戦国ちょっといい話34 ..
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148:人間七七四年
12/08/20 22:49:12.11 eLtJDnxP
俺は木村吉清という人物の子孫だが
吉清は荒木に明智と謀反人に仕えながら最終的には豊臣家大名と生きながらえることができたのは
妻の存在が大きかったと祖父が語っていた
妻の名前は不明だが、彼女は宇多源氏の血を引く名家出身で
吉清は光秀の計らいで結婚することができた
吉清は何か悩んだことがあったら妻に聞き、妻の答えをそのまま
自分の行動に移していた
結果、荒木家謀反の時にはすぐに明智家に
明智家謀反時には光秀に任された亀山城を秀吉に引き渡して5000石を手にした


しかし吉清も妻の話を聞かなかった時が一度あった
吉清がどれだけ優秀だったのか知らないが
光秀より直々に嫁を選んでもらったり、亀山城の城代として任されたことから
多少の才はあったように思われる
奥州平定後豊臣家からは蒲生と木村の両氏が豊臣家代表として送られ
吉清は30万石を領地とした

このことを妻に「俺は行政能力を買われて大大名になったんだぜ」といったら
妻は「あなたじゃ無理です。すぐに返しなさい。」と言われ
このとき吉清は怒って無視してしまった

結果大崎葛西一揆の発生により切腹は免れたが
領地は5000石→300000石→500石という大幅ダウンを受け
吉清は失意の中妻に詫びたところ
妻は「今のお前さんの方が素敵ですよ。領地が増えても側室が増えるだけなんですから。」と言って
吉清を慰めたという


田舎に帰って祖父にご先祖様は誰と聞いたときに聞かされた話

149:人間七七四年
12/08/20 22:55:00.34 +TJ83YDR
50000じゃなくて500?

150:人間七七四年
12/08/20 22:55:30.85 Nrt28lDk
>>148
ご先祖、福島の名付け親じゃないですか。

151:人間七七四年
12/08/20 22:56:00.58 eLtJDnxP
>>149
蒲生家に移されるまでは500

152:人間七七四年
12/08/20 22:56:30.53 eLtJDnxP
>>150
え?
まじで言ってんのか

153:人間七七四年
12/08/20 22:56:42.34 /1Z1Z7ZW
>>146
確かに>>143後半の太閤殿下の言を見ると、あたかも忍城攻めに太閤殿下が参加されて
いるような記述だしな… 恐るべし、超時空太閤HIDEYOSHI

154:人間七七四年
12/08/20 23:02:00.26 Nrt28lDk
>>152
マジだよ。領地の信夫郡杉目を「福島」と改称したのが木村吉清。
今の福島県の名前はこれがルーツ。


155:人間七七四年
12/08/20 23:10:59.50 eLtJDnxP
>>154
何気に今にも残ることやってたんだな
ちょっと感動

156:人間七七四年
12/08/20 23:49:50.73 NQxHo+id
>このことを妻に「俺は行政能力を買われて大大名になったんだぜ」といったら
>妻は「あなたじゃ無理です。すぐに返しなさい。」と言われ

ワロタw
30万石もの領地もらって得意絶頂の夫にこんなこと言っても、
そりゃ聞く耳持たんわなw
てか、吉清さんはその後豊後で大名に復帰してるんだな。

157:人間七七四年
12/08/20 23:58:55.45 eLtJDnxP
>>156
復帰した直後に死んじゃって
関ヶ原、大坂の陣でも吉清の息子は負けて死に
残った子供が山形で暮らして今に至る

158:人間七七四年
12/08/21 11:15:28.81 dnRvSKks
奥さんの言うこときてたらって思うとおもしろいな

159:人間七七四年
12/08/21 18:56:02.96 SMwQ8p7l
加増とはいえ断ったら不服従で逆に処罰食らう可能性がけっこうあるのでは?

160:人間七七四年
12/08/21 19:30:26.43 bgBkvcEQ
>>159
吉清は北政所と親戚だからそこまで厳しい処罰はないんじゃないかな

161:人間七七四年
12/08/21 19:57:11.29 dNJHXAHM
豊臣秀吉による四国征伐の後、四国の国割を行った時の事である。

秀吉は阿波を蜂須賀に、讃岐は仙石秀久、土佐は長宗我部元親、そして伊予国は小早川隆景に下した。
これに蜂須賀・仙石は拝領した国に直ぐに入部した。

ところが小早川隆景はいつまでたっても入部せず、それどころか内々に、この拝領を断ったと聞こえてきた。

隆景に伊予が与えられたのは、かつて本能寺の変により備中高松より撤退しようとする秀吉に、隆景が
律儀を立てて陣中で乱舞などを行い陣を静め、秀吉の撤退を助けたことが、後に秀吉の耳に入り
その感謝の印として与えられたのだ、と言うことだという。

隆景がこれを断った理由は、このようなものであった

「私がこの、伊予国を上様(秀吉)から直に拝領しましては、私は立場上、(毛利)輝元と同格の大名になってしまいます。
そうなっては、もし輝元の意向に反する事態が起こった時、上様の厚い恩義を被ってしまった以上、輝元に一味するのが
難しくなってしまいます。

私が何故こんな事を言うのかといえば、我が父毛利陸奥守元就が亡くなられる時、輝元を見放さないと、父親に対して
誓紙を出したためなのです。」

秀吉は奉行衆よりこれを聞くと深く感じ入り
「その分別、神妙である。ならば伊予は輝元に与え、輝元より隆景に遣わすようにすべし。」
と命じた。
隆景も「それならば」と、伊予を拝領したという。


小早川隆景、伊予拝領の次第である
(川角太閤記)

162:人間七七四年
12/08/21 20:03:35.93 orzdFVdn
伊予が隆景に与えられたのは河野さんが外交で大ポカしちゃったからなんだよなあ。

163:人間七七四年
12/08/21 20:41:16.30 57/081Vp
その後小早川家の末路を考えるとちょっとつらいね

164:人間七七四年
12/08/21 22:28:11.88 Kci/xxnv
金吾も殴っておけば・・・

165:人間七七四年
12/08/21 22:31:00.13 Y3EZtG6H
隆景の伊予統治はフロイスらが不思議がるほど見事だったらしいね

166:人間七七四年
12/08/21 22:34:12.58 ncNEwzwH
(・∀・)イイヨイイヨー

167:人間七七四年
12/08/21 23:42:49.41 q9lynghV
【審議中】
    ∧,,∧  ∧,,∧
 ∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
| U (  ´・) (・`  ) と ノ
 u-u (l    ) (   ノu-u
     `u-u'. `u-u'

168:人間七七四年
12/08/21 23:49:40.28 rHW+nIkE
>>167がなければ気づかないでいるところだったw


169:名無しさん@お腹いっぱい
12/08/22 00:09:40.15 P4yn8byU
休松の戦い(秋月種実VS戸次道雪・吉弘鑑理・臼杵鑑速)

時は1567年9月3日
大友傘下の武将である古処山城主・秋月種実(当時20歳頃)は高橋鑑種に同調し大友氏に対して謀反を起こした。
当然怒った大友宗麟は戸次道雪・吉弘鑑理・臼杵鑑速の所謂「豊後三老」に秋月討伐を命じた。
大友勢は邑城・休松城を落とし本拠・古処山城に迫った。古処山城の守りは堅く名将・戸次道雪を以てしても
容易に落とせず膠着状態が続いた。折りしも秋月氏の盟友・毛利氏(種実は亡き毛利隆元と義兄弟の約を結んでいた)が
九州に迫るとの報を受けると大友傘下の国人衆は動揺し自領に引き上げてしまった。この状態を知った宗麟は一時撤退を命じる。

