最悪の邪道外道の軍事を徹底的に追求するスレッド at ARMY
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600:、
07/07/28 10:19:19
 ラッセルの性格の特長の一つは、激しい情熱と同時にひややかな冷静とが不思議に同居している
ことだといわれる。彼は友人と議論することをこの上なく好んだ。しかも、そうした議論の中にも、
さらにまた、さまざまな人々との会話の中にも、彼はいつもウィットとユーモアをさしはさむ。
ラッセルのユーモアやウィットは、たとえばバーナード・ショウのようなウィットとは違って、
話の中の問題を論理的に発展させることによるユーモアだと、ウッドは言っている。たとえば、
あるとき、彼が激しい調子でカントを批判したところ、彼の話をきいていた1人がラッセルにこう言った。
 「カントは母親に対して深い思いやりをもっていた。たといカントの哲学体系が忘れられるようなことが
あっても、この事は記憶されるでしょう」。するとラッセルは即座にこうやり返した。「カントほどの偉大な
哲学的才能よりも、その母親に対する思いやりのほうが稀な資質であるというようなシニカルな考え方を
私はうけ入れることができない」
 論理的なユーモアあるいは皮肉とは、このような言い方なのだ。ついでに言っておけば、
ラッセルの通俗的な著書の文章のもつおもしろさ、その卓抜さは、このような論理的な思考について
の明白な言いまわしのおもしろさであり、さらにまた、彼が文中に好んで引く「たとえ」の奇抜さ
おもしろさのためだ。その文章は驚くほど透明で簡潔である。しかも、そのたとえや論理の卓抜さのために、
読者を少しもあかせない。
 ホワイトヘッドとの共著である「プリンキピア・マテマティカ」全3巻は、第1巻が1910年、
第2巻が1912年、第3巻が
1913年に刊行された。しかもこのような学問的著述をしながら、彼は一方において政治にも関心を
持った。彼は1907年に自由貿易擁護のために議会に立候補した。選挙では敗れた。彼は政治家に
なることはできなかった。だが「ラッセルは政治家として成功するには余りにも非妥協的であった」
というトレヴェリアンのラッセル評に、ウッドも賛成している。
 1914年に第1次世界大戦が起こった。彼は戦争を憎んだ。こんな時代に生きているくらい
なら1914年以前に死んだほうがましだとも言った。彼は平和運動に身を投じた。次いで


601:、
07/07/28 10:22:47
なら1914年以前に死んだほうがましだとも言った。彼は平和運動に身を投じた。次いで
「徴兵反対同盟」の委員会の会員になった。そのころ、A.エヴェレットという良心的徴兵拒否者
が陸軍にとられ、命令不服従のかどで重労働2年の判決を受けた。ラッセルはこのことに抗議する
パンフレットを書いた。そのため「帝国軍隊の徴募および軍律を危うからしめる発言」をしたという
理由で裁判にかけられ、罰金100ポンドを言い渡された(1916年)。
 この年に『社会改造の原理』(Principles of Social Reconstruction, 1916)が」
出版された。米国版ではこの本は『何故人々は闘争するのか』(Why Men Fight)という題で
出版された。日本では改造社がこの翻訳を出した。おそらくラッセルの本が日本に紹介された
最初のものであった。(松下注:高橋五郎訳の『社会改造の原理』は、1919年11月に出版されている。)
私の中学時代のことであった。この本の出版はラッセルの生涯にひとつの転機をもたらしたと、
ウッドは書いている。つまりこの本によってラッセルは哲学者としてのみならず、一般の読者にも呼び
かけうる著者となったからだ。同時にこの本を出版したアンウィン(Allen & Unwin)という
出版社からその後彼のほとんど全著作が出版されることになったからだ。
 この本の出版その他によってラッセルははっきりと英国政府からにらまれる人物となった。
彼の唱える平和運動は祖国を裏切り祖国を売るものだと考えられた。ラッセルが週刊誌「
トリビューナル」(The Tribunal)に書いた論文のため、彼は裁判にかけられ、6ケ月の
禁固刑を言い渡され、1918年ブリクストン監獄に入れられた。(写真は、ロンドン郊外にある
Brixton Prison)彼はこの監獄の中で『数理哲学序説』(An Introduction to Mathematical
Philosophy, 1919)を書いた。出獄後、『精神の分析』(The Analysis of Mind, 1921)が
出版された。第1次大戦を通して、ラッセルは自由主義者から社会主義者に変わっていった。
だが彼の主張する社会主義はシンディカリズム(syndicalism)であって、国家社会主義ではなかった

602:、
07/07/28 10:25:53
。1920年、彼はロシアを訪問した。そして失望した。『ボルシェヴィズムの理論と実践』(The Practice and Theory
of Bolshevism, 1920)が出版された。この本の中で、プロレタリアートの「独裁」は、やはり一種の「独裁」であると批判した。
1920年、彼は新しい2度目の妻(ドラ)といっしょに中国を訪問し、しばらく中国に滞在した。
中国というよりは支那人をラッセルは大変好きになった。「ギリシャ人も支那人も生活をエンジョイする
ことを愛した。―けれども、両者の間には大きなちがいがある。ギリシア人たちは、芸術と科学と戦争に
その精力を傾けた。けれども支那人は怠惰であった」。

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|  テレビ○○です。
| ちょ、ちょっと待って!
| え?CM?、、、ここでいったんCM入ります
|  何?ニュースがある?
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603:574<<
07/07/28 10:28:03

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   l l. ll ./l  ,'       ., ゙゚イ ,'
   ヽl、l l/ l i、   ,... ' /.l /
   _.. >1^ヽ ', l \ . ゙´/ ,' / 273<<そう、そうよ、そこよ、
  ¨::/::::::l  ヽ、!、 |、 ¨´  //仙波恒雄と日精協の事なんだけど   、
  ::::ヽ、:::;>  「:::ーn‐1、¨ヽ/ その話を少し詳しく突っ込んで   
  :::::::/:::::', ー::::7ト┘\::l説明して追求するんだけどねっ、、!    
  :::::<::::::::::::ヽ'ヽ/ L:ゝ 、-\    


604:名無し三等兵
07/07/28 10:34:08
     ∧_∧        |
     ( ´_ゝ`)各学会に長いあいだ、居座り続けやがってクソヤロウ ||
   /⌒    ⌒ヽ   しかも、日精協の会長当時にオドレが経営する病院で犯罪の  |||
  / _イ    /⌒\   隠蔽が起きとったやんか、、 ||||
  (___つ/     \  捏造の証拠も流出しとる、、。 |||||
    / /   イ\   \  /\ オドレをカタにハメて警視庁もカタにハマルんじゃぁ、、。
    |     /|   \  \∧ │ ☆
    \_/  |     \<  >/
       │  |    ☆ \∨⌒ヽ    
       /  ノ     ヾ/ ´_ゝ`)ノ
      /  /        |    /<<仙波恒雄 
    (  (__        // | |
     ヽ_ノ       U  .U

