正規の奇形児スレッド ..
[2ch|▼Menu]
91:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 09:11:42 y8PBAYyj
  90↑書き込みクッキー確認って、そこだけなんでだろうねw??

  
  人間の人生は、眠り続ける人から、ほとんど

  眠ることなく、世界を駆けずり回る人まで様々であると言うことが

  出来ると言うことです。 <<

  つまり、人生色々と言う事は、こういうことを意味すると思われる。

  しかし、これが、人生色々、だけで済む問題なのだろうか?

  社会や人間の道徳にはやはり、最低限のルールはあるし、誰もが、

  眠り続けたら人間の存在がありえないのは直にわかるはずである。

  




  




92:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 09:23:19 y8PBAYyj

  精神障害者や犯罪者は、現実に社会に害を成しうることが

  可能であると言う意味においてルールに基付いて働きかけることはある

  ことによって、隔たった性質のもの同士の関連の作用と繋がりがあることは

  解ると言える。しかし、一生眠ったままの奇形児の場合は、そのような

  ことなく、大多数のおくる一生とは全く関係なく大方、放置されるものといっていい。

  その時点で大多数が万人共通の認識があると思っている一方で、

  それとは全く関係のない運命を送る人が存在していることがわかる。

  

  

93:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 09:32:19 y8PBAYyj

  もし、これが本当なら、普通の人には全く未知の、全く次元の異なる領域に

  大多数とは本当の意味で無関係に留まっている、閉ざされた人間の

  存在を認めることになりそうだ。無人島に迷いこんだ人や、幽閉されたり

  監禁された人以上に、凄まじい不運といわざるを得ないと言うことになる。

  

 

94:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 09:36:29 y8PBAYyj

 これは当然人道的対処によって、普通の人と同じ人生を歩めるような

 治療をする方針に基付いて働きかけて当然である。

  それと同時に、人間は、凍て付くような世界の創りの現実を認めざる

  を得なくなることになるが、、、。

95:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 09:45:35 y8PBAYyj

  これは、現時点で、宗教や教育関係にとっては間違えなく大打撃

  であるに違いない。特に、これは、哲学の領域にも、法律の領域にも

  政治の領域にも大変動をもたらすことになりうると予測される。


  もしそうだとすると、本当は、86>>の記述にまして、奇形児が輪をかけて

  理解されがたい存在であることまでわかってしまうことになる。





96:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 09:59:14 y8PBAYyj

   特にこれまでの社会体制や、世界観、人生観、のような判断基準や

   感受性等がどういう性質のものであるか再認識させれることになる。

  92から94の事に関して、凄まじいカルチャーショックを受けることに

  なるはずである。それは、20世紀に二つの世界大戦を作り出した、フロム曰くの

  自由からの逃走以上の事態が起こることになっても不思議なことではない恐れがある

  ということも出来る。

97:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 10:15:43 y8PBAYyj

  ここで、断っておくが、20世紀の2つの世界大戦の詳しい意味については

  軍事スレで扱いたいと思う。20世紀の核心は、軍事スレで触れることにします。

  ここで、自分は、20世紀に起きた動乱が、今後、21世紀と22世紀に一回ずつ

  あわせて、20世紀から22世紀の間に、3回巨大な動乱があると予告する

  事を告げておきます。前世紀は、軍事の領域によって、今世紀は、福祉の領域によって

  次世紀は、教育や、宗教、法律、政治関係によって、大動乱が起きると

  予測されることによってであると言うことなのです。

98:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 10:32:33 y8PBAYyj
  その3世紀にわたる大動乱の決定的根拠となりうることが

  92から94の事に関して、凄まじいカルチャーショックを受けることに

  関係したことであることは間違えないと言うことが解ってきたからなのです。

  (20世紀の大動乱は、リスカや統合失調症の問題等で、福祉の領域で静かに

  起こっていて、世界大戦のような派手な現われはにはならないといえるが

  人類滅亡の危険性をはらんだ時代であるのは間違えない。)



99:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 10:36:16 y8PBAYyj


   ↑は、私が、30から35の間で、述べたとおりのことである。

100:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 10:40:35 y8PBAYyj

  これが奇形児が何か? そしてその存在が何を意味するか?

  と言う事に対する一通りの回答になっていると思う。

101:ひまだよ とむ
06/12/30 10:42:08 ys8F2h82
白カラス黒ヒツジの言っている事は難しくてわからないよ!

人類は滅亡するのですか?

いつ滅亡するのですか?

預言者ですか?

102:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 10:54:31 y8PBAYyj


101 名前:ひまだよ とむ :2006/12/30(土) 10:42:08 ID:ys8F2h82
白カラス黒ヒツジの言っている事は難しくてわからないよ!

人類は滅亡するのですか?

いつ滅亡するのですか?

預言者ですか?    <<




  よく読め、解らなければ無利に理解しようとせず、放って置きなさい。

  下手な誤解をしてとんでもないような事態になることはよくあることだからね。

  ネットでは、これからは、こういうことにいくつも出くわすことになるはず
  
  だから、、。

103:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 10:59:19 y8PBAYyj
  まず、ここで主張できるのは、危険リンクを理解するだけでも

  ここまでその意味が明らかになることになると申し上げておきましょう。

104:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 11:04:21 y8PBAYyj


  しかし、ここから先を突っ込んで話を進めようとすると

    かなりの冒険になります。

105:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 11:05:11 y8PBAYyj


106:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 11:06:34 y8PBAYyj








      、

107:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 11:08:57 y8PBAYyj


 ここから先は内容的にもかなりきわどい話なのである意味、

 読み飛ばされることをおすすめするかもしれないと断っておきます。

108:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 11:16:28 y8PBAYyj

  実際歴史的には科学的な精神医療の歴史は始まってから、まだ、

  間もないのであります。精神医療関係の文化人は、代表的な名前を上げれば

  クレッチマーや、ブロイアー、フロイト、ユング、アドラー、フロム、

  現代ではマスローや、デュルケームの名をあげることが出来ます。

  精神鑑定の基準として模範にされるのは、シュナイダーあげられると

  思われますが、、、、。

109:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 11:23:54 y8PBAYyj

   じつは、それら事態に物凄く大変な問題をはらんであることは、

    一部の人にはお分かりであると思われます。

   よく見てみると、そこに上がっているものはどれもこれも

  めちゃくちゃとしか言い様が無いことを扱っていることが解ると思われます。

  根本的にそれが何を意味するか、一般的には全く未知数としてうけとる

  ようになっていると申し上げておきましょう。

110:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 11:26:25 y8PBAYyj


    実際、大方の国の精神医療には、上記のことは、

    ほとんど全く関係が無い状態といって間違いないのです。

111:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 11:50:12 y8PBAYyj
       ここで、日本の精神病院であれば、

     1900−1950年頃の精神病者監護法、精神病院法の時代。

          1950−1987年頃の精神衛生法の時代

         1987−1995年頃の精神保健法の時代

        1995−    精神保健福祉法の時代

   どういうものかの事に関しては、検索して調べていただければ

       現状はお分かりいただけると思います。

112:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 11:58:16 y8PBAYyj
  それは、人権上の法律的には、日本は、先進国から警告を受け続けてきた