大友軍の撤退を見るや秋月種実は父・文種や長兄・晴種の仇を討つべく戸次勢に攻撃を加える。
これに対し道雪も異母弟・鑑方ら一族や由布雪下・小野和泉らと迎撃する。
戸次勢の猛攻に秋月勢は逆にに蹴散らされ多くの死者・負傷者を出して撤退。

翌日4日
秋月種実は夜半風雨の強い中夜襲を決行し再度大友勢を襲った。
臼杵・吉弘・戸次陣は秋月勢の夜襲によって大混乱に陥り臼杵勢や吉弘勢は崩れ立つ。
ここでも戸次道雪は冷静に対処し臼杵勢や吉弘勢を収容し撤退には成功したものの、
秋月勢に筑後山隈城まで追撃され多くの将兵を討たれてしまう。

この戦いでも道雪の奮戦は目立った反面、戸次一族や家臣の犠牲は甚大だった。
戸次一族は異母弟・鑑方を始め鎮比・親繁・親宗・親久が
家臣団では十時惟忠・ 小野鑑幸・ 由布惟清・ 綿貫吉廉が討死した。

ちなみに道雪に娘・ァ千代が生まれたのはこの2年後である。

170:人間七七四年
12/08/22 00:38:54.24 NVVah7I9
秋月さんはマジ雑草魂の名将なんやで
最近はのぶやぼでも大名として使えなくてアレなんだけどさ…

171:人間七七四年
12/08/22 00:50:50.16 kOKlR8Wv
何気に隆元すげえw

172:人間七七四年
12/08/22 01:17:13.90 oCwprfAj
秋月さん頑張ったから「いいね!」て話?

173:人間七七四年
12/08/22 07:52:00.11 ouAaLxFO
秋月さんは確実に相手が悪かった

174:名無しさん@お腹いっぱい
12/08/22 08:06:12.10 P4yn8byU
秋月種実の大胆不敵な行動、あくまでも騙し討ちを嫌う戸次道雪

ある時秋月種実は僧に変装して博多に歌舞伎見物に出向くことにした。しかし博多はあの戸次道雪の勢力圏内にある。
種実からすれば道雪は父兄の仇だが道雪から見ても種実は弟や一族の仇である。種実の行動は大胆不敵ではあるが、
同時に危険極まりない行動である。この行動が戸次家中に気づかれないわけもなく戸次家中は色めきたった。
家臣の一人は道雪に「私めにお命じくだされば(種実を)討ち取って見せます」と囁いた。
すると道雪は怒ってその献策を退け、秋月城に急使を差し向けた。
「お忍びで博多へ出向かれるのを、わが家臣で狙う者がいるやもしれませぬ。ご用心なされよ」
例え相手が弟たちの仇であっても騙し討ちは嫌い相手に注意を促す、それが戸次道雪という武人。
(歴史群像シリーズ『戦国九州軍記』に載ってた話)

175:人間七七四年
12/08/22 17:19:36.77 W4C+cbjW

佐々成政が越中を支配していた頃、国中が栄えていたので古道を改修することにした。
ある所に両方を山に囲まれた三十間ばかりの大きな淵があった。谷底を廻って行く
難所だったので、成政はここに橋を掛けて、安心して往来できるようにしようと考えた。

ところが住民によると「昔からここには大蛇が住んでいて、毎年必ず犠牲者が出ます。
旅人はその話を聞いてここを通ろうとはしません」ということだった。

「それは本当か。なんて悪い奴だ。昔は好き勝手できたのだろうが、今は私の領地だ。
往来の邪魔は許さぬ。それならば早く追い出してしまおう」と言うと成政は淵に

石火矢を仕掛け、兵を集めて「私はこの国の守護として、この街道を昔のように
旅人が安心して通れるようにしようとしている。お前が毎年人を喰らっていることは
けしからんことだ。早くここから立ち去れ。何処へなりとも人の迷惑にならない所へ

行け。出て行かないなら酷いことになるぞ。まずは手並みを見せてやろう」と
石火矢数挺を天地も響くばかりに淵の底に打ち込ませた。

すると水面が逆波を立てて震動し始めて突然霧が降り、四方は暗くなった。
そして底より大蛇が長い竿のように出でると、それは一直線に十六、七町飛んで
山の尾崎に落ちた。この時、大地は大きく震動して山は崩れ、五十間ほどの
淵ができた。大蛇はそこを新しい棲みかとした。

この出来事の後、初めの淵に橋が掛けられ、往来は便利になったということだ。

―『名将言行録』

日本昔ばなしみたいな逸話。
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
上の逸話とは何か関係があるのかな?

176:人間七七四年
12/08/22 18:00:19.63 H2BgoqMO
追い出すだけで退治はしてくれなかったのか…

177:人間七七四年
12/08/22 18:34:06.35 W4C+cbjW
>>175
すいません、一行目を少し訂正します

×国中が栄えていたので
○国中を栄えさせるために

178:人間七七四年
12/08/22 18:54:50.14 gIVvrAPU
特に悪さもしていない巨大すっぽんを虐殺した鬼武蔵とどうして差がついたか

179:人間七七四年
12/08/22 21:52:43.38 CXChx6EW
佐々と蛇といえばあまが池での信長暗殺未遂(´・ω・`)

180:人間七七四年
12/08/22 22:27:22.59 FHB3GzUE
佐々とか勝家の歌は綺麗だよな
オレの偏見だけど愛知人て芸術性には疎い感じがするけど、
信長配下の歌は素晴らしいのが多い
まあ、戦国時代は愛知が一番輝いていた時代だからな

181:人間七七四年
12/08/22 22:58:11.04 juAjoS+I
まあでも尾張人と三河人では結構違いあると思いますし

182:人間七七四年
12/08/22 23:14:52.55 FHB3GzUE
三河って東国気質だよね
今でも名古屋人てより静岡人っぽいもん

183:人間七七四年
12/08/22 23:39:47.10 /ZQR3Cu5
東三河と西三河でも結構ちがうからなあ

184:人間七七四年
12/08/23 00:25:34.85 MPz4H9Ho
>>180
徳川宗春「もっと金を大放出じゃ! 篝火を焚け! 飲めや、歌えや、名古屋をもっと輝かせるのじゃ!」

185:人間七七四年
12/08/23 01:37:04.84 JVi/jbOU
尾張の歌は雅やか
三河の歌は土ストレートだよな
鳥居さんとか忠勝さんとかw
三河の歌は幕末で言うと土方さんみたいな感じ
技巧はないけど、なにを言いたいかは物凄く伝わってくるw

186:人間七七四年
12/08/23 07:08:58.56 S2SfW5cB
信秀がやたらと貴族を引っ張ってきて勉強会を開いていたからでしょ?

187:人間七七四年
12/08/23 18:35:07.51 X5IeWwvS

徳川家の石川善助はわずか三十貫ほどの家臣だったが、
後に徳川を去って加賀へ行き、三百貫の地に住み着いた。

しかし、三方ヶ原での敗戦を聞きつけると、善助は加賀を去って
再び旧主・徳川家康の前に現れた。

「今回の戦で上方より召抱えられた連中は、みな戦を恐れて逃げ散ったと
聞いています。上方の弱兵どもが何の役に立ちましょうや!

