■■本能寺の変徹底考 ..
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160:人間七七四年
08/06/26 22:14:59 aTo34+Km
最低限信長だけでも殺しとけば、なんとかなると思ったんじゃない?
信忠ごとき、信長さえ殺せばなんとかなると。
家督継いでるとはいえ、まだ信長あっての信忠なんだし。
逆にいえば、信忠は逃がしてでも、信長だけは確実に最優先に仕留める必要があったと。

161:人間七七四年
08/06/26 22:16:57 Qfj0IZbT
>>160
信忠がいれば信忠を頭にして家中がまとまるんだから何ともならんと思うよ。

162:人間七七四年
08/06/26 22:27:52 L8e7nbkC
>>161
> 信忠がいれば信忠を頭にして家中がまとまるんだから何ともならんと思うよ。

織田家中の内実を嫌ってほど知っている光秀がもし、「信忠はどうでもいい」、と考えていたとすれば、
それは現代の我々の信忠に対する認識を大きく変えないといけないな。

信忠が逃げても、信忠では織田家はまとまらない。との認識があったのかも知れないぞ。

163:人間七七四年
08/06/26 22:28:54 aTo34+Km
>>161
だからその「信忠を頭にして家中がまとまる」という根拠も無いよね。
信雄や信孝でもできなかったわけだし。
嫡子というだけで、隔絶した実力・声望があったのかな?
少なくとも、信長とはまだまだ格段に劣ってたとは思うけど。

164:人間七七四年
08/06/26 22:37:51 L8e7nbkC
信忠は武田攻めの時の突出などで、信長についている家臣団からは反感を持たれていたって事は
ある程度想像できるな。「お世継ぎが手柄立ててどーする気だよ」みたいな。
そこからはプラス方向にもマイナス方向にもいろいろ想像できるw

165:人間七七四年
08/06/26 22:38:12 /m/YOZuI
有楽等はなから眼中になかろうて。

信長殺しちゃえば、信忠なんてって発想は分からなくもないが、敵の嫡男は例え乳飲み子でも排する時代だからね。お市の嫡男がどうなったか知ってるでしょ。

166:秀吉
08/06/26 22:58:16 49XG5lKY
高松で遊んでる振りして、
ちょっと京でやっちゃった。

信長油断しすぎwww

167:人間七七四年
08/06/26 23:11:00 pEGeW2yU
>>163
信長との実力差はこの場合関係ない。
信忠を見逃したら、当然織田の諸将は信忠の元に集って光秀を滅ぼす。

「その後」の信忠と政権がどうなるかは未知数ですよ?もしかしたら天下統一できた
のかもしれないし、どこかでヘマして滅んだかもしれない、柴田や羽柴らが能力を
見限って大分裂してしまうかもしれない。
しかし、光秀を滅ぼすまでは、信忠の元に一統される。これははずれようがない。

168:人間七七四年
08/06/26 23:33:44 aTo34+Km
>>167
>信忠を見逃したら、当然織田の諸将は信忠の元に集って光秀を滅ぼす。
だから、その決めつけにどれほど根拠があるのかを疑問としてるんだけど。

>信長との実力差はこの場合関係ない。
当主が急に討たれ、実力に隔絶した差がある後継者が残されたとしても、
「この場合関係ない」と言い切れるの?
織田政権なんて、急速的に膨張したものだから、譜代の臣なんてごく一部。
10年そこらの付き合いの近畿地方の諸豪族とか相手に、
信長個人はともかく、織田家自体にそれほど求心力があったのかな?

169:人間七七四年
08/06/26 23:43:33 L8e7nbkC
>>168
> 信長個人はともかく、織田家自体にそれほど求心力があったのかな?

だね。織田家と信長権力はある程度分けて考えたほうがいい。
幕府のような政権組織が出来ていない以上、信長のたがが外れると、信忠は濃尾の太守に過ぎないと言う
考え方も出来るわけだし。

170:人間七七四年
08/06/26 23:55:10 /m/YOZuI
信忠がいくらボンクラでも、当主である事には変わりはなく、いくら戦国時代とは言え、おいそれと失脚させる事など出来ない。(あの当時)

ましてや、信孝・信雄と比較する事もおかしい。本人の能力とは別に嫡男ってだけで内外での立場が違う。無能でも嫡男に生まれただけで、当主となる世襲は、幕末まで続いてるのよ。

171:人間七七四年
08/06/27 00:10:04 lHPj6x+T
170に同意。
信忠健在なら、秀吉は台頭出来ないと考えるのが普通でしょ。

それに織田家の求心力希薄って言うけど、信忠の元以外に結集する所、他に誰ん所行くのよ?

信長の仇も取らずに各武将が自領に篭り割拠状態??

考え過ぎだと思います。

172:人間七七四年
08/06/27 00:29:30 k15dXYE4
>>168-169
光秀の内心の動機がどこにあったかは不明だが、史実として、光秀は信長を倒し、
信長に取って代わることを行動で示した。(それが当初からの目的だったのか、
信長を倒してから生まれた目標なのかはともかく)

つまり、残された織田諸将に対して、光秀は「信長に代わって、これからは俺に
従え」と宣言したようなもの。織田諸将としての選択は二つ。光秀の天下を認めて
従うか、認めずに敵対するか。認めない場合は光秀を倒すしかない。この時に誰を
旗頭にするかといったら、信長の遺児しかないわな。それがすでに成人した嫡子で
軍事力も持っていて実績もあるのなら選択の余地はない。

仮に、この機会を捉えて独立なんて野心を抱いたとしても、まず光秀は倒さなければ
ならない。光秀を認めることは、光秀が信長にかわって自分の主君になることを認める
ことに繋がるのだから。(そんなことを認めたら独立もなにもない)

羽柴とか柴田とかが野望に駆られてか信忠の器量を見限ってかはともかく、織田政権に
反逆をするのなら最低限光秀を滅ぼしてから。

173:人間七七四年
08/06/27 00:31:57 62SP3iBs
>>148
なので機会があったのにもかかわらず、謁見してない、のが「よくわからんでおじゃる」なんですよ。

で、主はあくまで将軍義昭なのにもかかわらず、信長の方が主みたいに振舞ってしまったわけですよね。
公家さんたちから見ると、お金持ち信長、にへつらってしまったわけだけど、そこは信長が義昭に
気を使ってあげないと。
このあたりが田舎もん独特の舞い上がり方に通じる、そのように思ったわけです。
ささいなことですけどね。

174:人間七七四年
08/06/27 00:46:48 62SP3iBs
数日前は、信忠が生きていたら秀吉は単なる1武将でしょ、みたいな意見が多かったみたいだけど、
170、171さんみたいなね、やっぱりそれも可能性のひとつであって、まず間違いない、
みたいな考え方は少し信忠と織田家自体を高く評価しすぎのようにも思いますね。