  結果、そのように変動するにいたったと私には思われるのですが、基本的には

  それは、構造的にはアメリカの医療体制をモデルにしてきたと思われます。

  また、福祉の面では、ヨーロッパを見習ったものと思われます。

  

113:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 12:34:28 y8PBAYyj

  ここで、 クレッチマーや、ブロイアー、フロイト、ユング、アドラー、フロム、

  現代ではマスローや、デュルケーム等が何をしていたかと言えば

  クレッチマーは人の気質の分類、ブロイアーは精神病の定義、

  フロイトは文明における人間の発達と性欲と精神病と夢との関連の

  深層心理学の分析。     アドラーは権力の意思によって、

   フロイトの性欲の主張を否定。 ユングは精神エネルギーの主張によって

  フロイトの性欲の主張に反対した、フロイトの無意識の発見に対し集合意識を発見した。

  フロムは世界大戦の問題を精神分析した。

  マスローは人間の欲求には、5つの段階があることをつきとめた。

  デュルケームは時代を統計学的に把握し、一般的人間の心理傾向を分析した。

  という事だろう、、。デュルケームを除けば、それらは、現代の精神医療と

  ほとんど全く関係ないと言う事がお解りいただけると思う。それに対しては、

  現代の精神科医であれば、それは、精神病は薬で治ると答えるに違いない。

  本当は、ユングたちのように偶然の一致だとか、象徴だとか言っている余裕は無くて

  世界の急激な変動に苦し紛れに精神医療そのものを社会体制に組み込んで

  取り敢えず、人間の文明の不適応に対処しているのが実際の所であると思います。

  これを洞察するとアメリカや日本の医療体制は解り易いし、何故、薬物療法が

  主流であるかも解りやすくなると思われます。社会体制の問題の観点では

  デュルケームの自殺論は鋭い観点であると指摘することができるのですが、、、。

114:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 12:45:08 y8PBAYyj


  その意味では奇形児よりももっと全体的問題が先だって当然であると言えるかも

  知れません。従って奇形児への医療対策は進めるように叫んだとしても

  現在では、基本的には文明全体としてついていけず、医療としては極めて

  例外的なものとなりうると判断することになります。

  奇形児のことについて扱うのは、現在では極めてリスクが高いと

  私は申し上げます。 このスレでは、そこをあえて突っ込んでみること

  を試みるということなのです。




115:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 12:50:11 y8PBAYyj

  奇形児のことについて扱うのは、現在では極めてリスクが高いと

  私は申し上げます。 このスレでは、そこをあえて突っ込んでみること

  を試みるということなのです。 <<

  実はそうせざるを得ない根拠としてはこの奇形児の核心に触れない限り

  今後、文明のことでどのような対処をとっても空回りすることになると

  思うし、やはり、今後、奇形児の問題に直面して重要な課題になることは

  予測されるからなのです。



116:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 13:02:13 y8PBAYyj

  奇形児の治療の元祖と言えばルドルフ・シュタイナーの治療教育が

  上げられるとおもわれますが、、、。

  実際、フロイトやユングからでは、奇形児の治療のヒントはそれほど

  えることが出来ないのに対し、シュタイナーは流派からすると

  現代の時代には、社会的にはフロイトたちに比べてなじみが無いのは

  無理も無いことなのです。しかし、奇形児の治療に関しての歴史的元祖

  は誰か?と聞かれれば、私は、シュタイナーしか知りません。

117:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 13:16:49 y8PBAYyj
    ところでシュタナーに関係した代表的な業績に関するものは

  いかにして超感覚的世界を認知しうるか、神秘学概論、黙示禄の秘密、治療教育講義、

  であり、社会問題も扱ったりもしていますが、ほとんどが哲学、オカルト、宗教の

  オンパレードであることがお解りいただけると思います。フロイトやユングでさえ

  普通の人からは、奇人変人として扱われ相手にされることはありえないのに

  それにもましていっそうかけはなれた思想家が、一般の人になじむわけが無い

  のは無理も無いのは当然のことであります。教育者としては顔が広いようですが、、。

  




118:名無しさん@お腹いっぱい。
06/12/30 13:25:13 xNEeTxlv
だから何だってのよ!ツマンネ

119:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 14:04:05 y8PBAYyj
  [編集] 概略
ゲーテ研究者として世間の注目を浴びた後、
1900年代から、神秘的な結社神智学協会に所属し、
ドイツの支部を任される。物質世界を超えた“超感覚的”
(霊的)世界に関する深遠な事柄を語るようになった。
協会幹部との方向性の違いにより1912年に同会を脱退し、
自ら人智学協会を設立し、「アントロポゾフィー」(人智学)
にもとづいてヨーロッパ各地で行った講義は生涯6千回にも及んだ。
また、自らの世界観を教育、芸術、医学、農業、建築など、
他方面に渡って実践した。日本ではシュタイナーの
人間観に基づく「シュタイナー教育と言う独自の教育方で知られる


120:白カラス黒ヒツジ↓読み飛ばしてw
06/12/30 14:08:00 y8PBAYyj
人物と業績

[編集] 文芸
若干22歳の学生はシュタイナーはゲーテの自然科学に関する著作
を校訂し、序文を書く仕事を依頼され、14年間かけて完成させ、
「ドイツ国民文学」という叢書の第一巻として出版された。
このシュタイナーの業績は大いなる評価を得た。


[編集] 哲学
ロストック大学(Universität Rostock)で哲学の博士号を取得し、
その学位論文にを編集して『真実と科学』GA3として出版した。
1894年には哲学的主著『自由の哲学』GA4を出版し、
その五年後には自身のゲーテ研究の集大成として
『ゲーテの世界観』GA6を出版した。哲学の研究者の間では、
シュタイナーの著作ではほとんど評価を得ることができなかった。


[編集] 霊的な知識(精神科学)の普及
20世紀に入ると神智学協会と関係を持ち、
自然科学の世界とは一見すると対極にあるかのように思われる
神秘的世界観を語り始める。しかし、それを語る方法は
自然科学に対する態度と同じく、理性的で、客観的なものでならないと
いけないというのがシュタイナーの信念であった。
自身の神秘思想を本に著わしたり、ヨーロッパ各地を講演して回った。



121:白カラス黒ヒツジ↓読み飛ばしてw
06/12/30 14:10:28 y8PBAYyj
[編集] 社会改革
人類史上初めての世界的戦争である第一次世界大戦後の最中にあって、
戦争を初めとした社会問題の解決策として、「社会有機体三層化運動」
を提唱した。社会という有機体を精神生活(文化)、法生活(政治)、
経済生活精神生活(文化)の三つの部分が独立しながらも、
精神生活においては「自由」、法生活(政治)においては「平等」、
経済生活においては「友愛」を原則に有機的に結びつくことが健全な
社会のあり方であると説いた。当時のドイツの外務大臣等の国家の
指導者たちにこの提案を知らせたが、政治的に採用されるには至らず、
長い間顧みられなかったが。1970年代後半ころ再び検討され出し,
1980年代の西ドイツの緑の党 (Die Grunen)の創立理念に影響を与えた。


