戦国ちょっといい話40 at SENGOKU
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300:人間七七四年
14/07/13 22:03:39.98 B1iJhDnX
慶長10年、春田半兵衛将吉が死去した。73歳であった。
彼は始め、與八郎、又は猪之助と言った。
岡崎三郎(松平信康)に仕え、天正3年5月21日、三河長篠・有三原の戦いで三番鑓をして報償を得て後、
家康に仕えて、長久手の戦では岩ヶ崎の城に使いをしたが、はや落城しており、城主丹羽二郎助の首を
敵兵が取って去ろうとしていた所を、追いかけその首を取り返したことで御感を被った。

また、天正13年、徳川家康の吉良での鷹狩に供奉し、手負った猪が猛り向かってくるのを組み止めた。

家康はこれに大いに感じ入り、彼に『猪之助』という名前を賜った。

(徳川実記:台コ院殿御實紀)

大権現の安定のネーミングセンスを物語る逸話である。

301:人間七七四年
14/07/13 22:52:31.58 aab7x1lO
もらった名前変えちゃったかあ

302:人間七七四年
14/07/13 23:36:05.25 nkHQJv3r
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
出典はないが既出のような

303:人間七七四年
14/07/14 03:25:25.51 YrWW/aMd
明良洪範より勝女のこと

勝女は京生まれで織田信行に仕え、生まれつき聡明で容貌も美しく寵愛されていた。
ある酒宴の際、信行は重臣津田八弥に
「お前もそろそろ妻をめとれ、わしが媒酌してやろう」
とその場で勝女の婚姻を決め、良日を選んで祝言をあげてやると約した。
この津田八弥というのは農民の生まれだが美男と才能のため信行にとりたてられ、織田一族の
「津田」を姓として与えられた者である。
しかし信長から信行につけられた老臣で佐久間七郎左衛門というのがあり、
八弥より待遇が悪いため大いに嫉妬し、両者のいさかいが絶えなかった。
とうとう七郎左衛門は八弥の屋敷に火を放ち、出てきた八弥を刺殺してしまった。
目付役が吟味すると、八弥の厩のそばに七郎左衛門の兄、佐久間玄蕃が信長から下賜された正宗が落ちてあり、
また、火をつけた盗賊をとらえた所、七郎左衛門に命じられたと白状した。
信行が玄蕃に七郎左衛門をつれてくるよう命じた所、七郎左衛門は美濃に出奔し、斎藤道三に匿われてしまった。

304:人間七七四年
14/07/14 03:27:43.10 YrWW/aMd
勝女は、婚儀はまだとはいえ夫と約した八弥の仇を討とうと信行に暇を乞うた。
信行は「相手は勇士、お前は女だからここは尼にでもなって八弥の菩提を弔え」
とすすめたものの、結局八弥を刺したと思われる正宗を与え、暇を出した。
勝女は岐阜近在に住みつくと、鷹狩をしていた道三の嫡子龍興の目にとまり、そのまま道三夫人の侍女となった。
器量よしで歌道にもすぐれていたため寵愛されていたところ、翌年三月、競射の参加者の名簿に
佐久間七郎左衛門の名を認めたため、夫人に願って競射を拝見する許可を得た。
参加者25名中15番目の佐久間七郎左衛門が名乗った瞬間、勝女はおどりいでて短刀で七郎左衛門の脇腹を突き、
「津田八弥が妻勝なり。夫のために仇を報ずる!」と大音声で叫んだため、大騒動となった。
七郎左衛門は即死。道三、龍興も驚き経緯を尋ねると勝女は動ぜずありのままを答えたため、
道三の怒りは減じたものの
「お主の志には感動したが、織田信行から七郎左衛門を戻せと言われても今まで断ってきた。
わしを頼ってきたため隠してきたのだ。しかし女のためにむざむざ殺されたことが世間に知られれば
わしにとっては恥辱極まりない。かわいそうだが明日死刑に処す。それまで牢に入っておれ」
道三夫人は勝女を牢に入れるにしのびず、道三に懇願し、勝女を一晩あずかる許可を得た。
夫人「わたしはあなたの行為に感動しました。このまま逃げなさい」
勝女はそれでは夫人にとって申し訳ない、罰を受けましょう、と言ったものの、結局夫人に説得され、
夫人から路銀をもらい、未明に城外に逃亡した。

305:人間七七四年
14/07/14 03:30:38.58 YrWW/aMd
勝女は三河は岡崎に来て宿屋の主人にわけを話すと、主人は大須賀五郎左衛門康高に事の次第を話し、
康高はすぐに家康に報告し、貞烈に感動した家康は「男女に限らず万人の鑑である」と城に引き取った。

七郎左衛門の兄、佐久間玄蕃は勝女が岡崎にいると知るや信長に勝女を尾張へ戻すよう願った。
信長は池田紀伊守恒興を使者として勝女を乞うたが、
家康は「勝は夫のために仇を討った貞婦です。おそらくこれは玄蕃の願いでしょう。
仇討は古今稀であり、しかもわたしを頼ってきたものをそちらに渡す理由がありましょうか。
信長殿は玄蕃の願いを叶えなければ玄蕃が謀反するとおそれているですか?
もしこの言葉が無礼と思われるのなら戦で決着つけましょう。
その場合こちらは信玄と同盟して尾張に攻め入りましょう」
と答えたため信長もあきらめた。
玄蕃は怒りを増し、金銀で勇士たちを雇い、岡崎に潜入させて勝女を殺そうとした。
勝女は物詣のため城外に出たが、警護していた大原左近右衛門惟宗、今村伝十郎が
曲者二人を見とがめ、生け捕り拷問。曲者二人は玄蕃に頼まれたと白状した。
即刻二人の賊は処刑。梟首の上、制札に書かれた文面は
「この者共、佐久間玄蕃に頼まれた由を白状すれども、盗賊ら己が難儀を逃れんために
いうことならん。よってここに梟首するものなり」

306:人間七七四年
14/07/14 03:32:46.06 YrWW/aMd
信長は大いに怒り「わが領内に関することと知りながらこちらに通達もなしによくも罰したことよ。
しかも玄蕃の名前まで書くのは無礼であろう!」と使者を出したが
岡崎で老臣たちが使者に答えるには
「われわれも相談したのですが、貴国の老臣佐久間ともあろうものが
まさか一婦人に刺客をさしむけ殺害をはかるなどとは思われず、
おそらくこれは盗賊が自分の罪を免れようと嘘を言ったのだろうと判断したのです。
制札にもそう書いてますよね?」
これを使者より伝え聞いた信長はよけいに憤怒し、和平を破って戦闘におよぼうとしている、
という風説が岡崎までに届いたため、城の警護を固くすることになった。
勝女はこれを聞き
「わたくしめ一人のせいで、この国が戦になってしまうことは本意ではありません」
と今までの恩を感謝する書をしたため自殺。
この書を見たものはみな落涙し、家康も絶世の烈婦であると讃え、次第を信長に伝え、
大樹寺に葬り厚く弔った。

307:人間七七四年
14/07/14 03:36:45.81 YrWW/aMd
と書いたものの、佐久間玄蕃って誰だろう
時代から考えて盛政のはずはないし

308:人間七七四年
14/07/14 06:55:05.76 jOloNtFC
最後自殺すんだろなーと思ってたら自殺した
この辺のメンタリティーは500年前から変わらずか

