五胡十六国から南北朝 ..
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2:世界@名無史さん
21/01/25 00:43:54.60 0.net
最後は高句麗に負けて終わる時代だから

3:世界@名無史さん
21/01/25 10:42:03.27 0.net
五胡十六国の君主で一番の暴君は石虎かな?
荒酒淫色とめどがなく、夜になると王家の一族や臣下の家に忍び込み、
妻妾を犯すのは序の口で、宮廷の美女の首を斬り、血を洗って盤上に置いて
皆と一緒に眺めたり、美しい比丘尼と交わって殺し、牛羊の肉と一緒に煮て食べ、
周囲の者にも味見をさせたという

4:世界@名無史さん
21/01/26 20:06:17.38 0.net
人間のマイナス面ばかり見ていては気が滅入る。
賢君良王の話はないのか。

5:世界@名無史さん
21/01/26 20:31:40.91 0.net
>>4
前秦の苻堅だな

6:世界@名無史さん
21/01/26 21:54:00.67 0.net
苻堅がなぜ映画やドラマにならないのか不思議でならない。

7:世界@名無史さん
21/01/26 22:15:08.04 0.net
五胡十六国自体がマイナーな時代だから、苻堅も映画やドラマにならないのかな

8:世界@名無史さん
21/01/26 22:26:33.02 0.net
北魏は、日本はともかく中国では人気のある時代だけどな

9:世界@名無史さん
21/01/26 22:49:13.45 0.net
もともと、中国に五胡を呼び入れたのは八王の乱の諸王なんだよな
剽悍な北方遊牧民の武装集団を競って導入し、自己の戦闘能力を高めようとした
八王の乱で中原は荒廃し、農民たちは流民となり、多くは開発途上の南方に移動した
こうして一時、華北に真空地帯が出現すると、これを埋めるように、
北辺の遊牧民族が南下を始めた

10:世界@名無史さん
21/01/27 08:09:54.89 0.net
苻堅はショタホモで最期がああやからドラマとかにならんやろ

11:世界@名無史さん
21/01/27 11:06:05.02 0.net
苻堅は東晋との戦いのとき、雲母車(雲母のような上等の紗で四方を覆い、中から
外が見える女性用の車)に乗っていたという
苻堅は秦国が成立してから王となった人で、実戦の経験があまり無かったのだ
苻堅自身も流れ矢にあたって傷を負い、命からがら単騎となって慕容垂のもとに
逃れた

12:世界@名無史さん
21/01/27 12:03:41.20 0.net
東晋のドラマといえば、これだな。
豪華メンバーの割にドラマの出来はあまり良くなく、早送りしたくなる場面の連続だったが
西暦344年、東晋の第五代皇帝に、わずか7歳の司馬タンが即位。華北では匈奴が趙を建国し、中国全土は災害や飢饉にも見舞われ、混乱の時代を迎えていた。
そんななか、重臣の曹安から、金華山に霊狐が現れたという話を聞かされた皇帝は、自らの目で確かめたいと行幸することに。しかし、それは罠だった。
魏の太祖・曹操の末裔である曹安は、司馬家に奪われた権力の座を取り戻すべく、幼い皇帝の暗殺を計画していたのだ。
URLリンク(www.u-picc.com)
URLリンク(www.u-picc.com)

13:世界@名無史さん
21/01/27 12:19:34.83 0.net
【ピンポン】 卓球のせいで、コロナ肺炎が発生した
スレリンク(pingpong板)
URLリンク(o.5ch.net)

14:世界@名無史さん
21/01/27 14:47:02.43 0.net
八王の乱は、後漢に降った南匈奴など、様々な事情で中国本土に移住していた
北方民族の生活をも直撃した
彼らは安価な労働力として搾取され、生活はもともと漢族の農民以上に
苦しかったから、被害は一層深刻だった
しかも、王侯の軍隊に編入されて活躍したにも関わらず、彼らは傭兵にすぎず、
身分や待遇は劣悪だった
彼らは生活苦も手伝って、やがて抵抗と自立の動きを始め、晋の崩壊を
決定づけることになる

15:世界@名無史さん
21/01/27 15:33:25.10 0.net
後漢というともう五代の方しかイメージがわかない
東漢

16:世界@名無史さん
21/01/27 18:29:23.16 0.net
苻堅は慕容儁の娘の清河公主と慕容沖が美貌だったので寵愛していた

17:世界@名無史さん
21/01/29 09:14:23.50 0.net
五胡は西ローマ帝国に侵入したゲルマン人によくたとえられるが、
むしろバルカン半島に侵入してきたスラヴ人に近いのではないかと思う
スラヴ人はセルビア王国やブルガリア帝国をはじめとして、ビザンツ帝国の
縮小コピーのような国家しかつくれなかったし
西欧や日本のようにフューダリズムが成立することはなかった

18:世界@名無史さん
21/01/29 10:41:31.74 0.net
>>15
そうだな
日本では、なんで前漢・後漢というんだろう?
西漢・東漢のほうが分かりやすくて良い

19:世界@名無史さん
21/01/29 10:42:46.60 0.net
>>17
北魏や隋唐のどこが縮小コピーやねん

20:世界@名無史さん
21/01/29 14:21:57.23 0.net
北魏が長続きしたのは、部民が多かったのと、狩猟・遊牧の生活を捨てて
農業国家に脱皮できたからかもしれない
そのために、代々守ってきた部族制を自ら放棄し、族長たちを貴族とする一方、
部民を漢族と同じ州県民の戸籍に編入するという大胆な政策を断行した

21:世界@名無史さん
21/01/29 15:45:56.52 0.net
分裂したやん

22:世界@名無史さん
21/01/30 18:35:10.51 0.net
前趙の第五代皇帝、劉曜は父や母の葬儀を粟邑の方法で行ったが、それは盛り土をし、
その下、周囲二里にわたって、墓の造作に従事した人間を配置し、灯明の代わりに
火をつけて焼き殺すというものだった
古墳時代の日本には陵の周りに近習たちを生きながら埋めるという習慣があったが、
ひょっとしてこれは大陸の影響を受けているのか?

23:世界@名無史さん
21/01/30 18:38:46.80 0.net
>>22
日本に本格的殉葬の風習はなかった。
古墳の周囲から大規模な人骨は見つかってない。

24:世界@名無史さん
21/01/31 01:00:33.27 0.net
>>23
その点で『火の鳥』のヤマト編は納得いかなかった。

25:世界@名無史さん
21/01/31 07:55:43.95 0.net
>>24
『日本書紀』垂仁記の記述が元ネタじゃね?

