隋唐帝国 三 ..
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2:世界@名無史さん
21/10/04 13:21:33.68 0.net
隋の領土
URLリンク(upload.wikimedia.org)

3:世界@名無史さん
21/10/04 13:23:11.33 0.net
8世紀前半の唐
URLリンク(upload.wikimedia.org)

4:世界@名無史さん
21/10/04 13:35:14.34 0.net
隋末群雄割拠
URLリンク(i1.kknews.cc)

5:世界@名無史さん
21/10/04 14:44:52.07 0.net
古代の日本に、唐使が来たことはわずか三回しかないんだよな
僧侶については唐人・インド人・ベトナム人・ソグド人など、多彩な顔ぶれがみられた
実は鑑真来日を要請した752年の遣唐使は、同時に儒教・文学の師として、
有名な文人簫穎士の渡日も願い出たのだが、本人の辞退によって実現しなかった
よほどの理由がない限り、中華思想を信条とする中国の知識人が、
東夷の国に定住する気にはなれなかっただろう
その点、仏教の世界は少し特別
しかしその仏教界でさえ、外国人は決して多くはない

6:世界@名無史さん
21/10/05 08:14:40.91 0.net
>>5
もっと来てるだろう?
郭務悰は4回来日してるし、その前に劉徳高が来てる。
正式な使節としてかどうかは知らないが。

7:世界@名無史さん
21/10/05 08:14:44.61 0.net
唐と新羅は、同盟を結び、660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした。
宿敵・高句麗を滅ぼした唐は、朝鮮半島を直轄領にする動きを見せた。
高句麗は、大陸からの侵攻を隋朝の頃から食い止めてきた強力な防波堤だった。
その高句麗を、こともあろうに唐と連合して滅ぼしてしまったのは、新羅にとって致命的な戦略の誤りだった
新羅は遅まきながら後悔し、高句麗の遺民を集めて復興に乗り出した。
その一方では、かつて唐とともに滅ぼした百済の地において、唐との戦闘が激化していた
新羅は、670年から676まで6年に渡り、唐との死闘を続けた。
幸運にも西の彼方で吐蕃の脅威が増大したため、唐軍は撤退した。
もしも吐蕃が弱かったら、唐は新羅を滅ぼすまで戦いを止めなかっただろう。
あと少しで、朝鮮半島全体が唐の領土になるところだった

8:世界@名無史さん
21/10/05 08:34:40.15 0.net
>>6
両人は白村江の戦いの戦後交渉のために来日。
実は進駐軍司令官で日本は唐の統治下に置かれてたんじゃないかという与太話がある。
ことに郭務悰率いる船47艘2千人の規模がデカい。

9:世界@名無史さん
21/10/05 08:37:40.04 0.net
>>7
昨日の友は今日の敵。
昨日の敵は今日の友。
目まぐるしく情勢は変化する。

10:世界@名無史さん
21/10/05 08:46:03.34 0.net
天武天皇は反唐、親新羅派。

11:世界@名無史さん
21/10/05 08:56:21.24 0.net
日本は唐と朝鮮に占領されていた
スレリンク(history板)

12:世界@名無史さん
21/10/05 08:58:01.12 0.net
朝鮮半島全土は、いったんは唐の領土になった。
しかし、新羅が反抗して唐は半島から後退した

13:世界@名無史さん
21/10/05 09:01:35.56 0.net
旧百済領域を委任統治するための唐が派遣した百済王族を追い出し旧百済領域を占領。
さらに旧高句麗の遺民を利用して唐を攻撃した。

14:世界@名無史さん
21/10/05 09:04:34.15 0.net
>>8
郭務悰が率いていた2千人の半分は、白村江の戦の時の捕虜。
郭務悰は捕虜の交換のために日本に来た

15:世界@名無史さん
21/10/05 10:48:03.68 0.net
>>5
辞退ってwwwww
当時の状況からすると、
やだよあんなクソ田舎の離れ小島に行かねーよ
ってことだろ。

16:世界@名無史さん
21/10/05 10:50:03.72 0.net
>>7
唐の領土になっていた方がよくないか?
そしたらもっと開明度があがっていたろうに

17:世界@名無史さん
21/10/05 11:59:13.58 0.net
唐の倭国攻略だけど、安東都護府すら、吐蕃の反乱で、新城に移さなければ
ならないほどだったから、実質的に不可能だったと思う
唐の武将である薛仁貴が平壌を撤退するや否や、高句麗の残党の反乱がおこり、
高句麗の王族の安勝が新羅に亡命した

18:世界@名無史さん
21/10/05 12:15:18.16 0.net
高句麗の遺民、安勝は偽王族
新羅に利用された
百済王族は唐に連行された

19:世界@名無史さん
21/10/05 12:48:49.55 0.net
>>17
安勝の字面でオグリキャップを勝たせて笠松から栗東に移籍した騎手がよぎった

20:世界@名無史さん
21/10/05 13:55:51.68 0.net
もしも唐朝が新羅を滅ぼして朝鮮半島を直轄領にしていたら、次は日本が標的になっただろう
白村江の戦いで壊滅させたとはいえ、人口が多く、船舶の材料となる木材も豊富な日本が、いつまた海軍を再建して朝鮮半島に攻めてくるか分からないから安心できない
実際に艦隊を送って攻めてくるかどうかはともかく、「唐朝に服属せよ」というプレッシャーがかつてないほど強くなり、日本の朝廷は重大な決断を迫られることになったはずだ
かつての大日本帝国が、日本を防衛するために朝鮮を併合し、朝鮮を防衛するために満州国を建て、満州を防衛するために蒙古へ・・・となったのと似ている?(笑)

21:世界@名無史さん
21/10/05 13:57:24.74 0.net
>>20
耽羅も台湾も海南島も獲れてないのに、日本が獲れるのか?

