春秋戦国時代 4 ..
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2:世界@名無史さん
21/01/31 11:18:32.10 0.net
春秋時代における、中原情勢推移の一例
B.C.722年5月 鄭で共叔段が反乱。
B.C.722年   共叔段の子、公孫滑が衛に亡命したため、鄭が衛を攻撃。
B.C.721年  鄭が再び衛を攻撃。
B.C.720年8月 宋の穆公が薨去し、公子馮が鄭に亡命。
B.C.719年夏  衛・宋・陳・蔡の四ヵ国が鄭の東門を包囲。
B.C.719年秋  四ヵ国が再び鄭を攻撃。
B.C.718年4月 鄭が衛に報復攻撃。
B.C.718年4月 衛が南燕軍を率いて鄭を攻撃するが敗北。
B.C.718年9月 が鄭と連合し宋を攻撃。
B.C.718年   宋が報復し鄭の長葛を包囲。
B.C.717年秋 宋が長葛を占領
B.C.716年7月 宋と鄭が宿で講和
B.C.715年春  斉が宋と衛を垂の犬丘で非公式に会談させた。
B.C.715年7月 宋・衛両国が鄭と和平を結ぶ。
↑こんな調子で、延々と何百年もつづく。
フクザツすぎて、頭に入るわけがない。
近代ヨーロッパのほうが、まだマシだ。

3:世界@名無史さん
21/01/31 11:38:41.76 0.net
春秋時代のまとめ
紀元前1046年、商王朝を滅ぼした周王朝は、王族や功臣に土地を与えて自治や世襲を許可する「封建制」を採用しました(西周)。
紀元前771年に異民族の侵略によって第12代・幽王(ゆうおう)が殺害され、西周はいったん滅びます。
しかし翌年、鄭の武公を中心とする有力諸侯によって新たに擁立された平王(へいおう)が洛邑に遷都し、周王朝を再興しました(東周)。
やがて諸侯は、王朝を補佐する「覇者」と呼ばれる立場を争い、各地で戦争を起こすようになりました。
当初は鄭を初めとする河南省の都市国家による争いでしたが、やがて東西南北の各地に大国が台頭します。
「春秋の五覇」と呼ばれる斉の桓公(かんこう)、晋の文公、楚の荘王、呉王闔閭(こうりょ)、越王勾践(えつおうこうせん)です。
紀元前546年、宋国の仲介で北の大国・晋と南の大国・楚が休戦協定を結ぶことで、一時平和が訪れました。
紀元前453年、大国・晋が韓・魏・趙の3国に分裂して、春秋時代は終わりました。

4:世界@名無史さん
21/01/31 11:47:10.08 0.net
戦国時代の概要
戦国時代になると、かつてのように「覇者」が中心となって周王朝を支えるといったことはもはやなくなり、
戦乱で勝ち残った「戦国七雄」と呼ばれる「秦、燕、斉、楚、趙、魏、韓」がそれぞれ「王」を称して天下を争うようになりました。
当初は河南省の魏が主導的な立場にいましたが、やがて西の秦、南の楚、東の斉といった超大国が台頭しました。
紀元前247年、始皇帝と呼ばれることになる政(えいせい)が王に即位すると、秦はついに統一に向けて動き出します。
紀元前221年、最後に残っていた斉を滅ぼし、諸侯はすべて秦の元に統一、ここに長く続いた分裂の時代は終焉を迎えました。

5:世界@名無史さん
21/01/31 11:48:24.34 0.net
>>3-4 はコピペに見えるけど、スレ立て人による「まとめ」ですので(笑)

6:世界@名無史さん
21/01/31 14:48:00.10 0.net
楚は中原に勢力を拡張し、その文物を積極的に受け入れようとしたが、
周室を推戴しようという考えはまったくもたなかった

7:世界@名無史さん
21/01/31 23:06:26.79 0.net
>>4
衛「始皇帝が全て統一?」

8:世界@名無史さん
21/02/01 15:25:00.75 0.net
まあ、始皇帝が即位した時点でほぼ勝負はついてたわな
コピペした文を加工したものだが、改良の余地がまだまだある

9:田単
21/02/03 08:13:53.63 0.net
>>1乙です
そういや宮城谷氏がまたこの時代で小説書いてますね
今、この時代をテーマに描く人はこの人しかいませんねえ
北方氏には書いて欲しくないですしw

10:世界@名無史さん
21/02/03 09:41:53.88 0.net
「キングダム」の漫画が大ヒットしたが、小説にブームは及んでないか

11:世界@名無史さん
21/02/03 14:37:18.21 0.net
春秋戦国時代、水利灌漑施設も発展したが、諸侯の国の間に築かれた堤防はみな、
自国に水害が及ばないようにするためのものだったから、洪水はしばしば隣国に
流れ込んで大災害をもたらした
そのために、治水事業の統一管理の必要が痛感されていた
やはり中国はいつかは統一される運命にあったのだと思う

12:世界@名無史さん
21/02/03 14:51:03.44 0.net
漢代ともなれば、食生活に塩は書かせないし、鉄製農具なしでは農耕生活も考えられない
全国的な商業ネットワークが必要だった
匈奴の脅威に対抗するためにも、中原諸国同士で争ってる場合じゃなかった

13:世界@名無史さん
21/02/03 14:51:44.80 0.net
やはり、それだけ必要になったから統一の機運が高まるわけで

14:世界@名無史さん
21/02/03 17:27:22.31 0.net
>>12
中国みたいな広大な大陸国家では、塩は嗜好品じゃなくて必需品では?
普段から肉食ってる貴族はともかく、植物食メインの庶民は塩食わないと死ぬぞ

15:世界@名無史さん
21/02/03 18:08:49.24 0.net
各地域の経済は互いに依存しあう度合いが強まっていた
ところが各国の都市が用いる貨幣は非常に複雑であり、
各国の度量衡もそれぞれ違っていた
また各国は国境に関所を設け、出入国する商人に税をかけて抑制していた
やっぱり統一したほうが効率がいいよな

16:世界@名無史さん
21/02/03 18:27:02.63 0.net
大商人の李斯が邯鄲で秦の王子の1人をバックアップして秦王につけたことが統一のきっかけとも言えるんだよな
(その王の子が後の始皇帝)

