五胡十六国から南北朝 ..
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168:世界@名無史さん
21/04/04 14:50:35.87 0.net
>>166
中国は大河の治水をしなければならないから、どうしても統一帝国が必要だと思う

169:世界@名無史さん
21/04/04 19:43:05.69 0.net
>>165
同じことは西洋史にも言える
西欧の文明は大幅に後退したが、東ローマ帝国は存続して文明を維持した

170:世界@名無史さん
21/04/04 19:44:19.63 0.net
>>168
それだったら、南北には分かれていてもいいな

171:世界@名無史さん
21/04/04 19:54:55.04 0.net
古代の夏王朝は洪水対策のために成立したと言われているが、秦漢以後の統一王朝が治水対策というのは聞いたことがないな

172:世界@名無史さん
21/04/05 12:56:08.27 0.net
最後は高句麗に負けて終わる時代

173:世界@名無史さん
21/04/05 16:53:10.21 0.net
長江以南は統一王朝のインセンティブなんてほとんどない気がするんだよな豊かで海にもでていける地域
華南だけって王朝は何度も成立してるわけで

174:世界@名無史さん
21/04/05 21:10:19.91 0.net
>>168
中欧・西欧にもドナウとかラインとかエルベとかkm4桁の川あるんですが・・・

175:世界@名無史さん
21/04/07 12:24:34.56 0.net
>>174
大河でも黄河よりだいぶ大人しいからな。

176:世界@名無史さん
21/04/16 10:59:47.19 0.net
サーサーン朝は455年に、初めて北魏に送使して以来、
476年まで、数回にわたって北魏に送使している
一方、エフタルもサーサーン朝が北魏に送使した翌456年に送使しているから、
サーサーン朝もエフタルも、北魏を味方にしようと懸命だったみたい

177:世界@名無史さん
21/04/16 21:05:22.15 0.net
ドナウの治水て聞いたことはないな

178:世界@名無史さん
21/04/17 08:58:21.22 0.net
北斉の文宣帝は、即位の後東魏の廃帝を殺したのをはじめとし、
ついで東魏の一族を片っ端から殺した
しかし帝位を窺う心配があるというので、今度は自分の一族を殺しだした
ことに人望があって役に立ちそうな二人の弟を土牢に閉じ込めて、
最後にこれを焼き殺した
五胡十六国・魏晋南北朝時代にはこういう異常な君主が多いな

179:世界@名無史さん
21/04/19 16:11:16.15 0.net
武こそ正義っちゅう遊牧気質が抜けきらんかったんか
血族すら信頼できんというのはアラブ部族とかぶるな

180:世界@名無史さん
21/04/20 19:05:49.54 0.net
>>178
文宣帝はこの時代の異常揃いの皇帝どもの中でも別格に最凶

181:世界@名無史さん
21/04/20 19:17:31.82 0.net
北斉で比較的まともと評されてるのが廃帝殷とか孝昭帝の在位1年しかない連中なことを考えると、単に残虐行為の事績や犠牲者の数が在位の長さに比例してるだけかもしれん

182:世界@名無史さん
21/04/20 22:41:00.91 0.net
石虎は息子の石韜を殺した石宣を倉庫に閉じ込め、鉄の環を襟にはめて
首環のようにし、数斗入りの飼葉桶をつくって、そのなかに汁と飯を
混ぜて入れ、豚や犬に餌をやるようにして食事をさせた
また石韜を刺した刀を持ってきてその血をなめさせ、記すに忍びないような
残酷な殺し方をした
石虎は宮女たちをひきつれてそのさまをながめていたという

183:世界@名無史さん
21/04/21 20:16:26.84 0.net
>>148
そのとおり。日本の平城京は北魏の仏教の都平城。奈良の大仏は雲岡石窟の大仏が元ネタ。

184:世界@名無史さん
21/04/22 00:43:31.38 0.net
マジレスすると平城京では高麗尺という物差しが使われていた事が判明している
一昔前まで小学校で使われていた竹の30センチ物差しとそっくりなデザインだった
日本の物差しが半島起源という証拠に他ならなかった
奈良の都は正方形とは言えない変則的な形で実は新羅の慶州がその雛形になっている
平安京は中国的だが藤原京や平城京はまだ半島ルーツの文化的痕跡が強く残っているといえる

185:世界@名無史さん
21/04/22 01:02:44.85 0.net
高麗経由で日本に入って来た東魏尺を高麗尺言うんやけどな

186:世界@名無史さん
21/04/22 07:32:37.56 0.net
法隆寺の釈迦三尊像も北魏様式だよな

187:世界@名無史さん
21/04/22 22:21:57.12 0.net
北魏の時代の洛陽は仏教寺院が甍をつらねる宗教都市でもあった
孝明帝の518年には500寺、北魏の末年には1367寺を数えるにいたった

188:世界@名無史さん
21/05/01 19:38:27.42 0.net
斉が宋から革命して翌年、北魏が侵攻してくる
このとき魏書には斉の汝南太守が魏に降伏したことが書いてあるけど
このあと梁が一時取り返すまで汝南はずっと北魏が支配してたの?

189:世界@名無史さん
21/05/08 08:14:20.21 0.net
>>182
晋の最後の皇帝が匈奴に捕らえられ、豚小屋に監禁されて残飯を食わせられた、と
田中芳樹の小説にあった。
史実では庶民の服装をさせられ宴会の給仕係をさせられたとあり、
残飯云々の話はない。
この話からパクったんだな。
田中芳樹は漢民族マンセー、
日本含め、その漢民族様にたてつく異民族は徹底的に罵倒する。
だから清王朝は絶対に認めない。名君を輩出したといえ女真族だから
ましてや五胡16国なんか、漢民族様が匈奴にメタクソにやられた時代だからね
石虎も匈奴だが、残飯のエピソードは匈奴の内輪でやったこと。
だが漢民族の皇帝陛下にしたことにして、匈奴を「残虐性」をうったえる、と

190:世界@名無史さん
21/05/08 09:03:08.48 0.net
符堅臣下の呂光も人傑やな
呂氏の猛将というと呂布に並ぶとか
後涼も建国するし
内政はからっきしだが

191:世界@名無史さん
21/05/08 11:36:17.87 0.net
漢民族をマンセーする必要はないが
五胡にも特別親近感なんてわかない
史実として五胡十六国時代を楽しむまで

192:世界@名無史さん
21/05/08 19:03:43.98 0.net
ゲームの三国志ではカウントしない内モンゴル并州や遼東半島の北側もあるし、涼州もクソ広いからな
異民族はデフォであちこちにいる

