春秋戦国時代 4 at WHIS
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200:世界@名無史さん
21/04/29 19:05:05.06 0.net
史記の記述ですら、けっこうフィクション比率が高いみたいだし、それ以外の典籍はそれ以上のフィクション率だ
基本、話半分で理解しといて、考古学とか他系統の研究をペースにするべき

201:世界@名無史さん
21/04/29 20:30:24.09 0.net
先祖を中原の王朝と結びつけてるのはただのフィクションだね
司馬遷の時代からさらに千年以上前のことなんて細かくわかるわけないからね

202:世界@名無史さん
21/04/29 21:12:54.37 0.net
呉越や匈奴の祖先伝承はフィクションかもしれんが
商、夏王朝は史記の記述通り実在したからね
神武欠史八代王朝と倭の五王王朝を適当に接木した天皇王朝が創造した記紀と違って

203:世界@名無史さん
21/04/29 21:22:33.76 0.net
>>202
コジツケだよ、そんなもん
古代都市の遺跡を、強引に「これは夏王朝なのである」ということにした

204:世界@名無史さん
21/04/29 21:52:05.80 0.net
無知な妄想症患者に救いわ無いな

205:世界@名無史さん
21/04/29 22:04:00.30 0.net
夏王朝は存在してないよな、妄想過ぎる

206:世界@名無史さん
21/04/29 22:42:28.19 0.net
それを「夏」と呼ぶかどうかは文字史料がないから決定打はないけど、二里頭文化が王朝と呼びうるような高度な政治的求心制や勢力圏を持っていたこと、建築や習俗において後の中国との強い連続性があったこと、はもう確実

207:世界@名無史さん
21/04/29 23:09:24.63 0.net
正直、中国の史家の怪力乱心を語らずって偉いと思うけども
そういうの後の世界の人間が判断するから、全部書き残しとけと思わんでもない
それがあれば、この春秋時代だってもっと沢山の話が残ったはずなのに

208:世界@名無史さん
21/04/29 23:10:36.95 0.net
倭の五王は中国史書に記録が残ってるけど
前代の神武王朝に関する記述は乏しい上に在っても事実と全然一致してない

209:世界@名無史さん
21/04/30 02:27:53.33 0.net
>>206
二里頭文化で王権っぽいものが確立されてたであろう事や
政治的にある程度の成熟を見せてたっぽい事は否定する奴ぁ居らんと思うが
それが夏かどうかってのがどうしても思想的、政治的な問題になっちゃうよな
現状は夏王朝とすべき明確な証拠はないから、「かもしれない」以上の事は
妄言、妄想か希望的に言ってるだけになってしまうが

210:世界@名無史さん
21/04/30 02:38:16.44 0.net
>>209
クノッソスやトロイアだって、はっきりと「そうです、ここがクノッソス(トロイア)です」って看板が出土したわけじゃないんだし、もう「たぶん夏」としてもいいんじゃないの?
クノッソスやトロイアを認めて夏を認めないのも政治性入ってる気がする

211:世界@名無史さん
21/04/30 03:22:37.20 0.net
>>209
いや成ら無いよ
史書に夏王朝の記録が有り
考古物も発見された
夏王朝の実在わ確定
倭の五王以前の天皇神話とわ違うよ

212:世界@名無史さん
21/04/30 04:18:57.14 0.net
>>210
あれもシュリーマンがホメロースのトロイア発掘云々で出土したからトロイアっぽいよね
って話にはなってるけど、学術的には詩に出て来たトロイアそのものとは認められとらんぜ?

213:世界@名無史さん
21/04/30 17:59:49.92 0.net
何を言ってるのか意味不明

214:世界@名無史さん
21/04/30 18:20:39.14 0.net
>何を言ってるのか意味不明
・夏王朝を実在したと言っている奴は、夏王朝の実在と何の関連もない記紀の記述を引き合いにだすのは
 夏王朝が実在したかどうかはどうでもよく、記紀をデスりたいだけなんだろうなということは分かる。
・記紀と単純に一纏めにしているのは、両書を区別できていないからで、その点から論者の教養のなさ頭の悪さが垣間見えることは読み取れる。

215:世界@名無史さん
21/04/30 18:24:06.44 0.net
>>214
そいつは世界史板名物のバカ
相手にするのはホドホドに

216:世界@名無史さん
21/04/30 20:36:09.84 0.net
>>215
わ、の使い方で分るあの人のことね

217:世界@名無史さん
21/05/01 01:13:38.70 0.net
殷より古い遺跡が続々発掘されるにつれ、
「夏が実在したかどうか」というのはどうでもよくなってるのでは?
日本だと同じ王朝がずっと続いてるから
古代の遺跡が大和朝廷と連続性があるかどうかは問題になるが。

218:世界@名無史さん
21/05/01 02:22:14.35 0.net
>>214
倭の五王以前の天皇神話は考古学的な裏付け無いからね
奈良盆地が征服された形跡って発見されて無いし

219:世界@名無史さん
21/05/01 07:55:09.74 0.net
神武東征神話、九州出身で奈良盆地に攻めこんだって部分は少なくとも嘘だわな
神武が実在かどうかはいまも不明のままだが。

220:世界@名無史さん
21/05/02 01:32:28.35 0.net
>>219
うそじゃなく、むしろ史実くさいんだけど
西暦100年ごろに関西の遺跡はまとまって破壊されてる

221:世界@名無史さん
21/05/02 10:37:28.04 0.net
稲荷山古墳の金文しかない現状では、そうじゃないかな?以上の事は言えん
殷墟で大量の甲骨文が発見されたように、誰かの古墳で大量の文字が発見されない限りは

222:世界@名無史さん
21/05/02 12:49:13.75 0.net
>>220
奈良盆地でも大阪平野でも破壊跡無いよ

223:世界@名無史さん
21/05/02 15:50:50.95 0.net
畿内の遺跡で、二世紀とか三世紀四世紀あたりに旧来文化から九州などの文化に置き換わるような入れ替りの痕跡がない
他の地域要素が流入するようになったのはたしかだが、基調が旧来文化なんで、外来勢力による侵攻を受けたとは考えられないよ