22:世界@名無史さん
21/10/05 14:04:39.77 0.net
豊臣秀吉以後の清朝もそうだったらしい
「清の朝廷は、日本の動向をいつも気にしており、日本の現状ばかり聞いてくる」と、朝鮮の役人が書き残している
日本の江戸幕府に朝鮮征伐の意思はなかったが、疑心暗鬼は晴れなかった

23:世界@名無史さん
21/10/05 14:17:20.13 0.net
高句麗滅亡後、唐の建国当初からの名将、李勣・劉仁軌はすでに老い、
蘇定方はすでに亡く、残っているのは、契苾何力と薛仁貴だけだった
契苾何力はもっぱら吐蕃戦に回り、東アジアに介入する名称は薛仁貴だけだった
その薛仁貴を吐蕃戦で欠き、せっかく陥落させた平壌経営もままならず、
安東都護府すら、遼東に後退せざるをえない状態だった
こんな状態で日本を獲れるわけがない

24:世界@名無史さん
21/10/05 14:45:42.42 0.net
>>22
日本の産品が欲しいからではないの?
ホンタイジ皇帝自ら乗り込んできて戦争したときの和睦条約にも、
朝鮮は日本と交易をして得たものを清国に渡せ
って条項盛り込んでいるし。

25:世界@名無史さん
21/10/05 17:09:36.28 0.net
隋書にも、「新羅・百済は皆、倭を以て大国と為し、 珍物多しとして之を敬仰し、 恒に通使が往来す」と記録されている
倭国は、木材とか貴金属・宝石とか資源が多いし、気候は温暖湿潤で農業生産力が高く、海産物も豊富
遠い上に土地が狭いのがネックだが、関心は常に持たれる存在だ

26:世界@名無史さん
21/10/05 23:03:53.64 0.net
日本は唐と朝鮮に占領されていた
スレリンク(history板)

27:世界@名無史さん
21/10/06 03:57:35.64 0.net
日本と中国の交流史について調べてみると、近隣諸国と比べ、
人の交流の低調さははっきりしている
日本の唐文化への接触は、どうしても「もの」中心という特色を免れなかった
これでは中国文化の受け入れ方に、近隣の国々と差が出てくるのは当然である
朝鮮半島では、戦乱や貿易などを通じて、一般庶民の流入があったし、
知識人や技術者が、朝鮮諸国の希望により、皇帝の命で移り住むということも
南北朝時代には行われている
541年、南朝の梁が、百済の申請に応えて、陸詡を毛詩博士として送り、
あわせて工人、画師を遣わしたのは、その一例である
565年には、やはり南朝の陳が、劉思と僧明観の二人を派遣して、
仏教経典一千七百巻余りを贈ったというようなこともある

28:世界@名無史さん
21/10/06 04:00:26.53 0.net
>>27の続き
唐代以降は、朝鮮からの留学も盛んだったが、その間にも、唐の初めに、
高句麗が唐の派遣した道士を迎えて、『老子』の講義を聞いたり、
738年に唐から新羅へ使いが遣わされ、『老子』が送られたりしている
こうした近隣の様子と比べれば、遣唐使を通じての交流など足もとにも
及ばず、まったく密度の違うものだったといってもいいすぎではない

29:世界@名無史さん
21/10/06 06:33:56.97 0.net
古代の東アジアの国際情勢を考える上では、この「古代の航路」図を常に念頭に置いておく必要がある
とくに、朝鮮半島と山東半島の距離が意外なほど近いこと、
東シナ海を横断して日本から中国に渡るのは絶望的なまでに遠いこと
この2点に注目
URLリンク(pds.exblog.jp)

30:世界@名無史さん
21/10/06 07:03:20.29 0.net
日本と朝鮮は、イギリスとヨーロッパ大陸よりもずっと遠く離れている上に、対馬海峡は海流が荒くて危険な海
「ドーバー海峡を泳いで渡った」という人はときどき出てくるが、対馬海峡を泳いで渡る人はいない

31:世界@名無史さん
21/10/06 07:08:46.85 0.net
対馬海峡を泳いで渡った人はいるけど、3日間に分けて泳いでます。
初日は対馬を出発して半分くらいまで泳ぎ、船で対馬に戻って宿泊。
2日目は中継点から領海付近まで泳いで、また対馬に戻って出国手続き。
3日目に残りを泳ぎました。
URLリンク(chie-pctr.c.yimg.jp)

32:世界@名無史さん
21/10/06 07:12:57.21 0.net
福岡から対馬まで145km
対馬から釜山まで約50km
それに比べてイギリスと欧州大陸のドーバー海峡は、狭いところでは34km。
対馬と釜山より近い
URLリンク(upload.wikimedia.org)

33:世界@名無史さん
21/10/06 07:27:37.22 0.net
>>29
チャイナの歴史観だと隋・唐は近世らしいけど。

34:世界@名無史さん
21/10/06 07:30:07.44 0.net
現代でも日本人は、外国のモノは受け入れても、
外国人はあまり受け入れたがらないよな

35:世界@名無史さん
21/10/06 08:21:56.81 0.net
>>34
URLリンク(www.mhlw.go.jp)
そうでもないんじゃない?
日本人の婚姻の5パーセントくらいが片方がが外国人

36:世界@名無史さん
21/10/06 08:29:48.60 0.net
だからこそ、日本は中華文明の「いい所」のみを抽出して取り入れる事ができた
漢字に仏教、建築、箸の使用、紙、官僚組織などなど
地続きだったら文化の伝播は格段に速いが、悪いものまで持ち込まれる
宦官制度に戦乱、疫病…
元寇は別として近代までは「海」が天然の城壁だったが、
さすがに航空やミサイル、ネットが発展した今はそうも言えないなぁ

37:世界@名無史さん
21/10/06 09:53:13.69 0.net
>>36
地続は遅いだろ。
匈奴・突厥・モンゴル帝国がアホみたいに馬を駆るのが速かったのが例外。
たとえば、四大文明。
城市・麦畑・象形文字の使用が始まる次期がエジプト・メソポタミア・インダスでほぼ同時期精々100年程度の差。
支那文明は、その三つからおよそ1000〜1200年ほど遅れて始まっている。
海路で行こうとすると途中、およそ麦の栽培に不適な地域があるから、陸づたい。で大いに遅れる。