193:世界@名無史さん
21/05/08 22:34:20.78 0.net
五胡十六国時代で優秀な人物というと、慕容恪はどうかな?
恪は常に慕容皝に頼りにされ、ほとんどの戦いに参加している
性格は沈着にして度量があり、物腰は謹厳だったという
慕容儁と扶余戦に出かけたとき、身を矢で射抜かれながら
突撃して勝利を得たとあるように勇猛な人でもあった

194:世界@名無史さん
21/05/10 11:24:07.50 0.net
>>193
Wikiで斜め読みさせてもらった
麻秋という人物が前燕にも前涼にも攻めてて興味持ったわ
前涼の歴史読んでても麻秋出てきたから
ここらの小説あったら面白そうだ

195:世界@名無史さん
21/05/10 22:28:43.30 0.net
慕容恪は、彼自身の短慮によって人を殺した例は一つもなかった
彼は捕らえた捕虜は兄の慕容儁のもとに送って賞罰を任せていた
彼は軍略にも長けていたので、皝も儁もしばしば恪の意見を採用したし、
彼も部下の意見を尊重した
恪が遼東に鎮するようになると、高句麗は彼を憚って攻めてこなかった
史書においてこれだけ良く書かれている人物は珍しい

196:世界@名無史さん
21/05/11 10:05:12.68 0.net
前燕の人口は1000万ほどとWikiに書いてあった
一方三国時代の戸籍人口が三国全部合わせても1000万
総人口は推定でも2000万ほど
華中からの避難民と異民族混入度合いが多かったのかな

197:世界@名無史さん
21/05/11 18:04:52.94 0.net
いや乱世の三国時代はまともな戸籍調査ができてない逃散した農民流民を補足できてないだけでは

198:世界@名無史さん
21/05/12 10:46:09.01 0.net
中国語の方言の話だけどさ、長年にわたって北から移住してきた漢人の方言が
入り交じり、福建省だけでも百種もの方言があるのだとか
ちなみに客家は広東、広西、福建に多い

199:世界@名無史さん
21/05/12 11:15:50.00 0.net
>>197
それだけではない
もし流民を捕捉できてないだけだったら西晋の統一時にもっと増えてる

200:世界@名無史さん
21/05/12 14:52:35.04 0.net
時代違うけど四川に関しては明清代に虐殺で言語が変わったこともあった
成都の人口激減に伴い移住者により方言が変わった
下はWikiの抜粋
多くの記録で張献忠は残酷な殺戮を好み、「屠蜀(中国語版)」もしくは「屠川」と呼ばれる無差別殺戮により、四川の人口を著しく減じたとされている[1]。1578年(万暦6年)に人口310万2073人[2] だった四川は、1685年(康熙24年)には1万8090人となった[3]。

201:世界@名無史さん
21/05/12 15:39:19.59 0.net
この時代の事について書いてある本を読むと「徙民」とか「流寓」といった普段聞き慣れない用語がよく出てくるな

202:世界@名無史さん
21/05/12 18:55:01.88 0.net
八王の乱は中原地方を荒廃させ、自然災害と疫病も加わって農地は荒土となった
「百姓また寇賊に殺され、流屍は河に満ち、白骨は野を蔽う」と史書は惨状を
記録している
生活の場を失った農民たちは安住の地を求めて流民となり、多くは開発途上の
南方に移動したが、その数は約30万戸と推定されている
こうして一時、華北に真空地帯が出現すると、これを埋めるように、北辺の
遊牧民が南下を始めた

203:世界@名無史さん
21/05/12 19:08:06.92 0.net
前涼も初代が良い統治をしたから長安辺りから沢山移民が来たようだな

204:世界@名無史さん
21/05/12 19:15:11.61 0.net
石勒の史伝を見ると何遍も同じ城を落としてる
そして地盤を固めるのが相当後になってから
これは占領地には略奪で一定時期だけ滞在出来たものの補給が維持出来ないから別の土地に移動してるように見える
おそらくは元の占領地は放棄してるのだろう
これが異民族の強さであり弱さのように見える

205:世界@名無史さん
21/05/12 19:34:46.21 0.net
ただ全体的に
三国時代や西晋時代より把握されている人口は上昇している

206:世界@名無史さん
21/05/12 21:14:16.09 0.net
>>204
> 占領地には略奪で一定時期だけ滞在
> 補給が維持出来ないから別の土地に移動
> 元の占領地は放棄
> 異民族の強さであり弱さ
上杉謙信の話かと思った。

207:世界@名無史さん
21/05/12 22:29:07.37 0.net
漢の時代の人口は、一桁まで把握されていた
当時の統計に、5959万4978人という数字があって、とても細かいが、
そういう体制が維持できなくなったのだろう

208:世界@名無史さん
21/05/13 00:31:06.43 0.net
>>200
張献忠はヤバイよな
「天生万物與人、人無一物与天、殺殺殺殺殺殺殺」
これ人類最悪の基地外だろ
満洲人によって中華は救われたんだろうな
満洲人は李王朝の儒教文明の感化を受けていた
明の末期になると既に中華の資格は東夷に移っていたんだろう
孔子は東夷こそ礼を知る民族と誉めたたえた
韓半島こそ孔子が理想とした君子の邦であった

209:世界@名無史さん
21/05/13 01:16:55.35 0.net
都合の悪いこと全部を張献忠のせいにしたようにみえる不自然さがある
中国人の気質からいって反乱を起こすだろ
文化大革命のように民衆が主導して飢餓と殺し合いを行ったと考えたほうが自然

210:世界@名無史さん
21/05/13 01:35:41.88 0.net
張献忠の肩は持たんが歴史は勝者の記録なのよな

211:世界@名無史さん
21/05/13 02:06:44.26 0.net
>>20
> 文化大革命のように民衆が主導して
待て。
文革は「上からの革命」って云われてるぐらいで、毛沢東が発動した動乱だ。
中共上層部の権力闘争に勝利する為に人民(主にヷカモノ)を煽動して反毛派に反動派のレッテルを貼って殲滅した−−というのが実態だ。
「民衆主導」の反対の極だぞ。

212:世界@名無史さん
21/05/13 02:11:59.24 0.net
李承晩による大量虐殺を米軍のせいにする意見が一部の韓国人にあるが、
米軍が韓半島を撤退したら間違いなく米軍のせいにされる
それが中国や朝鮮の精神性