26:世界@名無史さん
21/01/31 10:41:42.77 0.net
孝文帝の漢化政策には、やっぱり馮太后の影響もあるのかな

27:世界@名無史さん
21/01/31 11:08:12.71 0.net
北魏のフウ太后はドラマで大人気の人物で、最近も「王女未央」が大ヒットした
でも、べつに「漢化政策を行った人物」として人気があるわけではない
家族全員を北魏の太武帝に殺された北燕の亡国の王女でありながら、敵地である北魏の宮廷に乗り込んで事実上の女帝にまでのしあがったという、数奇な人生に関心が集まっている

28:世界@名無史さん
21/01/31 12:12:58.48 0.net
南朝が再統一して欲しかったと思ったのおる?

29:世界@名無史さん
21/02/01 09:18:31.76 0.net
南朝が再統一していたら、六朝文化の影響がもっと強くなっていたのかな?

30:世界@名無史さん
21/02/01 11:19:24.35 0.net
東晋の桓温が洛陽を奪回したことはあったけどな

31:世界@名無史さん
21/02/01 12:52:06.51 0.net
劉裕は長安も洛陽をも奪回したわけやが

32:世界@名無史さん
21/02/01 13:24:03.68 0.net
>>31
長い間には、そういうこともある

33:世界@名無史さん
21/02/01 14:22:35.46 0.net
南朝は内紛が多いよな
宋の八代の皇帝のうち、暗殺されなかったのは武帝、孝武帝、明帝の三人だけ
皇子たちも十中八九まで犠牲となる異常事態の連続だった
さらに体制を支える重臣も多くは不慮の死をとげた
斉でも第五代の明帝は、直系の子孫を守るため、皇族27人を殺害する暴挙を
あえて犯し、これが原因で斉は滅亡

34:世界@名無史さん
21/02/01 15:24:11.79 0.net
>>33
南方は漢人の社会が維持されたとはいえ
胡族と触れ合ったためか価値観が峻烈になったね
前王朝皆殺しは後々にけしていい影響はなかったと思う

35:世界@名無史さん
21/02/01 18:35:22.08 0.net
北魏の道武帝は晩年、クーデターを恐れて多くの臣下をほとんど何の理由もなく
殺害するようになった
409年7月には、北魏にいた慕容氏の一族百余家が逃亡しようとしたとして殺戮された
(道武帝の皇后は慕容宝の末娘だった)
胡族はやっぱりやることが殺伐としているな

36:世界@名無史さん
21/02/01 19:05:49.17 0.net
歴史書に残る北方民族の記述は
互いに殺した殺されたばっかりやしな

37:世界@名無史さん
21/02/01 19:35:14.07 0.net
サバイバルゲームをリアルでやっていた

38:世界@名無史さん
21/02/01 22:50:27.72 0.net
東晋の孝武帝は、396年に、貴人(妃の名称の一つ)が30歳という年増になったのを
からかったため、それを恨んだ貴人に暗殺されるという情けない最期を遂げている

39:世界@名無史さん
21/02/02 02:47:38.38 0.net
南朝は豊かなのか北伐に熱心な皇帝が居なかった

40:世界@名無史さん
21/02/02 06:46:34.69 0.net
北魏の太武帝も、史上に稀な大征服者でありながら、最後は宦官に暗殺された
これは有名なエピソードで、中国の時代劇にはよく出てくる場面

41:世界@名無史さん
21/02/02 06:48:08.85 0.net
>>39
宋の劉裕がいる

42:世界@名無史さん
21/02/02 08:22:53.29 0.net
北朝の皇帝の子供つくる年齢と死ぬ年齢の若さが半端ないことに(;´Д`)ハァハァ

43:世界@名無史さん
21/02/02 09:25:41.19 0.net
建康は富と文化と芸術の都だったが、王朝の交替期には必ず戦乱の巷と化すという
宿命を背負っていた
侯景の乱のときは、人口の1%を残すのみという壊滅的打撃を受けて廃墟となり、
ついに完全な復興を見ないまま、陳の滅亡の日を迎えた

44:世界@名無史さん
21/02/02 09:44:12.23 0.net
>>41
あの成り上がりは簒奪するための実績稼ぎで北伐遂行しただけ

45:世界@名無史さん
21/02/02 18:36:40.15 0.net
>>43
あれこそは、真の「南京大虐殺」だった

46:世界@名無史さん
21/02/02 21:23:20.20 0.net
見てきたの?

47:世界@名無史さん
21/02/02 22:24:37.20 0.net
五胡十六国時代の君主の贅沢の話だが、後燕の慕容熙は苻娀娥と苻訓英を皇妃として
寵愛し、二人の機嫌をとるため、二万人もの人民を使役して広さ十余里という大庭園を築造した。庭園の中に景雲山という十七丈もの山を作り、曲光海、清涼池という湖も
作った。夏の盛りの過酷な作業だったため、多くの死者が出たという。
大陸の専制君主の贅沢はスケールが違うな

48:世界@名無史さん
21/02/03 02:57:56.47 0.net
まあ中華は話を盛るんだよ伝統

49:世界@名無史さん
21/02/03 18:15:28.20 0.net
動員した人夫2万で10余里(4キロ弱)の庭園を造営ってかなりリアルな数字だと思うが

50:世界@名無史さん
21/02/03 22:24:20.50 0.net
石虎も大宮殿を建てていたな
彼が秦の始皇帝の陵を掘り返し、銅柱を取り出して器物を作らせたのは有名

51:世界@名無史さん
21/02/03 23:41:21.53 0.net
宮崎市定先生の「大唐帝国」がおすすめ
全然英雄がいなくてすぐ惨殺ばかりする暗君ばかりの胸糞な歴史を講談調の名文でスラスラ読める

52:世界@名無史さん
21/02/04 00:22:31.58 0.net
>>36
その「歴史書」は大概漢人(の側に立つ者)が書いてるからな。
それ自体が中華思想の、裏を返せば現代も続く異族蔑視思想のプロパガンダ冊子として扱うのが至当。