本能寺を聞いて一番近くにいた丹羽&信孝の兵が逃げ出してしまったように、織田家は信長の強力なカリスマ性に
よるところが大きいですから、変の後に信忠がどの程度まで家臣団をまとめることが出来たか。
要は信忠の能力論になってしまいますけど、お坊ちゃん武将であったでしょうし、本能寺の時に
逃げ出してないのがその限界、というか。

で、秀吉の不忠さ悪逆さを思うと、相当なんかやらかしてたんじゃないか、というのがかえって普通のようにも
思いますけどね。

175:人間七七四年
08/06/27 00:51:57 62SP3iBs
>>146
ちょっと教えてほしいのだけど、京子ちゃんのあの「天正十年夏記」だったかの読み方、
結局どうなりました?
主語が天皇側ではなく、村井にあるって言うの。
確かにあれで180度方向性が変わってしまうから最初に出た時はかなり驚いたのですけど。
よろしく〜。

176:人間七七四年
08/06/27 00:56:14 slnpkwQm
>>175
答えから言えば、結論出てません。

いまだに諸説入り乱れている感じだけれど、基本的には朝廷と村井との交渉の過程で出てきた
素案、って感じでは、ある程度意見は一致されているんじゃないかな?

177:人間七七四年
08/06/27 01:04:23 62SP3iBs
>>176
なるほど、ありがとう。
で、思うけど、新説に少しでも問題点があったらそこをつっこむのがそれまでの「定説派」。
にもかかわらず結論が出てないと言うのは、かなりいい線いってるということですかね。

京子ちゃんは資料の読み方というより結論に難点があるのではないかな。


178:人間七七四年
08/06/27 01:13:34 62SP3iBs
連続で悪いが、サッカはじまるまでひまだもんで。

>>145
馬そろえで、朝廷威圧説、というのは決して今日の軍事パレードからの想起ではなくて
それまでの信長の行動、朝廷との関係、そこから導き出されたものです。
なので、失礼ですが、信長流左義長と言ってその行事性や細かい内容にその意味を求めるのは
少し方向性が違うのではないか、そのように信長ー朝廷友好説には疑問を感じております。
あくまで私見なのでご容赦を。


179:人間七七四年
08/06/27 01:20:24 rH1JPeZh
>>169
あなたにとって戦国時代とは北斗の拳のモヒカンのような世界なのでしょうね

180:人間七七四年
08/06/27 01:24:57 62SP3iBs
>>179
例えるなら北斗の拳より花の慶次が適切では。



181:人間七七四年
08/06/27 01:30:38 k15dXYE4
>>178
それまでの信長の行動や朝廷の関係って、例えばどんなところが、対立していると
判断しているんですか?
おそらく、あなたが考えているそれらは、現在は否定されているようなことばかり
かと思われます。

すでに出ていますが、馬揃えは天皇の要望で行われたもので、後日に忌みで見学
できなかった東宮の希望で、規模は縮小したがもう一度行われています。さらに
このパレードには公家衆も参加しています。

天皇は威嚇されるためにわざわざ要望したんですか?脅迫行事に公家も参加した
のですか?

182:人間七七四年
08/06/27 01:48:23 62SP3iBs
>>181
前にもちらほら出てますが、1573に譲位を言い出した件、無官になったこと、
誠仁親王の皇子を猶子にしたこと、これらは朝廷側から見ると異質で自分たちの
管理下からはみでようとした行為ですよね。

天皇からの要望、というのも、まさにギリギリのかけひきだったと思いますよ。
威嚇されるため、というより、承知で臣下の順をこちらから言い出した、こちらが主であり
信長は臣である、言うこときくがよいでおじゃる、ってね。

現在否定されている、というのに関心があって、本なんかだと質問できないので
こうやって疑問をカキコして、教えて頂けるととてもうれしく思います。


183:人間七七四年
08/06/27 01:49:24 slnpkwQm
>>177
つーか、あくまで読み方の問題でしかないから、解釈次第でどうとでもなっちゃう。

184:人間七七四年
08/06/27 01:55:02 62SP3iBs
>>183
あ、そか、読み方ってそういうことね。
でも京子ちゃんは一応用例なんかを細かく調べてそこから結論
出してるわけですよね。
村井が主語のほうがより確実であろう、って。

ま、あんまり言うとこっちがヤバいかな。

185:163
08/06/27 05:47:48 zT9wAJ9c
昨日のID:aTo34+Kmだが、一部どうも話が妙な方向にいってそうな気がする。
俺が疑問を示してるのは、信忠への対応の遅さを大失態とみなし、
信忠も確実に殺さなければ織田家乗っ取りは成り立たず、ひいては野心説への否定にまでつなげている点。

それに対し、光秀にとっての重要度は、圧倒的に信長>信忠であり、等価とはみなされず、
最悪信忠を逃がしてでも、確実にまず信長だけは仕留める必要があった。
その光秀にとっての優先度の差じゃないか?という反論の提示。
そりゃ、信忠も同時に殺せたらベストなのは間違いないが。

>>171みたいな「信忠健在なら、秀吉は台頭出来ない」とかは全く別問題。
大軍を擁した実力者はみな地方で大敵にあたり、早々戻ってこれないはず。
というのが光秀の勝算の一つと考えられるよね。
その状況で仮に信忠が逃げたとしても、信長さえ討てば勝算ありとふんだとは考えられない?
実際のとこ、摂津諸将が秀吉につかず、筒井が旗幟を不鮮明にしたのも、
織田家の威光じゃなく、秀吉という実力者の、予想外の早期帰還だったよね。

186:163
08/06/27 06:08:37 zT9wAJ9c
>>171
>信忠の元以外に結集する所、他に誰ん所行くのよ?

だから、それは単純に明智につくという選択肢じゃない?
繰り返すが、尾張時代からの譜代の臣なんて、急激に膨張した織田政権ではごく一部
上洛以降、織田家の(信長の)勢力に服した、せいぜい十年程度の付き合いの豪族も多数いる。
そうした連中が、信長の死後、織田家という名分よりも、光秀という実力者に鞍替えしてもおかしくない。
というか、そう光秀が読んでたとしてもおかしくないんじゃない?

