赤い酔星[東京・中日新聞]こそ電波その98 at MASS
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363:文責・名無しさん
22/12/23 02:07:04.91 0BvNZAY00.net
「新愛知」といえば桐生悠々だな (大正8年 1919年)
 
「大正八年、「新愛知」の紙令一万号 (五月二十七日) に達したとき、
 主筆・桐生悠々は、次の所感を紙上に述べている。
 
(大幅に省略)・・・ 私共はまたこれと同時に、  
経営者其人を更へず今日に至るも 尚同一人を経営者として戴いて居るのを、
聊か以て誇りとするものである。
 
新聞紙にして一万号に達したもの、又は達せんとするものは少くないことであらう。
併しながら・・・同一人にして三十年間、新聞紙の経営に終始して居ると言ふ一時は・・・
優に其人の手腕あり、且つ誠意ある事業家たることを立証するものにあらずして何であらう。
私共は即ちこれを誇りとすると同時に、最後に此経営者に対して、
其事業の上に旧にまさるの誠意を披瀝せんことを切望に堪へぬものである。(社末 桐生政次)
 
「新愛知」の主筆・桐生悠々(桐生政次)が
 ベタボメしている経営者とは言うまでもなく 大島宇吉 
 見事なまでのクツの舐めっぷりである。
 
まるで 飯尾一路(いいお いちぢ)みたいだな。
大正14年(1925年) 11月7日、愛知県 知多郡 大野町(現 常滑市)に生まれる。
成蹊高等学校文科を経て、昭和26年(1951年) 3月、京都大学 法学部を卒業。
同年4月、名古屋タイムズ 編集局 社会部に入社。文化部長、編集局長、論説委員長  
昭和47年(1972年) 中日新聞 編集委員 昭和51年(1976年) 中日新聞 論説委員
CBCラジオ「おはようCBC・土曜版」コメンテーター(司会は 荒川戦一)
スレリンク(am板:664番)-666
 
「中部日本ビルディング二十年史」(中日ビル20年史) 昭和62年(1987年)
 
あとがき  この小史を、中日ビルの生みの親、育ての親である 故・大島一郎社長の霊前に捧げる。
 
この大変な仕事を引き受けてしまったとき、私はすぐ激しく後悔した。
一つのビルの歴史といっても、このビルは、ただものではない。その一つ一つに、二十年という歴史がある。
第一回の編さん委員会が、小心で無能な私の不安を解消するのに役立った。
 
歴史には史観がなければならない。中日ビルのすべてに共通する理念と哲学をまず探らねばならない。
 
中日ビルの二十年の歴史を一貫している理念は、その創立者、大島一郎社長の哲学そのものなのであった。
取材が進むにつれて、そのことはほとんど確信となった。
取材のあらゆる場所と機会で、大島社長の言葉と行動の重さについて知ることができた。
 
中日ビルは生きている。この生きものの中には、創立者の理念の結晶がある。


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