53:世界@名無史さん
21/02/04 05:57:56.72 0.net
でもヨーロッパの記録でも遊牧民は残酷だ、と書かれているな
フン族とかモンゴル人とか

54:世界@名無史さん
21/02/04 09:45:53.05 0.net
史書編纂する時の王朝が前王朝がいかにくずでどうしようもないとふかすせい

55:世界@名無史さん
21/02/04 10:48:27.17 0.net
劉曜は、西晋恵帝の皇后羊氏を皇后とし、自分と前夫と比べて如何と問いただすと、
漢族の名家出身の彼女は、
「比較になりません。私は恵帝の皇后であったとき、世間の男子はみな彼のように
暗愚なものと思っていました。今にして初めて天下に丈夫があるのを知りました」
と答えたという。

56:世界@名無史さん
21/02/04 11:00:13.11 0.net
遊牧民は、農耕民を土人あつかいして見下しているところがある
実際、そういう面は否定できないので仕方ない

57:世界@名無史さん
21/02/04 11:22:33.52 0.net
漢民族は遊牧民見下ろしてて酷い当て字つかってたやん
禿髪とかさあ

58:世界@名無史さん
21/02/04 12:03:55.25 0.net
北朝は南朝を島夷(川や湖に浮かぶ島のような土地に住む野蛮人)と呼んでいた

59:世界@名無史さん
21/02/04 12:12:06.54 0.net
千五百年前の江南は、まだドロドロな湿地帯だったということだな
漢朝の世と比べれば、だいぶ開発が進んでたとはいえ

60:世界@名無史さん
21/02/04 13:39:07.23 0.net
騎馬で進撃できない負け惜しみ

61:世界@名無史さん
21/02/04 14:33:18.65 0.net
逆に南朝は北朝のことを索虜(辮髪を垂らした野蛮人)と呼んでいた

62:世界@名無史さん
21/02/04 14:36:56.62 0.net
北朝に仕えてたある漢人官僚は南渡した漢人を腰抜けと嘲笑っていた

63:世界@名無史さん
21/02/04 16:32:02.95 0.net
どこの国地域でも似たような反目があるね

64:世界@名無史さん
21/02/04 19:59:54.74 0.net
隋唐と並んで南北朝時代はもっとも貴族文化が栄えた時代
法隆寺や薬師寺など唐代の様式を残した寺を見れば当時の貴族の暮らしに思いをはせることが出来る
と言うのも古代中国の寺院と言うのは貴族の家を転用したものが多くそれがそのまま寺院建築にも反映されている

65:世界@名無史さん
21/02/04 22:13:56.57 0.net
南北朝時代の絵画は彩色壁画が多いんだよな

66:世界@名無史さん
21/02/04 22:33:43.33 0.net
六朝文化終わらせた侯景
貴族制度を終わらせた朱全忠

67:世界@名無史さん
21/02/04 22:36:05.04 0.net
「中国」を「終わらせた」毛沢東、ってか…。

68:世界@名無史さん
21/02/05 09:29:08.44 0.net
劉聡は311年6月に、一族の劉曜と王弥を遣って洛陽を落城させ、王族や百官、庶民に
いたるまで三万余も殺害し、大略奪を行った
さらに313年正月、劉聡は大会を催したが、このとき、孝懐帝に青衣(侍者の色)を着せ、
酒の接待をさせた。それを見て旧臣の一人が哭泣するのを見た劉聡は腹を立て、
孝懐帝を毒殺した。

69:世界@名無史さん
21/02/06 12:51:38.00 0.net
皇太子派と皇后派の後継争いって応仁の乱の元祖みたいな感じ
武闘派異民族乱入であっちは五胡十六国になったが
日本も異民族が闖入したら似たようなことになっていたのか

70:世界@名無史さん
21/02/06 14:23:25.35 0.net
>>69
日本の場合、異民族が侵入してきたら、生き残った皇族や武将が東北地方あたりに
逃れて、スペインのレコンキスタみたいなことをやったりして

71:世界@名無史さん
21/02/09 02:25:20.57 0.net
>>70
甘いな。
この列島にどんな異族が来て暴れても
いずれなし崩しのナアナアのズブズブになって、
何だかよくわからないうちに何となく戦は終わる。
何千年も鍛え上げた暖簾に腕押し・糠に釘の曖昧体質をなめんなよ。

72:世界@名無史さん
21/02/09 07:43:46.00 0.net
もし現在の日本が中国に占領されて中華人民共和国日本省になったら、
日本人に対する民族浄化が行われて、空いた土地には漢族が入植するかもな
中世と違ってテクノロジーが発達したからそれぐらいのことはできるだろう

73:世界@名無史さん
21/02/10 22:28:17.16 0.net
冉閔は漢族に「五胡」の虐殺を命じた結果、胡人20万人以上が殺されてしまった
彼らの屍は城外で野犬や豺狼に食べられる始末だった
また各地で冉閔の命令書を受けた者が胡人の誅殺を行った結果、鼻が高く
鬚が多い人の半数は死んでしまった
やはり異民族同士の共存というのは難しいことなのかな

74:世界@名無史さん
21/02/10 22:51:22.00 0.net
>>73
そんなことはない。
列島では日本人と関西人が共存できてる。
仲は悪いが。

75:世界@名無史さん
21/02/11 10:31:03.19 0.net
人口の99%が大和民族で占められている日本が異常なだけで
ほとんどの国は多民族国家だがな
漢族も漢文化を受容した民族をそう総称してるだけで実態は一つの民族ではない
宇文や独狐、赫連、段、宇文といった遊牧民の名族たちも現在の民族区分では漢族扱いだ

76:世界@名無史さん
21/02/11 13:16:25.51 0.net
日本も、コロナで急ブレーキがかかったものの、それまではホンの数年間で「別世界になった」というほど外国人が急増していた
今はこんな状態だが、いずれ当時を上回る勢いでグローバル化が再開される

77:世界@名無史さん
21/02/11 13:19:27.99 0.net
南北朝時代には中国に仏教が広まり、隋唐は仏教国となった
これは中国人が仏教を信じるようになったというより、仏教の信仰を持つ民族が移住してきたという面のほうが強い
「いずれアメリカはカトリックになる」とか、「いずれヨーロッパはイスラム教になる」というのと同じだ

78:世界@名無史さん
21/02/11 20:47:18.34 0.net
仏教なら後漢末に入ってきてるし五胡の宗教は最初は遊牧民に典型的なテングリ崇拝
仏教は漢族からの需要
三武一宗の法難から分かる通り遊牧民系の王朝は基本的にはアンチ仏教のスタンス