[編集] 教育
学校教育
社会有機体三層化論に賛同したシュトゥットガルトのタバコ会社工場主
エミール・モルトから従業員の師弟の教育のために学校をつくってみないか
との誘いに答えて1919年に自由ヴァルドルフ学校を開校した。
以来、このタイプの学校がドイツ内外で次々につくられ、それらは通常
「シュタイナー学校」と呼ばれる。シュタイナー学校は世界70か国に
900校ほどある。日本ではシュタイナー学園(神奈川県藤野町)
が認可されており、あしたの国(千葉県長生郡)も2006年10月に千葉県
より学校設置計画に承認が下りた。これらの学校はシュタイナーの人間観
みもとづく教育を行うが、シュタイナー自身の言葉どおり、シュタイナーの
思想自体は決して教えないようになっている。


122:白カラス黒ヒツジ↓読み飛ばしてw
06/12/30 14:14:55 y8PBAYyj
治療教育
障害を持つ子供達を受け持っていた学生たちがシュタイナーから受けた
助言をもとに、ドイツのイェーナ近郊に治療教育施設「ゾンネンホーフ」
を作った。シュタイナーは治療のために薬以外にも、音楽、絵画、彫塑、
オイリュトミー(下記を参照)などの芸術や宗教による特別の教育を示した。
イギリスにおいては治療教育は、シュタイナー教育の代名詞と
言われるほど評価が高い。

[編集] 芸術
神秘劇
超感覚的世界というテーマを含んだ新しい劇である「神秘劇」
を4つ自ら創作した。現在でも毎年、スイスのドルナッハで上演されている。
オイリュトミー
音や言葉の質を身体の動きによって表現する独自の芸術を生み出した。
これはシュタイナー教育のカリキュラムや障害児に対する治療教育にも
用いられている。

[編集] 建築
自分達が内部で行うにふさわしい建物の形が必要だとの考えから、
シュタイナーがゲーテアヌムと呼ばれる独特の形姿を持つ建物の
設計を行った。


[編集] 医学
シュタイナーは医師や薬剤師、医学生などを前に自らの霊学に基づく
医学に関する講演を多く行った。また医師たちの診療に同行し、
助言を与えたりした。その結果、オランダの女医イタ・ヴェーグマン博士
の主導で、「臨床医療研究所」や製薬施設が作られた。シュタイナーが
示した治療法や薬剤に関する示唆は多くの医師の関心を呼び、研究がなされ、
様々な国で薬剤が生産されるようになった。その一つが現在、
シュタイナーの理念に基づいて、自然の原料のみを使った化粧品や食品を
製造している会社「Wereda」(ヴェレダ)である。


[編集] 農業
シュタイナーが土地、植物、動物が自然に互いに調和した健康的なかたちで
行われる農業は「[[バイオ・ダイナミック農法| バイオ・ダイナミック農法
(BIO-DYNAMIC)」]」と呼ばれ、ヨーロッパを初め世界各国で
研究・実践されている。シュタイナーの農業理念に基づいて設立された
ドイツ最子古の認証機関であるデメター(demeter)は有機農法の
連盟の中でも代表的な団体であり、厳格な検査によって、
バイオダイナミック農法の商標の認証を行っている。


[編集] 宗教刷新
神学者たちや宗教に関心を持つ学生たちのキリスト教改革の求めに応じて、
神学についての講義を行い、新しいキリスト教の秘跡の儀式を伝授した。
それらを元に司祭たちが宗教革新運動を始め、キリスト者共同体が設立された。
運動の中心は司祭の養成学校のあるドイツのシュトゥットガルトで、イギリス、
オランダ、スカンディナヴィアにもある。




123:白カラス黒ヒツジ↓読み飛ばしてw
06/12/30 14:19:03 y8PBAYyj
[編集] シュタイナーに影響を受けた人々

[編集]  生涯 哲学者として(前半)

[編集] 幼少時代 ヴィーン以南のオーストリア各地 1861-1872
1861年2月27日 オーストリア=ハンガリー帝国(現在のユーゴスラヴィア)
の国境近くの町クラリエヴェクにてオーストリア帝国南部鉄道の鉄道員
(公務員)である、ヨーゼフ・シュタイナーの第一子として誕生
(両親は前年5月16日に結婚)。
1862年(1歳) ミュードリングへ転居。
1863年(2歳)年頭 僅か半年でミュードリング を去り、ポッチャッハ
(何れも現在のオーストリア領)へ転居。彼は8歳までそこで生活する、
また妹(レオポルディーネ)と弟(グスタフ)が生まれたのものこの土地で
ある(家族は合計五人で、これ以降家族が増えることはなかった)。    *1868年(7歳)この頃、物質世界を超えた超感覚的(霊的)世界を感知するようになったという。
1869年(8歳)父親の転勤のため、ノイドゥルフルへ転居する。
1870年(9歳)学校の代用教員に幾何学に関する本を借り、魅了される。
187年(10歳)、カトリックのミサに出席し、大きな感銘を受け、
また教区のリベラルなカトリック神父を通して地動説を知る。
フリーメーソンの支部に出会うものの、心的な関係性は生まれない。
隣町ウィーナー・ノイシュタットの医師カール・ヒッケルを通して
ドイツ文学を知る。駅にある無線電信で電気を知る。読むことには問題は
なかったが、正しく文字を綴ることに苦労した

[編集] 実業学校時代 ヴィーナー・ノイシュタット 1872-1879
1972年(11歳)ノイドゥルフルから西北西へ約5km離れた
隣町ウィーナー・ノイシュタットにある実業学校(Realschule)
に徒歩で通学する。一年生の時には学習に苦労するが、徐々に学力を
身に付け、最終的には「優等生」と評されるようになる。
1973年(12歳)学校の年報の中あった原子と分子に関する論文に触発され、
自然科学の文献を読みあさる。
1874年(13歳) 機械論的な世界解釈と、大好きな幾何学に没頭する。
1876年(15歳)、上述のヒッケル医師を通して哲学者テーオドール・レッシングを
知る。
1877年(16歳)小遣いを貯めてカントの『純粋理性批判』を購入し、
一人で読みふける。またヘルバルト主義的哲学の研究にも没頭する。
補習塾においても重要な体験(ここで上述の「優等生」と称される事となる)
をする。
1879年(18歳)「優秀」の成績でギムナジウムの卒業試験に合格し、
大学入学資格マトゥーラMatura(オーストリア、スイスでこう
呼ばれているものは、ドイツでのアビトゥーアに相当する)を取得。この年、
ある一人の薬草収集家と出会い、人類の歴史の中で、密かに、
霊的な叡智が受け継がれて来たことを知り、これまで、
人に話して来なかった自分の霊的な経験を語る。また、その男を通じて、
知り合った、シュタイナー自身が“霊的な教師”と呼ぶ男から
人生についてのアドバイスいくつか受けたという。