224:世界@名無史さん
21/05/03 02:03:23.79 0.net
>>222
ソースが見つからないけど
西暦100年ごろにいっせいに関西の遺跡が破壊されたのは事実よ

225:世界@名無史さん
21/05/03 03:28:15.44 0.net
少なくとも奈良盆地と大阪平野でそんな事起きて無いよ
奈良わずっと安定的で大坂も居住区の変遷は有るけど
河川の堆積や流路変更等の地形要因ってのが有力

226:世界@名無史さん
21/05/03 11:31:19.42 0.net
>>223
多くの遺跡が衰退消滅してるけど破壊されたわけではない
破壊の痕跡なんてない
そもそも、古代社会には生活環境の変動で集落が破棄されて別の場所に移動することは珍しくなく、移転ラッシュの時代が何度かあるほどだ
そんな移転ラッシュが畿内では一世紀から二世紀にかけておこってただけ

227:世界@名無史さん
21/05/03 12:03:36.29 0.net
古代の倭はコロコロ首都移転するのが日常茶飯事だ
何が「まとまって破壊されてる」だよ、妄想もいい加減にしろ(笑)

228:世界@名無史さん
21/05/03 13:09:10.77 0.net
そんなこと言われても
どうすりゃいいのさ
    ___
   /ノ ヽ\
  /(●) (●)\
 |  (_人_)  |
  \  `⌒′ /
  /     \
 / /     ||
_| L[]o___/_/_
 \_三)
   |
   |__ コロ…
  ___\  コロ…
  ()__)┘

229:世界@名無史さん
21/05/03 14:01:15.96 0.net
浅草が衰退して、新宿が繁栄するようなものか

230:世界@名無史さん
21/05/03 14:27:47.50 0.net
いや、単に建物の寿命の20年とか30年で、立て替えだろ

231:世界@名無史さん
21/05/03 14:36:41.15 0.net
黄河の下流や、チグリス・ユーフラテス川のような極端な暴れ川だと、都市が洪水に飲まれて消滅することが珍しくない

232:世界@名無史さん
21/05/03 15:40:18.10 0.net
DNA的にも時間をかけてゆっくり混じり合った説が有力で100年そこらで急激にゲノムが入れ替わった説はDND分布的にありえないんだっけか

233:世界@名無史さん
21/05/04 00:11:13.82 0.net
>>230
法隆寺や千本釈迦堂みたいな奇跡的に現存している木造建築物って無いの?

234:世界@名無史さん
21/05/04 02:01:25.52 0.net
どっちも何度も建て替えてるしな

235:世界@名無史さん
21/05/04 02:12:29.68 0.net
防蟻剤のない時代に掘立柱建物だもん

236:世界@名無史さん
21/05/04 09:23:42.50 0.net
現代の長安も洛陽も、古都ではない
単なるショボい地方都市

237:世界@名無史さん
21/05/04 09:57:48.72 0.net
京都の悪口言うなよ
京都タワーがご自慢なんだって?京カスはw

238:世界@名無史さん
21/05/04 10:33:45.81 0.net
>>236
そりゃ場所が近いだけで同一じゃないしな
漢の頃の洛陽はいまの洛陽の場所に隣接した隣町みたいな場所だろ

239:世界@名無史さん
21/05/04 10:57:31.60 0.net
西安は昔の長安城と微妙にずれたけど移動ってほどじゃないな。明代の城壁も完全に残ってるし。

240:世界@名無史さん
21/05/04 18:12:41.80 0.net
明の歴史は日本では滅多に話題にならないけど
万里の長城や紫禁城などそのビジュアルの影響力は中国歴代王朝ナンバーワン、圧倒的やな
他の王朝が束になっても敵わん……いや清の辮髪と旗装はわりとインパクト強いか

241:世界@名無史さん
21/05/04 23:03:48.92 0.net
春秋戦国時代、水利灌漑施設も発展したが、諸侯の国の間に築かれた堤防はみな、
自国に水害が及ばないようにするものだったから、洪水はしばしば隣国に
流れ込んで大災害をもたらしたとか
そのために、治水事業の統一管理の必要が痛感されていた

242:世界@名無史さん
21/05/05 02:05:17.31 0.net
この時代のトイレはどうしてたんだろ

243:世界@名無史さん
21/05/05 08:44:22.19 0.net
>>241
春秋戦国の堤防、洪水、水害といえば
趙の恵文王は河水を決壊させて魏を攻撃してますね(楽毅が活躍してた頃)
なお同年自国も別の河川の氾濫で水没した模様

244:世界@名無史さん
21/05/05 09:23:57.75 0.net
揚子江や珠江沿いには多くの都市が並んでいるのに、
山東省の省都、済南は河岸には建設されなかった
その理由は黄河があまりに激しく荒れるからだと

245:世界@名無史さん
21/05/05 15:14:43.10 0.net
以前の開封みたく氾濫で埋まって発見されて無いだけじゃねーの

246:世界@名無史さん
21/05/05 18:38:58.16 0.net
古代の都市国家の分布をみると、山西高原の東縁をなす太行山脈の東麓に
沿っているし、その東方では、平原のなかに顔を出しているいくつかの
丘陵の上に都市国家が建設され、山東省の泰山山塊にいたっている
「中原」とはいいながら、平原部は黄河の氾濫と水質の悪さのために、
人間の生存にあまり適さない環境だった

247:世界@名無史さん
21/05/05 22:53:17.80 0.net
土木技術が未発達だと河川沿いの大平原はあまり都市が形成されないよね

248:世界@名無史さん
21/05/06 02:47:27.65 0.net
古代黄河の場合はマジでやらかすと武帝の時みたく水が溢れた地域が壊滅して流民大発生するからな…
中小(現代的感覚なら悲惨な)被害は毎年のようにあっただろうし
後この辺りの時代は城壁だけじゃなく大きな宮殿とかも版築の山に屋根かぶせるような作りだし
おそらく浸水は軽度でも避けたいよなぁ…