79:世界@名無史さん
21/02/11 22:50:53.45 0.net
仏図澄が石勒に受け入れられたのはその呪術や予言の能力によってであったとか
つまり現世利益的側面

80:世界@名無史さん
21/02/12 10:49:59.13 0.net
隋唐で広まった仏教は、加持祈祷がメイン

81:世界@名無史さん
21/02/13 19:05:49.38 0.net
隋唐とかいう畜生が作った畜生国家

82:世界@名無史さん
21/02/14 09:33:59.51 0.net
唐はアメリカ合衆国のような多民族国家

83:世界@名無史さん
21/02/15 17:21:11.21 0.net
自称漢民族は漢民族認定しなければそうやが

84:世界@名無史さん
21/02/15 18:47:58.55 0.net
北魏の道武帝は献明皇后の妹に惚れて、その夫を殺し、
彼女を奪って紹という皇子を生ませた
紹は町を出歩き、通行人を脅して物を奪い、畜生を切りつけて
楽しむ放蕩者だった
その紹によって、ついに道武帝は殺された
なんだか間抜けな死に方だな

85:世界@名無史さん
21/02/16 05:35:25.52 0.net
東晋孝武帝の布団蒸し殺されも間抜けな死に方

86:世界@名無史さん
21/02/16 06:28:22.58 0.net
>>85
本当に布団蒸しなんかで人は死ねるものなのだろうか?
サウナなんか90度にもなるがへいちゃらでしょ。

87:世界@名無史さん
21/02/16 06:49:30.74 0.net
この頃は皇帝が宦官に暗殺されることがよくあったな
こういう暗愚な皇帝ならまだ分かるんだが、北魏の太武帝みたいな大英雄も宦官に暗殺された

88:世界@名無史さん
21/02/16 09:42:29.33 0.net
太武帝程度で大英雄なら楊堅やら李世民の扱いはどうなってしまうんだ

89:世界@名無史さん
21/02/16 12:03:45.12 0.net
楊堅
北周の武帝が統一した北朝を棚ボタで引き継ぎ、史上最弱レベルまで弱体化していた南朝を滅ぼす
歴代統一王朝の中で、最も楽だった統一を実現

90:世界@名無史さん
21/02/16 18:55:42.39 0.net
陳陳は南明よりはまし

91:世界@名無史さん
21/02/18 17:09:13.28 0.net
URLリンク(i.imgur.com)

92:世界@名無史さん
21/02/18 17:25:13.98 0.net
>>88
司馬炎より曹操が英雄だと思わんか?
それと同じだ

93:世界@名無史さん
21/02/18 18:57:05.92 0.net
大陸統一した司馬炎と石勒と同レベルの領土しか獲得できなかった曹操を比べるのもおこがましい
出発点比べても石勒のが遥かに難易度高い

94:世界@名無史さん
21/02/19 22:19:19.32 0.net
北魏には、皇帝位の継承者が定まるとその生母を殺すという慣わしがあった
なんだか残酷な習慣だな

95:世界@名無史さん
21/02/19 22:23:06.04 0.net
>>94
外戚の専横を防ぐためには、それが最善の手段だけどな
平安時代の藤原氏なんか、「いかにして、娘を皇后にして次の天皇を産ませるか」というのが権力闘争そのものだった

96:世界@名無史さん
21/02/19 23:05:25.90 0.net
外戚一族ほぼ独占のおかげでまだ天コロ家として続いてる
代が変わるごとに外戚変わってた支那王朝は全滅

97:世界@名無史さん
21/02/20 00:00:03.36 0.net
>>96
北方民族王朝だが、遼(契丹)は皇后を出すのは、
蕭(石抹)氏が多かった。

98:世界@名無史さん
21/02/20 03:26:43.20 0.net



99:世界@名無史さん
21/02/20 06:05:58.24 0.net
日本だと、父系は天皇家で母系は藤原氏
遼では、父系は耶律氏で母系は蕭氏
二人三脚で高貴な血統が続く

100:世界@名無史さん
21/02/20 11:27:27.86 0.net
でも遼の子孫なんか今いるのかどうかもわからないし仮に居ても皇帝でも何でもないやん

101:世界@名無史さん
21/02/20 12:51:33.99 0.net
欧州では、オーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家で近親結婚を繰り返した結果、白痴や病気の王子が生まれる羽目になった
父系と母系の2本立てにしたのは生活の知恵だったのだろう

102:世界@名無史さん
21/02/20 22:44:11.52 0.net
子供を目当てなら農家の健康な娘が一番だからな
京都の郊外の農家の娘を名家の養女という事にして、お公家さんの側室にするとか普通にあったろうな
そういえば東晋の皇帝には子供に恵まれなくてとにかく健康な子を産める欲しいと女を探し回ったら後宮の下女の黒人女が体格満点だったのかこれを皇后にしたとかいう話があったよな
その皇后は見事男の子を産んでその子は成人して帝位に付いたという
だから東晋には黒人皇帝がいた

103:世界@名無史さん
21/02/20 23:01:14.16 0.net
北魏は文学では南朝におよばなかったけれど、美術の面では雲崗石窟など、
優れたものを残しているな

104:世界@名無史さん
21/02/20 23:02:49.15 0.net
>>102
そうか、そんな逸話があったのか
だいぶ前に見た中国の時代劇で、東晋の皇帝の妻が妙に色黒だったのはそのせいか

105:世界@名無史さん
21/02/20 23:04:15.49 0.net
>>103
北朝は北方民族だから、漢文や漢詩にそこまで習熟してないわな

106:世界@名無史さん
21/02/21 00:18:40.33 0.net
>>105
様々な北方民族についての考古学史料を見れば各々に固有の物語や「詩」があったのは明らかで、
華夏的文脈で読み解けないからと云ってそれを「文学的水準は低かった」と評するのは
あまりにも中華史観に毒された価値観偏向と思われるが、どうか?

107:世界@名無史さん
21/02/21 08:00:33.30 0.net
>>100
耶律氏一族は元の北帰後、今の遼寧省西部に居住した結果、女真族と同化した。
満州八旗の伊拉里氏は耶律氏の後裔で乾隆帝の皇子の
妃も出している。

108:世界@名無史さん
21/02/21 08:37:07.14 0.net
相変わらず元胡は酷い当て字ばかりや

109:世界@名無史さん
21/02/22 14:43:00.12 0.net
北魏の文化人で有名なのは温子昇。
北朝まで範囲を広げると庾信が有名。
もっとも庾信はもとは梁の人で、使節として赴いて西魏の広陵攻撃に際会し、
そのまま留められて西魏・北周に仕えた

110:世界@名無史さん
21/02/22 17:51:43.69 0.net
庾信って東晋の庾三兄弟の子孫?