124:白カラス黒ヒツジ↓読み飛ばしてw
06/12/30 14:23:31 y8PBAYyj
学業時代 ヴィーン 1879-1890
父のインツァースドルフ(ウィーンから南東南へ約5km離れた近郊都市)
への転勤のため、そこから2km離れたオーベルラーに住む。夏休みには
(新学期は秋に始まるので、実業学校を卒業して大学に進むまでの休暇)
フィヒテの知識学に没頭する。10月ウィーン工科大学に入学し、
学業に専念する(専門は数学、生物学、物理学、化学)。

1881年(20歳)通学の電車の中でフェリックス・コグッツキー
(1833-1909)に出会い交友を深め、後にトゥルーマウの自宅を
度々訪問するようになる。
1882年(21歳)家族はブルン・アン・ゲビルゲ(ウィーンから
南西へ約10km離れた都市)に転居。
ヨーゼフ・キュルシュナーは、ゲーテの自然科学に関する論考文を
『ドイツ国民文学』の一環として編集・出版する仕事をシュルーアーに
依頼され、その仕事に取り組む。ほぼ同時期に『原子論的概念に
対する唯一可能な批判』と題する論文をフィリードリッヒ・テオドール・フィッシャー
に送る。この頃彼は、音楽に対して非常な難色を示すようになり、
決定的なアンチ=ワーグナーを主張するようになる。

1883年(22歳)ドイツ文学史の教授カール・ユリウス・シュルーアー
を通して、ゲーテに触れ、ゲーテに関する基礎的な研究を始め、
この頃『ファウスト』を初めて読む。そして、霊を否定する近代の自然科学
では生命の本当の姿を捉えることはできが、自然(物質)と霊(精神)
の間の架け橋を示すゲーテの世界観に可能性を感じる。
シュタイナーはシュルーアーの観念論を更に発展させ、自らそれを
「客観的観念論」と呼ぶようになる。ライトリンガーの実験室にて、
物理学講座を選択し、特に光学に関する知識を得、後の『ゲーテの色彩論』
の編集の際に、光の本質を理解する為の基礎を築く。十月、卒業試験を
受けることなくヴィーン工科大学を退学。
1884年(23歳)3月当時の著名な出版家、ヨーゼフ・キルシュナーは
無名の学生であった22歳のシュタイナーの才能に注目し、ゲーテの自然科学
に関する著作を校訂し、序文を書く仕事を依頼する。
『ゲーテの自然科学論文集』の第一巻GA1a(結局この仕事は1897年まで続く。
全部で四巻であるが、最終巻が二冊分であるため、合計五冊GA1a-eである。
)が出版される。
またウイーンの商人の家で家庭教師としての副業を開始する。
その10歳になる息子は水頭症で発達が遅れていたが、シュタイナーの
献身的な働きにより、2年後には健康状態も改善され、ギムナジウムに
入学することができた。後には医者になる。
哲学者エドゥアルト・フォン・ハルトマンの『人倫的意識の現象学』
の研究に専念する。

1886年(25歳)キュルシュナからシュタイナーを紹介されたシュペーマン
は1886年シュタイナーの処女作となる『ゲーテ世界観の認識要網』
を出版する。また、既述の『ゲーテの自然科学論文集』の副読本として、
初の著作『ゲーテ的世界観の認識論要綱』GA2を10月に出版する。
1888年(27歳)1月から7月に掛けて『ドイツ週報誌』の編集をする。
キュルシュナー編集の辞典の縁もあり、美学に関する研究を進め、
特にアレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテンとエドゥアルト・フォン・ハルトマン
の美学史に専念し、その研究内容はヴァイマールの「ゲーテ協会」
にて『新たな美学の父としてのゲーテ』という題名の講義によって公開される。
ロベルト・ハマーリングの『ホムンクルス』に強い感銘を受ける。
プロテスタント系の牧師と興味深い出会いをする。豊富な交友関係とは裏腹に、
内的な孤独に見舞われる。

1889年(28歳)初めてニーチェの『善と悪の彼岸』を読む。
またフォン・ハルトマンに初めて面会し、またローザ・マイレーダーとも
知り合う。冬にヴィーンの神智学徒フリードリッヒ・エックシュタインと知り合う。


125:白カラス黒ヒツジ↓読み飛ばしてw
06/12/30 14:32:30 y8PBAYyj
[編集] ヴァイマール時代 1890-1896
1890年(29歳)ヴィーンの『国民新聞』に演劇評論を連載。
秋にヴァイマールへ転居し、ゲーテ=シラー遺稿保管局にて働ようになる。
ワイマール版(ゾフィー版)ゲーテ全集の編纂に於いて、
ゲーテの自然科学論文集の
出版に携わる。また、この時期エルンスト・ヘッケルに面会している。
1891年(30歳)ロストック大学で、ハインリッヒ・フォン・シュタインの
下で『認識論の根本問題―特にフィヒテの知識学を考慮して』と題する
論文で哲学博士の学位を取得する。論文は後に加筆・訂正されて
『真実と科学』GA3というタイトルで出版さる。
1892年(31歳)5月 既述のGA3を出版。夏にはそれ迄の
ユンケル通り12番から、アンナ・オイニケの住むプレラー通り2番に転居。
この時期いくつかの哲学、及び哲学史に関する著述をする、

この中には1894年11月に刊行された『自由の哲学』GA4も含まれる。
シュタイナー自身自らの主著と認めるこの本は「近代的世界観の主要特質
―自然科学的手法に基づく魂的考察の結果」という副題を持ち、
カント、フィヒテ、ドイツ観念論との対決の書である。ここで彼は、
ゲーテ、ヘルダー、そしてヘーゲル、しかしまたニーチェ、マックス・シュティルナーや
エルンスト・ヘッケルの影響も受けつつ自らの「存在論的一元論」を
展開している。
これは、現実に即した認識の可能性を概念と認知の結合によって提示しようとしたものである。
その主張の中で、決定的に重要なものは、自身の思考の経験−つまり、シュティルナーが
ドイツ観念論、特にフィヒテから引き継ぎ、ヴィルヘルム・ディルタイから由来する
生の哲学の諸要素と結び付けられた諸要素である。
際に、シュタイナーは、その初期の著作の中にあっては自らを決定的な
観念論者と自認する。彼は、フリードリッヒ・ニーチェとマックス・シュティルナーを
自身にとっての権威にして本物の哲学者として一目置いている。シュティルナーに、
シュタイナーは観念論のひとつの到達点を見た。シュティルナーの言葉
「私についてのすべての真理は、私にとって身近なものである。
私がそれに自分を向けなければならないような真理というものを私は知らない」
にシュタイナーは、こうコメントする。「シュティルナーは、
並ぶもののない征服者なのだ。というのも、彼は、真理に仕えていない。
真理は彼の内にあるのだから。」
真理と権威に対するこの戦闘宣言を背景にして初めて、シュタイナーの
『自由の哲学』は理解することができる。この「利己性」
(Egoität、シタイナーの言葉)の意味で、シュタイナーはニーチェの
「神の死」という問題をはらんだ言葉や『善と悪の彼岸』という立場を