187:人間七七四年
08/06/27 06:58:50 effBV0k7
>>181
>馬揃えは天皇の要望で行われたもので

実際には天皇が要望する以前に信長は光秀にその指示を与えており、
前久(信尹か)を介してそのように仕向けたというのが真相だと思われます。

また、『お湯殿の上日記』によれば親王もそれを楽しみにしていたことが窺われますが、
果たして当日の演出(信長を住吉明神にも中国皇帝に凝らす)を天皇を素直に喜んだかは疑問だし、
二回目の馬揃え(※親王が望んだものではありません)の様子(朝廷側)はとても牛一が『信長公記』に
記したようなものではなく、『お湯殿』の記述も素っ気無く、またそれを親王がお忍びで見学したのは、
興味はあったが正式に見学することを「良し」としなかった(※)ものと見られます。

二回目の馬揃えは、最初の馬揃えにこめられたメッセージとそれに対する朝廷の対応(左大臣推任)を受けての
「駄目押し」であった観があります。

信長は、先に親王の五宮を猶子とし尚且つ二条御新造を贈っおり、また今回、譲位の件を持ち出すことで、
朝廷に対して自らの立場(真の上位者が信長であること)を認識される目的があったと考えられます。

188:人間七七四年
08/06/27 07:19:16 16wxOwQG
信忠が京都から結果的に逃げようと思えば逃げられたのは事実だが、その後を光秀軍が追いかけないというのは考えにくい。
なぜなら、信忠は、信長の跡取りであり、逃がしたのでは、反明智の旗印になる。
確かに有楽は無事逃げているが、それは、有楽の重要性は低く、光秀軍が追いかけなかったから。
史実と異なり、信忠が京都から逃げ出し、光秀軍が追いかけ、山科あたりで信忠が殺されていたら、このスレでは、京都でなぜ正々堂々と信長の跡取りらしく死ななかった、と叩かれていたような。

189:冬広
08/06/27 10:19:48 NkNOCKW3
>>187
>二回目の馬揃えは、最初の馬揃えにこめられたメッセージとそれに対する朝廷の対応(左大臣推任)を受けての
「駄目押し」であった観があります。
堀新が指摘しているが、さらなる「駄目押し」するならば、より権力が増大した天正10年の小正月にも京都馬揃え
をするのが効果的だが、天正10年は安土馬揃えしか行われていない。
なぜ、天正9年だけだったのかに着目する必要がある。
前年末の親王生母の死去と関連付けるほうが合理的だと思う。

>>182
>1573に譲位を言い出した件、無官になったこと、誠仁親王の皇子を猶子にしたこと、
>これらは朝廷側から見ると異質で自分たちの 管理下からはみでようとした行為ですよね
譲位するならば、即位礼・大嘗祭を挙行する必要があるが、戦国天皇家は式微で大嘗祭を省略
しても即位礼の費用をねん出すらできなかった(そのせいで、戦国期最後の譲位を受けた土御門
天皇の即位礼は22年遅れでなされたのが実情)。
同天皇譲位後100年間にわたり、譲位できないという異常事態が続いていた。
1573年に信長が譲位の申沙汰(費用負担)した際に、信長宛の天皇自筆消息において「朝家再興の時
いたり候」と喜びを表している。
しかも、その後朝廷は天正3年・4年に礼服風干を行って、即位礼にそなえている。
なぜ、天皇が譲位を喜んだのかは、中世天皇の「上がり」は「治天の君」すなわち上皇になることが
常態だったからである。
また、無官になったのは天皇からみれば気味が悪いが、無位ではない。
しかも、右大臣辞任の際に、天皇側近である広橋右中弁宛てと勾当内侍宛てに辞任理由をいくつか述べ
ている。それぞれの理由は異なるが、両名宛ての辞任理由で唯一共通するのが「信忠の顕官起用」。
堀氏はこれが信長の本音だといっている。
いささかスレチになるが、「信長は朝廷のくびきを超越した」って論者があるが、そうであるならば、
甲斐平定後に信長が「天下の御与奪」を与えた信忠も中将を辞任しなければならないことになる。
なぜなら、この時点をもって信忠は信長にかわって朝廷のくびきを超越する必要があるからである。
しかし、そのような事実は存在しない。



190:人間七七四年
08/06/27 11:19:32 ik12Xl7m
URLリンク(uproda11.2ch-library.com)

ξに。。、こξ<結局あたしは酒#(木イ主野)リ奈40歳あきる野・羽村・一の谷小&西中卒左官嫁255アナル
スレリンク(nanmin板)

191:人間七七四年
08/06/27 14:26:51 68RTaodo
信忠健在で、明智に付く武将が居るとは思えない(すぐに)
実力は確実に光秀の方が有る事は皆分かっていても、付く事が出来ないのが実状。いくら戦国時代でも主家を重んじる武将の方が多い。松永久秀がごとき武将は稀だよ。

192:人間七七四年
08/06/27 14:42:19 xPPxxPnm
まさか陪臣VS譜代+織田の構図になると思っていたのかな
北陸方面軍以外の武将ら家族は光秀から距離が近く捕らえ人質に出来る可能性も
違うか

193:人間七七四年
08/06/27 15:16:50 slnpkwQm
信忠の息子の三法師(秀信)だが
秀吉がつけた家臣が家老以下ぞろりと旧六角家臣なのは何故だろう?

194:人間七七四年
08/06/27 15:30:30 bboqjoNW
     ●-、
    r´ - ●
     ` =='\
      |    ヽ
      UUてノ

195:人間七七四年
08/06/27 16:44:58 ZYdHcgbo
冬広さま、レスどうも。
で、堀新のその説にどうしても疑問があるのでぜひ教えてほしいところです。

1573の時点では確かに天皇は喜んだでしょうが実際には退位してませんよね。
もちろん理由はいろいろ言われていますが一番重要なのは、退位しなかった、という
事実と思うのですよね。

1581に話がとびますが、馬そろえ、翌日天皇は信長に左大臣申し入れ、信長これを拒否、
ここで緊張状態がうかがえます。
数日後2回目の馬そろえ、これがあまり盛り上がらなかったのは187さんの指摘通りで、
まさに信長と天皇側の関係をよくあらわしていると思います。
数日後天皇は2回目の左大臣任官提示、これに対する信長の返事は「譲位をしたら左大臣をうける」
です。
これは、信長が天皇に譲位をせまった、という解釈をしたいのですが。
さらに、朝廷は公卿会議を開く、これは普段参加しない身分のものまで参加させた
異例の会議です、の結果、やはり譲位を拒否します。
天皇が譲位をいいだした、友好関係にあった、のならどうして拒否し続けるのでしょうか。

その理由も、方角から年が悪い、などという苦しいもの、これを信長は打ち破れなかった、
みたいな本がよくありますが、まったく逆で、翌年にはこの理由は使えない、本当に苦しい
天皇側の言い訳、相当困っていた、に思います。

ちなみに、翌年本能寺ですが、決して黒幕説とかにもって行こうとするのではないので
安心してくださいね。

そして、このあたりが重要ですが、馬そろえの前年、誠仁親王が二条城に移されます。
これはどう見ても、人質、というと言葉は厳しいですが、信長の手中におさまった、そのような
これも駆け引きのひとつだったでしょう。
もちろん、史料では「朝廷側は喜んだ」とかあるでしょうがそのまま受け取るのはその
意味内容性をよく理解していない表面的なものに思います。

