戦国ちょっと悪い話33 at SENGOKU
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564:人間七七四年
12/09/24 21:30:29.62 maC7aOIv
権現様も最終的には秀康のことかなり評価してるっぽいんだよなあ
秀忠に対する礼の篤さが権現様の心を溶かしたのか

565:人間七七四年
12/09/24 21:46:59.11 c7kC9PRQ
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
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上の話だと永井善左衛門は、秀忠に壺や刀を献上して徳川家に戻った、てことになっているが
秀忠は親の家康の心にかなわなかったものの帰参を許したことに?

566:人間七七四年
12/09/24 21:56:24.12 PFkfcjlj
ところで福島正則という人は豊臣秀吉の御従兄弟であったが、始めは大工の弟子であられた。
彼は天性大剛勇猛であったので、大工の道具を売却して太刀を買い、太閤が未だ筑前守であったときに
これに奉公し、上月合戦において27歳にて南條元続の若党の頸を獲ってから後、数度の勇を顕し、
特に賤ヶ岳の合戦において比類の無い鑓働きをし次第に立身して高麗の陣の頃には
12万石(10万石とも)を采地し、諸大夫から四位の侍従に昇進した。

正則は酒に関していつも悪い癖があり、酔うと些細な事でも家人を自ら斬り殺したり、
切腹させたりした。
しかし酔っていない時はそのような悪癖は聊かも無かったのだら、そういう時もあまりに理屈を
強く重視する人で、そのため愛という事を知らず(余リニ理強ク被樹ケル故、愛ト云事ヲ不知)、
小さな罪でも許さず、彼の与える罰は常に、手柄を立てた時の賞に勝る物であった。

そんな事だったので人々の心は彼に叛き親しむこと無く、ただ悪鬼天狗のように恐れていた。
(陰徳太平記)

陰徳太平記より、福島正則についての解説である


567:人間七七四年
12/09/24 22:00:17.68 PFkfcjlj
ああ、すいません、7行目

×聊かも無かったのだら
◯聊かも無かったのだが

です。

568:人間七七四年
12/09/25 22:42:54.86 /0D5qFmv
>>566
正則が侍従に叙任されたのは1997年で
従四位下に叙位されたのは関ヶ原後でしょ

569:人間七七四年
12/09/25 23:11:06.14 gBW1WsGn
>>568
侍従叙任最近すぎるなw


570:人間七七四年
12/09/25 23:15:38.36 inG40JbE
>>568
橋本内閣が追叙したのかwww

571:人間七七四年
12/09/25 23:22:08.95 /0D5qFmv
失礼
1597だったしwww

572:人間七七四年
12/09/26 00:02:11.99 NzqqgQxX
腹痛ぇw
1997年じゃ平成になってからの叙任になってしまうな

573:人間七七四年
12/09/26 00:15:53.23 zOxjmtoR
陰徳太平記書いたのは吉川の家臣みたいだし
筆者はもとから市松を良く思ってなさそうね

574:人間七七四年
12/09/26 00:57:27.13 IU4GiR0Q
天正十一年(1582)八月、
上杉景勝は越後、信濃の旗下の兵を動員して反乱を起こした新発田へ出陣した。
同年九月、
この隙をついて隣国深志城の小笠原貞慶は、兵三千余を率いて上杉方の竜王城を襲った。

この時、城主清野清左衛門佐は景勝の新発田攻めに従って居た為、
城には隠居した父の清就軒と兵四十余が籠るに過ぎなかったが
清就軒は、信玄公以来の武功の将だったので、
兵を三つに分け城内や山岳に潜ませ五千六千の兵に見えるように配置した為、
小笠原勢を食い止めることに成功した。
そして自らは、海津城の村上(山浦)国清の許へ援軍の要請に向かった。

海津城で国清に面会した清就軒は、
「我等が敵を引き付けている内に海津城から兵を出し、
敵の後方から切り崩せば小笠原勢を討ち取る事が出来るでしょう」
と主張したが国清は、病気を理由に出陣を渋った。
これを聞いて清就軒は、
「自身の出陣が無理ならせめて二十三十の寄合武者だけでも寄越すべきである!
このような不義な振る舞いをするのであれば、
川中島の四郡の内に貴殿の下知に従う者は一人も居なくなるだろう!!」
と怒り戦場へ戻って行った。
これに国清もさすがにこたえたのか二日後に配下の島津勢を加勢に向かわせた。

島津勢が到着する前の九月十一日払暁、
小笠原勢は竜王城の守りが堅く進攻は無理だと判断し、兵を九つの備に分け撤退を始めた。
山上からこれを見た清就軒は、
十騎に雑兵四百五十余を率いさせ山上に残し、自らは三十騎を率いて山を駆け下りた。
不意を突かれた小笠原勢は混乱し、歩者二三〇、士五六騎の被害を出して壊走していった。