38:世界@名無史さん
21/10/06 10:06:30.49 0.net
モンゴル人に言わせると、日本はいわれているほど閉鎖的な国ではないってさ
たとえば日本の相撲界にはモンゴル人をはじめ、外国人力士が大勢いるが、
モンゴルで、モンゴル相撲に外国人を入れるなんて考えられないって

39:世界@名無史さん
21/10/06 10:42:53.69 0.net
モンゴル相撲にプロがいるのか知らないが、モンゴル相撲では金が稼げないと思う

40:世界@名無史さん
21/10/06 10:52:14.76 0.net
囲碁なら、韓国、日本、中国、台湾でプロが存在する

41:世界@名無史さん
21/10/06 12:06:56.74 0.net
>>37
中国とインドの間に、ヒマラヤ山脈があるからかな?

42:世界@名無史さん
21/10/06 12:59:59.02 0.net
>>41
モンゴル帝国のフレグ公は、ハンバリクでペルシャを獲ってこいと兄皇帝に命令されて、インドなんか見向きもせずヒマラヤなんか近づきもせず、
ペルシャを攻め落として、挙句、地中海を望むパレスチナでエジプトのバイバルス卿の軍勢とバチバチやりあってたらぜ。
フレグ公が宋との国境近くに貰っていた領地から呼び出されて「ペルシャを攻めて獲ってこい」の命令を受けたのが1953年。
1258年にバグダッド落城、アッバース朝カリフを捕縛。
1260年には地中海パレスチナに向けて進軍、今でいうとヨルダン川西岸地域でバイバルス卿と戦争。

43:世界@名無史さん
21/10/06 13:00:55.98 0.net
>>39
モンゴル国にはブフ(モンゴル相撲)のプロリーグがある。

44:世界@名無史さん
21/10/06 13:14:00.29 0.net
モンゴルはスレ違い。
隋唐代なら突厥

45:世界@名無史さん
21/10/06 13:19:27.09 0.net
モンゴル高原からは、多くの民族が旅立っていった。
東胡、匈奴、月氏、鮮卑、ウイグル、契丹、突厥、柔然、セルジュークトルコ、オスマントルコなど
そして最後に残った部族をまとめて世界制覇したのがモンゴル

46:世界@名無史さん
21/10/06 13:52:31.31 0.net
モンゴル人には、ああ見えて選民意識がかなりある。
経済力で大差をつけられた今でさえ、どことなく中国人を見下しているところがある
あれほど何度も世界制覇した国は他にない
チンギス・ハーンをうかつに批判しようものなら、「あの方を悪く言うのだけは許せない」と朝青龍のTwitterに書かれる

47:世界@名無史さん
21/10/06 13:56:21.19 0.net
モンゴルでは、便器にもトイレットペーパーにもチンギス・ハーンの肖像が描かれている

48:世界@名無史さん
21/10/06 13:58:24.19 0.net
だが、モンゴル人の英雄はチンギス・ハーンだけではない
隋の煬帝も、唐の太宗も、モンゴル系の鮮卑族出身
彼らも「モンゴル人の英雄」と呼ばれる資格がある

49:世界@名無史さん
21/10/06 14:44:15.62 0.net
ペルシャ攻めは20世紀だったのか

50:世界@名無史さん
21/10/06 19:14:08.52 0.net
レスつけてスレ違いの自分のことを書きたいだけの人が中国関連スレはやたらと多いね

51:世界@名無史さん
21/10/06 19:31:16.94 0.net
隋や唐は、北魏の途中から中国に同化してしまったから無理
現代に鮮卑族とか残っていない

52:世界@名無史さん
21/10/06 19:40:36.82 0.net
>>51
いや、だから、それが違うんだっての
昔はそういうことになってたが、今は「隋も唐も鮮卑の王朝」とするのが主流

53:世界@名無史さん
21/10/06 20:09:43.35 0.net
しつこいな

54:世界@名無史さん
21/10/06 20:47:28.44 0.net
最重要論点のひとつだからな

55:世界@名無史さん
21/10/06 20:57:45.63 0.net
散々否定されてるけどな

56:世界@名無史さん
21/10/06 22:13:01.01 0.net
日本は唐文化を取り入れるうえで選択的な受容が可能になった
人の交流の少なさは、政治的・軍事的関係の希薄さであったわけだが、
煎じ詰めれば、それは唐にとって日本が遠く離れた
「絶域」だったことに原因がある
日本はこの立地条件を逆手に取り、自らの望む範囲で
つかず離れずの態度を維持することができた
唐のものなら何でも受け入れなければならないという圧力は、
陸続きの朝鮮諸国などでは比較にならないほど強かったはずである

57:世界@名無史さん
21/10/06 22:26:08.25 0.net
一応、日出ずる国を自称して対等だとタイマン張ってた。

58:世界@名無史さん
21/10/06 23:02:50.78 0.net
>>51
だれか、>>51を翻訳して。意味不明だ。

59:世界@名無史さん
21/10/07 00:20:31.84 0.net
>>58
鮮卑は北魏の途中から中国に同化したから隋唐の皇帝をモンゴル人の英雄というのは無理がある
と翻訳できる

60:世界@名無史さん
21/10/07 01:23:38.29 0.net
隋や唐は征服王朝

61:世界@名無史さん
21/10/07 01:54:05.15 0.net
新羅の遣唐使が、日本の遣唐使より上席につこうとして争ったらしい

62:世界@名無史さん
21/10/07 04:43:47.65 0.net
岡本隆司氏が、唐代の日本との関係について、
「日本にとって、東アジアはそれなりに必要な世界だったのに対し、
東アジアにとって、日本はどうでもよい存在だった」
と書いている
これは近代以降も同じで、日本にとって、ヨーロッパは必要な世界だったのに対し、
ヨーロッパにとって、日本はどうでもよい存在だった

63:世界@名無史さん
21/10/07 07:39:18.80 0.net
>>59
隋・唐の時代にモンゴルって居たの?

