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22/11/27 12:16:40.97 YK17tVvZ0●.net BE:844481327-PLT(13345)
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忠武公李舜臣(イ・スンシン)=1545-98=将軍が1598年11月、壬辰(じんしん)倭乱(文禄・慶長の役)最後の戦いである「露梁海戦」を前に「先鋒(せんぽう)で戦ったら危険だ」という武将らの引き留めを聞かず出撃した、という記録が残る資料が初めて公開された。李舜臣将軍はこの海戦で大勝利を収め、戦死した。
文化財庁と国外所在文化財財団は、壬辰倭乱時に領議政(総理大臣に相当)を務めた柳成竜(ユ・ソンリョン)=1542-1607=が書いたと推定される文書「柳成竜備忘記入大統暦庚子(こうし)」(以下『大統暦』)を最近、日本から韓国国内に持ち込み、24日に公開した。
1600年(庚子年)の暦本であるこの資料には、柳成竜自身が書いたと推定される天気、日程、約束、事件、病勢および処方などが書き込まれている。最も注目すべき部分は、紙を当てて作った表紙の上に記された李舜臣将軍関連の記録だ。
「戦い(露梁海戦)の日、自ら矢石の危険を冒すと、部将らは陣頭指揮を引き留めてこう言った。『大将は自らを軽々しく扱ってはなりません』。
しかし聞き入れずに直接出戦して戦いを督励し、やがて弾に当たって戦死した。ああ!」(戦日、親当矢石, 褊裨陣止曰、大将不宜自軽 …(不)聴、親出督戦、既而為飛丸所中而死、嗚呼)と記録されている。
これは「なぜ李舜臣将軍が



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