【文春】山下達郎が初めて語った戦友・村上“ポンタ”秀一「なぜポンタにドラムを頼んだか」 「ベスト・ドラムは"この1曲"」 [湛然★] at MNEWSPLUS
[2ch|▼Menu]
1:湛然 ★
21/04/11 13:32:08.35 CAP_USER9.net
4/11(日) 11:12 文春オンライン
「シュガー・ベイブの後、なぜポンタにドラムを頼んだか」山下達郎が初めて語った戦友・村上“ポンタ”秀一

 日本を代表するドラマー、村上“ポンタ”秀一さんが3月9日、入院先の病院で亡くなった。70歳だった。
 1970年代にリリースした「SPACY」や「イッツ・ア・ポッピン・タイム」などのアルバムで、スタジオミュージシャンとしてポンタ氏を起用していたシンガーソングライターの山下達郎さん(68)が、20代の当時から気鋭のミュージシャンとして同じ時代を生きた“戦友”との思い出について振り返った。
 インタビュアーは音楽ライターの真保みゆき氏。真保氏は、ポンタ氏がデビュー30周年にあたって出版された自伝本「 自暴自伝 」(2003年、文藝春秋刊)の構成を手掛けた。
(※中略)
◆ポンタは話を盛るからね(笑)
(※中略)
◆「赤い鳥」のポンタはやたらと手数が多かった
(※中略)
◆スタジオのドラマーと言ったらポンタだった
(※中略)
◆シュガー・ベイブ時代に感じた「排他的な雰囲気」の中でも…
―ポンタさんと間近に接した時の印象はいかがでしたか。
山下「本当に優しいやつなんです。それは最初に会った時から変わらない。なぜそう思ったかというと、当時のスタジオ・ミュージシャン、特に東京のスタジオ・ミュージシャンというのは、アッパー・ミドルの人たちがほとんどだったのね。私立の付属高校出身の人も多かったし」
―青学とか。
山下「そうそう。あと慶応とか明治学院。そういう人たちじゃないと、いい楽器は買えなかった。僕の高校時代、サラリーマンの初任給が4万5千円の時代に、ギブソンのレスポールが32万。一番安いテレキャスターだって17万したからね。ドラムに至っては、ラディックが50万60万するのは当たり前。それが買えるのは、よっぽどいいとこのお坊ちゃんか、稼ぎのいいプロのバンドマンだけだった。こちとらバイトしたってギターならモーリスやアリア、ドラムはパールの安いやつが精一杯ですから(笑)。
 そういう意味で東京のスタジオ・ミュージシャンってどこかエキセントリック。排他的な雰囲気があったんです。『シュガー・ベイブ』(※73年に山下氏を中心に結成されたインディーズ・バンド)をやってた時代、そういうことを特に感じてた。同じ東京でも僕らは城北地区出身。池袋とか巣鴨、赤羽がホームグラウンドの人間なので」
コーラス・ボーイだった僕にも“別け隔て”がなかった
―「ティン・パン・アレー」の音楽自体、東京のお坊ちゃま文化から生まれた面はありますよね。(※細野晴臣、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆の4人からなるセッショングループ。「キャラメル・ママ」が発展的に拡大したプロジェクト)
山下「そのものですよ。キャラメル・ママ、ティン・パン・アレー、サディスティックス。ベビーブーマーの中からあの一群が、突然変異みたいな超絶テクニックを携えて出てきた。後にも先にもあんな現象ってないですよ。不良性がない代わりに、お坊っちゃん然とした独特の排他性を備えていて……。松本隆さんなんかもそうだよね」
―アメリカの大学で言うところの“フラタニティ”的な。
山下「そうそう。そこには上手い下手の差というのも歴然とあって。日本青年館だったかな、シュガー・ベイブでティン・パンの前座をやった時、演奏が終わって(ライヴ音源の)カセットをもらいに行ったら、PAのスタッフから『お前ら下手だから録ってねえよ』と言われたことがあった。そんなのが日常茶飯事だったんです。向こうは忘れてるかもしれないけど、こっちはよく覚えている(笑)。
 ポンタにはそういうところが一切なかったんです。テクニシャンだけど受容度が高い。死ぬまで後輩の面倒を見ていたし、本当に優しいやつだった。初めて会った頃なんて、言うなれば僕は一介のコーラス・ボーイですよ。でもポンタの場合、そういうところでの別け隔てがなかった。後で話しますけど、『ライヴで叩いてほしい』と頼みに行った時も、歌に関わっている人間としてきちんと認めてくれて。この業界、こちらが何者かわかった途端に、掌を返すように態度を変えてくる人間が少なくないんですよ。ポンタにはそういう裏表が一切なかった」
山下達郎ロングインタビュー#1
URLリンク(bunshun.jp)


レスを読む
最新レス表示
スレッドの検索
類似スレ一覧
話題のニュース
おまかせリスト
▼オプションを表示
暇つぶし2ch

1104日前に更新/27 KB
担当:undef