64:世界@名無史さん
21/10/07 08:15:52.88 0.net
>>63
契丹は既に南北朝後期から居たな。
唐代には李尽忠のように唐に服属と反乱を繰り返した者もいた。
モンゴルは先祖と言われる室韋が契丹の北に居た。

65:世界@名無史さん
21/10/07 08:35:49.62 0.net
隋や唐は、北魏の六鎮の末裔

66:世界@名無史さん
21/10/07 09:58:55.25 0.net
>>64
契丹はモンゴルではないでしょう?
モンゴルは契丹=支那と認識していたし。

67:世界@名無史さん
21/10/07 10:39:02.24 0.net
唐は開放的だったのに、現在の中華人民共和国は民族浄化を行ってる
なぜこんなに非寛容な国になってしまったのか…

68:世界@名無史さん
21/10/07 10:46:54.98 0.net
隋や唐は異民族の征服王朝だったので、有能なら異民族でも登用して優遇した。
中共は漢民族の集団。異民族は弾圧搾取の対象でしかない

69:世界@名無史さん
21/10/07 11:28:44.84 0.net
漢民族が自己統治できる領域は遼河から西へ半円を描くように成都を囲み海南島にいたるところまでの範囲でしょう
東北三省、内蒙古、東トルキスタン(と寧夏)、チベット、雲南チワン、台湾は史的に漢宋明の漢民族王朝は統治できなかった
広域統治は異民族王朝の時のみじゃね基本
にもかかわらず清朝領土を中共が強引に引き継いでしまった悲劇
もし国民党ならどうしてただろうか

70:世界@名無史さん
21/10/07 11:30:55.90 0.net
>>66
モンゴル系であることがはっきりしている民族ということで挙げた。
契丹を指すヒャダットが中国という意味になったのは、
モンゴル帝国勃興期に金から契丹族が大挙して寝返ってきたのと
契丹族が漢族との通訳や中国北部の統治に当たらせられたから。
契丹族もモンゴル族も髪型同じで生活習慣も似ていた。

71:世界@名無史さん
21/10/07 11:50:32.62 0.net
モンゴル帝国
スレリンク(whis板)
スレ違いの話題は、こちらでどうぞ

72:世界@名無史さん
21/10/07 11:54:49.24 0.net
唐は異民族に寛容すぎて、どこの馬の骨か分からないような者を高官に取り立てて破滅した。
安禄山とか、他の時代なら官職につけるわけがない

73:世界@名無史さん
21/10/07 12:21:05.24 0.net
明代でも、鄭和のような宦官を取り立てているが

74:世界@名無史さん
21/10/07 12:33:08.60 0.net
永楽帝は儒者が嫌いで、宦官が好きだった

75:世界@名無史さん
21/10/07 12:35:42.96 0.net
儒者におもいっきり「燕賊簒位」って罵られたからな
十族皆殺しにしても収まらない

76:世界@名無史さん
21/10/07 13:30:08.70 0.net
武則天が、北魏から続く名家を粛清してしまったので、その後には、科挙などによって人物登用しなければならなかった。
その中には、出自不明の不審者も含まれていた

77:世界@名無史さん
21/10/07 13:59:22.81 0.net
>>67
唐だって安史の乱のときに胡面排斥とかやっただろ。
顔がコーカソイドっぽいと捕まって処刑される。
明の時期には(モンゴル人、色目人の婚姻は必ず一方を漢人とするという政策をやったな。
イスラム教を禁止し忘れていたから、色目人の多かった地域は、今、回族だらけ。

78:世界@名無史さん
21/10/07 14:24:02.35 0.net
西晋の江統は『徙戎論』を著して異民族に対する警戒を説いた

79:世界@名無史さん
21/10/07 14:38:49.02 0.net
>>70
ハッキリしてないじゃん?
今のモンゴル国国や中国領内蒙古に相当擂る場所に本拠地があっただけで。

80:世界@名無史さん
21/10/08 11:07:11.93 0.net
唐に関係する民族なら、ウイグルだろう
ウイグルは唐代にはモンゴル高原に近い場所に本拠地があったが、次第に西域に追いやられていった。
確か安史の乱の鎮圧にはウイグルの援助を受けたはず

81:世界@名無史さん
21/10/08 11:11:00.89 0.net
契丹とか満州方面のツングース系というイメージなんだが。
遼は真ツングース系の金に負けて、西域に逃亡していったが。その逃亡途中でモンゴル高原に少し立ち寄ったらしい

82:世界@名無史さん
21/10/08 11:39:59.68 0.net
唐代にはシルクロードを通じて大規模に奴隷貿易が行われていた
絹馬交易ならぬ、絹奴交易である
ソグド人が扱った奴隷の産地はソグディアナ本国と草原地帯のトルキスタン
唐でもてはやされた胡姫や私妓には奴隷貿易で流入した者が多かったらしい

83:世界@名無史さん
21/10/08 11:43:30.32 0.net
西域は異民族間の戦争が多かったから、負けたら処刑か奴隷になるんだね

84:世界@名無史さん
21/10/08 12:46:39.80 0.net
>>76
科挙で合格してるのに、不審者って?

