戦国ちょっといい話34 ..
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2:人間七七四年
12/08/10 05:23:50.35 ODl+OJ48
新スレと>>1に八幡大菩薩のご加護がありますように

3:人間七七四年
12/08/10 23:02:52.53 A8NxHFdf
新スレと>>1にでうす様のお恵みのあらんことを

4:人間七七四年
12/08/10 23:25:48.50 /pNXRL/B
キリスト教への理解と保護 出典『今谷明』戦国三好一族 から抜粋

日本人修道士ロレンソのポルトガルへの報告書によると
三好長慶自身もヴィレラを京都立売町の三好邸にて引見し、布教許可の制札を与えたと言う。
朝廷や公家・寺社など、いわゆる権門がキリシタン排除一色に固まっていたのと異なり
長慶には天竺から来たと言う異形の僧侶を嫌悪する事はなかった。
さきに義輝が免許を与えたのも長慶の黙許があった為と言われている。
とまれ、将軍、長慶らの布教許可と保護は迫害に泣かされていたヴィレラとキリシタンの人々に大きな希望を与えた。

〜中略、逸話まとめの結城弥平次のキリシタン改宗と久秀の話が間に入り

結城氏らを受洗させた後、ヴィレラは飯盛城に三好長慶を訪れた。
フロイス『日本史』によれば
〜国主は彼を大いなる愛情と慇懃さをもって迎え、ゆっくり聖なる副音の説教を聞き
長慶『確かにこのキリシタンの宗門のことは、すべてが余には非常に良いものと思われる。
   余は出来る限り、教会とキリシタン宗団を擁護しよう』と述べた
国主がこのように好感を抱いたので、その家臣(結城)達ははみな、非常に慰められ意を強くし安堵した〜
と記されている。このように長慶自身の言葉を直接記したものは、長慶自筆の書状以外極めて珍しく
西洋の記録であるからこそ残ったと言える史料である。
いずれにせよ、長慶が久秀と異なってキリスト教に理解と保護を示していた事は明らかである。

しかし長慶自身の精神生活は法華宗の熱心な壇徒であって、また酒井南宗寺・笑嶺宗訢に参禅する仏教信仰が基本生活であった。
流石は長慶のバランス、当時の宗教勢力全て網羅してるわ。

5:人間七七四年
12/08/10 23:50:04.36 nbYqh1lO
前スレ988
それは北条為昌のことで、綱成ってのは勘違いらしいよ

6:人間七七四年
12/08/11 17:01:58.04 2S2DspoA

豊臣秀吉は伊達政宗から奥州会津を没収した後、奥の要地である
会津を任せるに相応しい人物は誰かと考えていた。

そこで自分が相応しいと思う人物の名を書き記し、徳川家康にも
同じようにさせた。書き終わった後に札をひらくと、

秀吉が第一に堀左衛門、第二に蒲生飛騨守。
家康が第一に蒲生飛騨守、第二に堀左衛門、という結果になった。

秀吉は掌を打って「さてさて、名将の思慮は不思議にも一致するものだ。
順序は違えど、選んだ人物が同じとはな。徳川殿はいかなる心をもって
このように見定めたのか」と言った。

「まずは殿下の尊慮をうけたまわりたく思います」

「奥州の人は情の強き者なれば、左衛門のごとき者でなければ
鎮座することはできないだろうと思ったのだ。だから左衛門を第一とした」

「では某の愚意ですが、屈強な奥州人を左衛門のごとき猛烈な者に
治めさせれば、諺にいう『茶碗と茶碗の出合』のごとく、いずれ片方が
砕けることは避けられないでしょう。

氏郷は武略は言うに及ばず、文学にも志深く、和歌茶道を心得ており、
性質も温和です。そのような風流人ですから、屈強な奥州人を治めさせるには
もっとも相応しいであろうと思い、第一に記しました」

家康の意見を聞いて秀吉は「なるほどその通りだ。良い所に気付いたな」
と言い、ついには氏郷を選んだ。

―『徳川実紀(大業広記)』

7:人間七七四年
12/08/11 19:07:40.34 PVQ/QCRb
2人とも寿命以外は完璧超人だな

8:人間七七四年
12/08/11 20:17:33.92 /O07kDNa
『信長、謙信に降伏する!?』

手取川で織田軍を叩き潰した謙信は新谷源助を使者として、信長に「北近江辺りにて正々堂々と一大決戦をしよう!」と申し入れた。

この申し入れに信長、
「謙信殿の弓箭は摩利支天の所業に似て、日本国中、これと比肩するものはない。
本心で謙信殿が上洛されるとあらば、この信長は路地まで出むかえ扇を一本腰にさし一騎で乗り込み、信長めにござる。降参つかまつると申し、都の案内を致したならば、いくら謙信でもこの信長が骨身を砕いて取った天下を取り上げることもなかろう。
さすれば、信長は西国、謙信は東国を治められ、両旗で禁裏を守護つかまつることに致そう」と返答を返した。
(北越軍記)

ない、ないww

まあ謙信マンセー軍記物なのでご容赦を。



9:人間七七四年
12/08/11 20:21:29.65 ToxIMFuF
内心はともかく、口先ではこれぐらい言うだろう、信長なら
あくまでも油断させて時間を稼ぐためにだけど

10:人間七七四年
12/08/11 20:34:25.96 iu2O5qkN
「天下は朝倉殿持ち候へ」だもんね。そのくらいのことは平然と言えるのが信長の強さだと思う。

11:人間七七四年
12/08/11 20:37:12.69 S4xwpV3m
第六天魔王「わしと手を組むのなら日の本の半分をお前にやろう」

12:人間七七四年
12/08/11 20:45:16.32 DxcBpOZg
太閤「美濃尾張をくれてやる故、一条戻り橋まで参るがよい」

13:人間七七四年
12/08/11 20:53:40.75 8bqWtjVd
織徳同盟成立時の会話

信長さん
「徳川殿は三河から東を平定し、ワシが尾張より西を平定する。
さすれば天下はわけなく手に入るであろう。
天下平定の後、互いに敵対することになれば、
新田、足利の二の舞になるから、
もし織田が先に天下を取れば、徳川氏はこれに従い、
徳川氏が先に天下を取ったなら、織田氏が臣従することを約束しようではないか」

『武徳大成記』

14:人間七七四年
12/08/11 22:13:19.80 5bsoGrnl
>>13
三河から東に天下はない罠

15:人間七七四年
12/08/11 22:17:00.61 iu2O5qkN
まあいかにも、関東の江戸が「天下」になった江戸時代に作られた逸話だわな。
ただ信長って実際にも、自分の利益に則している限り、こういう調子のいいこと平然と言える人物ではあるねw

16:人間七七四年
12/08/11 22:28:49.88 q4QyVjJ7
実際は徳川は属国だしな
成立過程からみても推移をみても

小国の悲哀というのをみせられるわ
こき使われるだけこき使われ土地はもらえない
なんかオスマン下のセルビアや中華帝国下の朝鮮がまさにあんなかんじ

17:人間七七四年
12/08/11 22:37:30.40 pvO+hckp
>>16
織田との同盟下でも家康の領土の拡大率は戦国期でも屈指のものだぞ。
特に甲州征伐のあと駿遠三3ヶ国太守というのは、全国でもトップクラスの堂々たる大大名だし。
単純に属国などとみちゃいかんよ。

信長研究の第一人者の谷口克広先生が新書で「信長と家康: 清須同盟の実体」っての最近出したから
読んでみ?