309:人間七七四年
14/07/14 07:01:42.67 UdEexSsb
道三がいるのに、家康と信長が同盟関係にある時点でわけがわからんよね

310:人間七七四年
14/07/14 07:52:44.37 UGyojH9t
義龍「…」

311:人間七七四年
14/07/14 08:03:16.18 4unFyKeC
単に道三と義龍混同しただけだとすると
桶狭間のあと家康が岡崎城を取り戻して
義龍が死ぬ前の1560年か1561年ごろか
清洲同盟はまだだがとりあえず小康状態ってことで和平、と言ってるのだろうか
でも信行生きてるってことは尾張を出た後数年岐阜に?
どこまでほんとかわからないから考察するだけ無駄な気もするが

312:人間七七四年
14/07/14 13:38:18.59 yk0AUsYP
一言、でっちあげ、でいいんじゃないここまでくると

313:人間七七四年
14/07/14 21:37:42.78 J7/p7mbT
天正13年10月25日、徳川家康は豊臣秀吉の要請に応じ、終に上洛した。
この夜、関白秀吉は密かに家康の旅館を訪ね、「長篠の戦い以来12年ぶりの対面です」と
大いに喜び、そして家康の耳元に口を寄せて、こう囁いた

「黄門(家康)もかねてから知っているように、秀吉は今官位人臣を極め、兵威四海を席巻しているが、
元々は松下なにがしの草履取りとして付き従っていた奴僕であることは、皆知っている。
やうやう織田殿に見立てられ武士の交わりを得た身であるから、天下の諸侯も表向きは畏服しているようでも、
心から帰順している者は居ない。また、今私の被官になっている者達も、元は同僚傍輩であり、実の主君とは
思っていない。

願わくば、近日大阪表で対面するときに、この事をよく心して対応していただきたい。
秀吉に天下を取らせるのも失わさせるのも、卿のお心次第ですぞ。
この事を頼みたくて、このように上洛を進めたのですよ。」
と、家康の背中を叩いた。

家康はこれを聞くと
「私は既に御妹と添い参らせ、またこのように上洛いたせし上は、ともかくも御為に悪しき計らいは
いたしません。」
そう答えると、関白もこれを喜んだ。

やがて大阪に渡り、厳しい作法にて御太刀・御馬。黄金百枚を進ぜられ、家康がこれにいたく敬服し
額ずいているのを見聞して、中国、筑紫の諸大名も
『大政所を人質として上洛された徳川殿ですらかくの如しである。我々がどうして秀吉を軽蔑することが
出来るであろうか』
と、これ以降国々の大名は関白を、以前に比べ10枚も尊敬するようになったと言われる。

(徳川実記:東照宮御實紀)

有名な秀吉と家康の、大阪城対面前の打ち合わせについてのお話し

314:人間七七四年
14/07/14 22:11:35.18 9++ZZLCs
大事なオチで10枚はどーなんだ

315:人間七七四年
14/07/14 22:13:16.93 J7/p7mbT
>>314
すいません。最後
×10枚→◯10倍です。申し訳ない

316:人間七七四年
14/07/14 23:33:45.73 hsweGQXa
山田君10枚もってって

317:人間七七四年
14/07/16 22:16:02.06 i5spjsh6
宇喜多秀家の家臣に進藤三左衛門正次という者があった。
彼はかねてよりよく知られた武士であり、関ヶ原の合戦の後、秀家とともに逃亡したが、
やがて捕らえられ、家康より秀家の行方を尋問された。

正次は「私は秀家が敗走して後3日ばかり付き従いましたが、その後は主従別れ別れに隠れ忍んで
行方知れずと成りました。」と答えた。

家康はこれを聞くと「正次は君臣の義を重んじるが故に、その隠れる所を申さない事に疑いない。」と
却ってその忠義の志に感じ入り、金10枚を与え自分の元に留めおいた。
この時「秀家が秘蔵していた鵜飼國次の脇差しはどうなったか?」と尋ねたが、これに関しては
正次は関ヶ原の辺りで探し当て、家康に献上した。

さて、慶長8年8月、宇喜多秀家は潜伏していた薩摩から召し上げられた。
この時、本多正純、徳山則秀が彼を尋問したが、進藤正次に関して、彼は伊吹山中にて、
秀家を50日間に渡り深く隠し忍ばせたと、秀家は答えた。

先に正次は3日秀家に付き従ったと証言しており、その言葉と一致しない内容に、家康は
「その主を思うこと厚きが故に、己の美を殊更言い揚げなかったのだ」
と深く感じ入り、正次に500石を与え御家人に加えた。

(徳川実記)

徳川家康、宇喜多秀家の旧臣に感じ入る、というお話し。

318:人間七七四年
14/07/17 20:28:21.67 P0EZJS5G
羽柴秀吉の中国攻めの中で、ある城を攻めた時のことである。
この時、秀吉配下の黒田官兵衛家来、母里太兵衛友信が一番乗りをし、これに羽柴軍は
勇を得て進み、城中が油断していたこともあって即座に攻め落とし、城兵尽く討ち取った。

さて、この戦果が信長に注進されると、信長は「彼の地が手に入ったのは秀吉の働き故である。」
と大いに喜び、褒美として秀吉に、鞍置きの馬を遣わした。

しかし、これを頂いた秀吉は
「今度の城攻めは、偏に孝高(官兵衛)の働き故である。」
と、鞍馬を官兵衛に与えた。

しかし、これを頂いた官兵衛は
「この度の戦功は、偏に太兵衛の一番乗りの功によるものである。であるからこの鞍馬は
私が拝受すべきものではない。」
と、これを母里太兵衛に与えた。

この鞍は、太兵衛の子孫に今も伝わっている。

(黒田家臣伝)

信長から秀吉への褒美が太兵衛の元に至った過程である。

319:人間七七四年
14/07/17 21:21:49.27 p5iyhZHH
うろ覚えだが壁にかけてあった由緒ある弓を家臣が勝手に引いて壊したけど
「そなたのおかげでいざという時にその弓を引いて恥をさらさずにすんでよかった」って逸話が誰の話か思い出せぬ

320:人間七七四年
14/07/17 22:23:42.80 7ORMQOgD
>>319
これだね

板倉重矩と板倉家伝来の弓・いい話
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

321:人間七七四年
14/07/17 23:46:38.62 p5iyhZHH
>>320
サンクス!思い出せてすっとした
しかし加藤嘉明の小皿を割った家臣に対する話といいこういう話は胸がすくなあ

322:人間七七四年
14/07/17 23:48:52.07 x4tNtAoU
弓の話だと鈴木大学が一番に思い浮かぶなあ

323:人間七七四年
14/07/17 23:58:59.78 WsBUM6N6
ノブだったら手打ちにして刀にへんてこな名前がつく

324:人間七七四年
14/07/18 07:47:26.31 QJ4Y8ymK
風呂場へ追い詰め手討ちにし
付いた銘が「弓か折る」とかか

325:人間七七四年
14/07/18 19:15:43.58 s1lza5UX
鬼武蔵だと・・・・モノじゃなくて虐殺した地名しか浮かばんな

326:人間七七四年
14/07/18 21:11:41.36 Xaz8uGyP
天井裏に逃げ込んだのを弥助に肩車させて討ち取って
肩車の弥助

327:人間七七四年
14/07/18 22:59:30.28 BBI/UJGJ
旗本の方の進藤正次さんの話が出たので少々時代は下るがもう一人の進藤正次さんのお話を一つ。