213:世界@名無史さん
21/05/13 02:24:29.38 0.net
>>211
扇動に応じた時点で自発的なんだよ。毛沢東のせいにして済む話じゃない
これはヒトラー統治下のドイツ人も同じ
ヒトラーは嫌がるドイツ人に障害者やユダヤ人への迫害を強制したのか?違う
社会合意にもとづくヘイトクライムなんだよ

214:世界@名無史さん
21/05/13 06:15:13.15 0.net
永嘉の乱もほぼ10年におよび、大量の虐殺をともない、中原の人口は
「百に一、二無し」と記録されている
八王の乱を合わせると、二十数年にわたった二度の動乱によって、
長く政治と文化の舞台だった中原の地は壊滅状態に陥った

215:世界@名無史さん
21/05/13 07:25:44.51 0.net
中国人口は日本人には理解し難いカーブをするからな
唐の安史の乱でも凄い減ってる
虐殺は頻繁に発生してるだろうな
言語が通じにくい多民族の土地じゃないとこうはならないよ

216:世界@名無史さん
21/05/13 07:32:56.10 0.net
アメリカも多民族国家なので虐殺が多い
戦争ではなく宗教施設襲撃や銃乱射という形をとってるけど

217:世界@名無史さん
21/05/13 07:38:14.11 0.net
もし江南というフロンティアがなかったら、中国の文明は
シュメール文明みたいに滅亡していたのかな
現代にはもう中国国内にフロンティアはないから、
海外に向かって膨張しようとするかも

218:世界@名無史さん
21/05/13 08:35:01.78 0.net
満洲、内蒙古、新疆(東トルキスタン)、チベットは拡大した結果

219:世界@名無史さん
21/05/13 09:54:32.80 0.net
16国は直ぐに皇帝を宣言してる(天王に留まるものもいるが)
三国時代と趣を異にする感はある
そして二代目が無事に継承出来たことは殆ど無く簒奪して殺害されることはざら
また新たな有力者が王朝を立てることの繰り返し
ここまで血なまぐさいのも文化的なものが失われたみたいなものかな

220:世界@名無史さん
21/05/13 10:04:00.77 0.net
日本では天皇を名目的最上位とし独立国家は無かった(実質独立国はあったが名目的には天皇の許可を受けている)
西洋もキリスト教文化により各王国は神から許可を受けた体を取ってる
中東もカリフから統治委託を受けた体を取ってる
どこも戦いはあったが小さな領土争いに留まる
王位の継承戦争レベルでも祭祀的上位者から追認を受ける必要があった
五胡十六国は別
天に2つの皇帝なしなため宗教的に敵となるため互いを殲滅するしか無くなった

221:世界@名無史さん
21/05/13 10:04:54.78 0.net
>>219
漢の文化を継承したとされる南朝でもそれは同じだから、関係ない
四百年つづいた漢朝の終焉は、日本でいえば天皇がいなくなったも同然
力さえあれば、誰でも皇帝になれる時代が到来した

222:世界@名無史さん
21/05/13 10:06:33.31 0.net
南朝でも、宋の八代の皇帝のうち、暗殺されなかったのは武帝、孝武帝、明帝の
三人だけで、皇子たちも十中八九まで犠牲となる異常事態の連続だった
さらに体制を支える重臣も多くは不慮の死を遂げた

223:世界@名無史さん
21/05/13 11:19:14.83 0.net
漢人の君主は割と柔軟で、臣従同盟と独立を使い分けてる感はある
三国時代も合わせると
孫呉
前涼
西涼
あたりか
主力国ではないので機会が無いと皇帝を名乗れなかったってのはある
イデオロギー的には反普・反漢人勢力のトップとしての劉淵の漢(漢と名乗ってるのが皮肉だな)とその後継国家が挙げられるか

224:世界@名無史さん
21/05/13 11:32:34.00 0.net
東普は内実はともかく国としては比較的長命だった
皇帝はお飾りだが兎に角も生きていられたのは天命という宗教的文化的要素が生き残っていたからだろう

225:世界@名無史さん
21/05/13 11:35:58.55 0.net
中国の皇帝は世俗権力を持つ文化だからなあ
祭祀的存在に甘んじていれば天皇やカリフみたいに存在だけは出来ていたかもしれないが
だが北方異民族から見ればそんな文化は合わなかったんだろうな(祭祀的権威のメリットを理解出来なかった)

226:世界@名無史さん
21/05/13 14:25:44.70 0.net
周王朝がずっと生き残っていて、祭祀王みたいになっていればと思うときがある
でも秦によって滅ぼされてしまった

227:世界@名無史さん
21/05/13 14:45:23.48 0.net
周王室はいうまでもないが、漢朝だって、遥かな古代から400年も続いてたんだからなあ
当時の人々にとっては、天壌無窮の存在だっただろうよ
曹丕も思いきったことをしたものだ

228:世界@名無史さん
21/05/13 16:01:01.38 0.net
>>227
こう考えると曹丕の簒奪は後世にまで尾を引いたのかもなあ

229:世界@名無史さん
21/05/13 16:04:48.56 0.net
漢王家に本当に祭祀的な権威があったのであれば、再興されたはずだよ
現実にはそうならなかった
漢王家はその程度の権威でしかなかったってこと
三国志演義脳で美化するのはやめとけ

230:世界@名無史さん
21/05/13 16:27:21.81 0.net
>>9
ローマの傭兵ゲルマン人そのものかっ

231:世界@名無史さん
21/05/13 16:28:42.06 0.net
日本の皇室だって中世の一時期は凋落著しかった。
皇居の屋根は穴が空き即位式を行うカネもない。
毛利や織田からの巨額な寄付があってなんとか建て直せたが。
権威と権力は分けておいた方が便利という共同理解が
もう少しあれば、中国でも漢室再興の道はあったろう。

232:世界@名無史さん
21/05/13 16:31:02.14 0.net
天皇家存続の最大の功労者は豊臣秀吉だよ

233:世界@名無史さん
21/05/13 16:39:47.71 0.net
>>231
でも中国の場合、皇室の権威が日本よりは格段に低いよな 周代ですら夏商二代の後の三代目王朝
だし、漢の高祖劉さんの家柄は大した事ないのに秦滅亡後に皇室となった
日本の皇室には姓がないけど、
漢の皇室は劉さんの子孫でしかないから
元々権威は中国共産党の国家主席レベルだろ