605:、
07/07/28 11:14:21


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|  
| ちょ、ちょっと待って!
| 
| やっぱり、いったん、話を元に戻しますわ、別に、対した、理由はないけど
|  ラッセルの話をひとまず続けましょう、、、。
ヽ─v────────────  
     , ,-;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:ヽ
    /;:;:;:;:;:;:ミミ;:;:;:;:;:;:;:;:;:;`、                          / ^ノ^ノ:^)
    /;:;:;:;:彡―ー-、_;:;:;:;:;:;:;:;|                           / _ノ_ノ_ノ /)
    |;:;:;:ノ、     `、;;:;:;:;:;:i                        / ノ ノノ//
    |;:/_ヽ ,,,,,,,,,,  |;:;:;:;:;:;!                      ____/  ______ ノ
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    |` ノ(  ヽ  ソ  |ノ|/               _. -‐ '"´  l l-、    ゙ ノ
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 | :  | )ヾ三ニヽ   /ヽ ' "´/`゙ ーァ' "´  ‐'"´         ヽ、`ー /ノ
 ヽ  `、___,.-ー' |   /   /                __.. -'-'"
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606:、
07/07/28 11:24:30
スレリンク(uwasa板:46-86番)
ラッセルが中国を愛したのは中国人の示すこの寛容な怠惰のためであった(『怠惰礼讃』
(In Praise for Idleness and Other Essays, 1935)。この『怠惰礼讃』は、私が自分の
父親の書斎で見つけ、私がはじめて読んだラッセルの本であった。
 中国から帰ってからラッセルはほとんどペンと講演のみで生活することになる。彼はアメリカに
講演旅行をする。アメリカについての彼の感想は「電話がうるさい」ということであった。
アメリカ人たちが浅薄で皮相なのは、講演だけで何でも知ったつもりになることからきているのだとも言った。
 1926年、彼の『教育論』(On Education)が出版された。ラッセルは教育ということに
大きな関心を長い間一貫して寄せてきたが、この『教育論』は、主として幼年期のそれを取り扱った
ものであるが、その第2章「教育の目的」という1章は彼の人生観をきわめてきちんとまとめたものとして、
私はずいぶんと教えられた。彼は教育の理論に興味を持っただけではない。1927年には、新しい実験学校、
Beacon Hill School を妻といっしょにやりだした。(写真は、Beacon Hill School 食事の時間)それは子供の
自由を大幅に尊重する学校であった。そしてそれゆえに学校の生活は混乱し、結局、成功しなかった。
子供を完全に自由にさせておいたのでは教育はできない。だから、少なくとも、約束を守らせる、清潔にさせる、
他人の財産を尊重させる、安心感が得られるに足るだけの日課が必要だということ―彼は、後年、このように、
子供の自由を(ある程度)制限しなければ、教育はだめだと言っている。
 1929年、『結婚と道徳』(Marriage and Morals)が出版された。彼はこの本の中で
きわめて大胆に性の自由を主張した。一夫一婦婚を強制することは、人間を不幸にする
ことにほかならないとも書いた。さらにまた、男も女も、性の経験なしに結婚するのはよくない
とも書いた。1930年代、彼は何冊も通俗的な書物(popular books)を書いた。『幸福論』
(The Conquest of Happiness, 1930)もその一つであり、その他、『科学的なものの見方』
(Scientific Outlook)、『宗教と科学』(Religion and Science, 1935)などがそれだ。

607:、
07/07/28 11:28:58
1938年、「権力論」(Power; a new social analysis)が書かれた。社会の変化を生み出す強力な
力の一つは人間の持っている(権)力に対するあくことのない欲望だというのが主旨であった。
1936年、『平和への道』(Which Way to Peace)が書かれた。徹底的な平和主義が説かれ、
英国のさまざまな人々から非難された。「もしイギリスが平和主義政権下にあるときに、ヒトラーが
この国を攻撃したら、われわれは観光客でも来たつもりでその軍隊を親しみをもって歓迎すべきだ」
―こういうことばを当時の人々がどうしてうけいれることができようか。(松下注:
このあたりは誤解を与えやすい。第2次世界大戦の初期の頃は、ドイツとの戦争をラッセルは
支持しなかったが、ヒットラー及びナチスに対しては嫌悪をいだいており、1940年に英国が侵略の脅威を
受けてからは、ドイツの侵略をとめるための戦争=第二次世界大戦は、やむえないものとして
支持にまわっている。)とにかく、『平和への道』出版の3年後、 イギリスは第2次世界大戦に突入した。
戦争中、ラッセルはずうっとアメリカにいた。カリフォルニア大学の教授をした。次いで、
ニューヨーク市立大学に招かれたが、英国教会の監督(bishop)がラッセルをもって宗教と
道徳に反する宣伝家であるとして、横槍をいれて邪魔をした。アメリカでの彼の生活は
不幸なものであった。経済的にも恵まれなかった。ラッセルは英国のアンウィン社に援助を求めた。
そしてその結果、生まれたのが『西洋哲学史』(A History of Western Philosophy, 1945)の大著だ。
第一級の哲学者自身が哲学史を書いたということは、哲学史としてははじめてのことだ。
いま日本でも3冊本として、みすず書房から刊行されているが、ただの学説史あるいは思想史ではない。
そのときどきの政治と社会の状況とに関連させて描いたものであり、おそらくこれほど厚味のあるおもしろい
哲学史はないだろう。「この本をほめること自体が潜越になるほど、多くの長所をもった本だ、
だからその欠点だけを記そう」と、ウッドは巧妙な言い方でこの本を紹介している。


608:、
07/07/28 11:33:07
1944年にラッセルはやっと英本国に帰った。母校のトリニティ・コレッジに招かれてゲンブリッジに
帰って来たラッセルは、大変な歓迎を受けた。「かれの講義には一番大きい教室があてられたが、
それでも入り切らない学生たちが列をつくるほどであった」(ウッド)。いまやラッセルの思想家、
哲学者、平和主義者としての名声は世界じゅうに広がった。英本国の思想界ではウッドの表現によれば「大御所」であった。
 1950年、英国王の授与しうる最高の勲功賞を、つまり日本でいえば、文化勲賞をバッキンガム宮殿で与えられた。78歳になって
オーストリヤに招かれた。各大学ではラッセルを招いてセミナーが開かれた。オーストリヤから
帰り、また講演のためにアメリカに渡った。
 ノーベル賞が授与された(1950年)。(写真は、ノーベル賞受賞時の食事風景)
 1948年、『人間の知識一その範囲と限界』(Human Knowledge, its scope and limits)
という最も重要なしかしきわめて難解な本が出版された。「人間の知識はすべて不確実、
不正確、かつ部分的である」というのがこの本の結論であった。
 1954年、『倫理と政治における人間社会』(Human Society in Ethics and Politics)
が刊行された。この本は2部から成っている。第1部は「倫理」、第2部は「情熱の葛藤」。
そしてこの第2部すなわち政治に関する部分の第2章は、ノーベル賞授賞のとき、ストックホルムで
講演されたものだ。倫理学は他のすべての科学と違って、事実ではなく。人間の感情(feeling and emotions)を
取り扱う。つまり意志の問題ではないという。2人の人間の感情ならびに欲望がお互いに相いれえないときに争いが起こる。
だから、他人の感情や欲望と「共存」(compossible)できるようなものだったらよいと言わねばならぬ。
この第1部で展開された倫理論を政治や国家に適用したものが第2部だ。その最後の章は
「プロローグかそれともエピローグか?」という題名になっており、このように書かれている。
「ヒトラーとスターリンによって計画的に数百万の人々に加えられた苦しみを考えるとき、
そして更にこの2人が辱しめた種族が他ならぬ吾々自身であることを思うとき、