弘前藩三代目津軽平蔵信義は江戸勤番中、屋敷に大名たちを招いて深夜まで酒宴を張った。
ところが、大名の一人と口論になったため、その大名は裏口からひっそりと帰ってしまった。
信義はこれを知ると激怒し、「首をひき抜いてくれん」と刀をかざして玄関から走り出た。
その時、進藤庄兵衛正次がすばやく門を閉じ、その場に平伏し信義の行く手を遮った。

信義は、正次の首元に刀をつけ、「門を開けよ」と怒鳴ったが、「刃傷あってはお家の一大事」と正次は動かなかった。
しばらくにらみ合いが続いたが、信義はあきらめて屋敷に戻った。
一方の正次は信義の刀がかすって流れ出た血をぬぐい、夜通し門を守り続けた。

(進藤家譜)

津軽さん家の進藤正次さんでした。
時代は下ったけどすでに2つくらい信義さんの逸話出てるからいいですよね。
この進藤さん後に鬼庄兵衛とか呼ばれる家老にまで抜擢されます。

328:人間七七四年
14/07/18 23:19:50.20 Fmlp0bYo
>大名の一人と口論になったため

南部じゃないのは確か

329:人間七七四年
14/07/19 22:42:40.79 fFPbldre
三成、加増を辞退する

小早川秀秋の転封が正式に決まった時期、石田三成の家臣宛ての書状。


『殿下は我らに筑前筑後を下さり、九州の物主にしてくださるとのご内意でしたが、
そんなことをしては佐和山に置ける人もなく、身近で用を申し付ける人も少なくなるので、
(さ候へハ、又さわ山にをかせられ候ハん人もなく、ここもとにて御用御申つけ候人もすくなく候間、)
我らはこのまま(佐和山)でいよとのことになりました。
江州(近江)のその方の知行や蔵入(代官領)が増えないとなれば
悔やむ気持ちもありますが(くやみ申し候間)、よくよく申し付けてください。
次に筑後筑前は蔵入になるので、その旨百姓に言い聞かせるよう。
また金吾殿は越州(越前)へお替りになり、従って我らが(筑前の)代官になるよう命じられました。
近々筑前に下ることになるのでその心得でいるようにし、
この由を妻と父へも伝えてください(此由内儀、おきとのへも可申候也)。

廿二日 三成(花押)』

(「慶長三年(1598年)五月 家臣・大音新介宛て書状」 宇津木文書)

330:人間七七四年
14/07/20 02:50:43.08 rxssbgbo
>>329
中途半端に原文入れるくらいなら、原文全部書いて現代語訳と分けた方がいいよ
読みづらいから

331:人間七七四年
14/07/20 08:18:44.37 dZ5BmJRv
おれは原文が混じる方が好き
読解力がない人は読まなければいいのに

332:人間七七四年
14/07/20 08:26:08.37 NMYLKHiG
あまり互いの趣味を押し付け合うのは止めとけ

333:人間七七四年
14/07/20 15:33:29.83 NXugiSla
書いた人の自演じゃない?

334:人間七七四年
14/07/20 15:46:52.90 w8DtMny2
「中途半端に」ってのは同意。
読みにくいと思う

335:人間七七四年
14/07/20 15:53:13.59 rqgpDVeb
カッコがいろんな目的で使われているのが問題では
原文表示:(さ候へハ、又さわ山にをかせられ候ハん人もなく、ここもとにて御用御申つけ候人もすくなく候間、)
言い換え:江州(近江)
補足:我らが(筑前の)代官

言い換えと補足は現代文でやっちゃって、原文表示だけカッコにしちゃえば
それほど読みづらくはならないと思う

336:人間七七四年
14/07/21 12:39:24.59 2f/+l11S
朝鮮の役でのこと

黒田長政は朝鮮のおける占領地のうち。4,5郡を重臣である栗山利安に預けた。
利安は慈愛を以って民を懐けたために、朝鮮人たちはその支配を喜び、毎日その政庁に来て
利安を拝した。利安は、「大勢の者と毎日対面するのは難しい」と、2,3日に1度づつ来るように
申し付けた。

この様子を知った黒田長政は、「鎮まりかねたる所を良く懐けたものだ、ちょっと様子を見てこよう」と
利安の領地に向かった所、朝鮮人たちはこの軍勢に驚き、合戦の用意を始めた。
しかしそこで利安の馬印が見えたため、そのまま鎮まった。

(黒田家臣伝)

栗山利安、朝鮮で善政を行うというお話。

337:人間七七四年
14/07/22 00:19:06.03 URvjzPgD
>>243
その結果になるようにシステムされてるとなんで疑わないんだろな

338:人間七七四年
14/07/22 02:34:47.82 MO9dVXM+
小林薫のように、犯罪者と有名人で同姓同名がいるので調べれば

戦国関連の同姓同名なんてそれこそ、朝倉氏、伊達政宗、島津家久、松平家忠、牧野康成と
数えたらきりないし

339:人間七七四年
14/07/22 12:51:26.08 qOBkUal5
朝鮮の役でのこと。

有る時黒田家の陣営において、黒田三左衛門美作、野村隼人、後藤又兵衛の3人が一緒にあった時、
向かいに敵の唐人(明人)が一人あり、矢をただ3本、手に挟んでいた。

黒田家の3人はこれを見つけると、討ち取らんと争って駆け寄った。

先ず、後藤又兵衛が一番に馬で乗り寄った。しかし唐人が矢を放つと、これが又兵衛の小腹に辺り
落馬し、当の敵を討つことは出来なかった。

次に野村隼人が駆け寄ったが、唐人は近くに寄るまで矢を放たず、なおも近づいた時
放たれた矢が隼人に当たり、これも討つことは出来なくなった。

3番目に三左衛門が唐人の側まで駆け寄って、刀を抜いて振り上げた。
そこを唐人は狙いをつけて矢を放った。その矢は三左衛門の右手に当たり、肘から上腕の後ろまで
貫き、三左衛門はたちまち刀を落とした。

が、三左衛門はそれに構わずこの敵と組打ち、ついに仕留めたのである。
それにしてもこの唐人、ただ3本の矢によって3人を射たというのは、全く珍しいほどの手練であった。

(黒田家臣伝)

黒田美作、矢で撃たれたけど構わず敵を撃つ、というお話。最後はやっぱり力技ですね。

340:人間七七四年
14/07/22 15:26:38.89 OcCuZJZB
あー、黒田家臣すごいね

341:人間七七四年
14/07/23 06:43:56.47 5E4XFPhC
急所に当たりさえしなければどうと言うことはない、ということなのか

342:人間七七四年
14/07/24 02:21:04.77 GaAOfrKi
徳川家康が、松平元康として駿府の今川家の元にあった頃、今川家は阿部大蔵定吉、石川右近の二人を
三河に派遣し、岡崎城の留守居とし、松平領の奉行は鳥居伊賀守忠吉と松平次郎右衛門重吉の二人に任せ、
そこから得られる租税は皆、駿河の今川家に横領された。
しかし鳥居伊賀守忠吉は一人辛苦して、長年かけて米や銭を数多貯め、将来の戦に備え置いた。

そして元康が今川義元の許しを得て岡崎に帰城した時、鳥居忠吉は喜びに耐えず、元康の手を引いて
蔵へと連れて行き、そこを開いて見せ、言った

「私は多年に渡り。今川の人々に隠してこのように貯め置きました。これは我が君が早く御帰国あり、
御出馬されることがあれば、御家人を育み、また軍用にも事欠かないように、備え置いたものなのです。

私は年齢も八旬の残端(80代後半)となりましたが、朝夕神仏に願い続けたかいがあって、このように
生きている間に再び、我が君の御尊顔を拝すことが出来ました。生涯の大幸、これに過ぎる事があるでしょうか」