それがしは不肖の身なれど、御先途を見届けるために立ち還って参りました。
願わくはしばらくの間、それがしの罪を御許しください」

この時、家康は口では「汝がいないからといって困ることなどないわ」と
言ったが、本心では善助の質直さを喜び、彼を元のように仕えさせたという。

―『徳川実紀(明良洪範)』

188:人間七七四年
12/08/23 18:58:14.97 2qspIJPU
>>187
家康も素直じゃないなw

189:人間七七四年
12/08/23 19:29:34.07 xa7AhUqK
>>187
三河者は上も下もやっぱり三河者なんだなや

190:人間七七四年
12/08/23 19:34:00.22 QYcBfB7e
いやいや、素直な感想かもしれないぞ
戻ってくれたのはうれしいけど特に役立つわけでもないし…みたいなw

191:人間七七四年
12/08/23 20:21:22.22 j3tJhBhg
三河もんは役に立たないのによそ者より有用だって思ってるふしがあるしな

192:人間七七四年
12/08/23 20:25:30.46 0hZ60kwz
「他に何もできないけど君前で死ねる」が三河者(に限らないが)の矜持だな。

193:人間七七四年
12/08/23 20:33:15.63 QDvOJMPK
でも肝心の家康自身は楠公権助論的な考え持ってそうだよな…

194:人間七七四年
12/08/23 20:54:05.60 JVi/jbOU
>>193
どちらか言えば権現様も死に急ぐタイプだろ
死のうとすると三河武士が色々言いだして止めるんだけど(笑)
戦場でとか病気を理由に何回か死のうとしてたはず

195:人間七七四年
12/08/23 21:09:21.40 TI1PRQni
家康はことあるごとに腹を切ろうとしては色んな人に制止される人だぜ

>>187
家康のツンデレそのものな物言いが笑えるw

196:人間七七四年
12/08/23 21:19:11.83 gweUgnST
牟田口廉也とは大違いだな

197:人間七七四年
12/08/23 21:27:41.61 R68RXcL9
ムッチーだって自決するって言ったんだぞ!


言うだけ言って部下に「立場上止めなきゃいけないんでやるなら黙ってやって下さい」て返されただけで。

198:人間七七四年
12/08/23 21:32:11.49 rbppJvAF
ムッチーというと森忠政がのりうつった都井睦雄のほうが先に思い浮かぶ

199:人間七七四年
12/08/23 21:37:43.15 JVi/jbOU
WUでの日本軍は上官と兵士たちがあまり仲良くない印象があるな
まあ国内戦で主君の家に親の代からゆかりのある家が集まっている時代と、
世界戦で徴兵で集められた軍隊一緒にしたらダメだけどね
敗戦後の引き揚げ船の中では鬼上官だった人がリンチされたとかあったみたいだ

200:人間七七四年
12/08/23 21:42:07.98 0j+ARRrr
>>194
戦況悪くなると切腹言い出すしね

201:人間七七四年
12/08/23 21:45:24.23 HJowxG/S
鬼上官と聞くとせいしょこさんのことかと思ってしまう

202:人間七七四年
12/08/23 22:16:22.55 QoIsPkCW
>>187
石川善助さん、たぶん一向一揆で門徒側について、終息後に降伏せずに三河を去ったクチだな
石川家は三河の門徒衆の総代だったから、門徒側に立った武士が多かったんだよね

でも、三河を去った門徒武士も、なんだかんだで結局、数年経って家康の元に帰参した者が多
かったよね
加賀やら長島やらも実際行ってみたら想像してた程門徒パラダイスじゃなくて幻滅したのか?
(っていうか、そういうところの方が人間関係ドロドロで三河者には居心地悪かったりして)

もちろん、三河に帰らずに他国に行って仕官した者も多かったんだろうけど。腕に覚えのある
勇者なら、三河に帰るよりも上方か東国に行った方が出世できたんじゃなかろうか



203:人間七七四年
12/08/24 00:01:43.43 fYcYPUnV
>>202
あの辺の人の赤味噌への執着っぷりを見るに、食が合わなかったとかだったりしてw
江戸移転してからどうしてたんだろう。赤味噌文化ないよねぇ東京。

204:人間七七四年
12/08/24 00:13:28.56 se7JxB45
戦国時代の農民は味噌食べてたの?

205:人間七七四年
12/08/24 00:55:45.06 83IJIaEj
>>203
もともと東京には辛口の赤味噌である仙台味噌というのがあった。
が、第二次大戦後の食糧難で東京周辺の味噌製造業者が壊滅
その後は白味噌の信州味噌が流入し、赤味噌文化は下火になった。

206:人間七七四年
12/08/24 09:40:56.45 zI5f92ZM
>>202
三河者が生きていけるのは三河だけなんだよ、きっと。
例えば自分のクラスや職場に三河者が一人いたら浮いちゃうだろ?

207:人間七七四年
12/08/24 09:44:10.54 BjcRyJo3
浮いたらなおの事、意地を張る。
これが三河者だろ。

208:人間七七四年
12/08/24 11:51:15.09 zI5f92ZM
で、ますます扱いづらくなって周りと疎遠になり、
「俺を理解してくれるのは松平の殿様だけだ」となる訳ね。
なんか理解できた。

209:人間七七四年
12/08/24 14:40:42.29 fV+FXcHe
他家に仕えた三河者

加藤 嘉明  本多正信 石川数正 水野勝成

他にもいっぱいいる?

210:人間七七四年
12/08/24 15:21:22.79 fiz2RSd4
本多正重、本多政重とか

211:人間七七四年
12/08/24 16:19:36.73 Fn+bPiOL
他に、成瀬正成の父、成瀬吉右衛門正一(一斎)も。

永禄3年(1560)に三河を出奔(当時22歳くらい)。甲州に行って諸角豊後守の与力として
川中島合戦に参加。討死にした諸角の首級を敵から取り返すという功により黒駒に領地
を得る。つまり武田に正式採用されたわけだ。後に徳川に復帰するんだけど。
(武田家はわりと他国者の採用率高めですね)

長篠合戦で武田武者の旗指物を識別したり、武田滅亡後に旧知の武田遺臣を取り込んだり
といった活躍の話が残ってる。

この正一さん、元和6年(1620)没なので、かなりのご長寿。
晩年の逸話
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

ちなみに次男坊も出奔経験者だったりする
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

212:人間七七四年
12/08/24 16:29:51.95 cyyC+eiN
スーパースターがやってきた! その1 『為広能州下向日記』より

畠山義総はあの名城七尾城を築いた人物。能登畠山氏全盛期を支えた名君であり、
都の文化人との交流を通して『源氏物語』や和歌への造詣を深めた文化人でもある。

1517年の秋、そんな能登七尾城下へ冷泉為広(当時68歳)がやってきた。
冷泉家は和歌宗匠のひとつであり、文芸界のスーパースターである。

為広( ´∀`)<お前らに和歌の真髄ってやつを教えてやんよ
義総とその部下たち<キタ━━( ´∀`)・ω・) ゚Д゚)・∀・) ̄ー ̄)´_ゝ`)━━!!!