126:白カラス黒ヒツジ↓読み飛ばしてw
06/12/30 14:33:09 y8PBAYyj
歓迎したのである。この意味でまたシュタイナーは、
「神の場所に、自由な人間を!」と宣言するのである。これによって、
初期のシュタイナーは、いわば外に締め出された神の彼岸とイメージを
消し去ったのである。彼は、人とは本来疎遠な宿命の力に委ねられているという
ありとあらゆるイメージを厳しく拒絶する。
このような人間の生活は、人が自身に与えた目的と使命以外の何ものも
持ってはいないというのである。「人はその人生において何を課題として
持つのか、という問いに対して、一元論は、人が自ら定めるもの、
それが課題だと答えるのみである。この世に私が送られてきたわけは、
何も予め定められていたものではなく、むしろ、その都度私が自分に
選択するものである。私は、決められた行軍の道筋をもって私の生涯の歩み
を始めたわけではないのだ。」
これによって、『自由の哲学』は、個人主義と並んで、一元論への断固たる
信仰告白ともなった。一元論は、現実の彼方にある精神的な世界を否定する。
現実的な世界と精神的な世界は、二元的に並存するのではなく、むしろ徹頭徹尾ひとつのものなのである。
シュティルナーやニーチェの意味で、シュタイナーは宣告する。
「人は自らの外の世界にある存在の意志に対してではなく、
むしろ自分自身の意志に対して自分を貫かなくてはならない。
人は、他の何かの存在の謎や意図をではなく、自分の意志を現実のものにしなくてはならないのだ。」
この際、一元論は、行動する人間の背後に人と無縁な世界の発展を見ているのではない。
人間たちは、彼らが直観的な理念を現実のものにしつつある限りにおいて、
自らの人間的な諸目的に従うのである。個人主義的な目的とは、
人間らしい個人の中でのみ理念世界を生きぬくことの出来る特別な
個人の目的を一人1人の個人が追い求めているということなのである。
権威や彼岸を信仰する者に対して、シュタイナーは、「私」の「生きた思考」
と「自由な精神」を対置させている。
1894年(34歳)教授資格申請論文は評価されず失敗に終る。
1895年(34歳)5月『フリードリッヒ・ニーチェ 時代の闘士』GA5を出版。翌年、ゲーテ=シラー遺稿保管局を退職。

127:白カラス黒ヒツジ↓読み飛ばしてw
06/12/30 14:35:53 y8PBAYyj
[編集] ベルリン時代初期 1897-1901
1897年(36歳)ベルリンへ転居。七月自身のゲーテ研究の集大成とも言える
『ゲーテの世界観』GA6を出版。その本の最終章においてはゲーテとヘーゲルの」
関係性について述べている。オットー・エーリッヒ・ハルトレーベンと共に
『文芸雑誌』Magazins für Literatur(其処での記事はGA29-32に収録)
を創刊。「自由文芸協会」、「自由演劇協会」と「ジョルダーノ・ブルーノ同盟」にて活動。シオニズムに対して強い拒絶を示す。
1898年(37歳)自身の編集による『演劇』を創刊、しかし翌年末には廃刊。

1899年(38歳)1月13日からヴィルヘルム・リープクネヒト(1826-1900)
に依って設立された労働者教養学校Arbeiter-Bildungsschuleで授業
(歴史、話術・文章表現など)を始め、この仕事は1904年まで続く。
この学校はやや社会主義的な色彩を持った教育施設であった。
10月31日未亡人であるアンナ・オイニケ(1853-1911)と結婚し、
フリーデナウ、カイザー通り95番に転居。
1900年(39歳)ドイツの作家ルードヴィッヒ・ヤコボフスキー
(1868-1900)に依って設立された「来るべき者達」との交流。
九月末『文芸雑誌』の仕事を辞める。初秋に、ブロックドルフ伯爵
及びに伯爵夫人にベルリンの「神智学文庫」での講演を依頼され、
9月22日はニーチェについて、同月29日にはゲーテについての講義を行う。
10月6日より神秘主義に関する連続講義を開始、この内容は翌年自身の
手に拠って纏められ出版されるGA7。これ以降、シュタイナーは、
講演活動を活発に行うようになる。これはその後、彼が亡くなるまで
続くことになる。なんと6000回以上に上る講演の記録が、
彼の追随者により記録され、私家本からのちに編集される。
その未刊行の原稿がシュタイナーの全集の大半を占めることになる。
彼の最初の講演は、1875年、ブラヴァツキー夫人によって創始された
神智学協会という神秘学的な集まりにおけるものである。→詳しくは
神智学参照。また『ヘッケルとその敵対者』および
『十九世紀の世界観の人生観』(此の本は後にGA18として出版)
という本もこの年に出版されている。

 

128:白カラス黒ヒツジ↓読み飛ばしてw
06/12/30 14:38:28 y8PBAYyj


      ちょっとまて、容量がw

81 KB [ 2ちゃんねる 3億PV/日をささえる レンタルサーバー \877/2TB/100Mbps]

  飯の時間にするm(。。)m

129:↓読み飛ばしてw
06/12/30 15:34:43 y8PBAYyj
生涯 神秘思想家として(後半)