そう、老いの目から涙を流した。
元康も、これに大いに感じ入った。

この時忠吉は、銭が十貫づつ束ねて縦に積み置いてあるのを指さし

「このように積み置けば、どれほど重ねても銭が割れる事はありません。世人のするように横に積むと、
たちまち割れてしまいます。」

そう元康に言い聞かせた。

後、家康は銭を積むときは生涯に渡り、そのとおりに行った。そして常々このように言った
「これは伊賀の教えなのだ。」

(鳥居家譜)


有名な、鳥居忠吉銭米を貯め置くというお話。

343:人間七七四年
14/07/24 16:07:05.83 RVGnSxlI
いきなり有名とか言われても

344:人間七七四年
14/07/24 16:08:44.58 sTZdITJy
家康の伝記とか小説読んでたら出てくるから、有名、と言われて納得できたが

345:人間七七四年
14/07/24 17:26:12.07 VVEqGrMO
織田信長が尾州桶狭間において今川義元を討ち取った合戦の時に
お乗りだった馬は牝馬であるとかいうことだ。

後年、信長は秘蔵なされた馬を画工に命じて屏風に描かせた時、
その牝馬も描き加えさせ、描かれた馬は総計十三匹であるそうだ。

その屏風は織田山城守長頼が所持されていたが、長頼死去の時に
遺物として尾州家(尾張徳川家)へ送られ、現在尾州家にあるという。

―『明良洪範』

346:人間七七四年
14/07/25 11:17:49.84 9zqZIUq7
いつから馬を○○頭と数えるようになったんだろう?

347:人間七七四年
14/07/25 11:21:30.05 gwO/rgqW
どんなにはやくても幕末だろうなあ…

348:人間七七四年
14/07/25 12:26:24.13 7satxje+
今じゃ馬のこと1着・2着と数えるよ

349:人間七七四年
14/07/25 12:31:59.91 Kk6EkVvo
それ競馬じゃね?

350:人間七七四年
14/07/25 12:48:54.94 KxD94hZB
着順ならともかく数を数えるのに着は使わんじゃろ

351:人間七七四年
14/07/25 13:49:57.99 50OarqEx
頑張ってボケたのに・・・かわいそうに

352:人間七七四年
14/07/25 14:02:01.80 Kk6EkVvo
え、ボケてたの⁉︎
そうと気づかず…ゴメン‼︎

353:人間七七四年
14/07/25 17:17:37.19 Pne0/Jjw
更にキズ口に塩を塗るやつ

354:人間七七四年
14/07/25 20:12:29.11 lxC8vdSp
英語で牛馬を数える時のheadを直訳したものってなんかで見た。

355:人間七七四年
14/07/25 21:20:56.99 sbjfBRtT
>>342-344
鳥居忠吉「(倹約が)利いてる利いてるw」

356:人間七七四年
14/07/26 08:10:32.06 NhOkfCQj
「赤松のシェフ2」

赤松家の台所方とされる人物が、弘治元年に置塩城で繰り広げられた酒宴で出された料理について詳細に記した「播州置塩夜話 六花亭物語」を紹介したが、
今回はその下巻にあたる「屋形物語」で、その18年後に開かれた酒宴を追体験してほしい。

天正元年十月八日、赤松則房の置塩城に、宇野下野守(長水城の宇野氏の関係者)がやってきて、夜食が出された。
宇野からはホラ貝、鷹1羽、鯉2尾、鯛5枚、宝命酒(薬酒)5升、
家長(原文ママ)平瀬清左衛門からは鴨2羽、勝男(鰹節)10節が献上された。

宇野は広間、平瀬は次の間で御料理を下され、赤松家家老・山田助九郎や相賀道閑が相伴した。
装束は身分の上下ともに無刀、上下(裃)着用。宇野の太刀持ち原小才次、小太刀持ち村松は御縁に控えていた。

最初に出した膳は、右に澄まし汁が入った汁椀、左に茹でた蕎麦が入った食椀、
椀の前に小皿を置き、香頭(こうとう=吸い口・薬味)として唐辛子、ワサビ、ネギ、大根、鰹節、柚子などを刻んだものを盛ったものである。

客が食椀の蓋を取り、汁椀の蓋を取って澄まし汁に香頭を入れて好きなだけかき混ぜて、それを蕎麦にかけると、蕎麦の下から色々なものが出てくる。
鴨、鯛、椎茸、あわび、きくらげ、麩、セン、玉子、厚揚げ、凍み豆腐、凍みこんにゃく、雪餅、炒めニンジン、ゴボウ、カンピョウなどが出る。
具材を下盛りにしておいたのだ。

2〜3口で最初の膳を下げ、引替膳を出した。
その膳は鯉の刺身と、右に白鳥の味噌汁、左に白飯を配している。

次は、鯛の1コン焼き(尾頭付きの焼き物)、シギの焼き物、御酒。
玉子、あわび、ゴボウ、クワイ、蓮根、椎茸の葛煮に、酒1返し、いも巻きを供した。

ここで中入りとなり、酒宴が始まった。
盃は5合入りの椰子杯である。

料理の方は、スズキの青ヌタ、サザエの壺焼きと、酒1返し。
雀の焼き鳥と、酒1返し。
十六島(うっぷるい海苔)の漬け焼き、酒1返し、ふくら炒り。

「沖の石台」という5升入りの皿鉢に、酢と生姜を溜め、大根、人参、柚子、タコ、イカ、アワビなどを盛ったものも出した。

次に玉子のふわふわを出し、各自に抹茶、あん餅、干菓子を出した。

この酒宴で呑んだ酒は、宇野3升、平瀬4升、相賀3升、山田5升。
宇野は「相生」を謡って退出し、嵯峨山隼人と碁を3番打ったが、明朝はくたびれ果てて休んでいた。宇野は酒が不得手のようである。

昼食は菜食で、田楽、御酒、クシコ、御酒、カツオ炒り、御酒、御菓子、饅頭、干菓子という献立。
宇野達はその夕方、暇乞いして帰っていった。

以上、珍しい料理だったので抜き書きしておいた。永く家に伝えていってくれ。頼んだぞ!

天正二年正月一日
置塩・相賀永次郎重茂  同・毛野鶴次郎武盈 

357:人間七七四年
14/07/26 08:29:48.96 NhOkfCQj
上巻(六花亭物語)
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

358:人間七七四年
14/07/26 08:33:00.39 Kkl3FKi0
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
前回のはこれ?