609:、
07/07/28 11:37:12
(「ガリヴァー旅行記」の)ヤフー達のほうが、そのあらゆる堕落にも拘らず、現代の大国家で
現に権力を振っているある種の人間たちよりもはるかに怖るべきものでないことが容易に感じられる。
ずっと昔、人間の空想力は地獄を描いた。けれども、彼らが空想したところのものに人々が現実性を
与えうるようにさせたものは、近代の技術である」。だが、それでも、私はなおかつ明るい人類の明日に
ついて、輝しいヴィジョンを持っている。「誰もが飢えず、病めるものはきわめて少く、
その仕事は楽しくしかも過度にわたらず、親切な感情が一般に行きわたっている」ような
未来を考える。そのような未来は絶対に不可能なものではない。そのような明日が来ることは
ないかも知れない。けれども1000年以内には来るだろう。
―こんなふうに、彼は人間の未来の知性に信頼をかけている。調子の高いきわめて説得力の強い本だ。
 1954年ラッセルは、水爆問題についてきわめて感動的な放送講演を行なった。「あなたがたが今、
あなたがたの人間性を想い起すことがないならば、全人類の死があるのみである」と。放送は大きな
反響を起こした。彼は共産・反共産の両陣営の科学者たちに呼びかけて水爆の恐ろしさを世界に警告する
声明を出した。日本の湯川秀樹博士もそれに署名した。ラッセルはすでに83歳になっていた。かつて
オーストラリア旅行中の記者会見を行なったあとで、シドニーの新聞はこう書いている。
「ラッセルは一方では我々にはげましを与えてくれた。それは全く彼の無尽蔵の活力と快活さのせいで
ある。この世界には原子爆弾もあるが、しかしまたラッセルのような不屈の人間精神もやはり存在するのだ」
 ウッドはこのような新聞の記事でその本を書き終えている。確かにラッセルはただの哲学者ではない。
彼の自叙伝の冒頭の文章を私はさきに紹介したが、彼は3つの情熱によってその長い生涯を貫き通して生きてきたし、
また生きている。彼にもう100年の寿命を贈ることはできないものか。



610:、
07/07/28 11:40:26
 2.その思想について(断片的に)
 ラッセルは数学から哲学へと進んだ。数学を論理と1つにした。たとえば、2+2=4という数学の式を、
カントは例の「先天的総合判断」という深遠な思想によって説明した。だが、ラッセルは、
ある論理的な命題が同時に真でも偽でもあるというようなことはありえない、2+2=4 
はそのような単純な論理上の原則と異なるものではないと説明する。
 ラッセルは論理と心理を峻別した。つまり人間の思考の法則と論理とは違うというのだ。
たとえば、「我思う(考う)、故に我あり」というデカルトの有名な提言は、ラッセルに言わせれば、
「思考が思考者を必要とすると考えることは、文法にあざむかれることである」。自分がなにか考えて
いるということは一つの心理である、この心理を楯にとって、だから「考えるものがある」というのは、
心理と論理とを無雑作につなぐことにほかならない、考える心理と考える実体の存在とは別々の事柄である、というのだ。
 さて、論理は一口で言えば言語(ことば)によってささえられている。ことばを正確に分析し正確に使うのでなければ、
論理は必ずあやまちをおかす。いま例にあげたデカルトの「我思う(考う)」うんぬんの公式もことばの
不正確な使い方からきたものだといえる。ラッセルはこのようにしてことばの吟味を教えてくれる。
 たとえば、「犬」ということばを例にとってみる。人が「犬」ということばを言う場合、
それは「ことばの上での発声」(Verbal utterance)である。ところでこのことばを聞く人にとっては、
それは「言語的な騒音」(Verbal noise)である。さらにこのことばによってそこに成立すると
ころの物理的対象をラッセルは「ことばによる形」(Verbal shape)と呼んでいる。
ところで、語られたことばとしての「犬」はいかなる実体でもない。それは現実に生きている
「犬」とは違ったものだ。それにもかかわらず、私たちが「犬」と言う場合、ことばとしての
犬と実体としての犬とが同時に言われてていることになる。私たちが「犬」ということばを言うとき、
その「犬」は一般的(universal)なことばである。ところで、実体としての犬は、

611:、
07/07/28 11:42:54
ある種の四足動物として、一般的ではあるが、そこに実体としている犬は、一般的なものでは
ない。簡単に言えば、犬一般と犬とを、犬ということばによって、いっしょくたにして考えるとき、
犬について、あるいは犬という理念によって、私たちはプラトン的な考え方を持つようになる。
。―ラッセルはこんなふうに分析してみせる。あるいはまた、「よりいっそう」(than)とか
「しかしながら」(however)といったことばは、一定の文脈の中でのみ意味を持つことのできるものだ。
つまり、それらのことばは、他のことばを予想し前提としているものだ。その意味で、「犬」といったような
「対象語」(object word)とは違ったものである。そしてこの対象語が、ただの発音されたことばである場合と
対象に即して言われる場合と、同じものであるところにさまざまな問題が出てくる。言語が、それによって事実を
述べることも、同時にそれによって虚偽を述べることもできるということは、言語の持つ複雑で興味深い面を示すものだ。
ラッセルはこの「対象語」について、難解な分析を展開してみせる。彼が文章(Sentence)にではなく、この対象語について、
分析と思索を進めていくのは、ことばの低い段階(たとえば未発達な人間の用いることば)においては、対象語がすなわち文章でも
あるからだ。「ドロボー」という対象語は、「そいつをつかまえろ」という命令文章を表わしている。
 彼の思想は分析哲学といわれている。私はここで「分析」ということばの説明をしておこう。
ものについて考える場合、私たちはそのものをどこまでも広い関連において考えることができる。
一本の万年筆の存在の意味を考えるにしても、たどりたどっていけば、しまいには、物、人間、自然、
宇宙といったふうに考えることができる。そしてそんなふうに、あらゆるものを、壮大に、無制限な拡張的思考で
考えていくとき、私たちは結局五里霧中の中をさまようことになる。眼というものを考えるとき、光を考え、
太陽を考えるとしたら、収拾がつかなくなる。だから、眼を考えるときは、眼をその内部構造や働きに一応限って
考察するよりほかはない。そしてそういう考察のしかたを彼は分析と呼ぶ。つまり、ものを考える場合、
そのものを遠心的にではなく、いわば集中的に考えることなのだ。