[編集] アントロポゾフィー発展の第一段階 1902-1909
1902年(41歳)1月17日に神智学協会の会員になる。
7月マリー・フォン・ズィーフェルス(1867-1948)
と共にロンドンでの第十三回ヨーロッパ支部年集会に出席。
9月には昨年に自身が行った講義を編集した『神秘的な事実としての
キリスト教と古代の秘儀』GA8が出版される。10月19日神智学協会
ドイツ支部を設立し、
同時に事務総長に就任。→詳しくは神智学協会を参照。
1903年(42歳)年頭にゼー通り40番に転居。3月「建築家の家」
という会場にて公開講義を開始し、この活動は1918年まで続く。
5月、雑誌『ルシファー』(後に『ルシファー=グノーシス』)を創刊し、
その出版にあたる(そこでの記事はGA34に収録)。ヴァイマール、ケルン、
ハンブルクなどのドイツ各地でも活動を始める。10月、
モッツ通り17番に再び転居。
1904年(43歳)5月『テオゾフィー』(邦訳では『神智学』)GA9を出版。
それまでは自身の世界観を明らかにしていなかったが、この著作によって
自身の思想の根幹を初めて公にした。雑誌『ルシファー』はヴィーンの雑誌
『グノーシス』に合併し『ルシファー=グノーシス』とその雑誌名を改める。
6月から『いかにしてより高次の認識を獲得するか』と題する連載を開始し、
当初予定よりも倍近く長く続き(翌年まで続く)、後に一冊の本として出版される
GA10。7月からは同誌に『アカシャ年代記より』の連載が始まるが、
この内容が彼の生前一冊の本として出版される事はなかった。
同月アムステルダムにて神智学会議に出席。またこの年、マルクス主義で
ある労働者教養学校側から、神秘思想家であるシュタイナーへの反対意見
が生まれたが、生徒の支持が強く授業は続行される事になる。
1905年1月21日、同校指導部からの妨害により退職。10月にはロンドンでの
神智学会議に出席する。
1906年(45歳)にベルリン以外では初めての連続講義をパリにて開催、
またエドゥアルト・シュレーにもこの時期初めて逢う。7月にはパリでの
神智学会議に出席。フランクフルト・アム・マインや、ブレーメンなどでの、
ドイツ各地での神智学支部の設立に関わる。
1907年(46歳)神智学協会会長であるヘンリー・スティール・オルコット
(1832-1907)が2月17日に死去し、アニー・ベサントが第二代会長に就任する。
シュタイナーが協会に参加してから初めてのドイツでの神智学会議は、5月にミュンヘンで
開かれる。彼はそこでのインテリア設計を請け負い、自身の思想を建築的空間に可視的に表現する
事を試みる。またシュレー作の『エレウシスの神聖劇』も上演される。
1908年(47歳)8月1日マリー・フォン・ズィーフェルスは哲学-神智学出版(
後に哲学-人智学出版)を設立する。この年にシュタイナーは初めてスカンディナヴィア地方を旅し、
同時に各地で講義活動を行う。
1909年(48歳)にはドイツの詩人クリスティアン・モルゲンシュテルン
」(1871-1914)に出会う。8月、ミュンヘンでシュレー作の『ルシファーの子供たち』を上演。12月、自身の霊学的研究の集大成とも呼べる『神秘学概論』GA13を脱稿.
1910年(49歳)初頭に出版する。
神智学協会にあった時期、シュタイナーは数多くの神秘学的な著作を
著わしている。例えば『神秘的な事実としてのキリスト教』
(1902年)や『いかにしてより高次の世界の認識を獲得するか』
(1904年)が其れである。彼は、これらの著作を初期の哲学を扱った


130:↓読み飛ばしてw
06/12/30 15:36:12 y8PBAYyj
諸論文からの引き続いた展開と理解していた。それが当たっているか、
それとも初期と後期の仕事の間に看過しがたい矛盾があるのかは、
議論の余地あることであろう。シュタイナーが、かつてニーチェの
『反キリスト−キリスト教への呪詛』の中に自分の心の琴線に感じる
文章を発見した彼が−まず以って宗教やカルトに反旗を翻し
(「神の位置に人間が!」)、自らの思索をグノーシス主義的、
神秘主義的な方向に発展させ、それがキリスト教の中心的な
諸要素をもう一つ別の世界宗教の諸理念と結び付けていくということになる。
シュタイナーは、いくつかの認識の諸段階を分けていく。
五感による物質的な世界の認識に続き、霊視的な認識段階(イマジネーション認識)、
霊聴的な認識段階(インスピレーション認識)、霊融合的な認識段階
(インテュイション認識)の段階がある。厳密な学問的な訓練
(シュタイナーはここでディルタイの「精神科学的」を踏まえている)
を経て、この世界像により高次の認識段階が開かれる。これにより、
感覚を超えた世界への認識論的な道筋が切り拓かれるというのだ。この「霊学」は、
人に物質的な世界を精神的な世界との連関に置いて理解し、
精神的な世界をそこから形成していく力を授けてくれる。
このような立場からシュタイナーは初期の哲学論文を、カルマや輪廻転生、
オカルティズム、そしてグノーシス的薔薇十字団の思想と結びつけたのである。
それまで講義の中でしか明らかにされていなかった彼の思想は、1904年の著書
『テオゾフィー(神智学)』によって初めて体系的に示されたが、
そこには霊学に於ける最大の業績とも呼べる宇宙進化論に関する記述は見出されなかった。
後の1910年に出版された『神秘学概論』の序文には、『テオゾフィー』執筆中に既に、
宇宙進化論に関する記述の構想があったものの、彼にはそれが不可能であった事を述べている。
この本の出版によって霊学としてのアントロポゾフィーはその頂点を迎えたと言える。
霊学はその後も発展を続け、ここの研究分野に於いては常に新しい研究結果が発表されるが、
その全体像は確かにこの時点で「概論」として示されたのである。→詳しくは霊学を参照。



131:何が秘儀参入の門だ、はあ?、。
06/12/30 15:43:45 y8PBAYyj
[編集] アントロポゾフィー発展の第二段階 1910-1916
1910年(49歳)初頭『神秘学概論』出版。8月ミュンヘンで神秘劇第一部『秘儀参入の門』が上演される。
これ以降シュタイナーの活動は、建築、彫刻・彫塑、絵画、音楽、言語芸術(言語造形)、
運動芸術(オイリュトミー)などの各芸術分野に及ぶ。
1911年(50歳)1月 アニー・ベサントの養子ジッドゥ・クリシュナムルティ
(1895-1986)を救世主とする「東方の星教団」がインドで設立され、
まだ若かったクリシュナムルティが、何人かの神智学協会の代表者ら
(チャールズ・W・リードビターもその中にいた)により、“来るべき世界教師”、
“キリストの再来”として宣伝されるようになる。3月、妻のアンナ・シュタイナーが他界。
8月、ミュンヘンで神秘劇第二部『魂の試練』が上演される。
1912年(51歳)8月、神秘劇第三部『境域の守護者』が上演される。
同月、新しく作られる協会の名称として「アントロポゾフィー」を提案する。
9月にはアントロポゾフィーが生み出した最も有名な運動芸術オイリュトミーが形作られ始める
(正確には1908年五月の時点で既にその胎動が見られる。→詳しくはオイリュトミーを参照)。
9月にはアントロポゾフィー協会設立の準備を始める。12月 神智学協会ドイツ支部は分裂に至り、
」世界組織とドイツの支部、結社の間に瞬く間に亀裂が見られるようになる。
シュタイナーのグループはクリシュナムルティを来るべきキリストとして仰ぐことを拒んだのである。
同月28日彼はケルンでアントロポゾフィー協会を設立する。アントロポゾフィー協会は、
その他の国々の神智学協会とも繋がりを持つようになっていく。また『アントロポゾフィー的魂の暦』
(邦訳アリ)が出版されたのもこの年である。
1913年(52歳)2月3日アントロポゾフィー協会第一回総会がベルリンにて開催される。
建設省の芸術担当者の反対により、「ヨハネス建築」が許可されない。
このヨハネス建築とは1918年以降「ゲーテアヌム」と呼ばれるものであり、
二つ相重なるドームを持った木造建築である。ゲーテアヌムは1922年の大晦日の夜に
その完成を待たずして火災によって焼失する(反対する者たちによる放火の可能性も考えられるが、
真相は不明。)同じ土地には今度はコンクリート製の建造物が建てられ、後者が第二ゲーテアヌムと呼ばれるのに対して
前者は第一ゲーテアヌムと呼ばれるのが一般的である。→詳しくはゲーテアヌムを参照。
5月中旬に建築候補地としてドルナッハが挙がり、同18日にそれを決断。8月にはミュンヘンにて神秘劇第四部
『魂の覚醒』が上演される。9月20日にはゲーテアヌムの礎石奉納の儀式を行う。
1914年(53歳)3月31日には無二の友人であり最も良き理解者である詩人クリスティアン・モルゲンシュテルンを亡くす。
4月には8月に完成予定であったゲーテアヌムの完成予定を12月に変更する。7月28日 第一次世界大戦(1914-18)勃発。
12月24日マリー・フォン・ズィーフェルスと結婚。また1914年から1923年にかけてシュタイナーはベルリンとドルナッハを行き来し、
両都市をその居住地とする。
1915年(54歳)ゲーテアヌムの舞台の、背景の中心に据えられるべき「人類の代表者」
という彫刻の製作に取り掛かる。またゲーテアヌムの大小二つの天井画を描く。