18:人間七七四年
12/08/11 22:49:50.68 HF/OB6T/
>>17
成立経緯はともかく、途中からは従属同盟だよね。
義昭追放前は同格扱いだけど、義昭追放後はあきらかに軽く扱われてるし。


19:人間七七四年
12/08/11 22:52:29.10 pvO+hckp
>>18
駿遠三を任せられる、安土で信長自身により接待される存在が、軽く扱われるというのはちょっと同意できんわ。

20:人間七七四年
12/08/11 22:58:03.24 HF/OB6T/
>>19
そう信じるのは勝手だけど、織田、徳川間の書札礼を見ても
明らかに格下扱いだよ。

逸話スレだから、これ以上は突っ込まないけどね。

21:人間七七四年
12/08/11 22:59:03.45 Ax83a/tY
まあ、対等じゃないにしても従属というほどだったら織田と同盟してた武田と
戦うとか許されんやろう

22:人間七七四年
12/08/11 23:05:15.25 MNjwmQ0d
格下と見れる文章が出始めたのは長篠の戦以後だったみたいだけどね

23:人間七七四年
12/08/11 23:08:38.10 pvO+hckp
>>20
格下扱い≠軽く扱われる
ではなかろうか?


24:人間七七四年
12/08/11 23:15:36.09 HF/OB6T/
>>23
この流れでそれはない。

25:人間七七四年
12/08/11 23:55:04.44 VkGDilvR
>6、でも東北の問題児のまーくんも数寄大名なんだけどな・・・よほど相性悪いんだな

26:人間七七四年
12/08/12 00:04:11.72 J+cU7d27
信長が盟主なのは明らかだな。
大恩ある水野信元の首が見たいと言う信長の強要に屈しきれず泣く泣く首を差し出す関係で対等の同盟国なんてことは有り得ん。

尾張物は公然と三河の犬と呼んでるし信康無理矢理切腹させられてるし隷属関係なのは明らか。

後年なんか家康自身が信長のこと上様って呼んでるw

27:人間七七四年
12/08/12 00:15:14.36 mDOK8tQb
>>26
別に信長は水野信元を家康に殺せと言ってた訳ではないぞ
任せると言っただけだ
その辺は岡崎市史等で言及されている
それに水野信元は秋山信友あたりと通じて、食料の横流しをしていた疑惑があって、
その上、弁明を聞きに来た信長からの使者を殺してしまったから(松平記)、
追われる身になったんだから自業自得だ

28:人間七七四年
12/08/12 00:43:12.88 J+cU7d27
じゃあ家康が信長を上様って呼んでるのは何なの?
ん?w

29:人間七七四年
12/08/12 00:57:52.84 mDOK8tQb
いつ、どの時期呼んだの?

30:人間七七四年
12/08/12 01:11:29.57 a+eRN58w
小説とかドラマの話じゃないか?

31:人間七七四年
12/08/12 02:04:52.78 DySMI8Gj
つうか嫡男ころしてるやん
明らかに対等ではない

32:人間七七四年
12/08/12 02:08:13.33 mDOK8tQb
それも織田からの命令ではなく、徳川家の判断によるもの

33:人間七七四年
12/08/12 02:17:41.89 x5YE9BOk
ネット上で既に紹介されてる逸話を改めてここで紹介するのはいいのかな?
その場合コピペしてもいいのかしら

34:人間七七四年
12/08/12 02:21:44.14 mDOK8tQb
コピペは止めた方が良いぞ
コピペ元に不快を与えるかも知れんし
投稿するなら多少はひねるべきだと思うよ

35:人間七七四年
12/08/12 02:22:51.76 GnSBrtSY
ネット上で紹介されている逸話で、文章孫引きならいいと思うけど
コピペは問題だと思う
誰かが「戦国Xファイル」や「やる夫真田」そのままコピペしたら
まとめサイトに載った時に指摘されて削除になったことがあった

36:人間七七四年
12/08/12 02:32:38.44 x5YE9BOk
なるほど
ではそう致しまする

37:人間七七四年
12/08/12 02:52:40.75 9LqJqidb
>>25
だってそのまーくんへのお仕置きの後始末だし…

38:人間七七四年
12/08/12 07:00:32.86 3C0tH0S+
>>35
まとめサイトの迷惑にならないようにしないとね

39:人間七七四年
12/08/12 14:10:08.06 H3sHZBmV
伊達家の嫌がらせに機転を利かせて対処した立花家家臣・小田部土佐守統房を覚えているだろうか。
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
嫁入り道具の入った長持を中身を取り出して片っ端から叩き壊し
すべて立花屋敷に運び入れることを成功させた男である。
伊達家と立花家(というか小田部個人)との間にはまた違う話が残っている。

小田部土佐守は非常に長い刀を佩いていたらしい。
どれくらい長かったかというと、鞘の先に車を付けて歩いていたとか。
(『キテレツ大百科』のコロ助みたいな感じか)
ある日、小田部は主君の命によって伊達屋敷を訪れたことがあった。
ある伊達家家臣が、小田部が長い刀をコロコロと転がして歩いているのを見つけ、
「あんな長い刀は見かけ倒しに違いない。実際中に刀なんて入ってねえんじゃねえの?」
ということで、鞘の先を割って見せて小田部に恥をかかせようとした。
どういう手を使ったかは不明だがその家臣の企みにより鞘の先を壊すことに成功。

40:人間七七四年
12/08/12 14:12:49.63 H3sHZBmV
さて中身は・・・・・・

あった。

ちゃんと入っていた。
割れた鞘の先から長い刀の先端がはっきりと見てとれたのである。
小田部は鞘を壊されたことに気が付いていたが、
素知らぬ顔で伊達家の屋敷をあちこち歩き回ったため、
屋敷の廊下は傷だらけ、畳はズタズタに。
しかし伊達家側は何も言えなかった。そう仕向けたのはこちらの方からだし、
小田部の室は宗茂の妹、一門衆レベルの重臣だったからだ。
伊達家にとっては悪い話だが、小田部土佐と立花家にとっては
度重なる嫌がらせから難を乗り切り、家格とプライドを守った良い話。
たぶんだけど、先の嫁入り話とセットの逸話なんじゃないかと思う。

41:人間七七四年
12/08/12 14:19:30.97 bBm4N04W
>>40
これは……いい話か?
嫁入りの話とセットならこういうのは拙い気がするが

42:人間七七四年
12/08/12 14:39:11.22 GrvMTl4U
まあ意趣返しだから戦国時代的には天晴れちょっといい話なんじゃないかな
鞘を自分で改良して突き出た刃先で他家の畳をザクザクしてたら
その場でなにをされても仕方がないDQNだがw


43:人間七七四年
12/08/12 15:30:16.35 oP0hGDuB
実際に抜いて見せて斬りまくってみせればさらに良かった

44:人間七七四年
12/08/12 16:00:40.75 VBE/hqIi
伊達家中に止める奴・・・なんかいないか

45:人間七七四年
12/08/12 16:16:49.67 0fNYdcsx
思いついたことはやってみずにはいられない家風が染み付いておる

46:人間七七四年
12/08/12 16:52:22.23 HG+OBwUg
信長も長い刀の鞘先に車輪つけてたと聞いた
やっぱり普通の感覚からすれば異様に見えたかもね

47:人間七七四年
12/08/12 16:53:36.55 2TTNSwp+
十字架の根本に車輪がついてればイエスも楽に運べただろうに…

48:人間七七四年
12/08/12 16:59:01.59 CGsHZW8X
見せしめとしての刑罰台無しw

49:人間七七四年
12/08/12 18:33:06.22 VBE/hqIi
ん?じゃあ伊達家中に志村さんがいればまーくんも自重するのか?