このとき為広の元に集まった謝礼金が現在の価値で約1600万円。荘園からの収入が
途絶えがちな冷泉家にとってはまさにほくほくの収入である。

さらに、能登は海に囲まれた土地柄なので、
・イリコ…ナマコの腸を干したもの
・背ワタ…鮭の背骨についてる血を使った塩辛の一種
などという珍味もいただいたらしい。

(続く)

213:人間七七四年
12/08/24 16:30:29.04 cyyC+eiN
スーパースターがやってきた! その2 『為広能州下向日記』より

実は畠山義総、あの藤原定家自筆による勅撰和歌集を所持していた。
その名も『後撰和歌集』、古今和歌集の次に作られた作品集である。

ところが残念なことに、その自筆本には所々に欠けている部分があった。
それを知った為広さん、義総にさっそくアドバイス。

為広( ´∀`)<ウチ(冷泉家)に写本あるから、それ書き写せばいいんじゃね?
義総(;´Д`)<ま、マジでいいんすか?
為広( ´∀`)<いいよ。あとで息子に声かけとくわ。

その後まもなく、息子為和が父の言いつけ通りに欠落部を修正。
しかも為広が奥書(その書物の来歴などの記録)を記してあげるおまけ付き。

ちなみにこの為広さん、能登がたいそうお気に入りだったらしく、
この地において亡くなった(76歳)という説もあるそうです。

おしまい。



214:人間七七四年
12/08/24 18:59:03.06 t4iOJ7fa

熾烈を極めた蔚山城の戦いの時(URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com))
浅野幸長は自ら銃を手に取り、数多くの敵兵を殺害した。

そのため、幸長の顔の半分ほどが薬煙で黒くなっていた。ある人がそんな幸長の様子を見て、
「浅野殿は殿下の御親戚なのですから、急ぎ本丸へお入り下さい」と勧めたが、

幸長は断って二の丸に留まり続けた。それは蔚山城が加藤清正の城だったからである。
幸長はこの時、二十三歳。その老熟した人のような統率振りに誰もが感嘆した。

―『名将言行録』

215:人間七七四年
12/08/24 19:53:28.60 5jIKgNck
おお、なんとタイムリーなレスがw 明日は浅野幸長公のご命日だそうですよ。お近くの人は是非ともお出ましを

平成24年8月25日(土) 8時〜14時(受付終了)浅野幸長公四百年遠忌高台寺追善茶会

浅野幸長(あさの よしなが)は、豊臣秀吉の正室北政所(ねね)の甥として知られる武将です。
今年は幸長公の四百年忌にあたり、御命日の8月25日に浅野家ゆかりの高台寺と圓徳院において追善茶会を行います。
当日は茶会の前に法要を行い、その後に講演「文武の名将 浅野幸長」も予定しております。

URLリンク(kanko.city.kyoto.lg.jp)

216:人間七七四年
12/08/24 19:56:27.73 SegrdC18
>>205
へー知らんかった…ってぐぐったら仙台味噌の生みの親が例の人だったw

217:人間七七四年
12/08/24 21:12:30.77 xPTQwiFF
家康公の御家来の成瀬小吉を太閤様が御所望になり、
その御話を小吉がお断わりしたと「松永聞書」にあるが、
そのときの話である。

太閤様は言う
「家康殿の家来はみな格別に性根がちがうようだ。
なにか武士の育て方に秘伝があるのではないかな。
是非、ワシに教えてはくれぬか?」

家康公は、
「とりたてて特別なことはしていません」

と、お答えになったが、太閤様がさらにお尋ねになるので、

家康公は、
「とくに変わったことはないのですが、
百石以上の者は犬のように扱い、
それより下の者は猿のように扱っております。」

とおおせになった。
太閤様はしばらく目を閉じておられたが、

「十分に合点がいった。今日より人の育て方では徳川殿の弟子となろう」

とおおせられた。
このとき、その場にいた小姓たちが笑ったので、
家康公がお帰りになられたあとで、
「その方どもは何を笑う?」
とお叱りになると、小姓たちは、
「徳川殿の家来は、みな畜生でございますか」
と笑いを我慢しながら答えるので、
太閤様は、

「犬と猿との区別に要点があるのだ」

と説明なさったとのことである 【葉隠】

218:人間七七四年
12/08/24 21:16:36.99 F9+IcHkH
>>213
その本は今もあるのかな…

219:人間七七四年
12/08/24 23:13:01.16 yvZUVzP+
たぬきけらいの犬と猿

220:人間七七四年
12/08/24 23:15:44.66 gSFXm8Ry
死ぬ猿は犬と狸に子を託し

221:1/2
12/08/24 23:37:17.04 wjcuKhHe
1599年正月、藤堂高虎が伏見の家康邸に急行して大坂の不穏な動きを告げに来た。
有馬の猿楽興行に招かれて不在の家康に代わり井伊直政が応対に出た。
話を聞くと直ちに有馬邸の家康に告げ、家康もすぐに邸に帰ったが別に驚いた様子も無かった。
それから3日後に大坂から使者がやって来て家康逆心の気配有るを譴責した。

京大坂の空気は一気に戦争状態となった。
その頃、伏見の闇に家康生害の噂が流れた。
これは大坂より問責された家康が自刃したと事情を知らない人々が早合点した単なる流言だが
これには流石の家康も驚き訳を聞こうと世情に通じる直政を呼び付けたが
いつも傍近くに居る筈の直政は外に出ていないという。
小半刻し早馬で直政が帰館した。
「この物騒な最中に、何処へ行っておったのじゃ」家康が咎める。
「殿が御生害したなどととんでもない噂をわめく者がおりますゆえ外聞に出ておりました。
殿ほどの御方に腹切らすなど思いもよらぬ事ですが左様であれば大坂より敵勢が辻々に押し寄せると存じ
御館は勿論、心もとなき所は実見して参りましたが、何処も堅固にて拙者がわけを話したら騒がしいのも収まりました」
これを聞くと家康もようやく安堵し労を称賛し寝についた。

もともと家康の伏見の館は防備が心許なかった。
心配した家臣らが京極高次の大津城に移るとか何とか安全な道を構ずるべきだと進言したが
敵を恐れて逃げ落ちたと言われたら名折れもいいとこで
平威を天下に奮う事ができなくなる。そんな外聞もあってか家康は取り合わなかった。
直政は江戸より加勢の呼び寄せを進言したがこれも斥けられた。
しかし上方の足並みがいかに不揃いであるとはいえ、押し寄せてきたら相手が数の上で絶対的に優勢である。
家康に心を寄せる諸大名は多いがそれも形勢次第でどうなるか分からない。
家康は窮地に有る、と外界を知る直政はよく理解していた。
直政は家康の言に反してひそかに江戸へ援軍の手配をした。