249:世界@名無史さん
21/05/06 02:55:28.67 0.net
それなりに良い屋敷なんかわ木柱と梁構造だよ

250:世界@名無史さん
21/05/06 06:25:49.97 0.net
洛陽盆地は、黄河の氾濫の危険に直接おびやかされることもなく、
それを貫流する洛河とその支流伊河は原始的な技術で十分に
灌漑工事が可能な規模だった
さらに洛陽盆地は東アジアの南北を結ぶ陸路と水路の結節点にあたっていた
洛陽から東方、開封にいたる約200qの間だけは、河の流速は緩く、
両岸は低く、水路は安定して、南から北へ、北から南への渡河は容易である

251:世界@名無史さん
21/05/07 05:33:52.61 0.net
>>249
それなりの良い屋敷はそれでいいだろうけど
戦国諸侯の首都にあるような高大な宮殿建築は柱と梁だけじゃ無理だったらしい
咸陽宮や燕下都、中山王陵などに残る宮殿遺構から推測される内部構造は基本的に中身土台

252:世界@名無史さん
21/05/07 06:14:19.73 0.net
臨淄は現代では山東省の一小都市に成り下がったけど、春秋戦国時代には、
大国斉の都であり、当時、最大の大都市だった
周の洛陽、趙の邯鄲、魏の大梁、楚の郢なども、政治都市であるとともに
手工業あるいは商業都市にもなって巨大化した

253:世界@名無史さん
21/05/07 18:56:38.02 0.net
>>251
中身が土台なんじゃ無く土台の上に建築するんだぞw
歴史ドラマでもよく出て来る高い位置に築かれてるアレ

254:世界@名無史さん
21/05/07 23:49:08.03 0.net
>>253
歴史ドラマのそれとは違うらしいよ
段差をつけた土台を壁にして建物をへばりつくように建てるのが戦国期の宮殿
だから一層目や二層目の中心部は土が詰まってて内部に大きなスペースを確保できない
外からは高層建築に見えても実際に土台上に建ってるのは上層のみで復元図では概ね平屋or二階建て

255:世界@名無史さん
21/05/08 01:18:19.39 0.net
>>254
いや合ってるよ
咸陽の宮殿は土台の上に築かれてる
ドラマでよく見掛けるヤツと同じ建造法
底層は一層だし抑々土台以外の建築部分は極一部
土台の上に築かれてるのが三階建て

256:世界@名無史さん
21/05/08 09:32:24.84 0.net
>>255
回答ありがとう、詳しいね
三層くらいの階段状土台を核心とする台?建築らしい燕下都や中山王陵遺跡の宮殿とは違うってことか
咸陽宮の基壇が一層というのはわかる
構造物が三階建てというのは随分具体的だけど、なにか決定的な証拠が見つかっているのかな?
もしよければネットで閲覧可能な発掘調査報告の類や論文など、参考になるものがあれば教えていただけないだろうか

257:世界@名無史さん
21/05/08 14:12:57.70 0.net
燕下都の建築は主に平屋だけど木造二階建て部分も有る,建築考古学論文集1987年
咸陽も3階建てと思ってたけど見たら外側二階建て,内側二階建てで重なって無いのね,秦咸陽宮一号宮殿遺址立面復原図

258:世界@名無史さん
21/05/08 20:05:48.41 0.net
やっぱ先秦は平屋か二階建のイメージだよなぁ
楼閣とかと違って普段使用する大型宮殿建築で無理する必要ないし

259:世界@名無史さん
21/05/09 00:44:11.28 0.net
>>257
さっそく情報ありがとうございます
土台の使い方こそ重ねて高さを強調する?燕趙中山あたりとは多少趣が異なるけど
台上にある建物の主要構造は基本的に大差ない感じですね

260:世界@名無史さん
21/05/09 05:36:52.70 0.net
ローマでは庶民のほうが高層化したが
中国でもそんなふうかな

261:世界@名無史さん
21/05/09 13:07:42.29 0.net
ローマの石造高層建築は一旦地震起きると倒壊し捲って被害惨重だったから
地震の多い地域じゃ無理だよ

262:世界@名無史さん
21/05/09 19:43:28.30 0.net
まあ中原は地震被害の少ない地域だからあまり気にしてなさそうだが

263:世界@名無史さん
21/05/10 05:05:09.12 0.net
イタリア半島はアフリカプレートとユーラシアプレートがぶつかる地震多発地帯だけどな

264:世界@名無史さん
21/05/10 15:54:17.29 0.net
だから崩落しまくってるしな
材木に向いた森林も少ない

265:世界@名無史さん
21/05/11 00:21:12.93 0.net
紀元前2000年ごろ、中国の森林被覆率は64%だった
それが清代のはじめごろには21%に低下していた

266:世界@名無史さん
21/05/11 01:19:03.15 0.net
日本は森林率65パーセントだが江戸時代は40パーセントほど
と考えるといまの日本もかなり異常
イギリスは森林率10パーセントと低い
現在ドイツフランスイタリアなど森林率は三十パーセントあまり
三割程度の森林率をめざしてるんだろうな

267:世界@名無史さん
21/05/11 01:47:17.02 0.net
ヨーロッパは中世までは森林におおわれてるとこが多かったが三行革命前ぐらいに森が禿げたんだっけ

268:世界@名無史さん
21/05/11 02:03:08.26 0.net
また髪の話をしてる

269:世界@名無史さん
21/05/11 02:17:36.15 0.net
>>266
戦後の復興で増えたのか
おそらく杉だよね。花粉症がひどくなったのか

270:世界@名無史さん
21/05/11 06:46:37.55 0.net
江戸時代の日本はハゲ山だらけだったとよくいわれるけど、
それでも森林率は40%もあったのか
ヨーロッパ諸国の場合、大航海時代以降、帆船を大量に製造したことも
影響しているのかな

271:世界@名無史さん
21/05/11 07:59:16.03 0.net
江戸時代前半に大規模開発で禿げ山が増えて洪水とかの災害多発するようになったから、江戸時代半ばごろから開発に規制が入って、環境保全が進んでるからなあ
それで40%なんじゃね?

