【スポーツ異聞】猪木−アリの友情秘話 1979年、「世紀の凡戦」を帳消しにする「幻の一戦」が組まれていた! at MNEWSPLUS
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1:きゅう ★@\(^o^)/
16/06/24 10:26:17.56 CAP_USER9.net
 不世出のボクサー、ムハマド・アリの死は「世界格闘技の日」(6月26日)にも影響を与え、一方の「役者」を失ったことで初の記念日はアリ追悼のメモリアルとなりそうだ。40年前、「世紀の凡戦」などと酷評されたアントニオ猪木−アリ戦とは別に、これぞ“奇想天外の極み”ともいうべき異種格闘技戦がのちに組まれていたことを記憶する者は少ない。「両雄の友情」が懸け橋となったスパイ小説さながらの大バトル。まさかの理由で「幻の一戦」に終わってしまった。
アリが完全武装でレフェリー役
 1979年1月、アントニオ猪木は記者会見に臨み、「禁断のバトル」ともいうべきある興行が発表された。猪木の対戦相手はイディ・アミンといった。プロレスラーでもなく、ボクサーでもない。当時のウガンダ(アフリカ)大統領である。
 そのニュースは、アリ戦を超すぐらいの衝撃をもたらした。190センチを超す巨漢。東アフリカの元ヘビー級チャンピオンという異色の経歴を持つ。軍歴が長く、冷血な独裁者「ブラック・ヒトラー」として知られた人物だった。世界を驚愕の底に陥れたのは、それだけではない。レフェリーとして指名されたのが、76年に猪木と対戦したアリ本人だったからだ。猪木戦を通じて「友情」の絆を深めたアリはレフェリーという「脇役」の要請を受け入れたのである。

URLリンク(www.sankei.com)
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 アリはグローブとヘッドギア、防弾チョッキを装着してリングに上がることになっていた。破天荒なマッチを企画したのは、猪木−アリ戦でも暗躍した「伝説のプロモーター」として名高い康(こう)芳夫だった。自伝『虚人魁人 康芳夫』(学研)に、ウガンダ国民を苦しめた独裁者について「以前から私が注視して動向をチェックしていた意中の人物」となんら悪びれる様子もなく記し、「アリと猪木の世紀の凡戦の仕切りなおし、これぞ正真正銘の20世紀最大の話題を集める異種格闘技戦」と“ガチンコ勝負”だったことを明かしている。
 ところが、全権を手にして独裁化を強め、虐殺を繰り返した悪名高き大統領は興行前に追放、失脚の憂き目に遭遇。猪木戦は中止に追い込まれてしまった。全世界に放映されるはずだった「幻の一戦」は、格闘技ファンの間でも完全に忘れ去られた。猪木自身も現役引退後、アリ戦について振り返ることはあっても、独裁者との幻の決闘については多くを語らない。
ギャグ漫画の巨匠もたまげた!
 格闘技に詳しい事情通は「異種格闘技というジャンルにこだわり、つねに時代を先取りした猪木だが、この試合は茶番と見る向きもあったが、アリ戦以上に予測不能な危険の香りがぷんぷんしていた。両雄の友情がもたらした一戦とはいえ、偉大なボクサーであり、大統領と同じ回教徒だったアリが“仲介役”を務めなければ、試合の収拾がつかなくなるという見方もあった。ギャグ漫画の赤塚不二夫に『もし実現していたら、もう自信をなくして、漫画なんか描けなくなる』と言わしめるほど現実離れし、だれもが想像すらできなかった」と振り返る。

 実際、猪木−アミン戦で交わされた契約は理解しがたいものだった。例えば、レフェリー役のアリは、主役の猪木の約2倍ものギャラを手にできることになっていた。通常、ファイトマネーを超すギャラを手にできるレフェリーはいない。ひと言でいうなら「役者が違う」ということだ。
 決死の覚悟という点ではアリも変わらなかった。すでにボクサー人生としてのピークは過ぎていたが、当時はまだ現役。徴兵制に「ノー」の姿勢を貫き、「いかなる理由があろうとも殺人に加担できない。軍服は絶対に着ない」と闘ってきた。米国社会のシンボルともいうべきアリにとって、華麗なるボクサー人生を汚すことはできなかったはずだ。
 それにしても、空前のバトルが実現していたら、想像を絶する異種格闘技の“行司役”をどう裁いていただろうか。世界中の視線は猪木VSアミンではなく、「伝説の男」の一挙手一投足に向けられていただろう。


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