234:世界@名無史さん
21/05/13 16:48:44.58 0.net
豊臣秀吉が己の才覚に増長することなく天皇を敬い、神仏と相いれないキリスト教を排撃してくれたおかげで天皇家は存続できた

235:世界@名無史さん
21/05/13 17:42:51.18 0.net
祭祀的トップは他の文化から見ると価値が分からないからな
むしろ滅ぼす対象でさえある
多文化の土地では難しいだろうな
皇帝専制になる方が自然な流れではある

236:世界@名無史さん
21/05/13 17:46:34.67 0.net
その点古代ローマ文化圏がキリスト教を残しローマ教皇が存続出来たのは対照的ではあるか
五胡は受け入れず(自分たちがトップになり)ゲルマン人は受け入れたということになる

237:世界@名無史さん
21/05/13 17:55:42.88 0.net
磔刑にされた石工の息子を神格化することで民族集団間の上下関係を取り払う民族浄化ツールとして機能したからだろ

238:世界@名無史さん
21/05/13 18:30:20.98 0.net
>>236
ビザンツ帝国にはローマ教皇に相当する存在はなかったんだが
コンスタンティノポリス総主教はいるけど、ローマ教皇のような
力は持っていなかったし
それに対し、ビザンツ皇帝は「神の恩寵によって」帝位に就いた
「地上における神の代理人」「諸王の王」とされていた

239:世界@名無史さん
21/05/14 07:12:22.99 0.net
>>238
ビザンツはその点ではオリエント寄りの文化圏と言えそうだ

240:世界@名無史さん
21/05/14 09:47:27.67 0.net
多民族の古代ローマが採用したツールなので文化圏をまとめるために利用したのは間違いないな
ゲルマン人を取り込んだことにより西洋全域はカバーできた
同宗教間では宗教道徳的にも虐殺は起きにくい

241:世界@名無史さん
21/05/14 13:09:37.38 0.net
ササン朝ペルシャ帝国の脅威に対抗するためには、こちらも強力な専制君主でトップダウン型の国家体制にする必要があった

242:世界@名無史さん
21/05/14 15:13:36.85 0.net
司馬騰が并州刺史のとき財政の為に現地の異民族を拐って奴隷として売ってる
その中に石勒もいた
異民族は人権が無かった

243:世界@名無史さん
21/05/14 15:43:05.24 0.net
つうか石勒が指定された居住地から移動したから奴隷として捉えられても仕方ないかたちになったんじゃないか?あれ
そんな風な会話してるだろ

244:世界@名無史さん
21/05/14 16:43:04.66 0.net
詳細はどうあれ并州には
・異民族が移住してきてる
・奴隷として売られる素地があった
とは言える

245:世界@名無史さん
21/05/15 06:43:36.13 0.net
>>241
これからの日本も、中国の脅威に対抗するために
トップダウン型の国家体制にする必要がある?

246:世界@名無史さん
21/05/15 06:51:54.16 0.net
>>245
日本も、すでにだいぶ変わってきている
昔に比べて内閣総理大臣の力がかなり強くなり、長期政権のアベ内閣も実現した

247:世界@名無史さん
21/05/15 18:34:12.02 0.net
南朝宋の前廃帝は、大叔父にあたる劉義恭はじめ、柳元景、沈慶之などの老将を
次々に殺した
彼はさらに弟らを殺し、さらに三人の叔父をも殺すつもりで宮中に幽閉しておいたが、
その一人、劉ケが後園で夜遊びにふけっている前廃帝を襲撃して殺害した
劉ケがその母太后の命で帝位についたが、これが明帝である
廃帝の弟、劉子が江州で反乱を起こしたが、明帝は江州をおとしいれ、
劉子を殺した際、その兄弟がまだ13人残っていたのを、ことごとく殺戮した
孝武帝の子は元来28人いたのだが、ここにいたってただの一人も残らなくなった
東晋の時代には、さすがにこんなことはなかった

248:世界@名無史さん
21/05/15 19:18:56.20 0.net
八王の反省かね

249:世界@名無史さん
21/05/16 00:20:38.62 0.net
>>224
「とうふ」になってますよ

250:世界@名無史さん
21/05/16 22:50:28.51 0.net
>>246
そのうち、シーレーンを守るため、海上自衛隊を
ブルーウォータネイビーに脱皮させる必要が出てきたりして

251:世界@名無史さん
21/05/16 23:57:16.12 0.net
毎日新聞の世論調査でさえ、「憲法改正に賛成」が過半数を超えた
日本人の意識もだいぶ変わってきている

252:世界@名無史さん
21/05/17 12:24:26.12 0.net
暗黒時代の五胡諸国とゲルマン人国家の差でも考えてみようかね
五胡諸国→かならず次世代で衰退する
初代建国者の弟らが軍権を握り簒奪も行う
側室婚のため継承戦争が発生しやすい
皇帝になった場合自らが宗教的最高権威者のため他国と妥協し難い
臣従出来ずに殲滅対象となる
ゲルマン→部族連合制の形態
統治領域が比較的固定
継承戦争は比較的少ない、あっても殲滅まではいかない
宗教的最高権威者がローマ教皇のため臣従・同盟などはしやすい
ビザンツ帝国という共通の大敵がいるためこれまた同盟しやすい
神聖ローマとフランスがあまり戦わず分離傾向になるのは興味深い

253:世界@名無史さん
21/05/17 15:13:44.00 0.net
>>252
一つはキリスト教のお陰という皮肉な側面もあるかな
文明退行の元凶でもあるキリスト教だけど
一夫一婦を基本とした家族構成にある程度の正当性を持たせた宗教であったため
ゲルマン人たちの相続権はかなりの部分、嫡子に有利に働いた
さらにサリカ族たちのサリカ法典で嫡男に相続を限定する事で
お家断絶の危機が非常に高まる半面、嫡庶間での相続争いが相当減った
五胡諸国はそういうのないから基本男系相続だけど正室ですら複数人居て
さらに庶子ですら相続争いの権利があるから本当に大荒れにあれる

254:世界@名無史さん
21/05/17 16:31:13.81 0.net
一夫一婦と側室制になる下地は米と麦のカロリー産出量の違いにも原因があるかね
麦食の場合は余りカロリー得られないので少子にして大切に育てる文化になったとか
イスラムがちょっとオリエントよりなのはよく分からないが寡婦扶養のために複数婚になったとか聞いたことある

255:世界@名無史さん
21/05/17 16:38:12.99 0.net
>>253
代わりに西洋の継承戦争はローマ教皇が必ず絡んでくる印象
あと公爵級は男子長子相続制だけど王/皇帝級は選挙制になってくるな
これはフランク人の文化かもしれないが