[編集]

132:ちょっと、長いwww、
06/12/30 15:48:50 y8PBAYyj
アントロポゾフィー発展の第三段階 1917-1923
1917年(56歳)以降、シュタイナーの活動は実践的な社会運動へと及ぶ。彼は、自ら理念を携えて、
様々な社会生活の領域に登場した。
此の年に彼の中に社会有機体三分節化論の理念が浮かび、その実現に勤しむがそれは徒労に終わる。
1919年(58歳)社会有機体三層化論に賛同したシュトゥットガルトのタバコ会社工場主エミール・モルトから
従業員の師弟の教育のために学校をつくってみないかとの誘いに答えてシュトゥットゥガルトに自由ヴァルドルフ学校を開校。
社会運動への参加に伴い敵対者が伴う。また12月23日から翌年1月3日にかけて同地で第一回自然科学講座が開催される。
1920年(59歳)3月21日から4月9日にかけて第一回医学講座がドルナッハにて開かれる。これによってシュタイナーは、
イタ・ヴェーヒマンと共にアントロポゾフィー医学(シュタイナー医学)の創始者とされることになった。またその医学に基づいた薬品は、
ドイツの会社Weleda(ヴェレダ)やWALAで市販されている。→詳しくはアントロポゾフィーに拠って拡張された医療を参照。ドイツに株式会社
「来るべき日」、スイスに「フトゥルム」を設立。9月26日午後五時 ゲーテアヌム会館。
この頃から毎週のようにアントロポゾフィー非難の記事が新聞に掲載されるようになる。
1921年(60歳)2月には月刊誌『ディ・ドライ』を創刊。4月には治療オイリュトミー講座を開く。
6月、ドルナッハの隣町アーレスハイムに、イタ・ヴェーヒマンに拠って「臨床治療研究所」が開設される。
8月 週刊誌『ダス・ゲーテアヌム』を創刊。この頃、自らの自伝を書いた。
1922年(61歳)7月24日から8月6日にかけて国民経済学講座が開かれる。シュタイナーは更に、
宗教的生活の刷新にも手を貸した。全ての人種、民族、宗教、国籍、性別、階級、信念などから独立している
アントロポゾフィーの創始者である彼が、特定の宗教団体(つまりここではキリスト教)の設立に助力をするという行動は、
例外的なものであるといえる。どの時点からその活動の胎動が見出されるかは、常に異論が付きまとう問題であるが
1920年2月の時点で既にシュタイナーの周りでキリスト教の刷新が可能であるかという声が出始めている。
翌1921年の6月と秋に行われた二回の神学者に対する連続講義の後、1922年9月にキリスト者共同体の創設に寄与した。
一般に「霊学の為の自由大学」の宗教(神学)部門と混同されがちであるが、
この団体はアントロポゾフィー協会から独立したれっきとした宗教組織である
(ちなみに自由大学に神学部門は存在しない)。シュタイナーはこの組織に属してはいないながらも、
設立後も司祭達に外部から助言を与え続けた。→詳しくはキリスト者共同体を参照。同年大晦日の午後十時、
火災によってゲーテアヌムが炎上、翌朝焼失。
1923年(62歳)はシュタイナーの生涯に於いて最も困難な一年であった。
1月から体調が優れない。また此の年から自伝『我が生涯の歩み』GA28の執筆を開始し、
週刊誌『ゲーテアヌム』に連載するが、翌々年の自身の死によってそれは中断、
未完に終わる。12月25日から翌1924年1月1日にかけて降誕祭会議を開催し、それまでの「アントロポゾフィー協会」
を刷新し「一般アントロポゾフィー協会」として新しく発足。またその心臓部となる「霊学の為の自由大学」
(翌年2月15日第一講開催)を設立する。本部は、スイス、バーゼル近郊の町、
ドルナッハの丘の上に建っているのゲーテアヌムに置かれた。

[編集] 晩年 1924-1925


133:シュタイナーを持ち込んだのは失敗だった。
06/12/30 15:58:35 y8PBAYyj
[編集] 晩年 1924-1925
1924年(63歳)はシュタイナーの生涯において最も実り多き一年であったといえる、
しかしこの最も実り多き時代も、ものの十ヶ月でその終焉を迎えることになる。元日、
ゲーテアヌム再建の為の構想を発表する。
同13日にはアントロポゾフィー協会の週刊報告誌『報告書』を創刊し、
降誕祭会議に参加出来なかった者達の為にもその会議の内容を公開した。
2月15日には霊学の為の自由大学に於ける第一学級講座(クラッセン・シュトゥンデKlassenstunde)
を開講する。此の講座は後に第二学級、第三学級と設立される予定であったが、
シュタイナーの死によって中断された。 翌日16以降、彼の「本来の」使命であったカルマに関する連続講義
(それは50回にも亘り、9月28日まで続く)をドルナッハにて開始し、その内容を凝縮したものを各地で講演し
(これらは合計30回を越える)、降誕祭会議以降アントロポゾフィー運動と、アントロポゾフィー協会は同義identischになったと説き、
一般アントロポゾフィー協会の意味について熱弁して回った。同月、音楽オイリュトミー講座を開く。3月末には、1月に日の目を見た
「新しいゲーテアヌム」の1/100スケールの立体モデルを粘土で製作することに熱中した。三日三晩アトリエに籠もり切ったシュタイナーは
「熱に浮かされたように」創作に集中し、3月26日に模型が完成する。 6月、コーバーヴィッツで所謂「農業講座」が開かれ、
かの有名なバイオ=ダイナミック農業の基礎を築く。この方法で作られた野菜は、ドイツではデメターDemeterというマークがつけられている。
同月から翌月にかけて言語オイリュトミー講座及びに治療教育講座がドルナッハにて行われる。九月、ドルナッハにて演劇講座。
9月29日午後八時からの講演を20分で中断し、病床に就く。三月に出来上がった「新しいゲーテアヌム」の模型は、僅か五週間で図面が引かれた後、
9月9日に受理され、12月1日に建築許可が下りる。このコンクリート作りの所謂「第二ゲーテアヌム」
の建設が実際に始まったのは翌年に入ってからであり、
完成したのは1928年、即ち彼の死の三年後であった。