つまり、信長は天皇に譲位をせまりその準備をちゃくちゃくと固めていった、猶子問題も
そうですよね。
そしてその延長上に馬そろえがある、そのように思います。
翌日天皇が左大臣任官を申し入れしたのも、馬そろえの礼、というのは表面上で
信長の意図に気づいていた、というように解釈したいのですよ。

黒幕説や簒奪説にまで話を広げる気はありませんが、信長ー朝廷の関係は
決して友好ではない、対立とまではいかないがある意味の緊張状態にあった、
こういう最新の定説、とお聞きしました、をこのように理解しております。



196:冬広
08/06/27 18:27:33 KrqzIiLY
>>195
>天皇が譲位をいいだした、友好関係にあった、のならどうして拒否し続けるのでしょうか。
「真説 本能寺の変」(集英社 2002.2)の堀新氏の稿の受け売りなんですけど、ここらへん
の流れは、
信長:馬揃え→
朝廷:お礼としての左大臣推任(勅使派遣)→
信長:譲位・親王即位を条件に受諾→
朝廷:金神を理由に延引 です。
もし、信長が馬揃えをしてまで譲位を求めるならば、再度何らかの信長サイドの申し出があって
も不思議ではありません。しかし、信長はここで交渉をやめています。
堀氏によると、これはすべて左大臣推任を断る方便だという理屈です。朝廷が二度も勅使を派遣
させるような交渉の継続をすると、(回答は左大臣任官拒否なのに)朝廷の顔の泥を塗るから、
朝廷に配慮したのです。金神だと朝廷のメンツが立ちます。
なぜ、左大臣を拒否したのかは、信忠の顕官起用の布石のためです。ここで信長自身が左大臣に任官
すれば、その先に太政大臣への累進がなし崩しでなされるおそれがあり,信忠への官位移譲の意味がなく
なるからです。続きは上記文献でご確認ください。
一言でいえば、拒否したのは信長で、左大臣になりたくなかったのです。

以下は私論ですが、三職推任問題で信長がこれを拒否したのも、信忠のためだと考えています。
>>189でちょっと触れましたが、天正6年に右大臣を辞任したのは信忠にしかるべき官職への任官
をさせるためで、それを望むのは家督を相続した信忠が織田家当主として相応しい官職をうるこ
とで、代替わりを志向していたのではないかと考えています。
1577年に、信忠が正三位・信雄が従四位に累進し、位階をみれば公卿・非公卿との差異はありま
すが、官職はいずれも中将で同一です。これでは82年に「天下をお与奪させた」信忠の官職として
はあまりにみすぼらしいものだと思います。
ところが、81年の左大臣推任でも信忠への累進の沙汰はなく、82年も状況は同じです。
もともと、自身の官職累進に興味のなく信忠の顕官起用を望む信長に、朝廷はひたすら信長への
顕官復帰を運動していたのです。
私見における公武の対立とは、信忠の顕官起用VS信長の顕官復帰 だと考えています。

じゃ、なんでズバッと「信忠を大臣にしろ」っていわなかったのか?
私見の最大の欠点です。

197:人間七七四年
08/06/27 19:27:03 zQYi6zNr
>>196
冬広さん、レスどうもです。
堀新への質問みたいになってしまいますけど、189の上段、なぜ天正9年だけだったか
というのもまさにこの年に緊迫したやりとりがあったからで、10年の馬そろえはそれこそ単なるお祭り
だったでしょう。
それを生母とか結びつけるのは少し方向がずれているように思います。

同じように189の下段での質問なんですが、信忠への顕官というのは単にそれこそ
建前でしかないように思います。信長は息子への官位を天皇に頭を下げて望んだ、みたいな本も
見かけますが、こういうのも本質を見誤っているように思います。

右大臣辞任はやはり、天皇の配下であることを暗黙に拒否したものであって、信忠への顕官は
「わしは官位なんてどうでもえぇがや」という己の立場、主張を明確にしたようなものでしょう。
冬広さんも言っておられますが、信長ぐらいになると官位はいつでも信忠にあたえることはできたでしょう。
大事なのは、朝廷から見て「信長を」臣としての立場におくことなわけです。
家督を譲ってあった、というのもあまり意味のあるものではなく、信長自身を警戒した、
そのように思うのですよね。
堀新がどうして、信忠への顕官、とか信忠にこだわるのか不思議なんですよね。
あくまで信長の問題であるというか。

その傍証ですが、誠仁親王のの皇子を猶子にした、これがあげられますよね。
譲位とはつまり誠仁親王を天皇にすることです、そしてその皇子が自分の猶子、ということは
誠仁天皇をすぐまた猶子に譲位させる、そうすれば信長自身が天皇の外祖父になれますよね。
もちろん猶子には自分の娘を嫁がせ、その子をにまた譲位させるわけです。
これ、藤原家の得意技、日本史では定番の作戦です。

信長がそうしようとした証拠云々ではなく、朝廷側がどう思ったかです、信長の猶子問題を。
さらに上記のごとく誠仁親王は二条城で信長と親しい関係にあります。
こういった点には堀新はあまり触れません。
あくまで「信長はそんなこと考えてないでしょう」の一言ですませてしまいますよね。
こういう点をぜひお聞きしたくてね。
信長の行動、というのを順にみていくとそういう状況は事実としてあるわけですが。

さらに言うと、晴良の嫡子に養女を嫁がせる、前久の嫡子の元服にも「信」の字を与えるなど、
信長は朝廷への工作を続けています。
信長と天皇との書簡を見ても天正のある時期から突然増え始めます。
このあたり、信長と朝廷の関係は複雑ですが、信長は一環して、東大寺切り取り、のような
武威をはっきりしています。

こういう信長を天皇側はどう思ったでしょうか。
しつこいですが「よくわからんでおじゃる」であって、友好的なのは一種の社交辞令、
そういうものにすぎない、そのように思えるのですよ。


198:人間七七四年
08/06/27 20:12:40 k15dXYE4
どんな議題であれ、朝廷論を進めるときに、まず前提として把握しておかなければならないことがあります。

それは、朝廷を構成する天皇と公家は一枚岩ではない、それぞれ対立している存在だということです。

公家同士はいうまでもない。官位や所領を巡ってずっと争い続けています。単に武家と違って軍事力がない
ので、表立っての争い(合戦)にならなかったというだけ。そして天皇と公家同士も当然、単なる主君と家来、
公家は天皇に絶対服従なんて関係ではありません。

信長と天皇の関係とか、本能寺朝廷(天皇?公家?)黒幕説などの時に、この事実が無視されて、何故か天皇と
公家は一体、朝廷は一つの勢力と看做して議論が進められますが、その時点その持論はもうあてにならないと
思います。