256:世界@名無史さん
21/05/17 19:51:59.25 0.net
>>254
キリスト教普及以前のノルド人の家庭は基本的に一夫多妻で子沢山
西欧よりもさらに食糧的に厳しい北欧でも宗教的縛りがないとこんなもんだし
キリスト教普及以降も嫡子1人、庶子数十人みたいな王侯結構いる
北欧に限った話でなく中近世の欧州なんて大体こんなもん
ドイツで慣習法として通用していたザクセンシュピーゲルなんかでは
「自然人(意味としてはほぼ嫡子)以外は法的権利がない」と堂々と条文化していて
庶子が山盛りいるのは前提になってしまって少子化してない

257:世界@名無史さん
21/05/18 09:22:16.83 0.net
なるほど
嫡庶の切り分けでのみ宗教的な緩和効果があったと
日本もそんな感じだったな

258:世界@名無史さん
21/05/18 09:24:07.68 0.net
ハプスブルク家も庶子が沢山いてその子らは遺伝症は少なかったようだな

259:世界@名無史さん
21/05/18 10:04:23.07 0.net
対して北魏の長命さ
150年継続してる
詳しくはないがWikiの斜め読みして感じた印象
・君主の在位期間が比較的長命
 三代目までは華北の統一に明け暮れた
 適切な時期に司令官になってるため臣下の信用があった
 領土拡大は恩賞による臣下の懐柔が容易
 長続きする国家体制を考える時間的余裕があった
・部族制から貴族制への転換
 創業者功臣を貴族に取り入れ権益を与え懐柔した
・儒教の導入
 身分の固定化
 君主(個人では無く)への忠誠心を道徳化

260:世界@名無史さん
21/05/18 10:30:10.46 0.net
>>259
部族解体は懐柔じゃない
盛大に部族長達の権利や軍事力を削ぎ落す政策だったから不満が多かった
この反動で東西分裂からの混乱期突入して行く

261:世界@名無史さん
21/05/18 11:20:23.89 0.net
>>260
末期はそのようだな
トルコ人を軽視したオスマン帝国みたいになってるな
代わりに皇帝家の内乱を減らしたとも言えるが…軍閥化を招いたか
この辺は部族重視か能力重視かの永遠の課題だな

262:世界@名無史さん
21/05/18 16:32:13.23 0.net
何故西魏(北周、隋)の系統が統一できたのか
華北の力を割ってしまったのに

263:世界@名無史さん
21/05/18 17:25:49.76 0.net
周は候景の乱に乗じて上手く益州を取った
斉は逆に介入の仕方をミスって陳と連戦するハメになった
その状況で斉には暗君が立ち、周には名君が立つという興亡のお決まりのパターンになった

264:世界@名無史さん
21/05/19 06:27:41.23 0.net
Wikiには益州を取ったことが江南への容易なアクセスを可能にしたとあるな
三国時代で荊州と益州を得た蜀漢みたいなもんか
呉が必死に荊州取りにいったくらいだからそれほど致命的になるのか
揚子江上流は

265:世界@名無史さん
21/05/19 22:22:20.24 0.net
>>259
比較的長命、て在位期間は20年超も三人いるけど、35歳以上生きたのが二人しかいないってすさまじい体質の家系やな

266:世界@名無史さん
21/05/20 06:39:41.22 0.net
大河の上流と下流では、そりゃ上流のほうが有利だわな
近代の蒸気船ならともかく、古代の船では上流から下流に向かって攻め込むほうが遥かに移動が容易

267:世界@名無史さん
21/05/20 09:41:31.37 0.net
つまり益州の地の利と
長安の国力が必要条件ということか
蜀漢も華北国家もどちらかが掛けていたと
曹魏と西魏は両方揃っていた
時代が違うから状況も異なるけど

268:世界@名無史さん
21/05/24 21:59:03.08 0.net
ここの人達二十四史読んでそう
川勝義雄の魏晋南北朝と別の人の中華の崩壊と拡大って本を読んだんですけど他に日本語でこの時代で面白い本って有りますか?

269:世界@名無史さん
21/05/25 07:18:38.60 0.net
最近はYoutube見てるな
一般的なもの、表層的なものがほとんどだけど深いものもある
特に八王の乱は本より分かりやすい
何しろ本では地名がどこかわからなかったから地図で表示されてるど分かりやすい
当時のギョウ(阝業)が大事な土地ということが分かった

270:世界@名無史さん
21/05/25 14:58:55.52 0.net
>>269
この時代の北朝の中心都市は業阝

271:世界@名無史さん
21/05/25 16:10:43.08 0.net
予想されていた事ではあるが鮮卑がモンゴル系と判明したことで
女真が後から南満洲にやってきた集団だと分かってきた
扶余や高句麗や渤海は韓民族の北方系集団であったが渤海滅亡時に
契丹により渤海人は遼東に移住させられて白頭山周辺地域は無人化した
もちろん噴火の影響もあったのだろうがこれにより南満洲の
韓民族の歴史は断絶することになった
満洲を含めて南北朝時代を作った民族の歴史は日本のネトウヨや
中国共産党の東北工程という学問の歪曲によって消し去られようと
している
女真人や満洲人の先祖は渤海滅亡後に北方から移住してきた連中だった

272:世界@名無史さん
21/05/25 19:44:54.40 0.net
>>271
弓を重視する武器の文化を考えると、女真人は多分あの辺でずっと存在してるかも
朝鮮人も女真人も弓を重視する文化だった
その場合「朝鮮人の国」とされるもののいくつかが「女真人の国だった」と見るべきだろう
李成桂の出身が女真だった可能性を指摘する説もあるし
結構融合しちゃってて実は朝鮮人も女真人も明確な区分は不能になってるかもしれん

273:世界@名無史さん
21/05/25 22:27:00.26 0.net
慕容氏族は特別に肌の色が白く、「白部鮮卑」とか「白虜」と呼ばれていた
肌が白いので東晋の貴族や士族は好んで慕容氏の女子を妾にしたという

274:世界@名無史さん
21/06/07 12:07:21.37 0.net
映画「大秦帝国」見て思ったけどこの時期って多民族国家だけど法治主義とは思えないな
君主と側近の合議制だったんだろうな

275:世界@名無史さん
21/06/21 13:43:08.12 0.net
ゲルマン諸国と五胡十六国は似てるな
ビザンツ帝国は東晋といったところか

276:世界@名無史さん
21/06/21 19:50:47.54 0.net
ゲルマン諸国も五胡十六国同様に暴君や暗君のオンパレードだったのか?