272:世界@名無史さん
21/05/11 08:01:12.41 0.net
ヨーロッパで森林がなくなったのは、製鉄で木炭を使いすぎたかららしいよ
森がなくなって木炭が入手しにくくなったことで、木炭よりやすい石炭が普及したと。

273:世界@名無史さん
21/05/11 10:20:36.17 0.net
明治政府が関東平野の田畑生産力を東京でつぶしたのを悔んで
仙台平野など東北北海道に強力な規制しいて
住宅開発は山地に追いやったらしいが
江戸でやっていればなぁ

274:世界@名無史さん
21/05/11 12:08:26.02 0.net
当時、同程度な土地でも地域によって単位面積あたりの収穫が二倍三倍も違うほどの格差があったわけで、生産力に劣る東北とかで農地を保護しても実際の効果は低かっただろうけどな

275:世界@名無史さん
21/05/11 12:34:57.24 0.net
おしいことに先進地帯の近畿は平野平地がほとんどない日本

276:世界@名無史さん
21/05/11 13:05:18.70 0.net
日本の場合ハゲ山は土砂崩れ起こすばかりで利用価値ほとんどないけど、平坦なイングランドでは牧草地や耕地として利用できるからなあ
少なくとも産業政策としては森林を回復させる必要はそんなに感じなかったんだろう

277:世界@名無史さん
21/05/11 13:07:07.50 0.net
エスプレッソを音を立てて啜り込むお前らのようなハゲを見る若い女性の目は、完全に汚物を見た時の表情と一致しています。
お前らの、その憚りの無い態度と頭皮にはもううんざりです。
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278:世界@名無史さん
21/05/11 15:02:12.28 0.net
>>270
エゲカスは製鉄の為に森林乱伐し捲って禿げた

279:世界@名無史さん
21/05/11 15:04:29.73 0.net
>>276
17世紀初頭に最も生産量多かった地域の製鉄量が
半世紀で10%まで激減してるけどね

280:世界@名無史さん
21/05/11 18:30:40.49 0.net
>>272
木炭枯渇で石炭に切り替えた当初は木炭より不純物が多かったせいで銑鉄の品質が落ち、鉄の精錬技術を高める必要が出たんだよな
木炭の時代の銑鉄より石炭の銑鉄の方が、どうしても脆くなってたから。

281:世界@名無史さん
21/05/11 18:39:50.96 0.net
>江戸時代の日本はハゲ山だらけだったとよくいわれるけど
この種の本って必ずと言っていいほど広重の浮世絵を根拠に挙げているけど、
「東海道五十三次」に描かれている全ての山が禿山ではないし
鞠子のような前面の落葉樹が葉を散らしていて冬の情景なのは明らかなのに、背後の山が
青葉に覆われていないのが証拠だとか、先日産経抄で紹介された著者が断定しているらしいが、マジわけが分からん。
前面の木が繁っているのに背景が土山だから、これは禿山を描いたのだというのなら分かるんだけどね。
森か山なのか区別するための絵画表現ではないと決めつける根拠も分からん。
何より広重は現地に行かず想像で「東海道五十三次」を画いたのに……
六甲や生駒のように花崗岩の採取で荒山なのは自明なのに、わざわざ調査して禿山なのが
明らかになったと手柄顔で調査報告と称する無意味な事実を証拠にしていたり、
『森林の江戸学』には東北の山が乱伐されたと参考文献を挙げているが、
同書にある和泉国の山は大半が樹木に覆われていたという不都合な真実はスルーするという悪書もある。
スレチなのは承知だが、話の流れのついでに、俺が読むべき良書を誰か紹介してくれないか?

282:世界@名無史さん
21/05/12 02:45:57.21 0.net
村に近い山だと乱伐で禿山に成りそうだから
その都度領主の許可が要る様に命令出してた所もあるけど
何で読んだか忘れた

283:世界@名無史さん
21/05/25 18:59:04.40 0.net
春秋戦国時代の食糧は稲、粟、黍、麦、豆など数種類あったが、
豆は下層階級の食物だったのだとか
『菅子』巻五「重令」には、「豆や穀物が不足すると、民衆には必ず飢餓の様子が
現れる」という言葉があり、ここからも豆が庶民の食糧であることがわかる

284:世界@名無史さん
21/05/25 19:15:05.50 0.net
豆はタンパクだが毒性も

285:世界@名無史さん
21/05/25 22:23:33.87 0.net
古代中国には牛をはじめとする家畜を生贄に捧げる祭儀が存在したが、
ああいうものはいつの時代まで存続していたんだろう?
地中海世界ではキリスト教の普及とともに廃れていったらしいが

286:世界@名無史さん
21/05/25 23:17:13.34 0.net
少なくとも、後漢とか三国時代までは存続してそう
隋唐時代はどうなんだろ?
宋代は?

287:世界@名無史さん
21/05/26 04:49:40.94 0.net
古代ゲルマン人の地母神なども聖牛だったらしい

288:世界@名無史さん
21/05/26 06:15:40.06 0.net
頻度の問題でしょ
日本国は今に至っても天皇家が何かやってるし

289:世界@名無史さん
21/05/26 06:25:59.38 0.net
ネパールでは、今でも生け贄の動物が何十万頭も殺されて問題になってるけどな

290:世界@名無史さん
21/05/26 07:42:14.23 0.net
犠牲と言ったってお供えしたあとちゃんと食べるんだろ。ご近所に振る舞ったり。
なら別にいいんじゃね?