17:世界@名無史さん
21/02/03 18:32:59.11 0.net
中国の庶民食といえば腊肉(塩漬け豚肉)
これを作るのには大量の塩が必要でありそれゆえ塩は漢武帝の頃から国家の専売とされた
稲作だけ伝わった日本が特殊なだけで中国韓国や東南アジアでは稲作と養豚はほぼツーセットで広まっている

18:世界@名無史さん
21/02/03 18:57:19.53 0.net
李斯ではなく呂不韋だね

19:世界@名無史さん
21/02/03 18:59:28.65 0.net
桑原隲蔵の『中国人間に於ける食人肉の風習』を読むと子路はやっぱりただの文の表現ではなく実際に食べられたんだろうね悲しい

20:世界@名無史さん
21/02/03 19:17:31.40 0.net
>>18
すまん、今気づいて訂正に来たわ
その前にすでに指摘されてた

21:世界@名無史さん
21/02/03 22:20:51.33 0.net
中国の国土は広大だが、塩の産地は沿海部といくつかの内陸地に限られている
このため歴代の王朝は、塩の生産と販売を統制して、生産費の何十倍もの価格で
人民に売りつけ、それを重要な財政基盤としていた

22:世界@名無史さん
21/02/04 06:13:21.68 0.net
>>19
孔子は肉くえなくなったほどだからね
有名どころでは彭越が劉邦に塩漬け肉にされ、諸侯にふるまわれた
彭越は人を見る目がないわ
呂雉を頼るとは
子路にしろ、自らの言葉が災いをもたらした

23:世界@名無史さん
21/02/04 06:48:31.68 0.net
商とか周の時代の人は、どうやって塩分を補給してたんだろうな
まあ、「商の都から来る人が、商人の語源になりました」っていうくらいだから、商王朝も塩の流通ネットワークの中心にいたんだろうけどな
中国が本当の意味でバラバラになりにくい大きな要因の1つだろう

24:世界@名無史さん
21/02/04 06:55:18.71 0.net
漢代になると、塩に加えて鉄が必需品に加わった
乾燥化が進む硬い黄土高原の大地で農耕を続けていくには、鉄製農具が不可欠だった

25:世界@名無史さん
21/02/04 09:07:10.11 0.net
山西省南部には太古から有名な塩池があるが、戦国時代に倚頓という男がここで
製塩業を営んで巨万の富を築いた
また趙の都、邯鄲の郭縦という男は、当時のトップ産業である製鉄業を始めたところ、
大当たりに当たってたちまち王者に等しい財産を築いたという
おそらく農具を大量に鋳造したのだろう

26:世界@名無史さん
21/02/04 12:13:56.10 0.net
>>24
鉄の普及が始まったのは戦国時代初頭か春秋時代末だろ
戦国時代後半ぐらいから必需品になってると思うけど

27:世界@名無史さん
21/02/04 12:33:59.93 0.net
武器は青銅だったが、農具は鉄製
武器より先に農具で鉄が普及したのが中国文明の特徴

28:世界@名無史さん
21/02/04 14:25:48.19 0.net
黄土高原の土は、地下に立派な住居を造れるほどカチンコチンに硬い。
毛沢東も習近平も、そんな地下住居で暮らしたことがある
それくらい硬い黄土を耕作する農民も大変だ。
後の時代になるほど華北の乾燥化が進んで農耕に適さない地となり、食糧の供給を南部に依存するようになった
ただし、黄土は雨が降ると脆い

29:世界@名無史さん
21/02/04 14:51:03.82 0.net
華北の開発は漢代において、ほぼ限界に達したと考えられる

30:世界@名無史さん
21/02/04 15:07:39.63 0.net
>>27
脆くて武器に使いにくい鉄が主流だったから、武器としても利用できる新しい鉄の普及は遅かったのではなかったか

31:世界@名無史さん
21/02/04 18:25:21.79 0.net
>>16
> 大商人の李斯が邯鄲で秦の王子の1人をバックアップして秦王につけたことが統一のきっかけとも言えるんだよな
> (その王の子が後の始皇帝)
『奇貨居くべし』の商人は 李斯ではなく呂不韋

32:世界@名無史さん
21/02/04 19:47:41.02 0.net
鉄製武器の登場は西ヨーロッパではドーリア人侵入以降の古代暗黒時代(紀元前12世紀)頃だから
一方中国は前漢代に入ってからなので1000年遅れ
逆にヨーロッパでは鉄製農具の普及は中世農業革命以降だが中国では紀元前6世紀の春秋時代なので
1500年ほど進んでいる

33:世界@名無史さん
21/02/04 20:36:22.74 0.net
>>30
中近東や西洋の鉄は鍛造だったが、中国の鉄は鋳物だった
脆いので武器には向かない

34:世界@名無史さん
21/02/04 20:42:26.39 0.net
そんな武器に向かない鋳物に何の利点があるのかというと、型に流し込んで同じモノをたくさん作るのに適している
だから、漢の農民はみんな国営企業から供給された同じ農具を使ってた。
社会主義国の集団農場みたいだった

35:世界@名無史さん
21/02/04 22:27:46.05 0.net
漢代の耕地面積は約3780万ヘクタールで、2000年前に、日本の耕地面積の約七倍に
達していたらしい
またその収穫量は約30億石、目方に換算すると約3300万トンとされる

36:世界@名無史さん
21/02/05 08:05:56.14 0.net
高炉で鋼を量産して武器用は鍛打で脱炭

37:世界@名無史さん
21/02/05 10:50:26.79 0.net
漢の武帝は、匈奴と戦うための戦費をまかなうため、塩・鉄・酒を国家専売にした

38:世界@名無史さん
21/02/05 12:07:02.35 0.net
漢の対匈奴作戦は、徹底的な物量作戦であり、人海戦術だった
しかも国内から匈奴討伐の前進基地まで兵糧一石を送るには60石以上の食糧を
必要としたという
また国境線に配置した数十万の兵士の食糧を支給するために、中央の食糧倉庫が
空になったこともあったという

39:世界@名無史さん
21/02/15 12:46:06.01 0.net
靖郭君田嬰はかなりの屑

40:世界@名無史さん
21/02/17 03:28:30.29 0.net
晋が趙魏韓と三分さえしてなければ、秦の中華統一なんてできなかったとおもう
にしても、魏と韓の国境線のすごいこと、渦巻き巻いてるし
こんな国境線が、歴史でほかにも存在するとはとても思えない
どうしてああなった