もう一つあげると、天皇個人と争うことと、天皇と制度というか身分というかそのものをどうにかしようと
することは当然ならが別のことです。
日本史上、武家であれ公家であれ天皇個人と争ったものは枚挙に暇はありませんが、彼らはあくまでも天皇
個人と対立したのであって、天皇制自体を消そうと考えたのは、仮説が正しければ義満だけです。
信長だって同じです。史料の読みようによっては、天皇と正親町天皇は争っていた関係とも言えます(私自身は、
両者は仲がよかったと考えていますが)。しかしそうだとしても、信長は正親町天皇個人の勢力と戦っていたので
あって、それで即天皇制自体を、朝廷そのものをどうにかしようと、朝廷に関わる全てを敵に回していたと
看做すのは暴論です。仮に信長が正親町天皇の譲位させ実権の喪失を狙っていたのだとしても、それで困るのは
正親町天皇とその近臣で、他の公家は別に困りはしません。新しい天皇て実力者(織田)のもとで、なるべく
高いポストを狙うだけです。

199:187
08/06/27 20:16:36 hQatjbHR
>>189
>天正10年は安土馬揃えしか行われていない。
>なぜ、天正9年だけだったのかに着目する必要がある。
>前年末の親王生母の死去と関連付けるほうが合理的だと思う。

確かに「親王生母の死去」は、朝廷と信長の双方にとって京で「馬揃え」を行うに
尤もな口実になったと思います。ただそれ以前の問題として、本願寺との和睦を巡って
親王と信長の間には「腹立ち事件」とも呼ぶべき意見の対立が起きており、その意味でも
信長には親王に釘を刺す必要があり京での「馬揃え」が行われたのだと考えられます。

ちなみに「金神」を持ち出したのは信長側からだとする見方もあり、天正元年のそれも
言い出した信長の都合で延期(立ち消え)となっており、譲位、即位も朝廷の希望のままには
為らないのだと云うことを示す必要が信長にはあったものと考えられます。

その意味では天正9年の「馬揃え」でその目的は達成されており、わざわざ翌年にそれを再演
する必要がなかったのでしょう。

200:人間七七四年
08/06/27 20:17:48 k15dXYE4
ところで>>197あなたの主張は中世の天皇の在り様からだいぶかけはなれた天皇像をもとに推論を建てていると思います。

特に天皇の意思と発せられたことや、天皇と信長との関係に対立ないと推測できるような史料を、全て「表向きそう演じて
いるだけ」と切り捨ててます。根拠なしに。

201:人間七七四年
08/06/27 20:22:34 slnpkwQm
>>197は典型的な「まず結論ありき」の議論だな。

202:人間七七四年
08/06/27 21:02:43 68RTaodo
198に激しく同意。
天皇個人や一部を語っても、文字通り一部でしかない。まぉ天皇や公家やら朝廷関係者が変に大きく関わっているとは思えないし、それだけの力もないと俺は思う。

203:人間七七四年
08/06/27 21:50:24 FD8FEjq+
1、同じ土岐源氏の快川和尚を恵林寺で焼き殺しされた、恨み
2、従兄妹どうしのお市に茶々を胎まし、濃から託された恨み
3、天皇暗殺指令が降りたことに対する恐怖と怒りからの恨み

204:人間七七四年
08/06/27 22:09:33 FKaAl9LZ
>>200
ご教授どうもです。
自分なりに198の論は理解しているつもりですが、なにせ短いスペースでは全てを
語れません。
まずは、馬そろえが単なるお祭り、ではないであろう、ということの説明から始めて
大まかに1582までの注意点をあげたわけです。

中世の天皇のありかたというと今谷の論がありますが、その後の進展がどうなったかは全て
把握しているわけではないので、機会と話題がそちらに行ったらぜひ教えていただきたい
ものです。

あくまで例えですが、ブッシュとプーチンが笑顔で握手しているから、と言って両国が
友好的であった、という判断は部分的でしかないですよね。
ウラで核兵器をつきつけあってるわけで。

同じように歴史を判断するのも、見えないところ、実のところ、そういった点に注意して
考えて行きたいと思っています。
そして教授だったら学生に「証拠は無い」の一言ですませてしまうところも
こちらは素人ですしせっかくこういう場があるのですから、いろいろと教えてもらえると
うれしいと思っています。



205:人間七七四年
08/06/27 22:13:12 hQatjbHR
>>203
3が付くだけにアホだね。

206:人間七七四年
08/06/27 22:16:57 hQatjbHR
>>203
さすが3が付くだけに阿呆だね。

207:人間七七四年
08/06/28 01:39:48 rj8LJrQu
206
君もたいした事ないから心配するな。
何がどうアホなのか、せめて説明しな。

208:人間七七四年
08/06/28 01:45:14 p5KnK61h
>>197
>右大臣辞任はやはり、天皇の配下であることを暗黙に拒否したものであって、信忠への顕官は
>「わしは官位なんてどうでもえぇがや」という己の立場、主張を明確にしたようなものでしょう。
何故そうなる?信忠に顕官を望むというのは、織田政権の後継者は朝廷の枠内に入るということだろう。

それから言っておくと、実力者が表向きは引退隠居という形で後継者に地位を譲った後も、無官の身で
実権を握って政権を支配・運営するという体制は実は日本においてはごくありふれたもの。

一番の例を挙げると、上皇・法皇による院政。天皇家ですら、本来なら無官(という言い方は本来はおか
しいのだが)の引退した元天皇が、現天皇を上回って統治を行った。中世では上皇の権威は天皇を上回り、
だからこそ戦国時代の天皇家は生前譲位が出来ない=上皇になれないことを大問題とした。
そしてこれは天皇家に限った話ではなく、鎌倉幕府では本来は公式の地位でもなんでもない得宗が実権を
握り、室町でも四代義持や八代義政は将軍位を譲った後も無官の身で統治を行った(この二人はやむを得ない
処置という面が強いが)。信長以後にしても、秀吉はなんら権能のない太閤という、地位でもない単なる
尊称で政治を行い、江戸幕府も大御所政治が見られている。

つまり、後継者には顕官を与えて現在と将来の箔を与え、自分は無官の身で統治するという信長の行動は、
体制は、実は天皇や公家にとってはよくよく見知った体制といえる。
>こういう信長を天皇側はどう思ったでしょうか。
>しつこいですが「よくわからんでおじゃる」であって
だから、これはあなたの全くの誤認識です。

209:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
08/06/28 01:50:24 ECuT5oKJ
秋田城介説。

210:人間七七四年
08/06/28 03:11:43 FxqdjfHH
家康と光秀の共謀説ってのはねぇの?

