【森功】菅一族は「地元エリート」 だった 叔父は東北電力の支店長 [クロ★] at SEIJINEWSPLUS
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1:クロ ★
20/09/25 00:09:15.33 CAP_USER9.net
 新政権は「既得権益」「悪しき前例主義」「縦割り行政」という3つの打破を政策スローガンに掲げる。菅義偉は「改革」という言葉が大好きである。
 ひょっとすると、それは実父和三郎を意識しているのかもしれない。和三郎は1918(大正7)年に生まれた。男6人、女5人の11人きょうだいの長男だが、この頃はさほど珍しくはない。
 菅は自己を紹介するとき必ず「東北の農家生まれ」という。だが、もともと菅一族は専業農家ではない。和三郎の父喜久治をはじめ、次男や三男たち、菅家の男の多くが明治政府の殖産興業振興の下、秋田県に建設されてきた発電所に勤務してきた。のちの東北電力だ。繰り返すまでもなく菅にとって喜久治は祖父、次男や三男は叔父にあたる。次男は戦死するが、祖父の喜久治や三男の栄二郎は戦後も東北電力に勤務し、栄二郎は湯沢支店長まで務める。エリートサラリーマンだ。
 もっとも11人きょうだいの長男である菅の父、和三郎は、電力会社の勤務を嫌ったようだ。戦中、ひと旗揚げようと中国大陸に渡った。日本政府のつくった南満州鉄道の入社試験に合格し、鉄道敷設の現場監督としてそれなりの地位を築いて、小学校の教諭をしていたタカを呼び寄せる。
 一方、大正以降、貧困にあえぎ続けてきた東北の農村では軍部や政府の甘い言葉にだまされ、満州へ入植した人たちが少なくなかった。
 菅の生まれ故郷の雄勝村(現在の湯沢市雄勝町)の農民もまた、貧しさのせいで雄勝郷開拓団を結成し、新天地を求めて満州を目指した。
 和三郎自身は開拓団に参加していないが、妹たちは嫁ぎ先とともに入植し、終戦を迎える。そこでソ連軍の脅威にさらされ、雄勝郷開拓団の入植者の多くが、集団自決という悲劇の道を選んだ。
 昭和23年生まれの菅はむろん終戦後のそんな地獄には遭遇していないが、父の和三郎は身重だった夫人や長女を連れて逃げ惑った。日本に引き揚げる途中、夫人が産気づき、荒れ果てた小学校の体育館に隠れて次女を産んだ。
 和三郎たちはその後、地元の雄勝郷開拓団の人たちと行動をともにし、命からがら日本に逃げ帰った。開拓団に加わっていた妹たちをはじめ、機転の利く和三郎のおかげで命拾いした開拓団の人も少なくないと聞く。
 そうして菅一家は戦後、秋田に戻り、新たな暮らしを始めた。和三郎はコメづくり一辺倒だった東北地方の農業から脱皮しようと、イチゴ栽培を始める。米づくりが中心だった地元の「こまち農業協同組合」の反対を押し切り、「いちご生産出荷組合」まで創設した。
「和三郎さんの組合はイチゴだけで年に3億円の売り上げがあったほど」
 そう話してくれたのは、湯沢市議会議長の由利昌司だった。小中高校と菅と同じ学校に通った親友である。 =敬称略
(つづく)
日刊ゲンダイ
20/09/24 06:00
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