291:世界@名無史さん
21/05/26 08:03:34.34 0.net
農耕民族が米や麦をお供えするのも、牧畜民族が家畜をお供えするのも、やってることは同じだ

292:世界@名無史さん
21/05/26 08:29:11.87 0.net
宗教儀式という点でわね
血腥さの観点なら全然違う

293:世界@名無史さん
21/05/26 09:15:30.73 0.net
>>289
URLリンク(www.afpbb.com)
この写真だな、ネパールのいけにえ祭り

生贄とはまた意味が違うが、唐代には白馬を屠ってその血をすすって
誓いを立てる儀式というのがあったらしい

294:世界@名無史さん
21/05/26 10:39:11.03 0.net
キリスト教以前のケルト人ではインドとおなじバラモン
僧侶が勢力張っていた
どういうわけか僧侶階級が衰退したあとでローマ人が来たらしい
ブリテン島が中心だった

295:世界@名無史さん
21/05/26 12:12:14.96 0.net
あえて言うなら、スペインの闘牛だって元々は宗教儀式で家畜を生け贄に捧げてるわけだよなあ

296:世界@名無史さん
21/05/26 22:42:36.83 0.net
殷代には人間を生贄に捧げることもあったとか

297:世界@名無史さん
21/05/26 23:44:25.49 0.net
羌という異民族だけどな。一説に羌という漢字は二本足の羊の意味だとか。

298:世界@名無史さん
21/05/27 05:34:47.44 0.net
そんな説無いけどな
甲骨文すら見た事無いおっさんが全く予備知識無しに妄想

299:世界@名無史さん
21/05/27 10:38:56.71 0.net
春秋戦国時代には、商工業の発達が農村の閉鎖的な経済をゆさぶり、共同体の上層の
人びとがうまく土地をとりこんで富農となる反面、土地を失って没落して貧農と
なったり、生活の途を失って都市へ流れていった者も少なくなかった
江戸時代の日本で士農工商といわれたのは、このように商業が社会の安定を脅かす
おそれがあったからなのかな?

300:世界@名無史さん
21/05/27 12:52:22.82 0.net
原始共産制の農村共同体なんてのは、マルクス主義史観の学者たちの空想妄想の中にしか存在しない架空の農村

301:世界@名無史さん
21/05/27 16:11:01.93 0.net
粗放農業は農産共同体を形成し易いよ稲作より
>>299
社会変動が起きる位経済活動が発達したのわ漢代入ってからじゃね?
一応七国に分かれてたし

302:世界@名無史さん
21/05/27 17:25:13.63 0.net
>>300
原始共産制って農耕以前の狩猟採集社会が想定されてるんだが・・・
こういうマルクスのマの字も知らん低能が「ぼくのかんがえたまるくすしゅぎ」を妄想しては叩くのって何なの?
お前の妄想はママにでも聞いてもらえよ誰も興味ねーから

303:世界@名無史さん
21/05/28 03:25:15.75 0.net
>>298
士農工商って言葉自体が最近じゃ使われないのでは

304:世界@名無史さん
21/05/28 07:41:57.15 0.net
>>299
江戸時代の日本について士農工商と言ったのは、同時代にはほとんどなくて、主に明治以後の人が江戸時代をあしざまに言うための言葉という状態
というか、本来は朱子学の言葉で日本の江戸時代の社会とはぜんぜん違うんだよ

305:世界@名無史さん
21/05/28 08:45:15.21 0.net
士7%農22%工7%商7%農奴44%奴婢14%奴隷9%

306:世界@名無史さん
21/05/28 18:07:21.77 0.net
波動砲!エネルギー充填率120%!!
艦長!安全深度限界ですー!!
まだいける!あと20m潜れ!!
みたいな?

307:世界@名無史さん
21/05/28 18:29:21.30 0.net
春秋戦国時代にはさまざまな形の貨幣があったが、布銭(農具をかたどった銭)は
おもに中原地域で、刀銭はおもに燕や斉で、円銭は秦で用いられていたんだよな
ある意味多様性があって面白いともいえるが

308:世界@名無史さん
21/05/28 18:49:00.80 0.net
>>307
復古主義者の王モウは、前漢を滅ぼして古銭を復刻した

309:世界@名無史さん
21/05/28 20:18:49.93 0.net
宝貝が貨幣として用いられていたのはいつ頃ぐらいまでなんだろ?
海岸にいけば入手できる貨幣とかインフレデフレ凄まじい気がするけど

310:世界@名無史さん
21/05/28 22:16:47.51 0.net
>>309
王莽の政策が破綻したのちは、貝貨が雲南以外で使われることはなかったらしい

311:世界@名無史さん
21/05/29 05:04:39.14 0.net
>>305
徳川時代中期以降は農奴が奴隷奉公で都市へ奴婢として出荷される数が増加したよ

312:世界@名無史さん
21/05/31 14:56:48.61 0.net
江南では昔から巫術が盛んだったらしいけど、道教とはどう違うのかな?

313:世界@名無史さん
21/05/31 16:09:00.87 0.net
鬼道ってヤツじゃね?
どんなのか知らんけど

314:世界@名無史さん
21/05/31 19:39:01.15 0.net
江南の巫女は楽器を叩いて死人の魂を下ろし、死者に話をさせたらしい
さらに吉凶を占い、ときにはひでりや雨乞いのとき、犠牲として天に
捧げられる場合もあった
周の時代には手に茅を持って舞い、託宣をしたという

315:世界@名無史さん
21/05/31 20:42:40.94 0.net
公孫衍って前314年に秦に攻められて敗走したあとの動向わかっているのでしょうか?
武王のもとで甘茂にどうこうとか、その後の伊闕の戦いでは魏の使者となり秦と和平したとか何とか書いてあるところがちらほらありますがあれ向寿や公孫奭とかという人と混同しているような…

316:世界@名無史さん
21/06/01 06:44:53.44 0.net
>>312
道教よりむしろ、儒教のルーツがそれ
孔子が「怪力乱神を語らず」とする以前の儒教はシャーマニズムだった
孔子の母も巫女だったと言われている

317:世界@名無史さん
21/06/01 07:09:54.74 0.net
違うよ
祖先神を祭る宗族制と政教一体だけど
既にシャマニズムでわ無いよ

318:世界@名無史さん
21/06/01 07:42:31.64 0.net
戦国時代中期以後、漢民族共通の祖先と考えられるようになった黄帝も、
風雨を支配する巫術者と考えられていた
しかし、中国の古代ではシャーマン=王だったにしても、為政者が儒教を民衆統治の
手段にしてから後、巫術者の行為はおおむね時の権力に対してアンチテーゼとして
働くため、史料に残される例がきわめて少ない

319:世界@名無史さん
21/06/01 08:06:54.71 0.net
>>315
史記張儀列伝では張儀死後に入秦したことになっているからね
個人的には武王〜昭王の初期は公孫なんとかがよく登場するので混同の可能性は相当あると思う
向寿「そろそろ誰が昭襄王の真の幼馴染か決めようではないか?」