211:人間七七四年
08/06/28 06:40:39 Ij0EEPqt
信長が島津領に脱出し、そこで死亡したという珍説がある
そこでは家康黒幕説を取っている

212:人間七七四年
08/06/28 08:46:38 VL0MNBIr
>>210
ないことはないけど天海=光秀説というトンデモ説とセット。

213:冬広
08/06/28 09:53:22 nSpIMY6c
公武対立論者の不思議

1、京都馬揃えについて
安土馬揃えの記述
信長公記「御爆竹」
兼見卿記「爆竹・御馬汰」
京都馬揃えの記述
信長公記「御馬揃」
兼見卿記「御馬汰」
公武双方の史料で、京都馬揃=信長流左義長ー爆竹、と一致している。
にも拘らず、「そもそも公武は緊張関係にあった。ゆえに、馬揃えは祭りでは
なく威圧である」という。なんで?

2、作暦問題
「晴豊記」で信長が再度蒸し返した天正10年6月2日の記事において、「信長むり
なること」(=作暦問題は解決したのに、信長はん、そりゃ無茶や)ってはっきり
記述している。
公家でも「だめなものはダメ」というし、微妙な問題ならば、兼見卿記の天正10年
4月・5月の記事のように空白にして記述しないという方法もある。
にも拘わらず、「表向き賛成だが,公武は緊張関係にあったので、本心は反対である」
という。その論法を代入すれば、晴豊記の記述は「表向き反対だが、本心は賛成である」
って読むことになる。しかし、公武対立論者はこの記述だけは素直に読む。なんで?

公家の日記は1次史料であるのに、公武対立ありきで行間・裏の意味を忖度しだすと
、1次史料が浮かぶ瀬もあるまい。

214:人間七七四年
08/06/28 12:10:34 xPvrkPGh
>>208
言葉足らずで申し訳なかったけど、院政みたいなシステムが日本史でよくあることは承知です。
で、信忠の問題ですけど、繰り替えしになりますが、あくまで信長の立場の問題であり、信忠が朝廷の
枠内に入ることを信長が重視していた、又はそう望んでいた、と信長は考えていた、とは思えないのですよ。
これは、、無官の身で実権を握る、というごくありふれたシステムと矛盾するわけでもなく、まさに信長の
行動と一致しているように思うのですが。

それで、信長が右大臣を辞任したことは、枠外にでた、という意味と重要性のあることと思いますが、
これに関してはどうでしょうか。
さらに繰り返しでですが、父の信秀が内裏修理で多額の献金、これに関して天皇側からお礼をする、
三河守ももらったのでしたっけ、そして信秀もその感謝をしていますよね。
このあたりでは天皇から見ると織田という新興の地方大名は理解しやすかったでしょう、また勤皇という
ぐらいにも思ってたでしょう。
にもかかわらずその息子の信長が、官位辞任、これはやっぱりしつこくて悪いですけど
「よくわからんでおじゃる」という認識に近かったと思うのですよね。

そしてもうひとつ先に例を挙げてますが、1568の上洛のときに天皇に謁見する機会があったであろうに
謁見してません。父親の献金もあり望めば可能だったでしょう、これもやっぱり天皇側から見ると
「あれっ」と信長を認識する出来事のひとつのように思います。

まとめると、右大臣辞任はなんのため?そして信忠顕官というのはあくまで副次的なものであり、
信長の目標又は重要な意味を持つものではないのではないか。
そういったことです。

215:人間七七四年
08/06/28 12:19:30 7yHNqgyE
>>214
> 思えないのですよ。
> 思うのですが。
> 思いますが、
> 思ってたでしょう。
> 思うのですよね。
> 思います。

あなたが何を思おうと勝手だが、思う以上のきちんとした根拠を提示できなきゃ
誰もあなたの意見に賛同しないよ。

216:人間七七四年
08/06/28 12:26:45 xPvrkPGh
>>213
冬広さん、まとめて頂いてどうもです。

で、やっぱり繰り返しで申し訳ないですが、結論ありき、ではなくてずっと信長の行動を
追っていって、1581のあたりの微妙なやりとりまで来るとやっぱり、対立、とまでは言いませんが
それなりの駆け引きがあったように思うわけです。
1581の3月19日の異例な公卿会議、これはどうして行われたのでしょう。
左大臣を受けない言い訳で譲位を持ち出してうまく断ろうとした、天皇側に気を使った、というのも
逆に、友好説ありき、と言いますか少々おかしな解釈に思えるのですよね。

暦問題も同様で、無茶や、という問題をどうして信長が持ち出したか、東大寺切り取りから続く
信長のそういった行動は一環しており、これもやっぱり「よくわからんでおじゃる」に結びつくように
思います。

217:人間七七四年
08/06/28 12:37:10 xPvrkPGh
>>215
根拠と言いますか事実を出していますがどうでしょうか。

そして大事なことですが、賛同を願ってる、人の意見を間違ってると主張する、のではないのですよ。
繰り返しですが、いろんな研究がある中でわからないことがある、のでいろいろと質問しますが
ぜひ教えてほしい、そういうことです。

2チャン的な、妄想厨おつ、と言われてしまってはせっかくの機会が残念です。
せっかくこれだけ列挙したのですからね。
そして、感情的にならないこと、これを望みます。

数年前の本能寺のスレでは、当日京周辺の関所、物見はどうして機能しなかったか、やすやすと
大群が洛中に進入できたか、そういったことで盛り上がっておりました。
最近はそういう話題もあまり見かけませんが、そういった点まで触れられたら、と思います。

218:人間七七四年
08/06/28 12:55:21 p5KnK61h
>>214
>信忠が朝廷の枠内に入ることを信長が重視していた、又はそう望んでいた、と信長は考えていた、とは思えないのですよ
あれだけ信長が「自分よりも信忠に顕官を与えてくれ」といっているのに、なんでこのように思えるのか不思議です。
あなたはまず最初に信長と天皇が対立していたという結論から史料をみています。はっきりいえば、自分の好みの色眼鏡を
通してしか、史料をみていない。

>にもかかわらずその息子の信長が、官位辞任、これはやっぱりしつこくて悪いですけど「よくわからんでおじゃる」という
>認識に近かったと思うのですよね
では逆に質問します。同じく無官の身になった秀吉に対して、「よくわからんでおじゃる」という認識にならなかったのは何故ですか?
>208で示した通り、信長の行動はありふれたもので特別なものではありません。なのに何故、天皇や朝廷は、信長に対してだけ
「よくわからんでおじゃる」という認識になって、それまでの室町将軍やその実力者、その後の秀吉らには理解しているんですか?