50:人間七七四年
12/08/12 18:34:09.16 LeQbGag9

徳川家康が関東に入部した後、鎌倉八幡宮は神領千石を与えられた。
もともと八千石だったものが大幅に減らされたことに神主は嘆いて
家康に訴え出いたが、家康は用いようとはしなかった。

そこで神主は上京し、豊臣秀吉に訴え出たため、家康は村越茂助直吉を
派遣した。この時、家康は自分が着ていた獺虎の羽織を直吉に与えた。

すみやかに上京した直吉は与えられた羽織を着て秀吉に会おうとしたが、
その格好はあまりにも失礼だと止められ、市井で麻の上下をかりて秀吉の前に出た。

まず、社人が「この社は草創よりこの方、源家代々の崇敬があり〜」と
先例を語り始めた。しかし、直吉は口をあけて興味なさげであったので、

秀吉が「お前はこの者の話を聞いているのか」と問うと、直吉は
「もう一度お聞かせください」と言ったので社人はまた同じことを話した。

直吉は話を二度聞くと「なるほど、それは尊いことでございますね。
しかしながら、この直吉を始め家康譜代の者は三河以来、毎年の戦で
今日は討死するか、明日は血をそそぐかと朝夕苦辛してこのように僅かな禄を
得ております。

しかるに、関東へ移ってまだ間もない時期に、空手にして千石の神領を賜るとは、
家康はあまりにもうつけな沙汰をしたものだ。…と、私には思われます」と言った。

これを聞いて秀吉は大笑いし「いかにも直吉の言うことが道理である。
家康もそう思ってお前をよこしたのであろうな。いずれわしが家康と会って
とりはからうとしよう」と言ってそのまま両人を帰したという。

―『徳川実紀(兵家茶話)』

51:人間七七四年
12/08/12 19:30:10.95 terbYSli
いかにも三河者らしい対応っすね〜

52:人間七七四年
12/08/12 19:46:25.85 2zKBIWLS
>>4
追記、8月10日は三好長慶公の亡くなった日でござんす。

53:人間七七四年
12/08/12 21:57:21.85 Diz7laHZ
獺虎って何のことかと思ったら、ラッコかよ。
このころの日本にラッコの毛皮なんて入ってきてたのかねぇ。


54:人間七七四年
12/08/12 22:08:45.92 Z6a39VNJ
>>53
平安時代に中国東北部にあった渤海国からラッコの毛皮がせっせと送られてきて、日本では使い道に大変困ったらしいw

55:人間七七四年
12/08/12 22:53:07.87 Diz7laHZ
>>54
そうなんだw
面白いなそれはw


56:人間七七四年
12/08/12 23:33:03.72 iaaTX/9o
>>53
蠣崎さん経由とかかなぁ

57:人間七七四年
12/08/12 23:35:29.34 9LqJqidb
さすが天才だけのことはある

58:人間七七四年
12/08/12 23:41:44.57 POnVqtLZ
>>50
ザ・三河武士というか典型的だなw

59:人間七七四年
12/08/13 00:46:01.19 NfkPMaG7
>>27>>32
家臣でないのは間違いないが完全な従属関係だね。
水野、信康殺害も相互の同意の元と言われるのはごく最近の研究の主流。
これ自体は間違っていないだろうが三河物語に信長の命令だとハッキリ書いてある。
これは大権現を息子殺しの汚名を着せたくないから信長に罪を被せているのだろうが、少なくとも徳川家自身と世間が信長の圧力に逆らえない状況だったと認識していた証拠。
でないと信長に逆らえませんでした。などの言い訳が全く通用しなくなる。

信長の三河遊興の時には他の大名同様、上様とはっきり呼んでいる。
仮にこれが小説などの誇張にしても決定的なことに家康は信長から駿河を拝領されている。一国を拝領された時点で臣下への道を進んだのは間違いない。
丹羽長秀は秀吉から越前を拝領した時点で完全な従属関係になっているし、関ヶ原後の家康も大名鉢植えはあくまでも秀頼の名前を使っている。
封土を拝領した時点で完全に準臣下で間違いない。

60:人間七七四年
12/08/13 01:01:54.50 gRuJDU5z
三河物語自体があまり信用してはいけない覚書なのに何言ってるんだ?

61:人間七七四年
12/08/13 01:20:36.92 NfkPMaG7
>>60
余程頭が悪いと見えるな。

信用がないからハッキリ偽造したと書いてるだろう。

ただし三河物語が書かれた時点でその時には徳川家が織田家の従属関係にあったと世間が認識していたと書いただろうが。

歴史を勉強したいなら単に資料を丸読みするだけではなく時代背景、政治的背景を読み取る力くらいつけようね、僕。

62:人間七七四年
12/08/13 01:40:40.36 crgZFUSj
その話はそろそろ別のとこでやるべき

63:人間七七四年
12/08/13 02:57:28.56 tARxSaf5
いやいや彦左のことなんだから
彦左「殿なんて所詮昔は信長の家臣!えらくない!俺達のおかげで偉くなったんや誰が神様やぷんぷかぷーん!」
ぐらいやらかす気がする。

64:人間七七四年
12/08/13 05:03:37.38 N+PVv+82
>>62
同意。過疎ってるけどピッタリのスレあるしな。

織田・徳川の清洲同盟を語る
スレリンク(sengoku板)


65:人間七七四年
12/08/13 06:25:47.36 egYsOZ3a
刀の先を引きずって歩いたって事か?
そのうち刀の方がだめになりそうな気がする

66:人間七七四年
12/08/13 07:17:25.65 hLMALppK
>>65
鞘壊されたのに気づいてるし、引きずったのは当て付けで歩いた伊達の屋敷内だけじゃない?


67:人間七七四年
12/08/13 11:17:34.74 SUcMwVGz
でも引き摺って歩くしかないんだろな。
刀の先を上げるには柄を押し下げる必要があるけど、
それって「刀を抜くぞ!」ていう威嚇にもなるしな。

68:人間七七四年
12/08/13 12:20:18.57 7X34yFFk
担げば・・・鴨居が切れるな

69:人間七七四年
12/08/13 17:52:58.79 JdKNEOUi
横にして持ったら・・・門から出られないな


70:人間七七四年
12/08/13 19:14:11.69 94udm6dJ
門が邪魔なら壊せばよい、門番が邪魔なr…

71:人間七七四年
12/08/13 21:36:00.63 MZsX/QvQ
天正12年(1584)、「龍造寺隆信、沖田畷に死す」の報を受けた大友宗麟は、次男親家・三男親盛へ龍造寺氏に
奪われた筑後の平定を命じた。二人は筑後の各城を攻略していったが7月、猫尾城を攻めるに及んで戦線は膠着。
数十日経っても好転しない事態に、宗麟は立花道雪・高橋紹運の両将に援軍を要請した。

