【東日本大震災】菅原彩加さん祖父「彼女が震災体験を語るのは、11日の追悼式典スピーチで最後にしたいと考えている」★4 at NEWSPLUS
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1:野良ハムスター ★
15/03/21 10:26:51.01 *.net
《津波 母残し…泣いた日々》(読売新聞)、《動けぬ母に最後の言葉》(朝日新聞)。
3月12日、主要新聞の朝刊一面を19歳の少女の写真が飾った。前日に千代田区・国立劇場で開催された
東日本大震災追悼式で、宮城県遺族代表としてスピーチした菅原彩加さんの記事だ。
「足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けてみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた
母の姿がありました。(中略)母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。
『行かないで』という母に私は『ありがとう、大好きだよ』と伝え、
近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました……」
切々と読み上げられる彼女の衝撃的な体験は、とかく4年前の悲劇を忘れがちだった多くの国民にも、
あの日の“地獄絵図”をまざまざと思い出させた。11年5月、菅原さんは仙台育英学園高校に進学。
当時の担任教師だった石山かおりさんは、こう語る。
「震災直前の2月、菅原さんが新入生説明会にお母さんと一緒に来ました。
お母さんと笑いながら話していた姿をよく覚えています。とても仲が良さそうな親子だったのに、
震災であのようなことになってしまって……。『今でもお母さんのことを思い出して、時々泣いてしまう』など、
胸の苦しみを語ってくれることもありました」
菅原さんは日本だけではなく、海外でも被災体験を語るようになった。
その数は世界7都市で50回にも及ぶという。「人生は短いんだから、いろんな人に会ってほしい」という
亡き母の生前の言葉が、背中を押してくれた。さらに前向きに生きるためにスイス留学にも旅立った。
生き残った唯一の家族である祖父に、話を聞いた。
「私にとっても、大震災で3人もの肉親を失った体験はあまりにも過酷でした。
それは当時中学3年生だった彩加にとってはなおさらのことだったと思います。
実は彼女は震災体験を語ることは、(11日の)追悼式典のスピーチで最後にしたいと考えているんです。
彩加は4月から東京の大学に進学します。そこで一区切りつけるようです。
将来何をしていくかは彼女自身が決めていくことですが、強く生きていってほしいと願っています……」
URLリンク(media.image.infoseek.co.jp)
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★1の立った日時:2015/03/18(水) 15:28:50.04
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