として珍重された。大正期の写真をみると、井戸は石組み
や木製の柵で囲われ、旗や幟などもみられる。・銀明水金明水と
おなじく、富士山頂の


291:霊験あらたかな湧き水として珍重された。 『富士の歴史』によれば、「如何なる旱にも水の涸れることはな い」と記している。写真銀明水の写真[銀明水の石碑群](a) 石碑@(高さ112×幅62p)銘文には「明治三拾九年」と「 大正五年」の2つの年代が確認できる。富士講の人々が建碑した ものと考えられる。(b)石碑A(高さ162×下幅76×上幅 63p)表面に龍が、裏面には文字が刻まれている。(c)石碑 B(未計測)「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水の石 碑群の写真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳 、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の直径約8 00mの火口を囲む峰々の総称で、それぞれの峰に仏が住むとさ れた。文永年中(1264〜1275)の作である『万葉集註釈 』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあることから、鎌倉時代



292:底名無し沼さん
18/01/13 08:44:19.60 GFydl90A0.net
め富士講信者により修行の道として利用された。写真標高約1
500m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信仰遺跡の分布図
・富士山本宮奥宮富士宮口登山道頂上に位置し、7、8月の開
山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命である。『本
朝世紀』には、久安5年(1149)「富士上人末代は、富士
山に数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺と称し、写経を埋
納下した」とある。江戸時代には、村山三坊所有の大日堂があ
ったが、明治7年(1874)、廃仏毀釈により山中の仏像

293:底名無し沼さん
18/01/13 08:49:42.26 78FOTcTx0.net
型・溶岩樹型・洞内の石祠、石造物群−40−B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神
社)・犬涼み溶岩流・溶岩洞穴・社叢(周辺の植生)・碑塔群・参道・建物跡・参
道跡・道跡・炭焼窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古富士泥流堆積物・白糸溶岩流・
白糸の滝・音止の滝・鬢撫水・植物・富士講・白糸の滝の勝景・音止の勝景・富士
山の展望・富士の巻狩の伝承・歌碑・標識C三保松原・特別規制A地区・特別規制
B地区・第1種規制地区・第2種規制地区・第3種規制地区@自然地形(山林、

294:底名無し沼さん
18/01/13 08:50:10.53 GFydl90A0.net
取り除き、大日堂跡へ奥宮を建立し、浅間大神を祭った。写真
奥宮の写真[奥宮周辺の石碑群](a)蹲虎の碑(高さ139
×幅64×厚さ18p)奥宮の裏手、浅間岳の麓に所在する。
一方の面に漢文が、もう一方には虎の絵が彫られている。天保
年間(1830−34)に、岸岱が作ったとされる。(b)鎮
國之山(高さ146×幅61×厚さ31p)奥宮の前に所在す
る。碑面に「鎮國之山」と彫られている。明治31年(189
8)に書家の中林梧竹により建碑された。後年、落雷により破
壊されたが、昭和42年(1967)に再建された。・東北奥
宮(久須志神社)浅間大社奥宮の末社で、大名牟遅命、少彦名
命を祀る。須走口登山道、吉田口登山道の終点にある。室町時
代以降、頂上の一つである久須志岳(旧薬師ヶ嶽)に薬師堂が
あり、道者の登山切手を改めた。古くは山役銭の徴収場であっ
た。薬師堂は奥宮の場合と同様に廃仏毀釈により破却され、久
須志神社と改称した。写真東北奥宮の写真・金明水雪解け水が
湧く泉で、その湧き水は霊験あらたかな「御霊水」として珍重
された。大正期の写真をみると、井戸は石組みや木製の柵で囲
われ、旗や幟などもみられる。・銀明水金明水とおなじく、富
士山頂の霊験あらたかな湧き水として珍重された。『富士の歴
史』によれば、「如何なる旱にも水の涸れることはない」と記
している。写真銀明水の写真[銀明水の石碑群](a)石碑@
(高さ112×幅62p)銘文には「明治三拾九年」と「大正
五年」の2つの年代が確認できる。富士講の人々が建碑したも
のと考えられる。(b)石碑A(高さ162×下幅76×上幅
63p)表面に龍が、裏面には文字が刻まれている。(c)石
碑B(未計測)「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水
の石碑群の写真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、
成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の
直径約800mの火口を囲む峰々の総称で、それぞれの峰に仏
が住むとされた。文永年中(1264〜1275)の作である
『万葉集註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあることか
ら、鎌倉時代中期には山頂の峰々を蓮の「八葉」に見立てて


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