41:世界@名無史さん
21/02/17 13:11:41.25 0.net
韓が鄭を、魏が衛を滅ぼしたからじゃね

42:世界@名無史さん
21/02/17 17:16:38.34 0.net
衛は滅ぼしてない

43:世界@名無史さん
21/02/17 17:31:42.86 0.net
>>40
春秋時代の三晋は所有する奉邑が晋国内にバラバラと点在してる
特に韓は当初は黄河以北の韓原にあった拠を州、平陽、新鄭と移り変わって
徐々に黄河の南岸へと拠点を大きく変えてる
それに晋公室から下賜された邑とは別に時代が下るに淘汰されてった
祁氏や羊舌氏や知氏等の旧領を他の貴族と共に分け取りしてった経緯もある
韓が黄河の南北に跨って瓢箪の様な国土になってったのはそういう事情も
あるんだろう

44:世界@名無史さん
21/02/18 14:39:14.98 0.net
晋内部に三晋ってのが出来て、それが一般化してしまった時点で避けられない命運だったな
斉→田氏斉みたいに国ごと変わった方がマシだったのかもしれん

45:世界@名無史さん
21/02/19 01:27:20.06 0.net
そもそも晋が一つの国であった、というのが割と幻想な気もする
戦国時代ですら都市国家連合としての性質を非常に色濃く残してた三晋諸都市が
春秋時代に国として一つにまとまれて居たのかは相当割り引いて考える必要がある
それに晋の覇権の端緒となった晋の文公やその先代献公も
同じ史記の情報同士で矛盾とも思える状況がいくつかあるもんで
司馬遷の時代には既にそういう話として伝わってたのかもしれないが
晋という国は史書に示される歴史的な事件が結構怪しい可能性があるね

46:世界@名無史さん
21/02/19 03:33:23.97 0.net
桓叔家による乗っ取りから献公の公族討滅で晋侯に権力が集中した
だからこそ文公が即位までにあれだけごたついても覇者になれた
六卿の時代になると新しく所領を得た卿達はその土地からバックアップを受けるために色々と特権を認めることになる
斉の陳氏がやってたみたいに小さい升で取って大きい升で与えるなんてこともやってたかもしれない
そうして都市が潤うとやがては領主を凌ぐ力を持つようになる
周王の持っていた権力が一都市にまで降りてくるってのはすごく面白いことだけど国としてはどんどんバラバラになっていくね

47:世界@名無史さん
21/02/19 08:19:51.00 0.net
そもそも、文字が諸国に普及して文書行政がおこなわれるようになったのは春秋時代末か戦国時代ごろなんだろ
なら、税額をきっちり決めるとかもできなかったのでは
その時代の統治なんて、冊封体制と大差ないような気がする

48:世界@名無史さん
21/02/19 09:32:45.78 0.net
>>45
春秋時代の晋は貴族とりわけ卿位にある氏族は時代が下るほどもう半独立の諸侯に
近い存在っぽいね
貴族の所有する邑って各々の宰領で経営してるもんだけど、後期に度々みかける
晋内部の貴族間の闘争なんかもう君主の介入無しで殆ど私闘に近いし
これは晋に限らんといえば限らんのだけど
戦国時代になると三晋地域の諸都市は経済的に発展した独立性の強い都市が多くて
各都市の経済活動や兵器・貨幣の製造なんかも国が一元的に管理しきれていなかった
なんていうのは書籍ではみかけるね

49:世界@名無史さん
21/02/19 09:33:12.46 0.net
>>46
gdgdしても覇者になれたのは騎兵戦力の優位があると思われる
恵公と文公の母は狄の有力氏族の族長の娘姉妹だったし
献公の愛人になった驪姫とその弟は戎の出身
献公の代での結婚政策は周辺に存在する遊牧系民族の取り込みを示唆してる
文公が狄に亡命中に赤狄の娘を娶ったというのも、この遊牧系との結託だよね
晋の覇権の正体ってのは遊牧民達による中原への浸透の側面が相当ある

50:世界@名無史さん
21/02/19 09:54:54.98 0.net
晋は献侯の辺りから史実に出てきて宮崎市貞は遊牧系が唐叔の家系図に繋げたんじゃないかって言ってる

51:世界@名無史さん
21/02/19 12:14:03.14 0.net
>>47 のつづき
冊封でないなら、寄親寄子制みたいなのとか、与力制みたいなのかも
いずれにせよ、春秋時代の時点では諸侯は領内の諸貴族に対して強い支配力を持ったことなど最初から無かったのではないかと
徐々に独立色を強めたのではなくて、最初からあの程度と思う

52:世界@名無史さん
21/02/19 15:41:48.90 0.net
>>50
その論は他の家も西周時代の情報がかなり欠損気味なこと考えると乱暴な気もする
特に封建から建国初期の晋なんて周王室の影みたいなもんだから西周崩壊で周に残された記録がかなり吹っ飛んだろうし
武公による本家乗っ取りで晋側も色々失ったろうし
怪しくはあるけど証拠がない感じ

53:世界@名無史さん
21/02/20 18:02:55.20 0.net
>>51
あるいは惣領制みたいな族的結合がメインだったとか

54:世界@名無史さん
21/02/21 15:07:02.81 0.net
それを前提に考えると商鞅の政策って部族制を盛大に解体するものだったし
秦が戦国時代に強国化するのもよくわかるな

55:世界@名無史さん
21/02/22 08:59:15.73 0.net
秦が相対的に強国化した理由は、よくわかるような、よくわからないような
一般的に族連合的な支配体制は他邦でも似たような時期に解体、専制的な体制に移行していったとされるので決定的な要因とは言い切れない

56:世界@名無史さん
21/02/22 12:17:11.48 0.net
少し文明かが遅れてたことで中原の先進思想家による改革が徹底できた、中央集権化の度合いが少し高めだったってとこでは?
あと、主要な係争地から離れた空白地帯の蜀を制圧してから躍進したっぽい

57:世界@名無史さん
21/02/23 04:42:05.61 0.net
西辺にあり係争地から離れている
確かに地政学的にそもそも優位だったということがまず考えられる
秦は春秋から強国で、また周という関中から出て成功した先例もあるのだから
秦の主な交戦国である魏(特に大梁進出後)が
常に二正面、三正面に備えなければいけない立地であったのと対照的