612:、
07/07/28 11:46:54
ラッセルのこのような種類の本を、少しずつ繰り返し繰り返し読みながら、私がいつも感ずることは、
私の頭の悪さと、ラッセルのたぐいなく鋭く、こまかな、そして正確な分析のしかたと
その分析を言語で言い表わすときのすばらしい表現力に対する驚きである。彼のポピュラー・エッセイズ
(通俗評論)は、前にも述べたように、その意表をついた比喩や理屈のためにとてもおもしろく読める。
けれども一度専門的な哲学のものになると、私の頭はもはや一度読んだくらいでは、とてもついていけない。
 その懐疑的な考え方について
 前にも述べたように、ラッセルの思想はこれを特定の思想としてきめつけることができない
ものだ。快楽主義的な考え方があり、論理主義的思想があり、かと思えば心理的な見方も
入っている。フロイトの無意識の理論を一時は人間解釈のための重要な方法と考えてもいた。
つまり、ラッセルの取り上げた問題の領域がおそろしく広く多方面にわたっているということ、
しかも、他方では彼が徹底的に独断論(dogumatism)を退けていること、同時に可能なかぎり合理的な
考え方をあらゆる問題について一貫して適用していること、そして最後には、絶対に確実な知識はたぶん
ないだろうと断定していること、このような事情を考えてくると、どうしてもラッセルの考え方を、
特別の意味で、「懐疑主義的」と呼んでいいだろう。たとえば、なにもかも疑わしい、この世にこれが


613:、
07/07/28 11:48:01
ほんとうだと絶対に信頼すべきものはひとつもない、だから、すべてはあいまいで、いい加減であり、
でたらめだ、といったふうな、いわば虚無的(ニヒリステック)な懐疑主義ではない。もし彼がそのような
懐疑主義者であるとすれば、どうしてもあのように強烈な信念をもって戦争反対を長い間唱え続け、
老体をひっさげて、そのためにすわりこみまでするであろうか。彼の懐疑主義は知識の探究者としてのそれであり、
強烈なファナティズム(狂信主義)やドグマティズムを退けるという意味での懐疑主義とでも呼ぶべきものだ。
そしてそのようにラッセルの考え方を理解しているゆえに、私は彼の考え方や思想にこの上なく引きつけられるのだ。
実際、私にしたって、一番好まない人間の態度は、二言目に、「絶対に」ということばを安易に口にする態度だ。
「懐疑主義に黙従することも、独断(ドグマ)に黙従することも、共に、教育の目指すべきものであってはならない」。
―科学的な気質(Scientific temper)こそ教育のつくり出すべきものだと、その『教育論』の中で彼は言っている。
つまり、科学的気質のもたらす建設的な意味のスケプティシズム(懐疑主義)、このようにラッセルの立場を言い替える
ことができるかと思う。「科学の結果で基礎のかたまったものならどんなものでも、わたくしは、確実な真理としてと
いうわけではなく、合理的行動をとる一つの基盤を与えてくれる蓋然性を持つものとしてこれを認めるにやぶさかでない」と
彼は『懐疑論集』(Sceptical Essays, 1928)のなかで言い、自分の唱える懐疑主義の結論を次のように3つにしぼっている。



614:、
07/07/28 11:51:24
 (1)専門家が同じ意見のとき、反対意見は確かとは思われない
 (2)専門家の意見が一致していない場合、専門家でない人はどんな意見も確かと見ることはできない。
 (3)一つの明確な意見を正しいとする十分な根拠が全くないということに、専門家全員の意見が一致した場合、
普通人としては、判断を控えるのが当を得たやりかたであろう。
 御覧のようにここでは専門家と普通人という2組の人間とその考え方が持ち出されている。そして、確かに、たとえば、
「電子」といった問題については、この3つの条件ではっきりする。けれども、人間とか人生とか宗教とか政治
とかいったことについて、はたして、そのように専門家と普通人というふうにはっきり分けて考えることが
できるであろうか。もちろん、できはしない。「人生の専門家」などという人間はどこにもいない。あえていえば、
こと人生に関するかぎり・すべての人が普通人であり、アマチュアだといえる。だとすれば、人生とか人間の幸福とかいった
問題については、さしあたっていま紹介した3つの条項のうち、第3のものをあてはめるよりほかはないだろう。つまり、
判断をさしひかえるという態度だ。 だが、人生とか人間とかいったなまなましい生きた問題について
冷静に判断を保留するということは、われわれにとって容易ではない。むしろ、こういう問題については、
私たちは常にあわてて断定をしたがる。そしてこのような断定を急ぐ態度をラッセルはきびしくいましめる。
「熱情とは、意見抱いている人に合理的な確信の欠けていることを示す尺度である」(『懐疑論集』邦訳 p.8)と彼は言う。
まことにそのとおりなのだ。彼の場合、懐疑主義とは、ある程度の蓋然性の上に立って、「―であろう」とか、


615:、
07/07/28 15:11:06
「―かもしれない」とか「―と思われる」とかいうふうに言うことである。「何もかもわからない」
と突き放すことではない。そういう「勇ましい懐疑主義」は、彼のとらないところだ。
 考えてみると、私たち日本人は一般に懐疑主義を好まない。私たちは断定と結論を好む。
なにかといえば、「二者択一」というやり方をとりたがる。だが、人生の問題において、
二者択一といったふうに明快なことがありえようか。この道は必ず不幸に、この途は絶対に幸福に通ずる、
といったふうに、だれが言えるだろうか。このように臆面もなく言ってのける態度は宗教を措いて他にはない。
しかも、新興宗教になればなるほど、好んで、「絶対に」ということばを使いたがる。
ラッセルな宗教を信じていない。ラッセルは哲学者である。 
 3.『幸福論』について
 この『幸福論』は、前にも書いたように、1930年に出版された。ラッセルの58歳の時だ。
それはけっして若い人の書いたものではない。60歳に近い思想家がまじめに書いたものだ。
それにしても、50歳を越した人間がまじめに「幸福」ということを論ずるのには、みずみずしい
精神が必要だ。私たち平凡な人間の過半は、50歳を過ぎればもはや幸福などということをまじめに論じたがらない。
それどころか、幸福ということばに対して、一種のてれくささをさえ感ずる。まちがったことだ。この本の題名は、
直訳すれば、『幸福の征服』(The Conquest of Happness)である。つまり、幸福は天から与えられたり、
ひょっこり偶然に手に入れたりするものではない、ということだ。それどころか、幸福は、征服者が土地なら
土地を征服してわが手中に入れるように、努力と闘いの果てに手に入れるべきものだ、ということを、題名がすでに、
物語っている。このことはまず忘れないでほしい。