8月18日、猫尾城への急行・奇襲を目指し居城を発った立花・高橋勢が夜を迎えたところで、
高橋家の家臣が紹運に申し上げた。

「もはや夜半を過ぎ、月も傾きました。このまま進めば、筑後川辺りで夜が明けまする。明るい日差しのもと、
見通しの良い河原端を敵中行軍するのは、いかがなものでしょうか?」
「ならばその事、道雪殿に相談して参れ。」

紹運よりの使者・萩尾大学が口上を述べ終わると、道雪は板輿に乗ったまま口を開いた。

「ああ、早く夜が明けぬものか?!我らを見つけて寄せる者、みな撫で斬りにしてくれようぞ!!」

興奮した道雪は板輿の縁を叩き出し、あわてて自軍に戻った萩尾は、
「つまらぬ使者をして、恥をかいたではないか。」とグチをこぼした。(常山紀談より)


結局、両将は強行軍を敢行。途中、本当に筑後川の河原で城方の物見に会ったり、秋月勢と交戦したりするも
これを蹴散らして猫尾城に到着。9月1日には城を落としてしまったという。

まあ、これを見た親家・親盛が「ツマンネ。あとは二人でよろしく」とグレて帰ってしまい、老体をおして
筑後国を転戦せにゃならなくなったベッキーは翌年死んじゃうのですが・・・

72:人間七七四年
12/08/13 21:43:48.89 P5RY1qih
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
ツマンネといった親家・親盛にベッキーがあきれた話
(まとめスレの関連リンク用に)

73:人間七七四年
12/08/13 21:59:17.34 pO2U2TVn
カミナリ様の心意気を示すいい話なんだろうがソーリンの倅どもは本当に…

74:人間七七四年
12/08/13 22:00:29.42 UaTtOTGh
まあホントに、信長の所以上におもいっきりダメ息子だらけだよねw

75:人間七七四年
12/08/13 22:42:39.94 94udm6dJ
息子が全員常真様みたいな言い方しちゃイヤン

76:人間七七四年
12/08/13 22:47:30.69 z2gHxsM2
>>71
いい話?

77:人間七七四年
12/08/14 16:44:22.90 PfYvBoVL
『「柳川の合戦において、私ははじめて必死の場で槍働きをした。
もう二十間は突き進んだろうと思い見渡すと、もとの場にいる。
十間は進んだだろうと思っていると、二、三間も後退していた。
山県三郎兵衛という男は、家康公と合戦するときには、
いつも五、六間さきまで突き進んだと九州までも伝わっているが、
山県の槍が天下無双だということがその時に、
実感として始めてわかった」
と安芸殿(鍋島茂賢)の言葉である。
家康公が信玄と戦うときにはいつも山県が立ち向かったが、
一度も槍合わせにひけを取ったことがなく、
槍合わせのたびに、五、六間さきまで突き進んだものである。
山県は欠唇だったので、家康公は、
家中の者に欠唇の子が生まれたとお聞きになると、
その子は山県の再来だから大事に育てるようにと、
お喜びになられたとのことである』

葉隠

78:人間七七四年
12/08/14 17:30:51.05 MeEB7swn
俺の友達、先祖が斎藤道三だったwww

79:人間七七四年
12/08/15 09:06:30.60 /k4Ik1zx
戸次道雪が常々言っていた事に

「侍に臆病な者はいないと確信している。もしそういう者が居たら、それはその当人の科ではなく、その主人の
使い方が悪いためである。悪しき主人を頼んだばかりに、惜しいかな侍を捨ててしまったのだ。
どうしてそんな事が言えるのかといえば、私に従ってくれている者たち(申合わせ候衆)は、侍身分は申すに及ばず、
中間・小者に至るまで度々手柄を立てない、という事は無いからなのだ。
他家において臆病の名高き者たちよ、かわいそうに、私のもとに参るが良い。私のもとで指導してみたいものだ。
仮に一度目は悪くても、二度目には必ず手柄を立てさせるだろう。」

実際に道雪のこの広言に違わず、道雪の配下に度々手柄を立てないような者はいなかった。

道雪がある時、とある若き者が初陣の合戦で遅れを取ったという悪口を言われている、と聞くと、彼を近くに召し寄せ

「其の方は昨日の合戦で些か遅れを取ったようだが、武辺の事は、そういう事が有るものなのだ。それは
全く以て臆病だからではない。出来・不出来・明・塞があるのが武辺なのだ。
特に其方が臆病でないことは、私は老巧でな、能く解っている。

さあ、明日にもまた合戦がある。其方、人に煽られて粗忽の働きをして、討ち死にしてはいかんぞ!
それはこの道雪に対し、最大の不忠である!
身を全うして敵を討つ分別こそ肝要なのだ。お前のような者たちが従ってくれるからこそ、この老いぼれも
口をきけるのだよ。偏に頼み入るぞ。」

その様なことをいかにも親しく、懇ろに申し聞かし、酒など飲ませ、自身の喉輪か脇引きといった小具足を取らせた。

次に合戦のあった時、この若者は火の散るほどの働きをした。そこで道雪は彼を大勢の前に呼び出し

「この者を見よ!お前たち、この道雪が見損じることはなかったぞ!
困ったことには、この者は逸り過ぎて討ち死にしてしまうのではないかと、片面では悔やんでいたのだ。
この者は今、牙に血をつけ面白く嬉しく、また思ったよりも武功を立てるのは簡単だと思っているだろう。
こういった若者が、これから次第に経験も重なり、この道雪の家において5人7人を争う武者になることも多いのだぞ。」

と、褒め称えた。

また道雪が平時に侍を召し使っている時、客人が訪問して、その侍に大いなる仕損じがあった。
普通の主人ならばしたたかに叱りつけるか、又は追放するほどの不調法をした時、道雪は打ち笑って

「御覧になって下さい、私に従ってくれている者たちはいずれも無調法にてなんとも困ったものなのですが、
こういう事になった時には、いつでも火花が散るのですよ。」

そう言って槍を繰り出す真似をした。客はこれを見て、「侍にとってそれより他に、何が必要でしょうか?」と
深く感じ入った。
無調法をした侍は、これによって当座の恥をすすぎ、かたじけなく思い涙を流した。
(古郷物語)

戸次道雪の人使いについての逸話である。



80:人間七七四年
12/08/15 11:50:10.49 8nFl45AV
>>79
その逸話 イイネと!君は言ったけど
三つまとめて 既出記念日

81:人間七七四年
12/08/15 12:16:24.57 /k4Ik1zx
>>80
ああ…orz こっちは未だのはず

戸次道雪は若いころ雷にあたったため、歩行することが出来なかった。
そのため常に手輿に乗り、二尺七寸ばかりの高田打の刀、種子島の鉄砲一挺、三尺ばかりの手棒に腕貫をつけて
いつも手奥に入れ、また長刀だけを持った若侍を、定衆と名付け、これを100人、徒歩にて召し連れていた。

合戦が始まると道雪はこの定衆に手輿を担がせ、敵との距離が近くなれば、手棒にて乗り物の縁を叩き、
自身で

「えいとう!えいとう!」

と声高に音頭を取った。この拍子に合わせて

「輿を担ぎ、あの敵の真ん中に担ぎ入れて、そこに捨てよ!」

と、いきり立った。
手棒の拍子より少し遅いと思えば後先の担ぎ手を手棒にて打ち、打たれたものは敵の面前で
逃げたかのように互いに笑われたので、彼らは面も振らずに輿を担ぎ入れた。