紀年記事における公孫衍または犀首という名での登場は
たぶん魏世家の哀王九年が最後じゃないかな?(岸門に敗走したのが哀王五年、哀王十年に張儀卒)
その後も存命かもしれないけど魏または秦の将軍、宰相としての活動は確認できない気がする

320:世界@名無史さん
21/06/01 10:42:26.11 0.net
夏后少康の庶子の無余という人が会稽に封じられ、
土地の風習に従って入墨をし、
髪を切って村落をつくった
その子孫が越王勾践

321:世界@名無史さん
21/06/01 11:32:56.04 0.net
こじつけ伝説だろそんなん

322:世界@名無史さん
21/06/01 15:46:00.79 0.net
>こじつけ伝説だろ、そんなもん
いや、問題は何故こじつける必要があったか?そして、それを記録するだけの裏付けはあったのかどうか?
が、問題なんだろ
つまり、当時に二里頭文化の集団移民が実際にあって、それを夏の王族に仮託されたのか
そして、それを裏付ける文化的な連続性があったのかどうか

323:世界@名無史さん
21/06/01 18:06:20.25 0.net
たとえ当時なんらかの根拠があったとしても
今となっては匈奴≒夏の末裔みたく証明できないだろうしなんとも
初期越の有力者墓は中原型だった、という話も聞かないし

324:世界@名無史さん
21/06/01 18:55:04.67 0.net
>>319
ご丁寧に解答くださってありがとうございます!
古代特有の楽しく同時にもどかしい感じ…おとしどころ探さなくては

325:世界@名無史さん
21/06/01 19:57:28.42 0.net
呉太伯の父は古公亶父といい、周王朝の祖だが、
長男の太伯よりも末子を位に即けたいと願っていた
それを知った太伯は位を弟に譲るため、髪を切り、
入墨をする蛮族の風習をして会稽に行き、呉の始祖となったという
これもこじつけ伝説?

326:世界@名無史さん
21/06/01 20:04:38.49 0.net
>>324
いえいえ、張儀列伝と魏世家という基礎中の基礎の範囲でしか答えられず申し訳ない
一応魏将の記述が史記比豊富な竹書紀年に犀首がいないか探したこともあるのですがそれらしき人物はいませんでした
武王期以降になると宣太后一族他に関心が移ってしまい完全に勉強不足です(汗)

327:世界@名無史さん
21/06/01 21:40:39.51 0.net
>>325
あのまま周に残っていたら殺されたのが李歴ではなく太伯だったんだろうか?

328:世界@名無史さん
21/06/02 11:38:01.29 0.net
殷周時代の大都市、とりわけ王都は、王朝の滅亡とともに
放棄されるものであり、政治的な性格を強く帯びていた
しかし戦国時代になると、王朝の興亡に左右されない、
巨大な経済都市が出現する
なかでも大規模な城郭都市が生まれたのは、韓・魏・趙の地域

329:世界@名無史さん
21/06/02 14:38:04.45 0.net
そんだけ都市の力が強くなったってことか
インフラとマンパワーが

330:世界@名無史さん
21/06/02 19:35:50.47 0.net
戦国期には社会的・地域的な分業が相当な水準まで発展し、天然資源のみならず、
日常的な什器の流通も始まっていた
北海では馬や犬、南海では大鳥の羽・象牙・犀の角・青色の染料・丹砂、
東海では紫貝・葛製の布・魚・塩、西海では皮革やヤクの尾を産出した
中国の民はこれを交易で手に入れることができた

331:世界@名無史さん
21/06/03 00:09:04.54 0.net
>>330
それだけ色んな交易品があるのに調味料は塩と酢だけなのか

332:世界@名無史さん
21/06/03 07:28:01.55 0.net
戦国期だと魚醤,肉醤と味噌が普及前だけど有る感じ

333:世界@名無史さん
21/06/03 14:22:03.76 0.net
春秋戦国時代には、食客3000人を抱えるような人物も現れたけど、
それだけ社会が豊かになったということなのかな
ちなみに孟嘗君はいかもの食いで、他国からの逃亡者や罪人までも集めていた

334:世界@名無史さん
21/06/03 15:05:50.21 0.net
うがった見方だと、有能な人材は大国に取られてるからイカモノ人材しか集められなかったという説も
そんなイカモノ軍団を使いこなして活用したんだからすごいよな

335:世界@名無史さん
21/06/03 15:16:59.55 0.net
有能はイカモノでも有能だし
イカモノでも有能は有能でしょ

336:世界@名無史さん
21/06/03 17:24:03.67 0.net
犯罪者の活用といえば秦
秦末には軍が罪人だらけになっちゃった

337:世界@名無史さん
21/06/03 22:30:50.62 0.net
ヨーロッパの城郭都市の場合、門限が定められていたが、
中国の都市の場合はどうだったんだろう?

338:世界@名無史さん
21/06/03 23:33:44.82 0.net
夜明けまでは城門を出入りできなかったからこそ、町を出られなかったからこそ、鶏の鳴き真似をする人材が活躍したんじゃね

339:世界@名無史さん
21/06/04 06:02:19.83 0.net
鶏鳴もそうだし光武帝も門限過ぎて野宿した逸話がある
宋の開封なんかは不夜城として有名

340:世界@名無史さん
21/06/04 07:30:31.96 0.net
日本の江戸城も門限が決まっていて、
それを過ぎると将軍といえども
みだりに入れてもらえなかった

341:世界@名無史さん
21/06/04 07:48:45.63 0.net
つうか、江戸だと町全体がブロック状に区切られて柵で往来制限されててその門扉が夜間には閉じられて往来できなかったはず
その門のことは木戸とか城戸と呼んでたはず

342:世界@名無史さん
21/06/04 14:32:23.91 0.net
日本では中国の都市のなかで、唐の長安だけがやたら有名で、
宋の開封では夜間の通行を禁じた唐代の坊制はとっくに
なくなっていたことなど、ほとんど知られていないな

