戦国ちょっといい話40 ..
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342:人間七七四年
14/07/24 02:21:04.77 GaAOfrKi
徳川家康が、松平元康として駿府の今川家の元にあった頃、今川家は阿部大蔵定吉、石川右近の二人を
三河に派遣し、岡崎城の留守居とし、松平領の奉行は鳥居伊賀守忠吉と松平次郎右衛門重吉の二人に任せ、
そこから得られる租税は皆、駿河の今川家に横領された。
しかし鳥居伊賀守忠吉は一人辛苦して、長年かけて米や銭を数多貯め、将来の戦に備え置いた。

そして元康が今川義元の許しを得て岡崎に帰城した時、鳥居忠吉は喜びに耐えず、元康の手を引いて
蔵へと連れて行き、そこを開いて見せ、言った

「私は多年に渡り。今川の人々に隠してこのように貯め置きました。これは我が君が早く御帰国あり、
御出馬されることがあれば、御家人を育み、また軍用にも事欠かないように、備え置いたものなのです。

私は年齢も八旬の残端(80代後半)となりましたが、朝夕神仏に願い続けたかいがあって、このように
生きている間に再び、我が君の御尊顔を拝すことが出来ました。生涯の大幸、これに過ぎる事があるでしょうか」

そう、老いの目から涙を流した。
元康も、これに大いに感じ入った。

この時忠吉は、銭が十貫づつ束ねて縦に積み置いてあるのを指さし

「このように積み置けば、どれほど重ねても銭が割れる事はありません。世人のするように横に積むと、
たちまち割れてしまいます。」

そう元康に言い聞かせた。

後、家康は銭を積むときは生涯に渡り、そのとおりに行った。そして常々このように言った
「これは伊賀の教えなのだ。」

(鳥居家譜)


有名な、鳥居忠吉銭米を貯め置くというお話。


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