58:世界@名無史さん
21/02/23 07:53:13.05 0.net
>>55
晋はより分裂して分権化した状態が固定化しちゃったし
楚は呉起の改革が無かった事にされたと言う点を考えると
史記の史観では秦の集権体制と他国の分権体制の比較になってると思うけど

59:世界@名無史さん
21/02/23 20:04:28.71 0.net
仰る通り秦と楚の明暗は一に懐王、二に変法くらいの勢いで大体説明されてるけど
他の五雄についてはそれほど明確な解説はないからなー
強い君主の驕りや名臣の進退等の一般論が主で、呉起による集権化の否定に相当する決定的な描写がない

60:世界@名無史さん
21/02/23 20:28:15.90 0.net
そもそも、中央に周王室があり、その周囲を斉楚秦晋の東南西北4大国が取り巻いているという状況が、いかにも中国人好みの「五行説」にハマりすぎている
本当にこんな体制だったのか、なんか怪しい

61:世界@名無史さん
21/02/23 20:30:59.64 0.net
あと一歩で、智氏が晋を乗っ取って、田氏斉みたいになるところだったのにな
趙襄子の外交力で局面をひっくり返された

62:世界@名無史さん
21/02/23 20:32:02.99 0.net
>>60
いやそもそも秦楚は夷狄扱いだったし一次史料に出てくる諸侯を疑うのか?

63:世界@名無史さん
21/02/24 01:56:19.86 0.net
周代や春秋時代の一次史料なんて存在しないだろ
編纂物は二次史料だし

64:世界@名無史さん
21/02/24 02:42:39.45 0.net
金石文はこの時代の歴史研究の重要史料

65:世界@名無史さん
21/02/24 09:21:04.18 0.net
楚とかいう他の戦国六国を足し合わせたレベルの広大な領域を征服、統合した超大国
戦国楚は、「呉起殺さなかったら天下取ってた」「無能」とか言われるけど
呉起改革の過大評価、楚の政治体制の過小評価な気がしてならない

66:世界@名無史さん
21/02/24 12:12:04.61 0.net
面積は広いけど、国力は知れてるんだよな。人口密度が低い
あと、もとの中心地域だった荊州あたりと、呉越の旧領と、二ヶ所の中心地域を持つようになってからは国論統一できなかったのではないか。末期には荊州を取られて中心がひとつになったから国力結集できただろうけどさ

67:世界@名無史さん
21/02/24 13:50:53.30 0.net
密度は低いが兵力は秦に次ぐほど大きいだろう楚って
春秋時代から体制が殆ど変化してなかったって意味では随一っぽいけど

68:世界@名無史さん
21/02/24 14:17:02.64 0.net
この時代の長江下流は、広大な湿地帯で亜熱帯のジャングル
全身に刺青した土人たちの世界

69:世界@名無史さん
21/02/24 15:01:25.63 0.net
越は滅亡してから3つに分裂して自治してたから楚はほとんど支配してなかったんだろう
戦国に入ってからは奢侈に溺れてドロドロに腐敗した貴族政治で見る影もない

70:世界@名無史さん
21/02/24 19:59:39.93 0.net
越地は懐王代に入ってから攻め潰して併合の流れっぽいし実際は戦力に入ってないだろうね
東方に戦力を割かねばならんしむしろマイナスっぽい
戦国楚の遠心力が強そうな地勢で集権強行するといずれ爆散して暴君扱いされる未来しか見えない
近世の神聖ローマ皇帝が強権で全国的な支配実現するぐらい無理そう(暴論)

71:世界@名無史さん
21/02/24 20:12:05.40 0.net
懐王の頃だと荊州あたりはなくなって旧呉が中心じゃなかったか
つまり東遷後では?

72:世界@名無史さん
21/02/24 22:07:54.84 0.net
この時代は象は普通にいたんだよね

73:世界@名無史さん
21/02/24 22:23:49.38 0.net
象形文字だしね

74:世界@名無史さん
21/02/25 00:39:59.10 0.net
>>71
懐王期はまだ越を攻略中なので旧呉が中心はちょっと無理があるかと、東方(淮水流域)ならわかるけど
荊州北部を失陥するのは懐王の最末期で中部南部は次代の頃襄王期まで保持している、つまり東漸前

75:世界@名無史さん
21/02/25 06:54:28.40 0.net
この時代は、長江下流はまだジャングルで、楚といったら淮水なんだよな
楚の首都も、「西楚の覇王」といってた頃の項羽の都もこのあたりにあった

76:世界@名無史さん
21/02/25 08:58:23.24 0.net
春秋戦国の楚が開拓していったフロンティアが秦末楚漢の楚という感じですね
北東に基盤を構築した懐王期以前の楚
秦に敗れるも東に移って持ち堪えた頃襄王とその後継者たち
東漸後の楚を率いて強勢を誇った春申君
彼らの努力が巡り巡って秦を倒したと言えなくもないかもしれない

77:世界@名無史さん
21/02/25 19:06:30.51 0.net
劉邦の評価が低すぎる
叩き上げの歴戦の軍人で勝利をおさめて皇帝にまでなれたのになぜか無能大徳で成り上がったことに
春秋戦国時代にも匹敵する人物はいないでしょうに

78:世界@名無史さん
21/02/25 22:01:59.88 0.net
低すぎるというか極端って感じかな
まあ実像がわかり難くキャラ化しちゃってる古代人の評価が極端化するのはしゃーないと思うけど

79:世界@名無史さん
21/03/13 07:07:12.29 0.net
武帝のほうが英雄っぽい扱いになってるな

80:世界@名無史さん
21/03/13 12:45:53.23 0.net
>>55
>>59
あまり言われないけど国家予算のかなりの割合を賄賂に使ったことだって説も
実際に数十兆円の賄賂で諸国の重臣を買収すればね
日本ではばれて捕まるの怖し、はした金の賄賂は受け取らないことが多いけど
ちょっとしたことをやってくれるなら一億円あげると言われたらやる奴は多いだろう

81:世界@名無史さん
21/03/13 12:47:57.48 0.net
>>33
>>34
ちゃんとしたものは少ししか作れないし値段も異常に高くなってしまう
本物の豆腐が売れず、安い豆腐が流通しているように
一部の名犬が欲しい人しか高い犬は買ってくれないように