277:世界@名無史さん
21/06/22 07:20:26.00 0.net
ヴァンダル王ゲンセリックは狡猾で非常だが暴君では無かったな
遊牧民的な超カリスマや超暴君は出なかったな

278:世界@名無史さん
21/06/22 08:51:03.81 0.net
カリスマってのは恐怖政治の裏返しだから

279:世界@名無史さん
21/08/05 22:57:52.26 0.net
慕容儁が石虎の養孫の冉閔を殺した後、草木が枯れ、蝗の大群が押し寄せ、
半年以上も雨が降らず旱魃になった
慕容儁は冉閔の祟りと恐れ、冉閔を武悼天王と諡して祀った
その日に大雪が降ったという
鮮卑族にも、祟りという考え方はあったのか?

280:世界@名無史さん
21/09/27 23:14:25.70 0.net
八王の乱後の混乱を見た北方異民族が中原に侵入し、この戦乱を避けて貴族を中心に
多くの人々が長江を渡って南下したが、これを機に江南地域に本格的に五斗米道が
伝わることになったとか
例えば王義之は道教マニアだったが、南渡前から代々熱心な五斗米道信者の家系だった

281:世界@名無史さん
21/09/28 08:42:54.23 0.net
平安時代の日本とは違って、中国に怨霊文化のイメージはあんまり無いけど、
日本の怨霊文化を主導していたのが中国留学帰りの元・遣唐使たちだったということを忘れるべきではない

282:世界@名無史さん
21/09/28 09:23:00.15 0.net
南北朝時代の中国では、五斗米道は「天師道」と呼ばれるようになった
北では北魏のときに寇謙之という道士があらわれる
もともと彼は五岳のうちの中岳とされる嵩山や西岳とされる華山で
天師道系の修行をしていた
そこで太上老君から、『雲中音誦新科之誡』20巻を授かり、
それを太武帝に献上したという

283:世界@名無史さん
21/09/28 12:08:01.34 0.net
儒教は漢民族より
中華第一主義で下剋上を拒み、異民族は蔑む
南朝で発展
仏教は異民族より
民族差別は比較的少ない教え
北朝で発展
道教は庶民より
流行り物は何でも取り込む

284:世界@名無史さん
21/09/28 13:26:13.35 0.net
仏教は、漢民族に広がったというより、仏教を信仰する民族が移住してきたというのが実態に近いな
まずは北朝、次いで南朝にも普及した

285:世界@名無史さん
21/09/28 14:43:03.08 0.net
関羽については、唐代まではとくに一般の信仰対象だったわけではないが、
宋代以降ににわかに関羽廟が全国的に建てられるようになったとか
とくに元末に『三国演義』があらわれてからはその人気は絶大なものとなった

286:世界@名無史さん
21/09/28 15:50:40.70 0.net
秦叔宝と尉遅敬徳が門神となったのも、宋の末頃からと言われている
「唐の太宗李世民が皇帝の座についてから不眠症になってしまいました。
尉遅恭と秦叔宝の二人を寝室の外に立たせるようになってから、不眠が改善され、無事に過ごせるようになりました。
毎晩二人に一晩中見張りをさせるのはあまりに気の毒に思った唐太宗は、画家に二人の肖像画を描かせ、それを門に貼り付けたところ、悪鬼がこなくなったと言われています」
という伝説が広まり、この2人の画が門柱に描かれるようになった
URLリンク(stat.ameba.jp)

287:世界@名無史さん
21/09/28 15:53:09.78 0.net
はたして、関雲長と秦叔宝が一騎討ちしたら、どちらが強いのか?

288:世界@名無史さん
21/09/28 16:28:15.42 0.net
Wikiから人気の門神を引っ張ってみたよ
秦叔宝と尉遅敬徳(『三教捜神大全』に引く『捜神広記』に基づく)
青竜(孟章神君)と白虎(監兵神君)(道教)
趙雲と馬超(河南省)
馬超と馬岱(河北省)
薛仁貴と淵蓋蘇文(河北省北部)
孫臏と龐涓(陝西省)
孟良と焦賛
燃灯道人と趙公明(『封神榜』に基づく)
銚期と馬武(『東漢演義』に基づく)
魏徴と徐懋功
賜福天官と劉海蟾
魏徴
鍾馗(『唐逸史』に基づく)
関羽と関勝
関羽、関平と周倉

289:世界@名無史さん
21/09/28 19:06:10.64 0.net
媽祖はもともと福建に実在した女性、林黙が神格化された呼称
林は生前に予言などの霊能を示したというが、28歳で死去する
その後、海難を救う霊験を示したなどとされて地元で信仰が広まる
1123年に高麗冊封使の海難を救ったとされ、宋王朝から霊恵夫人、
霊恵妃などと賜号され、航海の神として国家的祭祀の対象となっていく
民衆には天后娘々と呼ばれる

290:世界@名無史さん
21/09/29 15:20:11.00 0.net
これもWikiより
中国の華北で最も有名な女神が山神の碧霞元君ならば、華南で最も知名度が高いのは海神の媽祖である[4]
碧霞元君は天仙娘々なんよな

291:世界@名無史さん
21/09/29 15:29:23.29 0.net
>>289
ぬおっ
マカオの名前の由来だったのか
マカオの媽閣廟は有名で、観光名所ともなっている。マカオの地名の由来は、この媽閣廟(広東語 マーコッミウ)近くで「ここはどこか」と尋ねたポルトガル人が地名と勘違いしたことによると言われている。

292:世界@名無史さん
21/09/29 19:05:23.22 0.net
蜀の地にいた李特という人物は、成都郊外の青城山にいたという五斗米道の首領、
范長生の協力を得て成都を奪った
304年に、李特を継いだ息子の李雄はそこで成都王を称し、さらに二年後には
皇帝位に即位し、国号を「成」とした
この政権はのちに「成漢」とも呼ばれ、鬼神信仰にもとづく五斗米道的色彩の
強い政治がおこなわれた

293:世界@名無史さん
21/09/30 07:01:47.72 0.net
成漢は宗教国家だったのか?

294:世界@名無史さん
21/09/30 12:08:27.80 0.net
民衆に人気の仙人を取り込もうとしたらしいな

295:世界@名無史さん
21/09/30 13:24:49.65 0.net
ちょくちょく宗教家が局所を聖域化することはあっても統一王朝にならないよね
なんでだろう

296:世界@名無史さん
21/09/30 13:30:47.71 0.net
>>295
明朝は?