343:世界@名無史さん
21/06/04 23:47:27.70 0.net
文化は伝播するが現地に馴染みがあるわけじゃないからね
これは前近代中国に限らず現代の欧米に対しても言えるな
有名なのは代表的な都市だけ

344:世界@名無史さん
21/06/05 10:58:03.98 0.net
春秋戦国時代に諸子百家が盛んに活躍していたが、
そのなかには一人の秦国人もいなかった
やはり秦は文化的にも遅れていたのかな

345:世界@名無史さん
21/06/05 11:33:20.45 0.net
秦で活躍した人は複数いるのに秦出身って聞かんよね

346:世界@名無史さん
21/06/05 11:55:44.05 0.net
秦は法律が厳しくて高等遊民はできないしゆっくり学問もできなかった
一家に二人以上の男子がいれば必ず分家しなければならないとして
自作農の増加をはかり
五人組で農家を互いを監視させた
漢代になると余裕のある家の子が
ずっと学問して世評が高まり70歳でようやく官に招かれ
とか出てくる。孔明もニートだったし

347:世界@名無史さん
21/06/05 12:15:01.81 0.net
孔明ニートは誤読だな
あいつら、大土地所有者、大土地経営者らは領地経営が本業
君主に仕えるのは副業みたいなもんだぞ

348:世界@名無史さん
21/06/05 12:38:19.68 0.net
呉の4姓とか大土地所有者だけど先祖を見ると北から来たみたいだし
東晋の豪族もそういうの多いし
孔明の実家も華北で戦乱に押されて南に流れてきたみたいだし
太守のおじさん殺されてるし荊州に土地縁なさそうよね

349:世界@名無史さん
21/06/05 12:53:24.99 0.net
その辺の時代の大土地所有者って、異境に移動するときに領民を引き連れて移動することが多かったみたいだね
土地は移動先で手に入れて開拓して入植するのかな?
だから、孔明も異境である荊州で地主業、大土地経営をしてるわけだよ
自分自身も土地を耕したりしてるけど、それも本業じゃない

350:世界@名無史さん
21/06/05 13:04:54.20 0.net
袁紹も司馬懿も仕官に出てこないと殺されるから仕方なく仕官
本音では高等遊民していたかったようだ

351:世界@名無史さん
21/06/05 13:28:28.16 0.net
未だ未耕地有る時代だし
上古わ道徳を競い 中世わ智謀を逐い 当世わ総力を争う

352:世界@名無史さん
21/06/05 15:47:56.22 0.net
>>351
死ね

353:世界@名無史さん
21/06/05 16:00:26.35 0.net
>>350
司馬懿はわかるけど、袁紹もなの!?

354:世界@名無史さん
21/06/05 16:45:37.93 0.net
袁紹は董卓に脅されて仕官したんだっけ
袁紹が離反した腹いせに叔父が殺されてるな、たしか?

355:世界@名無史さん
21/06/05 16:52:32.20 0.net
朝廷の政治を壟断していた宦官の趙忠らは、袁紹の行動を不審に思い危険視していた。そのことを聞いた叔父の袁隗は、一族を滅ぼすつもりかと袁紹を叱ったという(『三国志』魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』)。そのため、何進の掾(属官)に召されるとようやく官途に就くことにした

356:世界@名無史さん
21/06/05 17:40:46.81 0.net
>>354
訂正
董卓のときに仕官したわけではない
すまん。指摘のレスの意味も読み取れてなかったし……

357:世界@名無史さん
21/06/05 18:03:36.75 0.net
秦の知恵者と言えば厳君かな

358:世界@名無史さん
21/06/06 03:34:29.86 0.net
史上活躍した人物となると、他の国と同じくまずは宗族ということになる
昭王期くらいまでは公子や公孫が政戦によく登場する
まあ出自が明らかな人間は殆どいないから公孫某でも秦出身確定にならんのが辛いとこだが
他にパッと思い浮かぶ出身地が書いてある有力者は・・・
白起:バリバリの秦地出身
王氏:秦の本拠地、関中東端出身
犀首:秦の周縁、魏との係争地域出身
あと蒙恬みたく先祖は他国者だけど本人は秦育ちな秦人(知らんけど)も割といるかもしれん

359:世界@名無史さん
21/06/06 07:54:57.14 0.net
どいつもこいつも実務的な人で私塾を建てて後進の育成になんて考えそうになさそうだ
お国柄終わりを全うできないってのも要素の1つかな

360:世界@名無史さん
21/06/06 08:52:37.40 0.net
私塾で後進の育成とか無いしな
基本はサロン

361:世界@名無史さん
21/06/06 13:49:14.03 0.net
王朝のその後を考えない利己主義者の集まりで、自分の能力を活かしたい人が来るから乱世には発展するけど後に続かない
始皇帝没後の帝国を見ているようにで面白い
趙高・李斯と陳平・周勃の差よ

362:世界@名無史さん
21/06/06 16:13:33.53 0.net
始皇帝に人を見る目が無かったというだけの気も

363:世界@名無史さん
21/06/06 16:48:16.26 0.net
豎5fc; 趙高 公子開方みたいな一見忠義面した輩わ質悪いから

364:世界@名無史さん
21/06/06 17:02:48.55 0.net
>>363
死ね

365:世界@名無史さん
21/06/06 19:02:33.34 0.net
>>359
>>361
秦は諸子百家に分類される人材を雇用しているけど、多くが便利な侵略案内人&権力強化のお供(寵臣)タイプで
史料を見る限り諸子百家的な文化を振興しよう、みたいなタイプの権力者は戦国末の呂不韋を待たなければいけないからなぁ
しかも孤立する甘茂説話の数々や、逐客令というワード、厳格な移動の制限から考えて
東方で流行る諸子百家ムーブを積極的に否定、拒絶する有力者&地元秦人は少なくなさそう

366:世界@名無史さん
21/06/06 19:34:38.51 0.net
側近と寵臣は違うでしょ

367:世界@名無史さん
21/06/07 01:54:19.39 0.net
側近は君主と親しい、つまり君寵を得ている人物、すなわち寵臣である場合が少なくないし
君主の信頼を背景に強大な政治権力を握る寵臣は側近出身であることが多いのでは?