111:世界@名無史さん
21/02/23 14:45:55.44 0.net
一口に五胡といっても、氐のように農耕化がかなり進んで漢族の文化にも
慣れたものから、鮮卑拓跋部のように牧畜と狩猟の要素を濃厚に保持し、
漢文化との接触も少なかったものまで、生活状態や文化状態はさまざまだったんだよな

112:世界@名無史さん
21/02/23 16:25:53.49 0.net
で?

113:世界@名無史さん
21/02/23 18:24:09.79 0.net
>>93
曹操は兵戸制の確立という功績がデカすぎる
千数百年以上のちの清代まで現役とかすごすぎる
あと武帝の塩の専売もな

114:世界@名無史さん
21/02/23 19:16:54.78 0.net
王莽の簒奪のロジックも凄い

115:世界@名無史さん
21/02/23 20:01:34.41 0.net
漢朝は四百年つづいたんだもんなあ
当時の人々にとっては、平安時代の日本人にとっての天皇くらい「万世一系」に感じられただろうな

116:世界@名無史さん
21/02/25 19:18:36.27 0.net
>>102
>>東晋には黒人皇帝がいた
そんな話は聞いたことも無いがw
具体的には誰よ?

117:世界@名無史さん
21/02/26 00:55:20.18 0.net
>>115
> 平安時代の日本人にとっての天皇くらい
平安時代の日本人の九割以上は天皇なんざ知らなかっただろうよ。

118:世界@名無史さん
21/02/26 08:56:09.34 0.net
>>117
京の帝としてなんとなく知ってただろ。
だから、平将門は新皇を称した。
一般領民に天皇に対する認識がなければ、
新皇と称しても何に対して新なのかってことになる。

119:世界@名無史さん
21/02/26 10:42:50.09 0.net
>>117
んなわけねえだろ
源氏も平氏も天皇の親戚で、地方であれだけ根を張ってたのに

120:世界@名無史さん
21/03/03 16:56:37.46 0.net
URLリンク(i.imgur.com)

121:世界@名無史さん
21/03/05 14:52:53.07 0.net
西魏になると漢化政策の揺り戻しが起きて、孝文帝の改革により漢族の姓に
改められていた諸族の姓をもとに戻した
のみならず、漢族にも功績によって鮮卑姓を与えている

122:世界@名無史さん
21/03/05 20:50:06.42 0.net
>>121
それを「胡化政策」と呼ばなければ不公平だな

123:世界@名無史さん
21/03/05 22:30:21.41 0.net
西魏では鮮卑語がかなり広範に用いられ、胡族の服装もおこなわれている

124:世界@名無史さん
21/03/05 22:50:22.93 0.net
庶民は京都にミカドという公方さまより偉い人がいるらしいくらいの知識しか無かっただろ
「江戸の豚、都の狆に追い出され」
豚公方の徳川慶喜が新政府に引き降ろされたことを歌った歌
天皇の自称朕にかけて天ころを犬扱いしている

125:世界@名無史さん
21/03/05 23:13:37.80 0.net
>>124
公方様より偉いって認識さえあったかどうか。
江戸っ児たちが天子様なんぞどうとも思ってなかったからこそ、
神田明神の一件で正面から喧嘩を売って明治帝が頭を下げるまで突っ張り切った。
秩父の在方も同じことで、
困民党は平然と「天朝様に敵対するから加勢しろ。」と仲間を募った。
仮に相手が公方様だったら彼等はどうしただろうか。
絶対不可侵の現人神なんて共同幻想は、
「大日本帝國」による洗脳が行き届いて初めて成り立った話だ。

126:世界@名無史さん
21/03/06 00:39:47.22 0.net
>>122
胡化というより復胡政策の方が適切だと思う。

127:世界@名無史さん
21/03/06 03:00:33.96 0.net
Z日やB落民が天皇家を憎むのは、やはり虐げられた底辺階級の上級への妬み恨みなんだろうな
Bさんは結構勤皇なんだけどね
Zさんは李氏朝鮮の王家には恨みを抱かないのが身内贔屓で笑えるよね

128:世界@名無史さん
21/03/06 05:24:31.65 0.net
源氏も平家も、「桓武天皇の子孫」、「清和天皇の子孫」などとして全国でに分布し、領主をやっていた
関東や西国を初め、東北・北陸・九州、みんなそうだ
「天皇の権威が全国に浸透していなかった」というのは詭弁。
そりゃインターネットやテレビはもちろん無いし、紙すら貴重な時代の情報量は少ないに決まってるが
少なくとも、京都を中心とする畿内での権威は極めて高い

129:世界@名無史さん
21/03/06 05:28:37.87 0.net
江戸時代もそうで、そりゃ江戸っ子は幕府の将軍しか目に入らず、天皇に関心がなかったかもしれない。
地方の庶民にとっては、まず何よりも藩主の殿様だっただろう
でも、京都や大阪でもそうだったというのは全くバカげた考え
幕府が朱子学を官学としたおかげで、全国の武家には尊皇攘夷思想が普及していた

130:世界@名無史さん
21/03/06 06:27:31.11 0.net
どこの時代地域だってそうだ
中世ヨーロッパだって、庶民は直接には地元の領主しか見てなかっただろうが、上には教皇や皇帝がいることくらい、みんな知っていた

131:世界@名無史さん
21/03/06 07:12:12.52 0.net
中世ヨーロッパでは皇帝、国王は「貴族の中の第一人者」 Primus inter pares という存在であったが日本の場合はそうではない
日本の天皇は古くから祭司的な要素も持っているので中世ヨーロッパで言えば神聖ローマ皇帝にローマ教皇をプラスしたような存在だったと言える

132:世界@名無史さん
21/03/06 07:44:15.69 0.net
「京都に天皇、江戸に将軍がいる」という体制は、欧州人には非常に分かりやすかった
「ローマの教皇、ドイツの皇帝」を誰もが連想した

133:世界@名無史さん
21/03/06 09:41:12.12 0.net
北魏の皇帝は可汗を称したし、唐の太宗は服属した遊牧民集団から
「天可汗」とたてまつられていた