輿を担がないものは長刀を抜き先に進んで攻めかかった。
先手の者たちは道雪の拍子が聞こえてくると、「すわ、例の音頭が出たぞ!懸かれ!」と、
優れた勇士たちが斬りかかるので、いかなる堅陣と言えども、駆け破られない、ということはなかった。

しかし戦の習い、道雪の戦において先手が追い立てられることも度々あった。それでも旗本が堅く踏みとどまるため
幾度も追い返し、最後に勝利しない、ということはなかった。
この様であったので道雪の家来には合戦のたびに、今日は幾度も槍を突いた、と言うものが大変に多かった。
(古郷物語)

戸次道雪の戦ぶりについての逸話である

82:人間七七四年
12/08/15 12:55:08.40 KpQmkjq1
>>81

無粋でスマンです、戸次音頭の逸話もまとめサイトにあった(ただし別の逸話の中のお話だけど
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

でもどちらの逸話もより詳しく描かれていてGJですよ
古郷物語って黒官のお話ばかりだと思ってたけど道雪の逸話もあるのか
読み応え十分じゃないか



83:人間七七四年
12/08/15 13:05:55.34 GYCJKnb3
道雪の本拠地が黒田領になってるから旧臣とかも多かったろうし
いろいろ話残ってたんだろうね

84:人間七七四年
12/08/15 13:31:28.86 9/8v8C50
尼子氏と言えば、大河ドラマ『毛利元就』の影響から緒形拳の尼子経久で知るか。
『信長の野望』で戦闘能力は高いが知謀があり得ない程低い尼子軍団を思い浮かべるか…

そして尼子再興軍の事になると、どうしても山中鹿介の存在感が大きく鹿介ありきの再興軍に見え
毛利氏に負け続きで、鹿介の七難八苦発言もあり尼子再興軍=鹿介=ドMとネタにされる始末
再興軍のリーダーである尼子勝久はただの神輿か何をやっていたか良く解らない人もいるかもしれない。
立原久綱や山中鹿介に持ち上げられて本人にその気は無かったんじゃないかor人質の尼子義久からしたら堪ったもんじゃない、などの意見もある。

出典は『陰徳太平記』で資料としては改竄もあり必ずしも1級資料とはいえないが、尼子勝久の言葉を記しているものがある

舞台は1578年、播磨国において、毛利軍と羽柴軍が鬩ぎ合いをしていた
前線の要であった上月城にいた尼子再興軍に織田信長は撤退を促したが(見捨てたとも)
尼子再興軍は敢えてこの場に残る事を選んだ。尼子勝久は降伏し、その時に家臣に伝えたとされる言葉がある。

尼子勝久『法衣をまとって一生を送るべきはずであった自分を一度は尼子の大将にしてくれたことを感謝する。
     今後は命を永らえ、命を大切にするように』

享年26歳 尼子勝久はタダの神輿ではなく紛れも無く武士であった
逸話の信憑性はともかく、この勝久の言葉があるからこそ尼子再興軍が徒花とならずに済んだと言えるだろう。

85:人間七七四年
12/08/15 14:03:19.90 /Lh96GhQ
尼子と言えばアマゴワクチンとか八つ墓村だろ…(´・ω・`)

86:人間七七四年
12/08/15 15:52:35.81 GUXbvUuR
このコピペ思い出した

鹿之助「勝久殿、勝久殿は尼子家を最高する石はお持ちでござるか」
勝久「えっ」
鹿之助「尼子家最高の石でござる」
勝久「いえもってません」
鹿之助「えっ」
勝久「えっ」
鹿之助「勝久殿はまだお若いですからな。 …それに勝久殿の境遇を考えれば仕方のない事か」
勝久「いくつになったらもらえるんですか」
鹿之助「えっ」
勝久「としをとればもらえるということなんでしょうか」
鹿之助「何がでござるか」
勝久「最高の石が」
鹿之助「いえ、最高の石とは人から譲り受けるものではなく自らが生むものでござる」
勝久「なにそれこわい」
鹿之助「えっ」
勝久「うむのはいたくないんですか」
鹿之助「えっ」
勝久「えっ」
鹿之助「ああ…確かに我々には七難八苦があるでしょうがその先にあるのは尼子家最高でござる」
勝久「そうなんだすごい」
鹿之助「……勝久殿、どうか我々に力を貸してくださらぬか」
勝久「なんだかおもしろそうだからいいですよ」
鹿之助「おお勝久殿、ついに尼子家を最高する石を持ってくださったか!」
勝久「いえもってません」
鹿之助「えっ」
勝久「えっ」

87:人間七七四年
12/08/15 16:54:25.75 AJBbdbwE
この前尼子家の本拠月山富田城行ってきたけど険しすぎ
本丸から晴久の墓に向かう道はどうなってんだあれ

88:人間七七四年
12/08/15 18:55:44.44 tdBm0c4/
連休最後に図書館行ってきたんで小ネタを

北条氏長が徒歩頭の時、家光が板橋のあたりで狩りを行なった。
思いのほか大猟であり、家光は氏長に獲物(鹿)の数を数えるよう命じた。
しかし辺りはすでに暗く、獲物の数も多いので簡単には数えられない。
どうするべきか…

そこで氏長は鼻紙を切り、その数をあらかじめ数えたうえで組の者に渡し、その紙を1枚づつ鹿につけさせた。
全てつけ終わったところで、残りの枚数から鹿の数を割り出し、家光へ報告した。
みな氏長の考えに感心したのであった。

『名将言行録』より


非常に既視感を覚える逸話ですが…一応良い話ということで
あと薄暗い原っぱに敷かれた大量の鹿というのも想像すると不気味ですね

89:人間七七四年
12/08/15 21:37:30.11 APcVaHzw
>>88
板橋にも鹿がいっぱいいたのかー

90:人間七七四年
12/08/15 22:31:24.60 gSKt1dSl
>>88
結局、具体的な数は名将言行録に出てこなっかったの?

91:人間七七四年
12/08/15 23:22:58.36 3AmN5/i9
本田正純みたいな奴がいるなw

92:人間七七四年
12/08/15 23:30:34.05 PuZaOFjy
>>89
練馬なんて戦後までド田舎と言うか東京とは名ばかりの田園地帯だったそうたし、
江戸時代は渋谷とかも規模は村であり今みたいな繁栄はしてなかったそうですからね…

93:人間七七四年
12/08/15 23:37:15.53 hjv79N4y
>>89
しかとはわからぬ…

94:人間七七四年
12/08/15 23:45:21.48 /Lh96GhQ
練馬は豊島氏と石神井城推し
URLリンク(www.city.nerima.tokyo.jp)

95:人間七七四年
12/08/16 00:19:45.32 EuixgF7S
21世紀でも多摩にある大学キャンパス内で 鹿に注意! の看板あるからなぁ〜


96:人間七七四年
12/08/16 01:51:08.53 gWlFiXHT
武者奉行である大将は合戦の際、絶えず前方にいるべきだ。
敵の首を取った者、怪我した者、そういう知らせが大将のもとに来る。大将が前におれば、それだけ前面の備えは厚くなって強くなる。
もし大将が後方にいた場合、先陣の兵も知らぬ間に後方に集まり、ちょっと敵に攻められると、おじけついて、我先にと逃げてしまうものだ。

『朝倉宗滴話記』より


あなただからできるんだと思うんですが…




97:人間七七四年
12/08/16 01:52:10.84 FfuCbwfd
さすがに鹿はいないけど浮間公園でタヌキを見た事ならある。

98:人間七七四年
12/08/16 02:43:17.94 Yp0wxjhx
権現様飛び出し注意!