あなたの主張には矛盾と誤認だらけです。そういった指摘に対して根拠もしめさず「自分はこう思う」という反論になっていない
口上を繰り返して、かつ「感情的にならないこと、これを望みます。」などと人格攻撃。

はっきり言いましょう。現在議論になっていないのは、全面的にあなたの責任です。
あなたがやっていることはリングに上がらずに外から無根拠に感想を垂れ流しているだけです。



219:人間七七四年
08/06/28 13:41:06 xPvrkPGh
>>218
秀吉や室町将軍に触れないのはここは信長に関するスレだからです。
決して、信長にだけ、ということを主張しているのではありません。どうぞご理解を。
「よくわからん〜」という表現がよくなかったのなら謝罪します。
ただ、わかりやすいかと思っただけで他意はありません。

「感情的にならないこと」これは自分に対する戒めでもあり、決して他人に対する人格攻撃
などという意図はありません。
ご理解いただけないでしょうか。

文が未熟でそのように思われたなら、指摘していただければ訂正いたします。
今までのいくつかのレスで、決してこちらにそのような意図がないことはご理解
頂けるかと思いますが、そんなに失礼で攻撃的な口上をしているつもりはありません。
重ね重ねご理解賜りたく存じます。




220:人間七七四年
08/06/28 13:48:52 p5KnK61h
>>219
>秀吉や室町将軍に触れないのはここは信長に関するスレだからです
つまりあなたは、秀吉も含めて無官の身で政権を運営した実力者たちは、全て朝廷のくびきから
脱しようとするものだと、朝廷との対立の宣言なのだと、天皇はそう解釈してしていたと言うの
ですね?天皇はそういった実力者全てと対立関係にあった、と。

221:人間七七四年
08/06/28 13:57:43 7yHNqgyE
もう完全に「議論のための議論」に陥ってるなあ。

222:人間七七四年
08/06/28 13:58:05 xPvrkPGh
>>220
いえ、そういった実力者たちに関しては個別に語るべき必要があると考えます。
信長と他の実力者を同列に考えているわけではありません。

また「対立」とまでは考えていません。あくまで信長の行動に対する、疑問というか
対応、そういったものには一種独特の「緊張があったのではないか」というのが
今のところの推論です。

これは、馬そろえが単なるお祭りであった、という点への疑問から出発しており
それを語るためにいろいろな事実を列挙、その時々で「これはどういう意味でしょう」
と質問しているわけです。

223:人間七七四年
08/06/28 14:38:25 mS3nxdOm
「両者に駆け引きがあったこと」と「できれば相手を滅ぼしたいほど両者は敵対していた」ということはイコールではない。

224:冬広
08/06/28 15:00:36 g1qaTTZw
>>222
>それで、信長が右大臣を辞任したことは、枠外にでた、という意味と重要性のあることと思いますが、
これに関してはどうでしょうか。
これは信長には官位の利用が不要だったからだと思う。
信長の政敵は足利義昭がいたが、信長は義昭追放後、「陣宣下」という大袈裟な儀式で右大臣・右大将
に任官している。そして、官位において義昭と肩をならべることができた(官位利用第一段階)。
これは、信長にとって「室町殿」の地位を自分がとってかわったことを天下に喧伝する重要な意義があった。
逆にいえば、信長自身にとってこれ以降の累進は不要だということです。
信長にとって、官位の利用はこの「陣宣下」こそが意味のあるものだったと思う。
だからこそ、右大臣の辞任を申し出、後継者信忠への顕官承継を望んだと考えています(官位利用第二段階)。
もし、枠外にでたのであれば、信忠の顕官起用を望むことと大きく矛盾します。
右大臣辞任は官位利用の第1フェイズから第2フェイズへの転換点だというのが、私の見解です。

>暦問題も同様で、無茶や、という問題をどうして信長が持ち出したか
天正10年6月1日が月食で、宣明歴がそれをあてられなかったからです(桐野PHP本参照)。
もし、あなたが買ったばかりの時計が狂っていたら、メーカーにクレームつけませんか?
それと同じだと思います。


225:冬広
08/06/28 15:21:18 g1qaTTZw
月食→日食
宣明歴→宣明歴

>左大臣を受けない言い訳で譲位を持ち出してうまく断ろうとした
おかしくないね。翌年はより高位の三職推任が議案になっているので、信長が譲位
を蒸し返すのはより容易。でも、蒸し返していない。
譲位には執着していなかったんじゃないかな。

226:人間七七四年
08/06/28 15:44:48 C+XZXOML
盛り上がってるとこ申し訳ないが、
朝廷と信長との対立(緊張)関係を唱えているのも、否定してるのも、
今のとこ、朝廷は本能寺の変と無関係、という主張でいいのかな?
ちょっと本能寺スレの主題から逸れすぎてる気がするから、
ちょっと議論を落ち着けた方がいいと思う。
特にID:p5KnK61hとか、一度ちょっと頭を冷やした方がいい人もいるし。

とりあえず、朝廷対立論と融和論、研究者間でも決着のついてない問題であり、
ここでそう簡単に結論が出るわけでもないから、一旦それは一つの意見としておき、
それが本能寺の変とどう結びつくと思うのか、に議論の方向を持っていっては?

227:人間七七四年
08/06/28 20:19:06 iFwKygnM
226
に同意だな〜。
本来、何を語るスレなのかもう一度、根本に戻ろうよ。

228:人間七七四年
08/06/28 21:11:39 K9Fh9QTz
226に同意です。

229:人間七七四年
08/06/28 21:21:08 K9Fh9QTz
228 あ、でも頭冷やしてほしいと思うのは別の人。教えを請う、
素直に反論を受け止める態度ではない。書き方ではない。


230:人間七七四年
08/06/28 22:02:23 7yHNqgyE
光秀の考えはともかく、逆にあれほどの隙を見せた信長の弛緩っぷりも武将としてほめられたものではないわな。
本能寺の原因の半分は、信長の油断って言って良いでしょ。

231:人間七七四年
08/06/28 22:27:15 rj8LJrQu
信長と光秀が反乱分子をあぶり出す為に変を装ったって超異説本もあるね。

232:人間七七四年
08/06/28 22:39:59 7yHNqgyE
>>231
信長「俺ちょっと無防備やってみるから不届き者出て来るか見ててくんない?」

光秀「うはwwwwwwまな板の鯉wwwwww」

こうか?w

233:人間七七四年
08/06/29 01:48:48 fiQtSg12
>226
どうもです。

それこそがまさに語りたいところです。

これだけ論述しあって、さて1582はどうであったか。
来週、名古屋でちょっとした講演会があります。
東京でもありますが、リアルでぜひ、お会いしたいですね。

その後でまた、ここで教えて頂きたいと思います。

冬広さま、224に関するレスは過去にもありますので繰り返しません。
よろしければ、じっくり語り合いたい、と思います。
225も感謝します。自分のレスではないのですもので。

こちらは不勉強の輩ですので、具体例に即して勉強したいと思っております。

これが、どう本能寺に関わってくるか、これこそまさ語り合いところです。

是非是非是可候・・あ、難しい・・





234:冬広
08/06/29 18:11:33 jfHIMxF1
>>233
>よろしければ、じっくり語り合いたい
私の意見は95%受け売り、5%妄想なんで、話し合える程の知識はもってませんよw
>>226の交通整理にしたがって謀反の要因に話を戻しましょう。
私は、前スレ937でノイローゼ説(桐野+二木)を立論した者です。
そして、その要因のひとつとして、援軍稼業による地位の低下を挙げましたが、
異論も多く理由として弱いのでないかと思ったりもします。
また、桐野説では公家の日記で利三が「今度謀反随一」とあるのを重視して、
彼の関与を重視していますが、「なぜ主君が家来のいいなりになって危ない橋を渡る
のか」という不自然さがぬぐえません。氏は1次史料を無視できず、利三の関与を
理由に押し込んだきらいがあります。
ゆえに、私は「光秀はあたまがおかしかった」という理由でこの難点を回避しようと
ノイローゼ説を採用しました。
ここらへんはいかがでしょうか?