297:世界@名無史さん
21/09/30 13:54:34.43 0.net
朱元璋が宗教家か?といわれれば違う
秘密結社に加入戦術的に加わりのちに皇帝になるのではなくて張角や洪秀全は宗教家

298:世界@名無史さん
21/09/30 14:54:29.92 0.net
北魏の太武帝が行った仏教弾圧は、宰相の崔浩の建言で廃仏の詔勅をくだした
長安へ入った際に、仏寺中に大量の武器があるのを発見して激怒したのが
直接のきっかけらしいが

299:世界@名無史さん
21/09/30 15:24:36.54 0.net
太武帝のときの北魏は、道教の教祖・寇謙之が国師で、漢人至上主義の儒者・崔浩が宰相
道教は北魏の国教になり、太武帝は熱狂的な信者になった

300:世界@名無史さん
21/10/01 09:23:30.68 0.net
梁の武帝は504年に、先代も含めてそれまで好んでいた道教を捨て、
仏教に帰依する願文を作り、詔勅を発した
さらに老子とともに周孔(儒教)も一緒に邪道の名で連呼し、
仏道のみを正道と力説した
また517年には道観を廃し、道士を還俗させた
このため道士たちはみな北斉へ向かったという

301:世界@名無史さん
21/10/02 10:24:47.01 0.net
仏教に切り替えた理由はなんなんだろうか

302:世界@名無史さん
21/10/02 11:11:02.40 0.net
当時の中国人は、仏教の「空」を、老荘思想の「無」みたいなものと理解した
そもそも、仏教と道教はハッキリ区別されてなかった。
大昔の日本でも、仏教と神道が混ざりあってたのと同じ

303:世界@名無史さん
21/10/02 11:27:49.92 0.net
梁の武帝は、後になるほど仏教に深く傾倒していったが、若い頃は儒学を学んで奨励していた。
「科挙を創始したのは梁の武帝」という人もいるほど、儒者としても功績を残している
さらに、道教史に残る有名人の陶弘景を師と仰ぎ、
書簡を交わして教えを受けたため、陶弘景は「山中宰相」と呼ばれた。
武帝が若い頃に道教に傾倒していたのは、陶弘景の影響によるものが大きい
陶弘景は広く名声を博し、道教の教義体系を整備した。
開祖クラスの人物として、後の道教信者から崇拝されることになる。
道教の教義体系といっても、仏教用語がかなり混ざっていたが
ちなみに、陶弘景の弟子の1人が仏教に転じて曇鸞と名乗った。
この曇鸞こそは「念仏」を創始した人。浄土真宗の親鸞は、曇鸞から一字をもらった

304:世界@名無史さん
21/10/02 11:32:48.88 0.net
昭和時代に盛んだった「日本人論」では、
「日本古来の神道と、外来思想の仏教を神仏習合してしまった日本人ならではの特質」
が盛んに論じられていたが、そんなの別に特別なことではない
中国人の「儒仏道」三教の習合っぷりも、また根深いものがある

305:世界@名無史さん
21/10/02 11:37:07.03 0.net
しかしなんだな、
有り難い教えを求める傾向って世の中が荒んでる方が大きいのだろうか

306:世界@名無史さん
21/10/02 12:40:40.38 0.net
その時代その社会に人間のクズが多ければ多いほど偉大な思想家が生まれる
後世の人間にとっては偉大な思想家を育んだ聖地を訪れて幻滅するまでが予定調和

307:世界@名無史さん
21/10/02 13:08:46.95 0.net
なんで仏教に傾倒したのかは結局わからないのね
細かい知識だけあってもなんの役にも立たない

308:世界@名無史さん
21/10/02 13:19:36.23 0.net
>>308
そんなの本人に聞くしかないだろ(笑)

309:世界@名無史さん
21/10/02 13:58:32.75 0.net
>>308
率先して自分本人にレスしたのか?

310:世界@名無史さん
21/10/02 14:06:37.32 0.net
>>308
率先して自分本人に聞いてみたのか?

311:世界@名無史さん
21/10/02 14:10:12.09 0.net
真諦(499‐569) Paramartha
 中国の三大翻訳家のひとり。南朝の梁・陳時代の外来僧。名前はパラマールタを漢訳して真諦と称した。
梁の武帝の招きに応じて南京に来訪したが侯景の乱にあい、各地を転々としながら漢訳と著述に専念した。摂論宗の祖とされる。
『金光明経』『倶舎釈論』『摂大乗論』『摂大乗論釈』『中辺分別論』『大乗起信論』など64部278巻を訳した。
 ただし、『大乗起信論』は中国・日本に多大な影響を与えたが、インド成立でないとする学説がある。

312:世界@名無史さん
21/10/02 14:12:54.15 0.net
天台大師智 (538-597)
中国の陳・隋時代の僧。天台宗の開祖であるが、インドの龍樹、中国の慧文、慧思につぐ第四祖ともされる。
梁の高官で学問に通じた父と、仏教信仰の篤い母の間に生まれた。7歳の時に観音経を一度聞いて暗記してしまうなど幼少期から非凡の才能があった。
17歳のとき梁が敗退して一家が難民となり、両親が死去する。両親の喪が明けた18歳で出家し、やがて慧思の門に入る。
天台教義を体系付け、陳や隋の皇帝の帰依を受ける。
金陵(南京)の光宅寺で『法華文句』を講義し、故郷の草州に玉泉寺を創建して『法華玄義』と『摩訶止観』を講義した。

313:世界@名無史さん
21/10/02 14:25:01.32 0.net
>>308
大川隆法に降霊してもらって、本人に直接きいたらどうだ?