359:人間七七四年
14/07/26 08:33:20.18 Kkl3FKi0
かぶった、すまん

360:人間七七四年
14/07/26 08:37:34.85 ynTzV5w9
個人的な嗜好からいったら最初の膳の蕎麦を完食させてほしい
史料上はこのころから蕎麦切りが現れはじめるから、まだ蕎麦がきのころかな?
蕎麦の下に具材があって汁を掛けてるからそうなのかなあ

361:人間七七四年
14/07/26 08:59:54.68 HguOHKq9
>>356
だれか作って写真うpして。鷹って食えるのか?あいかわらず酒の単位が升wいまよりもアルコール薄いとはいえよう飲むわ。

362:人間七七四年
14/07/26 09:32:16.31 2UE5AZie
>>361
そういや昔、某MMOスレ民がゲーム内の素材と料理法で仕上げて写真をアップしてたっけか

363:人間七七四年
14/07/26 09:50:34.10 ENrhe7f5
何かで出てた「たまごのふわふわ」?なら作ってみたいな

364:人間七七四年
14/07/26 09:58:58.12 DdbAyVs1
酒飲んだ後に碁を売ったのか。

365:人間七七四年
14/07/26 12:43:47.83 axf17gV4
六花亭と聞くと北海道のお土産のほうを連想してしまう

366:人間七七四年
14/07/26 12:50:48.42 cF4X+d7l
3升飲んで酒が不得手とか俺は生きてける自信がない

367:人間七七四年
14/07/26 15:22:17.91 KmwpVQjX
酒と共に運ばれて来る山盛りの○セイバターサンド

368:人間七七四年
14/07/26 15:31:36.50 esuODCTo
 仙台ワラシ
 寛永13年3月隠居城若林にて伊達政宗は、寝所でうたた寝してると
小さな子が現れ「ホレ、出発の支度が整ったよ早く行こう」と催促してきた
政宗「ホウ、随分早いな。」と身体を起こそうとするが金縛りにあって
動けない。堪らず腰元を呼び起きたがその子は襖に消えていったのだ。
 そして、最後の出府し江戸で引き取るのは3ヶ月後。政宗には座敷わらしが見えていた話
 
東北怪談全集より

369:人間七七四年
14/07/26 15:57:48.82 1co0NzCY
頭?人間もそう数えられないかw

370:人間七七四年
14/07/26 22:39:31.64 Co23d2UJ
さて加藤清正がある時に家人の加藤右馬允、並河志摩、庄林隼人、森本義太夫、
三宅角左衛門、木村又蔵、飯田覚兵衛、その他一騎当千の勇士らと同座で昔の
物語りをされた時、清正が、

「源義経の家士である武蔵房弁慶ほどの忠臣は、今も昔もいるはずがない」

と申されたところ、森本義太夫が

「いや、武蔵房弁慶ほどの忠臣は昔は知りませんが、今は幾人もいるでしょう。
ですが、その主君の源義経ほどの大将は、今はいるはずもありません」

と申したので、清正を初め家人一同は笑いなさったということである。

名将良士と言われる人は、皆君臣の間が睦まじかったそうだ。神君(徳川家康)
は人を引き立てなさることをよくなさった。ある時の御話の折、

「昔の鈴木三郎重家を忠義を兼ねた良士であると世に言うが、我が家には重家の
ような忠義の士が幾人もいる」

と、仰せられたそうである。

陶淵明の『渠も亦人の子也』(『此もまた人の子なり』)とは、本当に
格言というべきである。この言葉は高貴下賤ともによく人情に通じている。
名将良士が心を用いるところはここにある。

―『明良洪範続編』

371:人間七七四年
14/07/26 22:42:18.22 PPRdKStg
九州仲間の某家で同様の話があったならば…

372:人間七七四年
14/07/27 03:42:11.27 zLeQ/84T
NGMSさんちか

373:人間七七四年
14/07/27 03:45:59.82 mZBctROr
並河、三宅、木村ってなんか明智さんとこの旧臣っぽく感じなくもない

374:人間七七四年
14/07/27 08:37:07.44 V+cZAXqT
でもこういう主従だか何だか分からん状態で放置しておくとお家騒動に繋がるのよね
太平の世では早急に悪久すべき

375:人間七七四年
14/07/27 10:50:20.36 m510hudy
国衆を家臣化する過程は大名によって違うから一概に悪久するべきかと言うとビミョー

376:人間七七四年
14/07/27 11:17:44.06 XnQ916Jd
>>371

黒田武士は知らんが、三河武士にはある

URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

377:人間七七四年
14/07/27 12:20:12.06 +EQiIhCF
三河武士だと全員拙者のことでござる!とか思ってそうだなw

378:人間七七四年
14/07/27 21:50:36.34 xw6A6oT7
想像しただけでめんどくさいw

379:人間七七四年
14/07/28 02:56:43.87 NuNQEtm4
面倒すぎるw

380:人間七七四年
14/07/28 03:37:48.78 9WmG8ITM
自分でそう思ってるくせに主君の言うことにあれくれ理屈つけて従わないんですね
分かります

381:人間七七四年
14/07/28 03:54:52.65 BsmDQudM
長篠の戦いの前、徳川家康は竹広村の弾正山に陣を据えていたが、家臣たちは武田の猛勢を聞いて
恐れ、どうにも怯えた様子を見せていた。

そこで家康は酒井忠次を呼んでこう命じた。「いつもの海老すくいの狂言をせよ。」

忠次畏まり、つっと立って海老すくいを舞った。これは有名な絶技の芸であったので、一座の者達は皆
笑いのツボに入り大爆笑した。
これによし徳川の三軍にあった武田への恐怖の念はいつの間にか一散したのである。
(忠次かしこまりつと立て舞けるが、兼ての絶技なれば一座の者みなゑつぼに入て哄と
笑い出しにより、三軍恐怖の念いつとなく一散してけり)

(東武談叢)

酒井忠次の妙技海老すくい、徳川軍から恐怖を払う。というお話。

382:人間七七四年
14/07/28 04:15:08.51 ieY8KXOP
太鼓も叩くし案外芸人肌な面白いおじさんだったのかもしれないね

383:人間七七四年
14/07/28 04:43:26.31 0U1KnlTJ
出ますぞ、酒井様の腰さばきが!

384:人間七七四年
14/07/28 07:02:38.28 g/gxe8er
ツボに入るってこんな古い時代からある表現だったんだ

385:人間七七四年
14/07/28 09:44:31.66 yaZjXFV0
海老掬いが無ければ長篠で負けていたかもしれないのか
これは歴史が動いた瞬間ですわ

386:人間七七四年
14/07/28 09:50:16.77 JPO4AgR6
筆頭家老自らエビすくいを披露し、長篠前哨戦では速攻で武田軍の側面をつく、こりゃ大河ドラマ級の活躍ですわ。

387:人間七七四年
14/07/28 14:57:47.46 bY1WnWpb
三軍て何?

388:人間七七四年
14/07/28 15:11:02.63 ZKq6NRc7
全軍

389:人間七七四年
14/07/28 17:22:09.44 wBqsu5SX
えっファーム以下のやつらじゃなかったのかよ

390:人間七七四年
14/07/28 19:09:03.66 hmwj7KpU
陸軍海軍空軍・・・えっ空?

真面目に答えると>>388の言う通り春秋時代の三軍(上軍中軍下軍)に倣い全軍を意味する

391:人間七七四年
14/07/28 20:45:46.48 0U1KnlTJ
実は三河軍団の略

392:人間七七四年
14/07/28 22:39:54.15 OF6jLvwu
>>384
戦国どころか、平家物語の有名なシーンでも使われてたりする。

大納言気色変はつて、さつと立たれけるが、御前に立てられたりける瓶子を、狩衣の袖に掛けて引き倒されたりけるを、
法皇叡覧あつて、あれはいかにと仰せければ、大納言立ち返かへつて、瓶子倒れ候ひぬとぞ申されける。
法皇も『笑壺に入らせおはしまし』、者ども参つて猿楽仕れと仰せければ、平判官康頼つと参つて、あああまりに瓶子の多う候ふに、もて酔ひて候ふと申す。
俊寛僧都、さてそれをば、いかが仕るべきやらん。西光法師、ただ首を取るにはしかじとて、瓶子の首を取つてぞ入りにける。

393:人間七七四年
14/07/28 22:55:27.49 AM0twxp2
>>381
信長の野望で鼓舞の上位コマンドに海老すくいを導入すべき
士気↑
統率↑

394:人間七七四年
14/07/28 23:17:39.03 JGXRelj8
しかし景勝には効かなかった!