85:世界@名無史さん
21/10/08 12:54:08.40 0.net
ウイグル帝国は、757年に、セレンゲ河畔に
ソグド人と漢人を駆使してバイバリク城を築かせた
これは遊牧ウイグル人のためではなく、外来のソグド人や
漢人たちを住まわせるためのものだった
ウイグル帝国はかつての柔然・高車や突厥と同じく、
初めからソグド人の経済的・外交的手腕を利用していた

86:世界@名無史さん
21/10/08 12:58:02.38 0.net
遊牧民には定住用の都市は必要ないね

87:世界@名無史さん
21/10/08 13:26:46.73 0.net
>>86
冬営地が要るし、夏場も何人か冬営地に見張り役・連絡役が常駐していた。
放牧地の中にポツンと数戸の天幕があるだのこともあれば、城市に近いところやべったり隣接していたり、
がっつり城市の中の石造の家だったりすることもある。
自分らで作るより買ってきた方が手っ取り早いものは、他民族の城市に買いに行く。
商機を求めて農耕圏から産品持って来る人も歓迎ってかたちで冬営地に住まわせたりする。

88:世界@名無史さん
21/10/08 13:32:22.06 0.net
遊牧民は、必要なものがあれば、都市の住民から略奪すれば良い
負けて追撃されたら馬を使い逃げればよい。失うものは自分の命くらいしかない
都市の定住民からすれば、厄介な存在。

89:世界@名無史さん
21/10/08 14:42:52.54 0.net
安史の乱では、ウイグルが強大な騎馬軍団による武力を行使して唐を救った
しかしそれ以後、ウイグルは唐に対し優勢を保ち、さまざまな要求をしてくる
ようになる
またウイグルと結びついたソグド商人も、虎の威を借るキツネのように、
勝手なふるまいを中国で行い、絹馬交易をはじめとする内陸での
シルクロード貿易の利益を壟断していく

90:世界@名無史さん
21/10/09 14:35:24.80 0.net
ソグド人の安禄山を贔屓して痛い目にあった玄宗
ソグド人は口達者のペテン師だらけだから信用したのが間違い

91:世界@名無史さん
21/10/09 14:40:09.74 0.net
ソグド人の子どもは生まれるや口に蜜を含ませられ,手に膠 (にかわ) を握らせられて,将来甘い弁舌と巧みな商才を身につけるように祈られる。5歳で読み書きを習い,20歳で隊商に加わって遠国へ行き経験を積む
生まれながらのペテン師商人

92:世界@名無史さん
21/10/09 17:48:57.87 0.net
タリム盆地のオアシス都市では、最初はトカラ語が話されていたのだが、
ウイグルの支配を受けてからは、テュルク系の言語が話されるようになったのだとか
タリム盆地が、トルキスタンと呼ばれるようになったのはこのため

93:世界@名無史さん
21/10/09 19:30:50.94 0.net
トルキスタンと呼ばれるのは、トルコ系民族が居住しているからでしょう
トルコ語使用とは無関係だと思いますが

94:世界@名無史さん
21/10/09 19:33:42.93 0.net
19世紀後半、ロシア帝国がタシュケントにトルキスタン総督府を置いた。ロシア領トルキスタン (西トルキスタン)という名称と実態が成立すると、その東方は東トルキスタン、アフガニスタン北部はアフガン・トルキスタンとも呼称されるようになった。

95:世界@名無史さん
21/10/09 20:16:44.56 0.net
>>93
言語がトルコ系だからトルコ系民族なんだろうて

96:世界@名無史さん
21/10/09 22:34:17.38 0.net
ソグド人も、今や歴史の荒波の中にもまれて沈んでしまったな。
ソグド語はもはや死語。
民族の痕跡すら定かではない

97:世界@名無史さん
21/10/09 22:43:25.80 0.net
>>96
タジキスタンの一部住民の間で使われてる、ヤグノブ語(ヤグノビー)って言語がある
この言語がソグド語の残存言語であるらしい

98:世界@名無史さん
21/10/10 02:41:50.66 0.net
ソグド人は、ゾロアスター教、マニ教、仏教、キリスト教ネストリウス派など多くの宗教を受け入れてきたが。
イスラム教は無理だったのだろうか?

99:世界@名無史さん
21/10/10 07:14:39.54 0.net
>>91
アケメネス朝やアレクサンドロス大王の時代から活躍してる歴史あるソグド人をディスるとはいい度胸だな。

100:世界@名無史さん
21/10/10 08:45:02.95 0.net
>>98
ウマイヤ朝イスラム帝国にサマルカンドが征服されてからソグド人もイスラム化が始まってるんじゃないか?
言語もペルシア語やチュルク系のウズベク語に変わっていく。

101:世界@名無史さん
21/10/10 08:54:54.42 0.net
ていうか、「ソグド人がイスラム化されなかった」というのは聞いたことがない
「イスラム化されすぎて、文化的な独自性が失われた」というのなら、よく聞く話だが

102:世界@名無史さん
21/10/10 10:07:26.72 0.net
ソグド人は、イスラムの侵攻後に姿を消したのだから、イスラムに駆逐されたのだろう。

103:世界@名無史さん
21/10/10 10:15:43.35 0.net
イスラム教に改宗したソグド人は、タジク人と呼ばれ、サーマン朝を築いたと言われている

104:世界@名無史さん
21/10/10 10:23:41.63 0.net
ソグド人は消滅したのではなく、他の民族の中に融解していったのである。ソグド人がもたらしたソグド文字がほそぼそとそのままウイグル文字となり、それが13世紀にモンゴル文字となった。さらにモンゴル文字が16世紀末〜17世紀初頭に改良されて満州文字となる。ソグド文化は清朝の文化に受け継がれ、現在も中国の内蒙古自治区で使われているモンゴル文字は現代に残るソグド文化の遺産なのである。

105:世界@名無史さん
21/10/10 10:25:12.79 0.net
>>98
イスラム教を受け入れてタジク人になったんだろ

106:世界@名無史さん
21/10/10 19:32:49.80 0.net
唐朝の盛時には、唐文明圏に組み込まれかけてたが
でも、やっぱり乾燥気候の人間は、西アジアの文化と相性がいい

107:世界@名無史さん
21/10/10 21:42:44.07 0.net
いや、拓跋人は完全に染まって無いだろ。
漢土の唐国の皇帝・朝廷として振る舞ったのは漢人に対してだけで、
北方西方に対しては拓跋の河汗と称してたろ。

108:世界@名無史さん
21/10/10 22:25:27.38 0.net
>>106
インドでも、クシャーナ朝はギリシア・ローマ文化を受け入れたが、
南インドはローマ文化を受け入れようとしなかったのだとか