235:人間七七四年
08/06/29 18:51:11 7ck2pPA8
>>234
基本的な疑問になるんだが、桐野さんは「今度謀反随一」について
「言経は、利三こそが本能寺の変を起こした張本人だと述べているのである」
と説明してるけど、ほんとにそこまでとれる文章なの?
単純に「今回の謀叛での働き(武功)第一の者」とかにはとれないの?
観修寺の日記には「武者なる物也」とあるから、それと似たようなものでは。
どうも、斎藤利三が変に深く絡んでるとの結論あっての前提の深読みに思えてしまう。

専門的な史料読解には完全素人なんで、馬鹿な疑問なのかもしれませんが。

236:人間七七四年
08/06/29 19:02:53 7ck2pPA8
もうひとつ。仮に桐野さんの理解が正解として、
謀叛に至るまでの謀議が、一公家にまで筒抜けだったのか?と言う疑問。
そこまで山科は明智の内情に精通してたのか?

また、明智家のことを多少知るものなら、
四国政策への不満が変の主要な原因だとすれば、斎藤が不満分子の急先鋒だとは推測できるものと仮定する。
しかし、四国政策への不満が変の主要な原因ということ自体を、山科は知っていたのか?
もしくは、当時の人が、変の要因としてそう認識してたのか?

どうも「今度謀反随一」の理解については、色々首をかしげてしまう点がある

237:人間七七四年
08/06/29 20:41:28 fnl6wfka
確かに、処刑される利三に対し言経や晴豊が日記にその様に記すのは、別段、深い意味
は無かった(真相を知っていたとは限らず)と思うね。
元々、利三は織田家中でも名の知れた武者であり、実際に現場で指揮をしていたのは
彼であるから、「共犯者」と見られたのも当然の流れだろうね。

後代の史料に見られる謀叛の原因としての「四国問題」及び利三の関与は、どちらかと
言えばそのことを踏まえての後付である感は否めないんじゃないかな。

最終的に決断を下したのは光秀であり、謀叛するなら今しかないと思ったから、発作的に
謀叛したんだろうね。

238:人間七七四年
08/06/29 22:12:25 z1MkQxa5
本能寺の原因としての「四国問題」自体は、八十年代以降に論じられるようになった。
当時や江戸時代にはそういった問題認識を抱いていたと思われるような記述は見られない。
現在ではほとんど否定されている、怨恨説の説明に使われるいろいろな記事にも、四国に
絡んだ話はない。似たようなものでは波多野に関わる逸話かな。これも創作だけど。

239:人間七七四年
08/06/30 04:44:55 0ZvY8HKL
>>238

いやいや、長宗我部関連の史料では古くから織田軍の四国渡海阻止の為とされており、
稲葉家との確執を含め、古くから本能寺の変が利三絡みで起きたとされる説は少なくないよ。

240:サイコメトリー
08/06/30 08:23:17 DE6kSndz

話の流れを変えてスミマセンが、変を起した要因は数有る中で、光秀の行動が
突発的だったのか計画的だったのかが曖昧な為に紆余曲折生んでいると思われます。

自分は基本的に突発的な行動だと思うのですが、変後の状況から光秀贔屓目と
言われてもしかたがない所があるのは本音です。計画的な行動と突発的な行動それ
ぞれのとらえ方で、各説の信憑性度がハッキリしてくる気がしますが、どうでしょう?



241:人間七七四年
08/06/30 09:33:56 8dybTsZE
>>240
> 五月十四日、信忠、上洛。
> 五月十五日、光秀、安土で家康の接待。
> 五月十七日、光秀、坂本に帰城。
> 五月二一日、家康、上洛。
> 五月二六日、光秀、亀山城入り。
> 五月二八日、光秀、西坊・紹巴らと連歌。
> 五月二九日、信長、上洛。
> 六月一日夜、光秀、中国地方へ出んとする軍を返す。
> 六月二日明け方、本能寺の変。

「いつか信長を討ったる」という心情の有無はともかく、信長を討つための具体的計画はこの時系列を見る限りほとんど無いと思う。
5月17日時点で6月頭に信長が上洛するという確報を持っていればあるいは可能性はあるかも。

242:人間七七四年
08/06/30 09:46:47 HexFq6c3
どんなに遡っても、光秀が決断したのは五月二十九日の上洛以降でしょう。
何故なら、今回の行動は単に上洛して朝廷と交渉するというだけでなく、その後には
信忠も含めた西国遠征が控えている。史実では軍を率いずに少数の共だけで先に入京
したわけだが、普通に軍を率いてくる可能性だって無いわけじゃあない。

光秀の計画は「信長の周囲に軍がない」ことが前提で、それが判明するのは上洛して
以降のことなのだから。

243:人間七七四年
08/06/30 09:48:46 5wzOCiAH
とにかく、信長を亡き者にしたかっと思う。
そういう意味では、突発的な行動だと思うけど、
安土城近辺の要所を的確に抑えた行動などには計画性も感じられる。

244:人間七七四年
08/06/30 10:15:03 0ZvY8HKL
最新号の歴読では、6/1の茶会を否定したうえで/2の開催の可能性を指摘しており、
そのことで警護が手薄(招待客を不安にしない為)がになった(なると考えられた)ことが
最終的に光秀の後押しになったとされているね。

そもそも、信長の上洛は5/27に急に告げられたもの(信忠にのみ?)であり、家康も具体的な
日次を知らなかったからこそ/29当日に堺へ下向した考えられる。

少人数での上洛と茶会の開催(予定)、その二つの情報を得たことで光秀は謀叛を決意したんだ
ろうね。

理由なんて後から何とでも言えるし、実際に悩みも抱えていたんだろう。
謀叛の要因は色々挙げられるが、色々ありすぎて一つに限定できないし、する必要もないだろうね。


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