82:世界@名無史さん
21/03/13 12:50:02.91 0.net
>>60
斉も殷側だった説もあるし
殷の主力が東の人方を攻めるために主力がいない時に
味方のはずの周が騙し討ちで攻撃して本国を落としただけだからね
その力も他の諸侯より圧倒的に上ではないしね

83:世界@名無史さん
21/03/13 19:21:54.30 0.net
そりゃ生まれながら高貴な身分の武帝と文字も禄に理解できない高祖では比較すること自体、意味がない
なりふり構わず自分が助かろうとするし、他人が赤面するような、みっともない事を言ったりしたり当たり前
匈奴に臣下の礼でおめおめ生き残ろうとするのも納得
こんな些細な事を人物評価に加えるのが、適切かどうかは分からない

84:世界@名無史さん
21/03/13 19:22:51.12 0.net

すまん スレチ

85:世界@名無史さん
21/03/14 14:20:44.86 0.net
越の繁栄の基盤は通商だったらしい
越は水上交通に長けていたので、東南部の山間地域に産する物産を、
黄河流域に搬出することで勢力拡大した
その通商ルートを確保するために、長江の下流域にあった呉と争い、
臥薪嘗胆・呉越同舟などの成句を残すほどの宿敵関係にあった

86:世界@名無史さん
21/03/19 05:51:20.92 0.net
呉は、独身税みたいな税を独身者の親に課してたと言うのはほんと?

87:世界@名無史さん
21/03/21 17:09:28.12 0.net
>>86
何で読んだの?

88:世界@名無史さん
21/03/21 17:20:45.56 0.net
>>85
そうなんだろうなあ
当時の浙江省は、マングローブの生い茂る亜熱帯の湿原で農業どころじゃなかったはず
山間部の産品を主力に、水運で繁栄していたというのは納得できる

89:世界@名無史さん
21/03/21 18:30:56.57 0.net
呉越同舟の呉らしい。
孫子の孫武がいた呉だね。

90:s
21/03/21 19:52:27.72 0.net
南方民族全体の総称にも「越」族という呼称を使うが、
越国が支配していたから越族という呼称が生まれたのか、
越族が建国したから越国という国名になったのかどっちなんだろう

91:世界@名無史さん
21/03/21 19:56:22.09 0.net
後者じゃね
古代は南蛮だったんじゃないかな

92:世界@名無史さん
21/03/21 20:06:20.66 0.net
でも越って単一民族でもないし単一部族でもない、たくさんの部族の集まりだろ
百越とか言われるように。

93:世界@名無史さん
21/03/21 20:42:50.05 0.net
人種的にはインドシナ系がルーツなのかな

94:世界@名無史さん
21/03/21 21:40:19.10 0.net
>>90
当時の記録で越としか読んでいないし
越族でも越国でもあるんじゃないというより
国と言えるようなのがインジョウからみたいだし
越も呉もwoみたいな発音でぶっちゃけ同族に近いらしい

95:世界@名無史さん
21/03/23 14:55:00.65 0.net
漢の宮廷では、「越人が互いに攻撃しあうのは彼らの常であり、またしばしば
寝返りをする」といわれていた

96:世界@名無史さん
21/03/23 15:07:56.48 0.net
>>88
何を主食にしてたんだろ?
ヤムイモタロイモ甘くないバナナとかだろうか?

97:世界@名無史さん
21/03/25 11:16:38.47 0.net
>>96
その辺は推測するしかないでしょうなあ
おそらく、「南洋の土人」みたいな人たちだっただろう

98:世界@名無史さん
21/03/25 18:46:15.71 0.net
越では、夏の暑熱の時節には、嘔吐や下痢、霍乱の病気が続出したとか
林の中にはマムシや猛獣が多い

99:世界@名無史さん
21/03/25 21:17:49.00 0.net
Do you have poison?
Yes I ハブ

100:世界@名無史さん
21/03/26 04:24:30.74 0.net
>>96
米かな?

101:世界@名無史さん
21/03/26 07:36:50.83 0.net
稲作はすでに行われていたはずだが、主流ではなかったんじゃないか?
普通に熱帯のジャングルのイメージで良いのでは

102:世界@名無史さん
21/03/26 10:29:43.57 0.net
史料の記録が乏しすぎる

103:世界@名無史さん
21/03/26 14:46:49.65 0.net
黍なんかは主食だった様だな

104:世界@名無史さん
21/03/26 18:38:11.11 0.net
司馬遷は『史記』で、江南について、
「稲を飯にし、魚を羹にする。……果物屋や瓜類、魚介類は商人をまたずとも
十分自足している」
と書いている

105:世界@名無史さん
21/03/28 07:49:03.75 0.net
ということはやはり、コメが主食だった?

106:世界@名無史さん
21/03/28 11:02:55.01 0.net
俺はオコメよりオメコのほうが・・・

107:世界@名無史さん
21/03/29 22:36:23.39 0.net
>>68
>全身に刺青した土人たちの世界
全身に入れ墨したぐらいで土人なら我が国の推古天皇や聖徳太子も土人だな
隋書倭国伝
男女多黥臂、點面文身
男女の多くは腕から顔、身体にいたるまで入れ墨を施している。

108:世界@名無史さん
21/03/30 04:36:06.22 0.net
>>107
古代だと中国の南部、日本、東南アジアにかけて皆そうだ

109:世界@名無史さん
21/03/30 18:18:10.03 0.net
>>105
当たり前じゃん
江南で稲作始まったの10000年前だし

110:世界@名無史さん
21/03/30 18:20:11.94 0.net
戦国時代に入ると鉄製の武器が普及し、歩兵戦が中心となり、
次いで騎馬戦が導入され、犠牲者の数が格段に増えたな
秦と趙が戦った長平の戦役では、降伏した趙の兵卒40万人が
一挙に穴埋めにされ、総勢45万人が殺された

111:世界@名無史さん
21/03/30 18:23:29.94 0.net
>>110
都市国家的な国民皆兵を領域国家のスケールでやらかしてる感じの数字だな

112:世界@名無史さん
21/03/30 19:04:31.22 0.net
>>110
秦軍の武器は青銅製ではないか?