109:世界@名無史さん
21/10/11 09:42:46.50 0.net
玄奘三蔵がインドへ旅立った

110:世界@名無史さん
21/10/11 10:11:19.52 0.net
>>108
グレコ・バクトリアを先に獲ったからね。

111:世界@名無史さん
21/10/11 13:22:55.61 0.net
拓跋の片割れ、吐谷渾は吐蕃に滅ぼされた

112:世界@名無史さん
21/10/11 19:52:23.94 0.net
チベットでは、842年、10歳のダルマ・ウィドゥムテン王が
宰相の一党に殺され、王位の継承をめぐってチベット帝国は分裂した
もはや中央政府は存在せず、チベットはこれから150年間、
記録のない暗黒時代に入る

113:世界@名無史さん
21/10/11 20:33:49.42 0.net
チベットは遊牧民

114:世界@名無史さん
21/10/11 21:07:57.47 0.net
青海省とか甘粛省とか雲南省とかに、モンゴル語喋るチベット人の部族とか、チベット語喋るカザフ人の部族とか、
習俗、帰属意識、喋る言語の組み合わせがチグハグな集団が点在しているでよ。

115:世界@名無史さん
21/10/12 05:57:27.01 0.net
吐蕃が唐と交流する中で、八世紀ごろチベット人は、
茶を薬としてではなく、生活に欠かせない飲料として
嗜むようになったのだとか
今でもチベットではバター茶が飲まれているけど

116:世界@名無史さん
21/10/14 00:28:18.15 0.net
明治期にチベットを探検した川口慧海は、そのバター茶を「茶ではなく吸い物のようなもの」
と表現している。
でも「吸い物」という表現がイマイチしっくり来ないな。
吸い物と言えば、すっきりした出汁にワカメや麩を入れた、さっぱりした汁物。
バター茶のようなこってりした飲み物を「吸い物」と表現するのがわからない。
そういえば故事成語「羹に懲りて膾を吹く」の解説として
「羹は肉や野菜を煮込んだ吸い物。膾は生肉や野菜の和え物。熱い吸い物で口を火傷したので…」
肉や野菜を煮込んだら脂が浮いてコッテリするはず。
そんな汁物を「吸い物」と表現するのもしっくりしない。

117:世界@名無史さん
21/10/14 00:41:03.19 0.net
吸い物ってスープって意味でしかなくね

118:世界@名無史さん
21/10/14 00:45:34.28 0.net
>>116
まあこれは洋食ですけども肉を煮込んだ吸い物には油気の少ないコンソメスープというものもありましてですな
というか「吸い物」という用語を日本料理、それもわりと高級志向の料理に特化して想像してらっしゃいませんかな

119:世界@名無史さん
21/10/14 00:59:20.37 0.net
味噌汁は必ず飯とセットでで来るけれど、吸物は単独でも出されるからな

120:世界@名無史さん
21/10/14 09:25:08.57 0.net
チベットのバター茶は茶とバターと塩を混ぜて作る
家畜を追い、山野で薬草をとる生活には、茶葉のビタミンやバターのカロリー、
そして汗で失われる塩分の補給に、このお茶は欠かせないものなのだろう

121:世界@名無史さん
21/10/14 09:58:20.68 0.net
チベット等で飲まれている茶は可搬性に優れた黒茶を固めた磚茶(団茶)
バター茶は味噌汁や海草スープに近い塩味があるらしい

122:世界@名無史さん
21/10/14 19:08:25.92 0.net
いちおうスレタイに話を戻せば、チベットに喫茶の風習を持ち込んだのは
唐の時代、吐蕃王のソンツェンガンポに嫁した文成公主かな?

123:世界@名無史さん
21/10/14 20:05:16.71 0.net
13世紀にモンゴルからじゃないの?
薄く淹れた茶に、牛乳もしくは羊乳を加えてガシガシ撹拌して、塩と乳脂を添えて供するって
やり方似ている。

124:世界@名無史さん
21/10/14 21:00:33.31 0.net
中国から中央アジアやチベットに茶がいつごろ伝わったか、はっきりしたことはわかっていません。
しかし、およそ8世紀から10世紀にかけて、中国のお茶を売るかわりに中央アジアの馬を買う茶馬交易がはじまっているので、そのころには喫茶の風習が定着してきたものと思われます。
もちろん中央アジアでは茶は生産できないので、遠く離れた四川省から馬に積んで運んできたのです。
その運搬の便利さと保存性のよさから、この地方では今でも団茶という古いタイプの固形茶が使用されています。
そして、団茶はとても貴重品で、昔は、お嫁にゆくときの財産にもなったそうです。

125:世界@名無史さん
21/10/15 17:48:29.22 0.net
>>116
チベットのバター茶は、確かシコール・チャイというものだな。
モンゴルでほぼ同じだという物飲んだことあるが、
岩塩で味付けしてあって、口当たりは具のない豚汁という感じだった。

126:世界@名無史さん
21/10/15 19:44:01.03 0.net
>>125
それはモンゴル語式の呼び名かな?
(あと、現代モンゴル語で「茶」を指す名詞の発音について、北部式発音では「ツァイ」で、「チャイ」は南部式発音だね)
チベット語では、バター茶のことを一般的には「スー・チャ」(「攪拌茶」の意味)と呼ぶそうな

127:世界@名無史さん
21/10/16 08:57:43.41 0.net
ソグド、突厥、ウイグル、吐蕃、更にはアッバース朝が送り込んだアラブ人部隊に蹂躪される唐。
唐が望んで受け入れてることも多いんだが、少々情けない。

128:世界@名無史さん
21/10/16 10:57:52.45 0.net
>>127
支那人という人種は、は盗ッ人としては一流だけれど、軍隊の将兵としはクズしかいねえ。
そこらに沢山いるから、矢避け弾避けにでも使えなんて戦争に連れて行ったら、兵糧を盗む、
兵器を盗む、そしてそれを敵陣に売りに行く、というようなヤツしかいねえんだよ。
そして、あげく、共食い。

129:世界@名無史さん
21/10/16 11:25:01.60 0.net
>>128
そんなクズ軍団にコテンパンにやっつけられた倭国兵。
兵数は倭国軍の方が勝ってたのに、
いざ開戦であっという間に倭国軍は壊滅。

130:世界@名無史さん
21/10/16 12:10:45.26 0.net
>>129
白村江の戦いのときの唐軍は、満州兵が主力

131:世界@名無史さん
21/10/16 12:32:12.72 0.net
満州兵???