134:世界@名無史さん
21/03/06 10:19:41.37 0.net
李世民は鮮卑族だったからな
中国の武人階級は元遊牧民であることが多い
欧州の騎士階級や王族階級は古代末期に移住してきたゲルマン人の末裔
だからフランス革命以後のフランスではゴロワつまりゲルマン人ではなくガリア人であるという表明が自由主義的フランス市民の自称になった
日本のサムライ階級も関東に移住した高句麗系や新羅系のサウラビだったはずだ

135:世界@名無史さん
21/03/06 11:39:10.71 0.net
>>134
サワラビは百済だろ。新羅はホワラン。
どちらにせよ、関東への移住者は
0と言ってもいい程度しか居なかった。

136:世界@名無史さん
21/03/06 11:53:00.61 0.net
サワラビとか笑わせるなよ(笑)
「我が国にも、日本のサムライに負けない武人の伝統があるニダ」というコジツケにすぎない
欧米で忍者やサムライがあまりに有名なので嫉妬したことによるファンタジー歴史

137:世界@名無史さん
21/03/06 12:36:21.17 0.net
>>134
日本の武士階級は桓武天皇の軍団の解体により設けられた
健児の制において兵士を供出した郡司階級と地方に土着した
受領階級の中の下クラスの貴族が母体だよ。
郡司階級は古墳時代以来の土着豪族だし、
中の下の貴族は中央で没落した非藤原氏系の
神別士族が多いのだが、神別は国つ神の子孫だから、
当然古墳時代以来からの土着氏族。
帰化人系氏族は諸潘だから。

138:世界@名無史さん
21/03/06 12:40:34.71 0.net
>>131
寧ろアッバース朝のカリフが近いだろ。
途中からブワイフ朝やセルジューク朝に
政治と軍事の実権握られて象徴的存在になったのも似ている。

139:世界@名無史さん
21/03/06 14:37:36.34 0.net
ソグド人は北朝末には中国内にも居留地を持つようになっていて、
自分たちの集落のリーダー薩保の存在を政権に認められていた
ソグド人は軍事力も有していて、北周では彼らは軍府に組織され、
ソグド人の軍府官がみられた

140:世界@名無史さん
21/03/06 18:54:06.87 0.net
百済系の三善氏や高句麗系の狛氏みたいに実際に渡来系の武士って結構いたけどな
中央では帰化人系の家系は蔑視され栄達することが難しかったので国司として下向した後そのまま土着して
帰ってこなくなることが多かった

141:世界@名無史さん
21/03/06 19:05:20.14 0.net
>>137
健児はのちの軍事貴族であって武士の源流ではない。
武士は軍事貴族の家来となった武装農民と考えるべき。北条時政が好例。

142:世界@名無史さん
21/03/06 20:46:42.78 0.net
モンゴルの王、カアンに汗の字を当てるのは、単に発音が似てるから?
それとも、風呂に入らなくて不潔で汗臭い野蛮人プゲラ みたいな蔑視をこめて?

143:世界@名無史さん
21/03/06 21:09:12.55 0.net
日本はポカリスエットという商品名の飲料水を販売しているが、欧米から名前を不気味がられたらしい。
汗にどのような意味合いを持たせるかは人や地域によって違う。
軍事支援欲しさに自らテュルク・モンゴル勢力に臣従さえしていたこともある漢人社会が、汗に否定的な意味を与えていたとは考えにくい。

144:世界@名無史さん
21/03/06 22:28:30.96 0.net
五胡十六国の時代以降、漢民族の身近な生活・風習にも遊牧民のそれが大きな
影響をおよぼしている
筒袖・詰襟、膝まである綿入れの上着、両股が分かれ、膝の下で縛ったズボン、
動物文や唐草文のあるバックルなどが着用された
食物にも胡風が入る
バター、チーズ、醍醐、羊肉の料理、現代人がバーベキューやジンギスカン鍋などと
呼んでいる調理法など
粉食も行われるようになった
胡牀が入ってきたのもこのころで、それまでは日本のように座っていたものが、
椅子に腰かけるようになった

145:世界@名無史さん
21/03/20 21:54:12.46 0.net
この時代の中国料理書にもチーズはすでに書かれていたが
現代中国人はフランス料理やワインは大好きだがチーズは敬遠するという
くさい遊牧民料理は中華思想では野蛮になるのか
平安貴族は中国からつたえられた甘いチーズケーキ状のものをべていたが
中国でチーズはある時点で豆腐にかわり、チーズは忌避されるようになった

146:世界@名無史さん
21/03/21 07:19:59.99 0.net
可汗は古代トルコ語で匈奴の単于とおなじ意味らしい、皇帝ともされる。柔然や北魏がカガンと称したが
北魏の太武帝が先祖は「可寒・可敦」というのでたんに先祖の個人名である可能性もある
「可寒・可敦」が後世に可汗となったのは蔑称
匈奴に野蛮と言われた丁零、チュルクが勢いを増して柔然やトルコとして西方に押し寄せたときに
カガン号をさかんに用いてるところからチュルクの共通祖先と関わるのだろう
皇帝は秦始皇帝が作ったことばだが、北魏皇帝号は中華風であるとしてあとで天王号にかわったりしてる
日本は唐の高宗をまねて天皇ということになる。契丹耶律阿保機もキタイ天皇を称した
東胡である鮮卑や女真の族長はもともと大人と称した
大人は、匈奴単于やカガンのように推戴されるものではなく
先祖の血統が重視される、村長のようにきわめて家族的なもの
日本も天皇のまえは大王(おおきみ、大君)豪族は大臣(おとど)という、大人に近い称号だった

147:世界@名無史さん
21/03/21 12:39:51.44 0.net
>>1
他板にスレがあるのに重複スレ立てる情弱
五胡十六国南北朝を語るスレ13
スレリンク(chinahero板)

148:世界@名無史さん
21/03/26 07:34:58.37 0.net
「日本は唐の長安をモデルに奈良の都を作りました」
と言われるが、「平城京」という名前の由来は、洛陽に遷都する前の北魏の旧都「平城」(今でいう大同)だという話もある

149:世界@名無史さん
21/03/26 15:52:26.03 0.net
奈良は國という意味

150:世界@名無史さん
21/03/26 16:25:46.11 0.net
ナラは平だよ?歴史のない朝鮮人の方ですか?