99:人間七七四年
12/08/16 03:27:33.95 B1bwIWwz
ようしパパ関が原まで走っちゃうぞ!

100:人間七七四年
12/08/16 04:53:50.56 0AEbxoW1
ようし、婆食い逃げ追い詰めちゃうぞ

101:人間七七四年
12/08/16 06:27:26.90 IOF/2KPf
レオン&ダミアン「ほら見ろ、やっぱり大将は前方にいるべきなんだよ!」

102:人間七七四年
12/08/16 10:10:01.86 EuixgF7S
レオン&ダミアンっていうと向こうの殺し屋か傭兵みたいになっちゃうなw
どんな二つ名がつくんだろうw

103:人間七七四年
12/08/16 11:02:14.54 0AEbxoW1
直情径行のダミアン
直進行軍のレオン

104:人間七七四年
12/08/16 11:14:40.15 MmqyQt1U
>>96
それを体現したのが道雪のお神輿です
大将がどんどん進めば家臣たちも前にいかざるをえない
能力のない大将がやると沖田畷みたいに大敗する諸刃の剣だが

105:人間七七四年
12/08/16 13:50:27.74 kf0LG2l8
「我が軍の大将は鉄砲より怖いので大将が本陣にいるとみんな前に出ますよw」

106:人間七七四年
12/08/16 14:16:46.28 IOF/2KPf
>>104
>能力のない大将がやると

>>77の山県の話もそれなんだね
自分が進みたくても相手だって負けたくないわけだから
互いに押し合い圧し合いなかなか思うようにいかないもの
鍋島茂賢が初めて必死の槍働きをした際に感じた不思議な距離感
その中でもやはり名将は討ちかかるべき相手や場所や頃合を見定めていく
しかも家康相手に常に五〜六間というのだから九州まで音に聞こえる訳だ


107:人間七七四年
12/08/16 22:14:18.21 ujcjoGNt
>>104
道雪の合戦での輿はともかく、普段はどうしてたのかね。
屋敷内での移動とか、勘を忘れないための鍛錬とか、下の世話とか、褥創防止とか


108:人間七七四年
12/08/17 00:09:22.62 1W5Q48/b
じゃあ先方100人討ち取ればそのなかにいそうだな。工場長とか鮭様とかだと。真田パパンなら全員討ち取ってもいそうにないけどw

109:人間七七四年
12/08/17 01:25:57.92 Z2C7aWiJ

徳川家康の言行にこんなものがある。

「その日の生計がわずかであっても馬具をきらびやかにしておき、
人も多く持とうとすることこそ、良き侍の覚悟である。

世の諺に『武士の武士くさきと味噌の味噌くさきは用ひられぬもの』
というが、これは公家か市人などが言いはじめたことだ。

武士は武士臭く、味噌は味噌臭いのが良い。

武士は公家臭くても、出家臭くても、農商臭くても良くない。
味噌は生臭く、焦げ臭くても良くない。

味噌は只本来の味噌臭さが良いのだ」

―『徳川実紀(武野燭談、本多忠勝聞書)』


しれっと味噌ネタを盛り込む徳川実紀であった。

110:人間七七四年
12/08/17 07:19:34.61 VAJbYdBT
数正「この臭さは・・・上質な味噌にござりますな・・・」

111:人間七七四年
12/08/17 09:25:45.73 7lCq+nIF
日光東照宮は味噌臭くなくてはならない。

112:人間七七四年
12/08/17 11:48:26.31 9b4pGLGn
この場合の味噌は三方原のあの焼き味噌だな。

113:人間七七四年
12/08/17 12:05:51.79 G2dOiP7R
今日は2ちゃんねらーらしい2ちゃんねらーばかりだな

114:1/2
12/08/17 19:18:05.85 BGjsCREX
戸次道雪が立花城に移って以来、方々での働きにおいて手柄忠節の多さにより、豊後の大友家より
感悦の使者が送られた。しかし筑後路も敵領であり、通路がないので、豊前より船で海路をもって
遣わされた。

さて使いより道雪には、第一の褒美として旗竿を遣わすとの旨が伝えられた。これはとりわけ道雪のため、
吉日を選びこの使者が帰国して報告を次第、船にて送り遣わすとの事であった。
道雪はこれを承り悦び申すこと限りなく

「さて旗竿の事、家の面目、一代の名誉、老後の本望、いったい何事がこれに匹敵するでしょうか。
出来る事なら御本国へ伺候して頂戴したいのですが、方々の敵が隙を伺っている状況です。
そこで、幸いにもご舎弟の田原殿(大友義統の弟・大友親家)が、御代官として筑後黒木城に
御座なされております。ですので旗竿を黒木まで届けて頂ければ、この老体が彼の地まで罷り越し、
田原殿の御前において頂戴仕ります。私は大きすぎる冥加は恐ろしいと考えています。御使者によって
ここに直接に送られるのはどうか御免なされるようにお願いいたします。」

この様にたって申し上げた。
使者が豊後府内に帰ってこの旨を伝えると、大友義統の周りは困惑した。

「道雪が恐縮するのはともかく、立花城から黒木城まで行くのに、筑後までの七里余りは大敵秋月の領分であり、
特に城下一里余りの所を通り、また筑後の問註所氏(一族の一部が寝返っていた)の領内を四里ばかり、
これも城下半里ほどの場所を通ると牛島という巨大な坂があり、これはいかなる鬼神でも通れないような
場所である。

道雪め、自分の手柄の程を人に知らせんがため、広量な御請を申し上げたのだろう。
そんなふうに言ってもどうせ、まさか黒木に送るとは思っていないだろう。」

その様に言って、再び使者を添えて、船にて立花城に直接送った。
この時の道雪への批判は、府内にも多くの道雪贔屓の人々が居たので、彼らから道雪へと伝えられた。


115:2/2
12/08/17 19:18:40.73 BGjsCREX
さて、立花城にて道雪は旗竿を受け取り、その祝宴も終わり使者が船で帰っていったその翌夜半、
道雪は立花城の館を出て、翌日は高橋紹運の領地である三笠郡に逗留、下々の足を休めると、また
夜半に打ち立ち、秋月領である長者町と言う所で夜が明けた。そこかた甘木という町を通り筑後川を越えた。
甘木は秋月城から一里半ばかりの場所であったが、秋月城からこの道雪の一行に向かって
軍勢が駆けつけることはなかった。これは、その頃侍たちは何れも知行地に召し置かれており、
普段は百姓をやっており、軍陣やその他、人の要る時だけ呼び出し召し使うという時代であった。

そのため道雪の一行の直接に見、あるいは聞きつけた者たちだけが在々より集まり、「道雪は
少人数で通るのなら、これを討ち取るべし!」と前後から攻めてきた。

さて道雪はあらかじめ「大勢を引き連れていくのはかえって良くない」と、精鋭を300人ほど、
何れも徒歩にて召し連れ、きっと手負いも出るだろうと馬も少々引き連れ、自身は例の手輿に乗り
先手と手廻りの二手に分け、先を塞ぐ者たちは先手が追い払い、後ろからくる敵には自身がとって返し
蹴散らし、道雪に向かって来るもの達は打ち捨てにした。