222:2/2
12/08/24 23:39:34.02 wjcuKhHe
そうこうしている間にも戦気は募るばかりでもし今大坂方と戦となれば寡勢の徳川方は全員玉砕の憂き目を見るかもしれない。
死を決した直政は配下の木俣守勝に最後の事を諮った。
「この上は主君の切腹の介錯をし自分も殉死する。お前は決死の合戦をし討死せよ」
すると守勝は笑みさえ浮かべ「これは普段の侍従殿に似合わぬ死狂の仰せ」と応じ
更に一膝進めてこう言った。
「大殿より大坂方へこう仰せに遣わせませ。家康伏見にあれば、おのおの気遣いされるようだから近々関東へ下ることにした。
その用意の為、5,6日中に向島へ移転する。その際に太閤殿下の向島の御茶屋を拝借したいと申すのでございます。
加賀大納言や五奉行の面々は大殿が伏見におわすのを最も嫌いますゆえこの申し出を了承致しましょう。
向島に御移りありて柵を付給はば、大坂より取りかかるとも急にはなり申さず」
「成る程、そうすればその内に関東の味方が馳せ参じるというわけじゃな
しかし柵をふるには材木が要る。その備えや兵糧や薪その他の配慮は如何に」
「材木は手の者に調べさせ備えは十分です。兵糧なども20日は持ち堪えられます」
20日も日が稼げれば必ず加勢が来る。1万もあれば上方が10万の兵で押し寄せようとも負けるに及ばず。
さすが齢の功じゃと感心し、早速に家康に言上し、家康は諸手をあげて同意した。
予見通り大坂方は向島移転を一議もなく認め、3月下旬に向島へ移った。
このとき直政は豊後橋を警衛して移動を安全ならしめた。

向島を要害とみたて思い切った伏見脱出を試みた家康の戦略眼は諸侯を瞠目させるに十分だった。
次の天下は徳川とみた諸侯が家康の意を得ようと懸命になりその結果、家康の威光はますます高まった。
徳川陣営実力者の筆頭で家康への窓口として最も近く信頼出来る直政の邸門はこの時期たいへんな混雑をきわめた。

『井伊軍志』より
この箇所の出典は「東照宮御実紀付録」、「慶長記」、「藤堂記」、「東日記」など

223:人間七七四年
12/08/25 00:10:56.72 riIWYfpE
徳川家は誰かが激情に駆られると必ず冷めた態度の人が現れるな
全員で玉砕とか、全員逃げ腰、という事態が起らないのが強みかもしれない
幕末もそれで乗り切って?今でも徳川家続いてるとこがあるかも

224:人間七七四年
12/08/25 00:15:51.06 gUyDuL4R
一瞬
徳川家続いてる

徳川家継の誤字かと思った

225:人間七七四年
12/08/25 00:43:01.85 kpws6XBr
>>223
激情に駆られるのは家康のいつもの病気だから家臣は慣れっこだったのもある

226:人間七七四年
12/08/25 02:24:11.21 Zv/dTIwS
>>220
付いて来たるは石が三つ也

227:人間七七四年
12/08/25 06:22:28.44 Q57Cm1J6
>>218
現在も京都上京の「冷泉家時雨亭文庫」に保管してある(一般には閲覧不可)。

書庫内は長らく「冷泉家当主および嫡男以外は立ち入り禁止」だったため、
研究者ですら資料を目にする機会が稀だった。

もっとも、それゆえ貴重な資料が奇跡的に散逸を免れ現存してるわけで、
1980年からは資料の整理・目録製作が進んでいる。

228:人間七七四年
12/08/25 09:53:08.23 n96LY9Ql
>>227
そっちにあるのかよw
義総死後にでも貰ったのかね

229:人間七七四年
12/08/25 19:26:19.77 tHlsOK8J

徳川家康は折に触れて源頼朝の事跡を評論することが多かった。

「頼朝が蛭ヶ小島に潜居していた時、『もし私が本意を遂げて天下の兵権を
握ったとしたら、かならずお前に恩禄をとらせるぞ』と家僕に語られたところ、
その家僕は嘲笑ったという。

後に頼朝が将軍職になられて、あまねく恩賞が施された。しかし、その者は
恩賞にあずかることができなかった。そこでその者は頼朝に昔のことを言い出した。
頼朝は『お前は昔私の言葉を笑ったことを忘れたのか』と言った。

するとその者は『いや忘れてはおりません。しかしながら、よく考えて下さいませ、
昔より、あんなにも頼りに思えない主君に今まで付き添って参ったそれがしのことを。

最初からあなた様に仕えて功名を立てようと思っていた連中に比べれば、それがしは
忠義者ではありませんか』と申した。これには頼朝も理に屈して厚恩を施したという話だ。

これは、その者の言葉が実にもっともなことであったな」

―『徳川実紀(駿河土産)』

230:人間七七四年
12/08/25 20:09:03.68 8RDBaAqD
>>221-222
なんかいろいろと深いな
徳川の天下取りには欠かせない通過点だったんだな

231:人間七七四年
12/08/25 20:42:51.64 BP1oUpaS
木俣守勝ですら直政に仕えるのをやめようと思った
なんてwikipediaには書いてあるけど、それについての話ってありませんかね。
wikipediaの記述が本当かどうかわかりませんけども。

232:人間七七四年
12/08/25 22:27:35.71 q8ggWfje
>>214
幸長って稲富流の鉄砲術を学んでいるんだよね。
「朝鮮ではとにかく鉄砲が必要」というような稲富宛ての書状があったはず。

233:人間七七四年
12/08/25 22:34:11.17 /KaJeQfL
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
加藤清正曰く、鉄砲術は学ぶ必要ないとか
>「ああ、そのことね。いいか、戦は魂でするんだ。砲術の技術
>なんてはっきり言ってどうでもいいんだよ。まあしかし、加藤家
>の人間が名人に教わったとなれば人は俺たちを恐れるからな。
>つまり噂が広まりさえすれば、あとはどうでもいいの。」

まあ海外では意味ないか
(海音寺潮五郎の「史談と史論」では清正のセリフは「鉄砲というものは撃てば撃つほど上達するから
師匠なんてものはいらん」とちょっと違ってた)

234:人間七七四年
12/08/26 01:46:39.05 g5udYP9K
まぁ、鉄砲を発射する部分に限って言えば、狙い方のコツとかは実戦で数こなさ
ないと上手くならないと思うし、その点では「習うより慣れろ」なのかも知れないけど…

でも、火縄の扱い、火薬や球の装填、発射後の筒の掃除など、定型動作の部分は、
ちゃんと師匠に正しいやり方を習って、ドリル的な教練を繰り返して、それこそ
目をつぶってもできるくらいまでスピードと精度を上げるようにしといた方がい
いと思うぜ

235:人間七七四年
12/08/26 04:51:13.95 6OWjxtF4
指揮官にマークスマンシップは要らないんだろうけどね。

236:人間七七四年
12/08/26 06:36:27.04 HASZhrwC
>>234
そんな基本は金メダル選手レベルの人に習う必要はないってことだろ

しかし鉄砲がすごい普及したわりには鉄砲の改良ってなんであまり進まなかったんだろうな

237:人間七七四年
12/08/26 07:37:43.85 CCU7Nyvu
確かに、早く装填するための紙パック作りや、
2連発するための工夫とかはしても、
肝心の本体は変わらないよな

238:人間七七四年
12/08/26 07:53:30.88 sYprceFe
もう何十年か戦国時代が続いていたら改良されていたんじゃね。
あるいは欧州から進んだ鉄砲が輸入されるとか。

全国的に普及したあたりで平和になって改良の必要性が薄れたんじゃないかと。

239:人間七七四年
12/08/26 08:05:06.33 R5+7sVC8
火縄が消えにくくするような改良や
サイズバリエーションは多岐に渡ると思うのだけど