113:世界@名無史さん
21/03/30 19:25:35.10 0.net
武器は後漢辺りまで青銅製のが多いくらいだったはずだよな
むしろ鉄器の普及は武器よりは農具に金属器が使えるようになったことで
耕作や開墾が楽になった事に恩恵があったはず

114:世界@名無史さん
21/03/30 19:28:25.34 0.net
騎馬の導入で追撃戦とか包囲戦が格段にしやすくなったんだろうね

115:世界@名無史さん
21/03/30 19:40:08.27 0.net
>>109
でも、初期の稲作は面積あたりの収穫量が桁違いに低かったんだぞ
現代の水田より、何十分の一ほどとされている

116:世界@名無史さん
21/03/30 22:05:28.95 0.net
>>115
生産量を増やすには1つは土地を掘り起こす農具特に鉄器の普及(おそらく祭具や武器より普及は後年)
もう一つが地味を豊かにする肥料‥豆類の普及と人なり家畜なりの出すものを効率よく集めること
豆は家畜特に馬の飼育に必要不可欠だし調味料としても保存食としても重要な食物
この辺も急速に整備されたのかな?

117:世界@名無史さん
21/03/30 22:31:15.01 0.net
>>116
各種遺跡の発掘で出土した花粉から森林が消失して平地が広がった事がわかってるから
肥料とか使わないで開拓、植民を繰り返して効率悪く生産量を増やしてったんだと思われ
肥料に関する記述って古代の文献だと全然見た事ないんだよな

118:世界@名無史さん
21/03/30 23:56:31.81 0.net
初期の水田は湿田、沼地のかたちそのままで田地の形状すら整備できてない
てか、おそらくは整備する必要を感じてなかったと思われる。依存度が低かったから片手間ぐらいだった、とかだろうかね?
栽培に向いた性質、収穫しやすい性質、収穫量の多くなる性質などを選別して品種改良するより前だし、
どれほど収穫が低かったかは測定困難ではないかと

119:世界@名無史さん
21/03/31 08:46:51.54 0.net
>>113
全然違うよオマエ無知過ぎる
前漢軍は鉄器

120:世界@名無史さん
21/03/31 11:12:01.84 0.net
>>119
漢代でも遺跡から出て来る武器は鉄器よりは青銅器のが多めの模様
俺も教科書的に漢代は鉄器やろwwwと思ってたから結構びっくりした

121:世界@名無史さん
21/03/31 11:18:59.13 0.net
面白いのが鋼鉄製すらも既に戦国時代には登場していたってことだな
なのに銅と錫をいい具合で混ぜないと耐久性に問題の出ちゃう青銅もかなり後まで武器になってる

122:世界@名無史さん
21/03/31 11:40:04.84 0.net
自分はよく国立博物館に行くけど、「漢の文化」っていったら真っ先に連想するのは青銅器だな

123:世界@名無史さん
21/03/31 11:41:11.94 0.net
鋳鉄は、型に流し込んで同じモノを大量生産するのに向いている
だから、漢代には農具として普及した

124:世界@名無史さん
21/03/31 12:11:25.11 0.net
青銅器の方が作るのは大変そうに思うが、鉄器は加熱が大変なのかな?

125:世界@名無史さん
21/03/31 12:25:11.76 0.net
>>124
青銅は、ずっと低い温度で溶かせる

126:世界@名無史さん
21/03/31 12:28:40.67 0.net
古代人にとって、鉄を溶かすほどの高温にするのは簡単なことではなく、大量には作れない
中国は人口が多いから、型に流し込んで同じモノを大量に作ることが好まれたようだ
それが、青銅や鋳鉄が多用された理由かもしれない

127:世界@名無史さん
21/03/31 12:31:47.38 0.net
ヒッタイトでは鍛造した鍛鉄が主流
古代中国では鋳物の鋳鉄が主流だった

128:世界@名無史さん
21/03/31 13:20:20.34 0.net
>>127
墓の副葬品なんかだと鍛造の鋼鉄が出土してるから
量産品は鋳鉄、一品物とかは鍛鉄みたいな使い分けがあったっぽい

129:世界@名無史さん
21/03/31 14:05:59.38 0.net
>>120
全然違うよオマエ無知過ぎる
前漢遺跡から出る武器の大半は鉄器
2000年前だと鉄器の残存はかなり厳しい条件にも拘らず鉄器
前漢の青銅剣は儀礼用以外に全く使われて無い

130:世界@名無史さん
21/03/31 14:09:10.27 0.net
>>128
鍛造は前漢末期に普及した
それと無関係に鍛鉄は腐食が進み難く鋳鉄は腐食が早い

131:世界@名無史さん
21/04/02 06:41:55.53 0.net
古代中国っていうと、巨大な青銅器の甕が真っ先に思い浮かぶ
なんで、あんなにデカいんだろうな?

132:世界@名無史さん
21/04/02 09:26:15.81 0.net
日本列島では、銅鐸がやたら巨大化したよな

133:世界@名無史さん
21/04/02 09:45:07.57 0.net
やっぱり、祭祀用なんだろうな

134:世界@名無史さん
21/04/03 13:25:47.17 0.net
権威の象徴はデカければデカい程有意義だしね

135:世界@名無史さん
21/04/04 05:20:39.54 0.net
呉や越とか治水できてないだろあの当時は、
稲作有っても 原始的な陸稲とかだろうな
春秋戦国時代に書かれた儒教の書物 《周礼(しゅらい)》では、
この時代の 五穀は 麻・黍(しょ)・稷(しょく)・麦・豆とあるが、
だいたいが 中原の方で 寒冷・冷涼な大陸性気候の作物が書かれてる。
しかしながら、書物ではなく、
遺跡とかの 稲のプラントオパールの分布は
縄文時代 (約1万2,000年前〜2,500年前)には 日本(九州とか)に伝わっていて、
稲作の歴史は 『実は 日本から大陸側に伝わったのではないか?』と言う説もある。
日本の方が 稲のプラントオパールの分布は古い
URLリンク(inoues.net)
呉や越の稲作は 河川付近の限定的な作付の可能性が高いと思う

136:世界@名無史さん
21/04/04 05:43:13.19 0.net
呉や越の地方に近い、
タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に住んでいる ミャオ族が、
山岳地帯に住んで トウモロコシや陸稲を栽培している、
ミャオ族は 古くは 河川や湖畔の近くに住んでいたが
ある時期から土地を追われて 山奥の山岳地帯に放浪した民と言われている。
呉や越の亡国の民ではないかと思う。

137:世界@名無史さん
21/04/04 08:32:48.84 0.net
土器も稲も、日本の遺跡のほうが大陸より古いんだよな
古墳も半島より日本のほうが古くて、圧倒的に規模がデカい