この様にして秋月領内を難なく通りぬけ、筑後に入り問註所の城下半里ばかりの所を踏みつけ通り、牛島という
大坂を越えて、何事も無く黒木までたどり着いた。即座に大友親家に面談し、

「御旗竿をお預け頂き、これによる家の面目、弓箭を取るほどの者ならば皆望む程のものです。
老後の本望を遂げ、忝く存じ奉ります。
本来ならば御国元に参上して御礼申し上げるべきなのでしょうが、それがしが今他へ行ってしまえば
方々の敵たちが力を得てしまうと考え、ここまで罷り越しました。
貴方様は御屋形様の御代官であり、特に御兄弟でありますから、御屋形様を拝み奉るのと同じ事です。」

この様に御礼を懇ろに申し上げると、次の日早朝に黒木の城を出立する折、黒木城の軍勢は
問註所の城のある妙見獄を攻めることが決まっていた。
道雪一行は諸勢に先立ち妙見獄を通り過ぎ、問註所の領内を静々と通ったが、問註所の方では
防衛のため城に集結していたため在々に人はなく、心静かに秋月領まで進んだ。

秋月領内の者たちは、普段道雪に手ひどくやられているため、藪の中に隠れながら道雪一行を
監視する、といった有様であった。これによって道雪は何事も無く立花城に帰り着いた。

黒木において、大友親家に付き従っていた豊後の者たちは
「大軍勢で合戦をし、敵を蹴散らせばようやく通れるような場所であるのに、
わずか300人ほどの人数で、敵領12,3里の間を心静かに通り、道すがら遭遇した敵も打ち捨て、
しかも味方に負傷者もなかった。道雪とはなんと、武士冥加の強い侍なのだろうか。
あの人には軍神が乗り移っているのではないだろうか。」

そう、感嘆したそうである。
(古郷物語)

116:人間七七四年
12/08/17 20:09:07.80 1W5Q48/b
鬼武蔵に思慮があればこんなふうになれるのかな?

117:人間七七四年
12/08/17 22:12:40.86 m9sndWvf
本日北松斎公400年忌

北松斎(北信愛)と奴踊りの始まり

慶長6年4月26日、伊達に支援された和賀忠親の篭る岩崎城を陥落させた南部軍は、
戦勝に喜びながらもさすがに疲れた様子で、岩崎街道を花巻へと帰還していた。
既に時間も遅く、空には夜闇が立ち込め、兵達は煌煌と灯るたいまつを手に列を作って粛々と行進した。

そして南城というところにさしかかった頃、東の北上山地から光り輝く月が顔をのぞかせた。
北上川は月の光りを映して銀色にさざめき、街道の松の向こうには花巻城のいらかが見える。

先頭を歩む隊長は、自分と馬の影がくっきりと映るほどの、松明もいらないほどの明るさに興が乗り、
部下達に松明を捨てさせ、そしてそれを踏み消させながら朗々と馬上で歌いだした。
つられた士卒たちもこれを真似て歌いだした。

  地こぶのてっぺんから
  星の親玉顔出して
  火事の卵をがちゃりと踏んごわした

地こぶとは土のこぶ、すなわち山のこと。星の親玉とは月。火事の卵とは松明のあかりのこと。
そして火事の卵とは、和賀稗貫領でくすぶっていた和賀一党の反乱のことで、その光を星の親玉―北信愛がうち消した、という歌なのだ。
将士はこの歌をすっかりと覚えこんで、歌に合わせてだれともなく両手を動かし、左右に足さばきをつけて踊りながら歩いた。
これが今に続く奴踊りの一番歌、その元歌とされている。

その後時を経て、花巻にある観音寺の祭礼の際、城中の若侍たちが唐竹で大きな鯨をこしらえ、これを車に乗せて町を練り歩いた。
その山車は評判となり、松斎の耳にも届き、これを見物してすこぶる上機嫌となり、若侍たちに酒をふるまった。
若侍たちは酒興に乗り、例の歌を北松斎の前で歌い踊った。

松斎は大変喜び
「気味のいい歌だ、もっとつづけよ」
とほめそやし、さらに勢いづいた若侍たちは縁側にかけてあった大うちわを手に取り、それをかざして踊りまわった。
これが、にないもの奴踊りの始まりだという。

118:人間七七四年
12/08/17 22:24:13.36 yREJO4JG
戦国の頃は武士も領民も芸達者が多いようで宴会芸を一つも持っていない俺としては羨ましい

119:人間七七四年
12/08/17 22:46:03.49 s9xZ4BTH
では一つ某がエビ掬いをば…

120:人間七七四年
12/08/18 16:05:37.21 oIwLRfRm

慶長十七年三月、駿府で徳川家康は林羅山に質問をした。

「中庸に『道はそれ行はるべからず』とあるが、どうして行われなかったのだ」
「行われなかったのではなく、人君はみな暗愚であったので行うことができませんでした」

「では中とは何だ」
「中とはおよそ一定し難きことで、それぞれに格好の道理があることを申しまして、
理と申すも同じ様なことです。中にも権にも善悪があります。湯王と武王の故事は一見すると
悪しきことのようですが、その心は善でありました。古人の『逆に取て順に守る』に当たります」

「では善でも悪でもないのが中の至極か」
「それがしの愚意は尊旨とはまったく違います。中とはまったくの善であっていささかも
悪所のないことを申します。ゆえに善を善とし、悪を悪として取捨することも中ですし、
是非を考えて邪正を分かつのもまた中です」

羅山は湯武について URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com) のように言った。

「対して新の王莽や魏の曹操などは人の家国を奪い、己一身の驕奢だけを望んだ奸賊で
あって湯武とは天と地ほどの違いがあります。また『逆に取て順に守る』とは権謀術数の徒の
申す所にして、聖人の言われた権道とはまったく違います。

こうしたことはみな経典に記されておりますので、邪説のためにお疑いの心をお持ちにならない
ことが肝要です。古今聖人が懇ろに教え置いた言葉は、単なる理の一字には留まりません」

この時、家康は羅山の説の醇正さと明晰さに感心したとされる。

―『徳川実紀(羅山行状)』

121:人間七七四年
12/08/18 17:42:19.96 oIwLRfRm
>>120
うわ、申し訳ない。「中にも権にも〜に当たります」までは家康の言葉だった。
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com) と同じですね。
こんな感じ↓

「では中にも権にも善悪があるが、湯王と武王の故事は一見すると
悪しきことだが、その心は善であった。古人の『逆に取て順に守る』に当たる。
では善でも悪でもないのが中の至極なのか」

122:人間七七四年
12/08/18 18:00:56.86 sH4sD/XL
権現様「ふーむつまり、新・魏のような禅譲より殷・周のような放伐のほうが善ということだな」
林羅山「え?」

123:人間七七四年
12/08/18 18:52:02.82 XFFckGPj
地獄への道は善意で敷き詰められているという言葉もありましてな

124:人間七七四年
12/08/18 22:46:14.91 k9w5P8oc
豊臣の天下奪った権現様になんて事言ってるんだよ(´・ω・`)

125:人間七七四年
12/08/18 23:36:27.55 5iDCGB5y
>>124
だから殷周の故事を引いて正当化してるんだろ(´・ω・`)

126:人間七七四年
12/08/19 00:04:16.60 Hb6qklkd
晋まではまだいいよ。所詮漢民族内の政遍歴なんだから。
そのあとの南北朝・五胡十六国のぐちゃぐちゃぶりの中から大義名分論が出てきて
江戸時代の儒家はそれに付き合わされて、ついには徳川幕府が自己否定してしまうわけだが。