616:、
07/07/28 15:17:53
ところで、幸福を努力と闘いを通して手に入れるためには、私たちはまず幸福がどういう
ものであるかをはっきり知っていなければならない。「青い鳥」の正体を知っていなければ
いけない。だが、そのように幸福の正体を具体的にとらえることは可能か。ラッセルははっきりと
できないという。幸福の正体はよくわからない。わかるのは、幸福のほうでなくて、不幸のほうだ。
不幸なら、確かによくわかる、金もなく、住む家もなく、着るものもなく、愛する人もいない
―こういう状態で、いったい、だれが幸福でありえようか。してみれば、できるだけ不幸を
避けること、人間を不幸におとしいれるようなものの見方や考え方をしないこと―それが幸福へ
至るための消極的な第一歩でなければならない。人間は不幸を一挙に転じて幸福になるものではない。
むしろ不幸の種を心の中からひとつずつ刈り取り、追い出していくこと、それが幸福を手に入れるための
必要な準備でなければならない。こういう心理的準備が整わないままに、かりに幸福といわれているものや
状態に接したところで、私たちはその場合、その幸福を、幸福として、ほんとうに、エンジョイする
ことができないだろう。不幸を生みだす心理的状況を内に貯えながら、物質的幸福の機会に恵まれたとしも、
私たちはそれによって幸福にはならず、かえって別の意味の不幸にすらなるかもしれない。
 だから、ラッセルのこの『幸福論』はその前半を

617:、
07/07/28 15:18:33
、「何が人間を不幸にさせるか」ということの
究明にふりあてる。疲労、倦怠、嫉妬心、被筈妄想―そうしたものがあるかぎり、
私たちはけっしてしあわせにはなれない。不幸だから、嫉妬心にかられ、被害妄想に
悩まされるのか。そうではない。嫉妬ぶかく、被害をいつも恐れるからこそ、私たちは不幸に
なるのだ。ラッセルはたぶんこのように教えようとするであろう。そして、そのとおりだと思う。
 ところで、人間を心理的に否応なしに不幸におとしいれるものがある程度除去されたとしたら、
そしてその上、私たちがこの世のさまざまなものに知的な好奇心を呼び起こされ、
「われを忘れる」ことができるとしたら、私たちはまちがいなく幸福な気持で日々を
送り迎えすることができるだろう。幸福とは、われを忘れることなのだ。自分はしあわせか
しあわせではないか、などと自分を感傷的に振り返っているかぎり、人はけっして
しあわせにはなれない。ラッセルのこの『幸福論』は、私に実にいろんなことをじっくり
教えてくれた。私はこの本によって、どれだけ「いかに生くべきか」という問題―つまり
人間にとって究極的な問題に対する確実な答えを学び取ったかしれやしない。私が新書版の
やすっぽい本で、偶然、この本のテキストを丸善かどこかで買い求めたのは、いつであったか、
いまは記憶にもない。ただおぼえているのは、この本を1ページから読み出したときのよろこびである。
文章はひとつひとつ私の頭の中へきっちりと飛び込んで行った。私はほとんど一気に読み終えた。
読み終えたら、訳してみたくなった。訳し出したら、グングンと日本語にしていくことによろこびを
おぼえた。たぶん、一か月そこそこで、大急ぎで、訳したと思う。読み違えもあるだろうし、
誤訳もあるだろう。もちろんのこと、私はもう一度全部新たに訳しなおすのがほんとうだ。
けれども、残念なことに、いまはもはやその根気も時間もない。「いいじゃないか、
一通り読んでもらえれば」というふうに、私はフテブテしい言いわけを自分に対してしている。
とにかくこれはいい本だ。私にとっていい本であった。

618:、
07/07/28 15:28:18
54 :永遠に粘着する怪物:2007/07/26(木) 16:12:03
バートランド・ラッセルは生涯を魚色家で通した。ある伝記作者はこう述べている。
彼の私生活は、女性との密会、厄介なごたごた、情緒的な綱渡りの連続だった。
それは、社会的に派手に露見することは無かったにせよ、常に、破壊的なスキャンダル
をはらみつつ、終始した。
ラッセルの父親アンバレー卿はそれほどの幸運児ではなかった。二十歳のとき、家庭教師から
人口過剰問題の本を読むよう勧められた。4年後、アンバレー卿はロンドン弁償学会のある会議で
議長をつとめ、宗教界を人口過剰の防止に反対しているとして痛烈に批判した。
「女性に発言の機会を与えるならば、子沢山には、必ずや反対するであろう」。
それから10日後に出た「英国医学ジャーナル」誌は産児制限を否定し、アンバレー卿を
「怒りと嫌悪」を持って否認した。
彼の言動を取り上げた同誌他の媒体は、アンバレーが人口流産あるいは「間引き」を唱道
していると考えたらしい。(ヴィクトリア朝とは、彼の唱道するような内容をおおぴらには
口に出来ない繊細な時代だった。)。彼は「不潔な口の汚い奴」とレッテルを貼られた。
自由党から国会に立候補すると、「不潔なスキャンダル男」のプラカードが彼を取り巻いた。
当然の事ながら落選した。  <<

その後、優生学が重視され不妊の強制が行われる自体が起きたりしたが、、、


<<

 この件、色々な意味で意味深長ですよねぇ、、、。この事実、結構怖いと言うか、、





619:、
07/07/28 15:30:27


55 :永遠に粘着する怪物:2007/07/26(木) 16:31:52
その息子、バートランド・ラッセルは1972年に生まれた。自伝では、彼は、兄に科学を教えるため
父が雇った、スポールディングと言う家庭教師のことを書いている。スポールディングは肺結核がかなり
進んだ状態にあった。そこで、アンバレー卿夫妻はこう決めた。同人に、子供が無いのは、仕方が無い。
しかし、同人が独身を通すのはよろしくない。」婦人は、フラストレーションを静めるのに、私の体を
使っても良いと家庭教師に申し出た。「しかし、とラッセルは付け加えている。「母が、その行為で
喜びを得たと言う証拠を私は、しらない。実に率直な行為と言わなければならない。
男と相思相愛になれば話は別だが、一人の立派な婦人が、しかも、貴族出身の女性が
娼婦のように、自分の体を男に使うことを許すなど、あり得ないことだった。これが
始まったのは、ラッセルが生まれた直後のこと。しかし、二年後、婦人はジフテリアで死亡した。
夫のアンバレー卿もまもなく気管支炎で他界した。
ラッセルは厳しさで知られる長老派教会信者の祖母に育てられ、自分の罪の深さに大いに
悩んだ。十五歳のとき「勃起状態が気になり」自慰を覚えた。二十歳のとき、アリス・ピアソル・スミスと言う
アメリカのクエーカー教徒女性と恋仲になった。同時にアリスの妹で夫と離別したばかりのメアリー
とも知り合った。彼は、後に親しい友人にメアリーとも情事があったことを語っている

<<確かに婦人は、ボランティアで体を貸したのは間違えないと思われるが、、、しかし、、?

