【サッカー】2006年ドイツW杯、中村俊輔が明かす「俺が輝けなかった」理由 at MNEWSPLUS
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1:豆次郎 ★
18/06/15 02:38:47.95 CAP_USER9.net
6/14(木) 11:45配信
2006年ドイツW杯、中村俊輔が明かす「俺が輝けなかった」理由
私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第6回
W杯で輝けなかった「エース」の本音〜中村俊輔(1)

「俺は輝けなかったからね……」
 中村俊輔は、2006年ドイツW杯を振り返って、そう言った。
 ジーコ監督が率いた日本代表は当時、「史上最強チーム」と謳(うた)われた。2002年日韓共催W杯でベスト16に進出し、そのときの中心メンバーが軒並み残っており、そのときよりも各メンバーが経験を積み、選手としてさらに成長していたからだ。
 年齢的にも多くの選手が20代半ばから後半を迎え、円熟期にあった。世代別代表でも”世界”で結果を出してきたタレントぞろいのチームはポテンシャルが高く、大会直前の親善試合では、ドイツ相手に互角の勝負を演じた。メンバー構成だけでなく、そうした経緯からも、日本中のファン、そしてメディアはもちろん、選手自身も期待していたチームだった。
 中村はそのチームにあって、中田英寿とともにジーコ監督が信頼を置く絶対的な存在だった。
 しかし、W杯本番では”悪夢”のような試合が続いた。
 初戦のオーストラリア戦は、中村のゴールで先制。幸先のいいスタートを切ったかと思われたが、終盤、途中出場のティム・ケーヒルに同点ゴールを決められると失点を重ねて、1−3と逆転負けを喫した。
 続くクロアチア戦は決定的なチャンスがあったものの、それを生かせずにスコアレスドロー。最終戦のブラジル戦では、力の差を見せつけられて1−4で敗れた。前回大会以上の成績が期待された日本だったが、1分2敗でグループリーグ敗退に終わった。
 中村は3試合にフル出場し、1得点に終わった。
「もっとできたような、でも限界だったような大会だった」
 当時を思い出して、表情に苦いものが走る。
 なぜ、中村は輝けるはずの舞台で輝けなかったのだろうか。
 初戦のオーストラリア戦は、衝撃的な逆転負けだった。
 FKから中村が先制ゴールを決めたものの、勝利を目前にした試合終盤の後半39分に追いつかれた。うだるような暑さの中、オーストラリアに執拗にロングボールを蹴られて、守備に追われた日本はかなり疲弊していた。その結果、リードしている間は維持できていた気力や集中力も、同点にされた瞬間に完全に切れてしまった。わずか数分の間にトータル3ゴールも決められた。
 試合後、中村はピッチでしばらく呆然としていた。
 グループリーグの対戦相手からして、決勝トーナメントに駒を進めるためには、オーストラリアには絶対に勝たなければいけなかった。そういう相手に、しかも逆転で敗れたショックの大きさは、中村や他の選手の朦朧(もうろう)とした表情から読み取れた。
 続くクロアチア戦でも、中村は”らしい”プレーは見せられなかった。結果が出ないなか、中田と中村の両エースに批判が集中した。
 確かにドイツW杯での中村はその2年前、2004年アジアカップ優勝でMVPに輝いたときのような、”違い”を見せるプレーが少なかった。調子が上がらない中村は、日本が勝てない原因のひとつに挙げられた。
 そうした評価とは裏腹に、中村は自らの感覚的には「悪くない」と思っていた。
「俺自身は『なんでそこまで言われるのかなぁ』『わりとやれているじゃん』って思っていた。ただ、結果が出なかったからね。
 やっぱりチームが勝てなかったのは、自分の責任。それは、周囲から言われたからではなく、”10番”ってそういうものだし、その責任は重く受け止めていた。チームを勝たせる責任が”10番”の選手にはあるし、俺を信用してくれたジーコに『もっといい思いをさせてあげたかったなぁ』って思った」
 中村は、大会前と大会中、2度風邪を引いて発熱もあった。クロアチア戦の前は点滴を打って大事には至らなかったが、練習を途中で切り上げているので、かなり厳しい状況にあったのだろう。思うようなパフォーマンスができなかったのは、左足の親指の爪を割るなどの影響もあったが、発熱のダメージのほうが大きいように見えた。
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