138:世界@名無史さん
21/04/04 08:49:11.57 0.net
>>135
IQ70くらいしか無さそう病院で診断して貰え

139:世界@名無史さん
21/04/04 09:19:01.98 0.net
そもそも根本的な問題として、稲は熱帯性の作物なんだよな
寒くて雨が降らない朝鮮から、暑くて雨が多い日本に「稲作が伝わりました」というのは論理的におかしい
しかも、水稲耕作の遺跡は、朝鮮より日本のほうが古い

140:世界@名無史さん
21/04/04 09:21:08.76 0.net
同じ熱帯性である唐辛子は、東南アジア→日本→朝鮮と伝播している

141:世界@名無史さん
21/04/04 10:05:03.18 0.net
水田遺跡は韓国のオクキョン遺跡のほうが日本最古の板付遺跡より古いけどな
また農具も半島南部と日本は共通しているが江南とは共通していない

142:世界@名無史さん
21/04/04 10:20:26.58 0.net
>>135
起源的には陸稲より水稲栽培のほうが古い
原始的な陸稲栽培なんてものは存在しない

143:世界@名無史さん
21/04/04 10:37:21.50 0.net
古代で、半島→日本、日本→半島と新技術・新製品などが伝わる時間は、せいぜい1年くらい?

144:世界@名無史さん
21/04/04 11:35:03.51 0.net
>>139
違うよ
温帯〜亜熱帯気候の作物
農具も長江下流域の物と日本の物わ共通

145:世界@名無史さん
21/04/04 11:57:35.53 0.net
>>139
朝鮮半島の南部なら水稲はできるんだろう

146:世界@名無史さん
21/04/04 12:01:01.44 0.net
朝鮮半島南部で
北アジアの農耕文化と江南の稲作文化が合体して
それが日本に渡来したみたいな感じ?

147:世界@名無史さん
21/04/04 12:20:54.07 0.net
かつては朝鮮北部→朝鮮南部→九州北部と考えられていたけど
現在では朝鮮北部より朝鮮南部と九州北部の農耕文化のほうが早く成立したことが明らかとなりこの説は否定されている
現在では蔚山広域市のオクキョンにある日忽然と水稲文化をもつ集団が現れ
九州北部へと次いで半島北西部へと水稲をもたらしたことになる
この集団がどこから来たのか現在でもはっきりとしたことは分かっていない

148:世界@名無史さん
21/04/04 12:40:29.38 0.net
船使って移動してるなら朝鮮半島の南にいきなり到着してもおかしくはないからな
朝鮮には陸路で伝わったと決めつけるのはよくないよ

149:世界@名無史さん
21/04/04 12:49:46.58 0.net
海路沿いに中国から来たのなら普通は半島南西のはずだろ?
ところがオクキョン遺跡は半島南東部の蔚山にある
そこから九州北部の板付遺跡や半島南西部のオクキョン遺跡へと波及している

150:世界@名無史さん
21/04/04 12:51:58.39 0.net
×半島南西部のオクキョン遺跡→半島北西部の松菊里遺跡

151:世界@名無史さん
21/04/04 13:11:33.27 0.net
半島南部は、倭国の領土だったと言う説もあるし、倭国の5世紀前半の高句麗攻めも広開土王碑に残っているから、我々が思う以上に半島と倭国との往き来は頻繁にあったんじゃないの?

152:世界@名無史さん
21/04/04 13:20:50.81 0.net
>>151
説というか三国志魏書東夷伝で半島北部の帯方郡
半島中部の三韓(馬韓弁韓辰韓)
その南に倭人の国あって国境を接してる
というモロな記述があって半島南部は倭人の直接的な支配領域だったことが書いてある
所謂任那日本府の存在なんかもあるから唐が半島に進出するまで
半島は倭人の勢力圏だったことが推定される
岡田英弘は帯方郡の設置理由そのものが倭人との交易であり
倭人が漢や魏に直接出向いた時は、その帯方郡が機能していないため
これまで取引していた倭人が直接朝廷に出向いただけだ、という説を提唱していたな

153:世界@名無史さん
21/04/04 13:38:45.90 0.net
今でも、人口的には日本は1億2333万人(2021年1月)で、韓国5130万人(2021年)、北朝鮮2588万人(2021年)合わせての、1.56倍なので、昔から倭国は大国だと思われていたのだろうな。

154:世界@名無史さん
21/04/04 15:11:55.46 0.net
そりゃそうだ
魚と米が取れるのが、古代においては豊かな地
倭国は中国江南とならぶ東アジアで最良のエリアだ

155:世界@名無史さん
21/04/04 18:45:36.45 0.net
倭人が繁殖して縄文人の人口をあっという間に追い抜いた
古墳時代には倭人のほうがずっと優勢だったようだ

156:世界@名無史さん
21/04/04 19:03:38.20 0.net
>>155
DNAから倭人は縄文人の子孫だってちゃんとわかってるよ
ただ半島や大陸経由で渡来系が2000年間持続的に入り込んだ結果
縄文人と現代人の遺伝子にある程度差異はあるけどね

157:世界@名無史さん
21/04/04 19:07:24.81 0.net
縄文人の直系子孫は
蝦夷、アイヌ、国栖、
クマソ、隼人あたりだな
日本人は渡来系にすこし縄文系をブレンドしている

158:世界@名無史さん
21/04/04 19:13:23.41 0.net
>>157
アイヌはオホーツク系の民族に縄文人が征服された存在
蝦夷は謎、九州の諸民族は縄文系に東南アジアからの南方系が混ざってる
グレートジャーニーの吹き溜まりは伊達じゃない

159:世界@名無史さん
21/04/04 20:04:42.20 0.net
>>154
面積あたりの生育重量という意味では漁業の生産力は畜産より一桁以上低いぞ
海洋国ならともかく内陸河川での漁獲は、山林よりはましだが耕地に及ばない
ただ、移動しやすいことで広範囲から資源を集める余地があるだけ

160:世界@名無史さん
21/04/04 21:14:02.20 0.net
アイヌは、北海道の先住民族ではないみたいだね。
サハリンアイヌがオホーツク倭人を追い出して、北海道を乗っ取ったらしいけど、先住民族の定義が難解なのかな。

161:世界@名無史さん
21/04/04 21:17:10.55 0.net
東南アジアからの南方系?
台湾から南に行ってわざわざ日本に来たんか?