十月五日、帰国した景勝は清就軒に感状を与え、救援を拒否した国清は、春日山城に召喚され
「今度の様子頼もしからず。ゆくゆく、川中島を敵に取られるべき事眼前なり」
と叱責され海津城主を罷免された。

『管窮武鑑』

575:人間七七四年
12/09/26 10:27:59.59 Ii86Mq/S
寡兵を多勢に見せるって話はよく聞くけど
ちゃんと成功するもんなんだなー。
それにしても、小笠原勢は一度も攻めなかったのか。

576:人間七七四年
12/09/26 13:16:27.86 5xg+0/vi
民主党政権もどうせ末期なんだから、今のうちにおらが町の武将を追叙任してしまえばいい。
もしかしたら、この板の住人が1票ぐらい入れてくれるかもしれん。

577:人間七七四年
12/09/26 18:51:23.42 IkBZVB/p
>>573
吉川と福島はそこそこ親しい
陰徳太平記もこのすぐ後に、正則の友人広家って表現出てくる

578:人間七七四年
12/09/26 19:54:12.14 /rFvEKkh
>>568
三成も正則と一緒に諸大夫から侍従に叙任されたのかな?
それとも三成は諸大夫のまま?

579:人間七七四年
12/09/26 20:55:33.74 NhBHIA02
>>578
三成死んでますがな

580:人間七七四年
12/09/26 21:00:19.82 SlP38sd5
まあ1997年なら確かに死んでるが・・・

581:人間七七四年
12/09/26 21:05:14.86 /rFvEKkh
>>579
1597年なら辛うじて生きてますがな

582:人間七七四年
12/09/26 23:11:58.10 V+z4qb0d
加藤清正も侍従に叙せられたのは関ヶ原後だしなぁ

583:人間七七四年
12/09/26 23:25:22.35 aENemeea
>>575
敵の主力が出陣している隙をついて敵地に乱入する小笠原貞慶。
そのまま攻めかかった場合は、こんな感じ。
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

584:人間七七四年
12/09/27 04:30:59.03 Q5dWYvzf
かの武田四名臣に数えられる春日虎綱の息子、春日信達のお話

彼もまた父のように武田家に忠義を尽くしたかというと…、

ついに織田軍の武田征伐が開始され、東駿河の三枚橋城にいた信達は勝頼の元に馳せ参じる!

「勝頼様のおそばで戦いますぜ!」

…しかし実態は、近隣の戸倉城が同時に動き出した北条軍に落とされたため、
恐れおののいて逃げてきただけであった。そのため三枚橋城はそのまま北条軍のものとなってしまった。
これに対し勝頼は「なに三枚橋放棄してこっち来てるんだ!お前はもう地元の海津城に帰ってろ!」
と叱られ、とぼとぼと信濃の海津に帰還する。

その後、やって参りました鬼武蔵!これに対して信達は!

「あたしゃ強い者には逆らいませんぜ。この通り人質も差し出します。へっへっ。」

と息子を人質に出してさっさと降伏、そのまま鬼武蔵の配下になる。
しかし間もなく本能寺の変が発生。鬼武蔵はただちに帰還することに。
すると信達は…!

「おおっと兄さんここからは帰しまへんで。立場は逆転したようですのう!」

と裏切り、一揆衆を率いて鬼武蔵の帰還を妨害する。
これに対し鬼武蔵側は大塚次右衛門を使者に立て、
「こっちには人質がいるんだ!こんな状況で汚ねえ真似しやがって、道を開けろ!」
と強い態度で責めたて、不可侵の約束を取り付ける。しかし…、

「なーにぶっ殺しちまえばいいってことよ。」

と約束を破り攻撃する。
しかしそこは相手は鬼武蔵。あっさり撃退される。
再度不可侵の約束を取り付けられて撤退されてしまう。
しかし鬼武蔵の怒りは収まらず、その後人質は皆殺しにされてしまった。

次に信達は上杉景勝に臣従することにした。
しかしやがて北条氏が勢力を伸ばしてきた。隣の真田昌幸も北条氏に仕えることにしたという。

「こりゃまた強い方に乗っとかな損でんな、上杉はんサイナラ。」

とまたしても裏切ろうとするが…、

景勝「てめえが裏切るだろうことはすでに見抜いてたんだよッ!!」

とここで信達、ついに誅殺されてしまった。

しかも話はここで終わらない。
やがて鬼武蔵の弟・森忠政が川中島に配置される。
そこで忠政が初めに手を付けたことは…、

「ここに兄貴を裏切って随分ナメた真似してくれた奴らがいるってなあ!ケジメつけてもらおかあ!!」

と残る春日一族を徹底的に探し出して皆殺しにしたという。
忠義?なにそれおいしいの?


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