314:世界@名無史さん
21/10/02 18:36:56.95 0.net
>>305
偉大な政治家が生まれるのも、世の中が荒んでいるときのほうが多いような

315:世界@名無史さん
21/10/02 19:25:58.93 0.net
道教も仏教も、五胡十六国の大乱のなかで普及した

316:世界@名無史さん
21/10/02 19:38:27.17 0.net
五胡十六国時代では偉大な政治家はいたが大半は狂った君主ばっかだったな
ユーラシアンステップの文化がそうさせるのか
しかし八王の司馬氏も酷いもんだったしなあ

317:世界@名無史さん
21/10/02 20:05:15.82 0.net
「あの野蛮人の北朝でさえ、仏教の信仰が広がったおかげで、苻堅のような名君も出た」
というのが、南朝ではよく言われてたらしい
梁の武帝の先代あたりから、南朝も仏教に傾倒するようになった

318:世界@名無史さん
21/10/03 07:23:49.46 0.net
ゲルマン人のキリスト教といい、武力だけの民族は教化せんといかんと考えてそうだな
宗教=文化ってわけだ

319:世界@名無史さん
21/10/03 07:24:15.95 0.net
いや道徳か

320:世界@名無史さん
21/10/03 10:39:55.29 0.net
テュルクもスーフィズムでいくらか穏健化したかな
いまだに宗教で倫理が馴致しないのはアラブだけかもね

321:世界@名無史さん
21/10/03 12:05:26.48 0.net
コーランなんて道徳書みたいなもんだしなあ
あと砂漠地方で生きる知恵集みたいなところはあるな

322:世界@名無史さん
21/10/03 12:58:09.71 0.net
>>303
URLリンク(i.imgur.com)

323:世界@名無史さん
21/10/03 14:10:59.06 0.net
>>322
読んだことあるんかい?

324:世界@名無史さん
21/10/03 14:41:56.36 0.net
北周の武帝は廃仏と廃道を同時に行った
仏道二教をともに廃すべきという詔勅が下り、
それぞれの経典や神像を廃毀し、
沙門と道士は還俗、寺観の財産は没収となった

325:世界@名無史さん
21/10/03 15:10:06.75 0.net
だから何なんだよ
理由を考えろよ
豆知識の羅列ばかり

326:世界@名無史さん
21/10/03 22:59:54.81 0.net
文句ばっか言うな

327:世界@名無史さん
21/10/03 23:44:17.04 0.net
五胡は、西ローマ帝国に侵入したゲルマン人とよく比較されるが、
むしろ東ローマ帝国領やペルシア帝国に侵入したアラブ人と比較したほうが良くね?
彼らがうちたてたのは中国と同じ専制帝国だし

328:世界@名無史さん
21/10/04 00:35:38.97 0.net
>>327
貧しい傭兵が裕福な雇用主に下剋上する構図、という点でゲルマン人のほうが近い

329:世界@名無史さん
21/10/04 09:23:59.24 0.net
>>328
いや、それは違うな
ペルシャはアラブ人に征服されたが、アラブ人の国になったわけではない。
ペルシャは、今でもペルシャだ
それに比べて華北では、先住民が滅びて五胡の国に変わった

330:世界@名無史さん
21/10/04 09:31:35.95 0.net
五胡の民族的特性を挙げてみたい
・サイコパス
 =超カリスマ
 非常の時代には非常に有用
・長続きしない
 サイコパスはカリスマだけでシステムを作らないから次世代で滅亡する
・美男
 自然淘汰が凄まじく顔は良くなるはず(赫連勃勃など)
・サディスト
 明らかに殺人を楽しんでいる記述があり性的快感も得ていると思われる
 これはサイコパス遺伝子が為せる技か

331:世界@名無史さん
21/10/04 09:40:30.63 0.net
>>329
中世のペルシャは比較的割拠できたかな
それ以後はテュルク系民族が下剋上したみたいだな

332:世界@名無史さん
21/10/04 10:20:40.35 0.net
ペルシャ語とペルシャ文化の伝統は残ったが、宗教はイスラーム化してしまった

333:世界@名無史さん
21/10/04 11:05:13.36 0.net
そもそもホメイニ師もハメネイ師も黒ターバンだから預言者ムハンマドの一族つまりアラブ人だ

334:世界@名無史さん
21/10/04 11:14:12.90 0.net
昔はペルシャがアラブ支配してたから自称アラブ人ではイーラーン人のナショナリズム的賛同は得れまい
イーラーン人はアケメネス朝やサーサーン朝の栄華を夢見てるはず

335:世界@名無史さん
21/10/04 11:55:01.01 0.net
文化ではずっと圧倒的だったからな
選民意識は仕方ない

336:世界@名無史さん
21/10/04 12:18:49.72 0.net
現在のペルシャ人には、アラブ人・テュルク系・モンゴル系など、
異民族の血が混じっているだろうな

337:世界@名無史さん
21/10/04 13:05:32.14 0.net
個人的にはテュルクとモンゴルを別扱いする風潮に抗いたい

338:世界@名無史さん
21/10/04 14:04:47.33 0.net
言語が違うんだっけ
匈奴と鮮卑の差がイギリス人とアメリカ人なら
モンゴルとテュルクはセルビア人とアルバニア人くらいは違うんじゃない

339:世界@名無史さん
21/10/04 14:12:36.33 0.net
せいぜい信仰する宗教が違うことくらいでしょ
カザフスタンとモンゴルの一番の違いは宗教だし

340:世界@名無史さん
21/10/04 15:20:17.79 0.net
北アジアの遊牧民のうち、仏教を信仰する人々が「モンゴル人」と呼ばれ、
イスラム教を信仰する人々が「トルコ人」と呼ばれる

341:世界@名無史さん
21/10/04 16:29:32.80 0.net
現モンゴルのハルハモンゴル人と現ヨーロッパイスタンブールのトルコ人くらいまで行くと差は分かりやすいんだけどな
中央アジアはかなり不明だな
今じゃロシア系もかなり混じってるし
トルクメン人
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

342:世界@名無史さん
21/10/05 21:47:08.50 0.net
最近の若者は、美男美女だらけ
結婚がお見合いや許嫁から、恋愛結婚に移行したからだな
美男美女のみ子孫を残せる
ブサ面ブスは子孫を残せず淘汰される

343:世界@名無史さん
21/10/06 10:04:48.49 0.net
それだけじゃないけどな
100年前まで男性は兵士だった
死ぬから補充するため社会的に結婚の需要があった
現在は男性が死なないので需要がない

344:世界@名無史さん
21/10/08 13:04:20.28 0.net
もし五胡十六国の時代に、中国でフューダリズムが成立していたとしても、
モンゴル帝国の時代に潰されたんじゃないのかなあ

345:世界@名無史さん
21/10/08 13:16:31.22 0.net
そうだろな
地政学的に封建化を妨げる

346:世界@名無史さん
21/10/08 13:19:08.62 0.net
>>341
同じトルコ系でもモンゴロイド顔が強い
北部のカザフ、キルギスとコーカソイド顔が強い南部のウズベク、トルクメンでは全然外見が違う気がする 文化も前者はモンゴル、
後者はトルコにより近いのでは


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