127:人間七七四年
12/08/19 14:46:29.19 c07NlFBC
ある時、薩摩島津軍が山越えをして敵城を目指すことがあった。いつ敵に見つかるか分からぬ土地で、
深く険しい山坂、道無き道を進むうち、さしもの薩摩隼人たちも根を上げた。

「い、いやぁ、しかしノドが渇くこと、ノドが渇くこと!」
「そうじゃのう・・ん?“のどの渇ける、の、ど、の、か、わ、け、る”・・・・・・
どうじゃ武蔵どの!歌数寄で知られた貴殿のこと、このような時でも上の句など付けられるかのう?」

危険な行軍のストレスを逸らすための座興か、イライラがつのっての無茶振りと言ったところだが、
お題を振られた新納武蔵守忠元は、すぐに上の句を詠んでみせた。

「 “中つかふ 女の足の ながければ” 」
「「おお!流石は武蔵どの!!」」

常と変わらぬ忠元に、島津家中は「やはり新納武蔵の武勇、比類無し」と賞賛した。(薩藩旧伝集より)


“中使ふ 女の足の 長ければ のどの渇ける のどの渇ける”

敵地を行軍中に
「 ウチのメイドさんの脚(;´Д`)ハァハァ 」(超意訳)とか言っちゃう親指武蔵マジリスペクト

128:人間七七四年
12/08/19 16:30:20.97 lme70Y/G
武勇?

129:人間七七四年
12/08/19 17:15:41.73 nopW7FZ1
首取るだけが武勇じゃない
それで難行軍の士気が上がれば立派な武勇


130:人間七七四年
12/08/19 17:16:12.40 M1oEUGj7
武勇っつーか戦場行くのに下ネタ(?)かましてる南の鬼武蔵は度胸のある勇者だって話だろ

131:人間七七四年
12/08/19 18:08:35.67 6X/mc6HF
武蔵のまた力(マ田力)
略して武勇

132:人間七七四年
12/08/19 18:26:32.00 BwQaCWrc
武勇だけじゃなくて教養もあるからなあ、親指武蔵は
・・・幽斎さまだったらどんな句になるんだろう?

133:人間七七四年
12/08/19 19:00:04.60 2fww4Mu+
>>127
あげるのは根じゃなくて音だよ。

134:人間七七四年
12/08/19 19:12:02.58 wK/xOXfA
幽斎様といい、この手の古典落語の「青菜」みたいな話多いなぁ

まぁ俺は冴えた句を詠む数寄者ではなく冷えた柳陰を飲む方が好きな者だが

135:人間七七四年
12/08/19 19:23:42.88 Hb6qklkd
そういえば「生ツバごっくん」ってフレーズ、最近みないね

136:人間七七四年
12/08/19 20:48:11.88 6S/87wl9
>>127
この先に梅林があるぞ(`・ω・´)

137:人間七七四年
12/08/19 21:32:51.87 7qY+8Hxy
>>135
「ボインちゃん」並みに死語ですな

138:人間七七四年
12/08/19 21:50:08.61 wK/xOXfA
まったく下ネタなんて まいっちんぐ だわ

>>136
今日のおかずは薩摩黒豚の豚カツですね!

139:人間七七四年
12/08/19 22:06:13.07 YXIUbXjV
>>136
中国へお帰りください

140:人間七七四年
12/08/19 22:31:17.95 sareDJhY
>>136
バイリンガールハァハァ

141:人間七七四年
12/08/19 22:32:42.42 jxIH5P4d
>>136
丞相、戦闘民族薩摩隼人的には梅より焼酎とか敵の首の方が奮起しそうです…

142:人間七七四年
12/08/20 11:35:32.10 q3ggW+19
梅が無ければお湯割りができんぞ

143:人間七七四年
12/08/20 21:07:09.61 e5SeXbOW

小田原の役の時、わずか十五歳の浅野幸長は疱瘡を病んでいたにもかかわらず、
父長政に出陣させてほしいと頼みこんだ。だが長政は「お前はまだ若い上に
病気でまともに立っていられないではないか。共に出陣できるわけがない」と

許してはくれず、再三頼み込んでもやはり許されなかった。しかし幸長の意志は
固く、老臣の堀田孫左衛門、松井又右衛門と相談して、先に出陣した父を追って

関東までやって来てしまった。さて幸長は岩槻城攻めでは馬を馳せて首級をあげた。
また、忍城攻めで長政の備えが崩れて引く時、幸長は槍を横たえて自軍の兵を
せき留めると「我はここにあり、お前たち私を見捨てるなよ」と只一騎進んでいった。

味方はこれを見て一同に引き返し、千駄口の砦を乗っ取った。その後、ある者が
秀吉に「幸長は御下知を待たずして勝手に動きましたぞ」と告げたが、秀吉は
「あの長満が生まれて七夜目に長政の家に入って、その泣き声を聞いた時、

『これは鳶が鷹を生んだな』と誉めたことがあったが、今の働きはまさに逸物の
鷹である」と言ったので、その者は口をつぐんだ。これによって幸長の名誉は
大いに知れ渡ることとなった。

―『名将言行録』

144:人間七七四年
12/08/20 21:13:38.19 X48DWtBf
浅野長政で鳶なのか・・・

145:人間七七四年
12/08/20 21:20:11.97 KmVOnD3k
告げ口したある者とはどなたの事で?

146:人間七七四年
12/08/20 22:34:59.76 dLuJ7em6
名将言行録だから細かいことはいいんじゃないかw

147:人間七七四年
12/08/20 22:42:07.13 e5SeXbOW
>>143
ちょっと訂正

×鷹である」と言ったので
○鷹である」と大層上機嫌だったので

148:人間七七四年
12/08/20 22:49:12.11 eLtJDnxP
俺は木村吉清という人物の子孫だが
吉清は荒木に明智と謀反人に仕えながら最終的には豊臣家大名と生きながらえることができたのは
妻の存在が大きかったと祖父が語っていた
妻の名前は不明だが、彼女は宇多源氏の血を引く名家出身で
吉清は光秀の計らいで結婚することができた
吉清は何か悩んだことがあったら妻に聞き、妻の答えをそのまま
自分の行動に移していた
結果、荒木家謀反の時にはすぐに明智家に
明智家謀反時には光秀に任された亀山城を秀吉に引き渡して5000石を手にした


しかし吉清も妻の話を聞かなかった時が一度あった
吉清がどれだけ優秀だったのか知らないが
光秀より直々に嫁を選んでもらったり、亀山城の城代として任されたことから
多少の才はあったように思われる
奥州平定後豊臣家からは蒲生と木村の両氏が豊臣家代表として送られ
吉清は30万石を領地とした

このことを妻に「俺は行政能力を買われて大大名になったんだぜ」といったら
妻は「あなたじゃ無理です。すぐに返しなさい。」と言われ
このとき吉清は怒って無視してしまった

結果大崎葛西一揆の発生により切腹は免れたが
領地は5000石→300000石→500石という大幅ダウンを受け
吉清は失意の中妻に詫びたところ
妻は「今のお前さんの方が素敵ですよ。領地が増えても側室が増えるだけなんですから。」と言って
吉清を慰めたという


田舎に帰って祖父にご先祖様は誰と聞いたときに聞かされた話


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