【野球】<瀬戸内のドカベン”>甲子園準V球児“たこ焼き屋で再起!昨春体重200キロ超.. at MNEWSPLUS
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18/03/23 07:15:44.82 CAP_USER9.net
 23日に開幕する選抜高校野球。20年前の大会に「瀬戸内のドカベン」と呼ばれた兵庫ゆかりの捕手が出場したことを覚えている人はいるだろうか。
岡山理大付高の4番打者だった森田和也さん(36)。100キロ超の体格を生かした力強いスイングで、翌夏の選手権大会では高校野球史に残る本塁打を放って注目を集めたが、プロ野球選手の夢は大学中退で途絶えた。
ディスコやガソリンスタンドなどさまざまな職を転々とし、現在は地元の尼崎でたこ焼き店を経営。さらに大きくなった体を絞りながら、再び野球に関わる道を探っている。
 昨春、身長176センチの体を何年かぶりに体重計に預けた。デジタルの表示が一気に跳ね上がったと思ったら、「エラー」。測定の上限値、200キロを超えていた。
 高校球児だった20年前から体は大きくなり続け、ボールを投げることも、バットを振ることも、走ることすらも満足にできない。「運動不足と食生活かなあ。甘い物も白いご飯も大好きやし、間食も多かったし」
 野球界を席巻した「松坂世代」の1学年下。園田東小2年で野球を始めた時から体格はよく、4番捕手が指定席だった。
 園田東中時代は硬式の「兵庫尼崎ボーイズ」で全国制覇。チームメートには、PL学園に進み、プロ野球横浜ベイスターズ(当時)にドラフト1位で指名された田中一徳さん、地元・兵庫の滝川第二高から中日ドラゴンズに入った福沢卓宏さんがいた。
 進学した岡山理大付高でも、1年秋からレギュラー。中国大会を制し、翌春の選抜大会に出場したが、3回戦で敗退した。どう投手をリードするかで頭がいっぱいだった。あこがれの聖地で記憶に残っているのは、負傷していた右肘の痛み止めに球場のトイレで座薬を入れたことと、敗れた浦和学院戦で、打者の腕の太さに「バリえぐい」と驚いたことぐらいだ。
 野球人生のハイライトは、3年夏の選手権。3回戦の水戸商戦で、左翼席中段に飛び込む推定飛距離140メートルの本塁打を放つ。甲子園のヒーローだった清原和博さんと比較されるなど、スポーツ紙で大きく取り上げられた。
 その直前の右翼へのファウルは覚えている。緩い球を十分に引き付けてとらえ、「次はいける」と感じた。ただ、肝心の本塁打については「どんな球だったのかも、打った手応えも、全く覚えてない」と振り返る。動画サイトで映像を見返しても、やはりよみがえってこない。
 チームは、強豪との接戦を勝ち上がり、岡山県勢初の準優勝に輝く。だが、プロを目指して進んだ近畿大工学部で右肘の痛みが再発し、満足に練習できないまま1年足らずで中退。尼崎に戻り、旧友とぶらぶら遊ぶ日が続いた。
 幼い息子の打撃練習に付き合い、試合観戦のために仕事を辞めた父は、何も言わなかった。「野球を辞めた生活のイメージが全くできてなくて、何をしていいか分からなかった。でも、『もっと頑張っていれば』とか『野球を続けていれば』とかは考えたくなかった」
 地元の先輩に連れて行ってもらった大阪・ミナミのディスコで店員として働き始めた。慣れない接客で会話の糸口を探る苦労が続いたが、自分から野球の話題を持ち出そうとは思わなかった。
 その後、ガソリンスタンド、カフェ、マジックバーと勤め先を変え、30歳のころ、知人の紹介で本格的に飲食業へ。お好み焼き店の店長、唐揚げ店の経営を経て、2015年の春から地元でたこ焼き店を営んでいる。
 20代後半の時、一度だけ草野球に参加したことがある。ユニホームを用意され、断り切れなかった。三振して脚がつり、守備では落ちる変化球に反応できずにみぞおちで受け止めた。「野球は一生無理や」と落ち込んだ。
 中学の同窓会に足が遠のく一方、高校時代の野球仲間とのつながりは持ち続けた。当時のレギュラーが野球から離れている一方、控えだった選手がいまだに趣味で続けているのを不思議に思う。
 彼らと話すたびに「野球、教えるぐらいならできるやろ」と言われるようになった。本心を見透かされていたのかもしれない。後押しされるように、昨春から幼なじみが経営するダンススタジオに週1回通い始めた。
 腕立て伏せは、壁に手を付いて体重を預けながら。腹筋は、ベンチに腰掛けてわずかに体を丸めるだけ。できることは限られるが、挑戦してもすぐに断念してきた減量が今回は1年近く続いている。
3月22日(木) 18:42配信
動画あり
URLリンク(headlines.yahoo.co.jp)


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