132:世界@名無史さん
21/10/16 12:38:10.28 0.net
満州地方は、唐の敵である高句麗の領土だろ

133:世界@名無史さん
21/10/16 12:44:14.21 0.net
後の満州族の祖先である、靺鞨の一部は、唐の味方だったらしいが

134:世界@名無史さん
21/10/16 12:49:11.55 0.net
そう、それ

135:世界@名無史さん
21/10/16 12:50:37.02 0.net
隋唐の主力だった関中兵も精強で知られたが、かれらは西域で防人をやってたので

136:世界@名無史さん
21/10/16 14:39:42.57 0.net
>>129
7世紀前半なら唐の軍隊は殆どが拓跋人や突厥人やらだろ。そりゃ強いわな。
対して、倭国は、味方に百済と任那と高麗だぞ。お荷物が3つもぶら下がってる。
戦争のセオリー、ダメ味方がいると戦線総崩れって。

137:世界@名無史さん
21/10/16 17:19:28.10 0.net
あほらしい
お荷物は倭だ

138:世界@名無史さん
21/10/16 17:35:52.54 0.net
>>136
百済復興軍が内紛を起こしてて、
その有力な指導者2人が次々と殺されてて、
ガタガタになってるところへ、
倭国軍が到着。
もはや協力のしようがない状態。
更には元々倭国軍は豪族の連合体で
動員力があったものの
統一的な作戦運用ができてないし、
作戦自体が
我等先を争はば、敵自づから退くべし
というようないい加減なものだった。

139:世界@名無史さん
21/10/16 21:26:27.27 O.net
突厥(トルキスタン)とソグド(イラン)の混血で、ウズベキスタン生まれの安禄山は、必死に裸踊りをし、その腹にはなにが詰まっているのかを審理しましたが、

140:世界@名無史さん
21/10/16 21:57:59.29 0.net
楊貴妃はソグド人の踊り胡旋舞の名手。

141:世界@名無史さん
21/10/17 10:55:31.20 0.net
契丹語は蒙古語の側派の一つだから元王朝時代にボルジギン氏モンゴル部の言葉がコイネー化すると契丹語は消えてなくなった

142:世界@名無史さん
21/10/18 08:12:49.33 0.net
>>126
モンゴル、テュルク式かもな。

143:世界@名無史さん
21/10/18 08:17:56.66 0.net
>>141
ダウール語が契丹語の特徴をかなり受け継いでいるそうだが。

144:世界@名無史さん
21/10/18 11:05:58.83 0.net
10世紀とか13世紀には話されていた言語が今に失くなってしまったりとかは結構起こってたんではないのか?

145:世界@名無史さん
21/10/18 22:23:43.79 0.net
>>125
モンゴル語で、「ミルクティー」は
「スーテイ・ツァイ」(スー=乳  テイ=とともにある  ツァイ=茶)だね
125さんが飲んだのは、それとは少し違う(バターのみ混ぜた)茶だったってこと?

146:世界@名無史さん
21/10/24 11:57:59.83 0.net
>>48
鮮卑はモンゴル系かトルコ系の可能性が高いが、現在のモンゴル人と直接的に
つながるとまでは言えないような。
それと、隋の楊氏、唐の李氏は、北魏の拓跋氏や北周の宇文氏と違い自称漢族。
もっとも、そもそもが漢族は自称で怪しい。母方はほぼ鮮卑系。
李氏の隴西李氏自称に至っては完全に嘘。ただ、趙郡李氏のマイナー家系が起源
の可能性は少しある。

147:世界@名無史さん
21/10/25 07:48:02.47 0.net
>>146
> もっとも、そもそもが漢族は自称で怪しい。母方はほぼ鮮卑系。
「○○族」に両親は関係ない定期

148:世界@名無史さん
21/10/25 12:09:01.26 0.net
わいも明日から鮮卑系日本人名乗るか

149:世界@名無史さん
21/10/25 12:46:17.25 0.net
隋と唐は鮮卑族王権
しかし漢族に同化しようとして出自を隠蔽していた。

150:世界@名無史さん
21/10/25 13:10:39.16 0.net
>>147
氏族は父系だからね
漢民族の有力氏族が支配層の鮮卑族とのコネが欲しくて鮮卑族の女と結婚することは別におかしくないし

151:世界@名無史さん
21/10/26 09:15:10.46 0.net
初期の唐王朝が軍事的に強かったのは五胡十六国以来の伝統で国家に忠誠を持った遊牧民階級の軍団が多かったから
ただこれは諸刃の剣で彼らが結束して反乱を起こしたら国家は簡単に転覆することを意味している
安史の乱がそれだった

152:世界@名無史さん
21/10/27 10:55:50.55 0.net
>>150
逆なんじゃない?
後の時代に歴史捏造で和蕃公主みたいなふうに言われてるけど、
積極的に支那方が女を差し出してきてたんだろ

153:世界@名無史さん
21/10/27 11:09:04.68 0.net
ガチガチの父系社会だから積極的に一族の女を縁組に差し出す
女に継承権がある社会だとそうは行かない

154:世界@名無史さん
21/10/27 12:02:16.12 0.net
>>153
姉妹弟兄皆列土
可憐光彩生門戸
遂令天下父母心
不重生男重生女
ってことだな。
白居易の長恨歌

