【御同朋】浄土真宗( ..
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572:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 00:42:43.16 mQQAJNuV0.net
>>541
「自分の思うものが何も返ってこなくてもそれはそれで仕方がないこと」
としているから。
相手に求めるだけで、自分は何も省みないというのは問題でしょというお話。
お寺は住職や門徒に加えてお寺に関わっている人によって成り立っている。
そこに関わろうとしていない人が自分の望むのものが還ってこないという理由で
お寺を批判したところで、仕方がないよというお話。
何も求めず、何も関わっていなくても、回り回って何かしら恩恵を受けているかもしれない
という想像力があっても良いかなと思う。

573:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 00:46:33.96 dk1nfhVu0.net
君のいうすごくお寺って閉鎖されたところなんだな。
仲間内の世界なのか。
冷たいな。
議論はしない。
君のキャラだし。

574:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 00:50:01.01 dk1nfhVu0.net
たとえば法然聖人は、わかりやすいので法然聖人とするが、そんなせこいこというだろうか。

575:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 00:55:30.44 mQQAJNuV0.net
お寺はそれを支えている人がいるから成立しいる。
しかしながら、お寺を支えていない人にも影響を与えるる。
それはお寺に関わる者が常に内省しないといけないこと。だからこその慚愧。
逆に普段お寺に関わっていない人が、自分の望むものが得られないとしても
それはそれで自らのあり方を内省すべきこと。だからこその慚愧。
「慚愧」という教えは阿含経典から大乗経典、大乗仏教の論書までひろく伝わる教え。
とりあえずうちの寺では、檀家さん以外の誰がいつお参りに来られたとしても
気分良くトイレを使って貰えるように、掃除を頑


576:」るかな。 一掃除、二勤行、三学問というし。



577:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 01:06:36.41 dk1nfhVu0.net
一に法を説くことだろう。
聞法の場を提供し、広く寺を開いてくれよ。
真宗の寺なんだろ。

578:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 01:07:42.94 mQQAJNuV0.net
「慚愧」について説かれている『涅槃経』(『教行信証』信巻にある引用部分)の現代語訳がこちら
二つの清らかな法があって、衆生を救うことができます。その法とは、一つには慚であり、
二つには愧であります。慚とは自分が二度と罪をつくらないことであり、
愧とは人に罪をつくらせないことです。また慚とは心に自らの罪を恥じることであり、
愧とは人に自らの罪を告白して恥じることです。また慚とは人に対して恥じることであり、
愧とは天に対して恥じることです。これを慚愧といいます。慚愧のないものとは人とは呼ばず、
畜生と呼びます。慚愧があるから父や母、師や年長のものを敬い、慚愧があるから父や母、
兄弟姉妹の関係ももたれるのです。

579:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 01:16:37.53 mQQAJNuV0.net
寺を広く開くためにも掃除が大切なんだな。
「一掃除、二勤行、三学問」は昔から広く知られている言葉だと思うのだけど。
そして一番大事なのは自らの心を掃除すること、というオチがつくと。
諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教

580:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 09:05:33.86 oDV++vKE0.net
今日も元気になむあみだんぶー

581:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 11:22:04.47 skNNhyG70.net
>>539
>>540
それは浄土真宗の教えということでよろしいですか?
>>546
なんだかそれってあなたの感想ですよね?

582:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 11:22:44.85 skNNhyG70.net
>>549 「一掃除、二勤行、三学問」は昔から広く知られている言葉
それは浄土真宗の常識?

583:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 11:35:45.97 TK3XYnLF0.net
>>552
掃除の代わりに作務とするところもあります。作務の基本こそ掃除ですが。
天台宗 > 天台宗について > 法話集 > No.14 お掃除
URLリンク(www.tendai.or.jp)
また、仏道に励む僧侶の世界でも日頃の修行として、これも昔から、
一、作務(さむ) 二、勤行(ごんぎょう) 三、学門(がくもん)と言われてきました。
まず、一番が作務です。作務とは、掃除や片付け、庭の草取りや、昔ですと
薪(たきぎ)を割ったり風呂をたいたりとか、要するに体に汗して働く作業です。
その中でも作務の代表は掃除です。

584:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 11:48:05.99 TK3XYnLF0.net
>>551
「慚愧」は阿含経典から大乗経典、大乗の論書に至るまでひろく伝わる教えであり、
それを否定する宗派は無いと思います。
そしてそれは仏教を良く知らない人、そして仏教を意識しない日常においても
知らず知らずのうちに人々の規範となっていると。
上のレスにある「盲亀の浮木」の譬えが阿含経典に説かれるように、
「受け難き人身を受け〜」の元ネタも『ダンマパダ』まで遡れる。
人間の身を受けることは難しい。死すべき人々に寿命があるのも難しい。
正しい教えを聞くのも難しい。もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい。(182)
すべての悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、
これが諸の仏の教えである。(183)

585:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 12:05:06.58 TK3XYnLF0.net
仏教とは遠く離れた分野で、こんなのを発見。なるほど、これは勉強になる。
「掃除・勤行・学問」の踏襲
下川 敏雄(著) 計算機統計学 15(2), 319, 2003
URLリンク(www.jstage.jst.go.jp)


586:bun/15/2/15_KJ00001023816/_article/-char/ja/ 私が属する大阪大学 大学院基礎工学研究科数理科学領域 後藤研究室の座右の銘は、 「掃除・勤行・学問」である。したがって、私の目標と展望も、この三つに沿って述べる。 掃除:わが師、後藤昌司先生は、「掃除、すなわち整理を意識せずに行えることが、 研究者として最も重要な資質の一つである」と頻繁に述べておられる。(以下略) 勤行:(前略)実践研究は、机上の研究や、コンピュータからの出力では得られない、 貴重な経験や知識を私に与えてくれる。「経験に学ぶ」の教訓は、後藤先生をはじめとする、 多くの諸先生方が教示している。(以下略)



587:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 18:51:01.34 skNNhyG70.net
浄土真宗にも通仏教なところはあるんだあ。
他の宗派と考え方は同じなんだねえ。

588:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 18:52:52.71 skNNhyG70.net
>>553
ごめん、もう一度確認するけど、それは天台宗の常識であって浄土真宗の常識でもあるの?

589:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 18:54:26.23 nEPcMzkf0.net
>>552
ダンマパタなんかは宗派を超えた仏教的な基本になった部分を説いてることが多いから、
ああいうのはどの宗派でも言ってええんやなかろうか?
そもそも浄土真宗の自信教人信や三毒の煩悩なんかも、そういう基本となるお経や教えを元にしてるしな。
あと浄土真宗でいう「慚愧」「歓喜」なんかも、宗派ごとの解釈の違いはあれど大抵の宗派は言うしね。
>>556
そりゃ勿論あるやろなあ

590:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 18:59:55.36 nEPcMzkf0.net
>>557
浄土真宗の常識ではないけど、浄土真宗の寺の人間なら普通にやってる認識やろうな。

591:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 19:01:37.21 nEPcMzkf0.net
>>556
捕捉として、
浄土真宗にも通仏教としての共通認識は勿論ある。
ただ細かい解釈や受け止め方としては、宗派ごとに勿論違いはあるやろなあ。
こんなんでどうや?

592:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 19:36:41.25 TK3XYnLF0.net
>>557
自分はこのスレにおいて真宗関係者を自称したことは一度も無いと断言しつつ、
天台宗の流れをくむ以上、真宗でもその言葉自体は知っているのでは?
と希望的観測を述べてみる。それも若い人よりもそれなりのお年をめしている人なら。
うちの宗派でも「古老の教えでは〜」という伝え方をします。
すくなくとも仏教とは遠い分野である数理科学領域の大学院研究室の標語になるくらいだから、
それなりに一般的だと思いますが、>>557さんは一度も聞いたことがありませんでしたか?
元ネタは天台宗というよりも達磨大師にはじまる禅宗にあるのだろうと思います。

593:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 19:44:02.28 TK3XYnLF0.net
初期仏教では比丘は掃除などの労働をすることがなかった、
坊さんが掃除を重要視するようになったのは中国仏教から
という考えを昔は持っていたが、考え直すきっかけになったのがこちら。
やはり作務は大事。
比丘の労働に関する考察
村上 綾瀬(著) 印度學佛教學研究 62(2), 883-879, 2014
URLリンク(www.jstage.jst.go.jp)

594:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 20:08:44.40 nEPcMzkf0.net
>>561
浄土真宗として明文化されとらんけど、嗜みや心得としては浄土真宗でも普通にやっとることやろなあと思うで
あと掃除も仏事ってのは聞いた事があるな。
蓮如上人は、「仏法領の物をあだにするかや」と日頃の生活がそのまま仏事であると説かれている。
学問に関して言えば、自信教人信とまず自らが進んで学ぶ事を勧めている。
>>562
シュリハンドクの喩えに掃除があるから、修行としての掃除はあったんやろなあ。

595:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 21:39:09.44 skNNhyG70.net
>>559
常識じゃないけど普通にやってる認識?
じゃあ常識ということでいいのでは。
というか部外者のあなたが勝手に決めつけていいの?

596:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 21:51:00.15 DJP6im9i0.net
浄土宗では自力行を認めているし
掃除、勤行、学問も浄土宗系の高校の学則にあるが
浄土真宗は自力行を認めないから
掃除が修行ということであれば法義に反するな
ハイ論破

597:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 21:58:59.81 TK3XYnLF0.net
いくらおいしい料理を出しても、店が汚かったり、段取りが悪くて一向に料理が出てこない
とかだったら困るよな。
その意味で、お寺では普段からの作務(掃除と段取り)が大事というつもりで
「気分良くトイレを使って貰えるように、掃除を頑張るかな。」(>>546)と書いたのだが、
>>547さんには伝わらなかったようだ。
「法を説くこと」は大事だけど、お寺に関わる人にとってお寺で見聞きするもの全てが
「お寺の経験」だから、お寺を預かる者としては、全ての人が気持ちよくお寺で過ごせる
ような環境整備が大事。その点でも>>555であげた後藤昌司先生の言葉は心に響いた。
ちなみに「お寺を預かる者」の中には住職以外の檀家さんなども含まれると考えている。
お参りに来られた檀家さんに境内の草を引かれると、己の不甲斐なさをひしひしと感じる。

598:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 22:05:48.00 TK3XYnLF0.net
>>565
>浄土宗では自力行を認めているし
浄土宗における「自力行」とは具体的にはどのようなものとお考えでしょうか?
言葉の定義がはっきりせず、「ぼくがかんがえた○○のおしえ」を通説の如く
主張されても困ってしまうかな。せめて具体例とその根拠を示しましょうよ。
掃除・勤行・学問が果たして自力になるのでしょうか?
辞書的な意味だとこんな感じ。
「自力とは聖道門における難行の実践であり、具体的には三学を行じて、
惑を断って娑婆世界において成仏を得ることをいう。 」
Web版 新纂浄土宗大辞典 − 自力・他力
URLリンク(jodoshuzensho.jp)

599:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 22:15:14.88 h0KEipKv0.net
>>565
大きな法要の前には普通におみがき言うて門徒と僧侶が共にお掃除するんやで
それは仏・法・僧(僧伽)対する仏徳讃歌なんよ。
大乗仏教では、他力とはお念仏をあげるだけやなくて、礼拝,讃嘆,作願,観察,廻向があるって言ってる
ご飯をたべるときの「いただきます」は生き物の命や沢山の人の苦労をいただいているという事を再確認してるんやけど
仏徳讃嘆とは仏に感謝をしてご恩を再確認しとるんや。
お仏壇をお掃除するときは、お仏壇の仏様とお経(教え)とご先祖(善知識)に感謝をしてお掃除をする
お寺をお掃除をするときは、仏様と法と僧(僧伽)に感謝をしてお掃除をする。
お掃除には礼拝,讃嘆,作願,観察,廻向があるんよ。

600:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 22:17:31.48 oDV++vKE0.net
なるほど

601:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 22:20:30.08 h0KEipKv0.net
大事な物や所やからこそ、常に綺麗にするのは大切なことやで
プージャにも通じるところや
>>566
いやお寺は僧伽なんやからみんなで守っていくもんでお坊さんだけで管理するもんや無いと思うが?
草むしりでもガラス掃除でも一緒にやるんやったらええんよ。
ワイも普通にお寺に行って色々やってるしな

602:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 23:17:14.8


603:1 ID:TK3XYnLF0.net



604:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 23:29:26.42 skNNhyG70.net
>>568 お掃除には礼拝,讃嘆,作願,観察,廻向があるんよ。
それは浄土真宗の公式見解ですか?

605:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 23:42:32.92 nEPcMzkf0.net
>>572
ただ単に掃除してる奴もおる
五念門としてやっとるもんもおるってことや。
ワイが報恩講で聞いた話やしな。
ある会社の入社試験では、最終試験に社長自らが登場し、こう言うそうです。「今日から3日差し上げますので、その間に、お母さんの足を洗って報告に来てください。それで入社試験は終了です。」と。最初は、そんなことで入社できるならと学生たちは喜びますが、いざ家に帰ると、なかなか母親に言い出すことができません。母子家庭で育った一人の青年は、2日間躊躇しますが、ついに「足くらい自分で洗うよ」という母親を説得し、縁側へ連れていき、たらいに水をくみました。そして、母親の足を洗おうと足を持ち上げた瞬間、母親の足の裏があまりにも固く、荒れ果て、ひび割れているのを感じ絶句してしまいます。学生の自分は母親が送ってくれる学費や生活費を当たり前のように使ってきましたが、それは母親がこんなにも必死になって働いて、送ってくれたものだったのだと悟ったのです。彼は胸がいっぱいになって「お母さん、ありがとう。長生きしてくれよな」というのが精一杯でした。
翌日、この体験を報告し、お礼を言う彼に、社長は最後にこう言ってくれました。「君は一人で大人になったんじゃない。お父さんやお母さんや、色々な人に支えられて大人になったんだ。そしてこれからも、自分一人の力で一人前になるのではないんだ。今回君が体験した感動を忘れず、謙虚な人、感謝のできる人でありなさい。」と。

606:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 23:45:26.17 nEPcMzkf0.net
この若者は母親の足を洗う事で、母親の恩や愛や苦労を再確認したんや。
報恩講の前のおみがきもそのこころでやってくれい。
仏壇やお寺のお掃除も仏徳讃壇してやれば五念門に通じる。
浄土真宗の公式見解かどうかは知らん。

607:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/01 23:51:02.04 FON5adjt0.net
>>567
>自力とは自らが実践する行のみを因(原因)として解脱し成仏を得ようとすることをいい、他力とは阿弥陀仏の救済の力によることをいう。

「自らが実践する行」と書いてあるだろ
それに加えて、親鸞の場合は一切の自力を否定している
文句を言うなら親鸞に言えよ馬鹿

608:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 00:22:19.14 33DadpY80.net
うんこすっときふんばっちゃだめ
ふんばると自力になる
なむあみだんぶーと念じなさい
いや念じちゃだめだ

609:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 00:27:11.62 laXQHmON0.net
つまり、法然聖人は自力行=
「自力とは自らが実践する行のみを因として解脱し成仏を得ようとすること」
が極楽浄土往生の因になると奨めたか認めたのかという事でしょう。
さすがにそうは思えないのだが。

610:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 00:35:32.28 E75LK0Pe0.net
>>577
法然の思想は他力に比重を置きつつ自力もあるという立場
親鸞は絶対他力で


611:自力をわずかなりとも許さない、ただし念仏は他力だから例外とする



612:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 00:37:58.89 E3MTobBx0.net
>>575
>>575さんは「自らが実践する行=自力行」と理解されているのですね。
「〜を因として(原因)として解脱し成仏を得ようとすること」という部分は無視ですか?
「自らが実践する行」の中には「解脱し成仏を得ようとすること」以外の「行」があるとは
考えられないのでしょうか?
「行」にも色々な意味がありますが、他力、自力の行という場合には、往生浄土に関わる
「行」に限定されると思うのですが、いかがでしょうか?
朝に起きて、夜に眠るような行為ですら自力、他力の違いで論じられることなんてあるのかな?

613:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 00:40:03.19 E75LK0Pe0.net
>>579
ならば、聞こう
親鸞の言う自力とは何を指し、他力とは何を指すのか

614:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 00:42:08.69 E75LK0Pe0.net
親鸞の教えの中に
「解脱し成仏を得ようとすること」以外の「行」
は認めるという項目があるのなら紹介してもらおうか

615:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 00:45:27.56 E75LK0Pe0.net
なお、成仏に限っての行ということに固執しているようだが
他宗にあっては念仏は必ずしも成仏を目的に行う修行ではないぞ?
その点についてはどうなのかな?

616:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 00:48:47.81 E3MTobBx0.net
>>580
親鸞における「自力」と「他力」について、親鸞の言葉を見てみると
「自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、
わがさまざまの善根をたのむひとなり。」 (『一念多念証文』)
「まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、
余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意の
みだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。
また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる
第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。」

>>578
>法然の思想は他力に比重を置きつつ自力もあるという立場
>>578、580さんの言うところの「自力」と「他力」とはどのようなものでしょうか?

617:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 00:49:25.64 laXQHmON0.net
1点確認
>>578.580-582の
ID:E75LK0Pe0さんは
>>565と同じ方ですか、別の方?

618:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 01:19:41.75 E3MTobBx0.net
>>582
>他宗にあっては念仏は必ずしも成仏を目的に行う修行ではないぞ?
法然は三心具足の念仏でこそ煩悩具足の凡夫の往生浄土が可能であるとする立場。
別解別行の人に対して念仏往生を説いたわけではないから。

法然の「他力」について>>567にあげた辞書サイトから丸写しすると、
法然は、『要義問答』に「我が力にて生死を離れん事励み難くして、ひとえに他力の
弥陀の本願を憑むなり」(聖典四・三八二/昭法全六一九)とあるように、
他力を阿弥陀仏の本願力として理解している。法然は一方で、『浄土宗略抄』に
「他力といはただ仏の力を憑みたてまつるなり」(聖典四・三六四/昭法全六〇一)といい、
『十二箇条問答』に「本願の不思議を疑わせたまうべからず。これを他力の往生とは
申すなり」(聖典四・四四〇/昭法全六七三)というように、念仏行者が信仰の対象に
対する心的態度を示す場合もある

619:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 01:19:52.11 E75LK0Pe0.net
>>583
ということは念仏も成仏を願う修行として行わななければ自力ではないということですな
初めから他力のはずですな
なのに、なぜわざわざ念仏を他力だと強調したのですかな?

620:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 01:25:00.55 E3MTobBx0.net
言葉の定義にしても宗派によって様々あるのだから、とりあえず自分はこのように考えていますと、
第三者が参照できるような根拠を示しながら話を進めた方が良いと思う。
まあ、ここは5chだから、質問だけして他者からの質問に対してはガン無視とか


621:良くあることか。 >>586 法然の説く「他力」については>>585、親鸞の自力・他力については>>583にあげました。



622:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 01:29:30.60 E75LK0Pe0.net
というか
浄土宗って念仏以外の仏道修行をするよね?って話でしょ
僧侶になるのにも浄土真宗みたいに甘甘じゃないっしょ?

623:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 01:32:16.87 E75LK0Pe0.net
>>585
>別解別行
それを浄土宗の僧侶は行うけど
浄土真宗の僧侶はやってはいけないことになってるのでは?

624:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 01:50:13.30 E75LK0Pe0.net
それにシュリハンドクの話がある以上はやはり掃除は修行の範疇でしょう
シュリハンドクは掃除をすることで成道したのですしね
掃除が直接に成道の起因となっている
だとしたら真宗で掃除をすることも成道と関係することになってしまいますな

625:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 01:50:26.84 E3MTobBx0.net
>>588
善導ならびに法然によると往生浄土の正定業は称名念仏。
別解別行はやっては駄目、やる必要が無い、
往生浄土の正定業とはならないが、お念仏を申す助けとしてならば、
釈尊の教えに適う限りにおいては止めることはない、など色々な立場がある。
お彼岸だ、日想観の真似事をしてみようと考える浄土宗関係者もいるが、
それが往生浄土の正定業となるとする人はいないから。あくまでも助業。

626:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 01:58:40.82 E75LK0Pe0.net
>>591
なので、やはり浄土宗に自力もあるというのは間違ってはいないわけだ

627:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 02:03:26.24 E75LK0Pe0.net
それに対して親鸞は別解別行を認めない立場でしょう

628:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 02:06:57.79 laXQHmON0.net
つまり、三願転入の話でしたか。

629:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 02:26:31.52 E3MTobBx0.net
>>589
「行」という言葉の意味にもいろいろあり、仏道修行ではない「行為」という意味でも使われる。
掃除は普通に念仏を申す環境整備、念仏を申す助け、それ以前に人として普通にする行為では?
法然は浄土に往生するための実践を正行と雑行とに分ける。
Web版 新纂浄土宗大辞典 − 正行・雑行
URLリンク(jodoshuzensho.jp)

廃捨すべき雑行であっても念仏へと誘導に繋がるもの、念仏を申す助けとなるもの、
という意味づけのもと行われるものもある。
様々な「行」を雑行と捉えるか、往生に関わらない「行為」と捉えるかもいろいろ。
また円頓戒を護持することが往生浄土の正行とする浄土宗関係者はいない。
Web版 新纂浄土宗大辞典 − 円頓戒
URLリンク(jodoshuzensho.jp)

630:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 02:42:14.43 E3MTobBx0.net
別解別行は凡夫の往生浄土に繋がらない。
そこで、それをやっては駄目という理屈はわかるけど、
往生浄土に繋がらない全ての「行為」を否定していたわけではないような。
掃除なんて普通に人として行って当たり前の行為だし、難しい理屈が必要かな?
念仏に関する和讃を唱えたり他者に念仏の話を出来るのは、自力や他力という言葉で
表すことは無いが、阿弥陀如来の本願があってのこそだとは思っている。
結局、ID:E75LK0Pe0さんの言うところの「自力」と「他力」はどのようなものでしょうか?
という質問には返答が無かったな。

631:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 02:46:57.44 E75LK0Pe0.net
>>596
質問には答えているはずだが?
自力と他力を成仏行としてのみ理解するのはおかしいでしょ?
成仏を前提に聖道門と浄土門だのと言っても
自力行と他力行とは別の話のはず

632:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 02:49:30.81 E3MTobBx0.net
>>597
親鸞や法然は自力、他力をこのように考えていますと文献をしましたが、
それで>>597さんにとって「自力」と「他力」とはどのようなものですか?
具体的な例を出して話を進めていただきたく思います。

633:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 02:52:53.23 E75LK0Pe0.net
>往生浄土に繋がらない全ての「行為」を否定していたわけではないような
すべての「行為」と書くから誤解が生じるのでは?
修行の「行(ぎょう)」であってカルマの意味ではない
そして他宗でも作務などは明確に修行だと定義される
シュリハンドクの事例においてははっきりとした成仏の起因となっている

634:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 02:58:23.08 E75LK0Pe0.net
>>598
自力とは如来の大悲によらずに行を行うことでしょうよ、しかも必ずしも成仏とは無関係、求法持などがその例
他力とは如来の大悲、あるいは法界のあら


635:艪髣L縁の力を借りることでしょうよ 何か問題でも?



636:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 03:00:31.33 E75LK0Pe0.net

×求法持
〇求聞持

637:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 03:12:36.24 E3MTobBx0.net
>>600
わかりました。つまり>600さんの考えるところの自力・他力の定義が
親鸞や法然のそれとは違うということですね。
法然の立場だとこんな感じでしょうか。
智の身をもって有智の人に対い、別行の輩らに遇いて、好みて諍論をいたすを停止すべき事。
『七箇条の御起請文』
自力・他力の言葉の使い方も、「行」のあり方も宗派によって様々。
それで良いのでは? 

638:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 03:13:27.53 E75LK0Pe0.net
そういえば親鸞は修験者が真言や陀羅尼を唱えることを否定していたのでは?
修験者は悟りを開くことを主たる目的として真言を唱えるのではなく験を得ることを主目的に真言や陀羅尼を唱えているわけだが

639:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 03:23:14.89 E75LK0Pe0.net
あと浄土宗には戒律があるわな
戒律の護持は明らかに自力行でしょ

640:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 03:35:03.12 E75LK0Pe0.net
それから浄土宗鎮西派では「二類各生説」を取るよね
この場合は自力行による往生を認める立場だからやはり浄土宗に自力があるわけだ

641:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 06:43:27.36 33DadpY80.net
なるほど、他力の他とは阿弥陀の本願力のことか

642:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 07:31:04.94 f2GrgvZHd.net
>>604
戒律を守ろうとする事は自力で念仏を唱える事は他力になるならば
戒律を守る行為と念仏を唱える行為はどちらも人間の行為なのだがその違いを教えて欲しいね

643:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 07:41:35.64 E3MTobBx0.net
>>605
自力があるかどうかというよりも、諸行往生を認めるかどうかという議論ですね。
法然が諸行往生の可能性を説いたかどうかは現在も議論が続いていますが、
諸行往生の可能性を示すという意味では、鎮西義はその可能性を説いています。
ただし諸行往生の可能性を示しつつ、凡夫である「私」の諸行往生を否定するという立場。
法然もまた別解別行を否定はしていません。その上で自身の三学非器を説きます。
浄土教においては「自力」の困難さを示し、「他力」の易しさを説くがために
あえて「自力」というあり方を説くという感じでしょうか。

644:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 07:48:30.17 E3MTobBx0.net
>>604
これもまた「自力行」というよりも「雑行」というあり方になります。
詳しくはこちらをどうぞ
Web版 新纂浄土宗大辞典 − 正行・雑行
URLリンク(jodoshuzensho.jp)

また往生の正行ではなく雑行にあたる円頓戒を何の為に護持するかについてはこちらを参考に。
Web版 新纂浄土宗大辞典 − 円頓戒
URLリンク(jodoshuzensho.jp)

645:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 08:11:44.93 E3MTobBx0.net
>>600
因縁生起という考え方にたてば、全ての物事は相互に関連し合って生じるので、
どのような行為であってもそれ単体で成り立つものはなく、つまり自力で生じるものはなく、
他の縁があってこそ成り立つので、あらゆる行為は「他力」によって生じると言える。
また釈尊の教えをもとにして行う、つまり釈尊の教えを縁にして成り立つという意味で、
仏教に関する行為は全て仏道修行であり、釈尊を縁とする「他力」の修行と言える。
というような「ぼくの考えた他力の教え」は私にでも簡単に考えつくのですが、
>>600さんの考えるところの「自力」「他力」とは、どこかの宗派の教えを想定しているのでしょうか?
何か典拠があるのでしょうか?
親鸞と法然については典拠を示して述べたことは、先のレスを確認していただければよろしいかと。

646:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 09:50:41.62 J/muPq+X0.net
>>582 他宗にあっては念仏は必ずしも成仏を目的に行う修行ではないぞ?
それは人間の側の解釈によって念仏の性質が変わるということですか?

647:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 12:07:55.37 E3MTobBx0.net
>>582
これも法然の言葉によると
唐土我朝に、もろもろの智者達の、沙汰し申さるる観念の念にもあらず。
また学問をして、念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと
思い取りて申す外には別の仔細候わず。
『一枚起請文』
念仏にもいろいろあるが、私(法然)はこのように考えますということですね。
これもまた法然の言葉、
別解別行の人にむかいて、愚痴偏執の心をもって、まさに本業を棄


648:て置くべとし、 あながちにこれを嫌喧するを停止すべき事。 右、修道の習い、ただおのおの勤めて、あえて余行を遮せず。『西方要決』のいわく、 別解別行者は、そうじて敬心を起こすべし。もし軽(驕)慢を生ぜば罪を得んこと 窮まり無しと云々。何ぞこの制に背かんや。 『七箇条の起請文』



649:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 13:37:29.05 J/muPq+X0.net
>>606
自力に対するという意味でね。
元々「他」に「阿弥陀の本願力」という意味があるわけではないよ。
相対的な中で便宜上「他」という言葉を当てただけだよ。

650:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 13:55:04.80 J/muPq+X0.net
>>574
浄土真宗の公式見解を聞いたのに公式見解じゃないとかわけわからんな君は。

651:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 13:59:17.82 J/muPq+X0.net
信心の無い人はどのような行をすればいいですか?

652:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 17:57:35.88 4S40l7AZ0.net
>>610
すべてが他力になるんだとしたら自力を捨てよと言った親鸞は嘘つきということですかな?
因縁和合によって成り立つという論理に立つならば逆も然りで、他力は自力が無ければ成立しないことにもなるわけですが?
自力を捨てて他力を求めよというのはそれこそ仏教の論理と矛盾していますな
他力単体では成立しないのですから、自力も捨ててはいけないはずですよ?
というか、行の有り方を因縁で説明する人はあなたが初めてですね
私はそんな人は聞いたことがありません
いえ、それ自体は批判するつもりはないのですが
問題は因縁生起を想定するなら他力は自力によって生じせしめられるということも成り立つわけで、それだと自力を捨てろという親鸞、法然の教えは矛盾することになりますよ?という疑問なのですがね

653:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 18:01:38.05 4S40l7AZ0.net
>>607
何を言ってるのかわからないのですが、
法然、親鸞系の浄土系は念仏は他力だと規定しているのではないのですか??
人間の行為と言ってしまうとそれは「はからい」ということになってしまいません??

654:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 18:12:05.43 /jcvbPWN0.net
>>616
親鸞は自力を捨てよやなくて、自力のこころを振り捨ててって言っとるな。
「自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり」
あと行を因縁というか似たようなのは清沢満之が『絶対他力の大道』で言っとるな。
しかれども、生死は我等の自由に指定し得るものにあらざるなり。生死は全く不可思議なる他力の妙用によるものなり。しかれば、我等は生死に対して悲喜すべからず。生死なおしかり、いわんやその他の転変においてをや。我等はむしろ宇宙万化の内において彼の無限他力の妙用を嘆賞せんのみ。
今までひたすら求道してとにかくええと思うことをひたすらやってきたが、
何をやってもワイには、他力の縁の無い行なんて1つもなかった。
阿弥陀如来様ばんざいなんや。
って言うとるなあ。

655:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 18:18:10.57 4S40l7AZ0.net
>>608
>ただし諸行往生の可能性を示しつつ、凡夫である「私」の諸行往生を否定するという立場
後半部分が非常にわかりにくい説明ですね
もう少し具体的に説明してほしいです
>>609
仮に「二類各生説」を取るならそれは雑行ではないのでは??
なお菩薩大乗戒(円頓戒)の中身は誰がどう見ても聖道門ですよ
簡単に護れるものではない
念仏の助業であろうと自力であることには変わりありません
そして親鸞の真宗はこの戒律を破棄せよと教えている点で浄土宗との差別化がはかられているのでしょ?
だとすればやはり浄土宗は他力だけでなく自力も認める立場、
浄土真宗は他力のみという立場、
という解釈


656:ヘ間違ってないでしょう?



657:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 18:25:50.02 4S40l7AZ0.net
>>618
たとえそうだとしてもID:E3MTobBx0さんの言う、すべては相関関係にあるという自力他力の解釈に基づくならば
「自力のこころ」も捨ててはいけないことになります
だから、そもそも法然、親鸞系の思想について自力と他力を縁起説で説明するのは無理があるんですよ
もし、この説を取るのなら、それは如来蔵思想系の解釈に拠らなければならないはずです。

658:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 18:27:23.38 3V8WEMxHd.net
自力に対しての他力ならば
自力を主張する仏教が存在すると思うのですが
自力の仏教って釈尊本人の事ですか?

659:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 18:30:38.61 E3MTobBx0.net
>>616
「「ぼくの考えた他力の教え」は私にでも簡単に考えつくのですが」(>>610)とあるでしょう。
「ぼくの考えた○○の教え」なんて簡単に作ることが出来、それを他者を測るための
物差しにしても何も生み出さないと思います。
私は親鸞と法然による「自力」「他力」の定義は典拠を示して述べました。
そして各宗派では祖師達の言葉に準じて教えが伝えられています。
自分の良く知らないことを自分勝手な物差しで測る前に入門書を読むべきだと思います。
それにしても>>600さんの考えはどこかの宗派の教えを想定してるのだろうか?
何か典拠があるのだろうか? やはり答えは出てこないのかな。

660:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 18:33:01.76 4S40l7AZ0.net
ちなみに誤解があるといけないので>>600について補足説明しますと
自力と他力についてあくまで分解説明しているだけであって
自力と他力の両方が必要であるという点は私も同じ考えですよ

ただし、必ずしも成仏を目的に行うものではないという点と
他力であっても必ずしも成仏を目的にしているわけではないという点
は強調しておきますが

661:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 18:37:40.62 4S40l7AZ0.net
>>622
入門書といってもサイト丸投げしているだけでしょ?
>>619の後半で私が書いたことは間違っていますか?
そもそもこの点をあなたは批判してきたのでしょ?

662:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 18:39:27.56 E3MTobBx0.net
>>623
それでは親鸞と法然の「自力」「他力」の定義についてはご理解頂けたでしょうか?
伝統宗派は祖師達の言葉に準じて教えを伝えています。
自分の考えと違ったとしても、その歴史は尊重すべきだと私は思います。
各宗派の定義と異なるものを物差しとするのであれば、最初にそう言わないと、
「ぼくの考えた○○の教え」のように、いくらでもゴールポストが動かせてしまいますから。

663:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 18:44:18.79 4S40l7AZ0.net
>>625
定義についての矛盾を感じるので疑義があるのですよ
自力と他力という語のゴールポストを動かしてるのは法然、親鸞の方なのでは?とね
特に助業という点がね

664:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 18:52:39.94 /jcvbPWN0.net
>>620
うーん うまい表現が見つからんなあ

665:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 18:54:06.58 E3MTobBx0.net
>>626
>定義についての矛盾を感じるので疑義があるのですよ
それではまずは>>626さんが正しいと思う定義を示さないと。
経論などに典拠を求めて「自力」「他力」とはこのようなものだと示して頂けますか。
それが無いと結局のところゴールポストの動かし合いで終わってしまいますよ。@

666:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 18:57:49.89 4S40l7AZ0.net
>>628
いやいや、それはおかしいでしょ?
私は法然や親鸞が言ってる自体に矛盾があるでしょ?と言ってるだけで
何かの教義と比較して論じているわけではないですからね
ゴールポストを動かしてるのは法然親鸞でしょ?って話

667:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 19:20:17.00 laXQHmON0.net
教主釈尊はすでにご入滅なされ正法から永らく時が経ち、末法となる時代
すべてのものが等しく救われていく道、すべてのものを隔てなく救う道とは一体何なのか
・・・単なる独り言です。

668:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 19:37:41.62 3V8WEMxHd.net
法然さんは
聖道門とは即ち難行道なり、これ自力なるをもっての故なり 浄土門とはすなわち易行道なり、これ他力なるもっての故なり
なんて事を言ってるけどさ これこそ根拠あるのかな?
経論を根拠にするってのは賛成なので各宗派の宗祖の言葉じゃなくて経典や論書を根拠にしてくれた方が助かります

669:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02


670:20:46:44.44 ID:E3MTobBx0.net



671:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 21:03:59.24 J/muPq+X0.net
自力=難行道=聖道門
他力=易行道=浄土門
ですか?

672:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 21:14:17.48 E3MTobBx0.net
禅宗(臨済宗?)のご住職さんが浄土真宗の門徒さんから「自力」と「他力」について
質問されたそうな。私自身の信仰とは異なるが、「なるほど、上手いこと説かれるな」と。
要約すると、
他力とは阿弥陀如来の念仏往生の本願のことで、本願とは仏、菩薩が全ての
人を救わんとする根源的な願いであり、この本願力を他力という。
さらには己がはからいを捨てて仏の手に全てを任せることを「自然法爾」という。
以上を押さえた上で、自力とは自分の修行の力で悟りを得ようとすることではなく、
自力を「自ら備わっている力」「生まれながら頂戴している力」と理解すべきとする。
「自分に働きかけている自然の力を自覚せしめられることを」を正しい意味での自力という。
仏法に他力と自力の対立があるのではなく、自力というのも仏力の名であり、
他力と呼ぶのも仏力の名である。(以上)
臨済禅 黄檗禅 公式サイト 臨黄ネット> 法話 > 『自力』と『他力』
URLリンク(www.rinnou.net)

673:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 22:02:28.43 5ZcKCk1sa.net
>>634
いいねいいね

674:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 22:03:56.26 3V8WEMxHd.net
なるほど分かり易い
自力は自分の元々持っていた物に気付く事による内からの覚醒
他力は自分の元々持っていない外からの本願の力
何となく同じ物を逆から見てるだけって感じもするけど、こんな感じで良い?
浄土門は思想的に仏種は無いって考えなの?

675:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 22:28:57.34 /jcvbPWN0.net
なるほどなあ〜勉強になったで

676:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 22:52:48.36 J/muPq+X0.net
今までのレスバトルとは何だったのかと思えるくらいわかりやすい話?

677:名無しさん@京都板じゃないよ
22/03/02 23:11:32.78 E3MTobBx0.net
>>636
法然や親鸞、そしてその門流における本覚思想ならびに如来蔵思想との距離感については
様々な議論があります。
とりあえず、近年、法然に関する以下のような論文があります。
結論として「法然は現世において仏性を信仰の条件とすることはなかった」としています。
上が4ページ、下が16ページの論文。とりあえず上のを読んで、下のはもうちょっとしてから。
阿弥陀仏観と仏性から見る法然浄土思想
一ノ瀬 和夫(著) 印度學佛教學研究 69(1), 117-120, 2020
URLリンク(www.jstage.jst.go.jp)
法然浄土思想における仏性の位相
一ノ瀬 和夫(著) 佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (48), 1-16, 2020-03-01
URLリンク(archives.bukkyo-u.ac.jp)


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