      <<婦人は、間違えなく、この場合、大間違いをやったと判定されます。

    ぶっちゃけ、病気のカテゴリーに入る種類の話かと、、。


620:、
07/07/28 15:32:17
56 :永遠に粘着する怪物:2007/07/26(木) 16:56:20

ラッセルは自伝で、1911年まではいかなる女性とも「完全な関係」はなかったと述べているが、
メアリーとのことはこの記述に矛盾するかに見える解決の鍵は、「完全に」と言う事場に
求められそうだ。子供のとき、ラッセルは、馬車から落ちてペニスに傷を受けた。
これが原因で、周期的な勃起不能状態に陥ったらしい。後に最初の妻に子種を
与えることに「全く失敗した」と書いている。恐らく、彼とメアリーは大いに努力した。しかし、
なんらかの結果を得るにはいたらなかった。ラッセルは5歳年上のアリスと結婚した。
彼女は、「セックスは獣じみたこと」で「女は、それを居やがっている」といって
はばからなかったが、二人は、一応幸福そうに見えた。彼が「単なるコミック」とみなした
最初のセックスの問題が終わると、二人は、互いの調整という問題を一応克服したかに見えた
それでもラッセルはこう書いている。「結婚から3週間が過ぎたある日、セックスでいささか
疲れてた時、私は、妻を憎んだ。なぜこの女と結婚したいと願ったのかわからない状態
に陥った。」。これは、ラッセルの精神生活の奇怪なパラドックスに光明を投げかける
意味深いコメントと思われる。彼は、知的には、輝かしい存在だった。抽象的思考に天与の
才を備えている。しかし、情緒的問題になると、想像力の完全な欠如を露呈する不手際
ばかりが目立った。彼の著述、特に道徳や社会問題に関する著述が、多くの場合いかにも
天真爛漫にみえるのはこの理由による。    <<

ラッセルは支配力弱の典型であることが解る、このことと、人生の目的感が自覚と結びついて
主体的であったならば、しっかりとしたものとなったろうに、、、。

  <<間違えなく出生の環境が健全たりうる環境の条件を満たしてなかったのは明らか。




621:、
07/07/28 15:33:29
57 :永遠に粘着する怪物:2007/07/26(木) 17:36:52
ラッセルは自分でも、この情緒的欠陥に気付いていた。アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドと共に
あの記念碑的な著作「「数学原理」」の取り掛かったころ、彼は、ホワイトヘッドの妻、イヴィリン
と恋に陥った。心臓に障害があり、激しい痛みがしばしば起きる女性である。ある非、
ラッセルが部屋に入ると、彼女には、たまたまこの発作が起きていた。「彼女は、苦悶の壁により
あらゆる人や事物から隔てられていたように見えた。人間の精神は、それぞれ孤独、、、。
この思いが突如私を圧倒した。結婚以来、私の情緒的な生活は平安だが上っ面のものだった。
私は、深深とした問題を全て忘れ、うわべだけの利口さで満足していた。その地面が突然崩れたような
感じに打たれた、、、、」。彼は、一種の宗教的な悟りを得る。無抵抗平和主義者、社会的に言うなら
彼は理想主義者に転向した。
ある日、サイクリングに出かけた際、ラッセルは突如こう思いあたった。「アリスをもう愛していない
あの女は、なぜ、こうも私を苛立たせるのだ。」例の無意識の残酷さですぐにでも彼女に
話した方がいいと決心した。当然のことだが、哀れな妻は、衝撃に打ちのめされる。
それでも、その後数年間は必死に夫にすがり、時々自分のベッドにくるよう懇願した。
(彼は、これに従ったが楽しめなかった。)。それから、しばらく後、彼は、また恋に
落ちた。友人で自由党から国会へ立候補したフィリップ・モレルの選挙応援をしていた1911年3月、ラッセルは
ロンドンのモレル家夜泊まった事がある。たまたま、モレルに外泊する用事が出来た。
彼は、オットライン・モレル夫人にもてはなされた。赤毛で面長の女性である。しかし、女主人も
家の雰囲気もきわめて女性的。彼は、クエーカー教徒流儀の単調さやフランネルの

622:、
07/07/28 15:34:54
58 :永遠に粘着する怪物:2007/07/26(木) 17:40:35
夜着にあきあきしていた。「私は、おずおずと言い寄った。驚いたことに拒絶はされなかった。
自分がこの人とを深く愛していること、この人にその感情を返してくれたことに、
私は、脳天がしびれる思いだった、、、、。<<
  、、、、人食いの始まりになっている訳ですが、、、、、
 一見、ありふれたものと受け取られるせいしつのものと思われがちであるとしても
 この場合、これは、無限の蟻地獄の始まりな訳でして、、、
  本当の事は、分別がつくまで続くか、進みきって最悪の事態に
 慣れきってしまうかのどちらかであり、性の怖さの内省が欠如していたことに由来
 する訳ですが、確実に生まれた環境に由来するものかと、、、既に、出生の時点で
 そのような力が働いている事実は、かなり恐ろしい実在が潜行しているものと判断されます。
 
 一般に、性に関しての重大な継承はおとぎに描写されるものですが、、、、。


623:、
07/07/28 15:35:58
59 :永遠に粘着する怪物:2007/07/26(木) 17:56:41
偶然の事情があったので、その夜は、彼女と完全な関係を結ぶにいたらなかったが、
できるだけ早い機会に愛人同士になる約束をした」。(偶然の事情とはメンスのこと
と思われる。)。その機会は、スタットランドの彼女の別荘をラッセルが訪問したときに訪れた。
この前から歯科医は彼に癌の疑いについて警告していたが、このことが幸福感を
さらに高めたとラッセルは述べている。専門医も癌の疑いを確認したが、彼とオットラインは
その後、5年間愛人関係を続けた。一方の妻アリスが怒り、そのもう一方の夫フリップが
不快な顔で唾棄したのは言うまでも無い。

<<
このことが幸福感をさらに高めたとラッセルは述べている<<ラッセルは悪魔ばりの闇系
これが、ノーベル賞受賞者となったわけだが、ロボトミーの人体実験が受賞するのと同じで
これは、ノーベル関係の法人には注意しないと命がいくつあっても足りないことを意味しているし
危険視しなければならないことを警告しているし、ノーベル関係の法人が世界で有害な
働きをしている部分があることを根拠付けている。ノーベル関係の法人は闇系でもある訳だが、、。