240:人間七七四年
12/08/26 08:06:00.54 qb890p4w
口径の大型化とかそれなりに進化してるじゃん。
防具の進化に呼応する形で。
発射機構は改良しようがないだろう。
フリントロック式は日本では作りにくいし。

銃身を並べた連発式も一応戦国時代に開発されたことになってるね。

241:人間七七四年
12/08/26 09:21:12.39 Ua1KRJI8
フリントロック式は命中精度が下がるのが嫌われたため採用されなかった
フリントロック式と思われる銃を買ってみたが気に入らず商人に付き返したとか
いくつか記録が残っている

242:人間七七四年
12/08/26 12:49:16.37 swrOJvrB
「いくら改良しようと源助の大筒には敵わん」

243:人間七七四年
12/08/26 21:10:25.62 AeQrmEyE

小田原の役の後、豊臣秀吉は堀尾吉晴に曰く

「わしが藤吉郎と名乗っていた頃から、お前はわしに仕えてきたが、
数度の戦場を経験して、今までに一度も負けたことがないな。

今、わしは天下の主宰となり、最高の地位についた。
それはひとえに諸将の粉骨砕身によるものだ。
しかし、その中でもお前の功労は万人に勝っている。

その昔、源頼光には四天王がおったが、お前はわしにとっての四天王だ」

そのように言うと秀吉は吉晴を浜松城に封じたという。

―『名将言行録』

244:人間七七四年
12/08/26 21:23:18.35 vKQcB3K3
羽柴四天王とは何だったのか

245:人間七七四年
12/08/26 21:29:54.74 HGSRZv5C
1人で四天王は新パターンだな

246:人間七七四年
12/08/27 13:56:45.10 zECnmT/a
そして浜松城は権現様に

247:人間七七四年
12/08/27 15:44:40.14 hMMpY9hx
ありふれた夫婦の話

徳川家光が三代将軍となって間もないころ、江戸柳原の裏長屋に、一組の浪人夫婦が住み着いた。浪人者のこと、
日々貧しい暮らしを送っていたが、しばらくして浪人は突然「京へ行く」と言って、旅立ってしまった。

残された浪人の夫人はさらに困窮するようになり、その哀れさに近所の長屋衆は夫人を何くれとなく気遣った。
「しかし、ご主人は何で遠い京まで行かれたのかね?」
ある日、浪人の消息について聞いた長屋衆に、夫人は答えた。

「私の夫は、佐治縫殿助と言います。実は、新太郎少将様(池田光政)から夫に『千石で仕えないか』という
お話があったのですが、夫は『二千石なら奉公いたします』と答え、交渉のために京へ向かったのです。」
浪人の素性を知った長屋衆は、白けた。失笑する者もいた。

佐治縫殿と言えば、富田信高に仕えて武勇を知られた士だったが、富田家を退転した後は小早川秀秋、
小早川家改易後は後藤又兵衛の家臣となり、大坂の陣後に浪人している、いわば『縁起の悪い侍』であり、
そんな男を先々代が『西国将軍』とまで呼ばれた大大名が高禄で雇うとは思えない。

これ以降、夫人を気遣う人はめっきり減り、口さがない者は夫人を『千石婆』と呼び、陰口を叩いた。


それからまたしばらく経ったある日。柳原の裏長屋に、金覆輪の鞍を置いた駿馬にまたがった立派な武士が
十人ほどの従者を連れ、やって来た。武士は勝手知ったる様子で長屋の片隅へ向かい、戸を開けた。

「すまぬ。遅くなった。」「お前様・・・・・・」

「佐治縫殿にござる。留守中、妻が世話になり申した。」空いた口のふさがらぬ長屋衆をよそに、
隣近所に丁重な礼を述べ、礼物まで贈った縫殿は、夫人を馬に乗せ西国へと去って行った。(常山紀談より)

248:人間七七四年
12/08/27 17:48:24.46 mFoH9bix
「雨上がる」とか「武士の一分」的な映画の題材になりそうな話だ

249:人間七七四年
12/08/27 23:15:29.39 utZ9DDNQ
牢人8年か

250:人間七七四年
12/08/27 23:21:37.08 iubtj+dh
自分で佐治縫殿にござる、という名乗りは妙だと思ったら縫殿の助ってことか


251:人間七七四年
12/08/27 23:24:32.84 in7LcjBT
縫殿助(ぬいのすけ)

252:人間七七四年
12/08/28 00:09:57.99 zwzNmo3B
さじぬい か

253:人間七七四年
12/08/28 12:46:52.48 JRiJZDN0
なまじ武勇を知られるとその後の経歴が悪いとかえってそしりを受けるわけか
改易なんて本人次第でどーにかなるもんでもないし運が悪いと大変だな

254:人間七七四年
12/08/28 13:16:19.43 jjWVqCyv
縫殿助殿、殿が御殿でお呼びです

255:人間七七四年
12/08/28 15:36:37.66 RFcLmfKb
武士ならともかく、町人にしてみればずっと負け組みの人間でしかないからねぇ

256:人間七七四年
12/08/28 20:04:21.98 XMeqet5D
殿がつく官位は他に主殿頭(とのものかみ)なんてのがあるのか。
田沼主殿殿

257:人間七七四年
12/08/28 20:08:22.14 jQ1hMNTT
縫殿助殿、殿の命令により殿(しんがり)をお任せします

258:人間七七四年
12/08/28 23:38:57.50 tbpJN4Bp
そういや松平家忠が主殿助だね。

259:人間七七四年
12/08/29 18:10:26.39 33mHT8id

大坂夏の陣の時、徳川家康が茶臼山に据えた陣では祝詞を述べるために諸大将が次々と
参謁した。この時、徳川頼宣はろくに戦うことが出来なかったことを悔いて、「十四歳なのは
今だけだ」と、慰める松平正綱を睨みつけた。(URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com))

その後、本多正信が馬に乗って上がってくるのを見た家康が「坂まで上れ」と言うと、
正信は「もちろんですとも」と、家康の側までやって来た。

この時、藤堂高虎が「佐州早いな」と言うと、正信は「今日の私の武者振りはどうですかな」
と笑った。その日の正信は兜羅綿の羽織に裏付の袴、五位の太刀を身に着けていた。

さてその時、城中から黒煙が上がっているのを見ていた家康は小出吉英を呼び、「あれを見よ」と
言った。吉英は城の方を熟視して両手をつき「なんと痛ましいことでしょう」と言った。

その様子を見て家康は「汝の境遇で只今の申しぶりは殊勝である」と言った。吉英は豊臣家の
旧恩を受けた者であったが、その過去を忘れていないことは家康の心に深くとどめられた。
(こちらでは三尹 URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com))

それから家康は俄かに「夏目を呼べ」と言い出した。それは夏目吉信の三子・長右衛門信次
のことであったが、信次は小身ゆえに旗馬印もないので、どこにいるのかも分からず、
使番があちこちを探し回ってなんとか見つけ出すことができた。

この時、家康が「昔、汝の父が三方ヶ原でわしに代わって一命をなげうったことは
忠節の至りだ」と言葉をかけたので、信次は思わぬ賞詞に感激して涙を流した。

このような勝利の時にも旧功の者のことを思い出して言葉をかけたのは、小出が豊臣家の
旧恩を忘れていなかったことを賞したことに起因し、家康の仁厚の深さを感じない者はいなかった。

