【京都】社会的共通資本の宗教 諸宗派が矛盾なく共生[09/22] at FEMNEWSPLUS
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1:坊主 ★
18/09/22 23:41:22.97 CAP_USER.net
毎日新聞 2018年9月22日
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 この国の人々に特有の宗教意識は、端的にいえば、多重信仰とシンクレティズム(混交)の上に成り立っているようです。神道式「お宮参り」をする人がキリスト教式「結婚式」を挙げ、最後は仏教式「葬式」で見送る多重性などはライフサイクル上のありふれた光景ですし、また、一つの家庭内に仏壇と神棚が矛盾なく同居(混交)していることも全然珍しくありません。良く言えば宗教的寛容、悪く言えば宗教的無節操。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教に見られる一神教的な排他性は相対的に希薄です。
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 多重信仰とシンクレティズムをこの国で一番よく感じられる地域、それが京都ではないかと筆者は思っています。特定の宗教の聖地に形成された集落や寺院・教会の寺内町・門前町(たとえば天理教の奈良県天理市)を「宗教都市」と言うならば、京都は宗教都市には該当しません。ただし、比較的狭い京都市域に、非常に多くの寺院、神社、教会、モスクが林立して(府内の寺院・神社の6割以上が京都市内に集中=総務省2014年経済センサス基礎調査)、さほど大きな葛藤もなく共生している状態を見れば、京都市を「宗教都市」と言って言えなくもないように思われます。
 「さほど大きな葛藤もなく共生している」と記しましたが、それに関わる興味深い研究があります。壽崎かすみ龍谷大准教授の「京都市におけるキリスト教会の地域との関係に関する研究」(日本地域学会15年研究大会梗概・WEB公開中)がそれ。壽崎さんはその中で、市内143のキリスト教各教団教会の牧師・司祭を対象にアンケート調査を行い、たとえば、地域の神社の祭礼などへの関わり方を設問しているのですが、結果は、「一切関わらない」がさすがに多くて47・9%に達しますが、「一定の条件のもとに関わる」も30・0%だった点が面白いと思います。牧師・司祭といったプロフェッショナルな宗教者の3割が地域の伝統文化と摩擦を起さぬよう努力しているのですから、調査対象ではない一般信徒はさほど気遣いすることなく、地域と「うまくやっている」のではないかと推察されます。
 ところで、京都は平安京遷都(794年)に始まったとされますが、現在の京都の実質的な構造は天下統一を実現した豊臣秀吉による1591(天正19)年からの都市改造計画に由来するものです。すなわち、御所の修築拡大、聚落第(じゅらくだい)周辺の大名屋敷の建設、洛中を包む御土居の構築などですが、その一環として秀吉は洛中の数カ所に寺院を集団的に移住させ、いわゆる「寺町」を作り上げました。これが現在の京都の寺町風景の原型です。
 本願寺は秀吉がもともと大坂天満にあったものを移転させたことから始まりますが、東西本願寺に分立させたのは徳川家康、1602(慶長7)年のことでした。西本願寺ではその寺域のことを「寺内町」と呼んでいたのですが、面白いのはこの寺内町の中の住民の宗旨です。歴史家の故・原田伴彦大阪市大名誉教授によると、延享年間(1744〜48年)の頃の西本願寺寺内町の住民の宗旨は、当然、真宗53・8%が一番多いが、その他、浄土宗38・5%、法華宗5・5%、禅宗1・2%等々とかなり多様です(「近世都市と寺町」『都市形態史研究』、思文閣出版、188ページ)。仏教多宗派が混在し、ことに真宗と対立的といってよい法華宗信者さえ5%強も共生していたというから驚きです。原田さんはこの多重性について、「(寺内町が)商工業などの経済的関係によって繋(つな)がれるという新しい性格を加えるに至ったことを示す」(同ページ)と説明していますが、筆者はそれに加えて、この国における宗教的寛容=宗教的無節操の機能を想定します。
 さらに想像力をかき立てさせられるのが、京都の寺院とキリスト教との関係です。たとえば、臨済宗大徳寺派大本山・大徳寺の塔頭(たっちゅう)寺院である高桐院(京都市北区紫野大徳寺町)。杉野栄著『京のキリシタン史跡を巡る』(三学出版)によると、ここにはキリシタンになった細川ガラシャとその夫・細川忠興の墓や現代のキリスト者の墓のほか、出雲阿国の墓もあるそうです。阿国の舞姿を描いた南蛮屏風(びょうぶ)(徳川美術館所蔵)を見ると(ネットで簡単に見ることができます)、阿国の胸に立派な十字架がかかっています。出雲大社の巫女(みこ)だったとも言われる阿国とキリシタンとの結びつきは不明です。



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