395:人間七七四年
14/07/28 23:49:29.49 dd979FBF
へうげものの海老すくい
URLリンク(www.youtube.com)

横山光輝の「徳川家康」では天正壬午の乱後、北条との同盟の席で
海老すくいを披露し、徳川は大した事ないと北条を油断させてたw

万能技過ぎるwww

396:人間七七四年
14/07/28 23:58:28.40 ibhhCUUn
えび酒井

397:人間七七四年
14/07/29 00:18:46.24 73ZyftsL
酒井シュリンプ

398:人間七七四年
14/07/29 10:14:32.40 Vr+xRufE
>>392
勉強になった。相変わらず侮れんスレだw

399:人間七七四年
14/07/30 00:43:10.83 s9grfJZd
浜名湖名物なのか海老すくい

400:人間七七四年
14/07/30 15:43:25.83 eu5p67WC
意外な人の意外な高評価?

豊臣秀吉の御前にて、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、蒲生氏郷、毛利輝元などが話していた時のこと
秀吉は
「たとえば昨今、織田上野介に兵五千、蒲生に兵一万をつけて合戦させたとする。どちらに味方すべきだろうか?」
と言った。
いづれも返答しかねていたが、秀吉は
「それがしは上野介につくべし。その故は、蒲生方より兜付きの首を五つ程も取るならば、その内に氏郷の首もあるだろう。
上野介方は四千九百まで討ち取られる分には、上野介は討死しないだろう。
然れば大将のはやく討ち取られたる方こそ、大きなる負けなり。」
と言ったという。

武功雑記

※織田上野介=織田信包

激しく既出の気がするけど、このパターンは無かった気がするので

401:人間七七四年
14/07/30 15:49:46.32 nayFSFDk
野と総が混同された?

402:人間七七四年
14/07/30 16:28:51.85 SgluMGfl
そのいいようだと誰も気を悪くしないしな。打ち取られるのもいつも先頭にいるってことだし
・・・志村さんのお小言タイム?

403:人間七七四年
14/07/30 17:03:30.45 UsXN/Doc
へうげものスレの過去ログにこういうのが

名無しんぼ@お腹いっぱい[] 2010/01/23(土) 21:00:26 ID:Le1hu93a0

所用で酒井家のご当主にご挨拶に伺ったのだが、つい弾みで「えびすくい」について聞いてしまった・・

ついかっとなってやった
今は反省している

へうげものという漫画があることはご存じなかったそうです。

名無しんぼ@お腹いっぱい[sage] 2010/01/23(土) 21:06:52 ID:E5ISRcS80

それでえびすくいの方はどうだったんですか
現代に至るまで踊りの秘伝が一子相伝で当主に伝わってたりするの

名無しんぼ@お腹いっぱい[sage] 2010/01/23(土) 22:20:49 ID:Le1hu93a0

酒井の太鼓は歌舞伎の演目になっているくらい有名な話だが、歴史上の出来事としては「史実」と言いきることができるものではなく、
「逸話」と呼ぶべきものでしょう。忠次公も踊り自体は知っていたかもしれないが、海老すくいの話も同じように「逸話」と言うべきだと
思います。とのことでした。
あ、それから、踊れないそうです(笑

404:人間七七四年
14/07/30 17:21:17.90 W6uMAL1B
>>401
信ちゃんは先頭だろks

405:人間七七四年
14/07/30 17:36:03.20 oYAnjCtX
>>404
いや、これとそっくりな話で信長と氏郷のパターンがあるんだよ。
俺も信長のが誤って伝わったんだと思うが

406:人間七七四年
14/07/30 17:39:37.33 nayFSFDk
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
有名なバージョンは信長だし

407:人間七七四年
14/07/30 21:46:31.09 vkO2DVH/
でも結局信長は謀反で死ぬからね 氏郷につくのが正解だろ

408:人間七七四年
14/07/30 22:16:02.19 mSVmn9LE
たとえ氏郷が討ち取られようともいずれ第二第三の蒲生が…

409:人間七七四年
14/07/31 00:13:35.60 2az/Ewhc
量産型蒲生がいるから氏郷が死んでも何とかなるとw

410:人間七七四年
14/07/31 00:21:08.21 jq6ueLWV
(宣教師ヴァリニャーノの)室での滞留により大いに利益を被った二番目の人物は、官兵衛殿の一人息子で後継者であるカイノカミ(=黒田長政)であった。
彼は関白の了承を得、すでに父から豊後国を渡されており、これを所有し統治している。
洗礼名をダミアンと称し、当時二十二歳、または二十三歳であった。
だが極めて優れた理解力と知識の持ち主で、その秀でた勇気と勤勉と相まって、日本で彼に優る者はごく僅かしかなく、したがって関白殿から気に入られ寵遇されていた。
五年前に父の官兵衛が関白の軍勢の武将として、一軍を率いて秋月を襲撃した時に、この息子は関白の命令により、戦場へ父に会いに来た。
当時、彼は十七歳であった。
その折、彼の父は彼がすぐにキリシタンになるように説得し、彼はその地で幾つかの説教を聞き、多くの家臣とともに受洗した。
だがこのたび関白の迫害が襲った時には、まだキリシタンとしては日が浅く、若輩で、我らの教えについてはほとんどなにも知ってはいなかった。
つねに自分がキリシタンであるとは公言していたものの、彼は聴聞したことに大いなる疑問を抱いていた。
特に人間が救われるためには、洗礼を受けてキリシタンになる必要があるということが納得できなかった。
彼には、人間は道理にしたがって正しく生きさえすれば、いかなる宗教によっても救われると思えたからである。


「フロイス日本史」より、1590〜1591年頃の黒田長政についての話

411:人間七七四年
14/07/31 00:29:46.71 ApMjhh46
なぜダミヤンにしてしまったのだろうか。ネタキャラすぎる。

412:人間七七四年
14/07/31 09:21:34.33 2ok5d24F
>>403
ご当主もなかなか見識が高いな
そういう受け答えはなかなかできないぜ

413:人間七七四年
14/07/31 15:44:37.11 XOlX5q1B
>>405
信長だったら戦いが始まる前に逃げてるよ
全滅しても生き残ってる身の振り方だったら本能寺で死んでないな

414:人間七七四年
14/07/31 20:00:43.04 0F7DRCgx
>>413
お前は何を言ってるんだ

415:人間七七四年
14/07/31 21:29:54.66 NPJnKbx2
菅沼に安価をつけないで下さい

416:人間七七四年
14/08/01 02:08:45.02 a7OerG84
他スレでの争い持ち込むなよ

417:人間七七四年
14/08/01 08:23:13.85 OCqpYQAu
なんだまた連呼リアン織田厨わいてるのか

418:人間七七四年
14/08/01 09:08:33.47 HVMVvfHT
そのバカに構う大馬鹿もな

419:人間七七四年
14/08/01 10:57:36.83 GX53B0Pc
酒井忠勝は安藤直次に会って、紀州にいる自分の親戚のことを頼み込んだ。

これに直次は、「こちらの者は皆麾下の縁りの人々なので、そのもとの仰せに
従うためには、皆々の依頼にも従いませねば叶い難いので、御容赦ください」

と言って、ただ何ということも無い様子であったという。

―『名将言行録』

420:人間七七四年
14/08/01 18:48:19.72 KiJaldDG
全滅してもそのなかに首がないのは誰だろ?天庵さまとか朝倉の爺さん、真田パパあたりは首獲れない感じがするんだが