―『徳川実紀(天元実記、古人物語)』

260:人間七七四年
12/08/29 18:59:10.68 Q32skZMw
もうこの頃になると色々記録されすぎててやかましいくらいだ

261:人間七七四年
12/08/29 19:11:00.58 eAGydez2
話一割でもトンデモナイ人格者>家康

262:人間七七四年
12/08/29 19:31:34.75 s5ssCwKt
でも逆に言うとさ、やられて嫌なことも覚えてるんだよな。孕石とか

263:人間七七四年
12/08/29 19:59:15.30 /Npa1O/P
孕石さんは名前が目立ちすぎて切ない

264:人間七七四年
12/08/29 20:18:56.74 5SoZvD8+
>>262
論語にもあるな。
仁者ほど人を憎む時は凄いみたいなの。
これは三英傑全員に共通してるね

265:人間七七四年
12/08/29 20:22:05.79 8tBtwSyk
武士ってのは基本そういう業の深い存在だからねえ。八幡太郎義家の時代から。

266:人間七七四年
12/08/29 20:43:48.30 hPQCcTxO
>>265
義家・義光兄弟は将門あたりの頃の武士と比較すると異常性格としかいえない残酷さだけど、
あれが後の世の武士のスタンダードになっちゃったってことなのかなぁ。

267:人間七七四年
12/08/29 20:48:48.10 5SoZvD8+
時代の空気とかもあるんじゃないか?
戦国〜赤穂浪士過ぎて武士は骨がなくなったと言われだすけど、
幕末になるとまた新撰組や攘夷志士のような激しい人たちが出てくるし

268:人間七七四年
12/08/29 20:57:54.46 8tBtwSyk
>>266
例えば応仁の乱の時、一度伊勢に没落した、足利義政の後継者候補だった足利義視が再上洛するとき、
前の没落の途中自分たち一行を襲った村を、ご丁寧に1つずつ殲滅しつつ上洛してたりw

269:人間七七四年
12/08/29 20:58:03.24 BWxl+pXH
>>264
王が奴隷と一緒に乗車しただけでその国を嫌いになるほどだからなあ

270:人間七七四年
12/08/29 21:14:21.78 5SoZvD8+
>>269
まあいろいろ規律が崩れるだとか氏族間の成り立ちや関係とかあるんじゃね?
文字だけで見ればとんでもない差別家でしかないけどw

271:人間七七四年
12/08/29 22:01:35.33 aX436mTE
>>269
まあ儒教は基本カースト制度みたいなもんだから

272:人間七七四年
12/08/29 23:54:31.34 dnSZQFUN
加藤光泰が甲斐国主だったころの話

ある日、光泰は領内の寺に立ち寄った。
そこでは勘太郎という少年が養育されており、彼が茶などを給仕した。
彼はこれを機に加藤家に仕官したいと考え、森五郎兵衛という光泰の家臣に斡旋を依頼した。
五郎兵衛は早速報告した。しかし光泰は、
「そうか」
と、言ったきりさっぱり音沙汰をよこさない。
五郎兵衛は非常に気の短い人物であった。
日数が経つにつれ、焦れて耐えられなくなってきた。

ある夜更け。
五郎兵衛は光泰が眠りについたのを見計らい、その寝所を急襲した。
眠っていた光泰だが、突然の闖入者に驚いて飛び起きた。
「一体どうした! どこで何が起こったというのだ!」
何らかの緊急事態が発生したと考え、急ぎ脇指を差し褥の上に座って問いただした光泰に、五郎兵衛は答えた。
「別に何も起きていません!」
「は?」
「勘太郎のことは一体どうなっているのでしょうか? 是非召抱えるべきです! そうするべきです!」
真夜中にいきなり叩き起こされて吃驚したのに、それが物凄くどうでもいい要件のせいだと知った光泰。
キレた。
相婿同士で付き合いの長い五郎兵衛にとって逆上した主君が殺してくることなど最初から予想の範囲内だったので、
光泰が脇指を抜ききるのを目視する前に一目散に外へ逃げた。

五郎兵衛が去って、暫く。
冷静さを取り戻した光泰は再び眠りにつこうとしていた。
「殿」
そんなところに人影が。
「先刻申し上げた勘太郎のこと勿論ちゃんと考えましたよね? どうなさるおつもりですか? 召抱えますよね?」
五郎兵衛は全く諦めていなかった。
真っ直ぐにひたすら催促しまくる五郎兵衛のあまりの熱心さに、
光泰は心を打たれたのか眠かったのか、とにかく先程とは打って変わって、
「義兄上がそこまで言うなら召抱える」
と言い、勘太郎を召抱えることに決めたという。

こうして勘太郎は無事に家臣になることができ、五郎兵衛は彼を光泰に紹介しながら礼を言ったそうだ。

(温故集)

ちょっと迷ったけど、オチはいい話風味なのでとりあえずこっちで。

273:人間七七四年
12/08/30 00:09:58.94 6txyMceY
志村けんのバカ殿コントみたいだな

274:人間七七四年
12/08/30 01:54:15.90 RwWMsq13
珍しく光泰の話しが来たと思ったら増々訳わからん
甲斐を収めるにはこれくらいの性格の方がいいということか?

275:人間七七四年
12/08/30 09:04:46.38 DmL2IuCl
勘太郎はそのあとちゃんと役に立つ家臣になったのか心配だ

276:人間七七四年
12/08/30 18:53:22.53 sXHTnsJi

豊臣秀吉は既に織田氏に代わって政治を畿内になしていた。
小田原の北条氏にはたびたび秀吉の使者が訪れ、上京を促した。

北条氏規は氏政の弟として報使に選ばれ上京した。この時、
秀吉は慇懃に氏政父子の上京を勧めた。氏規は秀吉に向かい、

「承りました詳細は氏政父子に申し聞かせます。御慇懃の仰せには
感謝してもしきれないほどです。しかしながら、万が一氏政父子が

上京することなく、無事が破れて関東へ御進発なさる時には、
いかなる仰せがあろうとも、親族兄弟を離れて御内通するなど

ということはありえません。氏規は必ず先鋒となり、
あなたに錆矢を奉りましょう」と言った。

これを聞いた秀吉は「どうして無事が破れるだろうか。
それこそ貴殿の働き次第ではないか。よきに計らって兎も角上京を
勧められよ」と慇懃を尽くして氏規を帰したという。

―『名将言行録』

277:人間七七四年
12/08/30 22:18:17.23 IMFl2WV+
中野数馬政利は、
「茶の湯に古い道具を用いるのは不粋だ。
新しい器を使えばよいではないか。
と考える人々がいる。
逆に、古い道具は落ち着いていて、
けばけばしくないから使うのだなどと言う人々もある。
しかし、それらはみな思い違いである。
古い道具は、身分の低い者が使ったものでありながら、
長き年月の徳が備わっているからこそ、
身分の高い人の手にも触れられるのである。
それは武士とても同じことである。
賤しい身分から高い位に上がった人は徳があるからこそである。
それを、氏素性も分からぬような人間と同僚になるのは嫌だとか、
つい先ごろまで足軽であった者を頭と呼ぶのは耐えられない、
などと思うのはもってのほかの態度である。
はじめからその地位にある人よりも、
下から登ってきた人に対し、
その徳を貴び、崇敬するのが当然である」
と言われた 【葉隠】