151:世界@名無史さん
21/03/30 09:48:50.65 0.net
北魏の太武帝は長生きがしたくて熱心な道教の信者になった
太武帝が欲したのは難しい理論ではなく、食物をとらないでも
つねに健康で、体が鶴のように軽く飛べるようになるという、
超人的な能力を獲得したかったのだとか
中国の皇帝にはこういういかがわしい道士にだまされるという
パターンが多いね

152:世界@名無史さん
21/03/30 10:25:20.80 0.net
まあ、現代でも新興宗教にハマる人がいるんだからな
5世紀の中世人じゃ迷信に染まるのも仕方ない

153:世界@名無史さん
21/03/30 11:08:39.18 0.net
A.後漢末期
B.三国時代
C.晋王朝
D.五胡十六国時代
E.南北朝時代
F.隋王朝
マシな順に並べるとどうなる?
平民にとって最も悲惨なのはDでええのか?

154:世界@名無史さん
21/03/30 19:06:16.38 0.net
奈良の平城京の頃の大同の平城とか廃墟だぞ
地面で連想したのだろうが適当なこと書くな

155:世界@名無史さん
21/04/01 00:01:02.82 0.net
ほぼ10年におよんだ永嘉の乱では大量の虐殺をともない、
中原の人口は「百に一、二無し」と記録されている
八王の乱を合わせると、二十数年にわたった二度の動乱によって、
ながく政治と文化の舞台だった中原の地は壊滅状態に陥った
この時代は庶民にとっては苛酷な時代だったんだろうな

156:世界@名無史さん
21/04/01 11:45:04.97 0.net
いまもだよ民衆に平穏が訪れることはない
統一王朝に従えば生命の保障だけがある国

157:世界@名無史さん
21/04/02 10:52:33.12 0.net
もしも始皇帝が中華を統一しなかったら、
今の中国はヨーロッパみたいな感じになってたんだろうか?

158:世界@名無史さん
21/04/02 18:36:36.38 0.net
始皇帝がいなくても、いずれ誰かが中国を統一しただろう
大河の治水には統一帝国の存在が不可欠

159:世界@名無史さん
21/04/02 21:32:37.75 0.net
>>158
あと、匈奴の脅威に対抗するためにも統一帝国が社会的に要請されていたな
それから、増大する塩鉄の商業ネットワークのためにも

160:世界@名無史さん
21/04/02 23:01:12.87 0.net
魏晋南北朝時代に大勢の漢人が南に移ったが、おそらく北の進歩した農業技術も
江南の地に伝わったらしい

161:世界@名無史さん
21/04/02 23:15:01.56 0.net
>>160
その江南から、農業技術がさらに日本に伝わった

162:世界@名無史さん
21/04/02 23:18:15.18 0.net
中原の地を野蛮人に奪われた文明人たちは、江南や倭国に移動した

163:世界@名無史さん
21/04/03 10:10:12.49 0.net
弥生人の紀元は偉大なる遼河文明の末裔たる太古の韓半島人によって土地を追われた穢人(無文文化人)であり華南のブタニグロとは関係がない

164:世界@名無史さん
21/04/04 07:23:23.70 0.net
>>155
それは中央政府の権力低下による課税人口の減少だからな
庶民は有力な豪族の庇護下に入って都まで労役や兵役を負担しなくてよくなったのだから
反って喜んでたのかもしれない
北魏の時代の話だが定州刺史の韓均が不課税者の摘発を行ったところ一気に十万戸も増えたという

165:世界@名無史さん
21/04/04 10:43:07.79 0.net
江南の貴族文化の話だけどさ、謝霊雲、王義之、顧ト之などはみな一流の貴族だった
フランク王国の貴族たちは無教養だったのとは対照的
西欧中世と違って、この時代の中国は暗黒時代とはいえないと思う

166:世界@名無史さん
21/04/04 11:24:00.07 0.net
>>158
ヨーロッパにもカール大帝やナポレオン的な統一者がいたが秒で分裂したみたいに、
秦が始皇帝の死後、速攻で滅んで楚漢で争ってたように、
一時期統一王朝が現れても、一瞬で瓦解して諸国が乱立するのがデフォルト状態だったら、
中華の歴史はどうなってたかと思った。

167:世界@名無史さん
21/04/04 12:02:52.30 0.net
話は脱線するが骨董屋で王羲之の真筆というゴミが骨董市で500円とかで良く投げ売りされてるんだが何とかならんもんかね
まぁそれだけ日本でも憧れの存在でたくさん偽物が作られたということなんだろうな
オレは日本主義者だが中華の大文明は尊敬している
対して近年のものは安いね
袁世凱の書を誰かが軸装したのが1000円で売られてたりもする
更に話がそれるが最近は趙大千の現地の土産物が10万とかで売られてたりする
趙大千の作品は偽物でも良いから飾りたくなるような強烈な魅力があるから買う人もいるかもしれない

168:世界@名無史さん
21/04/04 14:50:35.87 0.net
>>166
中国は大河の治水をしなければならないから、どうしても統一帝国が必要だと思う

169:世界@名無史さん
21/04/04 19:43:05.69 0.net
>>165
同じことは西洋史にも言える
西欧の文明は大幅に後退したが、東ローマ帝国は存続して文明を維持した

170:世界@名無史さん
21/04/04 19:44:19.63 0.net
>>168
それだったら、南北には分かれていてもいいな

171:世界@名無史さん
21/04/04 19:54:55.04 0.net
古代の夏王朝は洪水対策のために成立したと言われているが、秦漢以後の統一王朝が治水対策というのは聞いたことがないな

172:世界@名無史さん
21/04/05 12:56:08.27 0.net
最後は高句麗に負けて終わる時代

173:世界@名無史さん
21/04/05 16:53:10.21 0.net
長江以南は統一王朝のインセンティブなんてほとんどない気がするんだよな豊かで海にもでていける地域
華南だけって王朝は何度も成立してるわけで

174:世界@名無史さん
21/04/05 21:10:19.91 0.net
>>168
中欧・西欧にもドナウとかラインとかエルベとかkm4桁の川あるんですが・・・

175:世界@名無史さん
21/04/07 12:24:34.56 0.net
>>174
大河でも黄河よりだいぶ大人しいからな。

176:世界@名無史さん
21/04/16 10:59:47.19 0.net
サーサーン朝は455年に、初めて北魏に送使して以来、
476年まで、数回にわたって北魏に送使している
一方、エフタルもサーサーン朝が北魏に送使した翌456年に送使しているから、
サーサーン朝もエフタルも、北魏を味方にしようと懸命だったみたい

