【韓国起源】エクアドルのコレア大統領のルーツは秀吉の朝鮮侵略で連行された子孫?[11/14] at NEWS4PLUS
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1:力士 ◆RiKiCQzWKY @力士庶Oφ ★
08/11/18 06:55:21
★エクアドルのコレア大統領のルーツは?
秀吉の朝鮮侵略で連行された子孫か

イタリア人フランチェスコ・カルレッチが長崎で朝鮮人の奴隷少年5人を買い取って、4人をインドのゴアで
手ばなし、一人だけを連れてイタリアに帰ったことは、山口正之氏の「朝鮮西教史」に紹介されていた
(雄山閣、1967年10月刊)。韓国日報の金聖佑記者は、その奴隷少年アントニオ・コレアの子孫をイタリア
本土で突きとめたことで、大きな話題となった。韓国日報(79年10月7日付)によると、見出しは「370年前、
壬乱(壬辰倭乱=秀吉の朝鮮侵略)時、日本に連行された少年、イタリア探検家に随い、ヨーロッパに」とあり、
また、「イタリア『コレア(COREA)』氏たちの村、『根=ルーツ』は韓国人だった」と大々的に報道した。

■初報道は韓国日報
「朝鮮西教史」によると、カルレッチはフローレンス(フィレンツェ)の生まれで、父とともに、1594年から海路
での世界一周を志し、1606年までの13年間をかけて目的を達したという。彼と父は、大西洋へ出て西インド
諸島に渡り、2年の後、1596年メキシコのアカプルコを出て、太平洋を通り、フィリピンのマニラに着き、
1597年5月、日本船に乗って長崎に上陸したという。

秀吉の朝鮮侵略は1592年から98年の7年間。彼の長崎滞在は10カ月ほどだが、要するに彼は朝鮮侵略
戦中の日本で生活していたということである。長崎で前記の朝鮮人少年奴隷5人を買い洗礼を受けさせた。

1598年3月、マカオを経由して、翌年12月、インドのゴアに到着。「その頃ゴアは奴隷売買の市場として
栄えたが、父はそのいざこざに巻きこまれて不慮の死をとげた。そこで行をともにしていた五名の朝鮮
キリシタン少年のうち四名はゴアに居残った。朝鮮奴隷はマカオ・ゴアなどのポルトガル植民市で取引された」
(「朝鮮西教史」)。

韓国の歴史書には、4人の少年はゴアで「解放」された、としているが、違うと思う。カルレッチは少年一人を
連れて、いろいろとあって、1606年にやっとイタリアのフローレンスに到着する。少年の名はアントニオ・コレア
(ANTONIO COREA)と呼ばれた。「カルレッチは、その後1701年に出版した東西印度航海記(フローレンス刊、
羊皮紙製本一冊)に朝鮮少年の動静をしるして、−アントニオは、いまローマに滞在している−と述べている」とある。
(中略)

■イタリアでオリーブ農場
金聖佑記者は、このアントニオ・コレアの子孫を探しあてたのである。これは、実に特種中の特種なことだと言える。

イタリアの東南に位置するアルビという山村の人口1348人中、コレア姓が185人という多数である。また、
近くのカタンチャロという都市には60人、この他南部の10余りの地区に数人ずつ居住しており、ローマにも
20余人が居住しているとのことである。

コレア姓の本家筋のカスクアルレ氏は、オリーブ農場を経営していて、当時38歳。アントニオ・コレアが先祖
だという記録はないが、代々言い伝えられているとのことである。アントニオは、船便でアルビ近くの湾に着き、
農地を探していたが、この村でアヌンチアタラという女性と結婚し、何人かの子をなしたが長男の名はドミニコ
だった。アントニオはこの地に死んで、墓もある。つまり、アントニオ・コレア以前のことは全く判らず、自分たち
の先祖が朝鮮人だったことも知らなかったのである。故に、アルビのコレア氏の曽祖父代までに、黒い髪の毛、
横長の眼や皮膚の色が非西洋的な人もいたが、なぜだか判らなかったという。

そしてもう一点、大事なことが書かれていた。「コレア氏たちは、また、1904年に約20名が米国へ移民で行き、
1950年より、再び40余名が米国、カナダ、南米などに仕事場を求めて(この地を)離れ、コレア氏の子孫たちは、
米洲大陸に多く散在することになった」とあるのである。(>>2以降につづく)

[朝鮮新報 2008.11.14]
URLリンク(www1.korea-np.co.jp)

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