155:世界@名無史さん
21/10/27 12:16:09.62 0.net
わいにも積極的に公主を下賜してほしいものだ

156:世界@名無史さん
21/10/27 13:10:22.76 0.net
>>155
母親のカレシに何百万円か借金して踏み倒すところから始めよう

157:世界@名無史さん
21/10/27 20:50:13.14 0.net
>>137
高句麗は何度も隋唐の親征軍を撃退した上に突厥の世子である契苾加力を討ち死に寸前まで追い詰めたり
百済の黒歯常之も唐軍が占領していた200城を抜くなど全盛期唐相手に底力をみせているのだが
倭軍は頭数多いくせに白村江の戦い一回で壊滅するという体たらくだからな

158:世界@名無史さん
21/10/31 23:58:18.01 0.net
黒歯常之とか日本人にいそうな名前だな

159:世界@名無史さん
21/11/08 19:20:30.80 0.net
匈奴はじめ北方騎馬民族には、未亡人は亡き夫の兄弟と再婚する習慣があった。
未亡人の立場を守るとともに、財産の流出を避けるための策。
だが「貞女二夫にまみえず」を旨とする漢民族には理解不能だった
煬帝は亡き父帝の愛妾を自身の後宮に入れた。
これは漢民族的、儒教的には理解不能で許されない行為
だが煬帝、隋の楊氏が騎馬民族の末裔なら、普通の行いなのかな?

160:世界@名無史さん
21/11/09 12:26:49.69 0.net
子供がいた場合甥とか姪も養育するわけだから
赤の他人と再婚させるよか可愛がられやすい気もするから
合理的やな
より徹底するとイスラムみたいに兄弟の子供たち同士を結婚させるケースやけど
ここまでいくと女性は所有物になるな

161:世界@名無史さん
21/11/09 13:26:58.85 0.net
>>158
百済の姓には、他にも億礼、鬼室、佐宅とかというのがある。

162:世界@名無史さん
21/11/09 22:17:20.30 0.net
>>159
夫、妻の一族同士の繋がりの問題もあるからね。

163:世界@名無史さん
21/11/16 00:16:00.17 0.net
>>159
ウチの大伯父(次男)は、長男が戦死して寡婦の嫁さんの再婚相手になったよ。
それで田んぼも引き継いでたよ。

164:世界@名無史さん
21/11/16 06:50:31.19 0.net
ヘンリー8世も兄嫁を貰ったし、清王朝のホンタイジが死んだ後実権を握った弟のドルゴンが妃を貰った
騎馬民族に限らず権利を引き継ぐために前任者?の妻を娶ることは世界中に割とある

165:世界@名無史さん
21/11/17 11:42:33.95 0.net
なんで中華では忌避されるようになったんやろうな

166:世界@名無史さん
21/11/17 14:24:18.85 0.net
相続問題

167:世界@名無史さん
21/11/17 14:33:24.72 0.net
儒教の価値観では女にとって夫となる人間が一人だけだから、死別ー再婚すら良くないと思われてたのに
その相手が元夫の家族なら家族関係を破壊する乱倫になるという

168:世界@名無史さん
21/11/17 20:01:07.80 0.net
>>167
故夫の弟と再婚なら家族関係が一番変わらないんじゃないの?
夫の一族からすると、あの家からこの家に来たお嫁さんの地位で同じじゃん。

169:世界@名無史さん
21/11/17 20:54:15.76 0.net
>>168
義理の母や義理の姉を妻にするのはアウト
義理だろうと母であり姉である存在だから、それと結婚したら近親婚と同じという

170:世界@名無史さん
21/11/17 22:20:21.59 0.net
>>168
中国漢民族の生活風習を見るがいい
基本は大家族、親族がひとつの邸宅に集まって暮らす(客家の土楼)
こうした環境下では嫁の性的関係がオープンだと都合が悪く、誰の子供かすらわからなくなり
財産の権利問題が生じる
家族がそれぞれ独立した家に居住し、成人すれば基本的に独り立ちする遊牧民とは
親族環境も大きく異なるといえる

171:世界@名無史さん
21/11/17 22:43:55.70 0.net
>>170
だったらなおさら亭主の弟と結婚した場合に、相続関係もそのまま変わらずに済むじゃん。

172:世界@名無史さん
21/11/17 23:00:23.17 0.net
>>171
そんな単純な話ではないぞ
兄の子がいたらどうなるか?
弟の子が後で生まれたら?
嫡子と庶子に厳格な文化ではかなり大きなトラブルの原因になる

173:世界@名無史さん
21/11/17 23:08:13.20 0.net
基本的に、宗教的な戒律やタブーなどというのはその民族の文化習俗を反映して形成されたものなので
(イスラム教徒が豚肉を禁忌にするのは、衛生面の理由とする説が有力)
儒教的なタブーについても同様に何らかの(おそらく相続等)の理由が起源であろう

174:世界@名無史さん
21/11/18 01:11:05.81 0.net
>>172
長子相続が原則なんだろ。結局、同じじゃないのか?

175:世界@名無史さん
21/11/18 01:21:03.69 0.net
>>174
何が同じなんだよ
妄想してないで主張したら

176:世界@名無史さん
21/11/18 01:28:36.08 0.net
>>175
爺様→長男→長男の子
って相続するんだから、
途中で長男死んで次男と長男の妻が再婚しても長男の子に家督とか遺産とか行くんじゃないの?

177:世界@名無史さん
21/11/18 01:34:04.53 0.net
>>176
儒教的な価値観が成立するかしないかの太古に長子相続なんて制度が確立してるわけないだろ…

178:世界@名無史さん
21/11/18 01:44:57.81 0.net
まあ、血も涙も無い支那人だと、兄貴の子は邪魔だ、殺してしまえ、ってふうになるだろうから、近くに置くと危ないよね。
たとえば、明国の
爺様=洪武帝 → 長男=懿文太子 → 孫=建文帝
は長男が若死しても長男の子が家督を継いだけれど、叔父に殺されてるし。
日本みたいに
爺様=景行天皇 → 日本武尊(若死に) → 仲哀天皇
の景行天皇と仲哀天皇の間ら成務天皇がいるけど、本来兄貴(日本武尊)が継ぐはずのものだから
日本武尊の子が皇位に就くべしって、自分の子を臣籍降下させてるよな


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