624:、
07/07/28 15:36:56
60 :永遠に粘着する怪物:2007/07/26(木) 18:28:39
いったん姦通へ船出をすると、ラッセルは後ろへ振り向くことは無かった。1913年、
休暇をイタリアで過ごしたときあるパーティーでぽつんと一人座っているドイツ人の
若い女性を目にした。ラッセルは婦人の一人にこの女を会話の輪に誘わせた。「私は、
彼女と親しくなり、郊外ピクニックに出かけた。彼女と愛を交わしたかったが、まず、
オットラインとのことを話す必要を感じた。この話をするまで彼女は従順だったが、そのあと
は、がらりと変わった。しかし、結局は反対を続けても無駄と考えたようだった。」
翌年、ラッセルはアメリカを訪れ、シカゴでヘレン・ブラッドレーと言う外科医の
娘と知り合った。しばらく後、オットラインへこう告げた。「二人は、一日をピクニック
で森で過ごした。私は、彼女をとても気に入っている自分に気付いた。結局、その夜を
共にし、彼女は出来るだけ早い機会に英国へ来ることになった。」ヘレン・ブラッドレーは
「ヘネムーンの期待と準備に胸を膨らませ」英国へやってくる。しかし、そのころ
ラッセルはもう、彼女には飽きていた。ヘレンは、身を寄せた先のオットラインにみじめな思いを
とめどなくもらした。ラッセルとヘレンがガーシントンーモレル家の新しい別荘ーへ旅行したとき、
ヘレンは真夜中柱にラッセルのベッドルームのドアをノックしたが、彼は、ドアを空けなかった。
ロンドンへ戻りラッセルが新しいフラットでオットラインと寝ていると、ヘレンがドアを
ノックした。しかし、再び応答は無かった。一方、この間にも、オットラインは、アイリーン・カバーウィリス
と言う美しい女性をラッセルに引き合わせた。彼女は政治的パンフレットの作成でラッセルに協力した。
ラッセルはこの女性とも肉体関係を結ぶが、彼女が人の噂になることを恐れ外出することを拒むと、
この関係を後悔した。「私は、ナイアガラの滝を下ることも辞さない人間がすきなんだ」と述べた。
水の中でもがく女を平然と見逃す自分の性向を棚に上げた手前勝手なごたくと評する他は無い。

625:、
07/07/28 16:15:06
61 :永遠に粘着する怪物:2007/07/26(木) 18:31:31
ラッセルは自分でも、この情緒的欠陥に気付いていた。アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドと共に
あの記念碑的な著作「「数学原理」」の取り掛かったころ、彼は、ホワイトヘッドの妻、イヴィリン
と恋に陥った。心臓に障害があり、激しい痛みがしばしば起きる女性である。ある非、
ラッセルが部屋に入ると、彼女には、たまたまこの発作が起きていた。「彼女は、苦悶の壁により
あらゆる人や事物から隔てられていたように見えた。人間の精神は、それぞれ孤独、、、。
この思いが突如私を圧倒した。結婚以来、私の情緒的な生活は平安だが上っ面のものだった。
私は、深深とした問題を全て忘れ、うわべだけの利口さで満足していた。その地面が突然崩れたような
感じに打たれた、、、、」。彼は、一種の宗教的な悟りを得る。無抵抗平和主義者、社会的に言うなら
彼は理想主義者に転向した。

                             <<
     60<<

薄情と自己陶酔の探求の意思表示と解釈されることになる。



62 :永遠に粘着する怪物:2007/07/26(木) 18:33:19


  、、、、まず、第一にたちの悪い化けキツネとは、一つは、そういうこと、、、

626:、
07/07/28 16:20:52


63 :永遠に粘着する怪物:2007/07/26(木) 19:04:52
第一次世界大戦中、ラッセルは反戦思想でケンブリッジ大学トリニティー校の教職を
籠免された。1961年、その反戦思想がきっかけでコンスタンス・モールソンという二十歳の美人女優と
知り合う。俳優マイルズ・モールソンの妻である。ラッセルが戦争反対の演説で盛大な拍手を浴びたとき、
聴衆の一人にコンスタンスがいた。二人はその夜食事を共にし、そのまま彼女のマンションへ戻った。
夫モールソンは留守だった。二人は愛を誓った。1915年、ラッセルはT・Sエリオット
とロンドンでばったり出会う。彼は、後のこの大詩人の卵にアメリカで既に会っている(エリオットの
「アポリナックス氏」という作品のモデルはラッセル。)エリオットは、美人だが情緒的に不安定なヴィヴィアン・
ヘイウッドと言う若い女性との結婚を控えていた。しかし、住むところが無い。
ラッセルは、ペリー街の自分のフラットに一緒に住んではどうかと提案した。エリオットは、
自分が外出したときにフラットにラッセルとヴィヴィアンが二人だけになっても、別に気にしなかった
らしい。一方、妻、ヴィヴィアンも多くの点でエリオットよりラッセルの方を好んだらしい。−エリオットは
精力過少の傾向があった。(某医師は、あんなに血が薄い男ははじめてと述べている)。
エリオット夫妻が新しいフラットへ引っ越した後も、ラッセルはヴィヴィアンをディナーやランチへしばしば誘い出した。
彼は、エリオット夫妻との関係はあくまでも「父の現役役」に徹しようと心に決めていた。
しかし1918年、ついに屈してヴィヴィアンとの男女の関係に陥る。彼は、このことを愛人の
コンスタンス・モールソンに「地獄だった。二度とごめんだが、はっきり言うわけにはいかない」
と述懐している。彼は、次の最初の機会にヴィヴィアンを退けたヴィヴィアンはやがて精神に異常をきたした。
<<
エリオットもクズだが、まさに、化けキツネの人食いの精神構造と魔力とはそういうこと。
ラッセルはノーベル賞受賞者だが、かなり、性質的にアイレスタ・クローリーに似ている。
Wikipedia項目リンク

627:、
07/07/28 16:21:23


64 :永遠に粘着する怪物:2007/07/26(木) 19:40:51
1919年、ラッセルは夏の休暇をドーセット州ラルワースで過ごした。多くの訪問客の仲に、ドーラ・ブラック
と言う感じのいい若い女性がいた。ガートン校の講師で、「セックスの自由を大胆に提唱する」婦人運動家
でも知られている。彼女はラッセルのことを「魅惑的にまで醜い」いかれた男と感じた。
次に会った機会に、彼女の結婚嫌いが話題になった。「子供はどうする?」と彼が問うと、
「全て母親の責任」と答えた。それから二週間後ドアのベルが鳴った。そこにラッセルがいて
「月曜日の十二時半の列車にのってラルワースに来てほしい」と言った。「と言う事は、私を、、」
とドーラが口篭もると、ラッセルはうなずいた。「でも、先生には別に女の方がいらっしゃるわ?」
ラッセルはもう手が切れていると保証した。(現実には女優コンスタンスと最終的に手が切れるのは
それから二年後)。しかし、その週末の途中でコンスタンスから「そちらへ行く」との電報が届いた。
ラッセルはあわててドーラをロンドンに帰した、、、。
こんな芳しくないスタートではあったが、北京大学からポストを提供されるとラッセルはこのドーラ・ブラックを
伴って赴任した。1921年に英国へ戻った時、彼女は妊娠していた。二人は結婚に同意したが、個人の
理由を保証する点でも考えの一致を確認した。     <<