177:世界@名無史さん
21/04/16 21:05:22.15 0.net
ドナウの治水て聞いたことはないな

178:世界@名無史さん
21/04/17 08:58:21.22 0.net
北斉の文宣帝は、即位の後東魏の廃帝を殺したのをはじめとし、
ついで東魏の一族を片っ端から殺した
しかし帝位を窺う心配があるというので、今度は自分の一族を殺しだした
ことに人望があって役に立ちそうな二人の弟を土牢に閉じ込めて、
最後にこれを焼き殺した
五胡十六国・魏晋南北朝時代にはこういう異常な君主が多いな

179:世界@名無史さん
21/04/19 16:11:16.15 0.net
武こそ正義っちゅう遊牧気質が抜けきらんかったんか
血族すら信頼できんというのはアラブ部族とかぶるな

180:世界@名無史さん
21/04/20 19:05:49.54 0.net
>>178
文宣帝はこの時代の異常揃いの皇帝どもの中でも別格に最凶

181:世界@名無史さん
21/04/20 19:17:31.82 0.net
北斉で比較的まともと評されてるのが廃帝殷とか孝昭帝の在位1年しかない連中なことを考えると、単に残虐行為の事績や犠牲者の数が在位の長さに比例してるだけかもしれん

182:世界@名無史さん
21/04/20 22:41:00.91 0.net
石虎は息子の石韜を殺した石宣を倉庫に閉じ込め、鉄の環を襟にはめて
首環のようにし、数斗入りの飼葉桶をつくって、そのなかに汁と飯を
混ぜて入れ、豚や犬に餌をやるようにして食事をさせた
また石韜を刺した刀を持ってきてその血をなめさせ、記すに忍びないような
残酷な殺し方をした
石虎は宮女たちをひきつれてそのさまをながめていたという

183:世界@名無史さん
21/04/21 20:16:26.84 0.net
>>148
そのとおり。日本の平城京は北魏の仏教の都平城。奈良の大仏は雲岡石窟の大仏が元ネタ。

184:世界@名無史さん
21/04/22 00:43:31.38 0.net
マジレスすると平城京では高麗尺という物差しが使われていた事が判明している
一昔前まで小学校で使われていた竹の30センチ物差しとそっくりなデザインだった
日本の物差しが半島起源という証拠に他ならなかった
奈良の都は正方形とは言えない変則的な形で実は新羅の慶州がその雛形になっている
平安京は中国的だが藤原京や平城京はまだ半島ルーツの文化的痕跡が強く残っているといえる

185:世界@名無史さん
21/04/22 01:02:44.85 0.net
高麗経由で日本に入って来た東魏尺を高麗尺言うんやけどな

186:世界@名無史さん
21/04/22 07:32:37.56 0.net
法隆寺の釈迦三尊像も北魏様式だよな

187:世界@名無史さん
21/04/22 22:21:57.12 0.net
北魏の時代の洛陽は仏教寺院が甍をつらねる宗教都市でもあった
孝明帝の518年には500寺、北魏の末年には1367寺を数えるにいたった

188:世界@名無史さん
21/05/01 19:38:27.42 0.net
斉が宋から革命して翌年、北魏が侵攻してくる
このとき魏書には斉の汝南太守が魏に降伏したことが書いてあるけど
このあと梁が一時取り返すまで汝南はずっと北魏が支配してたの?

189:世界@名無史さん
21/05/08 08:14:20.21 0.net
>>182
晋の最後の皇帝が匈奴に捕らえられ、豚小屋に監禁されて残飯を食わせられた、と
田中芳樹の小説にあった。
史実では庶民の服装をさせられ宴会の給仕係をさせられたとあり、
残飯云々の話はない。
この話からパクったんだな。
田中芳樹は漢民族マンセー、
日本含め、その漢民族様にたてつく異民族は徹底的に罵倒する。
だから清王朝は絶対に認めない。名君を輩出したといえ女真族だから
ましてや五胡16国なんか、漢民族様が匈奴にメタクソにやられた時代だからね
石虎も匈奴だが、残飯のエピソードは匈奴の内輪でやったこと。
だが漢民族の皇帝陛下にしたことにして、匈奴を「残虐性」をうったえる、と

190:世界@名無史さん
21/05/08 09:03:08.48 0.net
符堅臣下の呂光も人傑やな
呂氏の猛将というと呂布に並ぶとか
後涼も建国するし
内政はからっきしだが

191:世界@名無史さん
21/05/08 11:36:17.87 0.net
漢民族をマンセーする必要はないが
五胡にも特別親近感なんてわかない
史実として五胡十六国時代を楽しむまで

192:世界@名無史さん
21/05/08 19:03:43.98 0.net
ゲームの三国志ではカウントしない内モンゴル并州や遼東半島の北側もあるし、涼州もクソ広いからな
異民族はデフォであちこちにいる

193:世界@名無史さん
21/05/08 22:34:20.78 0.net
五胡十六国時代で優秀な人物というと、慕容恪はどうかな?
恪は常に慕容皝に頼りにされ、ほとんどの戦いに参加している
性格は沈着にして度量があり、物腰は謹厳だったという
慕容儁と扶余戦に出かけたとき、身を矢で射抜かれながら
突撃して勝利を得たとあるように勇猛な人でもあった

194:世界@名無史さん
21/05/10 11:24:07.50 0.net
>>193
Wikiで斜め読みさせてもらった
麻秋という人物が前燕にも前涼にも攻めてて興味持ったわ
前涼の歴史読んでても麻秋出てきたから
ここらの小説あったら面白そうだ

195:世界@名無史さん
21/05/10 22:28:43.30 0.net
慕容恪は、彼自身の短慮によって人を殺した例は一つもなかった
彼は捕らえた捕虜は兄の慕容儁のもとに送って賞罰を任せていた
彼は軍略にも長けていたので、皝も儁もしばしば恪の意見を採用したし、
彼も部下の意見を尊重した
恪が遼東に鎮するようになると、高句麗は彼を憚って攻めてこなかった
史書においてこれだけ良く書かれている人物は珍しい

196:世界@名無史さん
21/05/11 10:05:12.68 0.net
前燕の人口は1000万ほどとWikiに書いてあった
一方三国時代の戸籍人口が三国全部合わせても1000万
総人口は推定でも2000万ほど
華中からの避難民と異民族混入度合いが多かったのかな


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