421:人間七七四年
14/08/01 19:56:08.06 LDaddAct
>>420
天庵様「ちくしょー!こうなったら討ち死にしてやる!」
菅谷さん「殿を止めろ!(ズルズル」
こうなるだろう

422:人間七七四年
14/08/01 20:29:38.90 Zrl4+mJj
道糞さん

423:人間七七四年
14/08/01 21:40:37.01 jdVeTkmv
>>420
一条信龍とか?
一度の合戦で4度討ち死にしたらしいけど本人は無事だったとか

424:人間七七四年
14/08/01 22:22:40.24 Yi3BdW15
爆死すれば首は無いな

425:人間七七四年
14/08/01 22:24:45.94 47sCxrg+
首が飛んでった将門公はカウントされますか

426:人間七七四年
14/08/02 05:49:37.74 eOslnO/2
すり替えておいたのさ

427:人間七七四年
14/08/02 08:29:02.64 xE9j+uNr
URLリンク(i.imgur.com)

428:人間七七四年
14/08/02 09:29:19.62 7vn1JyHr
>>427
guro

429:人間七七四年
14/08/02 11:11:43.53 NCUBK8vG
猫の開き
合成?

430:人間七七四年
14/08/02 11:30:07.34 sZGLbLgx
たぶん福岡猫虐待事件かと

431:人間七七四年
14/08/03 11:29:24.66 nTp+xxm0
虐待って表現甘すぎるだろ

432:人間七七四年
14/08/03 15:00:02.63 AfNl1bl9
伊賀の侍である拓殖三之丞清広は、天正9年(1581)三河の徳川家康の下に参り、
「配下の伊賀者共々、織田家を叛き御当家に属したい。願わくば御書を賜らん。」
と申し上げた。しかし家康は

「当家は織田家と親交が深い。そのため御書を与えるのは難しい。今までのよう織田に属して、
本領を守るべきであろう。しかしどうしても我々に従おうというのなら、我が領国に移住するように。」
と答えた。

その後、伊賀の者達は皆織田家の命に従わなかったため、織田右府(信長)は大いに怒り、尽く誅伐
したため、みな山林に逃げ隠れ時節を伺った。

このような時に、本能寺の変が起こった。

伊賀越えをして三河へと帰ろうとする家康の元に拓殖清広は、一族の傳兵衛甚八郎宗吉、山中覚兵衛、
米地半助、その他甲賀の美濃部管三郎茂濃、和田八郎定教、武藤大炊茂秀らを引き連れ参上した。
彼らは皆人質を出して伊賀の道を案内し、鹿伏兎越の険難を経て伊勢までお供をした。

この時、伊勢までお供した輩は、後々召し出されて直参と成り、鹿伏兎越までお供して、途中で帰国した
二百人ほどの者達は、服部半蔵正成に属させ、伊賀同心として諸隊に配置された。
またこの年の六月に尾張において召し出された者達は、専ら陣中の間諜を勤め、後に後閣(大奥)の
番衛を勤めた。今も後閣に附属する伊賀者の先祖はこれである。
また甲賀者も武島、美濃部、伴などという者達は直参と成り、それ以下は諸隊に配置されて、与力同心と
なった者もあった。
(徳川実紀)

徳川の、伊賀者、甲賀者の由来についての逸話である。

433:人間七七四年
14/08/03 18:21:40.16 I6K+/Yrz
んー…

434:人間七七四年
14/08/03 20:05:51.04 OBLY9kN3
あー…

435:人間七七四年
14/08/05 11:54:10.10 b8dJHAwn
長久手の戦いにおいて、羽柴秀吉軍の森武蔵守長可、池田勝入を討ち取る戦果を上げた徳川家康は、その後
小幡城へと入った。

ここに榊原康政、大須賀康高らが御前に出て、この様に申し上げた
「今夜、敵陣の様子を伺いましたが、秀吉の軍は日中長途を駆けてきたので、皆疲れ果て
正体もなく倒れるように眠っています。ここで夜討ちをかけて辛き目を見せてやりましょう!」

しかし家康は首を振り、「いやいや」と言ってこれという仰せもなかった。
皆が御前を下がった後、家康は本田豊後守広孝を召して、
「お前は城門を巡視して、一人も門外に出さないように」
と命じた。

そして間もなく湯漬けを食すと、出陣を触れ、『なるべく物静かに揃え』と命じた。
このため皆『必ず夜討をかけるのだ』と思っていたが、そうではなく、家康は小牧城へと入った。
これに人々は、思いもよらぬことだと感じた。

後日、家康は浜松城において、この時のことを語った

「あの時、お前たちが夜討をかけろと言ったのは、秀吉を討つことが出来ると思ってか?
それとも、ただ戦に勝とうと言うまでのことか?」

一同、顔を見合わせて、ややあって
「秀吉を討ち取るまでは考えていませんでした。ただ、戦えば必ず勝利すると思って申し上げたのです。」

家康はこの答えを聞くと
「私もそのようには思った。だが、敵を皆殺しにしたとしても、秀吉一人を逃してしまえば
却って悪しき事態となったであろう。昼の合戦において池田・森の両人を討ったことさえ、
一人でも良かったと思っていたのだ。」
と言った。

(岩淵夜話別集)

小牧長久手合戦が、家康にとっても色々と難解な戦であったことを表す逸話である。

436:人間七七四年
14/08/05 12:37:03.44 TWdXO505
家康隙がない。
これじゃ名人戦になるわけだわ。

437:人間七七四年
14/08/05 12:42:18.27 6W4uCpiW
絶対勝てない相手にどう上手く負けるか修行しつくした熟練の駿河人

438:人間七七四年
14/08/05 13:29:39.39 TY4Krwfl
どちらにしても討っておいてよかったのは

…鬼武蔵だろうな

439:人間七七四年
14/08/05 14:12:25.81 nO8C0IrR
鬼武蔵を討ったいい話

440:人間七七四年
14/08/05 14:50:51.31 j9EDO2I9
三河人と駿河人それぞれの良いところを貪欲に取り込んだ知勇の人だが
面倒くささも人一倍なのが家康

441:人間七七四年
14/08/05 18:23:53.87 d32SMxTa
>>435
成る程・・・正に名人だったんだな
家康の戦話で一番凄みを感じたわ

442:人間七七四年
14/08/05 19:13:45.11 OhIJmNMB
勝ちに溺れない、っていう難しいことをサラッとやれるのが名人の凄味だな

443:人間七七四年
14/08/05 19:53:52.07 M6xd0Icw
ここまで家康の自演

444:人間七七四年
14/08/05 20:08:17.24 l0aDdUFS
と表裏比興の者が申しておる

445:人間七七四年
14/08/05 20:54:35.18 cHoFIy4o
安い挑発に乗って城を飛び出した若き日もありました・・・

446:人間七七四年
14/08/05 21:22:42.25 EddA60go
権現様は小牧長久手の戦で覚醒したイメージがある。

447:人間七七四年
14/08/05 21:22:48.40 kXnEVWKt
若気の至りでミソ付けちゃったのね

448:人間七七四年
14/08/05 21:48:39.35 eN+cpMUh
>>435
秀吉の軍て秀吉本隊のことか?
そりゃ無謀だし止めるわな

449:人間七七四年
14/08/06 08:50:17.54 x6kOzirZ
ほんとは湯漬けを食ってる間「行こうかなー止めようかなー」て考えてたんじゃないのー?