ドーラはまともな感覚を持った人であると思われる。その正確な感覚を手段を選ばずに狂わせるか
利己的に利用するのが化けキツネの本性である。きわめてフロイト的ないみで本能的で利己的で
マキャベリ的である。まともな人が持っている道徳の本能に付けこんで利用することを
すると言う事実がそこにあるわけだが、マルキド・サドはそのような展開を好む小説家だが、
ラッセルのばあいは、フィクションではなく現実である。また、それについて何者かが知悉していて
社会的にラッセルを気付かれないように慎重に人知れず、誘導してるようにも受け取れるが、、。

628:、
07/07/28 16:22:22
65 :永遠に粘着する怪物:2007/07/26(木) 19:46:09

  このラッセルの件に関して確定した真実は、

  まさしく、ロボトミーや電パチや大量薬物投与で財産を築いたものがいるのにたいし、

  さらに、善人を利用して利益を引き出した極悪人にとどまらず、平和運動家としての

  顔すら両立させた、化けキツネのなせる業である、、、。ガクブル、、、。




66 :無動機単独テロ:2007/07/26(木) 19:57:41

勿論、こういう奴は、奇形児を人とみなすことが本音では出来ないという

人権の欠如した者に付きまとう不可能が潜んでいるのは、自明である。

まさしく、ラッセルは、初めから、その意味での淘汰が決定されている種類の人です、、気の毒ですが、、。

ラッセルの一生そのものは、単に虚構の境遇がら、たまたま、すんなりとラッセルの虚構が

通っただけに過ぎないわけです。この人は、ついに嘘の人生に気付くことが無かった、、?

、、、っていうと、、、、うその一生そのものは存在すると言うことですから人生は怖いものです。

世界と言うものは、そこそこおっかないものであることがこの意味で、ここからも明らかになる。

究極的には、ラッセルタイプの化けキツネは障害者の一人である事が証明されるわけですが、、。、

629:、
07/07/28 16:23:55

67 :↑このレスカタギは読み飛ばせ↓:2007/07/26(木) 20:09:49

  ただし、もし、ラッセルが進化は存在せず、あり得ないと信じるにんげんであったなら、

  奇形児を人とみなさなかったとしても、上のレスの意味はわずかにずれることに

  なります、、、なぜかと言うと、進化が存在すると言うこと自体は究極的な意味では

  証明できると言うことはあり得ないはずだからからです。

 しかし、なんにせよ、必ず、意思決定に伴う影響はいつか返って来るものですから、、。

68 :65<<:2007/07/26(木) 20:30:47
 、、現在でも居る、、、スキャンダルで生計を立てるS・Mやら、ハリウッド関係やら、、ご注意を。
  、、、、娘さんは、それに対し、どう対処するかだが、、、、。
、、、、何事も、事実に基づくべきである、、、。、、でも、ラッセルは比じゃない、、、。
      ,. -‐ヾ-、
   r '´  _,. 、 -:7´`ヽ
  / ,_ ,.r '"     ヾ  ヽ、
 i, r' /        ::i    ヾ;
  ;' 'l       、::::::! ヽ ヽゝ
 .!;: l,;iiiiii:,,  .::i仙_i;;::::ili:: ミ::;ミ
  '!,,.!'┴'j ::::.'_`ニフ .:::::::`::::l
    !  ´:' :::::、  ..:::::::::;i::/
    .l / --‐ 'ヽ、  :::::i-'
    l. :,、 __ ,. -!.::::::::::l
     ヽ  -‐  ' .::::::::;:r'ス
       i 、_ _;:r '´,r'  ヽ
  ,r  ´/,.7ー '´   /    ヽ

630:、
07/07/28 16:25:09

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/26(木) 20:32:32
  とりわけ、どこの何者かがどんな奴であるかわからないと言う、世の中の

  つくりの怖さが御分かりいただけることかと、、、、、。

70 :永遠に粘着する怪物:2007/07/26(木) 20:36:32
 

  それに、間違えなく人体実験にしても、テンプル騎士団にしても、

闇系の巨大な高度に確立された各方面に浸透した組織体性が存在すると言うことでしょうねぇ、、。

71 :永遠に粘着する怪物:2007/07/26(木) 20:37:38
  それか、たまたま、暗黙の了解として本能的に繋がっているだけなのか、、?

631:、
07/07/28 16:25:48


72 :永遠に粘着する怪物:2007/07/26(木) 21:06:43
1926年、ラッセル夫妻は、実験的な学校を設立するが、そのスタッフを自分個人のハーレムと見なし
その自由を徹底的にエンジョイした。スタッフ一同にはこう説明した。「男にとっては女と練る
まではその女を理解することは不可能」。同世代のジョード教授(常習的無賃乗車がばれたせこい教授)
と全く同じ台紙である。ラッセルの伝記作者ロナルド・クラークは「彼は、自分の考えを躊躇無く実行に移した」
と書いてている。また、ラッセルが「異常に強い性欲を押さえる術が無かったこと」について
次のようなエピソードをあげている。彼はある女性にかなり続きした。スタッフには平然とこう
説明した。ロンドンのフラットへ戻る週末はたいていこの女性を連れ出した。スタッフには平然と校説明した。
「二人ともロンドンへ返る、と言う事は、いっしょにここを出れば運転手も大いに助かる。違うかね?」。
ラッセルはルックスのよい女性にすぐ目移りするけいこうがあったので、スタッフはおおむねこれで
なっとくした。ある女性教師は、着任した二日目にラッセルに言い寄られた。(彼女はこれを
退けたが、ラッセルがこの女性に悪意を抱いた形跡は一切ない。)。妻、ドーラ・ラッセルが1935年に
ようやく結婚にこぎつけたとき、判事はこうコメントした。「ラッセルは数々の不貞行為を否定しているが
、、、、、、罪がいっそう強いとされている状況下でも、それは行われた。」つまり、ラッセルは、
ロンドンの「不倫の週末」だけに活動を限定せず、妻が居る家の中でもこれを行ったことを意味する。
ドーラ・ラッセルによると、彼女が週末を若い男とすごしていると、料理人から「すぐに家に戻ってください」
と言うメモが届いた。問題は女家庭教師。この女が「主人」と寝ているところを彼女は見たことがある。
そこで自分が不在中は子供に近寄らないよう女に申し渡してあった。その約束が破られたらしい。<<

「異常に強い性欲を押さえる術が無かったこと」<<黒魔術の特徴の一つ、クローリーは
これを追求して悪魔を召喚する儀式を追及した。


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