162:世界@名無史さん
21/04/04 23:32:58.44 0.net
ポリネシアのほうからも来てるけど=東南アジアから来てないとはならないでしょ

163:世界@名無史さん
21/04/05 10:08:36.57 0.net
南島諸語の比較言語研究によると台湾高地種族の言語が一番古い。そこから南下して東はポリネシア、イースター島まで、南はニュージーランドまで、西はアフリカのマダガスカルまではるばる拡散した。それを思えば、沖縄や日本本土なんてほんのご近所にすぎない。

164:世界@名無史さん
21/04/07 23:31:37.89 0.net
海に出て、海流に乗れば割りとすぐに着く

165:世界@名無史さん
21/04/08 01:00:44.48 0.net
女禍の伝説とか海洋民族の話に近いのかな?
そちらでは女性が動物と結婚して産まれた男児と結婚して子孫繁栄する事が多いんだっけ
いつ頃から伏儀っていう兄にして夫が現れて場合によっては女禍を三皇から除外(単なる伏儀の妹にして嫁)って扱いになったんだろ?

166:世界@名無史さん
21/04/14 17:58:35.56 0.net
【春秋時代】
前771年 周の幽王、殺害される
前770年 周の平王、洛邑へ遷都
前651年 斉の桓公、会盟して覇者となる
前639年 宋の襄公、会盟して覇者となる
前632年 晋の文公、会盟して覇者となる
前624年 秦の穆公、晋を破る
前546年 宋の仲介で楚・晋の停戦協定
前506年 呉が楚の都を陥落
前496年 越王勾践が即位、呉を攻撃
前494年 呉が越を破る
前482年 呉王夫差、会盟して覇者となる
前479年 孔子が死去
前473年 呉王夫差が自害、呉滅亡
前465年 越王勾践が死去
前451年 晋が分裂し、韓魏趙が独立
前426年 周王朝が東西に分裂
前403年 韓魏趙が諸侯となる

167:世界@名無史さん
21/04/14 18:08:02.63 0.net
【戦国時代】
前388年 斉の田和がクーデター
前376年 晋が滅亡
前341年 斉の孫ピンが、馬陵で魏のホウ涓を倒す。
前333年 蘇秦が「合従策」に成功する
前318年 楚燕趙魏韓が函谷関で秦に敗北
前316年 秦が蜀を滅ぼす。
前311年 張儀が「連衡策」に成功する
前284年 燕の楽毅の連合軍が斉に侵攻
前278年 秦の白起が楚の都を陥落させる
前270年 趙の趙奢が閼与で秦魏を撃破
前264年 秦が西周を滅ぼす
前260年 秦の白起が長平で趙に圧勝
前259年 秦王・始皇帝生まれる
前255年 秦が東周を滅ぼす
前247年 魏の信陵君の連合軍が秦を撃破
前241年 楚の春申君の連合軍が秦に敗退
前238年 秦の宰相・呂不韋が失脚
前233年 李斯が韓非を暗殺
前227年 燕による秦王暗殺未遂
前226年 燕の都が陥落
前225年 秦が魏を滅ぼす。
前223年 秦の王翦が楚を滅ぼす
前222年 秦が燕を滅ぼす。
前221年 秦が斉を滅ぼし、天下統一

168:世界@名無史さん
21/04/14 18:21:58.34 0.net
きちっとしている!

169:世界@名無史さん
21/04/14 18:39:19.99 0.net
呉と越は海浜に近く、魚介や塩の利益があるうえに、農業にも適しており、
中原の進歩した生産技術が伝わると、たちまち繁栄を迎えたのだとか

170:世界@名無史さん
21/04/14 19:15:46.23 0.net
>>167
衛「あの…」

171:山野野衾
21/04/14 21:28:15.82 0.net
『太平広記』を読んでいたら面白い話があったので、ここでいいものか迷ったのですが抄訳を。
唐の時代、見鬼を能くする英禅師という僧侶がいたが、ある時寺主の慧蘭禅師に言った。
「秦の荘襄王と従者二百人余りが飢えて晩餐を求めておりますので、ご用意を願います。」
やがて時間になると荘襄王と貴賤様々な従者が現れたが、食べ方ががっついていた。
荘襄王「八十年ぶりの食事です。生前はまだ仏法がないのでたいした功徳を積めず、囚人の解放
や鰥寡孤独への施与ぐらいしか功徳がなかったので福徳が薄く、罪を贖い切れていないのです。」
これで四十年はもつと言い、荘襄王は周囲の人間を示して言った。
荘襄王「この者が陳軫です。虚偽の罪に苦しんでおります。そしてこの二人が白起と王翦で、殺人
が多過ぎた罪で苦しんでおり、未だ解放されておりません。」
英禅師「なぜもっと生者に食を要求されぬのか。」
荘襄王「私も貴人であり、濫りに祟りをなすような真似は致しかねます。」
去り際に言った。
荘襄王「城門の外に弟子の墓があります。呂不韋の墓とされていますが、誤りです。」
英禅師「あれは赤眉の乱であばかれたそうじゃが。」
荘襄王「賊が荒らしたのは上っ面。深部に財宝があるので差し上げましょう。」
英禅師「いや、わしは出家じゃ。それには及ばぬ。」

172:山野野衾
21/04/14 21:31:16.04 0.net
荘襄王は礼を言って去ったということですが、後世のイメージを察して楽しめました。
流石に始皇帝では罪が重過ぎると思われたものでしょうか。
『太平広記』には、他に歴史上の人物同士が数世紀を隔てて出会うような話があります。
過去の歴史好きにとっては夢の展開であったことでしょう。

173:世界@名無史さん
21/04/15 07:33:34.71 0.net
遊牧民が北部中国の辺境地帯にもちこんだ物資は、まず第一に家畜だった
馬の獲得は辺境都市を都市国家に成長させ、都市国家の中から殷、周、秦などの
王朝が出て、他の都市とその周辺の農耕地帯を支配下に入れた
これが北部中国に統一国家が、南部よりも早く出現した理由
南部は辺境がなく、都市が育たず、馬が手に入らないために、
北部の軍事力に対抗するすべがなかった

174:世界@名無史さん
21/04/15 21:28:47.93 0.net
>>167

わかりやすい


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