1925年(64歳)元日深夜、卒倒、高熱により食欲は減衰。3月26日病状は好転するものの、同29日病状は悪化、
翌日午前四時頃にイタ・ヴェーヒマンに苦痛を訴え、5時頃に一般アントロポゾフィー協会理事である、
アルベルト・シュテッフェン、ギュンター・ヴァックスムートが病室に呼ばれる。1925年3月30日午前10時頃、
ルドルフ・シュタイナー他界。4月1日の夜には葬儀が執り行われる。死の三日前までシュタイナーは
「人類の代表者」にのみを振っており、また死の前日には第二ゲーテアヌムの内部建築の作成の為に使用する
アトリエに完成について訊ねているなど、その制作意欲は最後まで衰える事はなかった。

[編集] 死後
国家社会主義の時代(ナチスドイツ時代)には、アントロポゾフィーは、さまざまな規制を加えられ、
もとよりその個人主義により、ナチスの集団的社会主義と対立せざるを得ない立場にあり、
闘いながら自らを守っていくしかなかった。加えて人は、アントロポゾフィーをフリーメーソン
とのつながりで理解した。1933年11月15日、国家社会主義のチューリンゲンの経済相は、
生物学的力動的な生産方式の宣伝普及を禁止した。 1935年11月1日には、
ドイツのすべてのアントロポゾフィー協会が、ラインハルト・ハイドリヒ の訓令により禁止された。
アドルフ・ヒトラーも既に1921年の論文(「国の指導者か、国民への犯罪者か」)において、
「社会有機体の3分化」を「諸民族の正常な精神状態を破壊するユダヤ人の策謀」と罵倒していた。
ルドルフ・シュタイナーと彼の夫人マリー・フォン・ズィーフェルス(1914年結婚、子どもなし)は、
1903年から1923年までベルリン・シェーンベルクのモッツ通り 30に住んだ。そこには現在彼らの記念プレートが掛かっている。
[編集] 評価
彼の理念の多くは、今日に至るまで非常に大きな影響を残し、今日なおますます社会に受け容れられつつある。



134:こいつは私も徹底的に叩きのめすことになる予定
06/12/30 16:04:36 y8PBAYyj
批判
ルドルフ・シュタイナーの業績は、その存命時から既に多くの議論を巻き起こした。主な批判としては、大学の学識経験者たちが認めない、
「人智学の科学性」の宣言、教会関係者が非難する「キリスト論のグノーシス的な諸前提」、並びに20世紀末にまた議論が沸騰した
「人種差別的」とみなされたシュタイナーの民族論である。最後のものについては、シュタイナーの作品中にある問題を孕んだ
神智学的な構想をどう継承するのか、特にシュタイナーの「根を下ろさせること」についての言述が焦点となる。
批判者たちからは、シュタイナーの人智学は高次の認識から得たものではなく、矛盾を孕んだ接木細工のような思想と見られている。


[編集] 著作


135:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 16:15:08 y8PBAYyj

   どれほど凄まじいかお解りになられると思います。なじむわけが無いし
  
    私は深入りする気はもてない。

  始めに、、シュタイナーの著作に関しては、解らないことは深入りしないで下さい、

   難解な内容を扱っていることも確かだし、シュタイナー自身にも救いがたく致命的欠陥が

   あるのも確かなのです。某編集者は難解すぎてノイローゼになって自殺してしまったという

   報告がございますのでご注意ください。実際下手に関わると頭が本当におかしくなりかねないし、

   人生を某に振りかねないので注意が必要なのは間違えないと言えます。

   マルチやネズミ構に近いことが解ってきています。それは、ユングも一緒です。


136:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 16:20:39 y8PBAYyj
日本語による文献
シュタイナー(著)高橋巌(訳)『自由の哲学』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房 2002年07月 ISBN:4480087141
シュタイナー(著)高橋巌(訳)『神智学』筑摩書房 2000年07月 原書第九版 ISBN:4480085718
シュタイナー(著)高橋巌(訳)『神秘学概論』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房 1998年01月 ISBN:4480083952
シュタイナー(著)高橋巌(訳)『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房 2001年10月 ISBN:4480086641
A・Pシェパード(著)中村正明(訳)『シュタイナーの思想と生涯』青土社1998年6月10日 ISBN/JAN:4791756320
フランス・カルルグレン(著) 高橋明男(訳)『ルドルフ・シュタイナーと人智学』 水声社 1992年12月 ISBN:4891762780 

[編集] 日本への紹介
日本においては第一次世界大戦以前に、右翼思想家の大川周明がシュタイナーの社会三層化論を翻訳した『三重国家論』を出版して紹介した。
1920年代には、シュタイナーの設計した「ゲーテアヌム」を現地で見て感激した早稲田大学の今井兼次教授によって、日本の建築関係者達の間で
知られるようになった。1970年代頃から、娘の教育のため、家族でドイツに留学した早稲田大学教授の子安美知子が
『ミュンヘンの小学生 : 娘が学んだシュタイナー学校 』(中公新書 1975年)を初めとした一連の教育体験報告が反響を呼び、
新しい教育方法としてシュタイナーの思想が注目された。1996年には、NHKのNHK衛星第2テレビジョンの「素晴らしき地球の旅」
という番組でシュタイナー教育が紹介された。 また、イタ・ヴェークマン医師とシュタイナーが共同で創始したシュタイナー医学に関しては、
2004年春から、日本でも「ゲーテアーヌム精神自由大学」の主催で医師向けの専門的な訓練が日本国内でも開始されている現状があり、
2005年5月5日には「日本アントロポゾフィー医学のための医師会」というものが設立されている。
2000年4月14日から8月27日には東京のワタリウム美術館で、2001年3月3日(土)〜4月5日(木) にはKPOキリンプラザ大阪で,
シュタイナーが書き留めたノートを展示する「ルドルフ・シュタイナー 100冊のノート展」が開催された。


[編集] 関連項目
アントロポゾフィー
人智学
神智学
神智学
シュタイナー教育
社会三層化論
エーテル体
アストラル体

[編集] 外部リンク

[編集] 日本語サイト
日本アントロポゾフィー協会
子安美子のホームページ
フォーラム・スリー
FRONNOW MULTI REPORT
シュタイナー研究室
風のトポス 神秘学遊戯団
佐藤公俊のホームページ
音魂大全の中のシュタイナーのページ
魔法の学校
シュタイナーにも限界はありえる

[編集] ドイツ語サイト


137:白カラス黒ヒツジ
06/12/30 16:26:24 y8PBAYyj


138:以下、治療教育講義
06/12/30 16:28:11 y8PBAYyj


  シュタイナーは障害を持った人の魂の素質がどんなに優れたものであるかを、若いころに身をもって体験し、

  それがのちの人智学運動の大きなささえとなった。シュタイナー教育の核心の部分には障害をもった人々との共同生活があり、

   それが未来の社会生活の為の一つの型をしめしているのである。  


次ページ
最新レス表示
スレッドの検索
類似スレ一覧
話題のニュース
おまかせリスト
▼オプションを表示
暇つぶし2ch

3538日前に更新/416 KB
担当:undef