450:人間七七四年
14/08/06 09:37:23.54 Xo5UjVMb
秀吉側でも家康の所在を掴みつつあり、朝駆けを決意した上での
夜営だった(翌朝空振りして悔しがった)

実は危機一髪であったのかも知れず、夜討ちを回避して小牧山城へ
速やかに移動したのは実に慎重にして機敏だった

451:人間七七四年
14/08/06 10:54:18.76 Ba3+hWVe
>>446
初陣の大高城兵糧入れからすでに才能見せつけてると思う

452:人間七七四年
14/08/06 14:00:13.93 ZtFjIi4q
さすがにそれはちょっと

453:人間七七四年
14/08/06 15:02:06.36 k7nfbB38
公(家康)の天下を取る、大坂にあらずして関ヶ原にあり、
関ヶ原にあらずして、小牧にあり、
小牧にあらずして、天正壬午、にあらずして、伊賀越え、
にあらずして、高天神城、にあらずして、長篠、にあらずして、
三方ヶ原、にあらずして、一言坂、にあらずして、姉川、にあらずして、
三河一向一揆、にあらずして、遠江侵攻、にあらずして、岡崎城奪取、
にあらずして、大高城兵糧入れにあり

と神君史観

454:人間七七四年
14/08/06 15:29:24.34 7s6IIfxo
小田原攻めぬけてる

455:人間七七四年
14/08/06 15:34:30.66 k7nfbB38
だって元の頼山陽のが関ヶ原から小牧に飛んでるし

456:人間七七四年
14/08/06 20:31:07.84 98kmiJGQ
小田原は完全に秀吉の下についてやった戦だから江戸時代では数に入れれなかったのかもな
実際には小田原でも徳川軍が北条方の支城を落としまくる徳川無双が起こってたらしいが

457:人間七七四年
14/08/06 21:15:34.48 pDXU8vlg
それもちょっと

458:人間七七四年
14/08/06 21:17:40.77 nSnDUXdK
>>457
普通に記録見ただけで、徳川軍が怒涛の勢いで北条の支城落としまくってるのがわかると思うんだけど?

459:人間七七四年
14/08/06 21:26:16.17 Qa4TiG4i
そりゃ本気出さないと後で何されるかわかったもんじゃ無いしな。

460:人間七七四年
14/08/06 21:56:02.65 UNRYu4SA
相手が相手だけにな

461:人間七七四年
14/08/07 06:59:44.49 wiLnEwjc
小田原に戦力を引き抜かれてる状態だから、支城はボロボロ落ちるわなぁ

462:人間七七四年
14/08/07 07:27:19.75 TEHBXow8
北条一門と直臣の一部以外は殆どやる気も無かったしな。しかも、不利になったらさっさと降伏して寝返ればおkな土地柄だし。

463:人間七七四年
14/08/07 17:04:08.17 gUkkGK9s
>>462
韮山城の攻略に失敗した織田信雄や蒲生氏郷や福島正則や細川忠興、忍城攻略に失敗した石田三成や大谷吉継や真田昌幸を
disるのはやめるんだ!

464:人間七七四年
14/08/08 00:44:17.31 UbC4BRbC
慶長8年(1603)1月28日、徳川秀忠は江戸桜田の、上杉景勝の屋敷を訪問した。
これは関ヶ原後、上杉家に対する初めての御成である。

この時景勝は、直江山城守(兼続)はじめ3人のみを邸内に置き、その他の家士は皆下屋敷に
つかわし、門々の警護は徳川普代の諸大名に頼み、徳川家の御家人に諸事を扱わせた。

後でこれを聞いた徳川家康は、景勝は分別者であると大いに感じ入ったそうである。

また、上杉景勝は当時、石田三成の第一の与党であったと考えられていたため、そこに
御成まであったと言う事に、これを聞いた、かつて西軍に与した西国上方の大名たちは皆
「もはや我々に患いはない」と安心したとのことである。

(徳川実紀)

徳川秀忠の、上杉景勝邸への御成のお話。

465:人間七七四年
14/08/08 13:07:09.11 9h9pJmGg
>>463
韮山城主「兄者 俺って一門じゃなかったのか?」

466:人間七七四年
14/08/08 14:21:46.49 cxScHY6T
主戦派じゃない弟は兄弟じゃねえ

467:人間七七四年
14/08/08 14:47:15.76 avm+pYqY
でも結果的に一番頑張ったのその人だし

468:人間七七四年
14/08/08 14:48:39.26 cxScHY6T
切腹免れて国替えでしたっけ

469:人間七七四年
14/08/08 15:41:10.42 jqaERPuC
勝茂さまが御参覲へ向かう少し前のこと、長崎にはじめてビードロの屏風がもたらされた。
勝茂さまは珍しい物だからと将軍さまに御献上なさろうとお買い求めになった。
壊れやすい物なので、家中の者どもには、よく注意するようにと、何度も仰せになられた。
さて、屏風を納めるための箱が出来上がったので、
御進物役の鍋島采女が屏風を箱に納めるため受け取り、家屋へと持ち帰った。
そこへ、友人の枝吉利左衛門が訪ねてきて、

「ビードロの屏風なる物を、話の種に是非見たい」

と言い出した。采女は、

「もう箱に納めたので、悪いが見せることは出来ない」

と断ったが、利左衛門は是非見たいと言い張って箱から取り出した。
と、そのとき、誤って取り落とし、ビードロの屏風を破いてしまった(おそらくは割れた)。」
利左衛門は屏風をそのままに、

「人の運命とは、さてさて分からぬものぞ」

と言い捨て立ち去った(1/2)

470:人間七七四年
14/08/08 15:53:14.05 XM906JXL
真田パパとかすっげー慎重に動いてそう。籠城の第一人者だしw

471:人間七七四年
14/08/08 15:56:36.78 jqaERPuC
立ち去る様子が心配であったので、采女は利左衛門を呼び戻し、

「御心配されるな。わざとなされたことではないのだから、御前へは申し上げようがある。
なにも気にかけられることはない。
もっともこのことは他言無用ですぞ」

と慰めた。利左衛門は、

「殿の大切な道具を破ったことには変わりない。腹を切る覚悟です」

と言い出した。采女は、

「さてさて武士が気の小さいことを言われる。どんな宝でも、人の命に代えられるものか」

と言って、ひとり勝茂さまの御前へ出向き、

「御献上品のビードロの屏風、とりわけ大事の品と心得お預りしましたので、
家にて箱にしっかりと納まっているか調べていましたところ、取り落とし破ってしまいました。
このこと、わざわざ人を通して申し上げる必要もございませぬゆえ、
勝茂さまへ直に申し上げに参りました」

と言い捨て、御前を退った。
勝茂さまは采女の様子を見て御心配になられ、すぐにお呼び戻しになり、

「少しもかまわぬ。気にするな」

と仰せになり、それですんだ (2/2) 【葉隠】

472:人間七七四年
14/08/08 16:05:33.68 jqaERPuC
追記

その後、利左衛門と采女はこのことをいっさい口外しなかった。
利左衛門はいつか恩返しをしよう思っていたところ、
勝茂さまがお亡くなりになり、采女は追腹を切ることを決めた。
そこで利左衛門は、浴衣一枚と大きな敷物一枚を采女に贈った。
采女はたいそう喜んで、その浴衣を着て追腹を切った。
介錯は三谷千左衛門。
この話につけても、大切な道具は軽々しく取り扱わないようすべきであろう

473:人間七七四年
14/08/08 18:55:18.87 jqaERPuC
ごめん
〉恩返しをしよう『と』思
『と』がなかった


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