368:世界@名無史さん
21/06/07 06:02:18.25 0.net
寵臣は権力握って無い場合も多いよね

369:世界@名無史さん
21/06/07 07:09:09.32 0.net
もちろん場合によりけり
寵臣政治する事もあればただの遊び相手でしかないこともある、それは側近も同じだけど

370:世界@名無史さん
21/06/07 19:18:47.13 0.net
側近は近臣と手足となって働く信頼厚い体制幹部を指す場合がほとんどだけど
寵臣は要するにお気に入りなのでやや範囲が広いかな
上は君主個人の寵愛を頼りに強権を振るい改革を強行する歴史的人物から下は寝室で活躍する人まで

371:世界@名無史さん
21/06/08 14:41:37.49 0.net
斉の国は山東省にあって海岸線が長いので、製塩や漁業には便利だが、
土地はアルカリ性が強く農業には適さなかった
管仲は製塩業、漁業のほか、養蚕、絹織物業を奨励するとともに、
土壌の改良につとめ、農業を盛んにし、また物資の流通、物価の安定を図った
これによって斉の国の経済は発展し、軍事力は強化された
こうして斉の国は春秋最初の覇者となる道を歩み始める

372:世界@名無史さん
21/06/08 16:41:39.94 0.net
管仲というか、後世管仲に仮託された思想というか

373:世界@名無史さん
21/06/08 17:47:44.21 0.net
製鉄忘れてる

374:世界@名無史さん
21/06/08 18:34:37.12 0.net
>>371
春秋時代の斉は海岸まで支配してなかったのでは?

375:世界@名無史さん
21/06/08 19:07:12.25 0.net
春秋時代も終わり頃になると広く海岸を支配してたんじゃないかな
むろん管仲が生きていた比較的前期には当てはまらないけども

376:世界@名無史さん
21/06/08 22:41:13.67 0.net
斉の桓公にとっては、北方の山戎や狄よりも、
南方の楚の国のほうがおそるべき敵だったとか

377:世界@名無史さん
21/06/12 22:17:38.06 0.net
呉、越の地は海浜に近く、魚介や塩の利益がある上に、農業にも適しており、
中原の進歩した生産技術が伝わると、たちまち繁栄を迎えた

378:世界@名無史さん
21/06/13 02:45:09.56 0.net
冶金は元から先進地域の1つだし
農業は長江流域に典型の稲作だから
黄河流域の天水農法と違うよ

379:世界@名無史さん
21/06/13 02:55:59.90 0.net
ずっとあとの三国時代の呉でも旱魃が多く記録されてる
北に比べて人口が少なく
豊作が当たればでかいが、安定しなかったみたい
そんなわけで人狩りとか精出して

380:世界@名無史さん
21/06/13 09:09:28.09 0.net
稲作の方が畑作より安定してる
三国呉の領域の多くは戦国楚
江南で旱害が起き易いのわ丘陵地

381:世界@名無史さん
21/06/13 10:31:51.69 0.net
畑で栽培される稲を陸稲(りくとう、おかぼ)という。同じ土壌で陸稲の栽培を続けると連作障害が発生する

382:世界@名無史さん
21/06/13 14:03:57.60 0.net
陸稲なんて栽培されて無い
はい論破

383:世界@名無史さん
21/06/13 14:25:20.24 0.net
この時代の南方は原住民による焼き畑農業がおおく、それに華北人が乗っかった
いきなり水田なんてないよ。まず原住民を追い払ってから開発

384:世界@名無史さん
21/06/13 14:27:19.07 0.net
考古学的には、日本では縄文時代から陸稲が栽培されていた形跡があり、水田稲作より起源が古い

385:世界@名無史さん
21/06/13 16:38:20.50 0.net
>>380
死ね

386:世界@名無史さん
21/06/13 18:47:19.25 0.net
>>384
現存の陸稲わ中世に分岐した物だし遺伝的多様性にも乏しい

387:世界@名無史さん
21/06/13 19:39:20.17 0.net
春秋戦国時代は中国の思想が急激に発展した時代だけどその要因はなんだったの?
三国時代、五胡十六国時代、五代十国時代も同じ分裂時代だけど新しい思想は生まれなかったのはなぜ?

388:世界@名無史さん
21/06/13 20:18:41.92 0.net
>>380
戦国の呉は後の徐州あたりだよね、会稽あたりは呉の南がわ隣国の越だよね
すると戦国の呉の領域の大半は三国時代には魏の領土だよね

389:世界@名無史さん
21/06/13 20:20:02.16 0.net
>>382
陸稲は黄河文明の方のエリアで細々と作られてたぐらいで、長江文明の圏内では育てられてないよね

390:世界@名無史さん
21/06/13 20:21:53.29 0.net
>>383
そかな
原住民が稲作で入植した華人は小麦とかヒエアワメインなんでは?

391:世界@名無史さん
21/06/13 20:26:18.20 0.net
>>387
あたらしい思想は色々あったけど、だいたいは古い思想の外皮をかぶせられて新規性が見えにくい
三国時代になる前から、後漢の頃から色々とあたらしい思想は出まくってるよ

392:世界@名無史さん
21/06/13 21:15:46.05 0.net
>>386
死ね

393:世界@名無史さん
21/06/13 22:13:35.21 0.net
前584年、晋では楚の力をそぐ手段として南方の呉に目をつけ、
申公巫臣を呉に派遣し、進歩した車戦法を教えさせた
これは呉王寿夢のときだったが、この時から呉は勃興し、
晋の目論見どおり、楚の一強敵となった

394:世界@名無史さん
21/07/09 19:40:50.03 0.net
中国の軍隊についてだけど、春秋時代になると、貴族だけでは軍事力不足なので、
平民による常備軍が編成されるようになったな
ただし彼らには武器自弁の義務はなく、代わりに「金」を徴収するようになった
そして戦国時代には貴族の子孫が増加したので、本国で生計を立てられない者たちが
同盟国で寄食するようになった
彼らは戦時には軍を率いるものの、平時にもどれば軍を解いて、主君に返上するのが
ふつうだった
将軍職も、周代に比べればもはや高貴な地位とはいえなくなった


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