278:人間七七四年
12/08/30 23:02:30.26 RWWxqdIw
真田幸隆は村上義清によって真田の地を追われ、上州箕輪に逃れて長源寺という寺に身を寄せた。
この寺での幸隆の扱いはけして良いものではなかったが
寺で知客の役にあった晃運という僧が幸隆の境遇を憐んで何かと世話を焼いてくれた為
二人は遠慮のない親しい間柄となった

ある時幸隆は戯れてこのようなことを言った。
「禿坊主、お前は儂に良くしてくれた。真田を取り戻したら寺を建てお前を招こう。」
晃運も怒ったような真似をして答えた。
「貴殿は臆病者である。はたして何が出来よう。」
そして二人は大いに笑いあった。

のちに幸隆は武田信玄の配下となって村上義清と戦い、これを越後に奔らせた。
旧領真田を取り戻した幸隆は長国寺という寺を建て、真田山と号して晃運を開山にし徳に酬いた。

『長国寺記』

279:人間七七四年
12/08/30 23:07:44.76 tFvJch7s
天正15年(1587)、肥後国人一揆が起こる。この影響は小早川隆景の領する筑前煮も波及するかに見えた。

そもそも肥後の一揆は佐々成政の手荒い施政が原因であった。検地をし、さらには、
昔から港より運搬する荷物を運ぶ使役を、三里とされていた所は五里に、五里とされていたところは八里運ばせる
ようにした。このように荒い仕置を行ったために、一揆が起こったのだ。

小早川隆景は肥後に一揆が起こったことを聞くと、この筑前でも一揆が起こりうると判断し、すぐさま国中に
制札を立てた。

『筑前においては、年貢も、津出し(港への荷物運搬の使役)も、小物成(その他の雑税)にいたるまで、
全て昔のままの年貢沙汰とする。』

この制札が出ると、筑前において一揆を計画していた者たちもそれを取りやめ、結果小早川領の筑前は
何事も起こること無かったとのことである。

(川角太閤記)

280:人間七七四年
12/08/30 23:30:20.06 H8ISDO8/
筑前煮が混ざってるぞw

281:人間七七四年
12/08/30 23:34:50.59 tFvJch7s
ギャー
1行目、×筑前煮 ◯筑前に
筑前煮が波及するってどんな状況だおいw

282:人間七七四年
12/08/30 23:38:01.23 RwWMsq13
隆景さん優秀

283:人間七七四年
12/08/30 23:41:38.61 Dgbgg3U3
>>281
食い物の恨みは怖いってことよ

284:人間七七四年
12/08/30 23:58:10.37 5KBE0rBQ
>>281
筑前煮大好き。


285:人間七七四年
12/08/31 00:00:33.55 Ig40vyu0
秀吉は筑前煮派
三成は治部煮派
家康は関東炊き派

286:人間七七四年
12/08/31 00:16:07.24 hCx3MmD6
肥後は九州平定まで国人が残ってたからねぇ

287:人間七七四年
12/08/31 00:36:09.45 Os0dBdgZ
>>285
文字通り、うまいこと言いおってからに

288:人間七七四年
12/08/31 00:36:26.87 xkQJplq/
肥後一揆は隈部等国人衆、豊前は城井家、天草一揆は天草五人衆が
残ってたから起きたけど、秋月種実、原田信種、宗像氏貞等がいなくなった
筑前で反乱おこしそうなのは誰だろ?

289:人間七七四年
12/08/31 03:03:18.54 aNTL/GuG
どんな時も。藤堂高虎

四郎左衛門が、
「わが殿ほど清廉潔白なお方はおられぬ。」と言えば、
兵左衛門は、
「これほど私利私欲のないお方もおられますまい。」と言う。

彦左衛門が言うには、
「伊勢・伊賀・山城・大和の収納を予め計算し、
藩士の知行・切米・扶持がそれぞれいくら、藩費がいくら、家計費がいくら、と定めると
その細目に至るまでいちいち予算額を立てられる。
それを超過する場合は厳しく当事者を責め、少しも見逃ぬのじゃ。」とのこと。さらに、

「藩士の録分に余剰があれば、有能な士を召抱えるか、精励の士に増録する。
逆に怠慢や不謹慎で士風を乱す者は追放し、新たに良き士を礼を尽くして召抱える。
そのため、皆日頃の行いを慎み、人馬・武具の貯蔵に不足しないのだ。」と言う。

「いやいや、厳しいばかりでもござらぬ。」と彦左衛門。
「臨時に知行米に余剰が生じたら、米を一分金・豆板銀に替えられ、
それを革袋に盛って、屋敷内の大広間に小吏らを集めては
御自らの手でそれを撒き散らして拾い取らせるそうじゃ。」

「とにかく、どんな時も藩士知行分の予算の余剰は
御自分のことに流用されたことがない。」と言うのは四郎左衛門。

彼らは、主君藤堂高虎を評して、たびたびそう語り合った。
                           (開国遺事)

290:人間七七四年
12/08/31 06:27:05.49 X/ieVMuz
>>279
隆景さんさすがやで
どおりで秀吉に唐入りの最前線を任せられるわけだ

291:人間七七四年
12/08/31 09:44:36.53 VY1J2o8S
>>288
新体制にすくい上げられなかった、そのあたりの残党が相当残ってただろうね。

292:人間七七四年
12/08/31 10:56:23.77 VyPVq8rf
>>289
高虎さんは叩き上げの苦労人の根性が曲がらなかったタイプだな
締めるばかりでなく、緩める時には緩められる人

293:人間七七四年
12/08/31 12:51:49.86 QJ6Gd40w
江戸時代が始まってるんだな

294:人間七七四年
12/08/31 15:18:22.05 zoGj/3B2
なんか町工場の社長って感じがするな

295:人間七七四年
12/08/31 16:07:06.16 LdQIwXtM
銀粒撒くって・・・・・いいなw

296:人間七七四年
12/08/31 18:44:27.68 i/fqgRtP

文禄元年正月二日、聚楽の邸にて謡初の式が行われた。
着座は第一が豊臣秀次、第二が織田秀信と定められた。

これに前田利家が「秀信は正しく織田殿の孫なのだから
第一たるべきだ。今日の儀注は誰が書いたのだ」と言うと、

石田三成が「それがしが殿下の仰せにより書きました」と言った。
そこで利家が豊臣秀吉にこのことを告げると、

「それは道理だが、秀次は我が甥ゆえ、ゆくゆくは養子にして
家を継がせるつもりだから第一座に定めたのだ」と、秀吉は答えた。

主張を聴き入れようとしない秀吉に気分を害した利家は座を立とうと
したが、その様子を見ていた徳川家康に「利家、しばし待たれよ」と

引き止められた。続けて家康は秀吉に向かい「殿下はかりにも秀信を
後見なさったゆえ、織田家の旧臣もみな帰服しました。

いま利家が秀信を上座に立てようとするのも旧義を忘れない心から
であって、決して秀信の味方をしているわけではありません。

ですから秀信を別に奥の間にて拝礼盃酌の儀を済まし、
表様では秀次を一座につけなされば、人心事体において両方の
便宜を得られるのではないでしょうか」と言った。

秀吉もその理にかなった処置に感心し、その通りに処理したことで
謡初の式は事故なく遂行された。

―『徳川実紀(武辺咄聞書)』


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